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プロローグ 緊急事態発生

プロローグ 緊急事態発生


 午前十一時、東京都板橋区の防災無線が、熱中症への警戒を呼びかけていた。昨夜のゲリラ豪雨で床下まで水につかった住宅では、住民たちが泥水をバケツでかき出しているが、今日は朝から気温が三十八度を超えている。雨が去ったあとの道路には湿った土と下水の臭いが残り、濡れた畳や布団を運び出していた老人たちは、一人、また一人と家の中で動けなくなっていた。


 相沢夏子は、その光景を横目で見ながら、青い自転車をこいでいた。七十二歳になっても体力には自信があり、つばの広い麦わら帽子に白い半袖シャツ、薄いカーキ色のズボンという格好は、近所の買い物よりも森林散策へ出かける人のようだった。前籠には、スーパーで買った食パン、卵、鶏もも肉、三割引きのどら焼きが入り、その上に長ねぎの青い部分が突き出していた。


「昔は夏休みになると、朝から夕方まで外を走り回ったものよ。これくらいで家に閉じこもっていたら、体が弱くなっちゃうわ」


 夏子がそう言うと、隣を自転車で走っていた孫の未来は、白い日除け用のパーカーの袖で額を拭いた。十五歳の未来は、首に冷却用の輪をつけ、背中には水色のリュックを背負っていたが、信号待ちのたびに肩で息をしている。夏子は若いのにだらしがないと思いかけたものの、ハンドルを握る自分の指にも、いつの間にか力が入らなくなっていた。


「おばあちゃん、今日は買い物に来ないでって言ったでしょう。私一人で大丈夫だったのに」


「卵と長ねぎを一緒に買うと、自転車の籠の中でけんかするのよ。あなたは籠への入れ方が雑だから、卵が割れるでしょう」


「それ、一年前に一個割っただけだよ。しかも、帰ってから卵焼きにして食べたじゃない」


 夏子は反論しようとしたが、開いた口から言葉が出てこなかった。目の前の信号は赤なのか青なのか、色が白い光の中へ溶けて見え、耳の奥では遠くの水道管が鳴っているような音が続いている。自転車のタイヤが歩道の縁石へ触れた瞬間、夏子の体は左へ大きく傾いた。


「おばあちゃん!」


 未来が夏子の腕をつかみ、自転車ごと倒れるのを防いだ。夏子は足を地面につけたつもりだったが、靴底の下にあるアスファルトが柔らかく揺れているように感じられた。喉には綿でも詰められたような違和感があり、胸元に汗をかいているのに、両腕の皮膚は乾いて熱を持っていた。


「ちょっと待って。これは、いつもの立ちくらみとは違うわね」


「違うわね、じゃないよ。顔が真っ赤だよ。すぐ日陰へ行こう」


「帽子もかぶっているし、朝ご飯だって食べたのよ。具のないお味噌汁と、昨日の残りのポテトサラダを食べたわ」


「具のない味噌汁を自慢しないでよ。塩分より先に栄養の心配をして」


 未来は自転車を押し、夏子を歩道橋の下まで連れていった。そこには細長い日陰ができていたが、コンクリートの柱も手すりも熱をため込み、触れると体温より温かかった。頭上を走る車の振動が低く響き、夏子の耳には、その音が水中から聞いているようにぼんやりと届いた。


 歩道橋の階段の脇には、昨夜の雨で流されてきた枯れ葉と、片方だけの子ども用サンダルが引っかかっていた。近くの家では床下浸水の片づけが続き、泥で汚れた割烹着を着た女性が、濡れた新聞紙を袋へ詰めている。救急車のサイレンが聞こえたと思うと、その向こうからも別のサイレンが重なり、夏子は額の汗をぬぐう手を止めた。


「また救急車だね。今日、これで何台目だろう」


「昨夜は水が家へ入って、今日は家の中で熱中症。片づけなければ暮らせないのに、片づけたら倒れるなんて、どうすればいいのかしら」


「学校からも外へ出るなって通知が来たよ。体育館の冷房が故障して、部活も全部中止だって」


「学校まで負けたの。私たちのころは、暑ければ窓を開けて、下敷きであおいでいたのよ」


 未来は返事をせず、リュックの中から凍らせてきたはずのペットボトルを取り出した。家を出るときには白く凍り、表面に霜がついていた水が、今は完全に透明になっている。未来が蓋を開けて一口含むと、すぐに顔をしかめて吐き出しそうになった。


「熱い。これ、水じゃなくてお風呂みたい」


「まさか。二時間前まで冷凍庫に入っていたのよ」


 夏子も受け取って口をつけたが、ぬるいという言葉では足りなかった。ペットボトルの水は舌の上で生温かく広がり、渇いた喉を通っても、体の熱を下げてくれる気がしない。夏子は容器を膝の上に置き、アスファルトの道路からゆらゆらと立ち上る陽炎を恨めしそうに眺めた。


