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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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[行政手続法32条・行政指導の一般原則]現場編 「協力しないなら、次の申請も難しくなりますよ」の罠。任意のお願いと、拒否できない圧力を混ぜる役所

挿絵(By みてみん)

 役所の「お願い」は、ときどき命令より怖いです。


 命令なら、まだ分かります。


 何の法律に基づくのか。

 誰に命じる権限があるのか。

 従わなければどうなるのか。


 聞くことができます。


 ところが「お願い」は厄介です。


 お願いですから。

 協力していただければ。

 皆さんそうされていますので。


 そう言いながら、出口のところに、


 ――断ったら分かっていますね。


 という空気だけ置いていく。


 法律の条文より、よほど読みにくい代物です。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所で、私は朝から一枚の紙を睨んでいました。


「……先輩」


「何だ」


「これ、お願いなんですか」


「本人はそう言ってる」


「お願いにしては、ずいぶん拳が硬くありません?」


「知らん」


 相馬先輩は煙草をくわえたまま、私の手から紙を取り上げました。


 市役所商工観光課。


 駅前再整備事業に伴う協力依頼。


 文面だけなら穏やかです。


 駅前の美観向上。

 歩行者動線の確保。

 観光客の利便性向上。


 そのため、駅前通りに面する店舗には、店先の立て看板、商品台、のぼり等を自主的に撤去してほしい。


 ここまでは分かります。


 問題は、その下。


『なお、本事業への協力状況については、今後の駅前振興施策その他の行政上の対応において、参考とする場合があります』


「参考」


 私は読み上げました。


「便利な言葉ですね」


「役所は便利な言葉が好きなんだよ」


「何を参考にして、何をするんです?」


「そこを聞きに行く」


 相馬先輩が紙を畳みました。


「相談者、来るぞ」


 ちょうどそのとき、事務所の戸が開きました。


「あの……片桐先生――じゃなくて、片桐所長さんはこちらでしょうか」


 入ってきたのは、五十代くらいの女性でした。


 紺色のエプロン。

 両手に細かな切り傷。

 買い物袋のような布鞄を、胸の前で抱えています。


「小野寺和枝です。駅前で、小野寺洋品店をやっております」


 声は穏やかでした。


 でも、その穏やかさの下に、寝ていない人特有の細い震えがありました。


 片桐所長が応接の椅子を勧めます。


「お話は相馬から少し聞きました。店先の看板の件ですね」


「はい」


 和枝さんは頷きました。


「看板だけなら、まだいいんです」


「だけなら?」


「昨日、市役所の人が店に来たんです」


 嫌な予感。


 こういうときの私の嫌な予感は、最近かなり当たります。


「何と言われました」


「来月から駅前の空き店舗に、新しい店を入れる事業を始めるそうで。うちも改装の補助金を申し込もうと思っているんですが……」


 和枝さんは膝の上で手を組みました。


「看板をすぐ片づけてください、と」


「それはこの文書どおりですね」


「はい。でも私、言ったんです。うちは道路には出してません。全部、自分の店の敷地の中ですって」


 私は顔を上げました。


「敷地内なんですね」


「ええ。昔、父が置いた小さな商品台もありますけど、通行の邪魔にはなってません」


「それでも撤去しろと?」


「駅前全体で統一したいから、と」


 まあ。


 美観の統一。


 行政が好きそうな単語ランキングがあるなら、かなり上位に入りそうです。


「それで?」


 片桐所長が短く促しました。


 和枝さんは一度、唇を噛みました。


「私が『少し考えさせてください』と言ったら、担当の方が……」


 そこで言葉が止まります。


