表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/2

後編:正式なお客様として

後編です。これで完結します。

三年前と同じ広間だった。

「わ、私は、この家のためを思って……」

ブリギッテの言い訳も、ゾフィーネの泣き声も、カタリナの耳には入ってこなかった。


先妻の遺産の横領。

カタリナ名義の財産の不正使用。

当主である父の黙認。

証拠はすべて揃っている。

読み上げる声も、うなだれる使用人たちの列も、もう終わりに近い。


カタリナが見ていたのは、広間の床だった。

三年前、エリンが膝をつかされた場所。

暖炉の火など届かない、冷え切った大理石。

盗人と呼ばれ、頬を打たれ、それでもカタリナを庇った少女が、震える手を握りしめていた場所。


あの日、カタリナは見ていることしかできなかった。


「――以上をもって、ブリギッテ夫人には当家からの退去を命じ、横領財産の返還を求めます。そして……」

カタリナは静かに付け加えた。

「三年前、当家が盗人として追放した使用人エリンについて。あの件は、虚偽であったことを、ここに認めます」

ブリギッテが何かを叫んだ。

カタリナは、もう聞いていなかった。



「これで終わりましたな」

「お嬢様は、ようやく自由になられましたわ」


広間が静かになったあと、カタリナはしばらく動けなかった。

勝ったのだと、誰かが言った。

これで自由ですと、誰かが言った。

けれどカタリナの指先は、豪奢なドレスの袖口の中で震えていた。


温かな広間にいるはずなのに、血の通わない指が冷えている。

三年前、エリンからスープの器を受け取った夜と同じ震えだった。

あの夜のスープは温かかった。

差し出してくれた手も、温かかった。


けれど自分は、その手がどこへ追いやられるのかを知らなかった。

知ろうともしなかった。


……ごめんなさい。

あの日、自分が口にした言葉が、今さら喉の奥に戻ってきた。



「エリンを探してちょうだい」

先妻の代から仕え、ブリギッテに遠ざけられていた元家令のマルティンは、屋敷に戻ったその日にそう頼まれた。

「三年前、追われた娘ですね?」

「ええ」

老家令は、少しだけ間を置いて訊いた。

「助けたいのですか?」

カタリナは、すぐには答えられなかった。


助けたい。

そう言えば、まるで今から間に合うように聞こえてしまう。


「……まず、会いたい」

袖口の中で、指を握った。

「そして、私が何を失わせたのかを、知りたいの」



最初に訪ねたのは、奉公人を扱う斡旋所だった。


古い台帳をめくった係の男は、淡々と言った。

「ああ、シャッフェン伯爵家を七日で追われた娘ですね」

台帳には、短く記されていた。


七日で解雇。

食料窃盗の疑い。

紹介状なし。

信用不可。


「盗みの噂がありましたから、屋敷奉公は無理でした。どこも雇いませんよ、そういう娘は」


盗んでいない。

エリンは盗んでいない。

それを知っていた。

それなのに自分は三年間、その名を返せなかった。


台帳の上の短い文字が、エリンの三年をどれだけ塞いだのか。

カタリナはそれを、初めて、記録ではなく重さとして知った。



次に訪ねたのは、下町の洗濯場だった。


女主人はグレーテという名の老婆で、貴族の来訪にも眉ひとつ動かさなかった。

「エリン……? ああ、いたよ。細い子だったよ」

湯気の向こうで、太い腕を組む。

「冬の水で、手なんかすぐ裂けてね。血の混じった水で洗うんじゃないよって、何度叱ったか」


カタリナの喉が詰まった。


「それでも、針仕事は妙に丁寧だった。誰かの袖を直したことがあったのかね」


カタリナは自分の指を見た。

あの夜、エリンはこの指に布を巻いてくれた。

破れた袖に、針を通してくれた。

もつれた髪を、痛くないように梳いてくれた。


その手が、冬の水で裂けていた。

カタリナは、手袋の中で指を握りしめた。



エリンの家族のことは、教会で聞いた。


父は、エリンが追放された冬を越えられなかった。

母はその冬を越した。

けれど、翌年に亡くなっていた。


「あの子の母親はね、最後まで娘を責めなかったよ」

教会の老女は、そう言った。

「手紙を残していてね。娘さんが、あとで取りに来た。――おまえが働いてくれたから冬を越せた、自分を責めるな、弟と妹を頼む、けれどおまえもちゃんと生きなさい、って」


