第4話 一本の木から始まった行列
第4話 一本の木から始まった行列
夏子が十五歳のころに書いた日記の映像は、新が投稿した動画にも映っていた。エルの手が古い切り株へ触れ、住宅と駐車場の向こうに失われた雑木林が現れる場面は、翌朝までに三十万回以上再生された。コメント欄には「自分の町にも消えた森がある」「子どものころに遊んだ原っぱを思い出した」という書き込みが並び、公園の場所を尋ねる人も増えていた。
午前六時、未来が公園へ着くと、入り口にはすでに十人ほどが並んでいた。先頭にいた紺色のスーツ姿の会社員は、出勤用の革靴とは別に長靴を紙袋へ入れ、片手に小さなヤマボウシの苗木を持っている。その後ろでは、赤い日除け帽子をかぶった高齢の女性が、台所で使っていたらしい黄色いじょうろを抱えていた。
「動画を見ました。会社へ行く前に、一時間だけでも手伝わせてください」
「私は毎朝、ここを散歩しているのよ。腰が悪いから穴は掘れないけど、水やりならできるでしょう」
「ありがとうございます。でも、どこへ何を植えるか、エルに確認してください。昨日までは苗木が増えるなんて思っていなかったから、まだ計画がないんです」
未来は慌てて答えながら、首にかけたタオルで汗を拭いた。白いTシャツの背中には、夏子が油性ペンで書いた「水分補給を忘れずに」という文字が透けて見えている。家を出る前に文字入りの肌着だと気づいたが、着替えている間にも人が集まると思い、そのまま水色のパーカーだけを羽織ってきた。
夏子は少し遅れて、麦わら帽子と空色のワンピース姿で現れた。保冷バッグには梅干しのおにぎり、麦茶、塩飴、凍らせたミカンの缶詰を詰め、左手には折り畳み椅子を持っている。自分は熱中症を経験した者として安全管理を担当すると宣言し、来た人の名前と体調を大学ノートへ記録し始めた。
「三十分働いたら、十分休んでください。水筒を持っていない人には麦茶があります。ただし、私の分の梅干しまで食べたら怒りますよ」
「おばあちゃん、おにぎりは配るために作ったんじゃないの?」
「困った人には分けるわ。でも、最初から人のおにぎりを当てにして来る人と、倒れそうな人は別です」
「まだ始まってもいないのに、ずいぶん細かい規則だね」
「規則がない集まりは、最後におにぎりの数でもめるのよ」
午前七時を過ぎると、外国人の家族が赤いバケツと軍手を持ってやって来た。父親のアーロンは片言の日本語で、公園の近くに住んでいると説明した。妻のマリアは白い日傘を差し、二人の子どもにはバナナと凍らせたゼリーを入れた小さな保冷袋を持たせていた。
「わたしたちの国では、マンゴーの木を植えます。でも、東京の冬は寒いですね。ここでは育ちません」
「マンゴーが取れたら、私は毎朝食べに来るけどね」
「夏子さん、実ができる前に全部食べる顔をしています」
「よく分かったわね。国は違っても、見る目は同じね」
笑い声が広がると、少し離れて立っていた十四歳ほどの少年が近づいてきた。黒いパーカーのフードを目深にかぶり、真夏なのに長袖を脱ごうとしない。名前を尋ねても答えなかったが、手には百円ショップで買った青い移植ごてが握られていた。
「学校へ行っていない時間に、来てもいいですか」
少年は地面を見たまま尋ねた。未来は理由を聞きそうになったが、エルが先に一組の軍手を差し出した。少年は右手で受け取り、左手に残った商品の札を何度も指で折った。
「来たい時間に来てください。ただし、暑い時間は休んでください」
「何を植えればいいですか」
「今日は水を運んでください。植える木を決めるには、まだ調べることがあります」
「木を植えに来たのに、水だけ?」
「木は、植えた日より、そのあとの水を必要とします」