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「何て?」


「『もちろん強制ではありません』って」


「……はい」


 私は嫌な予感が確信に変わっていく音を聞きました。


「そのあとに?」


「『ただ、協力していただけないお店については、今後の支援も難しくなるかもしれませんね』って」


 来ました。


 お願いの背中に棍棒。


 私は思わず天井を見ました。


 行政法。


 あなた、そういうところですよ。


「具体的に、何の支援と言いました?」


 所長が尋ねます。


「私が『改装補助金のことですか』と聞いたら……」


「何と?」


「『そういうのも含めてです』と」


 部屋の温度が一度下がった気がしました。


 相馬先輩が低い声で言います。


「名前は」


「倉田さんです。係長さん」


 私は思わず「あっ」と声を出しました。


「知ってるのか」


「前にも市役所で会いました」


 融通は利かない。


 でも、露骨な悪人ではない。


 むしろ、役所の事情を全部背負い込んで、説明を雑にしてしまうタイプ。


 つまり。


 ものすごく、ありそう。


「補助金の申請は、もう出しましたか」


「まだです。募集が来週からで」


「要件は?」


「店舗の改装費の一部が出るってことしか……」


 片桐所長が私を見ました。


「こはる」


「はい」


「何が気になる」


 最近、この質問をされると、少しだけ背筋が伸びます。


 試験問題なら四択があります。


 現場にはありません。


 その代わり、困っている人の顔があります。


 私は和枝さんの手元の紙を見ました。


「……まず、看板を撤去してください、という話と、補助金を出すかどうかの話を分けたいです」


 相馬先輩がこちらを見る。


「続けろ」


「看板撤去が、法律とか条例で義務なら別です。でも今の話だと、市役所は“自主的に協力してください”と言ってる」


「そうだな」


「だったら、断る余地があるはずです」


 和枝さんが顔を上げました。


「断っても、いいんですか」


「そこを確認したいんです」


 私は紙の末尾を指しました。


「強制じゃないと言いながら、断ったら別の補助金で不利になりますよ、ってなると……それ、本当に自由に断れるお願いなんでしょうか」


 所長が頷きました。


「そこだ」


 胸の中で、昨日までテキストの中にいた言葉が、ぴくりと起き上がりました。


 行政指導。


 処分ではない。


 相手方に一定の作為や不作為を求める。


 でも、強制ではない。


 未来の私は、その先を知っています。


 行政手続法三十二条。


 行政指導は任意の協力によってのみ実現されるもの。


 従わなかったことを理由に、不利益な取扱いをしてはいけない。


 けれど。


 今は昭和六十三年です。


 その法律は、まだない。


 私の頭の中にしかない。


 口に出したら、たぶん相馬先輩に病院を勧められます。


「……でも」


 私は慎重に言葉を選びました。


「法律の条文がまだそこまで整理してなくても、考え方として変ですよね」


「何がだ」


 相馬先輩が聞きます。


「任意の協力なら、断ったことだけを理由に、別のところで制裁みたいな扱いをするのは」


 所長が短く答えました。


「筋が違う」


 それでした。


 未来の条文を知らない昭和の実務家が、たった四文字で核心を言いました。


 筋が違う。


 法律って、たぶん後から生まれることがあります。


 問題が先にある。


 揉める。


 誰かが困る。


 裁判になったり、議論になったりする。


 その積み重ねを、後の法律が言葉にしていく。


 行政手続法も、たぶんそうなのだ。


「もう一つあります」


 私は言いました。


「商工観光課が、どこまでのことを“お願い”できるのか」


「ほう」


「駅前の観光振興や美観なら、商工観光課の仕事の範囲かもしれません。でも例えば、『従わないなら営業そのものをさせない』みたいな話まで言い出したら、担当の範囲や権限が別ですよね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言う。


