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第1話 四十度の空から降りてきた者

第1話 四十度の空から降りてきた者


 午前七時、板橋区の防災無線が、不要不急の外出を控えるよう呼びかけていた。気温はすでに三十二度を超え、公園のケヤキは葉の先を茶色く縮れさせている。昨夜のゲリラ豪雨でできた水たまりからは湿った土と下水の臭いが立ち、朝の散歩に来た犬も舌を出したまま、日陰から動こうとしなかった。


 相沢未来は団地の五階にある自宅で、窓辺の植木鉢へ水をやっていた。着古した白いTシャツに紺色の半ズボンをはき、寝癖のついた髪を黄色いゴムで一つに結んでいる。鉢では理科の授業でもらったミニトマトが育っていたが、赤くなる前の実が二つ、しわしわになって土の上へ落ちていた。


「おばあちゃん、またミニトマトが落ちた。毎日水をあげているのに」


 台所では、夏子が朝食の目玉焼きを作っていた。昨日の熱中症が嘘だったように、白地に青い水玉のエプロンを着け、フライパンの前に立っている。ただし、首には未来から渡された冷却用の輪をつけ、壁のエアコンは朝から二十六度に設定されていた。


「朝と夕方に水をあげても、土そのものが熱くなっているのよ。植木鉢を触ってみなさい」


「熱い。お風呂の蓋みたい」


「根っこは逃げられないからね。人間なら区民館へ逃げ込めるけど、植物は足がないもの」


「昨日倒れかけた人が、急に植物の気持ちまで分かるようになったの?」


 未来が振り返ると、夏子は目玉焼きの縁を焦がしていた。いつもなら半熟に仕上げるのに、昨日から何度も窓の外へ目を向け、手元がおろそかになっている。区民館の植え込みで苗木を植えていた青年と、その背中に一瞬だけ見えた光の翼が、頭から離れないらしかった。


「見たでしょう、あなたも。あの人の背中に、大きな翼が出たのよ」


「暑さで二人とも同じ幻を見たのかもしれないよ」


「二人で同じものを見たなら、それは幻じゃなくて目撃証言よ。警察に話したら、参考人として呼ばれるわ」


「空を飛ぶ人を警察に届けて、何の罪で捕まえてもらうの?」


「無許可飛行かしら」


 未来が吹き出すと、夏子は焦げた目玉焼きを未来の皿へ載せ、自分の皿には形のきれいなほうを置いた。食卓には、ぬるくなった豆腐の味噌汁、キュウリの浅漬け、昨日無事だった卵で作った目玉焼きが並んでいる。前籠で揺られた卵は二つ割れていたが、夏子は帰宅後すぐに薄焼き卵へ変え、刻んで冷蔵庫へしまっていた。


「どうして私のだけ焦げているの」


「若い人には、よく焼いたほうが安全なのよ」


「おばあちゃんの半熟のほうが危ないと思う」


「昨日介抱された分、今日は私が栄養をつけないといけないでしょう」


「介抱したのは私なんだけどな」


 二人が朝食を食べ始めると、テレビから気象情報が流れた。東京の予想最高気温は四十度に達する可能性があり、熱中症警戒アラートが発表されている。画面には救急搬送者数とダムの貯水率が表示され、司会者は水分補給を呼びかけた直後、節水にも協力してほしいと付け加えた。


「水を飲めと言ったり、節約しろと言ったり、忙しいわね」


「人が飲む水まで我慢しろって意味じゃないよ。庭へ大量にまいたり、洗車したりするのを減らすんでしょう」


「でも、公園の木には誰が水をあげるのかしら。昨日の苗木も、この暑さでは枯れてしまうわ」


「やっぱり、あの人のことを気にしているんだ」


 夏子は味噌汁の豆腐を箸で二つに割り、それ以上は何も言わなかった。食後、未来は閉校が決まっている中学校へ、教科書を取りに行くことになっていた。夏休み前に教室へ置き忘れた社会科の教科書が、宿題を始めようとした昨日になって見つからないことに気づいたのである。


