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プロローグ 地球がおこですよ

プロローグ 地球がおこですよ


 一週間前、訪問看護師の斎藤が、利用者宅を回っている途中で熱中症になったと話していた。夏子の団地へ来た斎藤は、水色の制服の背中を汗で濡らし、冷蔵庫から出してもらった麦茶を両手で持っていた。それでも血圧計を準備しながら、外では水を飲んでいても倒れることがあるので気をつけてくださいと念を押していた。


「斎藤さんは若いのに、熱中症になったの? もっと鍛えないと駄目ね。私は七十二歳だけど、夏でも自転車でどこへでも行くわよ」


「年齢や体力に関係なく起こりますよ。夏子さんは自信がある人だから、かえって心配なんです」


「大丈夫、大丈夫。私はアウトドアが大好きだもの。若いころはテントを担いで山へ行ったのよ」


 夏子は笑いながら答えたが、腹の中では、なんとまあ軟弱なと思っていた。斎藤は訪問用の大きな鞄を持ち、炎天下を自転車で何軒も回っているのだから、夏子よりはるかに過酷な一日を送っている。それでも夏子は、冷房の利いた居間で、朝食に残した冷めた味噌汁を流しへ運びながら、自分だけは大丈夫だと決めつけていた。


 ところが今、その自慢の体は歩道橋の下でまともに立つこともできなくなっていた。凍らせた大きなペットボトルを持参し、途中のコンビニではガリガリ君を食べ、冷房の風に当たって十分に休んだはずだった。水色のソーダ味をかじったときには、舌が青くなったと未来に笑われ、夏子も鏡代わりにスマートフォンの画面をのぞいて笑っていた。


「ちゃんと対策したのに。大きな氷も持ってきたし、コンビニで涼んだし、アイスだって食べたのよ」


「ガリガリ君はおいしいけど、食べたら熱中症にならない魔法の薬じゃないよ」


「でも、何もしなかったわけじゃないでしょう。自然の怖さをちゃんと考えて行動したつもりだったのよ」


「それでも危ない日だったんだよ。おばあちゃんが失敗したというより、今日の暑さが普通じゃないんだと思う」


 未来に言われても、夏子はすぐには納得できなかった。アウトドアが好きだと名乗りながら、実際にはここ数年、遠出といえば荒川河川敷へ桜を見に行く程度である。それでも押し入れには、二十年前に買った寝袋、飯盒、折り畳み椅子を大切にしまってあり、防災用品を点検するたびに自分は野外活動の経験者だと胸を張っていた。


 歩道橋の下で十分ほど休むと、耳を塞いでいた水のような感覚が少し薄れた。先ほどの女性からもらった保冷剤を首に当てたまま、夏子は恐る恐る立ち上がった。膝にはまだ力が入らず、麦わら帽子のつばから落ちた汗が、カーキ色のズボンへ黒い染みを作った。


「近くに区民館があったわね。あそこまで行けば、冷房があるはずよ」


「自転車には乗らないで。私が二台とも押すから、おばあちゃんは歩いて」


「二台も押したら、あなたが倒れるでしょう。ゆっくり行くから、一台は私が乗るわ」


「倒れかけた人が、どうして急に運転できることになるの」


「自転車は乗ったほうが楽なのよ。駄目だと思ったら、すぐ降りるから」


 未来は口を尖らせたが、夏子がどうしても譲らないため、自転車の後ろを歩いて見守ることにした。夏子はサドルへ腰を下ろし、両足がいつでも地面につくよう、歩くほどの速さで進んだ。前籠の長ねぎが揺れるたびに卵のパックとこすれ、未来は卵が割れても今日は文句を言わないでおこうと思った。


 二百メートルほど先にある区民館へ着いたとき、夏子の白いシャツは背中まで汗で透けていた。玄関へ入ると、床にまかれた清掃用ワックスの匂いと、冷房の乾いた空気が鼻へ届いた。掲示板には盆踊り大会、囲碁教室、子ども食堂の案内が並び、長机の上では誰かが忘れた老眼鏡が、赤い眼鏡ケースの横に置かれていた。


「すみません。軽い熱中症になったようで、少し横になって休んでもいいですか」


 事務室の窓口にいた女性職員は、夏子の顔を見るなり椅子から立ち上がった。隣にいた男性職員も作業の手を止め、玄関脇に置いてあった長椅子から荷物をどけてくれた。夏子が遠慮して腰だけ下ろそうとすると、女性職員は丸めた座布団を枕にして、横になるよう勧めた。


「もちろんです。顔がかなり赤くなっていますよ。めまいや吐き気はありますか」


「耳が水の中に入ったような感じで、さっきは道路も揺れて見えました。でも、少し休んだので、もう大丈夫だと思います」


「まだ大丈夫とは決めないでください。ひどいようなら、いつでも言ってくださいね。すぐ救急車を手配しますから」


「ありがとうございます。ご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」


「迷惑ではありませんよ。ここは区民のための施設です。困ったときに使ってください」


 職員たちは事務室と給湯室を何度も往復した。一人は叩くと急に冷える保冷剤を持ってきて、もう一人は冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを出してくれた。別の職員は濡らしたタオルと水色の団扇を持ってきたため、夏子の周りには、ちょっとした看護用品売り場のように物が集まった。