「役所だからって、何でも口出しできるわけじゃねえ」


 それも。


 未来なら、行政指導は任務または所掌事務の範囲を逸脱してはならない。


 そう条文になる。


 私は少しだけ鳥肌が立ちました。


 昭和のこの机の上に、


 まだ存在しない法律の材料が、


 もう全部転がっている。


「市役所へ行くぞ」


 片桐所長が立ち上がりました。


「えっ、今から?」


 私は壁の時計を見ました。


 午後二時十二分。


「役所はまだ開いてる」


「そういう意味じゃなくて」


「論点が出たなら確認する」


 昭和の行政書士、展開が早い。


 市役所の商工観光課には、駅前再整備の模型が置いてありました。


 古い商店街の一角に、新しい歩道。

 街灯。

 植栽。

 観光案内所。


 模型だけ見ると、未来はずいぶん綺麗です。


 問題は、模型の下で暮らしている人間が、だいたい模型ほど綺麗に並んでくれないことです。


「倉田係長、います?」


 相馬先輩が窓口で言うと、奥から見覚えのある顔が出てきました。


「ああ……また片桐事務所ですか」


「嫌そうですね」


 思わず言うと、倉田係長が私を見ました。


「君か。前の団子屋の」


「団子屋ではありません。見習いです」


「似たようなものだろ」


「全然違います」


 少しだけ空気が緩みました。


 でも、和枝さんの件を切り出すと、倉田係長の顔はすぐ硬くなりました。


「小野寺さんですか」


「昨日、店へ行ったそうですね」


 片桐所長が言います。


「はい。駅前整備について協力をお願いしました」


「強制ですか」


「いえ」


「なら、拒否できますね」


「まあ……形式的には」


 形式的には。


 私はその言葉を脳内で赤丸しました。


 嫌な日本語です。


「形式的って何ですか」


 私は聞きました。


「いや、駅前の店舗にはできる限り協力してもらわないと困るんですよ」


「困るのは分かります」


「歩道整備をして、観光客を呼び込もうとしてる。各店舗が勝手な看板や商品台を出したままでは、統一感がない」


「それは、市の目的ですよね」


「そうです」


「だから協力を求める」


「そうです」


「協力しなかったら?」


 倉田係長が一瞬、黙りました。


 相馬先輩が畳みかけます。


「補助金を出さないんですか」


「出さないとは言ってません」


「じゃあ何て言った」


「今後の行政対応で参考にすると」


「どう参考にする」


「それは……総合的に」


 出ました。


 総合的。


 具体的に言うと困るときに使われがちな、日本語界の煙幕。


 片桐所長の声は静かでした。


「係長。補助金の交付要件に、駅前整備事業への協力がありますか」


「まだ要綱を詰めているところです」


「では現時点では?」


「明文化はしていません」


「看板撤去に応じなかった店舗は、補助対象から除外する予定ですか」


「そこまでは……」


「では、小野寺さんに何を伝えたんです」


 倉田係長の眉間に皺が寄りました。


「こちらも困ってるんですよ」


 その声には、苛立ちだけではありませんでした。


 疲労。


 焦り。


 上から工程を押しつけられている人の声でした。


「駅前整備は市の重点事業です。商店会からは好き勝手な要望が出る。道路課は道路課で動く。建築の担当は別。補助事業もある。なのに、看板一つ動かすにも皆『なぜだ』『根拠は』でしょう」


「当然です」


 相馬先輩が言いました。


「自分の店だからな」


「だから一軒ずつ説得してるんです」


「説得するのはいい」


 所長が言いました。


「脅すな」


 短い。


 倉田係長が黙りました。


 役所の事務机が並ぶ広い部屋で、その一言だけが妙にはっきり響きました。


「脅してなんか」


「『強制ではない。ただし従わなければ今後の支援が難しくなる』。そう言われた相手は、自由に断れると思いますか」


「それは……」


「協力を求めることと、協力しない者に別件で不利益を匂わせることは別です」


 私は思わず続けました。


「もし看板撤去が補助金の正当な交付条件なら、最初から条件として明示すればいいと思います」


 倉田係長が私を見ます。


「……明示?」


「はい。補助金を受けるための要件として、どういう整備が必要なのか。それなら申請する側も判断できます。でも、“お願いです”と言っておいて、断った人だけ後で不利になるかもしれません、では……」


