[行政手続法33条・申請に関連する行政指導]現場編 「取下げないなら、ずっとこのままですよ」の罠。任意の指導と、申請を止める圧力を切り分ける窓口
役所の窓口には、ときどき「出したはずなのに、出したことにならない書類」があります。
もちろん、そんな法律用語はありません。
でも現実にはあるんです。
申請書を出した。
窓口も受け取った。
受付印まで押してある。
なのに何週間経っても決まらない。
電話すると、
「もう少しお考えになった方が」
と言われる。
さらに聞くと、
「一度取り下げていただければ」
と言われる。
それでも嫌だと言うと、
「まあ、このままだと時間がかかりますよ」
と言われる。
……それ。
本当に「お願い」なんでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所の朝は、相変わらず紙が多いです。
机にも紙。
棚にも紙。
床の隅にも紙。
紙が紙を呼び、気づけば事務所全体が巨大なファイルの中に収納されているような気さえします。
私はその紙の海の真ん中で、一枚の申請書の控えを睨んでいました。
「先輩」
「何だ」
「これ、受付印ありますよね」
「あるな」
「六月十四日」
「あるな」
「今日は七月二十九日」
「カレンダーが読めて偉いな」
「褒め方が幼児!」
相馬先輩は煙草に火をつけながら、私の手元を覗き込みました。
申請者は、駅裏で小さな喫茶店を営む三田村春江さん。
今回の申請は、店の裏手にある古い倉庫を改装して、簡単な菓子製造の作業場として使いたいというものです。
駅前再整備に伴って立ち退く予定の和菓子職人を雇い、焼き菓子を作って店頭で売る。
そのために必要な手続を市役所へ出した。
ところが。
一か月半。
音沙汰なし。
連絡すると、
計画を少し見直してほしい。
申請をいったん取り下げてほしい。
その一点張り。
「何が悪いんですか」
私は聞きました。
「そこが分からんから今日来る」
「誰が?」
「本人」
相馬先輩がそう言った直後、事務所の戸が開きました。
「ごめんください」
入ってきたのは、四十代半ばくらいの女性でした。
白いブラウス。
紺のスカート。
大きめの布鞄。
その鞄から、角の折れた書類が何枚も覗いています。
「三田村春江です」
声はしっかりしています。
でも目の下には薄い隈。
たぶん、何度も同じことを考えた人の顔です。
片桐所長が応接の椅子を勧めました。
「役所との話を、最初から聞かせてください」
「はい」
三田村さんは鞄から書類を出しました。
「六月十四日に、市役所へ申請を出しました。必要な図面も、営業計画も、一緒に」
「受付はされた」
「はい。これが控えです」
受付印があります。
間違いなく受け取られている。
「その後?」
「二週間くらいして、担当の方から電話がありました」
「何と」
「この場所は駅前再整備との関係で、将来使い方が変わる可能性があるから、今この時期に新しい作業場を作るのは考え直した方がいい、と」
私は眉をひそめました。
「禁止されてるんですか」
「それを聞いたんです。でも、『禁止ではありません』って」
なるほど。
「じゃあ何で?」
「市としては、駅周辺の施設配置をこれから整理するから、できれば今は新しい設備投資を控えてほしい、と」
ここまでは、まだ分からなくもない。
行政として、
今後こうなる可能性があります。
今投資すると損をするかもしれません。
少し待った方がいいですよ。
そう助言する。
それだけなら、一応「親切」の顔もできます。
問題はその次でした。
「でも私は、どうしても必要だったんです」
三田村さんが続けます。
「雇う予定の職人さんも待ってるし、秋には販売を始めたい。だから、『計画は変えません。申請をそのまま審査してください』って言いました」
「はい」
「そうしたら」
三田村さんの指が、膝の上で少し強く組まれました。
「担当の方が、『だったら、いったん申請を取り下げてください』って」
私は顔を上げました。
「なぜ?」
「市の方針が固まってから出し直した方が、お互い困らないから、と」
「取り下げたんですか」
「いいえ」
「断った」
「はい」
「何て?」
「私は取り下げません。今の申請について判断してください、って」
そこで三田村さんが一度黙りました。
「そうしたら?」
片桐所長が聞きました。
「『まあ、それでも構いませんけど』って」
「……はい」
「そのあと」
三田村さんは、少し声を落としました。
