[行政手続法32条・行政指導の一般原則]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、役所の「お願い」を疑うのにちょうどいい静けさがあります。
電話が鳴らない。
来客もいない。
相馬先輩は新聞を広げている。
片桐所長は帳簿を見ている。
そして私の机の上には、真っ赤な水玉模様の靴下。
「……これ、本当に私のですか」
「昨日、小野寺さんがお前にくれただろ」
「分かってます。でも見るたびに納得できません」
「行政指導に従え」
「靴下の着用を行政指導しないでください」
「任意だぞ」
「今日の学習内容を雑に使うのやめません?」
私は水玉靴下を机の端へ追いやって、ノートを開きました。
昨日、市役所の倉田係長は、小野寺洋品店にこう言いました。
駅前再整備のため、店頭の看板や商品台を撤去してほしい。
強制ではない。
ただし、協力してもらえない店については、今後の支援が難しくなるかもしれない。
小野寺さんは、来週から始まる店舗改装補助金を申請するつもりでした。
だから怖くなった。
看板を撤去しなければ、補助金をもらえないのではないか。
正式に「不採択」と言われたわけでもない。
正式な命令を受けたわけでもない。
なのに、申請そのものを諦めかけた。
私はノートの一番上に書きました。
――行政指導。
「さて」
私はペンを持ったまま言いました。
「今日はこれをちゃんと整理します」
「昨日、現場で散々しゃべってただろ」
相馬先輩が新聞から顔も上げずに言います。
「あれは分かった気になっていただけです」
「珍しく自覚があるな」
「行政法は、分かった気になった瞬間に足元へ穴を開けてくるので」
「何だその地雷原みたいな科目」
「実際そんな感じです」
しかも今回は、普通の受験勉強より厄介です。
なぜなら私の頭には、未来の条文があるから。
行政手続法第三十二条。
でも昭和六十三年の今、その法律はまだありません。
行政手続法が制定されるのは平成五年。
施行は平成六年十月一日。
つまり今の私は、
まだ生まれていない条文を知りながら、
その条文が整理しようとしている問題を、
現場で先に見ているわけです。
受験生としては、非常にややこしい。
「所長」
「何だ」
「まず、行政指導って何ですか」
相馬先輩が新聞を下ろしました。
「お前、昨日あれだけ言っといて、そこからか」
「そこからです。定義を雑にすると全部崩れます」
片桐所長は帳簿を閉じました。
「行政機関が、行政目的を達成するため、相手に一定の行動を求める。ただし、命令や処分として強制するものではない。そう考えればいい」
私は頷きながら書きます。
行政指導。
行政機関が、その任務や担当する事務の範囲で行政目的を実現するため、特定の者に一定の作為または不作為を求める指導、勧告、助言その他の行為。
そして、処分には当たらないもの。
「作為と不作為って、字面が堅いですよね」
「法律用語だからな」
「普通に言えば?」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「何かしてくれ。あるいは、何かするな」
「なるほど」
昨日の小野寺さんなら、
看板を撤去してください。
商品台を片づけてください。
これは「何かしてくれ」の方。
逆に、
店先に新しいのぼりを出さないでください。
なら「何かするな」の方です。
「ただし」
私はペンを止めました。
「ここで大事なのが、“処分じゃない”ですね」
「そうだ」
所長が答えます。
私はノートに線を引きました。
行政処分。
行政庁が、公権力を行使して、法律上の効果を一方的に生じさせるもの。
行政指導。
相手方に協力を求めるもの。
行政指導そのものによって、相手に法的義務が生じるわけではない。
「昨日の看板撤去の話も」
私は言いました。
「倉田係長は、『撤去命令です』とは言っていませんでした」
「ああ」
「『協力してください』だった」
「そうだな」
「だから、まず処分と行政指導を混ぜたら駄目」
私は大きく書きます。
――処分か、行政指導か。
ここを最初に切る。
