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前編 まっさらな名前を失った日

前後編の短編です。

理不尽な境遇に置かれた令嬢と、その令嬢を庇った小さなメイドのお話です。

エリンがシャッフェン伯爵家の門をくぐったのは、十三歳の冬の初めだった。


荷物は、母が古い布で縫ってくれた小さな包みひとつ。

中には替えの服と、一本の麻紐が入っている。

家を出る前の晩、弟の足に当てて測った紐だ。

初めての給金をもらったら、穴の開いていない冬靴を買って帰る。

そう決めていた。


手首には、妹が「お守り」と言って巻いてくれた安物の糸。

本当は、妹にこそ暖かい肩掛けを買ってやりたかった。


母の薬代。

弟の靴。

妹の肩掛け。

ここで一年勤め上げれば、きっと何とかなる。

エリンはそう信じて、大きな門を見上げた。



屋敷は広く、使用人は多く、仕事は途切れなかった。

けれど、すぐにエリンは奇妙なことに気づいた。


使用人たちが、二階の奥のひと部屋だけを避けている。


その部屋へ運ばれる盆だけ、明らかに違った。

スープは薄く、冷めている。

パンは硬く、皿は縁の欠けた古いものだった。

誰も、それを不思議がらない。


「あの、あのお部屋のお食事……」

言いかけたエリンの袖を、古参のメイドが引いた。

「あの部屋には近づかない方がいいよ」

「でも、お嬢様のお部屋ですよね?」

「だからだよ」


それきり、古参メイドは背を向けた。

エリンは、袖を引かれた手の強さだけを覚えていた。



出会いは、奉公三日目のことだった。

掃除の順路を間違えたエリンは、開いた扉の隙間から、その部屋を見てしまった。


冷えた部屋の、机の前。

古びたドレスの少女が、冷え切ったスープを飲もうとしていた。


手が震えていた。

空腹のせいだと、エリンにはすぐわかった。

弟妹が腹を空かせたときの手と、同じ震え方だったから。


なのに、スプーンを持つ指先だけは美しかった。

音を立てず、こぼさず、背筋を伸ばして。

震える手で、それでも所作だけは崩さない。


「あなたは、新しく来た子ね」

弱い声だった。

けれど、この屋敷で聞いたどの言葉よりも、静かで、きれいだった。


カタリナ・シャッフェン。

この家の、先妻の娘。


「ここへは、あまり来ない方がいいわ。奥様に知られたら、あなたまで叱られてしまうから」


追い払う言葉なのに、責める響きがひとつもなかった。

エリンは頭を下げて、部屋を出た。

出たあとも、震える手が目の奥から消えなかった。



その夜、厨房の隅に、余ったパンとスープが残っていた。


持ち出してはいけない。

それは知っている。

見つかれば叱られる。

奉公先を失うかもしれない。


母の薬代。

弟の靴。

妹の肩掛け。

手首の糸に、エリンは何度も指で触れた。


それでも、足が動いてしまった。


――今日だけ。

今日だけなら、きっと誰にもわからない。


扉を叩くと、カタリナは目を見開いた。

「だめよ。あなたが困るわ」

そう言いながら、視線は温め直したスープから離れなかった。


長い沈黙のあと、細い手が器を受け取った。

毒でも飲むように、一度きつく目を閉じてから、パンを口に運ぶ。


そして、小さく言った。

「……ごめんなさい」


エリンは、その言葉の意味を深く考えなかった。

考えなかったことを、あとになって何度も思い出すことになる。



それからも、エリンはカタリナの部屋へ通った。


パンを少し届ける。

冷めたスープを温め直す。

破れた袖に針を通す。


ある夜、エリンはカタリナの指先に布を巻いた。


「痛みますか?」

「いいえ。これくらい平気よ」


カタリナはそう言って微笑もうとした。

けれど、ひび割れた指先は赤く腫れていた。


エリンは、冬になるたびに母の手が荒れていたことを思い出した。


弟の足に麻紐を当てた夜、妹が寒くないと笑った顔も思い出した。


どうして、この方は、痛いと言うことまで遠慮してしまうのだろう。

そう思いながら、エリンは布の端を結んだ。



次の夜。

エリンはカタリナの髪を梳いた。


本当なら、伯爵令嬢の髪に新人メイドが触れてよいはずもない。

けれど、長く手入れされなかった髪はところどころ絡まり、櫛を入れるたびに細い肩が小さく揺れた。


「痛みますか?」

「少しだけ。でも、平気よ」

そう言う声まで、カタリナは丁寧だった。


エリンは、弟妹の髪を梳いた夜を思い出した。

母が寝込んだ日、妹の髪を結んでやったこと。

弟が退屈して、途中で逃げ出したこと。


こんな大きなお屋敷の令嬢なのに。

どうして、この方の髪を梳く人がいないのだろう。

そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


「もう来てはだめよ」

「でも、カタリナ様は昨日もほとんど召し上がっていません」

「……それでも、だめなの」


カタリナは止める。

けれど、扉に鍵はかけなかった。

エリンも怖かった。

行くたびに、廊下の足音に息を止めた。

それでも、行かない夜のことを考えると、もっと怖かった。



「あんた、あのお嬢様のところへ行ってるね」


