まじめに聞いてくれ
その翌日、水島のコンビナートで火災が発生した。炎が燃え広がらなかったのが不幸中の幸いともいえるのだが、消火が遅々として進まない様子が夕方のニュースで放送された。
画面上は黒煙がもうもうと立ちこめてはいるものの、炎は比較的狭い範囲に限定されている。といっても、夕暮れで薄暗くなった背景を浮かび上がらせる炎は、なかなか衰えをみせないようだ。
もしかして、これもカレンダーどうりなのだろうかと気が滅入ってくる。
「勘太、おかわりは?」
ぼんやりとテレビに見入っていた目の前に、琴音の手が差し出されていた。
「琴音、おかわり」
俺が返事をするより先に、親父が茶碗をグッと出した。
「はいな。お父さんは健康だねぇ。お母さんは?」
「じゃあ、かるく」
「はいはい、健康の第一歩だからねぇ」
就職してすぐからだから、もう四年になるのだが、琴音は我が家の台所を自由に舞っている。箸も茶碗も湯呑みもすべて持ち込んでいる。俺の弟が金沢で大学生活を始めたことを幸いに、弟の席はいつのまにか琴音のものになっていた。
小学校からの腐れ縁とはいえ、こうして自然に溶け込んでいることは歓迎すべきだろうが、これは琴音流の攻めなのだろう。俺の家族を味方につけ、ともすれば俺の地位さえ脅かしかねない存在となっているのだ。が、今はそれどころではない。テレビが伝えるニュースのほうが気になることだ。
そっと席を立ってカレンダーを確認すると、きっちり書いてある。せめて無印だったなら深刻さが遠のいただろうに、ますます事態が深刻になってきた。
「あった?」
俺の顔色で察したのだろう、琴音がポツリと呟いた。
「なあ、家の者に言うべきだろうな」
かるく頷いた俺は、琴音に家族を連れてくるよう言った。
「なんだ、おい。琴音の家族も呼ぶって……。あぁ、照れくさいから一度ですます魂胆だな? 俺はかまわないけど、やっぱり別々に話すのが筋だろう。でないと、張り合いがなぁ。とにかく、母さん、寿司の出前を注文しておけよ。ちょちょっと髭剃って、背広に着替えてくるから」
「親父、勘違いしていないか? 大事な話なんだけど」
「当たり前だ。いい加減な話じゃないことくらいわかってる。本当は日曜日の昼間に話すことだぞ。まあいいから、琴音、産みの親を連れてきなさい」
親父は完全に勘違いをしているようだった。
「これから大事なことを言うから、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
両家の親を客間に集め、俺は神妙にきりだした。
「ようやくか? えぇ? ようやくその気になったか? 遅いんだよ、なあ前田さん」
「そうそう、しなくていいことはさっさとするくせに、肝心なことは遅いんだから。うかっとしてたら先に子供ができてしまう。はらはらしてたんだぞ」
琴音の父親も、俺の親父とどっこいの慌て者とみえ、勝手に想像して続きを急きたてた。
「そういう話じゃなくて、もっと大事な話なんだけど」
「そういう話より大事な話があるのか? まさか、子供ができたとでも……」
それには俺も琴音も面食らってしまった。
「ちょっとお父さん、どうしてそんなことになるの。私たち……そんなこと……」
「うそをつけ。高校の頃からだろうが。俺だって経験があるんだぞ。それくらいピントくるわ」
高校の頃からって、完全にばれていた。琴音が言い返さないものだから、余計に認めた格好になってしまった。
「経験があるって……、もしかして、高校生なのにまずいことをしていたのですか?」
切り返してはみたが、とても敵う相手ではない。そんなことで時間をむだにするより、話を進めることにした。
「実は、それより切羽詰ったことがあるから、落ち着いて考えてほしいのだけど」
座卓にカレンダーをひろげて、俺はこれまでのいきさつを話してきかせた。
「勘太、お前正気で言っているのか? 元を正せばお前の夢なんだろ?」
親父の疑問はもっともなのだ。誰が考えても同じことを言うだろう。しかし、無理やりにでも信じさせねばいけないと俺は思った。
「そう、俺の夢だ。だけど、何度も言うけど、この赤丸は実際におきているんだ。今日もそう、ちゃんと書いてある」
カレンダーの日付をなぞり、今日のところで指を止めた。