「試験でも現場でも、大事そうですね」
「現場ではもっと大事だ」
所長が言いました。
「処分なら、相手に法律上の効果を与える。指導なら、原則として相手の協力を求めるだけだ。そこを曖昧にすると、相手は必要以上に萎縮する」
昨日の小野寺さんが、まさにそうでした。
命令は受けていない。
補助金もまだ申請していない。
なのに、
役所に逆らったら何かされる。
そう思って、申請すること自体を諦めかけた。
私はペン先で「行政指導」の文字を軽く叩きました。
「非権力的な事実行為」
相馬先輩がこちらを見る。
「また受験生語が出たな」
「大事なんです」
「説明してみろ」
「行政指導は、行政が権力で一方的に義務を発生させる行為じゃない。だから非権力的」
「うん」
「それから、それ自体で法律関係を変えるというより、実際に相手へ働きかける行為だから、事実行為」
「大体いい」
所長が言いました。
つまり。
倉田係長が、
「看板を撤去してください」
と言っただけでは、
その瞬間に小野寺さんへ法的な撤去義務が発生するわけではない。
行政指導は、
法的強制ではなく、
相手の協力を通じて行政目的を実現する仕組みです。
「じゃあ」
私はノートに次の見出しを書きました。
――行政指導の一般原則。
「未来では、これが三本柱になります」
「未来?」
相馬先輩が眉を上げます。
「いえ、私の脳内予想です」
「お前の予想、たまに妙に具体的だな」
「気のせいです」
危ない。
未来人は口が滑ると面倒です。
私は頭の中で、行政手続法三十二条を開きました。
一つ。
任務または所掌事務の範囲を逸脱してはならない。
二つ。
行政指導は、相手方の任意の協力によってのみ実現される。
三つ。
行政指導に従わなかったことを理由として、不利益な取扱いをしてはならない。
「まず一つ目」
私は言いました。
「役所は、何でも指導していいわけじゃない」
「当たり前だ」
相馬先輩が言います。
「でも試験になると、この当たり前を難しい日本語にするんですよ」
「法律だからな」
「行政指導を行う行政機関は、その任務または所掌事務の範囲を逸脱してはいけない」
私はそう書きました。
「所掌事務って、平たく言えば担当業務ですよね」
「そう考えていい」
所長が答えます。
昨日の件なら、商工観光課。
駅前の観光振興。
商店街の活性化。
駅前整備に伴う事業者との調整。
このあたりは、商工観光課の担当事務に入り得る。
だから、
駅前整備の目的を説明して、
店に看板撤去への協力を求める。
そこまでは、少なくとも担当外とは言い切れません。
「でも」
私は言いました。
「例えば商工観光課の職員が、小野寺さんに『看板を撤去しなければ飲食店営業許可を取り消します』とか言い始めたら?」
「洋品店だぞ」
「例えです」
「例えが雑だ」
「じゃあ建築確認でも何でもいいです」
所長が言いました。
「自分たちに与えられた仕事の範囲を超えて、他の行政分野まで利用して従わせようとするなら問題になる」
「ですよね」
行政機関には役割分担があります。
役所だから一枚岩。
全部まとめて「行政」。
そう見えますが、
内部では担当も権限も違う。
だから行政指導も、
その行政機関の任務や所掌事務から離れてはいけない。
「これ、地味だけど大事ですね」
「役所の肩書は万能免許じゃない」
相馬先輩が言いました。
「おお」
「何だ」
「今日もたまに格好いい」
「靴下よこせ」
「やっぱり駄目です」
私は次の見出しへ進みました。
――二つ目。行政指導の任意性。
「ここが昨日の事件の中心ですね」
「そうだな」
所長が答えます。
行政指導は命令ではない。
行政が、
こうしてください。
こうしないでください。
こうしていただけませんか。
と求める。
でも、
従うかどうかは相手方に委ねられている。
相手が協力するかどうかは任意。
「だから昨日、小野寺さんは看板撤去のお願いを断ること自体はできた」
「ああ」
「法的な撤去義務が別にあるなら別として、あの市の『駅前整備への協力依頼』それ自体から義務は生じない」
「そういうことだ」
私はノートに大きく書きました。