「何だ」


「選ばせているようで、選ばせてません」


 口に出した瞬間。


 あ。


 これだ。


 と思いました。


 行政指導の任意性。


 未来の教科書では、たった数行です。


 行政指導は非権力的事実行為。

 相手方に従う法的義務はない。

 任意の協力によって実現される。


 でも現場で見ると、


 “任意”というのは、


 単に「強制ではありません」と言えば成立するものではない。


 断った後も、本当に断った人として扱われるのか。


 それとも、別の制度で締め上げられるのか。


 そこまで見なければ、任意かどうか分からない。


「倉田さん」


 私は言いました。


「看板撤去を拒否したら、補助金の審査で不利にしますか」


「だから、それは……」


「はいか、いいえでお願いします」


「お前、係長に強いな」


 相馬先輩が小声で言いました。


「先輩がやれって顔してました」


「してねえ」


 しています。


 倉田係長はしばらく考えてから、ため息をつきました。


「……撤去に協力しないという事実だけで、不採択にはしません」


「確認していいですか」


「いいです」


「看板撤去のお願いに従わなかったことだけを理由に、補助金の申請で不利益に扱わない」


「そうです」


 私は片桐所長を見ました。


 所長が頷きます。


「書面にしてください」


 倉田係長の顔が固まりました。


「そこまで?」


「そこまでです」


「口頭で十分でしょう」


「昨日の口頭で揉めてるんです」


 相馬先輩の一言が、綺麗に刺さりました。


 ぐうの音も出ないとは、このことです。


 倉田係長は机の上の鉛筆を弄びました。


「正式な文書にするなら、課長決裁が要ります」


「では取ってください」


「簡単に言いますね」


「簡単な確認でしょう」


 所長が言いました。


「お願いはお願い。補助金は補助金。それを混ぜない。それだけです」


 倉田係長は、しばらく黙っていました。


 やがて。


「……分かりました」


 低い声で答えました。


「今日中は無理ですが、少なくとも小野寺さんには、補助金申請に不利益が生じるという趣旨ではなかったと伝えます」


「それと」


 私は手を挙げました。


「まだあるのか」


「すみません」


「言え」


「看板撤去のお願いについても、何のためのお願いで、どこまでが本当に必要なのか、説明した方がいいと思います」


「具体的には?」


「歩行者の邪魔になるものを撤去してほしいのか。景観を統一したいのか。道路上の物を問題にしてるのか。私有地内も全部対象にするのか」


 倉田係長の目つきが変わりました。


 面倒な小娘を見る目から、


 少しだけ、


 話を聞く価値のある面倒な小娘を見る目へ。


 昇格です。


 たぶん。


「……そこは確かに、整理できていません」


「ですよね」


「君、妙に嬉しそうだな」


「論点が見えると嬉しくなる病気なんです」


「嫌な病気だな」


 相馬先輩が横から言います。


 否定はできません。


 結局。


 その日のうちに、市役所が看板撤去の方針を全部撤回したわけではありませんでした。


 駅前の景観整備も続く。

 各店舗への協力依頼も続く。

 小野寺洋品店にも、店頭の商品台や看板をどうするか、改めて話し合いをすることになりました。


 でも。


 一つだけ、はっきりしました。


 協力しなかったからといって、


 それだけを理由に、


 別の補助金申請で不利益にはしない。


 そして、市役所側も、


 何を義務として求めているのか。


 何を協力として求めているのか。


 混ぜずに説明する。


 たったそれだけです。


 でも和枝さんにとっては、その「たったそれだけ」が大きかった。


 夕方。


 事務所へ戻ると、和枝さんが待っていました。


「どうでした?」


 椅子から半分立ち上がる。


 片桐所長が答えました。


「看板をそのまま置けると決まったわけではありません」


「はい」


「市の協力要請については、改めて内容を聞いて話し合う必要があります」


「はい」


「ただし」


 所長は一度区切りました。


「断ったことだけを理由に、補助金申請で不利には扱わない。市からそう確認を取りました」


 和枝さんの肩が、目に見えて落ちました。


 力が抜けたのです。


「……じゃあ」


「申請していいです」


「出していいんですね」