午前八時には、近くの介護施設から職員と高齢者が到着した。職員たちは薄桃色のポロシャツを着て、車椅子の背中へ保冷剤を入れている。高齢者たちは穴を掘る代わりに、ベンチへ座って苗木につける名札を書き、使い終わった牛乳パックを切って日除けを作った。
「私の字は達筆すぎて、若い人には読めないかもしれないねえ」
「大丈夫ですよ、田村さん。『コナラ』の三文字だけですから」
「三文字だから難しいのよ。長い手紙なら、前後で想像できるでしょう」
「では、私が横に小さく書きますね」
「それじゃあ、私の字が間違っているみたいじゃないか」
職員は返事に困り、未来と顔を見合わせた。夏子が、自分も若いころから字を崩して書く癖があると話すと、田村は機嫌を直し、名札の裏へ自分の名前まで書いた。公園には油性ペンの匂い、湿らせた土の匂い、夏子が配る梅干しおにぎりの海苔の匂いが混ざり始めた。
昼前になると、宅配便の車が公園の前へ止まった。荷台から苗木の箱、園芸用の支柱、折り畳み式の雨水タンクが次々と運び出される。動画を見ても遠方で参加できない人々が、苗木代を寄付し、自宅で余っていた園芸用品を送ってきたのだった。
「大阪の人から雨水タンクだって。東京まで来られないから、代わりに水をためてほしいって」
「これなら、水道の水を使いすぎずに済むね。でも、昨夜みたいな豪雨をためるには、一個では足りないよ」
「一個目がなければ、二個目を置く場所も考えないでしょう」
エルはタンクの説明書を読み、区民館の屋根から雨どいを通して水を集められるか確認した。ところが、公園の管理者の許可なく設置できないことが分かり、夏子は区役所へ電話をかけた。担当者が現地確認と申請書類が必要だと説明すると、夏子は帳面へ赤いペンで大きく「勝手に設置しない」と書き込んだ。
人が増えるにつれ、公園にはさまざまな苗が持ち込まれた。花がきれいだからと繁殖力の強い外来植物を持参する人もいれば、夏の日差しに弱い山野草を抱えてくる人もいた。南国の記念樹、園芸店で値下げされていたアジサイ、名前の分からないつる植物まで並び、未来は置き場所を決められなくなった。
「エル、全部植えていいの? せっかく持ってきてくれたんだから、断ったら悪いよね」
「植えてはいけません」
「でも、善意で持ってきてくれたんだよ」
「善意は、結果まで正しくする力ではありません」
「外から来た植物は、全部よくないの?」
「そうではありません。長く人間の暮らしを支えてきたものもあります。ただし、増え方や根の広がり方を知らずに植えれば、ここにいた植物の場所を奪うことがあります」
エルは、乾燥に弱い苗の葉を一枚持ち上げた。午前中だけで葉の縁が丸まり、根を包んでいた土も熱くなっている。植えれば活動に参加した証しにはなるが、育つ条件がなければ数日のうちに枯れてしまうと説明した。
「木を植えることが目的ではありません。木が育ち、虫や鳥や人間と一緒に暮らせる場所を作ることが目的です」
「じゃあ、どの植物ならいいの?」
「私だけで決めてはいけません。この土地を知る人に聞いてください」
「み使いより詳しい人がいるの?」
「私は地上のすべてを知っているわけではありません」
未来は新と相談し、地域の造園業者を探した。電話に出た松田造園の松田源一郎は、最初は動画の悪ふざけだと思って断ろうとしたが、夏子が一九九〇年の地図を持っていると聞いて、公園へ来てくれた。日に焼けた顔に白いタオルを巻き、作業着のポケットには剪定ばさみと塩昆布の小袋を入れていた。
「木は、ただ多ければいいわけじゃない。十年後、二十年後にどこまで枝が伸びるか考えないと、結局は切ることになるぞ」
「大きくなった木を切るのは、もったいないです」
「だから、小さいうちに場所を決めるんだ。日当たり、水はけ、地下の配管、隣の家への落ち葉も考える。木は動けないが、根と枝は人間の決めた境界を知らないからな」
