第5話 十年ぶりに咲いた遊歩道
第5話 十年ぶりに咲いた遊歩道
八月の終わり、朝の空気にわずかな変化が混じり始めた。日中はまだ三十五度を超えていたが、午前五時の公園では、肌へ貼りついていた風が少しだけ軽くなっている。夜明け前に降った短い雨が土を黒く湿らせ、植えたばかりのコナラの葉には、透明な水滴がいくつも残っていた。
未来は黄色いじょうろを持って、遊歩道の端を歩いていた。白いTシャツの上に薄い水色のシャツを羽織り、虫よけのために足首まである紺色のズボンをはいている。夏休みの宿題はまだ読書感想文だけ残っていたが、朝の水やりを終えてから考えることにして、昨夜も原稿用紙を散らかしたまま眠ってしまった。
「未来さん、ここに知らない草が出ています」
エルが指さした場所には、小さな双葉がいくつも並んでいた。誰かが新しく種をまいた形跡はなく、昨日まで乾いた土しか見えなかった場所である。未来がしゃがんで触ろうとすると、エルは葉を傷めないよう手首をそっと止めた。
「これ、雑草じゃないの?」
「雑草という名前の植物はありません」
「その言い方、理科の先生もよくするよ。でも、抜いたほうがいい草もあるでしょう」
「あります。だから、名前を調べてから決めます」
エルはスマートフォンを持っていないため、小さな紙の帳面へ葉の形を描いた。土に触れて昔の記憶を見ることはできても、その植物が現在の町でどのように扱われているかまでは分からないらしい。未来はみ使いにも得意と不得意があることに慣れ、葉を何枚も撮影して木下奈緒へ送った。
一週間後、遊歩道の双葉は一斉に伸び始めた。黄色い花びらを広げたキバナコスモス、赤紫色の小さな花をつけたアカマンマが、道の両側へ姿を現した。かつて花壇に植えられていたミントも残った根から芽を出し、葉を指でこすると、冷たい菓子を思わせる強い香りが広がった。
「種をまいていないのに、どうして急に咲いたの?」
「土の中で待っていた種があったのでしょう。草刈りや乾燥で芽を出せなくても、種は何年も残ることがあります」
「植物も、出てくる時期を待つんだね」
「待っていたのか、耐えていたのかは、私には分かりません。ただ、水と光が届いたので芽を出しました」
キバナコスモスは、苗木へ水をやる人々の足元まで広がった。増えすぎたミントは松田源一郎の助言で根止めを施し、人が歩く場所をふさがないよう整理した。何でも残せばよいわけではなかったが、以前のように一度ですべて刈らず、花を残す場所と抑える場所を相談して決めた。
夏子は窓から花の色が見えるようになると、朝食を急いで済ませて外出の支度をした。白いブラウスの上に薄紫色のカーディガンを羽織り、灰色のズボンと歩きやすい運動靴を合わせている。食卓には焼いた食パンの耳と、飲み残した牛乳が置かれ、半熟卵には塩を振りすぎたまま残してあった。
「おばあちゃん、今日は膝が痛いんでしょう。無理に歩かなくても、写真を撮ってくるよ」
「写真では匂いが分からないでしょう。ミントが咲いたなら、自分の鼻で確かめるわ」
「咲いたのはキバナコスモスとアカマンマ。ミントは葉っぱだよ」
「細かいことは現地で確認します。それより、この杖の高さは合っている?」
夏子は押し入れから出した杖を床へつき、腰を伸ばした。数年前に膝を痛めたとき、介護用品店で買ったものだが、体調がよくなると押し入れの傘の奥へしまっていた。熱中症を経験してからは、杖を使うことも、途中で休むことも、年寄りくさくて格好が悪いとは言わなくなった。
団地の階段を一段ずつ下り、公園まで来ると、夏子は遊歩道の入り口で足を止めた。黄色い花が朝日を受けて揺れ、その下ではアカマンマが赤い穂をいくつも立てている。ミントと湿った土の匂いに、近所の家から流れてくる焼き魚の匂いが重なり、夏子は杖の柄を両手で握った。
「十年前までは、ここに花があったのよ」
「雑木林がなくなったのは、もっと昔でしょう?」
「雑木林が消えたあとも、遊歩道の端には草花が残っていたの。近所の人がキバナコスモスを育てたり、子どもがアカマンマで赤飯を作るまねをしたりしてね」
「どうして十年前に消えたの?」
「管理しやすいように何度も草を刈って、地面まできれいにしたのよ。枯れ葉も虫もなくなって、掃除が行き届いた道になったわ」
「でも、誰も歩いていなかったよ」
「きれいにしすぎて、立ち止まる理由までなくなったのね」
夏子は杖をつきながら、花の間をゆっくり歩いた。キバナコスモスの花びらへ顔を近づけると、黄色い蝶が一匹飛び立ち、少し先の花へ移った。夏子は追いかけようとして杖の先を土へ取られ、未来に腕をつかまれた。
「危ないよ。蝶は逃げても、あとで戻ってくるから」
「子どものころは、アカマンマをままごとの茶碗へ山盛りにしたのよ。赤飯のつもりだったけれど、今見るとずいぶん小さな粒ね」
「おなかいっぱいにはならないね」
「おままごとで満腹になる必要はないの。食べたふりをして、何度でもお代わりできるのがいいところよ」
その日から、遊歩道には蝶や蜂が目立つようになった。田中陽太は昆虫図鑑を持って毎朝やって来て、花へ止まった虫の名前を調べた。黒いパーカーを着ていた少年も、暑さに耐えかねたのか灰色の半袖シャツへ着替え、少し離れた場所で見つけた虫を帳面へ描いていた。