行政指導=お願い。
ただし。
ここで相馬先輩が鼻で笑いました。
「そんな覚え方でいいのか」
「雑ですけど、本質は近いです」
「じゃあ役所が『お願いだから』って言えば、何してもいいのか」
「駄目です」
「なぜ」
来ました。
受験生に質問する側の顔。
この人、絶対こういうの楽しんでます。
「任意じゃなくなるからです」
「具体的に」
私は昨日の場面を思い返しました。
『もちろん強制ではありません』
『ただ、協力していただけないお店については、今後の支援も難しくなるかもしれませんね』
「こういうやつです」
私は言いました。
「口では『自由です』と言う。でも断ったら別のところで不利益がありますよ、と匂わせる」
「うん」
「それだと、相手は自由に選べない」
「そうだな」
「つまり、形式上『お願い』と言っていても、実質的に断れないような圧力をかければ、任意性が壊れる」
所長が頷きました。
「行政指導は、相手方の協力によって成り立つ。強制力を持たせれば、行政指導という形を使う意味が変わってしまう」
私は少し考えてから言いました。
「行政指導って、弱いから駄目なんじゃないんですね」
「どういう意味だ」
「強制できないことが欠点じゃなくて、強制できないこと自体が性質なんだなって」
昨日までの私は、
処分の方が強い。
行政指導は弱い。
だから処分の下位互換。
なんとなく、そんなイメージを持っていました。
でも違う。
行政指導には行政指導の役割がある。
法律で一方的に強制するより、
話し合いや協力で目的を実現した方がいい場面がある。
柔軟に調整できる。
相手の事情も聞ける。
行政と市民の間に、いきなり「命令」を持ち込まなくて済む。
ただし。
その柔らかさに、
権力の重さをこっそり混ぜた瞬間、
話が変わる。
「昨日の倉田係長は」
私は言いました。
「看板撤去を命令できると言ったわけじゃない」
「ああ」
「でも、『従わないなら補助金で困るかもしれない』という雰囲気を出した」
「そうだな」
「すると、小野寺さんは命令を受けてないのに、命令を受けたみたいに動きかけた」
「そこが危ない」
所長が言いました。
行政指導の怖さ。
私は少しだけ分かった気がします。
処分なら、
処分です、と形が見える。
行政指導は、
お願いです、と柔らかい。
だからこそ、
どこからが圧力なのか見えにくい。
その見えにくさを、
未来の法律は整理する。
行政手続法第三十二条。
行政指導の内容は、
あくまでも相手方の任意の協力によってのみ実現されるもの。
「“あくまでも”って、法律にしては珍しく感情が入ってる感じしますね」
「そうか?」
「絶対に忘れるなよ、って感じがします」
行政指導は、
強制じゃない。
相手方が協力して初めて実現する。
この線を越えてはいけない。
そして。
「三つ目」
私は一番大きな字で書きました。
――不利益な取扱いの禁止。
「これですね」
昨日の事件が、
全部ここへ集まります。
小野寺さんは、
看板を撤去しなければ補助金申請で不利になる。
そう受け取りました。
実際、倉田係長も、
協力していただけない店は今後の支援が難しくなるかもしれない。
そう言った。
「もし本当に」
私は言いました。
「看板撤去の行政指導に従わなかったという理由だけで、補助金を不採択にしたら?」
「問題だ」
所長が答えます。
「未来なら明文でアウト」
「未来って言ったぞ」
「脳内未来です!」
「苦しいな」
気にしない。
私は続けました。
行政指導を受けた者は、
従う義務がない。
ならば。
従わない自由がある。
その人を、
「行政指導に従わなかったから」
という理由で不利益に扱えば、
従わない自由は名目だけになります。
「簡単に言えば」
私は言いました。
「『断っていいですよ。ただし断ったら損させます』は、断っていいことにならない」
「そういうことだ」
所長が答えます。
ここで相馬先輩が言いました。
「じゃあ何でも不利益にできないのか」
「え?」
「例えば補助金そのものの目的として、看板を撤去する店舗だけを対象にする制度だったらどうする」
「あ」
