泥の下の宝石と、お預けのシャブリ
「お待たせしました。着きましたよ」
あたしはレンタカーの運転席から降りて後部座席のドアを開けた。
「拘束バンドを外すから、ゆっくり体を起こしてくださいね」
「ん? ああ」
野性人間は本当に眠っていたようだ。大した度胸だ。
「レディ、ご苦労様。先に降りていいよ」
当然でしょという顔をして、あたしのボーダーコリーは軽やかに下車し、
伸びをしながら玄関ポーチを進み、ドアノブにハーネスのチップを向け、
扉が開くとさっさと入っていった。
「湛山、でしたっけ。車を降りてください」
「何だ、急にかしこまって」
「しばらくうちであなたのお世話をすることになったから、適正な距離を保とうと思って」
「ふん。勝手にしろ」
そう言いつつ、言われたとおりにする男を見て胸をなでおろした。犬の方も、それなりに大人しい。
「どうぞ、入ってください。左手に衛生チューブがあるので――あ、衛生チューブって分かります?」
そんなの野生人間が知っているわけがないので、一応簡単に説明した。
「全自動なんですけど、筒型のコンパートメントがお風呂場にあるので、
そこに入って椅子に座ってドアを閉めてください」
「そのコンパートメントとやらの?」
「はい。風が吹き出して汚れを飛ばし、お肌に優しい洗浄剤が泡立って、
軽いマッサージをしてくれます。で、全方向からお湯のシャワーが頭からつま先まで流してくれて、
最後は温かい風でブロードライします」
野性人間が頷く。
理解できたようだ。OK。
「先ずはそこで山の汚れを落としましょう。着替えは出しておきます。
恐らく人間がいうお風呂やシャワーより遥かに素早く抜群の効果を得られます。その犬も一緒に」
その瞬間、湛山の愛犬の微笑みが消えた。しゃべることはできなくても、「お風呂」「シャワー」というキーワードは理解できるようだ。
「佐吉、行くぞ」
佐吉というのか。
湛山同様、なかなかトラッドスタイルの名前だが、この犬には合う。
どう考えてもプリンスとかアレクサンダーとか、洒落た横文字が似合うタイプとは思えない。
「行くぞ」
湛山は必死に抵抗する犬の首根っこを掴み、そのまま家の中に引きずっていった。
ああ、家の中が汚れる…。
「あ、そうだ。チューブのドアを閉める前に風の強弱とお湯の温度を調整してくださいね」
男は玄関で必死に踏ん張る間抜け面と格闘している。
今の、聞こえたかな? まあ、どっちでもいいけど。
「何をやっているの?」
レディがさっぱりした顔で衛生チューブから出てきた。
ん?
佐吉がふわふわになったレディを見上げ、訴えるような目で彼女を見つめている。
これはこれは。
鈍感なあたしでもピンときた。
(こいつ、レディに気があるな)
それなら話は早い。
「レディちゃん、この子、お風呂が苦手なようで、クリーンルームを拒否しているの。
お願いだから説得してくれない? 気持ちいいんだよって教えてあげて」
「何だ、そういうこと?」
そう言ってレディは佐吉に近寄り、顔をくしゃくしゃにした。
「臭い。あんた、臭い。最後に洗ってもらったのはいつ?」
どうやら通じたようだ。佐吉は恥ずかしそうに俯いている。
「うちのチューブ、最高に気持ちいいのよ。試してみないの? まあ、いくじなしね」
佐吉のミミがピクリと動いた。それなりに言葉の意味は分かるようだ。
「超一流サロンレベルだというのに勿体ない。爽やかな風に吹かれて(徐々に強風になるけど)、心地よいアロマ(ケミカルメインだけど)の香りに包まれて、体中を気持ちよくマッサージしてくれるの(グイグイの強揉みが好きならね)。その後、ちょうどいい温度の、打たせ湯(ナイアガラの滝といった方が正確かしら)のようなシャワーが流れ、仕上げには最高品質ドライヤーの暖かい風(熱風ともいう)でふわふわに仕上げてくれるのよ。ヤマイヌのあんたでもきっと都会的な香りが漂うイケメンになれるわよ」