「これはモンシロチョウかな。それともスジグロシロチョウ?」
「羽の筋を見て。図鑑の写真と比べるんだよ」
「動くから見えないよ。エル、蝶に止まるよう言って」
「蝶の行き先を、私が決めることはできません」
「み使いなのに、できないことが多いね」
「自分以外の命を思いどおりにしないことは、できないのではなく、してはいけないのです」
介護施設の入居者たちも、涼しい朝を選んで散歩へ来た。職員は車椅子の背へ水筒と保冷剤を入れ、十五分ごとに入居者の顔色を確かめている。田村は自分が名札を書いたコナラを見つけると、枝が一センチ伸びたと言い張り、職員に定規で測るよう頼んだ。
「田村さん、先週と同じ三十四センチですよ」
「定規のほうが縮んだんじゃないのかい」
「木より先に、定規が成長することはありません」
「人間の若いのは、夢がないねえ。み使いさんなら、伸びたと言ってくれるだろう?」
「葉が一枚増えています」
「ほら、やっぱり育っているじゃないか」
田村は満足そうに笑い、保温ポットからほうじ茶を飲んだ。別の車椅子に座る女性は、施設の朝食に出た小さなロールパンを紙袋から取り出し、半分だけかじって残りを職員へ返した。遊歩道には車輪の跡、杖の跡、子どもの運動靴の跡が重なり、以前は土だけだった場所に毎朝違う足跡が残った。
閉校予定の中学校では、田辺先生の提案で遊歩道の生き物を記録する授業が始まった。二十一人の生徒は三つの班に分かれ、植物、昆虫、気温と土の状態を調べることになった。未来の班は温度計を持ち、木陰、花のある土、アスファルトの三か所で地表近くの温度を測った。
「アスファルトは四十三度。花がある場所は三十二度だ」
「十一度も違うの?」
「測り方が同じか、もう一回やろう。数字が違いすぎると、先生に疑われる」
「疑うんじゃなくて、確かめるんだ。理科では、一度の結果だけで決めないことが大切だからな」
田辺は首に白いタオルを巻き、生徒たちの記録用紙をのぞき込んだ。閉校まで残り半年になった校舎では、使われなくなった教室から机が少しずつ運び出されていた。それでも生徒たちは、自分たちの調査結果を大きな紙へまとめ、最後の文化祭で発表することを決めた。
「先生、遊歩道でお祭りをしたいです。花を見てもらって、調べた虫のことも発表できます」
「祭りか。公園を使うなら、区役所の許可が必要だぞ」
「食べ物の屋台も出していいですか?」
「そこには保健所への届け出も必要だ。まず、何をしたいか計画書を作りなさい」
「焼きそばと、かき氷と、チョコバナナ」
「食べ物以外の計画も書いてくれ」
学校だけでなく、介護施設や町内会も祭りの相談へ加わった。夏子は自宅の食卓へ模造紙を広げ、花の観察会、苗木の名札作り、昔の雑木林の写真展示と書き込んだ。夕食の冷やし中華を置く場所がなくなり、未来は皿を膝へ載せて食べながら、祭りの名前を考えた。
「『森の再生祭り』はどう?」
「まだ森と呼べるほど木は大きくないわよ。看板に偽りありと言われるわ」
「じゃあ、『花と小さな木のお祭り』」
「小学生の作文みたいね。でも、何をする祭りか分かりやすいわ」
「おばあちゃん、褒めているの?」
「半分はね。残り半分は、冷やし中華のキュウリが太すぎることを考えている」
祭りの計画がネットで告知されると、参加したいという連絡が次々と届いた。苗木を送った大阪の人は、当日は東京へ来ると書き込み、アーロンの家族は故郷の料理を作りたいと申し出た。新は今度こそ再生数より内容を優先すると言いながら、動画の題名を三十回も変更していた。
夕方、未来はエルと遊歩道を歩いた。西日を受けたキバナコスモスは濃い黄色に染まり、蜂が花粉を後ろ脚へつけて飛び回っている。子どもたちの声、高齢者の杖が地面へ触れる音、祭りの打ち合わせをする大人たちの話し声が、狭い公園に重なっていた。
「エル、みんな楽しそうだね。こんなに花が戻ったのに、どうして笑わないの?」
エルは答えず、花畑の向こうを見ていた。そこには区役所が新しく立てた白い看板があり、「公園管理地 無断での植栽・工作物の設置を禁止します」と黒い文字で書かれている。看板の根元では、ミントの茎が管理区域の境界を越え、舗装された道へ伸び始めていた。
「許可のことなら、これから区役所と相談するよ。雨水タンクの申請も出したし、お祭りの計画書も作っている」
「人々は今、花を美しいと言います。蝶が戻ったと喜び、子どもが遊ぶ姿を写真に撮ります」
「それの何がいけないの?」
「花は、人間が引いた線を知りません。虫も、落ち葉も、伸びる根も、その看板を読むことはできません」
エルはしゃがみ込み、遊歩道へはみ出したミントの葉を指で支えた。葉からさわやかな香りが立ったが、その先では通りかかった男性が蜂を避け、大きく道の端へよけている。花を見に来た人が増えた一方で、虫が怖い、道が狭くなったという声も、少しずつ聞こえ始めていた。
「人間は、戻ってきた命を喜びます。そして、それが自分たちの決めた場所からはみ出すと、恐れます」