「昨日のお客さん、北海道警察の警視正だそうだ。今も説明したけど、この人は信じてくれている。俺が覚えているのは一ヶ月先のことまでで、そこで大災害がおきるということだ。だから、せめてその前後はどこかへ避難してほしいんだ。現金と通帳と印鑑さえ持っていれば大丈夫だから」
「そんな馬鹿な話を信じろってか? ただの夢だろ?」
親父は、やはり合点がいかぬようだ。それは仕方がない。何を言おうが、元は俺の夢から始まったことだから。
「夢だよ、夢にはちが……」
畳の上で携帯が振るえだした。
「昨日の木下さんからだった。政府の危機管理室が動くそうだよ。朝から説得をしていて、そこにコンビナート火災がおきたから信用する気になったそうだ。空振り覚悟で対策をするそうだけど、俺たちを特別の職員にするって。つまり、手伝えということだ。勤め先を説得するために、朝にはこっちへくるそうだよ」
木下の言葉をかいつまんで皆に聞かせた。
「なんだと? 国がまともに取り合うってのか? だけどなあ勘太、なにも避難までしなくても……」
「気持はわかるけどさ、あの地震が南海地震かもしれない。だとすると東南海地震を誘発し、東海地震を引き起こすかもしれん。それが心配なんだ。三つの地震が連動したら、太平洋岸にはすごい津波が押し寄せる。そうなったら避難しようがなくなるんだからさ」
「そんな、おまえ……。どこへ行けって? 当てはあるのか?」
「そうだな……。幸雄のところがいい。あそこなら町が大きいから収容力がある。それに日本海側だから津波の心配は少ないだろう」
「金沢か?」
「うん。あそこなら穀倉地帯が近いし、海にも近い。飲み水にも困らない」
「まあ、考えてはおくが、何を言い出すかと思ったら……、結婚の話じゃなかったのか」
「勘太、じゃあ聞くが、琴音とのことをどうするつもりだ?」
琴音の父親が辛抱をきらしたように俺を見据えた。
「どうって、いずれ結婚するつもりだけど」
「じゃあ言わせてもらうけど、そんな大きな災害がくるというのなら、ひょっとするとどっちかが死ぬかもしれん。まあ黙って聞け。そうなったら結婚もへったくれもなくなってしまうからな。そんなことなら、順序は違うが仕方がない。すぐにでも籍を入れたらどうだ? 俺はそう考えるのだが、松永さん、あんたどう思う?」
とんでもない話がとびでてきた。が、誰もが結婚自体を咎めていない。というより、俺と琴音がようやく結婚にふみきったと早合点していたようなのだ。琴音に躊躇する気持がないのなら、俺は明日にでも入籍してかまわないとさえ思っている。それを条件に、俺の忠告に耳を傾けてくれるのなら、それでいいのだ。
琴音も、俺の視線を受けてしっかり頷いた。
いつも通りに出勤して、仕事を始めた矢先だった。部長の電話が鳴ると、訝しげな表情で部長が俺を手招きした。何事かと様子を窺う課長にも手招きをして席を立った。
「松永、区長がお呼びだ。何か心当たりがあるか?」
木下が誤解を解いたはずなのに、部長はまだ俺を疑っていた。
「さあ……、悪いことは何もしていませんが、どういうことですか?」
「わからん。だけど、すぐに来るようにと区長が」
俺と部長をかわるがわる見ている課長を連れ、部長は廊下へ出た。
区長室には、木下が待っていた。そして、区長の表情はいつにまして強張っていた。
「松永、君は今日から木下さんのもとへ出向することになった。これが市長からの辞令だ。どんな役目か知らんが、しっかりやってくれ」
木下に向かい合って座っていた区長は、強張った表情のまま机から辞令をとると俺にそれを伝達した。その意味するところを知らない部長と課長は、いったい何がおきているのだろうと、区長と俺をただ黙って見ていた。
「松永は、国の危機管理室へ出向になった。この木下さんが市長から辞令を預かってこられたので、確認したところ本物だった。当面の予定は一ヶ月程度。状況しだいで期間は決められないということしか市長は説明しなかったよ。それで木下さんにお訊ねしているのだが、まだ公表できないとしか……」
なんとも頼りない説明しかできない区長である。
「早急に公表することになりますが、現時点では説明することができません。ご迷惑をおかけしますが、必ず生きたままお返しします。それで勘弁してください」
「失礼ですが、あなたはたしか北海道警察の方でしたね。それがどうして危機管理室と関係があるのですか?」
