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第10話 み使いがいなくなった朝

第10話 み使いがいなくなった朝


 台風から十年後、板橋区の遊歩道には若い森が育っていた。陽太を救った夜に倒れたコナラも植え直され、今では二階の窓へ届くほど枝を広げている。夏の朝にはセミの声が重なり、木陰へ入ると、日なたより低い温度の空気が腕へ触れた。


 遊歩道の中央には、車椅子二台がすれ違える広い道が通っていた。道の脇には植物を植えない帯を作り、その向こうにキバナコスモス、アカマンマ、ミントの区域を分けている。ミントは根止めの囲いから出ないよう管理され、葉を使うときは住民協議会の許可を取るという、少し大げさな決まりまでできていた。


「ミントの葉を三枚取るのに申請書が必要なんて、十年前の私が聞いたら笑うわね」


 八十三歳になった夏子は、灰色の杖をついて遊歩道を歩いていた。白いブラウスに藤色のベストを重ね、頭には十年前から使っている麦わら帽子をかぶっている。帽子の縁はほつれ、未来が何度も新しいものを買おうとしたが、夏子は自分の頭へ一番よくなじむと言って手放さなかった。


「三枚なら、申請しなくてもいいでしょう。料理教室で大量に使う場合だけだよ」


「それなら、今夜の水へ浮かべる分をいただきます」


「勝手に取って、また黒田さんに注意されても知らないよ」


「黒田さんは、もう区役所を退職したでしょう。今は私と同じ、口うるさい住民の一人よ」


 夏子はミントの葉を二枚だけ摘み、濡らしたハンカチへ包んだ。三枚目へ手を伸ばしたところで、小さな蜂が飛んできたため、おとなしく杖を握り直す。花を避けたい人のための道は少し離れた場所にあり、蜂を怖がる人も森を通り抜けられるようになっていた。


 浅い小川には、昨夜の雨が細く流れていた。ふだんは水のない雨水路だが、雨が降ると公園と周辺の道路から水を集め、地下の貯留施設へ送る。十年前の台風以降、団地の床下へ水が入ったことは一度もなかった。


「この小川、昔と同じように見える?」


 未来は生成り色の作業着を着て、夏子の隣を歩いていた。二十六歳になった彼女は、大学で気候と都市緑化を学び、現在は都市の公園や雨水路を設計する研究所に勤めている。肩から下げた布の鞄には、温度計、土壌水分計、梅干しのおにぎりが入っていた。


「昔の小川は、もっと勝手だったわ。大雨が降れば道へあふれたし、ザリガニが人の家の玄関まで歩いてきたものよ」


「今の小川は、人間が管理しているからね」


「でも、水が昔の道を覚えていたから、作れたのでしょう。私の日記も、少しは役に立ったわね」


「少しどころじゃないよ。あの地図がなかったら、水の流れを見つけるまで何年もかかったかもしれない」


 森の入り口には、夏子が一九九〇年に描いた地図の複製が掲示されていた。説明板には「最初の地図を残した相沢夏子」と書かれ、十五歳の夏子が署名用紙を持って立つ写真も載っている。遠足で来た小学生たちは、夏子本人が隣を歩いているとは気づかず、昔の服は地味だと好き勝手に話していた。


「聞こえていますよ。あの白いブラウスは、母がデパートで買ってくれた一張羅なの」


「おばあちゃん、子どもに話しかけたら驚くよ」


「歴史上の人物みたいに扱われるほうが落ち着かないわ。まだ昨日の夕飯も覚えているのよ」


「何を食べたの?」


「アジの開きと冷ややっこと、それから……お味噌汁よ」


「味噌汁の具は?」


「そこまで覚えている必要はありません」


 夏子は杖で未来の靴を軽く突き、説明板の前から歩き出した。以前は雑木林を守れなかった少女として、自分の昔話を途中でやめることが多かった。しかし今では、守れなかった森の地図が新しい森を作る助けになったことを、学校や区民館で話している。