「『取り下げないなら、こちらもこのまま保留になるかもしれませんよ』って」
あ。
私の頭の中で、何かが起き上がりました。
昨夜までテキストの中で寝ていた言葉が、
むくりと。
行政指導。
申請の取下げ。
内容変更。
拒否の意思表示。
そして。
申請者の権利行使を妨げるな。
未来の条文。
行政手続法第三十三条。
もちろん今は昭和六十三年。
そんな法律はまだありません。
でも。
問題だけは、先に存在している。
「それで今まで?」
「何も」
三田村さんは首を振りました。
「何度か電話しました。すると毎回、『取下げを検討してくれましたか』って」
「申請の中身については?」
「ほとんど何も言われません」
「不足書類は?」
「ないと言われました」
「補正してほしい箇所は?」
「それもないです」
私は紙を一枚ずつ見ました。
図面。
配置図。
事業計画。
役所側から返されたメモ。
どれも、
「申請内容にこの欠陥がある」
という話ではありません。
書いてあるのは、
再整備計画との調整が必要。
時期尚早。
申請取下げを検討されたい。
そればかり。
「所長」
私は言いました。
「これ……審査してないんじゃないですか」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「だろうな」
「でも、申請はもう出てる」
「ああ」
「なのに、取下げてくださいって指導を続けて、その間、判断しない」
片桐所長が私を見ました。
「何が問題だ」
来ました。
最近、所長のこの質問は試験問題より怖いです。
選択肢がありませんから。
私は少し考えました。
「申請を取り下げてほしいってお願いすること自体と、申請を放置することは別です」
「続けろ」
「役所が『今はやめた方がいいですよ』と助言するのは、場合によっては行政指導としてあり得る」
「うん」
「でも、三田村さんはもう『取り下げません。審査してください』って言ってる」
「そうだ」
「それでも取下げの話ばかり続けて、申請について判断しないなら……」
私は言葉を探しました。
未来の条文なら、知っています。
でも今、その条文を口に出すわけにはいかない。
「……申請する権利を、事実上止めてません?」
所長が静かに頷きました。
「そこだ」
三田村さんが私を見ます。
「じゃあ、役所はおかしいんですか」
「まだ断定はできません」
私は首を振りました。
「本当に審査に時間がかかる事情があるかもしれない。でも」
申請書の控えを指で押さえました。
「取下げないことそのものを理由に、いつまでも判断しないのは変です」
相馬先輩が腕を組みます。
「簡単に言えばな」
「はい」
「『取り下げるまで審査しません』は、お願いじゃねえ」
その通り。
私は思わず頷きました。
役所には、柔らかい手段があります。
助言。
勧告。
行政指導。
申請者に、
こうした方がいい。
こう変えた方がいい。
いったん取り下げた方がいい。
そう言う。
でも。
相手が、
嫌です。
この申請で判断してください。
そう言った後まで、
「まあまあ、考え直して」
を続け、
その間ずっと申請を止めておく。
それなら、
拒否できる「お願い」という形だけ残して、
実質は拒否できないことになります。
「市役所、行くぞ」
片桐所長が立ち上がりました。
「今からですか」
「今からだ」
「最近ほんと即日対応ですね」
「放っておく理由がない」
強い。
こういう人が上司だと大変ですが、相談者側にいると頼もしすぎます。
市役所の担当課は、三階の奥にありました。
駅前再整備関係の図面が壁に貼られています。
赤い線。
青い線。
番号。
矢印。
見ているだけで、町が巨大な方眼紙にされた気分になります。
窓口で名刺を出すと、若い職員が奥へ消えました。
少しして出てきたのは。
「……またですか」
倉田係長でした。
「こちらも同じことを思いました」
私は言いました。
「最近よく来るな、君」
「町の行政が元気なので」
「嫌な言い方だな」
相馬先輩が横で笑いました。
片桐所長が本題に入ります。
「三田村春江さんの申請について確認したい」
倉田係長の顔から、少し笑いが消えました。
「ああ……あの件ですか」
「六月十四日受付ですね」
「はい」
「現在の処理状況は」
「再整備計画との調整中です」
「申請内容に不足がありますか」
「いえ、形式上は」
「補正を求めていますか」
「それも、まだ」
「では何を待っているんです」
倉田係長は言葉を選びました。