部長が訝しげに訊ねた。
「私も危機管理室に出向となりました。国家公務員だからしかたのないことですがね。今回、大災害が発生する危険が高まっていますので、その対策をせねばなりません。残り期間のこともあり、松永君に手伝ってもらうこととなりました」
「でも、松永とはほとんど面識がないのでは?」
「ええ、実はそうなのですが、そこはまあ……」
「松永にいったい何をさそうとしているのですか?」
「彼にしてもらうことはたくさんあります。資材調達、書類の退避、まあ、我々で気付かないことを提案してもらうことになっています」
「それだけでは中身がわかりませんよ。市長の辞令があることですから認めますが、どうしても理由は明かせないのですか?」
「いえ、それはかまいません。しかし、漏らせば社会が大混乱します。それを嫌っているのです」
「それがどうして松永なのです? そんなことに首を突っ込んでいるというのですか?」
「そうですよ、彼こそが中心人物です。だから彼には責任があります。……まあ、いいでしょう。ただし、正式に通達があるまでは職員にも秘密にしてくださいますか? いえ、二日か三日後には一斉に通達を出しますが」
「秘密事項なら当然です」
「いいでしょう。では、今日から住民避難の方策をとってください。市外へ、できれば県外へ非難させてください。もし避難が遅れても、他からの援助は期待できないほどの被害が予想されます。猶予期間は一ヶ月。役所機能も同様ですよ、原簿を厳重に保管してください。できれば地下、いや、それはわかりません」
「何を言っているのですか? いったい何があると」
「津波です」
「津波?」
「東南海地震が予想されます。そうなると、太平洋岸は甚大な被害をうけます。人口密集地域はほとんど太平洋に面していますので、なんとか人的被害を食い止めねばなりません。そのために仕事をするのです」
「まさか、そんなことになるなんて」
「誤報なら幸いです。しかし、万一本物だったらどうします?」
「それは、考えたくもありませんが、地震の兆候でもあるのですか?」
「ありません。というより、わかりません。しかし、それを裏付ける兆候がすすんでいます」
「兆候?」
「はい。恐ろしいほどの確率で将来を予測しています。科学的な説明がつかないので、きっと皆さんは笑い飛ばすでしょう。ですが、考えられない確率でさまざまな予測をたて、その通りになっています。ですから、危機管理室としては、それを規定の事実として対応にあたることにしました。とにかく、役所機能を避難する準備をしてください」
言葉は丁寧だが、木下はにこりともせずにそう告げた。
「松永さん、早速ですまないが今から私の指揮下に入ってもらう。気の毒だが、休日は諦めてもらう。し残したことがあれば、今のうちにすませてくれ」
これまで見せたことのない目つきだった。
「じゃあ、今日のうちに婚姻届を出します」
昨日の今日である。琴音を入籍するのに反対する者はいないだろう。それよりも、万一のことを考えると、それが琴音を安心させるだろうし、どちらの親をも安心させることになるだろう。
「そうだな、それが良い。では、他のメンバーを浚いに行こう」
木下は勢いよく立ち上がった。
琴音の勤める病院でも質問が繰り出された。当然のことだ。いくら危機管理室から依頼の電話があったにせよ、本当に国の機関からの依頼だとは思えないだろう。優秀な医師とか看護師の派遣ならともかく、ごく普通の看護師を臨時職員にするというのだから。が、木下は強引にそれを認めさせてしまった。
雅の銀行などは半ばパニックとなった。どうやら新手の詐欺とでも勘違いされたようで、次々に対応する相手が交代し、そのうちに警察官が闖入してきたのだ。木下が身分証明を提示すると口調は丁寧になった。が、木下の提示した身分証は警察官であることを証明したにすぎず、危機管理室の職員を証明するものではない。問い合わせ先を教え、納得させるまでは容疑者扱いである。そして、確認できてからがまた大変だった。何の目的か、なぜ雅でなければいけないのか、なぜ危機管理に銀行員が必要なのか。説明できないことばかりだ。しかし木下は、不同意なら命令書を持って来ると言い放った。