来ました。
引っかけポイント。
私は少し考えます。
「それは……話が別ですね」
「なぜ」
「行政指導に従わなかったことへの制裁じゃなくて、補助金自体の要件だから」
所長が頷きました。
「そうだ」
私はノートに書き足します。
重要。
何でもかんでも、
行政指導に従わなかった後に不利益な結果が出れば違法、
という単純な話ではない。
見るべきは、
何を理由に不利益な扱いをしたのか。
たとえば。
駅前景観改善補助金。
対象は、
指定された景観基準に合わせて看板を改修する店舗。
そういう制度だったとします。
その補助金を、
看板を改修しない店が受けられない。
これは当然あり得る。
補助制度そのものの要件だからです。
でも昨日の話は違いました。
小野寺さんが申請しようとしていたのは、店舗改装の補助。
しかも現時点で、
看板撤去への協力が交付要件として明示されていたわけではない。
それなのに、
別途行っている行政指導に従わない店について、
「支援が難しくなるかもしれない」
と圧力をかけた。
「だから昨日、所長が聞いたんですね」
「何をだ」
「補助金の交付要件に、駅前整備への協力が入っているのか」
「ああ」
「もし正式な要件なら、その要件として話せばいい。でも要件じゃないなら、行政指導に従わせるための人質みたいに補助金を使っちゃ駄目」
「人質は言い過ぎだ」
相馬先輩が言います。
「でも分かりやすいでしょう」
「まあな」
私は大きく丸をつけました。
試験で重要なのは、
「行政指導に従わなかったことを理由として」
という部分。
理由が重要。
行政指導に従わなかった。
だから許可しない。
だから補助しない。
だから別件で冷遇する。
そういう制裁的な扱いは駄目。
でも、
本来の法令上の要件を満たしていないから不利益な結果になる。
それとは区別しなければいけない。
「行政法って」
私はため息をつきました。
「いつも『理由を見ろ』って言ってきますね」
「外形だけ見ても分からんからな」
所長が答えました。
私はノートを一度閉じかけて、また開きました。
「もう一つ気になることがあります」
「何だ」
「行政指導に従わないから不利益に扱っちゃ駄目なら、行政指導って実効性なくならないんですか」
相馬先輩が笑いました。
「役所側の言い分みたいになってきたな」
「でも現場では思いますよ。お願いして、嫌ですと言われたら終わりでしょう?」
「それでも必要なら、法律に基づく手段を使う」
所長が答えました。
「法律上、命令できるなら命令する。許可の要件に反するなら、要件に従って判断する。行政指導しかできないなら、説明して協力を求める」
「つまり」
私は言いました。
「行政指導で強制できないからって、行政が何もできないわけじゃない」
「そうだ」
「本当に強制が必要なら、強制できる法律上の根拠を使え」
「そういうことだ」
なるほど。
ここで、昨日の景色がまた違って見えます。
市役所は、
駅前をきれいにしたい。
看板を整理したい。
でも、
それを法的義務として強制する根拠がなければ、
行政指導という形で協力を求める。
それ自体はあり得る。
問題は、
行政指導という柔らかい道具を使いながら、
実質だけ命令にしてしまうこと。
「行政指導って、抜け道じゃないんですね」
「何のだ」
「法律上は命令できないけど、役所の圧で同じ結果にすればいいや、という抜け道」
「そんなものを認めたら、法治行政の意味がなくなる」
所長の言葉は短い。
でも重かった。
そうか。
ここは行政手続法三十二条だけの話じゃない。
法律による行政。
行政は、法律上認められた手段と権限に従って動く。
法律で強制できないものを、
「お願い」という名前で実質的に強制してしまえば、
法律による制限をすり抜けてしまう。
だから、
行政指導が任意であることには意味がある。
「もう一つ、試験で引っかかりそうなところ」
私は言いました。
「行政指導に従わなかったら、相手は絶対に何の不利益も受けない、って覚えるのは危ない」
「そうだな」
「正確には?」
「行政指導に従わなかったことを理由として、不利益な取扱いをしてはならない」
