前編 まっさらな名前を失った日
前後編の短編です。
理不尽な境遇に置かれた令嬢と、その令嬢を庇った小さなメイドのお話です。
エリンがシャッフェン伯爵家の門をくぐったのは、十三歳の冬の初めだった。
荷物は、母が古い布で縫ってくれた小さな包みひとつ。
中には替えの服と、一本の麻紐が入っている。
家を出る前の晩、弟の足に当てて測った紐だ。
初めての給金をもらったら、穴の開いていない冬靴を買って帰る。
そう決めていた。
手首には、妹が「お守り」と言って巻いてくれた安物の糸。
本当は、妹にこそ暖かい肩掛けを買ってやりたかった。
母の薬代。
弟の靴。
妹の肩掛け。
ここで一年勤め上げれば、きっと何とかなる。
エリンはそう信じて、大きな門を見上げた。
◇
屋敷は広く、使用人は多く、仕事は途切れなかった。
けれど、すぐにエリンは奇妙なことに気づいた。
使用人たちが、二階の奥のひと部屋だけを避けている。
その部屋へ運ばれる盆だけ、明らかに違った。
スープは薄く、冷めている。
パンは硬く、皿は縁の欠けた古いものだった。
誰も、それを不思議がらない。
「あの、あのお部屋のお食事……」
言いかけたエリンの袖を、古参のメイドが引いた。
「あの部屋には近づかない方がいいよ」
「でも、お嬢様のお部屋ですよね?」
「だからだよ」
それきり、古参メイドは背を向けた。
エリンは、袖を引かれた手の強さだけを覚えていた。
◇
出会いは、奉公三日目のことだった。
掃除の順路を間違えたエリンは、開いた扉の隙間から、その部屋を見てしまった。
冷えた部屋の、机の前。
古びたドレスの少女が、冷え切ったスープを飲もうとしていた。
手が震えていた。
空腹のせいだと、エリンにはすぐわかった。
弟妹が腹を空かせたときの手と、同じ震え方だったから。
なのに、スプーンを持つ指先だけは美しかった。
音を立てず、こぼさず、背筋を伸ばして。
震える手で、それでも所作だけは崩さない。
「あなたは、新しく来た子ね」
弱い声だった。
けれど、この屋敷で聞いたどの言葉よりも、静かで、きれいだった。
カタリナ・シャッフェン。
この家の、先妻の娘。
「ここへは、あまり来ない方がいいわ。奥様に知られたら、あなたまで叱られてしまうから」
追い払う言葉なのに、責める響きがひとつもなかった。
エリンは頭を下げて、部屋を出た。
出たあとも、震える手が目の奥から消えなかった。
◇
その夜、厨房の隅に、余ったパンとスープが残っていた。
持ち出してはいけない。
それは知っている。
見つかれば叱られる。
奉公先を失うかもしれない。
母の薬代。
弟の靴。
妹の肩掛け。
手首の糸に、エリンは何度も指で触れた。
それでも、足が動いてしまった。
――今日だけ。
今日だけなら、きっと誰にもわからない。
扉を叩くと、カタリナは目を見開いた。
「だめよ。あなたが困るわ」
そう言いながら、視線は温め直したスープから離れなかった。
長い沈黙のあと、細い手が器を受け取った。
毒でも飲むように、一度きつく目を閉じてから、パンを口に運ぶ。
そして、小さく言った。
「……ごめんなさい」
エリンは、その言葉の意味を深く考えなかった。
考えなかったことを、あとになって何度も思い出すことになる。
◇
それからも、エリンはカタリナの部屋へ通った。
パンを少し届ける。
冷めたスープを温め直す。
破れた袖に針を通す。
ある夜、エリンはカタリナの指先に布を巻いた。
「痛みますか?」
「いいえ。これくらい平気よ」
カタリナはそう言って微笑もうとした。
けれど、ひび割れた指先は赤く腫れていた。
エリンは、冬になるたびに母の手が荒れていたことを思い出した。
弟の足に麻紐を当てた夜、妹が寒くないと笑った顔も思い出した。
どうして、この方は、痛いと言うことまで遠慮してしまうのだろう。
そう思いながら、エリンは布の端を結んだ。
◇
次の夜。
エリンはカタリナの髪を梳いた。
本当なら、伯爵令嬢の髪に新人メイドが触れてよいはずもない。
けれど、長く手入れされなかった髪はところどころ絡まり、櫛を入れるたびに細い肩が小さく揺れた。
「痛みますか?」
「少しだけ。でも、平気よ」
そう言う声まで、カタリナは丁寧だった。
エリンは、弟妹の髪を梳いた夜を思い出した。
母が寝込んだ日、妹の髪を結んでやったこと。
弟が退屈して、途中で逃げ出したこと。
こんな大きなお屋敷の令嬢なのに。
どうして、この方の髪を梳く人がいないのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「もう来てはだめよ」
「でも、カタリナ様は昨日もほとんど召し上がっていません」
「……それでも、だめなの」
カタリナは止める。
けれど、扉に鍵はかけなかった。
エリンも怖かった。
行くたびに、廊下の足音に息を止めた。
それでも、行かない夜のことを考えると、もっと怖かった。
◇
「あんた、あのお嬢様のところへ行ってるね」
