表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/12

第3話 一億二千三百万人の二つの国

第3話 一億二千三百万人の二つの国


 小学生が持ってきた苗木は、エルが植えた木々の隣へ並んだ。少年の名前は田中陽太といい、近所の小学四年生だった。青いTシャツの胸に描かれたカブトムシを汗で濡らしながら、陽太は小さなシャベルで土を掘った。


「この木は、何という木ですか」


 未来が尋ねると、陽太は苗木についていた札を裏返した。そこには油性ペンで「コナラ」と書かれている。エルは苗木の葉と根を確かめると、日差しや成長後の大きさを考え、公園の端にある枯れた切り株の近くを指さした。


「この木は大きくなります。ここなら枝を広げても、遊歩道をふさぎません」


「どのくらい大きくなるの?」


「長い時間をかければ、十五メートルを超えることもあります」


「そんなに? ぼくの家より大きいよ」


「あなたが大人になるころには、木も今より大きくなっています」


 陽太は額の汗を手の甲で拭き、土の中へコナラの根を収めた。母親が持ってきた水筒から水を注ぐと、乾いた土が黒く変わり、草と泥の匂いがわずかに立った。公園の隅ではアブラゼミが一匹鳴き始めたが、すぐに声を止め、茶色く縮れた葉の裏へ隠れた。


 夏子は麦わら帽子の下から、その様子をじっと見ていた。白い木綿のブラウスの袖口には土がつき、首には今日も冷却用の輪をつけている。熱中症になってから、出かける前に水筒、保冷剤、塩飴の三つを指で数えるようになっていた。


「コナラねえ。昔、この辺りの雑木林にもたくさん生えていたわ」


「おばあちゃん、雑木林の話を前にもしていたね。どこにあったの?」


「あなたが通っている中学校の裏から、今の駐車場まで続いていたのよ。クヌギもあって、夏にはカブトムシやクワガタが取れたわ」


「それなら、陽太君のTシャツみたいなカブトムシもいた?」


「いたわよ。朝早く行かないと、近所の悪ガキに全部取られたけどね」


 陽太は自分の胸元を見下ろし、カブトムシの絵を両手で伸ばした。夏子の話を聞いていた母親も、今の町並みから雑木林を想像できないらしく、公園の外に並ぶ住宅を見回している。そこには二階建ての家とコインパーキングが隙間なく並び、地面のほとんどがコンクリートとアスファルトに覆われていた。


「その森、どうしてなくなったんですか」


 陽太に尋ねられると、夏子は帽子のつばを少し下げた。返事をする代わりに保冷バッグから塩飴を一つ出し、黄色い包み紙を何度も指でひねった。やがて飴を口へ入れると、レモンの匂いを吐息に混ぜながら、公園の外へ歩き始めた。


「おばあちゃん、どこへ行くの?」


「家よ。見せたいものがあるの。陽太君も、お母さんがよければ一緒にいらっしゃい」


「日記を見せるの?」


「どうして分かったの」


「おばあちゃんは昔のことを隠すとき、必ず飴か煎餅を食べるから」


「口を動かしていれば、余計なことを話さずに済むのよ」


 夏子の団地へ戻ると、居間のエアコンは二十六度のまま動いていた。朝に干した洗濯物がベランダで風もないのに乾き、白いタオルは板のように固くなっている。食卓には食べかけのトーストと半分に切ったバナナが残り、コップの麦茶から氷がすべて消えていた。


 陽太と母親は玄関で遠慮したため、未来が二人分のスリッパを出した。エルは靴を履いていなかったが、足を洗わずに入ろうとして夏子に止められた。浴室へ連れていかれ、石けんで足の裏まで洗われたエルは、借りた灰色のスリッパを見下ろして困った顔をしていた。


「天から来た人でも、家へ上がるときは足を洗ってください。床に土が落ちるでしょう」


「土は汚れではありません」


「畑ではね。団地の畳に上がれば汚れです」


「場所によって、土の意味が変わるのですか」


「そうよ。雨も畑に降れば恵みだけど、家の床まで来たら浸水でしょう」


 夏子が言い切ると、エルは納得したようにスリッパを履いた。未来は冷蔵庫から麦茶を出し、陽太には小さなガラスの器へスイカを二切れ入れた。夏子は食べ残していたトーストを台所へ下げたあと、押し入れの奥から古い段ボール箱を引き出した。