 日本の人口は十年前よりさらに減り、地域では空き家や使われない駐車場が増えていた。かつては衰退の印と考えられた空き地に、住民たちは小さな林、畑、雨水をためる庭を作った。すべてを自然へ戻すのではなく、住宅、店、介護施設、避難路を残しながら、土が水を吸える場所を少しずつ増やしていた。


 コインパーキングだった場所では、アーロンの家族が地域の畑を管理している。マンゴーを植える夢は東京の冬に負けたが、ナス、トマト、オクラ、モロヘイヤが夏の日差しを浴びて育っていた。マリアは畑の端に日除けのテントを立て、作業へ来た人に冷たいレモン水と、豆を煮込んだ料理を配っていた。


「夏子さん、今日もミントを取りましたね」


「二枚だけよ。見張っていたの?」


「未来さんから、取りすぎないよう言われています」


「家族ぐるみで私を監視するなんて、ひどい町になったものね」


「十年前、マンゴーを全部食べる顔をしていると言ったでしょう。今も同じ顔です」


「八十三歳になっても変わらないところがあるのは、いいことよ」


 新は各地の再生活動を記録する映像制作者になっていた。派手な奇跡や対立だけを撮るのではなく、草を刈る日、排水溝を掃除する人、会議で意見が合わない時間まで映像に残している。朝から公園へ来ていた新は、黒いTシャツの背中を汗で濡らし、カメラを三脚へ固定していた。


「未来、こっちを向いて。森ができるまでの十年を、一言でまとめて」


「一言では無理だよ」


「そこを何とかするのが、取材を受ける人の仕事でしょう」


「まとめられないものを切り取らずに撮るのが、新の仕事じゃなかった?」


「十年たっても、口では未来に勝てないな」


 新の後ろでは、黒田が鎌を持って防火帯の草を刈っていた。六十代になって区役所を退職したあとも、月二回の管理作業へ欠かさず参加している。紺色の作業服は現役時代と同じだったが、胸元には区役所の名札ではなく、「住民協議会・黒田」と書かれた布の札が縫いつけられていた。


「黒田さん、そこは来週、業者が刈る場所でしょう」


「通路へ少し伸びています。車椅子の車輪へ絡む前に切ります」


「退職しても仕事みたいに働いているのね」


「夏子さんこそ、許可なくミントを摘んでいませんか」


「二枚までは自由だと、未来が言いました」


「規則には、個人利用は五枚程度までと書いてあります」


「それなら、あと三枚取ってこなくちゃ。使わない権利を失うのは損だわ」


「必要な分だけにしてください」


 黒田が作業の手を止めると、夏子は笑いながらベンチへ腰を下ろした。ベンチは車椅子を横づけできる形に作り直され、日陰には給水器も設置されている。十年前に熱中症で倒れかけた夏子は、今では休憩する時刻を腕時計で決め、喉が渇く前に水を飲むようになっていた。


 田村は三年前に亡くなっていたが、彼が名札を書いたコナラは残っていた。名札の文字は雨で薄れ、職員が何度書き直しても、本人の曲がった字には似なかった。木の根元には介護施設の入居者が作った新しい札があり、「定規より早く育つ木」と書かれていた。


 陽太は二十歳になり、昆虫と植物の関係を学ぶ大学生になっていた。あの台風で倒れた自分のコナラを調査対象にし、月に一度、幹の太さと葉の数を記録している。子どものころに着ていたカブトムシのTシャツは小さくなったが、捨てずに自室の壁へ飾っていた。


「陽太君、十年前は木を守ろうとして水に流されたのよ。今は無茶をしていないでしょうね」


「もう水路には入りません。エルにも、木より先に避難しろと言われています」


「そうしてちょうだい。あのときは、私の心臓まで止まりそうだったのよ」


「夏子さんは避難所で、味噌汁を三杯飲んでいたって聞きました」


「紙コップが小さかったの。合わせて一杯半くらいよ」


 十年間、エルの姿は変わらなかった。生成り色の服を着て、公園の隅で土を掘り、雨の日には水路を点検していた。森が育っても自分の働きを語らず、住民協議会の名簿にも名前を書かなかった。


