[行政手続法29条・弁明の機会の付与]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間に比べると少しだけ頭がよくなったように見えます。
電話が鳴らない。
客もいない。
相馬先輩も珍しく黙っている。
つまり、私が勉強するには絶好の環境です。
問題は。
「……焼きそば、まだですかね」
「明日だ」
相馬先輩が新聞から顔も上げずに言いました。
「分かってます」
「三分前にも聞いた」
「楽しみなんですよ」
「法理編より?」
「比較対象がおかしいです」
机の上には、昨日の三浦千代さんの件で使った書類が並んでいました。
仮設店舗使用停止処分予定通知。
三浦さんの事情説明書。
写真。
目撃者二人の確認書。
そして私は、その横にノートを開きます。
昨日、題名だけ書いて終わったページ。
――弁明の機会。
今日は、その下を埋める日です。
もっとも。
ここは昭和六十三年。
私の頭の中には、未来の知識があります。
行政手続法。
平成になってから制定され、さらにその後に施行される法律。
今のこの町には、まだ存在しません。
だから私は、未来の条文をそのまま口にすることはできない。
でも。
昨日の三浦さんの事件を見てしまった今なら、あの条文がなぜ必要になるのかは、嫌というほど分かります。
「相馬先輩」
「何だ」
「処分前に本人の言い分を聞くって、何のためですか」
「突然でかい話を振るな」
「勉強です」
「じゃあ自分で考えろ」
「先輩としての教育責任を放棄しましたね」
「見習いの自学自習を尊重してる」
「言い換えれば許されると思わないでください」
奥で帳簿を見ていた片桐所長が、静かに言いました。
「間違った事実で処分しないためだ」
私はペンを止めました。
「まず、そこですか」
「ああ」
「本人を尊重するため、とかではなく?」
「それもある」
所長は帳簿から顔を上げます。
「だが現場では、もっと単純だ。役所が持っている事実が間違っているかもしれない」
昨日の写真を見ました。
市の職員は、三浦さんのプロパンガス容器が共用通路にはみ出していたと思っていた。
三浦さんは、区画の内側だったと主張した。
もし役所側の記録だけで決めていたら。
七日間の使用停止。
でも実際には、市の写真は角度が悪く、白線を越えていたか確認できていなかった。
「なるほど」
私はノートに書きます。
処分前に意見を聞く意味。
行政庁の事実認定が誤っている可能性を減らす。
本人に反論・説明の機会を与える。
提出された資料を判断材料に加える。
「昨日の三浦さんって、まさにこれだったんですね」
「そうだな」
相馬先輩が新聞を畳みます。
「役所は『通路に置いた』。本人は『置いてない』。だったら、処分する前に食い違いを確認しろって話だ」
「十分快い口頭説明だけで済ませずに」
「お前、それ気に入ったな」
「気に入りませんよ。十分快いって言葉に行政の雑さが凝縮されてたじゃないですか」
私はノートの次の行へ、少し大きく書きました。
未来の行政手続法では、不利益処分をする前の意見陳述手続は、大きく二つ。
聴聞。
弁明の機会の付与。
「……並べただけで眠くなりますね」
「昨日はあんなに元気だったくせに」
「現場補正が切れてきました」
「寝るな」
「寝ません」
私は頬杖をつきながら、昨日の三浦さんの顔を思い出します。
この二つ。
どちらも、行政庁が不利益処分をしようとするとき、その相手に「言い分を述べる機会」を与えるためのものです。
つまり。
どちらも、広い意味では意見陳述の手続。
「所長」
「何だ」
「聴聞と弁明って、どっちも『言い分を聞く』なら、何が違うんです?」
所長は少し考えてから言いました。
「重さだ」
「重さ?」
「処分の重さと、それに応じた手続の重さだ」
短い。
でも分かりやすい。
私は未来の知識と照らし合わせます。
聴聞は、より慎重な手続。
口頭で審理が行われる。
当事者が出席し、意見を述べる。
証拠も提出できる。
主宰者が関与する。
一方。
弁明の機会の付与は、それより簡略な手続。
そして未来の行政手続法第二十九条では。
弁明は、原則として書面でする。