「もちろんです」


 和枝さんは、何度も頷きました。


「私……申請書、もらいに行くのも怖くなってたんです」


「どうしてです?」


「また言われるんじゃないかと思って」


「何を?」


「協力しない店には出せませんよ、って」


 胸の奥が少し痛みました。


 行政指導。


 テキストでは、


 行政目的を実現するため、特定の者に一定の作為または不作為を求める行為。


 文字にすると無機質です。


 でも。


 その「求める」の力が強くなりすぎると、


 人はまだ拒否すらしていないのに、


 自分から申請を諦める。


 役所が正式に不利益を与える前に、


 市民の側が縮こまってしまう。


 それなら、強制していないから問題ない。


 とは、言えない気がしました。


「小野寺さん」


 私は言いました。


「補助金の申請、出しましょう」


「ええ」


「看板のことは、看板のこととして話しましょう」


「ええ」


「混ぜないで」


 和枝さんは笑いました。


「朝比奈さん、今日そればっかりですね」


「たぶん今日の主題です」


「主題?」


「いえ、こっちの話です」


 危ない。


 シリーズ構成を登場人物に漏らすところでした。


 和枝さんは帰り際、布鞄から包みを出しました。


「これ、皆さんで」


「何ですか?」


「靴下です」


「靴下?」


「洋品店ですから」


 なるほど。


 団子屋なら団子。


 洋品店なら靴下。


 行政書士事務所なら何を差し入れるんでしょう。


 申請書?


 いりません。


「三足あります」


 和枝さんが言いました。


「所長さんと、相馬さんと、朝比奈さん」


「ありがとうございます」


「ただし」


 和枝さんが悪戯っぽく笑いました。


「柄は選べません」


 嫌な予感。


 包みを開く。


 片桐所長。


 紺の無地。


 相馬先輩。


 灰色の無地。


 私。


 真っ赤な水玉。


「なぜ」


「似合いそうだから」


「行政指導ですか?」


「お願いです」


「拒否できます?」


「できますよ」


「じゃあ相馬先輩のと交換を」


「嫌だ」


 即答でした。


「任意の協力って言いましたよね!」


「俺は協力しない」


「制度の趣旨を一番正しく理解してる!」


 和枝さんが声を出して笑いました。


 さっきまで不安で固まっていた顔とは、別人みたいでした。


 その笑い声を聞きながら、私は少しだけ思いました。


 ああ。


 これでいいのかもしれない。


 夕方六時を過ぎると、事務所は急に静かになります。


 電話も減りました。


 外を走る車の音だけが聞こえる。


 私は自分の机に戻って、例によってノートを開きました。


 今日の見出し。


 ――行政指導。


 そこまで書いて。


 ペンが止まります。


「書かないのか」


 相馬先輩が聞きました。


「まだ整理できてません」


「何が」


「今日、市役所がやったことです」


「お願いだろ」


「そうなんですけど」


 お願い。


 でも役所からのお願い。


 拒否できるはずなのに、拒否すれば別のところで損をするかもしれないと感じさせる。


 それは本当に任意なのか。


 そもそも役所は、自分の担当外のことまでお願いできるのか。


 そして。


 お願いに従わなかった人を、


 別の制度で不利に扱っていいのか。


 未来の私は答えを知っています。


 行政手続法三十二条。


 でも、その名前を今ここで書くことはできません。


 まだ六年早い。


 私は妙な気分になりました。


 未来の法律を知っているから偉いわけではない。


 むしろ逆です。


 今日、片桐所長が言った、


 ――筋が違う。


 その感覚を、


 後の時代が条文にしていく。


 法律は突然、天から降ってくるんじゃない。


 こういう店先。


 こういう窓口。


 こういう「お願いですから」。


 そこで生じた小さな息苦しさが積み重なって、


 いつかルールになる。


「所長」


「何だ」


「役所が『お願い』をすること自体は、悪いことじゃないですよね」


「当然だ」


「法律で全部決められないこともありますもんね」


「ああ」


「じゃあ、何が危ないんでしょう」


 所長は帳簿から目を上げました。


「断れないお願いだ」


 私は黙りました。


 それ以上、要ります?