そして遠山の番になった。遺体の身元確認のために必要な要員だということは理解してもらえたのだが、今日の治療をどうするかということになった。もとより名案なんてあるはずがない。といっても、木下にとっては想定内のことだったようだ。雑用をすませ、着替えを用意するように言いつけて市役所へ行ってしまった。
俺は、琴音とともに役所へ戻った。婚姻届を提出するためだ。
そういえば、夢の中にいた俺と琴音は、まだ他人だったような気がする。もしそうだったら夢と違うことをしているのだが、それが今後にどう影響するのだろう。吹けば飛ぶような若造が結婚したところで、未来にとって痛くも痒くもないことだろうか。
ただおもしろいことに、立会人の署名を遠山と雅に頼んだことで、その二人も入籍すると言い出した。どうせ遠からず結婚する気でいたのだから、万一の事態がおきて同じ墓に入れてもらえないでは困ると考えたのだろう。考えることは俺たちと同じだった。
なかば浚われるように木下の指揮下に入れられた俺たちは、それから家へは帰っていない。帰るどころか、拠点を広島に移して働きづめだった。
食品会社に増産を督励し、飲料水メーカーにもフル生産を依頼した。もちろん各自治体にも食料と飲料水の備蓄を督励した。建設資材を買い漁って内陸部の集積地に輸送するよう手配し、必要と考えられる資材をとにかく買い集めたし、建設機材の確保もすすめた。。
特に、国内の巨大タンカーには精製された石油が積み込まれ、中小のタンカーだけでなく、貨物船をも動員して燃料を確保する対策がとられた。
喫水を深く沈めたタンカーは、日本海側の石油基地に油を運び、流失防止に大わらわである。
いまさら慌てたところで石油タンクを固定することなどできるものではないが、太平洋に面した地域に石油基地がかたまっているのである。燃料の流失もさることながら、漂流する石油タンクによる火災を防ぐことが急務とされた。
そういったことの計画や進捗状況の把握が俺たちの仕事だった。
俺たちが電話応対に追われている時、中央では別の狙いが進行していたらしい。
それは理由付けであり、権威付けだった。
しかし、緊急に地震学者を集めて会議を開き、現在得られる情報だけで地震の予測をさせたのだが、国と学者の姿勢の違いが鮮明になってしまった。地震予知については学者の研究に期待するしかないのが国の立場なのだが、学者というものは、自分の研究課題に興味があるだけで、決して予知のために研究してなどいないのだ。では、長年にわたって莫大な予算をつぎこんできたのは何だったのかということになる。それを指摘されても、まずは地震の仕組みを解明することが先だとシャアシャアと言ってのけるのが学者だ。そして二言目には過去の記録をもちだして、何年以内に大地震の可能性があると煽りたてる狡猾な生き物なのだ。過去のデータから推測するのは統計でしかない。それでも、不安を煽ることで予算を獲得しようとするのだからたいしたものだ。
もちろんそれを見越して、別の手立ては同時進行で動いていた。
その作業が始まって、初めて国民に対する注意喚起がなされたのだ。
それは、総理大臣の緊急発表というかたちで行われた。
自然災害の前に人は無力であることを正直に伝え、可能なかぎり被災予想地域から離れろという内容である。すると、マスコミから猛烈な批判が噴出した。
膨大な予算を投じて防災施設を建設したのは意味があったのかと。それには政府与党が必死に弁解をしたのだが、それならどうして避難の必要があるのかと食い下がられる。そして多くの地震学者の見解が報じられた。
学者の立場からすれば、何の兆候も掴んでいない状況からして首相の見解には反対である。一方で、地震などおきないと断じる勇気もない。そこで、例によって統計をもちだしてあやふやな弁解に終始せざるを得ないのである。
もう一派、やっかいな者たちがいた。それは議員勢力である。
災害が予測できるのなら、それを阻止する努力をしなければいけないと言い立てたのだ。そして、弱者への配慮がなされていないことをも追求した。それには与党も野党も関係なく、政府の暴走を非難するものだった。しかし、太平洋岸全域に対し、いったいどんな手立てを講じることができるだろうか。自力で生き延びることを求めるしかないのだ。
そして、当然のことにテレビが連日騒ぎたてた。
テレビへの対応は危機管理室長がしてくれたのだが、政府発表の出所や確度を追求される。