行政庁が口頭ですることを認めた場合を除いて。
ここ。
私は昨日の出来事を思い出して、思わずペンを止めました。
「どうした」
「いえ」
私は書きます。
聴聞――原則として口頭審理。
弁明の機会――原則として書面。
「逆に覚えそう」
「覚えるな」
「分かってます。でも似た言葉を並べられると、人間の脳は簡単に裏切ります」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「じゃあ三浦さんで覚えろ」
「昨日の事件で?」
「ああ。もし三浦さんが口で十分喋って終わり、って手続ならどうだった」
「証拠が埋もれてました」
「だから書面にする意味がある」
悔しい。
この人、実務から説明すると急に分かりやすい。
「弁明の機会は、原則書面」
私は声に出します。
「本人が弁明書を出す」
「うん」
「行政庁が口頭でやっていいと認めたときだけ、口頭でもできる」
「未来の制度ではな」
所長が釘を刺しました。
「はい」
大事です。
昭和六十三年の片桐所長は、行政手続法第二十九条を知っているわけではない。
私は未来の制度と、今の行政法実務の感覚を頭の中で重ねている。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「昨日の市役所みたいに、役所側が勝手に『口頭でいいです』って言えばいいのか?」
「え」
私は止まりました。
来た。
たぶん試験に出る聞き方です。
「行政庁が口頭ですることを認めたとき……だから」
「だから?」
「本人が勝手に『口で言います』って決めるわけじゃない」
「そうだな」
「行政庁が口頭による弁明を認める必要がある」
「うん」
私はノートに丸をつけました。
原則――弁明書を提出。
例外――行政庁が口頭ですることを認めた場合。
「つまり昨日の坂上さんの『口で説明してください』とは、ちょっと方向が違うんですね」
「どう違う」
「未来の制度では、書面が原則なのに、昨日は役所が最初から『書面はいりません』って切ってた」
「そうだ」
「しかも証拠まで見ないつもりだった」
そこです。
弁明が原則として書面なのは、単に役所が紙好きだからではない。
少なくとも、昨日の三浦さんを見た私にはそう思えます。
口頭だけなら。
三浦さんは緊張する。
怒る。
言い忘れる。
担当者も聞き落とす。
そして後で、
「本人から事情を聴取した」
という一行だけが残るかもしれない。
でも書面なら。
いつ。
どこで。
何があったか。
何を争っているのか。
誰が見ていたのか。
何を証拠として出したのか。
それを本人側の形で残せる。
「書面って、本人のためでもあるんですね」
「役所のためでもある」
所長が言いました。
「え?」
「後で、何を主張されたか確認できる」
「ああ」
確かに。
役所にとっても、
「そんな話は聞いていない」
「いや言った」
という泥沼を減らせる。
手続というのは、片方だけを守るものではない。
関係者全員の記憶を、紙の上に固定する役目もある。
「じゃあ」
私はページの余白に書きました。
書面審理の利点。
主張内容が明確になる。
記録が残る。
事実関係を整理できる。
判断資料として扱いやすい。
「行政法なのに、急に実用的ですね」
「最初から実用だ」
相馬先輩が言います。
「教科書で読むお前が寝てるだけだ」
「否定できない」
私は次の行へ進みました。
行政手続法第二十九条第二項。
弁明をするときは、証拠書類等を提出することができる。
ここ。
昨日、そのまま起きたところです。
三浦さんが持っていた写真。
徳田さんの確認書。
吉川さんの確認書。
「証拠書類等って、どこまで入るんです?」
「写真もそうだろ」
相馬先輩が即答します。
「確認書も?」
「本人の主張を裏づける資料なら、当然候補になる」
私は頷きました。
未来の条文は「証拠書類等」と書いている。
つまり書面だけに狭く限定する言い方ではない。
本人の弁明を裏づける資料を出せる。
「昨日、もし市役所が写真を最後まで見なかったら」
「たぶん処分してたかもな」
「ですよね」
だったら第二項は、かなり重要です。
言い分だけ聞きます。