所長が答えました。
そこです。
文字が一つ違うだけで、意味が変わる。
結果として不利益な状態になった。
イコール違法。
ではない。
行政指導への不服従を理由とする制裁的な取扱いが問題になる。
行政法。
相変わらず日本語の助詞一個で受験生を仕留めにきます。
「それから」
相馬先輩が言いました。
「昨日の小野寺さんが、『じゃあ俺は行政指導には絶対従わない』と言い出したらどうする」
「急に一人称がおかしいです」
「細かいことはいい」
「協力するかどうかは本人の自由です」
「何でも断れば得か」
「それも違います」
私は少し笑いました。
「行政指導が悪いんじゃないんですよね」
「そうだ」
所長が答えます。
行政指導は、
行政と市民が対話して、
強制せずに行政目的を実現するための手段です。
例えば、
危険があるから設備を改善してほしい。
近隣とのトラブルを減らすため、こういう方法を取ってほしい。
許可申請の前に、この資料も準備した方がいい。
そうした助言や協力要請まで全部悪いわけではない。
「むしろ」
私は言いました。
「小野寺さんだって、歩行者の邪魔になる看板があると分かれば、たぶん協力したと思います」
「ああ」
「何が嫌だったかって、理由が曖昧なまま『全部どけて』と言われて、その上で『断ったら補助金がね』と匂わせられたことなんですよね」
「そういうことだ」
私は昨日、倉田係長へ聞きました。
歩行者の邪魔になるものを撤去してほしいのか。
景観を統一したいのか。
道路上の物を問題にしているのか。
私有地内も全部対象なのか。
それが整理されていなかった。
行政指導は、
命令ではない。
だからこそ、
説明と納得が重要になる。
力で押せないなら、
相手に協力してもらうしかない。
協力してもらうには、
何のためか。
何を求めているか。
なぜその人に求めるのか。
分かるように話さなければならない。
「制度の弱さが」
私は呟きました。
「ちゃんと運用すれば、逆に丁寧さを要求するんですね」
所長が私を見ました。
「そういう面はある」
なんだか、少し面白い。
処分なら、
法律上の権限によって一方的に効果を生じさせる。
行政指導は、
相手の任意の協力が必要。
だから、
話し合わなければ進まない。
制度として強くない。
でもその弱さが、
行政に「ちゃんと説明しろ」と迫ることがある。
「未来の法律は」
私は心の中で思いました。
ずいぶん上手く整理したものです。
任務又は所掌事務の範囲を逸脱するな。
任意の協力によってのみ実現せよ。
従わなかったことを理由に不利益に扱うな。
三つ。
たった三つ。
でも昨日の事件を全部入れることができる。
「こはる」
所長が言いました。
「試験なら、何を覚える」
「三本柱です」
私は指を一本立てました。
「一つ。行政指導は、その行政機関の任務または所掌事務の範囲内で行う」
二本目。
「二つ。相手方の任意の協力によって実現される。従う法的義務はない」
三本目。
「三つ。従わなかったことを理由として、不利益な取扱いをしてはならない」
「処分との違いは」
「行政指導は処分ではない。原則として、それ自体から法的義務を発生させるものではない」
「不利益取扱いのところで注意することは」
「『結果として不利益になれば何でも禁止』ではなく、『行政指導に従わなかったことを理由として』不利益に扱うことが禁止される」
「よし」
片桐所長が帳簿へ視線を戻しました。
合格。
なんでしょうか。
この人の「よし」は、模試のA判定より嬉しい気がします。
「先輩」
「何だ」
「試験問題出してください」
「面倒だ」
「そこを何とか」
相馬先輩はしばらく考えてから言いました。
「市役所が飲食店に、店先のごみ箱を撤去するよう行政指導をした」
「はい」
「店が断った」
「はい」
「市役所は腹を立てて、別件の許可申請を、行政指導に従わなかったことだけを理由に不許可にした」
「駄目」
「なぜ」
「行政指導への不服従を理由とする不利益取扱いだから」
「じゃあ、その許可申請が法律上の要件を満たしてなかったら」
「普通に不許可になり得ます」
