第6話 花を刈った朝
第6話 花を刈った朝
九月に入って最初の月曜日、板橋区役所の公園管理課には、朝から電話が続いていた。机には前週からの報告書と苦情票が積み上がり、窓辺の観葉植物は水をもらえず葉を下へ垂らしている。係長の黒田慎一は、紺色のワイシャツの袖を肘までまくり、冷めた缶コーヒーを一口飲んでから受話器を取った。
「はい、公園管理課の黒田です」
「例の花だらけの遊歩道ですけど、蚊が増えたんです。昨日も孫が三か所刺されました。動画ではきれいに見えるけど、近所に住む人間のことも考えてください」
「現地を確認いたします。水のたまっている容器などがないか、植栽の状態と合わせて調べます」
「確認している間に病気になったら、誰が責任を取るんですか。区役所でしょう?」
電話を切ると、すぐ隣の回線が鳴った。今度は、蜂が怖くて遊歩道を通れないという高齢者からだった。その次は、草が車椅子の足元に触れる、枯れたら火事になる、知らない人が集まって騒いでいるという苦情が続いた。
黒田は一件ずつ内容と日時を黄色い苦情票へ書き込んだ。右手の中指には筆圧で赤いへこみができ、昼食用に買ってきた鮭のおにぎりは机の隅で乾き始めている。電話の向こうにいる人々が大げさだと思うこともあったが、事故が起きてからでは遅いという言葉を、黒田自身も職員へ何度も使ってきた。
「黒田さん、例の公園について、ネットからも問い合わせが来ています」
若い職員が印刷した紙を持ってきた。そこには、祭りの開催予定と、色とりどりの花に囲まれたエルの写真が載っている。画面では遊歩道が美しく見えたが、通路へ伸びたミントや、管理地の外へ広がり始めたキバナコスモスも確認できた。
「現地調査をしましょう。造園業者と昆虫の専門家にも話を聞きます。蚊の発生源と花が直接関係しているか、調べないまま刈るのは早いです」
「その間に転倒事故や蜂刺されが起きたらどうする」
課長は眼鏡を外し、机の上に置いた。昼食に食べたカップ麺の容器がまだ残り、書類の間には割り箸の袋が挟まっている。黒田が、住民たちと管理区域を決める方法もあると説明しても、課長は苦情票の束を指先でたたいた。
「そもそも無許可で植えたものだ。何かあれば、管理を怠った区の責任になる。祭りまで開かれたら、もっと人が集まるぞ」
「苗木については申請を受けています。雨水タンクも、設置場所を検討している途中です」
「申請中と許可済みは違う。規則どおり、通路へはみ出した草を除去しろ。火災や事故が起きる前に処理するんだ」
「少なくとも、活動している人たちへ連絡する時間をください」
「委託業者の予定が空いているのは明日の早朝だけだ。告知を出せば、人が集まって作業を妨害するかもしれない。現場で説明しろ」
黒田は返事をせず、苦情票の端をそろえた。公園の安全を守ることも、住民が育てた花を残すことも、どちらも自分の仕事のはずだった。しかし課長の決裁印が押された作業指示書には、「通路および管理区域内の雑草を全面除去」と書かれていた。
その日の夕方、黒田は一人で公園を訪れた。仕事用の革靴に土がつくのも構わず遊歩道へ入り、花と通路の幅を巻き尺で測った。キバナコスモスの間では陽太が蝶を探し、夏子は杖をついてミントの葉を摘んでいた。
「そのミント、どうするんですか」
「よく洗って、冷たい水に浮かべるのよ。香りがあるだけで、ただの水が少し上等になるでしょう」
「増えすぎると、ほかの植物を圧迫します。通路へ伸びたものは整理してください」
「松田さんに教えてもらって、根止めもしています。黒田さんも一杯飲んでいく?」
「勤務中ですので、結構です」
「水くらいで酔いませんよ」
夏子は笑い、摘んだ葉を濡れたハンカチへ包んだ。黒田は何かを伝えようと口を開いたが、陽太がキバナコスモスの間から走ってきた。少年の手には、羽の端が少し欠けた黄色い蝶が止まっていた。
「見て、キタキチョウです。木下先生に教えてもらいました」
「通路を走ると転びますよ。花が足に絡むこともあります」
「ごめんなさい。明日から気をつけます」
陽太は足元を見ながら答え、蝶を空へ放した。黒田は作業指示のことを言えないまま、公園を出た。帰宅後も、妻が焼いたアジの開きへ箸をつけず、食卓の下で何度もスマートフォンの画面を確認した。
「ご飯、冷めますよ。公園で何かあったの?」
「明日の朝、草を刈ることになった」
「動画で有名になったところでしょう。全部刈るの?」
「通路と管理区域の中は、全部だ」
「残す場所を決めることはできないの?」
「それを決めるための時間がない」
翌朝五時半、委託業者の白いトラックが公園へ入った。作業員たちは黄色いヘルメットと長袖の作業服を着て、刈払機の燃料を確認した。エンジンが始動すると、静かな住宅地へ低い音が響き、眠っていた鳥が一斉に木から飛び立った。
黒田も作業服姿で現場へ来ていた。せめて苗木だけは傷つけないよう、赤い三角コーンとロープで囲ってある。祭りのために立てられた手作りの看板は外し、ベンチの上へ置いた。