でも証拠は見ません。
それでは、反論の機会として半分しか機能しない。
たとえば。
「私が『相馬先輩が団子を二本食べました』って主張して」
「まだ根に持ってんのか」
「証拠写真もある」
「撮ってないだろ」
「仮定です」
「嫌な仮定だな」
「なのに所長が『話だけ聞く。写真はいらない』って言ったら?」
所長が帳簿から顔を上げました。
「相馬が食った」
「そこは事実認定が速い」
「常習だからな」
「所長!」
相馬先輩が抗議します。
私は笑いながらノートに書きます。
弁明の機会では、弁明書だけではなく、証拠書類等も提出できる。
そして。
ここからが、試験で一番やられそうなところ。
「所長」
「何だ」
「聴聞と弁明って、どう使い分けるんですか」
所長は少し黙りました。
当然です。
行政手続法がまだない時代に、未来の条文体系そのままを聞かれても困ります。
私は慌てて付け足しました。
「仮に全国的な一般ルールを作るとしたら、という意味です」
相馬先輩が私を見ます。
「お前、時々妙な仮定するな」
「勉強法です」
「未来人みたいだ」
「ははは」
笑ってごまかします。
危ない。
所長は言いました。
「重大な不利益ほど、慎重な手続が必要になる。それが基本だろう」
「ですよね」
未来の行政手続法でも、その発想があります。
たとえば。
許認可等を取り消す。
資格や地位を直接奪うような、重い不利益処分。
そうした場合には、原則として聴聞。
一方。
それ以外の不利益処分では、原則として弁明の機会の付与。
ただし。
ここで油断すると、試験が牙をむきます。
「原則って言ったな」
相馬先輩が言いました。
「言いました」
「じゃあ例外は?」
「あります」
「即答か」
「教材で見た気がします」
「気がするで答えるな」
私は頭の中を探ります。
業務停止処分。
指示処分。
一般論としては、聴聞ではなく弁明の機会の付与で足りる場面がある。
でも個別法で、聴聞をしなければならないと特別に定めている場合がある。
「たとえば宅建業法です」
「宅建?」
「宅地建物取引業者に対する処分」
私は未来の知識を並べます。
通常なら業務停止や指示処分は、弁明の機会で処理される類型に入り得る。
でも宅建業法では、業務停止処分や指示処分についても聴聞を行う仕組みになっている。
「つまり」
私は書きます。
一般法だけ見て決めつけない。
個別法に特則があれば、そちらを確認する。
「行政法って、原則覚えたところで例外が後ろから殴ってきますよね」
「法律は大体そうだ」
相馬先輩が言いました。
「励まされない」
「事実を言ってる」
私は少し整理しました。
聴聞が必要な場合。
弁明の機会で足りる場合。
ただし個別法が別の手続を要求している場合。
この三段階で見る。
「じゃあ試験で」
私は自分に問いかけるように言いました。
「『業務停止処分だから必ず弁明の機会の付与である』って選択肢が出たら」
「怪しいな」
相馬先輩が言います。
「はい。個別法の特則がないか見る」
「じゃあ『免許取消しだから必ず聴聞』は?」
私は少し考えます。
「一般論としては、重大な不利益処分だから聴聞の類型。でもやっぱり個別法と適用除外は確認する」
「慎重になったな」
「行政法に鍛えられました」
断言すると負ける。
行政法、だいたいこれです。
私はページをめくりました。
「もう一個あります」
「まだあるのか」
「意見陳述そのものをしなくていい場合」
相馬先輩が眉を上げました。
「本人の言い分を全く聞かずに処分していい場合があるのか?」
「未来の行政手続法では、例外があります」
もちろん。
どんな場合でも必ず聴聞や弁明の機会を与えなければならない、というわけではない。
緊急の場合。
法律上、客観的な事実によって処分内容が機械的に決まるような場合。
その他、法律上定められた例外。
そうした場合には、事前の意見陳述手続が不要とされることがある。
「ここも危ないですよね」
「何が」
「『不利益処分なら必ず聴聞か弁明』って覚えると」
「例外で落ちる」
「はい」
試験というものは、人間が覚えやすい形にした瞬間、その簡略化を狙ってきます。