「行政指導を断ってても?」
「そこは関係ない。法令上の要件を満たさないことが理由だから」
「じゃあ行政指導を受けた側は、必ず従わなくていいのか」
「行政指導そのものには従う法的義務はない。でも別の法律上の義務があるなら、そっちは別」
相馬先輩が少しだけ口の端を上げました。
「まあいい」
「褒めてください」
「嫌だ」
「任意で拒否された」
私はノートに最後の線を引きました。
今日の一行の覚え書き。
何を書くか。
昨日の私は、
――お願いは、断れるからお願いである。
そう書きました。
でも今日なら、もう少し正確に書けます。
私はゆっくりペンを走らせました。
――行政指導は「従え」ではない。「協力してほしい」であり、断った相手を罰した瞬間、その任意性は壊れる。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「一行です」
「字が小さいだけだろ」
「じゃあ短くします」
私はその下へもう一つ書きました。
――お願いに従わない自由まで守って、初めて行政指導。
相馬先輩がそれを見ました。
「そっちでいいんじゃねえか」
「ですよね」
片桐所長がぽつりと言いました。
「ただし、自由には責任もある」
私は顔を上げました。
「責任?」
「行政指導を断れば、行政目的そのものが消えるわけじゃない。危険があるなら危険は残る。必要な調整なら、別の方法で解決しなければならん」
「なるほど」
断れる。
だから何をしてもいい。
ではない。
行政も市民も、
相手を強制できない場所では、
話をするしかない。
昨日、小野寺さんの看板は、
まだ撤去すると決まったわけではありません。
でも今度は、
歩行者の邪魔なのか。
景観上どこまで統一が必要なのか。
店の営業にどんな影響が出るのか。
一つずつ話すことになる。
それがたぶん、
行政指導の本来の姿なのだと思います。
私はノートを閉じました。
法律用語は冷たいです。
行政指導。
任務。
所掌事務。
任意性。
不利益取扱い。
文字だけ見れば、相変わらず眠くなりそうです。
でも。
その冷たい言葉が守ろうとしているものは、
案外、人間くさい。
役所の人に逆らうのが怖い。
補助金をもらえなくなるかもしれない。
今後、目をつけられるかもしれない。
だから、本当は嫌でも従う。
そういう目に見えない圧力から、
「嫌なら断っていい」
という小さな自由を切り出す。
制度の冷たさが、
役所の曖昧な圧力を冷ましてくれる。
それなら、
行政法も悪くありません。
「よし」
私は立ち上がりました。
「何だ」
「帰ります」
「靴下忘れるなよ」
相馬先輩が、水玉靴下を指さしました。
「……先輩」
「何だ」
「それ、持って帰れという行政指導ですか」
「いや」
「じゃあ拒否します」
「小野寺さんの厚意だぞ」
「うっ」
強い。
法律上の強制力はない。
でも道徳的圧力がすごい。
私はしぶしぶ水玉靴下を鞄へ入れました。
「従ったじゃねえか」
「任意です」
「本当に?」
「……相手方の任意の協力によって実現しました」
相馬先輩が笑います。
所長も新聞の向こうで、少しだけ肩を揺らしました。
昭和六十三年。
この町には、まだ行政手続法はありません。
でも。
その法律が後に言葉にする問題は、
もう役所の窓口にも、
駅前の洋品店にも、
こうして存在しています。
法律より先に、困る人がいる。
だから後から、
線が引かれる。
行政指導は、
お願いだから弱いのではありません。
お願いのままでいることを要求される制度なのです。
そして、そのために一番大切なのは、
たぶんこれです。
「断ってもいいですよ」
と言うだけでは足りない。
断った人を、
本当に断った人として扱えること。
そこまであって初めて、
任意という言葉は、本物になる。
私は鞄の中の真っ赤な水玉靴下を見ました。
……これは。
本当に任意だったんでしょうか。
少なくとも明日は、
履かない自由を行使しようと思います。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