お見事である。
佐吉は背筋をピンと伸ばし、衛生チューブ室の方にさっさと歩いて行った。
ほどなくして、クリーンルームから「おお――! おお―ん!!」と鳴き声が響いた。
*
その間、あたしはキッチンでキンキンに冷やしたシャブリをグラスに注ぎ、
レディ用にスペシャルリンゴドリンクをボウルについだ。
誰にも気づかれず野生人間と野犬を無事に東京に連れて帰った。
ミッション完了だ。
シャブリで自分を労ってあげるくらいいいだろうと、口をグラスにつけようとしたその時、
野犬のうるさい息づかいが部屋中に木霊して、
あたしのリビングのハイエンドな雰囲気を見事にぶち壊した。
湛山も心なしか、息が上がっている。
彼を恨めしそうに見ている大型犬にかなりてこずらせられたんだな。
しかし、あたしは思わず息を吞んだ。
ぐしゃぐしゃだった長髪は緩やかにウェーブし、顔を縁取っている。
その顔は… 今まで見たこともない超絶イケメンの顔だった。
こんなマスクを隠していたとは、犯罪なんじゃないの?
まさか、あの泥や傷の下にこんな宝石が潜んでいたとは。
まあ、あたしには関係ないけど。
「衛生チューブとやら、終わったぞ。ん? どうした?」
「べ、別に」
あたしは自分のグラスを再びテーブルに置いて軽く咳払いし、ヤツの目を見た。
「何か飲みますか? 佐吉は?」
「いや、結構だ」
「では、あなたの聞き取りとブリーフィングを始めます」
「あんたがやるのか? あんた何なんだ? 警察か?」
「あたしはマヤといって、首相官邸の公式カメラマンをやってます」
正しいジェンダーレス表現としては、人間たちが言っていた「カメラマン」ではなく、「公式フォトグラファー」だ。
昔から「公カメ」という言葉が根強く使われ続けているだけなのだが、そんなことを野生人間に言ったところで、どうせ意味が分からないだろう。
でも、野生人間の確保とかって公カメの仕事だったっけ?
まあ、考えたところで詮無いことだ。やるべきことをひとつひとつやっていくしかない。
リビングの片隅に記録撮影用のライティングを準備した。
湛山にこちらに来るよう促そうと口を開いた瞬間、メッセージ電話がピンピロリンと鳴った。
(今度は何?)
またしても嫌な予感がした。
そして、予感は的中した。
「予定が急遽、変わりました」
「ん?」
「今の電話は首相官邸からの呼び出しでした。即刻向かうようにとのことです」
「そうか。じゃあ俺たちはここで待ってる」
じゃなくて。
「いえ、あなたたちを伴ってくるよう言われたのです」
窓の外を見ると、家の前にはすでに黒いセダンが一台、車体をアスファルトから数センチ浮かせて待機している。
「すでにお迎えがきているようです。忙しないですけど、歩きながらこれをどうぞ」
プロテインバーとエネルギー飲料、そして佐吉用にチーズビスケットを手渡し、
テーブルの上に置いたシャブリのグラスを持ってキッチンに行き、ボトルに戻した。仕方ない、お預けだ。
「さあ、まいりましょう」
*
永田町の坂を昇り切った頃には、すでに空が真っ暗になっていた。
車を降りてセキュリティスキャンブースを通り、また乗車するよう促され、車寄せで降りて写真室に直行した。
一人でワークステーションの前に座っていた室長は、画面をスリープ状態にして立ち上がった。
「マヤちゃん! 待ってたよ。休日に悪いね」
「いえ」
「レディ、さっぱりした顔をして、山歩きの効果かな。おお、君が湛山君か。初めまして。写真室室長の久保田です」
「初めまして」
「官邸へようこそ。ふむ、湛山君はなかなかの美男だね。君は百パーセント人間だと聞いたけど、日本人以外の血が混じっているのかな?」
「分かりません」