 その朝、未来は公園のどこにもエルがいないことへ気づいた。いつもなら夜明け前にコナラの葉を調べ、落ちた枝を集めているはずだった。小屋代わりに使っていた区民館裏の倉庫にも、生成り色の服や私物は一つも残っていなかった。


「エルを見なかった?」


 未来が尋ねると、黒田も新も首を振った。アーロンの家族も、介護施設の職員も、夜明けから姿を見ていないという。夏子はベンチから立ち上がり、杖をついて、エルが最初の木を植えた場所へ向かった。


 コナラの木陰には、使い込まれたシャベルが一本置かれていた。柄は人の手の脂と汗で黒くなり、刃は何度も研がれて小さくなっている。翼の羽も、天の力を宿した道具も、別れの手紙もなかった。


「十年間も家へ来て、黙っていなくなるなんて。食事を作って待っていた人のことを考えないのかしら」


 夏子は朝食用に握った梅干しのおにぎりを保冷バッグから取り出した。エルの分は海苔を二枚巻き、ほかより少し大きくしてある。夏子は包みを開けず、シャベルの横へ置いた。


「おばあちゃん、暑くなる前に戻ろう。エルは、自分で帰る時を決めたんだと思う」


「分かっています。でも、ひと言くらい、おにぎりは要らないと言っていけばいいでしょう」


「天へ帰る前に、朝ご飯の断りを入れるみ使いなんていないよ」


「それが十年も世話になった家の礼儀です」


 未来はしゃがみ込み、シャベルの柄を握った。使い込まれた木の感触が手のひらへ伝わった瞬間、公園の景色が消えた。エルが切り株の記憶を見せたときと同じように、淡い緑色の光が足元から広がった。


 未来の前へ、地球上の無数の場所が現れた。乾燥した大地で苗木へ水をやる子ども、洪水のあとの町で泥をかき出す家族、空き地を畑へ変える高齢者、屋上へ土を運ぶ会社員が見えた。誰の背中にも翼はなかったが、一人一人がシャベルやバケツを持ち、目の前の土へ手を入れていた。


 映像の中には、苗木を枯らして座り込む人もいた。植える場所を間違えて木を移す人、意見が合わずに会議をやり直す人、刈られた草を集め、もう一度種をまく人もいた。奇跡で完成した森は一つもなく、どの場所にも、汗で汚れた服と、途中で冷めた食事と、何度も書き直された計画書があった。


「未来、何が見えるの?」


「木を植えている人たち。世界中にいる」


「エルもいるの?」


「分からない。でも、みんなの手が、エルの手に少し似ている」


 光が消えると、未来は若い森の中に戻っていた。シャベルの横に置かれたおにぎりへ、コナラの葉の影が揺れている。夏子は目元をハンカチで押さえたあと、エルの分のおにぎりを拾い上げた。


「置いていったら、カラスに食べられるわね。お昼に私がいただきます」


「エルの分でしょう?」


「食べ物を粗末にしないのも、地球を守ることよ」


「海苔を二枚巻いたから、食べたいだけじゃないの?」


「その可能性もあります」


 遊歩道の入り口から、黄色い帽子をかぶった小学生が苗木を運んできた。額に汗を浮かべ、両腕で抱えた植木鉢の中では、小さなエノキが揺れている。少年はシャベルを持つ未来を見ると、木陰へ駆け寄った。


「動画で見た、空から来たみ使いはどこ?」


「今朝、いなくなったみたい」


「もう来ないの?」


 少年は苗木を抱え直し、乾いて固くなった場所を見下ろした。未来はエルが残したシャベルを持ち、その子の隣へしゃがんだ。土の下では、十年前にすべて刈られたキバナコスモスとアカマンマの種が、昨夜の雨を吸って小さく割れ始めていた。


「来ているよ。黙って木を植える人のところに、何度でも」


 未来が固い土へシャベルを入れると、少年も両手で苗木を支えた。少し離れた場所では、夏子が梅干しのおにぎりを食べ、黒田が通路の草を刈り、新がカメラを置いて土を運び始めた。朝日を受けた遊歩道では、一度すべて刈られた草花が、茶色い土を押し上げ、もう一度小さな芽を出していた。



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