「今、駅裏一帯の利用方針を詰めていましてね。三田村さんの作業場計画をそのまま進めると、数年後にまた移転の話になる可能性があるんです」
「それは本人にも説明した」
「しています」
「本人は、それでも申請を維持すると言っている」
「そうです」
「なら審査してください」
所長の言葉は短かった。
倉田係長が眉を寄せます。
「そう簡単じゃないんですよ」
「何がです」
相馬先輩が聞きました。
「市としては、今ここで新規設備を認めるような形になると、後で再整備するときに話がこじれる」
「“認めるような形”って何です?」
私は口を挟みました。
倉田係長がこちらを見る。
「許可を出せば、市がその計画を是認したと受け取られるでしょう」
「でも」
私は申請書の控えを出しました。
「この申請で見るべき要件と、将来の再整備の都合は同じなんですか」
「それは……」
「今の法令上、この申請が要件を満たしているかどうかを判断するんですよね」
「まあ、基本的には」
「だったら」
私は少し前のめりになります。
「将来、市として別の計画があるから取下げてほしい、っていうのは、審査そのものとは別の話じゃないですか」
倉田係長が黙りました。
図星の沈黙。
最近、少し分かるようになってきました。
「取下げを勧めるなとは言ってません」
片桐所長が言いました。
「市として事情を説明し、申請者に再考を求めることはあり得る」
「ですよね」
「ただし」
所長の声が少し低くなりました。
「本人が『取り下げない』と言っているのに、いつまでも取下げを求め続け、その間審査を止めるのは別問題です」
倉田係長の眉間に皺が寄ります。
「止めているわけでは」
「では、何を審査しました?」
相馬先輩が刺しました。
「法令上の要件について、どこまで確認済みです」
「……」
「不足書類は」
「ありません」
「現地確認は」
「まだです」
「なぜ」
「取下げの話が続いていたので」
はい。
出ました。
私は心の中で机を叩きました。
つまり。
取下げの行政指導をしていた。
三田村さんは拒否した。
でも役所側は、
まだ気が変わるかもしれない。
もう少し説得すれば取り下げるかもしれない。
そうして「指導」を続け、
その間、
本来進めるべき審査を進めていなかった。
「倉田係長」
私は言いました。
「三田村さん、もうはっきり言ってますよね」
「何を」
「取り下げません。この申請について判断してください、って」
「言ってます」
「じゃあ、まだ取下げの話を続ける必要あります?」
「市としては、できれば再考を」
「それを何回やったんですか」
倉田係長が少し詰まりました。
「……三回くらいです」
「三回」
お願いの三段重ね。
もうミルフィーユです。
「三田村さんの答えは?」
「毎回、取下げないと」
「じゃあ答え出てるじゃないですか」
つい口調が強くなりました。
倉田係長が私を見ます。
「君ね」
「はい」
「役所には役所の事情があるんだ」
「分かります」
「再整備は一軒だけの話じゃない。今、個別に施設を増やされたら、後で補償だ移転だと話が大きくなる」
「それも分かります」
「だったら」
「でも」
私は遮りました。
「それと、この申請を判断しないことは別ですよね」
一瞬。
倉田係長の顔が止まりました。
私自身も、
言ったあとで、
ああ、これなんだ。
と思いました。
行政法って、
結局いつもこれです。
事情がある。
政策目的も分かる。
役所が困っているのも本当。
でも。
だからといって、
別の手続を止めていい理由になるとは限らない。
混ぜない。
切り分ける。
今回も、それでした。
「市が再考を求める」
私は言いました。
「三田村さんが、それでも申請を続けると言う」
「はい」
「そこまでは分かります」
「……はい」
「でも、その後は申請を審査する話ですよね」
片桐所長が短く続けました。
「指導は指導。申請は申請だ」
倉田係長は大きく息を吐きました。
「……理屈は分かります」
お。
前より早い。
この人、少しずつ話が通じる速度が上がっている気がします。
「ただ」
倉田係長が言いました。
「仮に申請が通ったとしても、将来そのまま営業を続けられる保証まではできませんよ」
「それは本人に説明すればいい」
所長が答えます。
「将来の計画変更の可能性。移転の可能性。今投資するリスク。それは情報として伝える」
「……」
「だが、その説明を受けても申請を維持するというなら、現在の制度に従って判断する」
倉田係長は、しばらく黙っていました。