掠れた老女の声が、教会の高い天井に吸い込まれていった。


母は、娘を責めなかった。

その優しさが、かえってカタリナの胸を刺した。


せめて自分を責めてくれていれば、まだよかったのかもしれない。

あの子を傷つけたのはあなたですと、誰かがはっきり罪の名を告げてくれれば、膝をついて謝ることもできた。


けれど、エリンの母は誰も責めなかった。

ただ娘に、生きなさいと残した。

その言葉の前で、カタリナに返せるものは何もなかった。



弟と妹の消息は、マルティンが調べた。


弟は、隣街の靴職人の親方のもとで見習いをしている。

靴職人。

その言葉に、カタリナはなぜか息を止めた。

三年前、エリンは弟の靴を買うはずだった。

その冬靴を買えなかった弟が、今は靴を作る側にいる。

救いのようで、痛みのようでもあった。


妹は、教会の口利きで小さな商家に奉公している。

ふたりとも、生きている。


エリンも消息は掴んでいるらしい。

けれど、会いに行くには旅費も、身元を示すものも要る。

まだ、一緒には暮らせていない。


「お迎えになりますか? 当家で引き取ることも――」

「いいえ」

カタリナは首を振った。

「会いに行くかどうかは、エリンが決めることよ」

それを自分が決めれば、また同じことになる。

エリンの人生を、屋敷の都合で動かすことになる。

「馬車と紹介状だけ、用意しておいて」



エリンは今、下町の小さな繕い屋で働いているという。


洗濯場から針仕事を覚え、腕を買われて、店の一角を任されるようになった。

裕福ではない。

けれど、倒れてもいない。


カタリナは、店の外でマルティンを待たせ、質素な外套でその店を訪ねた。


戸を開けると、鈴が小さく鳴った。

奥の作業台で少女が布を畳んでいた。

背筋は伸びている。

服は質素だが清潔だった。

そして、その手が布の上で止まった。


カタリナはその手を見た。

三年前、自分のひび割れた指に布を巻いてくれた、小さな手。

温かいスープの器を差し出してくれた、震えていない手。


その手は今、指の節が固くなり、爪の際が荒れ、針だこが薄く盛り上がっていた。


カタリナが声を出せないうちに、エリンが顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

静かな声だった。

冷たくはない。

けれど、遠い。


「お直しですか。お洗濯ですか」

「エリン……」

エリンは、少しだけ間を置いた。

それから、まっすぐにカタリナを見て言った。


「カタリナ様。私はもう、あなたのメイドではありません」

その呼び方だけは、三年前のままだった。

けれど、その声音はもう、メイドが主へ向けるものではなかった。



「ごめんなさい」

カタリナは、頭を下げた。


「あの日、私はあなたを守れなかった」

エリンは針を置いた。

その手つきは丁寧だった。

丁寧すぎて、拒まれているのだと分かった。


「カタリナ様のせいではありません」

三年前と、同じ言葉だった。

けれど、続きがあった。

「――昔は、そう言うしかありませんでした」

針を置いた指先が、ほんの少しだけ動いた。

「そう言えば、全部が収まるのだと思っていました」


カタリナは、顔を上げられなかった。


「お嬢様を助けたことを、間違いだったとは思っておりません」

エリンの声は、揺れなかった。

「けれど……後悔していないと言えば、嘘になります」


「父は、私を誤解したままでした」

怒鳴らなかった。


「母の薬代は、何度も足りませんでした」

泣かなかった。


「弟の靴も、妹の肩掛けも、買えませんでした」

ただ、事実だけを置いていった。


「次の屋敷にも、行けませんでした。盗みをした娘だと、言われましたから」

そのひとつひとつが、深く刺さった。


「謝ってほしかったわけでは、ありません」

エリンは、そこで初めて、わずかに息を吸った。

「でも……何もなかったことにされるのは、嫌でした」



許してほしい。

その言葉が、喉まで上がってきた。

けれどカタリナは、止めた。


許してほしいと願うことさえ、今の自分には身勝手なのだと、ようやくわかった。

許すかどうかを決めるのは、自分ではない。

許されたいと願うこともまた、エリンに何かを背負わせることなのだ。