確実なことなど何もない世を生きているというのに、不確かな未来予測の確立を追及する姿勢に、俺は嫌気がさしていた。
笑いたければ笑えばいい。信用しなくてもいい。案外空騒ぎに終わるのかもしれない。しかし、これまでの出来事が夢のとおりにおきていることをどう考えるのだろうか。
そして、知識人を招いた特番で政府の対応を批判し始めたのだ。
燃料移送による一時的燃料不足。インスタント食品を国が買い占めたことによる不自由。土木機械不足によるリース料の高騰。建設資材の高騰。
また一方では政府勧告を受け止めて避難を決めた人の収容先を用意せねばならなかったし、銀行窓口の大混雑も発生した。銀行に供給する現金だって巨額にのぼるのだが、政府には緊急で用意できる資金などありはしない。とどのつまりが、政府発行貨幣の大増産によって紙幣に換金するしかなかった。
結局のところ、政府の勧告に従ったのは三割ほどの人々だった。その三割の中には、夏休みを利用して帰省する者も含まれている。残る七割はそのまま日常生活を続けていた。
俺と琴音は、その間ずっと連絡係をさせられていた。上から指示されたことを該当する連絡事務所に伝え、進捗状況をまとめるのが仕事だった。一日、また一日と時間だけは確実に減ってゆく。そして増えるのは社会生活への悪影響を非難する声であった。
遠山は、沖縄から北海道までの沿海部を対象に、歯の治療データを集めさせている。そして雅は、データの集積管理をしていた。
カレンダーは七月の最後になった。残すところ一週間に満たないというのに、世間は常とかわらぬ営みを改めようとしない。それどころか政府の失敗を揶揄するような番組ばかりになってきた。若手芸人が無責任な笑いを煽り、テレビ局に都合の良いコメントを語る学者がそれをまことしやかに肯定する。番組に呼び出された室長は、完全に道化者にされていた。
危険を訴えれば訴えるほど笑いの種にされてしまう。そして、つい挑発にのって漏らした一言が、火に油を注ぐことになった。
「皆さん、未来の予測ができないというだけで政府の発表を面白おかしく笑いものにしていますが、実際に被害が出たらどうなると考えているのですか? 被災地に救助隊を派遣すれば良い、ボランティアがいる、そう考えているのでしょう? だけど、今回は被災地域が広すぎます。救助隊の派遣などできないと考えねばなりません。ボランティアをどうやって派遣するのですか? 鉄道や道路が使えなくなったら打つ手がないのです。それに、人口密集地域は太平洋側です。工業地域だって太平洋側に集中していますから産業機械も長期間使えなくなります。スタジオにいる皆さんだって無事に生き延びられる保障などないのです」
「ちょっと待ってください。とうてい見過ごしにできない発言ですよ、わかって言ったのですか? ようするに、政府は救助活動を放棄している……、そう理解せよと?」
ざわついていたスタジオが一気に静まり返った。浴びせられる冷ややかな視線に動じることなく、室長はうすら笑いさえ浮かべていた。
「いえね、何度話しても不真面目な方向へ誘導されるものですから、聞いていないのか、でなかったら意味を理解できないのではないかと心配していたのです。ですが、私の考え違いだとわかりました」
室長はテレビ番組に期待することを諦めた。国営テレビは別として、民放の特番に出演して避難を訴えることの愚を悟った。いや、見切りをつけたのである。
「こういう番組を利用して避難を訴えようとしましたが、皆さんは笑い話にしてしまう。この番組を見た人々が安全だと誤解して犠牲になったとしたら、皆さんは責任を負えるのですか? 太平洋沿岸が被害を受けるということは、わが国が壊滅するかもしれぬ危機ですよ。国だって自治体だって救助に赴く能力をはるかに超えています。そうでなくても、政府の勧告に従ってくれた人々を守る責任があります。もう時間がありません。切り捨てるしかないでしょうね」
出演者がことごとく批判を噴出させるのを黙って聞いていた室長は、総理の会見からずっと言い続けてきたことですよ、今更何を驚いているのですかと、ただ冷ややかな眼差しで答えてみせた。
「切り捨てるって言いましたよね。あなた、立場をわかっているのですか? 危機管理室長が口にする言葉ですか!」