やがて。
「現地確認を入れます」
そう言いました。
三田村さんが顔を上げます。
「本当ですか」
「来週前半で調整します」
「申請は?」
「取り下げなくて結構です」
三田村さんの肩が、目に見えて落ちました。
力が抜けたのです。
許可が出たわけではありません。
申請が認められるとも決まっていない。
ただ。
ようやく、
「取り下げますか」
という話から、
「では、この申請をどう判断するか」
という本来の土俵へ戻った。
それだけです。
でも。
それだけのことに、
一か月半かかった。
事務所へ戻る途中。
三田村さんは、駅前の喫茶店に私たちを招いてくれました。
「お礼なんてまだ早いですよ」
私が言うと、
「いいの。今日は初めて話が前へ進んだから」
そう言って、アイスコーヒーを出してくれました。
昭和の喫茶店らしい、銀色のトレー。
背の高いグラス。
太いストロー。
氷が、からん、と鳴ります。
相馬先輩が一口飲みました。
「甘いな」
「ガムシロップ入れたでしょう」
「勝手に入ってた」
「入ってません。先輩が今入れました」
「見てたのか」
「目の前なので」
三田村さんが笑いました。
今日初めて見る、ちゃんとした笑顔でした。
「私ね」
彼女が言いました。
「もう取り下げた方がいいのかなって、本当に思ってたんです」
「どうしてです?」
「役所の人が、何回も同じことを言うから」
私は黙って聞きます。
「三回も四回も、『考え直してください』って言われるとね」
三田村さんはグラスの水滴を指でなぞりました。
「だんだん、自分の方が無理を言ってる気がしてくるんですよ」
胸の奥に、少し引っかかりました。
そう。
行政指導の強さって、
命令できることじゃない。
相手が、
「役所が言うなら」
と思ってしまうこと。
何度も言われて、
「自分が間違ってるのかも」
と思ってしまうこと。
それで申請を諦める。
書類を引っ込める。
それなら表面上、
役所は何も拒否していないことになります。
不許可処分もない。
却下もない。
申請者が自分で取り下げただけ。
きれいです。
あまりにも、きれいすぎる。
「でも今日は」
三田村さんが言いました。
「『取り下げません』って言っていいんだって、分かりました」
「はい」
「嫌だって言った後は、ちゃんと申請の方を見てもらっていいんですね」
私は少し考えてから答えました。
「少なくとも、“嫌だと言ってる人を、ずっと説得し続けるだけ”で終わらせるのは変だと思います」
「変」
「はい」
「法律じゃなくて?」
「今はまず、変です」
私は笑いました。
未来なら。
そこに、もっとはっきりした言葉があります。
申請の取下げや内容変更を求める行政指導。
申請者が従う意思がないと表明した。
それなのに行政指導を継続することなどによって、
申請者の権利行使を妨げてはならない。
行政手続法第三十三条。
でも今は昭和六十三年。
その条文はまだない。
それでも。
条文になる前から、
「これは変だ」
という現実は存在する。
申請する権利がある。
それを審査してもらう。
その途中で、
役所が取下げを勧めることはある。
けれど。
申請者が、
もう結構です。
私はこの申請で判断を求めます。
そう言ったのなら。
いつまでも「お願い」を続けることで、
申請そのものを止めてはいけない。
そんな考え方は、
たぶん法律が生まれる前から必要だったのです。
その日の夕方。
片桐行政書士事務所に戻ると、
三田村さんから紙袋を渡されました。
「これ、皆さんで」
「何ですか?」
「試作品」
袋を開けます。
丸い焼き菓子が六つ。
まだ少し温かい。
「これ、あの職人さんと?」
「ええ。今は借りた厨房で少しだけ作ってるんです」
「おいしそう」
「許可がどうなるかはまだ分からないけど」
三田村さんは笑いました。
「今日、やっと“審査してもらえるところ”までは戻れたから」
その言葉が、妙に残りました。
審査してもらえるところまで戻れた。
申請した人にとって、
本来そこはスタート地点だったはずです。
なのに一か月半かけて、
ようやくスタート地点へ戻った。
制度の雑さって、
ときどき人を前に進ませないだけじゃなく、
自分が立っていた場所まで見失わせます。
「こはる」
相馬先輩が焼き菓子へ手を伸ばしました。
「はい」
「三つ取るぞ」
「駄目です」
「お願いだ」
「従う意思はありません」
「じゃあ説得を続ける」
「行政指導の継続で私の菓子取得権を妨げないでください」
「何だその権利」