「かつてないほど、地球が沸騰している」


「国連の偉い人みたいなことを言っている場合じゃないよ。救急車を呼ぶ?」


「まだ話せるし、どら焼きのことも覚えているから大丈夫よ」


「どら焼きを忘れたら救急車って、判断基準がおかしいよ」


 未来の声は聞こえているのに、言葉の輪郭が耳の中で崩れていった。夏子は一度まばたきをしたが、道路の向こうにある建物が、水の底から見上げたように揺れている。自分はアウトドア好きで、若い人より暑さにも強いと思っていたが、その自信は熱を持った歩道の上で、買い物袋の氷よりも早く溶けていた。


「さて、この緊急事態をどうしましょう」


「どうしましょうじゃないよ。まず横になって。私、近くのコンビニで氷を買ってくる」


「待って。一人にしないで。ちょっとだけ、怖くなってきたわ」


 未来はその言葉を聞くと、自分のパーカーを脱いで地面へ敷いた。いつもなら、自分は年寄り扱いされるほど弱くないと言い張る夏子も、その上へおとなしく腰を下ろした。背中を柱へ預けると、麦わら帽子の内側から汗が流れ、白いシャツの襟を濡らした。


「おばあちゃん、私の名前は?」


「未来。相沢未来、十五歳。数学が苦手で、冷蔵庫のプリンに名前を書いても私に食べられる孫よ」


「そこまで言えるなら意識はあるね。でも、私のプリンを食べたことは忘れていないから」


「冷蔵庫に三日も置いたら、家族共通の財産になるのよ」


「そんな法律、聞いたことない」


 二人が言い合っていると、買い物袋を肩に掛けた女性が足を止めた。薄紫色のワンピースを着た五十代ほどの女性で、袋からは豆腐の角と小松菜が見えている。女性は夏子の赤い顔を見るなりしゃがみ込み、自分の保冷バッグから銀色の保冷剤を取り出した。


「大丈夫ですか。首の横を冷やしてください。救急車を呼びましょうか」


「ありがとうございます。祖母が自転車に乗っていて、急にふらついて」


「今日は外にいるだけでも危ない暑さですよ。私の母も今朝、冷房をつけずに台所へ立っていて倒れかけたんです。電気代がもったいないなんて言っていましたけど、命より高い電気代はありませんからね」


 女性は保冷剤をハンカチで包み、夏子の首へ当ててくれた。冷たさが皮膚へ伝わると、ぼやけていた意識が少しずつ戻り、頭上を走る車の音も、水の中ではなく現実の音として聞こえ始めた。女性の買い物袋から豆腐の水が一滴落ち、乾いた地面へ触れた途端、跡も残さず消えた。


「本当に、今までの夏とは違いますね。私、自分だけは大丈夫だと思っていました」


「みんな、そう思うんですよ。倒れる直前まで、自分はまだ動けるって」


「おばあちゃん、聞いた? 家に帰ったらエアコンをつけて、今日はもう外へ出ないでね」


「分かりました。自転車も押して帰ります。それから、あなたのプリンも食べません」


「そこまで約束してくれるなら、相当具合が悪いね」


 女性が救急相談へ電話をかけてくれている間、夏子は街を見回した。昨夜の水害で濡れた家、強い日差しに照らされる泥、救急車へ運ばれていく白髪の男性、日陰を探して口を開けている一羽のカラスが見えた。人間も動物も建物も、雨と熱の間に挟まれ、逃げる場所を失っているようだった。


 夏子はこれまで、暑さに弱くなったのは年を取ったせいだと思っていた。しかし、自分の老いだけでは説明できない変化が、東京の空気にも、雨の降り方にも、土の乾き方にも起きている。昔と同じ暮らし方を続け、昔の経験だけで判断していれば、本当に命を落とすかもしれなかった。


「未来、帰ったら非常用の水を確認しましょう。冷房が止まったときに行ける場所も調べるわ。自転車で遠くへ行くのも、涼しくなるまではやめます」


「うん。おばあちゃんがそんな素直なことを言うと、明日は雪が降りそう」


「この暑さで雪が降ったら、それこそ緊急事態よ」


 そのとき、歩道橋の影が一瞬だけ白く光った。夏子は太陽の反射だと思ったが、未来は空を見上げたまま動かなかった。雲一つなかった青空の高い場所に、鳥よりも大きな何かが、光る翼を広げて浮かんでいた。


「おばあちゃん、あれ、何だと思う?」


「今度は私だけじゃなく、あなたまで熱中症になったの?」


「違うよ。あの人、空から降りてくる」


 光をまとった人影は、焼けた東京の街を見下ろしながら、ゆっくりと高度を下げていた。その両手には武器も杖もなく、土のついた一本の苗木だけが抱えられている。夏子は首の保冷剤を押さえたまま目を見開き、自分たちの前へ伸びてくる白い光を見つめた。



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