古参メイドに呼び止められたのは、六日目の夕方だった。


「……はい」

「やめな。あの方に親切にした人間は、ただ追い出されるだけじゃないよ」


低い声だった。


「盗んだとか、言いつけを破ったとか、そういう噂をつけられる。そうなったら、次の屋敷はない。平民の娘なんて、誰もかばってくれないんだ」


エリンの背が冷えた。

母の薬。

弟の靴。

妹の肩掛け。

包みの底の麻紐が、頭をよぎった。


わかっている。

わかっているのに。

その夜も、冷めた盆が二階へ運ばれていくのを見て、エリンの足は止まってしまった。



七日目の朝だった。


パンと、傷に当てる布を抱えて廊下を曲がったところで、奥様付きの使用人と目が合った。


広間に引き出されたとき、そこには奥様のブリギッテと、異母妹のゾフィーネと、使用人たちが並んでいた。

カタリナも連れてこられていた。


「使用人の分際で、この家の決定に逆らっただけでは飽き足らず、食べ物まで盗むなんて」


盗む。

その言葉にエリンは顔を上げた。

違う。

盗んだんじゃない。

ただ……。


けれど、厨房のものを黙って持ち出したのは事実だった。

喉が何も押し出せなかった。


「平民の娘は、やはり卑しいのね」


ブリギッテの声は、少しも荒げられていないのに、氷のように冷たかった。

ゾフィーネは、面白いものを見るように、扇の陰で口元をゆるめていた。


そのとき、震える声がした。

「違います。エリンは、私に……」

カタリナだった。

青ざめた顔で、それでも一歩、前へ出ようとしていた。


言わせてはいけない。

エリンは、考えるより先に遮っていた。


「カタリナ様に頼まれたのではありません」

ブリギッテが、ゆっくりと笑った。

「そう。では、お前が勝手に盗んだのね」


エリンは、自分の言葉が落ちていく音を聞いた気がした。

カタリナを守るための言葉が、そのまま、自分を盗人にする言葉になった。



使用人たちの前で、エリンは膝をつかされた。

頬を打たれた。

盗人、と呼ばれた。

謝罪の言葉を言わされた。


給金は払わない。

紹介状も出さない。

ブリギッテはそれだけ告げて、扇を閉じた。


使用人たちの列の中に、六日目に忠告してくれた古参メイドがいた。


あの人は、知っていたのだ。

こうなることを。


エリンは助けを求めたわけではなかった。

ただ、目が合えば、何かが返ってくる気がした。


けれど古参メイドは、エリンと目を合わせなかった。

床の模様を見つめたまま、唇を固く結んでいた。


そのときエリンは、自分が本当に一人なのだと知った。


カタリナだけが、逸らさずに見ていた。

見ていることしか、できずにいた。



荷物をまとめるのに、時間はかからなかった。

七日しかいなかった屋敷に、置いたものなど何もない。


母の縫った布包み。

替えの服。

妹の糸。

そして包みの底から、一本の麻紐が出てきた。


弟の足を測った紐。

エリンはそれを見て、ようやくわかった。


母の次の薬は、もう買えない。

薬屋の棚の前で、あと何枚銅貨が足りないのか数える母の姿が浮かんだ。


弟は、穴の開いた靴のまま冬を迎える。

雪の日、足の指を丸めて歩く弟の姿が浮かんだ。


妹に約束した肩掛けも、買えない。

「寒くない」と笑って、薄い布を肩に寄せる妹の顔が浮かんだ。


伯爵家に雇われたと喜んでくれた父に、七日で追い出されたと言わなければならない。

しかも、ただ追い出されたのではない。

盗んだ娘として。


給金なし。

紹介状なし。

盗人の噂つき。

十三歳の平民の娘に、次の屋敷は、たぶんもうない。


失ったのは職ではなかった。

その麻紐は、もう弟の靴にはつながらない。



門の前まで、カタリナは来た。

「ごめんなさい、エリン。私のせいで……」

泣いていた。


「違います。カタリナ様のせいではありません」

反射のように言葉が出た。

そう言わなければならないと思った。

そう思いたかった。


けれど、エリンは顔を上げられなかった。

顔を上げれば、泣いてしまう。

泣けば――カタリナ様のせいだと、思ってしまうかもしれない。


だからエリンは、最後までカタリナの顔を見なかった。

背を向けたまま、言った。

「カタリナ様。どうか、生きてくださいませ」


背中に、カタリナの視線を感じた。

けれど、その視線に応えれば、きっと何かが壊れる。

エリンは振り返らなかった。

振り返れば泣いてしまう。

泣けば、カタリナ様のせいだと思ってしまう。

自分の中に生まれかけた、小さな恨みの火種が燃えてしまう。


だからエリンは、腫れた頬を隠すようにうつむいて、シャッフェン伯爵家の門を出た。

奉公に来て、七日目の朝だった。


その日、エリンは職を失った。

家族へ持ち帰るはずだった小さな冬支度を失った。


そして――どこの屋敷にも持っていけるはずだった、まっさらな名前を失った。


お読みいただきありがとうございます。


後編で完結します。

エリンとカタリナが三年後にどう向き合うのか、最後まで見届けていただければ幸いです。

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