「今作りました」
片桐所長が新聞から顔も上げずに言いました。
「一人二つ」
「合理的!」
「所長、それは命令ですか」
「配分だ」
「新しい行政作用が出てきた」
相馬先輩が笑いました。
私も笑いました。
そのあと。
事務所が静かになると、私は机の上にノートを開きました。
今日の題名。
――申請に関連する行政指導。
書いてみる。
長い。
いかにも眠い。
昨夜までだったら、
タイトルだけで二割くらい意識を失っていた気がします。
でも今日は。
その言葉の向こうに、
三田村さんの顔があります。
申請を出した。
取り下げてほしいと言われた。
嫌だと言った。
でも、
「じゃあ審査します」
にはならなかった。
何度も、
考え直してください。
取り下げませんか。
このままだと時間がかかります。
そう言われ続けた。
それで一か月半。
未来の私は、
この場面に条文がつくことを知っています。
でも。
今日のところは、まだ書きません。
「何だ」
相馬先輩が言いました。
「また題名だけか」
「はい」
「最近それ多くないか」
「現場で分かった気になるの危ないので」
「成長したな」
「褒めました?」
「気のせいだ」
私はノートの白い部分を見ました。
行政指導って、
たぶん、
役所が何かを言うこと自体が問題なんじゃない。
取り下げた方がいいですよ。
内容を変えた方がいいですよ。
そういう助言に意味がある場面もある。
実際、
三田村さんの投資が数年後に無駄になる可能性だって、本当にあるのでしょう。
でも。
助言を聞くかどうかは、
最後は申請者が決める。
そして、
「聞きません」
「申請を続けます」
と意思表示したあとに、
役所が同じ指導を延々と続けて、
本来の申請を動かさないなら。
それはもう、
ただの親切な助言ではありません。
「所長」
私は聞きました。
「役所って、申請者に考え直させちゃ駄目なんですか」
「そんなことはない」
「ですよね」
「間違いがあれば直すよう言う。危険があれば説明する。取下げた方が本人のためなら、そう勧めることもある」
「じゃあ、どこまで?」
片桐所長が新聞を畳みました。
「相手が答えを出すまでだ」
私は黙りました。
短い。
でも。
たぶん今日の全部でした。
相手が答えを出すまで。
考えます。
なら、待つ。
直します。
なら、補正する。
取り下げます。
なら、取り下げる。
でも。
取り下げません。
この申請で判断してください。
そう答えたなら。
行政側も、
次の段階へ進まなければならない。
「答えを気に入らないから、同じ質問を続けちゃ駄目ってことですね」
「そういうことだ」
私はノートに、一行だけ書きました。
――「取り下げません」と言った後まで、取下げのお願いで申請を止めない。
相馬先輩が横から見ます。
「今日も長いな」
「じゃあ短くします」
少し考えて。
その下に書きました。
――お願いを断ったら、申請を本来の手続へ戻す。
「そっちの方がいい」
「ですよね」
窓の外では、
駅裏の方に夕日が落ちていました。
あの一帯も、
いつか再整備で大きく変わるのでしょう。
新しい道路。
新しい建物。
新しい店。
たぶん、
古い店が消えることもある。
だから役所が先を見て調整したい気持ちは分かります。
でも。
未来の計画があるからといって、
今の申請を宙に浮かせていいわけではない。
制度は冷たいです。
申請。
審査。
行政指導。
取下げ。
どれも温かい言葉ではありません。
でも。
その冷たい線引きがあるから、
親切な助言と、
諦めるまで続く圧力を、
別のものとして扱える。
法律は、
「役所の人も困ってるから」
で全部を丸めない。
そこがたぶん、
冷たいからこそ人を救うところです。
「先輩」
「何だ」
「焼き菓子、まだ一個ありますよね」
「ない」
「さっき六個あって、三人で二個ずつですよね」
「ない」
「口元に粉ついてますよ」
相馬先輩が黙りました。
「取り下げてください、その発言」
「断る」
「では菓子返還請求を」
「もう食った」
「権利行使を妨げられた!」
片桐所長が、珍しく声を出して笑いました。
今日の教訓。
役所に「考え直してください」と言われることと、
考え直すまで前へ進ませてもらえないことは、
同じではありません。
そしてたぶん行政法は、
その「同じではない」を、
しつこいほど大事にする法律なのです。
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