嫌な性格です。
「ただ」
私は言いました。
「昨日の三浦さんの件は、そういう例外に逃げるような場面じゃないですよね」
「緊急でもない」
相馬先輩が言う。
「その場で放置すれば人が死ぬ、みたいな話でもない」
「しかも事実認定そのものが争われてた」
「だから聞く意味が大きい」
「はい」
私は昨日の通知書を指でなぞります。
行政庁が、
共用通路に危険物を置いた。
そう認定した。
三浦さんは、
区画内だった。
と反論した。
この食い違い。
ここで意見陳述の機会が必要なのは、単なる儀式ではない。
結論が本当に変わり得るからです。
実際、変わった。
「所長」
「何だ」
「意見を聞いても、結論を変える義務まではないんですよね」
「当然だ」
「ですよね」
これも重要です。
弁明の機会を与える。
だから本人の言い分を必ず採用しなければならない。
ではない。
聴聞をした。
だから処分できなくなる。
でもない。
行政庁は、出された意見や証拠を踏まえて判断する。
その結果、当初予定どおりの処分になることもある。
昨日だって。
写真を見た結果、本当に白線を越えていたと確認できたなら。
使用停止が適法かどうかは別として、少なくとも事実認定は役所側に有利になったでしょう。
「手続って、本人を勝たせる制度じゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「負け方までまともにする制度だ」
私は顔を上げました。
「……それ、ちょっといいですね」
「何が」
「負け方までまともにする」
「勝手に名言扱いするな」
でも、本当にそうかもしれません。
手続保障は、必ず結論を変える魔法ではない。
負けることもある。
でも。
何も言えないまま負けるのと。
自分の言い分を出し、証拠を示し、そのうえで判断されるのとでは。
同じ「負け」でも、制度としての意味は違う。
「それで」
所長が言いました。
「お前が昨日から気にしてる書面の話は、聴聞との比較で覚えろ」
「はい」
私はノートに線を引きました。
聴聞。
口頭審理が中心。
弁明の機会の付与。
原則として書面審理。
「聴聞は口頭。弁明は書面」
声に出します。
「ただし弁明も、行政庁が認めれば口頭可」
「そう」
「証拠書類等も提出できる」
「そうだな」
「聴聞より簡略な手続」
「うん」
「でも簡略だからって、“十分快い話を聞けばいい”ではない」
「そこは試験答案に書くなよ」
相馬先輩が言いました。
「分かってます」
「お前なら書きそうだから怖い」
書きません。
たぶん。
私は昨日の場面を思い出しながら、もう少し掘ります。
「じゃあ、弁明書って、何を書けばいいんでしょう」
「本人が言いたいことだろ」
「それだけ?」
「お前が昨日書いたのは?」
相馬先輩に言われて、私は三浦さんの書面を見ました。
処分の原因となる事実についての反論。
具体的な日時。
場所。
容器の位置。
見ていた人。
写真。
過去の経緯。
「なるほど」
弁明書という名前に構える必要はない。
大事なのは、処分の原因となる事実や評価について、自分の側の説明を整理して伝えること。
そして必要なら証拠を付ける。
「でも」
私は言いました。
「感情を書いちゃ駄目ですか」
「駄目とは言わん」
所長が答えます。
「ただ、それだけでは弱い」
「ですよね」
三浦さんも最初は、
「違うんです」
「ひどいです」
「困ります」
という言葉が中心でした。
それは当然の感情です。
でも、行政庁の判断を動かす材料としては。
どこに置いた。
白線の内側だった。
誰が見た。
写真がある。
こちらのほうが強い。
「感情を否定するんじゃなくて、事実に翻訳するんですね」
「そういうことだ」
所長が言いました。
私はそこに線を引きました。
現場で使うなら。
怒りを事実に。
不安を時系列に。
反論を証拠に。
「お前、それ好きそうだな」
相馬先輩が言います。
「好きというより、昨日すごく実感しました」
三浦さんは、書面を作ったあと言いました。
自分でも何が言いたかったのか分かった。
あれ。
たぶん弁明の機会のもう一つの意味です。
行政庁に聞かせるだけじゃない。