「木の苗は残してください。支柱から一メートル以内へ機械を入れないように」
「草はどこまで刈りますか」
「遊歩道の両側と、管理地の境界までです」
「花も咲いていますけど、全部ですか」
作業員は念を押したが、黒田は作業指示書を見たままうなずいた。回転する刃がキバナコスモスの茎へ触れると、黄色い花がまとめて倒れた。ミントの強い香りと、切られた青い茎の匂いが、朝の空気へ広がった。
午前六時すぎ、団地の窓を開けた未来は、草刈り機の音に気づいた。パジャマの上へ水色のパーカーを羽織り、靴下もはかずに運動靴へ足を入れる。玄関にあった夏子の杖へぶつかったが、起こす時間も惜しく、そのまま階段を駆け下りた。
「待ってください! そこは、みんなで育てている場所です!」
未来が公園へ着いたとき、遊歩道の片側はすでに刈り終わっていた。キバナコスモスもアカマンマも地面へ倒され、ミントの葉は細かく切られて通路へ散っている。作業員が機械を止めると、突然静かになった公園に、未来の荒い息だけが響いた。
「どうして勝手に刈るんですか。お祭りをするって、区役所にも伝えたでしょう!」
「無許可で植えられたものが管理区域まで広がり、安全な通行に支障があるためです」
黒田が答えると、未来は彼の手にある作業指示書を奪い取ろうとした。紙には「雑草全面除去」と印刷され、下に区役所の印が押されている。未来は昨日まで花が揺れていた場所と、その紙を何度も見比べた。
「雑草じゃない。キバナコスモスも、アカマンマも、ミントも、みんな名前があります!」
「名前があることと、管理上の除去対象になることは別です」
「虫の先生にも、造園業者さんにも相談していた。通路にはみ出したところなら、私たちで刈りました!」
「事故が起きた場合、区が責任を問われます。苦情も多数寄せられていました」
「苦情を言った人だけが住民なんですか。花を楽しみにしていた人の話は、聞かないんですか!」
未来の声を聞き、近所の人々が集まり始めた。新もカメラを持って駆けつけ、伐採前の映像をスマートフォンで表示しながら、現在の遊歩道を撮影した。陽太は母親と一緒に来たが、花の消えた道を見ると、カブトムシのTシャツの裾を両手で握り、何も話さなくなった。
夏子は最後に、杖をつきながら公園へ入ってきた。白い寝巻きの上へ茶色いカーディガンを羽織り、髪はとかしていなかった。遊歩道の入り口で足を止め、昨日ミントを摘んだ場所を探したが、そこには細かく切られた茎と茶色い土しか残っていなかった。
「十年ぶりに戻ったのに、なくすのは一時間もかからないのね」
「安全管理のためです。申し訳ありません」
「謝るくらいなら、残す方法を一緒に考えてほしかったわ」
「現地調査を提案しました。しかし、作業を先に行うよう指示が出ました」
「それでも、あなたはここに立って、刈るのを見ていたのでしょう」
黒田は答えず、作業指示書を二つに折った。夏子は杖の先で地面を確かめながら、刈られた遊歩道を歩いた。昨日まで黄色い花に触れていた杖は、乾いた土を突くたび、硬い音を立てた。
新が投稿した伐採前と伐採後の動画は、その日の昼までに百万人以上が見た。色とりどりの花畑が、一転してむき出しの土になる映像には、「税金で自然破壊をするのか」「担当者を処分しろ」「区役所へ抗議しよう」というコメントが何千件もついた。公園管理課には電話とメールが殺到し、黒田の机の電話は受話器を置いた直後から鳴り続けた。
一方、刈られた公園では、エルが切られた草を一か所へ集めていた。黄色い花、赤い穂、ミントの茎を熊手で寄せ、枯れ葉と混ぜて木枠の中へ入れている。未来は土のついた手を握ったまま、黙々と作業するエルの背中を見つめた。
「何をしているの?」
「堆肥にします。土へ戻せるものを分けています」
「そんなことを聞いているんじゃない。どうして何も言わないの。どうして怒らないの!」
未来は足元に落ちていたキバナコスモスを拾った。茎は途中で折れ、黄色い花びらには黒い土がついている。エルは熊手を置くと、その花を未来の手から受け取り、堆肥の木枠へ入れた。
「せっかく戻ってきた命を、全部なくされたのよ。陽太君も、施設のお年寄りも、学校のみんなも楽しみにしていた。お祭りだって、もうすぐだったのに」
エルは答えず、苗木のそばへ移動した。草刈り機から守られたコナラの根元には、乾燥によって小さな亀裂ができている。彼はシャベルを地面へ差し込み、水が根へ届きやすくなるよう、苗木の周囲に新しい穴を掘り始めた。
「また植えても、どうせ刈られるかもしれない。何度やっても同じじゃない」
「同じではありません」
「何が違うの? 遊歩道は十年前と同じ、何もない景色に戻ったじゃない」
エルはシャベルを止め、茶色い土の上へ片膝をついた。花のあった場所には蝶も蜂も見当たらず、草刈り機の油の臭いだけが残っている。それでも土の下には切られなかった根があり、落ちた種があり、人々が運んだ水が染み込んでいた。
「なくなってはいません。あなたが覚えています」