 箱の中には、角が丸くなったアルバム、黄ばんだ新聞の切り抜き、何冊もの大学ノートが入っていた。夏子は一番下から、緑色の表紙の日記を取り出した。表紙には黒いペンで「一九九〇年」と書かれ、右下には、汗でにじんだような丸い染みが残っていた。


「これを書いたのは、おばあちゃん?」


「ええ。十五歳のときよ。未来と同じ年齢ね」


「三十六年前の中学生も、日記なんて書いたんだ」


「失礼ね。三十六年前にも鉛筆とノートはありました。それに、スマートフォンがなかったから、誰にも言えないことは紙に書くしかなかったのよ」


「私と同じ十五歳だったおばあちゃんか。想像しにくいなあ」


「私にも、肌にしわがなくて、階段を二段飛ばしで上がれた時代があったの」


 未来が日記を開くと、青いインクの文字がページいっぱいに並んでいた。字は今の夏子より丸く、ところどころに花や猫の絵が描かれている。夕食のカレーに肉が三切れしか入っていなかったことや、体育の時間に帽子を忘れて廊下へ立たされたことまで、細かく記録されていた。


「おばあちゃん、昔から食べ物の話ばかり書いている」


「大切な記録よ。あの日に何を食べたか思い出すと、そのときの家の匂いまで戻ってくるでしょう」


「七月二十八日。お母さんが買ってきたメロンは、弟のほうが大きかった。絶対に許さない、だって」


「そこは読まなくていいの!」


「許さなかったの?」


「次の日、弟のアイスも半分食べたから解決したわ」


 笑っていた未来の手が、八月十日の日記で止まった。そのページには、ほかの日より濃い文字で「雑木林がなくなる」と書かれている。ページの間には、鉛筆で描いた森の地図と、「工事反対」と記された小さな紙が挟まっていた。


 夏子は日記を受け取り、ゆっくり読み始めた。一九九〇年当時、日本の人口は約一億二千三百万人で、まだ増加を続けていた。町には新しい住宅や道路が次々と造られ、新聞もテレビも、土地が値上がりして暮らしが豊かになると伝えていた。


「今と同じくらいの人数がいたのに、国は大きくなる途中だったの?」


「そうよ。子どもの数も今よりずっと多かった。学校は一学年に何クラスもあって、公園の滑り台には順番待ちの列ができたわ」


「それなのに、遊ぶ森を住宅にしたの?」


「家も足りなかったし、車を置く場所も必要だと言われたの。森よりも、新しい家と舗装された道路のほうが便利で安全だと、大人たちは信じていた」


「木を全部切ったら、暑くなるって分からなかったのかな」


「少しは分かっていた人もいた。でも、未来の暑さより、今の便利さのほうが大切に見えたのよ」


 夏子はページに挟まれていた古い地図を食卓へ広げた。現在は団地、住宅、駐車場になっている場所が、緑色の鉛筆で塗られている。地図の端には細い水路が描かれ、その脇に「ザリガニ」「ドングリの木」「秘密基地」と、十五歳の夏子の字で書かれていた。


 エルは地図をのぞき込み、公園に残っていた古い切り株へ行きたいと言った。夏子は日記を布の手提げ袋へ入れ、全員で再び公園へ向かった。日差しが強くなっていたため、未来たちは日傘を差し、陽太は母親から帽子を深くかぶるよう何度も注意された。


 枯れた切り株は、陽太のコナラを植えた場所から数メートル離れたところにあった。中心は黒く空洞になり、表面には何年も前につけられた傷が残っている。夏子は傷の一つを指でなぞり、十五歳のとき、自分が小刀で名前の頭文字を彫ったものだと話した。


