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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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89/268

[行政手続法29条・弁明の機会の付与]現場編 「口で説明すれば十分です」の罠。十分快い釈明と残る書面、処分前の“言い分”を消させない

挿絵(By みてみん)

 言い分というものは、口で言った瞬間から消えていきます。


 私はこれを、子どもの喧嘩で何度も学びました。


「言った」


「言ってない」


「聞いた」


「聞いてない」


 最終的には、声が大きいほうが若干有利になります。


 ところが。


 これが役所と住民の間で起きると、笑えません。


 なぜなら役所には、紙が残るからです。


 住民には、声しか残らないことがある。


 昭和六十三年。


 地方都市の片桐行政書士事務所で見習いをしている私は、その日、一枚の黄色い紙を見ながら思いました。


 ――これ、かなり嫌なやつだ。


「朝比奈」


「はい」


「さっきから紙を睨んでないで茶ァ出せ」


 相馬先輩が言いました。


「睨んでるんじゃありません。違和感を分析しています」


「茶ァ出してから分析しろ」


「行政法より優先順位が明確ですね」


「客を干からびさせる行政書士事務所があるか」


 もっともです。


 私は急須を持って応接机へ戻りました。


 今日の相談者は、三浦千代さん。


 五十代半ば。


 駅前再整備区域の一角で、小さな焼きそば店を出している女性です。


 店といっても立派な建物ではありません。


 再整備工事のあいだ、市が商店主向けに用意した仮設店舗。


 プレハブの一室で、焼きそばとお好み焼き、それから夏はかき氷を売っている。


 駅前再整備が終われば移転する予定ですが、それまでの二年間は、その仮設店舗が三浦さんの商売の全部でした。


 そして机の上にある黄色い紙には、こう書かれていました。


 ――仮設店舗使用停止処分予定通知。


「一週間、店を閉めろっていうんです」


 三浦さんは湯呑みに触れたまま言いました。


「七日ですか」


「ええ」


「理由は?」


「通路に物を置いたからだって」


 相馬先輩が通知書を取ります。


「物?」


「プロパンガスの空き容器です」


「通路に?」


「置いてません!」


 声が強くなりました。


 三浦さんは、すぐに小さく頭を下げました。


「すみません。でも、本当に違うんです」


「詳しく聞かせてください」


 片桐所長が言いました。


 短い。


 それだけで三浦さんの呼吸が少し落ち着きました。


「先週、市役所の人が見回りに来たんです。そのとき、店の横に空のボンベが一本あったんです」


「仮設店舗の敷地内ですか?」


 私が聞く。


「そうです。うちの区画の中です」


「通路には出ていなかった?」


「出てません」


「写真はあります?」


「あります」


 三浦さんは鞄から茶封筒を出しました。


 写真が三枚。


 もちろんスマートフォンではありません。


 現像された写真です。


 昭和ですから。


 こういう瞬間だけ、時代が妙に主張してきます。


 一枚目。


 仮設店舗の正面。


 二枚目。


 側面。


 三枚目。


 問題のプロパンガス容器。


 なるほど。


 白線が引かれています。


 市が各店舗に割り当てた区画を示す線らしい。


 容器は、その内側にある。


「これ、いつ撮ったんです?」


「見回りの翌朝です」


「翌朝か」


 相馬先輩が唸りました。


 決定打には弱い。


 見回り当日の状態そのものではないからです。


「でも」


 三浦さんが続けます。


「向かいの魚屋の徳さんが見てるんです。役所の人が来たときも、通路には出てなかったって」


「証言してくれます?」


「してくれるって」


「他には?」


「隣の洋品店の奥さんも」


 相馬先輩が通知書へ視線を戻します。


「役所には言ったんですか」


「言いました」


「何て?」


「昨日電話したんです。そうしたら――」


 三浦さんはそこで口をつぐみました。


「何て言われました?」


「明日の午後二時に来て、説明してくださいって」


「それだけ?」