「この暑さの中を学校へ行くの? 昨日の今日よ。私もついていくわ」


「おばあちゃんは外出禁止。昨日、タクシーの運転手さんにも言われたでしょう」


「十五歳を一人で行かせて、七十二歳が冷房の中で留守番なんて、立場が逆じゃない」


「学校まで歩いて十分だし、水筒も持っていく。それに、今日は焼けた目玉焼きを食べたから安全だよ」


 未来は冷たい麦茶を入れた水筒と、塩分補給用の飴を水色のリュックへ入れた。外へ出ると、団地の廊下には洗濯洗剤と焼き魚の匂いが混じって漂っていた。手すりには布団が一枚干されていたが、持ち主は熱くなりすぎたことに気づいたのか、慌てて部屋から出てきて裏返していた。


 公園を通りかかると、水飲み場には「渇水のため節水にご協力ください」と書かれた紙が貼られていた。蛇口の下には空になったペットボトルが転がり、植え込みの土には太い亀裂が走っている。昨日、青年が植えたはずの苗木を探したが、区民館の前にも、公園の中にも、それらしいものは見つからなかった。


「やっぱり、暑さで見た幻だったのかな」


 未来は独り言を口にし、水筒を一口飲んだ。麦茶はまだ冷たかったが、喉へ流れた直後から体の中で温まっていく気がした。遊具には誰もおらず、鉄棒へ近づくだけで、熱せられた金属の臭いが鼻に届いた。


 未来の通う中学校では、校門脇の桜も葉を丸めていた。玄関に入ると、夏休み中の校舎は静まり返り、廊下には運動部が残した制汗剤の匂いがうっすら残っている。職員室にいた担任の田辺は、灰色のポロシャツの襟を指で引っ張りながら、未来へ教室の鍵を渡した。


「教科書を取りに来たのか。偉いな、相沢」


「宿題を一ページもやっていないので、偉くはありません」


「正直なのは偉い。しかし、今日中に全部やろうとは思うなよ。冷房のある部屋で少しずつやりなさい」


「先生は、閉校したあと、どこの学校へ行くんですか」


 田辺の手が、机の上に置かれた出席簿の角で止まった。未来の学年は一クラスしかなく、教室にある三十二個の机のうち、使われているのは二十一個だけだった。翌春には近隣の中学校と統合され、この校舎は地域施設へ転用されることが決まっている。


「まだ決まっていない。でも、教師の仕事は続けるつもりだ」


「学校がなくなったら、校庭の木も切られるんですか」


「残すように要望は出している。ただ、建物の使い方が変われば、安全管理のために切られる木もあるかもしれないな」


「安全のために木を切ったら、もっと暑くなりませんか」


「そのとおりだ。だから、どう残すかを考えないといけない」


 教室へ入ると、未来の机の中には社会科の教科書と、六月に配られた献立表が残っていた。黒板の隅には、終業式の日に誰かが描いた猫の顔が消されずに残っている。未来は机を一つずつ眺め、この教室から人だけがいなくなる翌年の春を想像した。


 帰宅すると、夏子は居間の床に古いアルバムを広げていた。冷房をつけていても窓辺は暑く、夏子は冷やしたタオルを頭に載せ、昼食のそうめんをすすっている。ガラスの器には、刻んだ薄焼き卵、キュウリ、缶詰のミカンが載っていた。


「見てごらんなさい。これは一九九〇年の夏、この近くの公園で撮った写真よ」


 写真には、盆踊りの櫓と、その周囲を埋め尽くす人々が写っていた。赤や青の浴衣を着た子どもたちが列を作り、綿あめや金魚すくいの屋台の前にも人があふれている。若い夏子は黄色いワンピースを着て、まだ幼い未来の母を抱いていた。


「一九九〇年って、日本に何人くらいいたの?」


「今と同じくらいよ。約一億二千三百万人だったそうね。でも、あのころは人口が増えている途中で、子どもがたくさんいたの。公園で遊ぶ場所を取り合って、砂場のバケツに名前を書いていたくらいよ」