古参メイドに呼び止められたのは、六日目の夕方だった。
「……はい」
「やめな。あの方に親切にした人間は、ただ追い出されるだけじゃないよ」
低い声だった。
「盗んだとか、言いつけを破ったとか、そういう噂をつけられる。そうなったら、次の屋敷はない。平民の娘なんて、誰もかばってくれないんだ」
エリンの背が冷えた。
母の薬。
弟の靴。
妹の肩掛け。
包みの底の麻紐が、頭をよぎった。
わかっている。
わかっているのに。
その夜も、冷めた盆が二階へ運ばれていくのを見て、エリンの足は止まってしまった。
◇
七日目の朝だった。
パンと、傷に当てる布を抱えて廊下を曲がったところで、奥様付きの使用人と目が合った。
広間に引き出されたとき、そこには奥様のブリギッテと、異母妹のゾフィーネと、使用人たちが並んでいた。
カタリナも連れてこられていた。
「使用人の分際で、この家の決定に逆らっただけでは飽き足らず、食べ物まで盗むなんて」
盗む。
その言葉にエリンは顔を上げた。
違う。
盗んだんじゃない。
ただ……。
けれど、厨房のものを黙って持ち出したのは事実だった。
喉が何も押し出せなかった。
「平民の娘は、やはり卑しいのね」
ブリギッテの声は、少しも荒げられていないのに、氷のように冷たかった。
ゾフィーネは、面白いものを見るように、扇の陰で口元をゆるめていた。
そのとき、震える声がした。
「違います。エリンは、私に……」
カタリナだった。
青ざめた顔で、それでも一歩、前へ出ようとしていた。
言わせてはいけない。
エリンは、考えるより先に遮っていた。
「カタリナ様に頼まれたのではありません」
ブリギッテが、ゆっくりと笑った。
「そう。では、お前が勝手に盗んだのね」
エリンは、自分の言葉が落ちていく音を聞いた気がした。
カタリナを守るための言葉が、そのまま、自分を盗人にする言葉になった。
◇
使用人たちの前で、エリンは膝をつかされた。
頬を打たれた。
盗人、と呼ばれた。
謝罪の言葉を言わされた。
給金は払わない。
紹介状も出さない。
ブリギッテはそれだけ告げて、扇を閉じた。
使用人たちの列の中に、六日目に忠告してくれた古参メイドがいた。
あの人は、知っていたのだ。
こうなることを。
エリンは助けを求めたわけではなかった。
ただ、目が合えば、何かが返ってくる気がした。
けれど古参メイドは、エリンと目を合わせなかった。
床の模様を見つめたまま、唇を固く結んでいた。
そのときエリンは、自分が本当に一人なのだと知った。
カタリナだけが、逸らさずに見ていた。
見ていることしか、できずにいた。
◇
荷物をまとめるのに、時間はかからなかった。
七日しかいなかった屋敷に、置いたものなど何もない。
母の縫った布包み。
替えの服。
妹の糸。
そして包みの底から、一本の麻紐が出てきた。
弟の足を測った紐。
エリンはそれを見て、ようやくわかった。
母の次の薬は、もう買えない。
薬屋の棚の前で、あと何枚銅貨が足りないのか数える母の姿が浮かんだ。
弟は、穴の開いた靴のまま冬を迎える。
雪の日、足の指を丸めて歩く弟の姿が浮かんだ。
妹に約束した肩掛けも、買えない。
「寒くない」と笑って、薄い布を肩に寄せる妹の顔が浮かんだ。
伯爵家に雇われたと喜んでくれた父に、七日で追い出されたと言わなければならない。
しかも、ただ追い出されたのではない。
盗んだ娘として。
給金なし。
紹介状なし。
盗人の噂つき。
十三歳の平民の娘に、次の屋敷は、たぶんもうない。
失ったのは職ではなかった。
その麻紐は、もう弟の靴にはつながらない。
◇
門の前まで、カタリナは来た。
「ごめんなさい、エリン。私のせいで……」
泣いていた。
「違います。カタリナ様のせいではありません」
反射のように言葉が出た。
そう言わなければならないと思った。
そう思いたかった。
けれど、エリンは顔を上げられなかった。
顔を上げれば、泣いてしまう。
泣けば――カタリナ様のせいだと、思ってしまうかもしれない。
だからエリンは、最後までカタリナの顔を見なかった。
背を向けたまま、言った。
「カタリナ様。どうか、生きてくださいませ」
背中に、カタリナの視線を感じた。
けれど、その視線に応えれば、きっと何かが壊れる。
エリンは振り返らなかった。
振り返れば泣いてしまう。
泣けば、カタリナ様のせいだと思ってしまう。
自分の中に生まれかけた、小さな恨みの火種が燃えてしまう。
だからエリンは、腫れた頬を隠すようにうつむいて、シャッフェン伯爵家の門を出た。
奉公に来て、七日目の朝だった。
その日、エリンは職を失った。
家族へ持ち帰るはずだった小さな冬支度を失った。
そして――どこの屋敷にも持っていけるはずだった、まっさらな名前を失った。
お読みいただきありがとうございます。
後編で完結します。
エリンとカタリナが三年後にどう向き合うのか、最後まで見届けていただければ幸いです。