何かにつけて行政方針を目の仇にする評論家が激高し、他の出演者も同調した。
「何ができますか? 行政が全責任を負えるわけないでしょう? それとも、あなたにできるのなら今すぐにでも交替しますよ」
「なんですか、その言い草。たった今辞任しなさい。国民を馬鹿にするにもほどがある」
「言われなくても辞表を出しますよ。もし地震がおきなかったら、こんな騒ぎをおこしたのですから責任を負います。それは総理も考えているかもしれませんよ。また、もし予想が当ったら、多くの犠牲者に何もしてやれないのだから辞職するしかないです。どうでしょうね、国の産業が壊滅し、復旧だけに莫大な労力を強いられる。そんな国の舵取りをする議員がいますかね? ましてやあなたがた評論家は屁理屈をこねるばかりで汗をかこうとしない。将来を知るということは、辛いことですね」
激高した評論家に哀れむような一瞥をくれて室長は立ち上がった。
慌てて司会者が席につくように促したのだが、室長はそのまま画面から姿を消した。
「木下さん、室長がキレてしまいましたよ。これでは世間がワイワイになりますよ」
俺は、呉の海上自衛隊基地で物資運搬の進捗状況をまとめ終えたところだった。こう言ってはなんだが、避難民が殺到しないことが幸いして渋滞が発生していないもで予想以上にはかどっていたのだ。呉に拠点をかまえたことは何かにつけ都合がよく、海上自衛隊の準備状況もすべて把握できたし、陸上自衛隊の状況も間違いなく把握できた。各地へ出張するにしても空港はあるし、海をへだてた岩国には航空隊もある。なまじ中央で電話と格闘するよりもよほど効率的だったのだ。今日も夕方には巨大な揚陸艦が物資を満載にして外洋へ出て行き、別の揚陸艦が明朝の出港準備を急いでいる。
壁一面に貼られた予定項目が赤で線引きされ、残すところはわずかになっている。
そろそろ仕官宿舎に引き揚げる時刻だった。
つけっ放しのテレビをぼんやり眺めていた俺は、室長の強気な態度に驚いた。
「心配いらないよ、室長は間違っていない。ああでもしなければ真面目に考えないものさ。それに、辞表を出したところで誰が受け取る? 室長をクビにしたら統制がとれなくなってしまう。つまり、織り込み済みさ」
木下は、しきりと首筋を揉みながらつまらなそうに応えた。
そして翌日、俺たちは木下の指示に従って約三週間すごした呉を離れ、ギラギラとした夕日が眩しい大阪へ移動した。
大阪も雑多な人がひしめき、いつもと変らぬ営みがされているようだ。首相の発表というこれ以上ない重大な危機喚起だというのに、人々は不確かな明日のことよりも目の先の勘定や快楽を選ぶということがよくわかる。
それにしても、神戸の震災を経験しているのだからもっと深刻に受け止めてもよさそうなものだが、あの大惨事から立ち直ったという自信があるから、こんなに呑気にしていられるのだろうか。俺には答えの出しようがない。
その日まであと四日。全国から集まった自衛隊は、その時に備えて沿海部に展開を始めていたし、警察や消防も展開を始めていた。
その時、統合指令を行うのが伊丹空港に設置された本部なのだ。
「やあ、お疲れさんです。あなたがたのおかげで作業がはかどりました。いや、助かった」
かつて航空会社に貸し出していた事務所スペースが指令本部になっていた。集積された夥しい物資を眺め下ろす事務所で、室長は俺たちを待っていた。
昨夜のテレビで見せていた冷淡なそぶりは微塵もなく、各地からの報告を手分けしてまとめているところだった。
「とうとうやりましたね。引導を渡すのはいつかなとハラハラしていたのですが、あれで少しは本気になってくれますかね」
木下は、呆れるということはなく、むしろダメ押し効果を期待しているようだ。親の忠告を聞こうとしない駄々っ子を屋外に締め出すのと同じ効果を期待したのだろうか。この人たちはまだ望みを捨てていないのかもしれない。いや、死者が増えれば負担になるからだろうか。
「どうかな? 屁理屈ばかりこねて真面目な議論のできない種族だからなあ。まっ、慌てりゃいいさ」
「ところで、避難のために出国する者も多いのですか?」
「ああ、金持ちを中心にけっこういるよ。帰国できないのを知らないで行ってしまうのがね」
このときばかりは俺も驚いた。出国は認めるのに帰国できないってどういうことだ?