「木にも、ご近所問題があるんですね」
「むしろ人間より長い付き合いになるぞ」
松田は持ち込まれた苗を種類ごとに分け、すぐ植えられるもの、鉢で育てるもの、元の持ち主へ返すものに整理した。公園に昔からあったコナラ、クヌギ、エノキ、ヤマボウシなどを中心にし、木陰を作る場所と、日当たりを残す場所を地図へ書き込んだ。夏子は松田が使っていた短い鉛筆を見て、自分の日記に挟んであった鉛筆と同じように端が歯形でへこんでいることへ気づいた。
昆虫については、近くの大学で研究する木下奈緒へ協力を頼んだ。木下は薄緑色の長袖シャツに白い帽子をかぶり、虫取り網とルーペを持って現れた。木を増やせば虫も増えるが、すべての虫を害虫と決めつけないこと、蚊が増えないよう水たまりを放置しないことを説明した。
「蝶や蜂が来なければ、花が咲いても実ができない植物があります。でも、住民の中には虫が苦手な人もいます。遊歩道のすぐそばを茂みにせず、人が通る場所と生き物の場所を分ける工夫が必要です」
「自然を戻すなら、人間が我慢すればいいんじゃないですか」
「我慢だけでは長く続きません。子ども、高齢者、車椅子の人、虫に強い恐怖を感じる人も公園を使います。誰かを追い出して作った自然は、また争いの原因になります」
「植物を植えるだけなのに、考えることが多すぎるよ」
「自然は飾りではありません。命が暮らす場所を作る仕事ですから」
未来たちは、公園の入り口へ「苗木を持ち込む前に相談してください」という看板を立てた。新は活動の様子を撮影しながらも、専門家の長い説明は再生数が伸びないと言って、何度も画面を確認していた。最初の動画は百五十万回を超えていたが、苗木の選び方を説明した二本目の動画は、一万回にも届いていなかった。
「やっぱり、もっとすごい映像が必要だ。エルが翼を出せば、また百万回いくよ」
「翼は見せるためのものではないと言ったでしょう」
「一回だけでいいんだ。翼を広げて、苗木へ光を当ててくれれば、世界中へ広がる。再生数が増えれば、寄付も参加者も増えるんだよ」
「新、エルを見せ物にするのはよくないよ」
「見せ物じゃない。活動を広めるためだ。誰にも見られなかったら、何も始まらないだろう」
新はカメラを構え、エルの背後へ回った。エルは苗木の根元へ土を寄せていたが、何度頼まれても翼を出さなかった。新は口元を固くし、先ほど撮った映像を削除するように画面を何度も強く押した。
「僕が動画を作らなかったら、今日来た人たちだって集まらなかった。それなのに、少しくらい協力してくれてもいいだろう」
新の声が公園へ響き、苗木の名札を書いていた高齢者たちも手を止めた。未来は新の袖を引こうとしたが、彼は肩を振って避けた。エルは土に刺していたシャベルを抜くと、刃についた泥を落とさず、そのまま新へ差し出した。
「何だよ、これ」
「あなたの動画が人を動かしたことは事実です。しかし、数字を増やすために翼を使えば、人々は翼を見るために集まります」
「集まってから、木を植えてもらえばいいじゃないか」
「翼が消えたあとも、残るものが必要です」
新はカメラを下ろし、差し出されたシャベルを見た。木の根元では、黒いパーカーを着た少年が、無言でバケツの水を注いでいる。車椅子の田村は曲がった字で名札を書き、会社員は汗の染みたワイシャツへ着替え、遅刻しそうだと言いながら駅へ走っていた。
エルは泥のついたシャベルを、新の両手へ置いた。柄は多くの人が握った汗で湿り、刃には小さな石が挟まっている。新はしばらく動かなかったが、やがてカメラをベンチへ置き、シャベルの柄を握り直した。
「見せるための翼より、土を掘る手が必要です」