「はい。十分くらいでいいからって」


 私は顔を上げました。


「十分?」


「担当の人が言いました。こっちも忙しいから、十分くらいで事情を聞きますって」


 相馬先輩の眉が上がる。


「で?」


「だから私、写真と、徳さんたちが書いてくれた紙を持っていきますって言ったんです」


「はい」


「そしたら――」


 三浦さんは苦そうに笑いました。


「そんなものは要りません。口で説明してくださいって」


 そこで。


 私の頭の中の何かが、かちり、と鳴りました。


 ――あ。


 これ。


 知ってる。


 いや。


 正確には、未来で知っている。


 令和の行政書士受験生だった私の頭の中に、一つの条文が浮かびます。


 行政手続法第二十九条。


 弁明は、原則として書面でする。


 行政庁が口頭ですることを認めた場合を除いて。


 そして弁明をするときは、証拠書類等を提出することができる。


 ――ただし。


 私は慌てて頭の中でブレーキを踏みました。


 昭和六十三年です。


 行政手続法。


 まだありません。


 未来の法律を役所の窓口で振り回したら、それは転生者ではなく予言者です。


 しかもかなり面倒なタイプの。


「こはる」


 所長が私を見る。


「何だ」


「……いえ」


「顔に出てる」


 相馬先輩も言います。


「お前、また何か見つけただろ」


「見つけたというか……未来が見えました」


「医者行くか?」


「そういう意味じゃありません!」


 三浦さんが困った顔をしています。


 いけない。


 今は未来の行政手続法より、この人の店です。


 私は通知書をもう一度読みました。


 使用停止処分予定。


 違反内容。


 仮設店舗管理要領に反し、共用通路上に危険物を放置した。


 予定される措置。


 七日間の使用停止。


 そして一番下。


 ――処分に先立ち、本人から事情を聴取する。


「所長」


「うん」


「これ、“事情を聴取する”って書いてあります」


「ああ」


「だったら、役所が自分で『処分を決める前に本人の説明を聞く』って言ってるんですよね」


「そうなるな」


「なのに、本人が出したい写真や第三者の話を最初から受け取らないって……何を聞くんでしょう」


 部屋が静かになりました。


 相馬先輩が通知書を机へ置きます。


「十分 快(こころよ)い雑談だろ」


「ですよね」


「処分する側の記録だけ残して、本人は口頭で喋らせる」


「そして後から、“事情は聞きました”で終わる」


 三浦さんの顔が曇りました。


「そんな……」


「まだそうなると決まったわけじゃありません」


 私はすぐ言いました。


「でも、そうならないようにしたほうがいいです」


「どうすれば」


 私は答えかけて、止まりました。


 未来なら簡単です。


 これは不利益処分の事前手続。


 処分の内容によって聴聞か、弁明の機会の付与か。


 弁明なら原則書面。


 証拠書類等も出せる。


 ――でも。


 ここは昭和六十三年。


 全国一律の行政手続法はまだない。


 なら。


 今あるものだけで組み立てるしかない。


「相馬先輩」


「何だ」


「役所って、処分前の本人の言い分を、口頭でしか受けちゃいけない決まりでもあるんですか」


「普通はそんな決まりはない」


「じゃあ書面を出しても?」


「受け取れない理由がなきゃ、出すだけ出しゃいい」


「ですよね」


 相馬先輩が私の顔を見ました。


「お前、また論点で喋ってるぞ」


「今回はかなり実務的だと思います」


「自分で言うな」


 所長が写真を一枚持ち上げました。


「三浦さん」


「はい」


「明日、役所へ行く前に、こちらで書面を作りましょう」


「書面?」


「あなたの説明です」


 所長は写真を机へ戻します。


「いつ、どこに、何を置いていたか。通路には出ていなかったこと。見ていた人がいること。写真があること。それを順に書く」


「でも役所は、紙はいらないって……」


「いらないと言われても、こちらは残します」


 その一言は、妙に重く響きました。


 制度が整っていない。


 全国一律の手続もない。


 だからこそ。


 自分の言葉を、自分で紙に残す。


 私は未来の条文を思いながら、少しぞくりとしました。


 後の時代なら、こういう場面にもっと名前がつく。


 弁明の機会。