「帰国できないって、どうしてですか?」
鸚鵡返しに近かったろう。声に棘もあっただろう。帰国できないとはどういう意味なのだろう。帰国させないということなのだろうか、それほどの重い仕打ちを科さねばならないのだろうか。
「あぁ? 帰国させない、入国を許可しないということだよ」
「どうしてですか」
「どうして? 多くの人が悲惨なめにあうというのに、自分だけ安全な場所へ避難して、いっぱい旨いものを食べて、安全になったら帰ってくるのだよ。そんな身勝手な人間は国の再建に必要ない。帰ってこなくてかまわない。だいいち、そんなのは仲間ではない」
室長は笑いながら言ってのけた。表情はいたってにこやかで、目も笑っているように見える。なのに、言った中身は恐ろしいことだった。
「じゃあ、災害がなかったら?」
「やはり入国は認めない。吾が身の安全を図るのはけっこう。だけど、すべては自分で責任を負わねばいかん。そのかわり、国内に残った人はなんとしても守る。それが国というものだよ」
木下も室長の言うことに口を挟まなかった。そんなことは当たり前だというように僅かに頷いただけだ。
そんな話をしている間も、何機ものヘリコプターが飛来し、あわただしくトラクターが駐機場所へ牽引している。どこから集めたのか、すでに何十という数である。
「ところで、九州行きは明後日だったね。すまないが、四人とも松永君の夢のように行動してくれ。ただし、鹿児島まで行けばその先の予測ができるだろう。鹿児島での宿泊は禁止だ、すぐに帰ってこい」
「とんぼ返りですか?」
「それで十分だ。新婚さんに何かあったら、ご家族に恨まれるからなあ、それは絶対に守ってくれ。伝達事項はこれで終わり。隣のホテルに部屋を用意してあるから休んでいいよ。明日は出てこなくていい、これまで休みらしい休みがなかったからな。ただし、体力を使い果たさないようにしてくれよ」
この男はどういう性格なのか、厳しいことを言ってのけたすぐあとで、聞きようによっては大問題になるようなことを口にする。それも、満面の笑顔で言うのだから反撃しようがない。
「勘太ぁ、何か言ってよ。今のってセクハラ発言だよ」
琴音はいつものように、俺の着ているものをツンツンと引っ張った。
「そうだよ、久しぶりの休みだからって、そんなことばかり考えてるわけじゃないんだし。琴音と勘太なんか、もう十年選手なんだから、いまさらだよねえ」
「みやび!」
キッとなった声だ。ぽっちゃりした顔を朱に染めているくらい見ないでもわかった。
「何か失礼なこと言ったかな? 俺は息抜きのスポーツをしすぎるなというつもりだったのだけど。ところで、そんなこととか、十年選手って何のことかな? ははーん、さてはテニスでペアを組んでいたな。弱いから恥ずかしいんだろう、違うか?」
追い討ちをかけるからかいだった。
「お先に失礼します。勘太、早く行くよ」
俺は引き摺られるように事務所をあとにした。
鹿児島は、夏の日差しがジリジリ照りつけていた。下車する客がゾロゾロと乗り換え口に移動してゆくと、ホームの先端まで見通せるほどに空いている。つまり、折り返しになる上り列車の乗客が僅かだということだ。夢と大きく違うのは、琴音が怯えているということだった。
室長が手配した切符は、前後二列の八席分。それを適当に分けたら、遠山と雅、そして俺と琴音が向かい合わせとなった。新大阪始発で、鹿児島到着は午後二時八分。夢で乗った列車とは違うが、やはり五号車だった。
俺が窓際に座っていたことを知っている琴音は、自分が窓際に座ると頑なに言い張った。なのに、カップで飲んでいたジュースを派手にひっくり返してしまった。雅と色を揃えた真っ白のパンツに、黄色色のシミが広がった。靴にまでジュースが流れ込んでいては、そのままではいられず着替えをしてきたのだが、その服装に俺は驚いた。紺のプリーツスカートなのである。しかも、高校生のように丈が詰めてあり、足元は細い踵のハイヒールだった。あおりを食らった雅も、黄色いシミになったパンツではみっともないと着替えてきた。ご丁寧にミニのスーツ姿である。
今日の出来事を、俺は覚えているかぎり木下に話しておいた。
だから、コーヒーを注文したら小さなチョコレートが配られたのを見て、すかさず木下がタバコを咥えて席を立った。
「次々に言ったとおりになっていますね。列車が違うから案外と思ったのですが、なかなか手ごわいですね。たまたまにせよ五号車で、遠山さんはかしわめしを食べました。せっかくズボンを穿いていたのにスカートに着替える羽目になってしまいましたね」
「それが……、琴音のスカートがそのものなのです。どうしましょう」
これまでのように報道を通じてでしか夢か現実がわからなかったものが、今は目の前でおきている。恐ろしいまでに符合することにゾワッと首筋の毛が逆立つ感じがした。
「そうですか……。でも、少なくとも鹿児島までは行かねばいけないでしょうね」
「そうですよね、途中下車したって大した違いはないですから」