「今は同じ人数でも、お年寄りが多いんだね」


「ええ。それに、木も空き地も減ったわ。昔はここから公園まで行く間に、土の道があったのよ。雨が降ると靴が泥だらけになって、母親には嫌がられたけれどね」


 夏子はアルバムから目を上げ、ベランダの向こうに並ぶ屋根を見た。古い家の庭にあった柿の木は住宅建設のときに切られ、空き地はアスファルトの駐車場になっている。人口の数字は昔と同じでも、地面を覆うものも、そこで暮らす人間の年齢も、まったく同じではなかった。


 夕食には、昨日買った鶏もも肉と長ねぎを使った親子丼が並んだ。夏子は熱中症から回復したつもりでいたが、食欲が戻らず、小さな茶碗の半分ほどしか食べられなかった。未来は残りを冷蔵庫へ入れ、寝る前にもう一度水を飲むよう、夏子へ念を押した。


「分かったわよ。今日は誰よりも水を飲めと言われた一日だったわ」


「夜中にトイレへ行くのが嫌だからって、飲まないのは駄目だよ」


「七十二歳にもなると、飲めと言われたり、出せと言われたり忙しいのよ」


「それでも生きるために必要だからね」


 午後十一時を過ぎても、外気温は三十一度から下がらなかった。未来は薄い綿のパジャマに着替えたものの眠れず、団地の窓から赤くかすんだ空を眺めていた。遠くでは救急車のサイレンが鳴り、室外機から吐き出される熱気が、夜の町をさらに温めているようだった。


 突然、雲のない空に白い光が走った。流れ星より太く、雷よりも長く残った光の筋は、公園の方角へ向かって落ちていった。地面から低い振動が伝わり、窓ガラスが小さく鳴った。


「おばあちゃん、起きて! 何かが公園へ落ちた!」


「隕石なら、拾って売れるかもしれないわね」


「昨日倒れた人は寝ていて。私、見てくる」


「待ちなさい。一人で行くなんて駄目よ」


 未来は水色のパーカーを羽織り、懐中電灯とスマートフォンを持って玄関を飛び出した。夏子も追いかけようとしたが、未来は外から鍵を掛け、階段を駆け下りた。公園へ近づくにつれ、雨のあとの湿った臭いではなく、焼いた石のような臭いが強くなった。


 公園の中央には、黒く焦げた円形の跡ができていた。その中心に、生成り色の長い服を着た青年が立っている。背中には光を集めて形にしたような翼が広がり、両手には昨日見たものとよく似た、小さな苗木が抱えられていた。


「あなた、昨日、区民館の前にいた人でしょう。空を飛んでいたの?」


 青年は答えず、翼を静かに閉じた。光の羽は空気へ溶けるように消え、あとには土で汚れた服と、裸足の青年だけが残った。青年は腰をかがめると、焦げて固くなった地面を指で掘り始めた。


「そんなところ、素手では掘れないよ。何をしているの?」


 未来が懐中電灯で照らすと、青年の爪の間に黒い土が入り、指先から赤い血がにじんでいた。それでも青年は手を止めず、苗木の根が入る深さまで少しずつ穴を広げていく。未来は公園の清掃用具入れを思い出し、裏へ回って、小さな移植ごてを探してきた。


「これを使って。勝手に借りるのはよくないけど、手で掘るよりいいでしょう。それから、あなたの名前を教えて」


 青年は移植ごてを受け取り、初めて未来の顔を見た。淡い金色の瞳には、公園の街灯と、立ち枯れた木々が映っている。遠くで救急車の音が鳴ると、青年は小さな苗木を胸元へ引き寄せた。


「名前は、まだ必要ありません」


「必要だよ。知らない人と話すときは、名前を聞くものでしょう」


「では、エルと呼んでください」


「エル、ここで何をしているの?」


 エルは移植ごてを固い土へ差し込んだ。焼けた表面の下から、わずかに湿り気を残した黒い土が現れる。彼はそれを手のひらに載せ、まだ生きているものを確かめるように、指でゆっくりほぐした。


「木を植えます。この地が、まだ命を受け入れてくれるうちに」



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