「そう。まあ、それはどうでもいい。イケメンは万国共通だ。そして隣の君。君が相棒の佐吉君だね。こんばんは」
穏やかな口調ではあるが、さりげなく探りを入れてくるのは久保田の常とう手段—-というより性格的なものである。
だが、見るからにシンプルマインドの佐吉は相変わらず尻尾をブンブン振り、レディは一歩引いたところで退屈そうに天井を見ている。
「マヤちゃん、彼の聞き取りとブリーフィングはできている?」
「はい。車の中で済ませました。先ほど終わったばかりですが、報告書を久保田さんに送っておきました」
「ありがとう。ちょっと確認するね。どうぞ、そこに掛けて待ってて」
そう言ってワークステーションに戻り、穏やかな面持ちのまま、膨大なファイルを瞬時にスキャンした。
「OK。相変わらず完璧だ。じゃあ、早速行こう」
「え? どこへ?」
「五階の執務室だよ。総理がお待ちだ。歩きながらデータ、送っておくね」
廊下に出て階段を昇り、エレベーターにのって総理の執務室に向かった。
重厚なドアが開く。
総理は腕を組んで、こちらに背を向けて窓の外を眺めていた。
あたしと湛山、レディと佐吉は久保田に倣って入室し、静かに並ぶ。
総理が振り返り、その鋭い視線があたしに突き刺さる。
「総理、お疲れ様です。こちらが浅間山で遭遇した――」
総理に遮られた。
「マヤちゃん、挨拶はいいわ。時間がない。いいこと、今から話すことは国家最高機密よ。もし外部に漏れたら、恐らくG7サミットを中止せざるを得ない。日本とアメリカの国交がかかっているの」
そんな重要な話を、今日出会った人間に聞かせていいのだろうか⁉
「どうしてそんな大事な話をそちらの人間さんと野犬にも聞かせるの?って顔してるわね」
「は、はい」
「彼らのバックグラウンドチェックは完了してます。その辺のことは何も心配ないわ」
彼のお父上とも知らない仲ではないし、と李総理が呟いたのを、あたしのセンサーは見逃さなかった。
「え? 湛山をご存じなんですか?」
「あー、いえいえ、そこの彼とはお初にお目にかかるわ。チェック済みだから大丈夫といっただけ」
何だか上手く誤魔化されてしまったが、向こうが長である以上、文句は言えまい。
「実は、G7で来日中のアメリカ大統領。その後令嬢のジェイミーのことなの」
総理はデスクに両手をつき、あたしたちのほうへ身を乗り出してきた。
その目は、これからサミットを主催する指導者というよりも、近所の揉め事を内密に処理したいその辺のおばさんって感じだ。
「ジェイミーが行方不明になったの。ホテルの部屋から突然消えたらしいわ。ホワイトハウスでも一部の人しか知らされていないけど、誘拐が濃厚なんですって」
…誘拐?
「お願い、マヤちゃん。この湛山と佐吉とチームを組んで、誰にも見つからないように彼女を見つけてちょうだい」
「チームって… この野生人間と野生犬とは今日会ったばかりなんですよ?」
「うん、そうなんだけど、その野生人間ってところがミソなのよね」
は? なんで?
「彼女は誰かに連れ去られたとしか考えられないんだけど、AIサピエンススキャンで全くヒットしないの。ということは、人間の仕業としか考えられない。その彼氏とワンちゃんの力を借りてご令嬢を救出してちょうだい。あなたは若いからご存じないかも知れないけど、人間って結構動物的勘とか身体的な能力があってそれなりに役に立つこともあるのよ」
あたしのビルトインシステムが、一気に最悪の確率計算をし始めた。
今日会ったばかりの野生人間と野犬、そして公式カメラマンのあたし。
この、あまりにも凸凹すぎる即席チームの肩に、まさか国家の命運をかけた、前代未聞の「極秘救出作戦」がのしかかることになろうとは。
お預けになったシャブリの冷たさを思い出しながら、あたしはこれから始まる大嵐の予感に、そっとため息をついた。