「これ、真ん中を強く叩くと冷たくなります。首筋と脇の下を冷やしましょう」


「まあ、便利なものがあるのね。私も防災用に買っておこうかしら」


「おばあちゃん、今は買い物の計画を立てなくていいから。じっとしていて」


「こういうときに覚えておかないと、家へ帰ったら忘れるのよ。七十二歳を甘く見ないで」


「忘れるほうを自慢しないでよ」


 未来は職員から団扇を借り、長椅子に横になった夏子をゆっくり扇いだ。勢いよく風を送ると寒くなりすぎると思い、手首だけを動かして、白髪の交じった前髪がわずかに揺れる程度の風を作った。夏子は首筋と両脇へ保冷剤を挟み、スポーツドリンクを一口ずつ飲みながら、目の奥に少しずつ力が戻るのを感じていた。


「甘くて、おいしいわね。普段は糖分が多いから飲まないようにしているけど、今日は体に染みるわ」


「一気に飲まないでくださいね。少しずつで大丈夫です」


「はい。さっきまで熱い水しかなかったから、冷たいだけでごちそうです」


「帰りは、ご家族に迎えを頼めますか。自転車には乗らないほうがいいですよ」


 夏子は返事をする代わりに、脇の下の保冷剤を少しずらした。素直に迎えを頼むと言えば、朝から自転車で買い物へ出た自分の判断が間違っていたと認めることになる。しかし長椅子の横では、未来が団扇を動かし続け、額に新しい汗を浮かべていた。


「分かりました。自転車は置かせてもらって、タクシーで帰ります。卵と鶏肉が悪くなりそうだけど、命よりは安いものね」


「やっと分かってくれた。卵は割れても卵焼きにできるけど、おばあちゃんは割れたら戻せないんだから」


「人を卵みたいに言わないでちょうだい。でも、今日は反論できないわね」


 目を閉じると、夏子は子どものころの夏を思い出した。昔も東京の家は暑く、首や背中に汗疹ができるたび、母親が金だらいへ水を張ってくれた。夏子は一日に何度も水風呂へ入り、風呂上がりには白いカルピスを薄めてもらったが、夕方になれば縁側から涼しい風が入り、夜は扇風機だけで眠れる日もあった。


「子どものころだって、汗疹ができるくらい暑かったのよ。水風呂ばかり入って、おばあちゃんに『河童になるよ』って叱られたわ。でも、あんなものじゃない。今日の暑さは、昔の夏とは別物ね」


「昔も暑かったって言う大人は多いけど、夜まで三十度を超える日が続いていたの?」


「そんなには続かなかったと思う。夕立が降ったあとは、土や草の匂いがして、少し涼しくなったものよ。昨夜は大雨で家が水につかったのに、今日はこの暑さでしょう」


「地面が水を吸えなくなっているのかな。土だった場所が、道路や建物になったから」


 未来の言葉を聞き、夏子は今朝通ってきた町を思い浮かべた。空き地だった場所にはコインパーキングができ、庭のある家は取り壊され、敷地いっぱいに小さな住宅が建っている。植木鉢の朝顔さえ見かけなくなった道では、黒いアスファルトが太陽の熱をため、夜まで町を冷ましてくれなかった。


 ラジオ体操で知り合った蘇我が、スーパーから帰る途中で熱中症になったという話も思い出した。蘇我は七十六歳で、毎朝六時半には公園へ来て、若い人より深く腰を曲げて体操していた。夏子はその話を聞いたときも、帽子をかぶらずに出かけたのではないか、水を持っていなかったのではないかと、本人の不注意ばかりを探していた。


「蘇我さんも、斎藤さんも、ちゃんと気をつけていたのかもしれないわね。私は自分だけは丈夫だから大丈夫だと、勝手に思っていた」


「家に帰ったら、斎藤さんに電話する?」


「次の訪問日に謝るわ。口には出さなかったけど、軟弱だなんて思ってしまったもの」


「口に出していなくても、おばあちゃんは顔に出るから、たぶん気づかれているよ」


「そんなに分かりやすい顔をしていた?」


「うん。鼻の穴が少し広がって、口がへの字になる」


 夏子は鼻を押さえ、職員たちまで笑っていないか周囲を確かめた。受付では男性職員が電話に応対し、和室では囲碁教室の老人たちが石を置く乾いた音を響かせている。いつもと変わらない区民館の日常が続いていることに安心しながら、夏子はもう一口だけスポーツドリンクを飲んだ。


 そのとき、玄関の自動ドアの向こうで白い光が動いた。先ほど空から降りてきた人影が、区民館の植え込みの前にしゃがんでいる。生成り色の服は土で汚れ、背中にあったはずの翼は消えていたが、両手には一本の細い苗木が握られていた。


「未来、あの人を見て。こんな炎天下に、木を植えようとしているわ」


「本当だ。さっき空にいた人だよ。止めたほうがいいんじゃない?」


「それより、水を持っていってあげましょう。私たちのペットボトルはお湯だけど、ここには冷たい水があるもの」


 夏子が起き上がろうとすると、未来と職員が同時に肩を押さえた。夏子は長椅子へ戻され、麦わら帽子を胸の上へ置いたまま、窓越しに青年を見つめた。青年は焼けた土へ小さなシャベルを差し込み、誰に見られているかも気にせず、黙々と穴を掘っていた。


「地球がおこですよ!」


 夏子が突然大きな声を出すと、未来は団扇を止めて目を丸くした。受付の職員も、囲碁教室の老人たちも、何事かとこちらを振り返った。夏子は保冷剤を首へ押し当てながら、窓の外の青年と、その手にある緑の苗木を指さした。


「だから、あの人は木を植えているのかもしれない。地球が本気で怒っているから、これ以上怒らせないようにね」


 青年は夏子の声が聞こえたように顔を上げた。淡い金色の瞳が窓の向こうから夏子を見つめ、その背後で一瞬だけ光の翼が広がった。けれど青年は何も答えず、乾ききった東京の土へ、最初の一本を植え続けていた。



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