本人自身が、自分の言い分を整理する。
何を争っているのか。
何が事実なのか。
何を証明できるのか。
それを分ける。
「だから書面なんだ」
私は呟きました。
「何が」
「弁明が原則書面なの、ただ簡略化するためだけじゃないんだなって」
「どういう意味だ」
「聴聞みたいに口頭でやり取りするほど重い手続にしない。でも本人の主張はきちんと形に残す」
「そういう面はあるだろうな」
未来の第二十九条は、たった二項です。
弁明は原則書面。
証拠書類等を提出できる。
文字だけで読めば短い。
でも昨日の事件を重ねると、その二項だけでかなり景色が変わります。
「試験での引っかけ、整理してみます」
「急に受験生になったな」
「ずっと受験生です」
私は指を一本立てました。
「まず。弁明の機会の付与は、口頭審理が原則――これは誤り」
「正しくは?」
「原則書面。行政庁が認めた場合に口頭」
二本目。
「弁明書だけ提出できて、証拠資料は出せない――誤り」
「正しくは?」
「証拠書類等も提出できる」
三本目。
「不利益処分なら全部弁明――誤り」
「聴聞が必要な処分もある」
「はい」
四本目。
「業務停止処分なら絶対に弁明――これも危ない」
「個別法の特則」
「そうです」
五本目。
「意見陳述手続をしたら行政庁は本人の主張どおりにしなければならない――誤り」
「判断材料にはするが、結論が同じになることはある」
「はい」
相馬先輩が腕を組みました。
「じゃあ六つ目」
「まだあります?」
「弁明の機会と聴聞を合わせて何という」
私は一瞬止まってから答えます。
「意見陳述」
「忘れてたな」
「一瞬です」
「忘れてた顔だった」
「顔で採点しないでください」
私は慌てて書き足しました。
聴聞+弁明の機会の付与。
まとめて、意見陳述のための手続。
「ただし」
所長が言います。
「言葉だけ覚えるな」
「はい」
「何を守る手続なのかを忘れると、また昨日みたいになる」
私は頷きました。
昨日の市役所も。
本人の話を聞くこと自体は、予定していた。
だから担当者としては、
手続はしている。
そう思っていたのかもしれない。
でも。
十分だけ口頭で聞く。
書面はいらない。
写真もいらない。
それで、
「本人の事情は聴取した」
と記録する。
形だけ見れば、本人に口を開く機会はあった。
でも中身を見ると。
反論を判断材料に変える仕組みが弱い。
「手続って」
私は言いました。
「やったかどうかだけじゃ駄目なんですね」
「当たり前だ」
「でも実務では、そこが一番危ない気がします」
「そうだな」
所長が答えました。
「時間を取った。呼び出した。話を聞いた。それで満足する」
「手続を、チェック欄にしちゃう」
「そういうことだ」
未来の行政手続法は。
もちろん万能ではありません。
条文ができたから、雑な行政が全部なくなるわけでもない。
でも。
少なくとも。
どういう場合に。
どんな形で。
本人に意見を述べる機会を与えるのか。
それを全国的な一般ルールとして整える意味はある。
昨日まで私は、
行政手続法第二十九条。
弁明は原則書面。
証拠書類等提出可。
それだけ覚えれば試験には足りると思っていました。
でも今は。
その後ろにある理由のほうが、忘れにくい。
役所が間違うから。
本人にしか分からない事実があるから。
言葉は消えるから。
証拠を見れば、結論が変わることがあるから。
そして。
決めてから聞いても遅いから。
「所長」
「何だ」
「意見陳述って、一番大事なのは“前”なんですね」
「何の前だ」
「処分の前」
「ああ」
処分した後で。
「何か言いたいことありますか」
ではない。
それはもう、不服申立てや訴訟など、別の救済の話になります。
意見陳述は、処分する前。
まだ行政庁が結論を変えられる段階で行う。
「昨日も」
私は言いました。
「使用停止を出された後だったら、もっと大変でしたよね」
「当然だ」
相馬先輩が言います。
「処分が出たら、今度はその効力を争う話になる」
「だから事前手続なんですね」
処分前。
ここ。
ものすごく大事です。
未来の試験なら、
不利益処分をした後に弁明の機会を与えればよい。