「そうですね。とりあえず、鹿児島に着いてから判断しましょう」
木下は、小窓に目を移した。幾分陽が西へずれたせいか、陽射しが遮光ガラスを貫くことは減っているが、青田からの照り返しが眩しい。
「もし……、悪い結果なら?」
「今日のうちに帰ってください。これからが本番です。猛烈に忙しくなりますからね、覚悟してくださいね。そうだ、鹿児島に着いたらタバコを買いだめしておこう」
もう短くなったタバコを火皿に押し付けた木下は、俺の肩をポンと叩いて席へ戻って行った。
木下がどう判断するのかは俺にわからない。ただ、余計なことを考えないようにしようと思った。
ホームに降り立った俺たちは、ジリジリ照り付ける陽射しで目が眩んでしまった。屋根があるのにどうして? そんなことを考えるよりも、サングラスをすることが先だった。
「あっ」
琴音が小さく声を上げた。
「どうした?」
「落ちた……」
サングラスを挟んだ手で目を押さえている。
「ばーか。落としたのに目を押さえてどうするんだよ。探してやるから動くな」
そこからは夢と同じだった。琴音の足元に顔をつっこむ俺を雅が囃したて、俺の前にしゃがみこんでスカートの奥を晒した。ただ、しゃがんだ理由は違っていた。汗を拭くためにハンカチを取り出したとき、切符を落としてしまったからだった。かすかな風で舞った切符を追ったから下着を晒してしまったのだ。しかし原因こそ違え、結果は同じことだ。
「雅、雅、もっと用心しろよ、丸見えだぞ」
せっかく小声で教えてやったのに、恐ろしい目で俺を睨みつけると、すっくと立ってしまった。
「雅ぃ、ごめん、洗浄セット貸してくれないかなぁ。どこへしまったかわからなくて。勘太、ちょっとおねがい、手がはなせない」
琴音のなさけない声だ。
ぎょっとしながら俺は雅に手を差し出した。間髪を与えず四角いものがそこに載せられた。
「勘太、ちが……、 夢のとうり……」
琴音は怯えている。用心してパンツで来たのに、自分の粗相で着替えを余儀なくされたのと、理由はどうあれ、コンタクトレンズを落としてしまったのは夢のとおりだから。そして、雅のよこした品物も夢とまったく同じだった。
ほとんどの乗客が出口へ消えてから、俺たちも出口へ向かった。
誰がどの自動機を通ったかなど覚えてはいない。銘々が気儘に切符を通したのだが……
隣り合わせで通過するはずの俺と琴音が、耳障りなチャイムによって阻止された。
「皆さん、鹿児島へ来た目的は十分に達成されました。遠山さんが恩師のお宅に行くことは認めます。しかし、最終の大阪行きで帰っていただきます。いいですか、七時四十九分に大阪行き最終が発車します。だから、必ず七時半には集まってください。もう五時間ほどしかありませんから、急いでください」
それが木下の下した結論だった。そして木下は、念のために職員を同行させ、時刻をみて無理無体にでも源太と雅を連れ戻すよう命じた。
こうまで夢と現実が重なっているのなら、もう躊躇うことなどないと判断したのだろう。が、俺たちの心配とは裏腹に、町は活気づいていた。
大阪のホテルからの夜景もそうだった。大阪の中心街の方角だろう、夜空を煌々と照らすネオン、行き交う車の多いこと。さすがに今日の新幹線には帰省客らしい姿は少なかったが、鹿児島までの乗客は少なくなかった。そして、折り返し列車を待つ乗客はまばらだ。
どうしてだろう。どうして首相が警告を発したのに、人々は耳を貸そうとしないのだろう。テレビで騒ぎ立てたのに、生活物資を買占め石油をごっそり移動させ、建材も買い占めて一般生活に大きな影響をおよぼしているというのに、どうして人々は避難をしようとしないのだろう。たしかに経済的に避難できない人もいるだろうが、大阪のホテルから眺めた夜景は煌々と夜空を照らしていたし、夜遅くでも乗用車がたくさん走っていた。この鹿児島でも慌てた様子などまったく感じられない。
人々の意識というものはこんなものなのだろうか。
知る由もない未来の危機に対しても、こんなに呑気でいられるのだろうか。
とはいえ、自分が逆の立場だったら、真面目に受け止めていたかと考えると、どうにも答が出なかった。
ヒュイーーーン、ウィーーーン……
インバーターが奏でる甲高い唸りが小さく響いているだけである。レールの継ぎ目を踏む音はもちろん、レールと車輪が軋む音も聞こえてこない。時折突入するトンネルだけが異音の源であった。
ドッ、ゴォーーーーーー……
ヒィーーーン……
定員の半分にも満たない乗客を乗せた最終列車は、薄明るい鹿児島を発車すると軽快に速度を上げた。
ドッ、ゴォーーーーーー……ドッ……
トンネルに突入するたびに夜の闇が増してゆく。
あと二日を切った。そうしたらすべてがわかる。
「勘太、なんとか助かったね」
耳元で呟いた琴音は、そのまま俺の肩に頭をもたせて寝息を立て始めた。
「そうだな、よかったな琴音。ちゃんと守ってやるから安心してろ」
俺は、安心しきって眠る琴音の手をそっと握った。