カタリナは、代わりに言った。

「許してほしいとは、言わない」

エリンの目が、わずかに動いた。

「けれど、あなたの名前を、盗人のままにはさせない」

カタリナは、携えてきた包みから書類を取り出し、作業台の端に置いた。


エリンが盗みをしていないことを示す伯爵家の印入りの訂正文書。

正式な謝罪書。

斡旋所への訂正通知。

証言者の署名。

推薦状。

弟妹の消息を記した書面。

そして、繕い仕事への正式な発注書。


「受け取るかどうかは、あなたが決めて。必要でなければ、捨ててもいい」


カタリナは、静かに続けた。

「これは、償いにもならないと思う……けれど、あなたが盗人ではないことだけは、私に否定させて」

書類の白さが、かえって頼りなく見えた。

「弟さんや妹さんの前で、あなたが堂々と自分の名を名乗れるようにすることだけは……私にさせてほしい」


エリンは、すぐには手を伸ばさなかった。

書類の束を、静かに、けれど逃げずに見つめていた。

長い沈黙のあと、エリンは言った。

「遅すぎます」


カタリナはうなずいた。

「ええ」

「でも――遅すぎるから要らない、とは言えません」

エリンの手が、書類の上に置かれた。

針だこの浮いた、荒れた手だった。

「私はもう、意地を張って家族を飢えさせるような子どもでは、ありませんから」



「弟さんは、靴職人の見習い。妹さんは、商家で無事に働いているわ」

エリンの手が、かすかに揺れた。

「会いに行くかどうかは、あなたが決めて。必要なら、馬車と紹介状だけ、用意するわ」


エリンは何も言わなかった。

ただ、書類の上の手に、少しだけ力がこもった。

その沈黙だけで、カタリナには十分だった。



「それから、これは施しではなく、依頼よ」

カタリナは言った。


「シャッフェン家の衣類の繕いを、あなたの店にお願いしたいの。代金は相場で払うわ。納期も、受けるかどうかも、あなたが決めていい」


エリンは即答しなかった。

書類でも、カタリナの顔でもなく、自分の作業台を見た。

職人の目だった。

「……店主に、相談します」

それだけ言った。


喜んではいない。

拒んでもいない。

それでいい、とカタリナは思った。



カタリナは戸口へ向かった。

エリンは、もう針を手に取っていた。

布に目を落とし、仕事に戻ろうとしていた。


それでいい。

許されたわけではない。

ただ、必要なものを置いていくことだけは、できた。


戸に手をかけたとき。

布の上で、エリンの手が、止まった。

「カタリナ様」

カタリナは、振り返った。


三年前、エリンは振り返らなかった。

今、カタリナが振り返る。

エリンは、少し間を置いて言った。

「次は、正式なお客様として、いらしてください」


目の奥が熱くなった。

けれど、泣いてはいけない。

ここで泣けば、許されたように見えてしまう。

泣けば許される、という甘えは、もう捨てなければならない。

カタリナは、深く頭を下げた。

「ええ……必ず」



戸口に立つカタリナの背中に、今度はエリンの視線があった。

三年前、エリンは振り返らなかった。

カタリナは、見ていることしかできなかった。


今も、すべてが戻ったわけではない。

許されたわけでもない。


それでも――


振り返ったカタリナの視線と、エリンの静かな視線が、初めて、同じ高さで交わった。


下町の路地を抜ける風が、カタリナの質素な外套を揺らした。

店の扉の向こうで、針が布を通る小さな音がする。


カタリナはもう一度だけ深く頭を下げ、それから、うつむかずに歩き出した。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


少し苦い結末ではありますが、エリンとカタリナがそれぞれの場所で歩き出す物語として書きました。


面白かった、印象に残ったと思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
全て遅かったかもしれないけど、この先立派な領主になればエリンも我が子にカタリナを助けたことがあると胸を張って語れる日がくるかもしれない。 そういえば黙認してた父親はどうなるんだろ。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