なんて選択肢が出たら、かなり怪しい。
「ただし緊急例外はある」
所長が言いました。
「はい」
また断言防止装置。
行政法、油断させません。
私はノートの最後に、今日の整理を書きました。
聴聞も、弁明の機会の付与も。
目的は、処分前に本人の意見を行政庁へ届かせること。
ただし手続の重さが違う。
聴聞は、より慎重な口頭審理。
弁明の機会は、比較的簡略で、原則書面。
そして弁明では、証拠書類等も提出できる。
個別法の特則には注意。
意見陳述不要の例外にも注意。
「長いな」
相馬先輩が覗き込みます。
「試験用です」
「一行で書け」
「所長みたいなこと言いますね」
「一行のほうが覚えるだろ」
私は少し考えました。
昨日の市役所。
三浦さん。
写真。
十分。
口頭。
そして、結論が変わったこと。
それらを頭の中で並べます。
それから、ページの一番下に書きました。
――弁明は、「聞いたことにする手続」ではない。処分前に、本人の言い分と証拠を判断材料へ入れるための手続。
相馬先輩が読みました。
「試験答案には長い」
「これは覚え書きです」
「じゃあもう一行」
「まだ?」
「方式」
私はその下に書きます。
――聴聞は口頭。弁明は原則書面。証拠も出せる。
「それなら覚えやすい」
「最初からそっちだけでよかったんじゃ」
「意味を分かってから短くしろ」
不意に。
所長が言いました。
私は顔を上げます。
「丸暗記は忘れる。理由まで分かれば戻れる」
それだけ言って、また帳簿へ目を落としました。
ずるい。
たまにものすごく先生みたいなことを言う。
私はノートを閉じようとして。
もう一度、昨日の通知書を見ました。
七日間の使用停止。
紙の上なら一行です。
でも三浦さんにとっては。
七日分の売上。
七日分の仕入れ。
七日分の常連客。
七日分の生活。
行政処分という言葉は冷たい。
弁明書という言葉も冷たい。
聴聞も。
意見陳述も。
どれも人間味のない名前です。
でも。
その冷たい手続があるから。
担当者の思い込みだけで、人の七日間を奪うことを少し難しくできる。
制度の冷たさは、人を救うことがある。
むしろ。
人情だけで行政を動かすより。
誰にでも同じように、
「決める前に言わせる」
「証拠を出させる」
と決めてしまったほうが、救われる人もいる。
私は未来の行政手続法を、少しだけ好きになりました。
「おい」
相馬先輩が言います。
「何です」
「明日の焼きそば、大盛り交渉どうするんだ」
「弁明書を出します」
「もう諦めろ」
「証拠書類も付けます」
「何の」
「昨日、三浦さんが『大盛りで』って言った事実についての陳述書」
「くだらんことだけ実務化するな」
所長が、顔も上げずに言いました。
「却下」
「まだ提出してません!」
「見込みがない」
「処分前に意見陳述を!」
「これは処分じゃない」
「正論で逃げた!」
相馬先輩が笑いました。
私はノートを閉じます。
夕暮れの窓の向こう。
再整備中の駅前には、工事用の柵が並んでいました。
町はまだ、ごちゃごちゃしています。
道路も。
店も。
役所のルールも。
でも、その雑然とした現場の中から。
少しずつ。
後の時代の手続が形になっていく。
私はそれを、未来から先に知っている。
けれど。
条文を知っているだけでは、本当には分かっていなかった。
昨日まで、
第二十九条は「原則書面」と覚える条文でした。
今日は違います。
言葉を消さないための書面。
見落とさせないための証拠。
決めてしまう前に差し込む、最後の「待ってください」。
それが弁明の機会です。
机の端で、私は最後にもう一度ノートを開きました。
そして今日の一行を、少しだけ書き直します。
――処分する前に、言わせる。残させる。見させる。それが弁明の機会。
今度こそ、ノートを閉じました。
明日は三浦さんの焼きそばが来る。
普通盛りらしいです。
行政手続は前進しましたが、私の大盛り申立てについては、いまだ救済の見込みがありません。
世の中、すべての不利益に手続保障があるわけではないらしいです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