 というくらい短かった。


「断れないなら」


 所長は続けます。


「名前だけお願いにしても意味がない」


 相馬先輩が椅子にもたれました。


「役所だろうが会社だろうが同じだ。『自由ですよ』と言いながら、断った奴を後で締めるなら、自由じゃねえ」


「先輩」


「何だ」


「今日ちょっと格好いいです」


「靴下よこせ」


「評価を撤回します」


 私はノートを見ました。


 まだほとんど白紙です。


 でも今日は、それでいい気がしました。


 分かったことは一つ。


 行政指導は、命令ではない。


 だから役に立たないのではありません。


 むしろ、命令ではないからこそ、


 役所と市民の間を柔らかくつなぐことができる。


 お願いする。


 助言する。


 こうした方がいいと勧める。


 法律で無理やり動かす前に、


 話し合いで目的を達成する。


 それ自体は、悪くない。


 でも。


 柔らかい手だからこそ、


 握る力が強くなったときに気づきにくい。


 「強制ではありません」


 その一言だけでは足りない。


 本当に断れるのか。


 断っても、別のところで罰を受けないのか。


 そもそも、その役所が口を出していい範囲なのか。


 今日の私は、


 そこまで聞かなければ、


 “お願い”の正体は分からないと知りました。


「こはる」


 所長が言いました。


「今日は書かないのか」


「題名だけにします」


「またか」


「今まとめると、未来の法律を書きそうなので」


「何?」


「いえ。こっちの話です」


 危ない危ない。


 私はノートの一番上にだけ書きました。


 行政指導。


 その下に、もう一行。


 ――お願いは、断れるからお願いである。


 少し考えて。


 もう一行、足しました。


 ――断った後まで見て、初めて「任意」かどうかが分かる。


 相馬先輩が横から覗き込みました。


「妙に堅いな」


「じゃあ先輩なら?」


「『嫌なら断れ。ただし後で殴るな』」


「役所の話に殴るを入れないでください」


「分かりやすいだろ」


「否定しづらいのが腹立ちます」


 窓の外では、駅前商店街の明かりが灯り始めていました。


 あの通りでは今ごろ、


 看板を下ろす店。


 下ろさない店。


 迷っている店。


 いろいろあるのでしょう。


 市役所だって、町を良くしたい。


 店だって、商売を続けたい。


 どちらか一方が悪いわけではない。


 だからこそ、


 「お願い」という柔らかな言葉で全部を押し切ってはいけない。


 柔らかな制度には、


 柔らかなままでいるための線が必要なのだと思います。


 未来で、その線には名前がつきます。


 行政手続法第三十二条。


 任務または所掌事務の範囲。


 任意の協力。


 従わなかったことを理由とする不利益取扱いの禁止。


 でも、昭和六十三年の今日。


 私の目の前にあったのは、


 そんな整った条文ではありませんでした。


 補助金を申請したい洋品店のおばさんと。


 駅前を綺麗にしたい係長と。


 そして、


 「強制じゃありませんから」


 という、少しだけ強すぎるお願い。


 法律は、問題のあとから追いつくことがある。


 今日の私は、その途中を見た気がします。


「先輩」


「何だ」


「水玉の靴下、やっぱり交換しません?」


「任意で断る」


「その言葉を今日一番正しく使わないでください!」


 奥で片桐所長が、ほんの少しだけ笑いました。

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