第2話 み使いは奇跡を使わない
第2話 み使いは奇跡を使わない
午前四時半、東の空が白み始めても、エルは公園の土を掘り続けていた。生成り色の長い服は膝まで黒く汚れ、裸足のかかとには乾いた泥がこびりついている。未来が渡した移植ごては一時間ほどで先が曲がり、固い地面へ突き刺すたび、石と金属がぶつかる乾いた音を立てた。
「もう休んだら? 空から落ちてきたばかりなんでしょう」
未来はベンチへ座り、水筒の麦茶を飲んだ。夜中に慌てて持ち出したため、パーカーの下は薄い綿のパジャマのままで、足元には赤いゴム製のサンダルを履いている。蚊に刺されたふくらはぎを爪でかきながら、七本目の苗木を植えようとするエルを見守った。
「落ちたのではありません。降りてきました」
「同じようなものじゃない。あんな光を出して公園へ着地したら、隕石だと思われるよ」
「ほかに、地上へ来る方法を知りませんでした」
「み使いなのに、意外と不便なんだね」
エルは意味が分からないように首を傾け、再び移植ごてを土へ入れた。公園の外では新聞配達のバイクが走り、牛乳瓶を入れる箱の蓋が閉まる音も聞こえてくる。ベンチの下には誰かが落とした梅味の飴の包み紙があり、未来はそれを拾ってパーカーのポケットへ入れた。
植えられた苗木は、どれも未来の膝ほどの高さしかなかった。細い枝には小さな緑の葉が数枚つき、わずかな風が吹くだけで頼りなく揺れている。未来は、み使いが植える木なら一晩で空まで伸びるのではないかと期待していたが、最初の一本でさえ、植えたときと同じ大きさだった。
「これ、いつになったら大きな木になるの?」
「木の種類と、土と、水と、気候によります」
「普通の答えだね。み使いの力で、一晩で巨木にできないの?」
「できます。しかし、しません」
「どうして? できるなら、すぐ森にすればいいじゃない」
エルは植えたばかりの苗木の根元を、両手でそっと押さえた。指先についた血は黒い土と混ざり、細い爪の周りへ固まっている。未来はその手を見て、奇跡を使わずにわざわざ苦労している理由が分からず、唇を尖らせた。
「では、あなたは明日の朝、十五歳から七十二歳になりたいですか」
「絶対に嫌だよ。おばあちゃんみたいに、プリンへ名前を書いても見えなかったと言い張るようになる」
「木も同じです。今日、土へ入れた根には、今日の仕事があります。明日には明日の仕事があります」
「でも、地球にはゆっくり待っている時間がないでしょう。昨日だって、おばあちゃんが熱中症で倒れかけたんだよ」
「だから急ぎます。ただし、急ぐことと、時間を奪うことは同じではありません」
未来には、分かったような分からないような答えだった。空を見ると、朝焼けの雲は薄い桃色に染まっているが、雨を降らせそうな厚みはない。今日も最高気温は四十度近くになると予報され、夜明け前から肌にまとわりつく空気は生温かかった。
「せめて雨を降らせてよ。み使いなら、それくらいできるでしょう」
「ここだけに雨を降らせれば、別の場所の水を奪います。雲を無理に集めれば、その先で降るはずだった雨が消えます」
「じゃあ、どこからも奪わない雨を作ればいい」
「無から水を作り続ければ、人間は水を使う方法を変えません。奇跡が止まった日に、今より多くの者が困ります」
「それなら、どうするの?」
「運びます」
エルは公園の水飲み場へ向かったが、蛇口には節水を求める紙が貼られていた。蛇口をひねっても、細い水が頼りなく流れるだけである。エルは清掃用具入れの横にあった古い青いバケツを見つけると、半分まで水をため、苗木のところへ運び始めた。
「まさか、それを一本ずつやるつもり?」
「はい」
「何十往復もしないといけないよ」
「では、何十往復します」
「奇跡の使い方が下手すぎるよ」
未来が呆れていると、公園の入り口から夏子の声が飛んできた。夏子は白いブラウスに黒いジャージのズボンをはき、昨日の麦わら帽子をかぶっている。左手には水を入れた二リットルのペットボトル、右手にはおにぎりを詰めた保冷バッグを提げていた。
「未来! 外から鍵を掛けるなんて、火事になったらどうするの!」
「ごめんなさい。でも、おばあちゃんが追いかけてきたら、また倒れるでしょう」
「その心配をさせたのは誰よ。夜中にパジャマで飛び出して、電話にも出ないで」
「スマートフォンは持ってきたけど、音を消していたの」
「持っているだけでは、漬物石と同じよ!」
夏子は未来の頭を軽くたたこうとしたが、途中で手を止めた。目の前には、昨日区民館で見た青年が立っている。背中に翼はなかったものの、足元には何本もの苗木が並び、朝日を浴びて小さな影を作っていた。
「あなた、昨日の人でしょう。本当に空から来たの?」
「はい」
「未来に何かしていないでしょうね」
「移植ごてを借りました」
「それは、未来があなたにしたことでしょう。名前は?」
「エルです」
「朝ご飯は食べたの?」