「この木、あの雑木林にあった木なの?」


「たぶんね。全部伐採されたと思っていたけど、一本だけ公園へ移されたのかもしれない。根が傷んで、ずいぶん前に枯れてしまったけれど」


「木は枯れても、覚えています」


 エルが切り株へ右手を置くと、乾いた木肌の奥から淡い緑色の光がにじんだ。光は地面を這うように広がり、未来たちの足元を包んだ。熱い風が一度止まり、代わりに湿った土と青い葉の匂いが鼻へ届いた。


 公園の景色が揺れ、住宅や駐車場が透けるように消えていった。そこへ現れたのは、高い木々に囲まれた一九九〇年の雑木林だった。アブラゼミとミンミンゼミの声が重なり、半袖短パンの子どもたちが虫取り網を持って走っている。


「すごい。本当に森があったんだ」


「ぼく、カブトムシを探してくる!」


 陽太が駆け出そうとしたが、エルが肩をつかんで止めた。目の前の風景は木の記憶であり、触れることも、中へ入ることもできない。陽太の前を一人の少年が走り抜けたが、体は煙のように重なり、そのまま通り過ぎていった。


 突然、空が暗くなり、大粒の夕立が雑木林へ降り始めた。乾いた土が水を吸い、むせるような土と草の匂いが辺りへ広がった。木の下へ逃げ込んだ子どもたちは笑い、雨どいも排水溝もない森の地面は、水を静かに受け止めていた。


「雨が降っても、水がたまらないね」


「落ち葉の下の土が吸っているのよ。今は同じ量の雨が降れば、道路を流れて低い場所へ集まるわ」


「昨夜の床下浸水も、森が残っていたら違ったのかな」


「全部を防げたとは言えない。でも、森が水を受け止める時間はあったでしょうね」


 場面が変わると、黄色いヘルメットをかぶった作業員たちが、木の間へ赤白の測量棒を立てていた。その前には、白いブラウスと紺色のスカートを着た十五歳の夏子が立っている。肩まで伸びた黒髪は汗で頬に貼りつき、胸には「森を残してください」と書いた紙を抱えていた。


「おばあちゃんだ。私と同じくらいだね」


「当たり前でしょう。十五歳だったんだから」


「若いおばあちゃん、私より背が低い」


「そこを比べる場面じゃないわよ」


 若い夏子は、住宅建設の説明会へ来た大人たちに署名を求めていた。しかし、森がなくなれば虫が減って清潔になる、夜道が明るくなる、土地の値段が上がると断られていた。同級生たちも最初は手伝っていたが、夏休みが終わるころには姿を見せなくなり、最後には夏子一人だけが森の入り口へ立っていた。


「子ども一人が反対しても、計画は変わらないよ」


「新しい団地ができれば、たくさんの家族が住めるんだ。君だって、きれいな町になったほうがうれしいだろう」


「森を全部なくさなくても、家は建てられるはずです。少しだけでも残してください」


 若い夏子の声に重なって、チェーンソーの音が響いた。一本目の木が傾くと、枝にいたセミが一斉に飛び立った。切り口から広がる生木の匂いの中で、十五歳の夏子は署名用紙を両手で握りしめ、倒れた木から目をそらさなかった。


 光が消えると、未来たちは現在の公園へ戻っていた。目の前には空洞になった切り株があり、その向こうには白い車が並ぶ駐車場が見える。夏子の手には古い日記が残り、開いたページへ一粒の汗が落ち、青い文字をわずかににじませた。


「おばあちゃん、一人で署名を集めていたの?」


「最初は友達も手伝ってくれたわ。でも、工事が決まると、もう仕方がないと言われた。私も高校へ入って、森のことを話さなくなったのよ」


「それでも、日記も地図も捨てなかったんだね」


「捨てられなかっただけよ。何かを変えるために使ったわけではないわ」


 未来は日記の端をそっと押さえた。夏子が森を忘れていたのではなく、押し入れの奥へしまい、普段の暮らしから見えないようにしていたことが分かった。夏子は日記を閉じると、駐車場の向こうで揺らめく熱気を見つめた。


「私は、あの森を守れなかった。だから、あなたに地球を守れなんて簡単には言えないの」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