夏子は警戒していたはずなのに、すぐ保冷バッグを開けた。中には梅干しのおにぎりが三つ、保冷剤に挟まれて入っている。昨夜の親子丼で使い切れなかった薄焼き卵も、細く切って小さな容器へ詰めてあった。
「み使いが何を食べるのか知らないけれど、梅干しは大丈夫?」
「食べ物をいただく必要はありません」
「必要がなくても、食べてはいけないわけではないでしょう。働く人の前で、自分たちだけ食べられないわ」
「おばあちゃん、相手がみ使いでも世話を焼くんだね」
「土だらけの若者を見たら、まず食事を出すのが日本の年寄りよ」
エルは梅干しのおにぎりを受け取り、夏子たちの真似をして一口かじった。海苔の香りと梅干しの酸味に驚いたのか、金色の目を少し見開いている。夏子はその顔を見て満足すると、自分もおにぎりを半分に割り、未来へ大きいほうを渡した。
食後、未来はエルが水を運ぶ姿をスマートフォンで撮影した。翼が現れた瞬間の動画も確認すると、暗い映像の中に白い光がはっきり残っていた。未来は同じ中学校へ通う佐伯新へ連絡し、撮影した動画を見てほしいと頼んだ。
三十分後、新は黒いTシャツと迷彩柄の半ズボンを着て、公園へ走ってきた。肩から小型カメラを下げ、寝癖の残った髪には汗が光っている。動画を見るなり、彼はベンチへ座って編集用のアプリを開いた。
「これ、本物? 羽のところだけ合成したんじゃないの?」
「私にこんな合成ができると思う?」
「できないと思う。だから、誰かにやってもらったのかと思った」
「素直に信じてよ。エル、もう一度、翼を出してくれる?」
「翼は見せるためのものではありません」
「ほらね。こういうことを言う人なの」
新はエルの周りを歩き、苗木、汚れた手、曲がった移植ごてを撮影した。夏子は顔が映るのを嫌がり、麦わら帽子で鼻まで隠したが、おにぎりの容器を片づける手元はしっかり映り込んだ。新は短い動画を作り、「天から来た男が板橋区で木を植えている」という題をつけて投稿した。
「こんな題で大丈夫なの?」
「最初の三秒で興味を持ってもらわないと、誰も見てくれないんだよ。『身元不明の青年が植樹しています』では弱いから」
「見てもらうより、手伝ってもらいたいんだけど」
「見てもらわなければ、手伝う人も来ないよ」
投稿から十分で、再生数は千回を超えた。一時間後には一万回を超え、通知音が鳴りやまなくなった。新は数字が増えるたびに画面を更新し、未来も肩越しにコメントを読んだ。
「『どう見ても合成』『映画の宣伝だろ』『売名行為』『新しい宗教の勧誘じゃないか』だって」
「宗教じゃないよ。私たちだって、エルが何者かよく分かっていないのに」
「『熱中症になるから、外でやるな』というコメントもある。これは正しいかも」
「エル、聞いた? 暑くなる前に休もう」
「あと三本、植える場所を決めました」
「そういうところは、おばあちゃんに似て頑固だね」
動画を見た人がすぐ公園へ来ることはなかった。昼前になると気温が上がり、未来たちは夏子に引っ張られるように団地へ戻った。エルだけは公園へ残り、帽子もかぶらず、一本ずつバケツで水を運び続けていた。
夏子はベランダから何度も公園を眺め、そのたびに冷蔵庫から麦茶を出した。昼食には冷たいそうめんを作ったが、エルの分まで用意した一人前が、ガラスの器の中で水を吸って伸びていった。夕方、未来が様子を見に行くと、エルは苗木の横に座り、曲がった移植ごてを石で直そうとしていた。
「そうめん、食べる? 少し伸びているけど、おばあちゃんが取ってあるよ」
「いただきます」
「雨も降らなかったし、木も大きくならなかったね」
「はい。それでも、根は土の中へ入りました」
「誰も手伝いに来なかったよ」
「あなたが水を一杯運びました。夏子がおにぎりを三つ作りました。新が多くの人へ知らせました」
「そんな小さなことを数えるの?」
「小さなことを数えなければ、森がどこから始まったのか分からなくなります」
翌朝、未来が夏子と公園へ行くと、入り口に見慣れない苗木が一本置かれていた。根元は新聞紙で包まれ、段ボールを切った札が麻ひもで結ばれている。札には鉛筆で、「ぼくも、木をそだてたいです」と書かれていた。
苗木の横には、黄色い帽子をかぶった小学生が立っていた。青いTシャツの胸にはカブトムシが描かれ、両手は植木鉢の土で黒く汚れている。少し離れた場所では母親らしい女性が日傘を差し、心配そうに少年を見守っていた。
「動画を見たの?」
未来が尋ねると、少年は一度うなずいた。エルが近づいても逃げず、細い苗木を両腕で抱え直した。葉が一枚、少年の頬へ触れたが、彼はくすぐったそうに笑った。
「これは、去年、学校でもらった木です。ベランダだと大きくなれないって、お母さんが言いました」
「ここへ植えたあとも、水をあげに来られますか」
「来ます。朝の涼しい時間に来ます。だから――」
少年はエルを見上げ、土のついた両手で苗木を差し出した。
「ぼくの木も、一緒に植えてください」