 書面。


 証拠書類。


 でも昭和六十三年の今、その整然とした箱はまだない。


 箱がないから、問題もないわけではありません。


 箱がないまま、問題だけが先に生きている。


「こはる」


「はい」


「書け」


 所長が言いました。


「私がですか?」


「見習いだろ」


「見習いって、便利に使われる言葉ですね」


「嫌なら相馬にやらせる」


「朝比奈、やれ」


「即答!」


 私は便箋を引き寄せました。


 まず事実。


 市の見回りがあった日時。


 三浦さんが空容器を置いていた位置。


 白線との関係。


 共用通路を塞いでいなかったという主張。


 そして証拠。


 写真三枚。


 魚屋の徳田さんの確認書。


 洋品店の吉川さんの確認書。


 さらに。


「三浦さん」


「はい」


「もし仮に、容器の置き方に問題があったとしても、市から前に注意されたことは?」


「一度もありません」


「同じ場所に置いていたのは?」


「ずっとです」


「他のお店は?」


「似たようなもんですよ。ビールケースとか、段ボールとか」


 相馬先輩が言います。


「そっちは書き方に気をつけろ。『他もやってるから俺もいい』じゃ弱い」


「はい」


 その通りです。


 違反が違反でなくなるわけではない。


 ただ。


 いきなり七日間の使用停止という扱いが適切なのか。


 事実認定が合っているのか。


 注意や是正の機会はなかったのか。


 そこは別に整理できます。


 私は文章を組み直しました。


 書けば書くほど、三浦さんの言い分が形になっていきます。


 電話では、


「通路じゃありません」


「本当です」


「見た人もいます」


 で終わっていたものが。


 紙の上では。


 場所。


 日時。


 写真。


 第三者。


 経緯。


 それぞれ別の事実になります。


 言い分が、感情から資料へ変わっていく。


 これだ。


 私は思いました。


 書面って、ただ堅苦しいだけじゃない。


 弱い声を、逃げない形にするんだ。


     ◇


 翌日。


 市役所の都市整備課。


 駅前再整備担当の窓口には、見覚えのある男がいました。


 倉田係長です。


 最近、この人と会う頻度が高い。


 どうもこの町では、再開発が進むほど片桐行政書士事務所の仕事が増える仕組みになっているらしい。


 行政法の教材としては優秀ですが、倉田係長の胃には悪そうです。


「またあなた方ですか」


 倉田係長が言いました。


「こちらも好きで通っているわけではありません」


 相馬先輩が答えます。


「朝比奈は若干楽しそうだが」


「勉強にはなってます」


「ほら」


「人聞きが悪い!」


 三浦さんが緊張しているので、私は小声にしました。


 今日の担当は、倉田係長の隣に座る坂上という職員でした。


 三十代後半。


 分厚いファイルを持っています。


「三浦さんですね」


「はい」


「では事情を伺います」


 坂上さんは腕時計を見ました。


「こちらも予定がありますので、十分程度でお願いします」


 出た。


 本当に十分快い。


 三浦さんが鞄から書面を出しました。


「これを――」


「ああ、書面は結構です」


 坂上さんが手を上げた。


「口頭で伺いますから」


 私は隣で息を吸いました。


 来た。


 未来なら。


 未来ならここで、頭の中の第二十九条が赤字で点滅しています。


 でも今は、そのカードは使えない。


 だから。


「理由を伺ってもいいですか」


 私が言いました。


 坂上さんがこちらを見る。


「何のですか」


「書面を受け取らない理由です」


「事情聴取ですから。本人から話を聞けば足ります」


「何に足りるんです?」


「何って……判断にですよ」


「七日間の使用停止を決める判断に?」


「そうです」


「その判断材料として写真は見ない?」


「話の中で必要なら聞きます」


「目撃者の確認書も?」


「本人から説明していただければ」


 頭の中で、何かがすっと整理されました。


 この人は悪い人ではない。


 ただ。


 「話を聞く」という行為そのものが目的になっている。


 手続をしたという形。


 十分話した。


 聞いた。


 はい終了。


 でも本来大事なのは、何分座ったかじゃない。


 処分を決める前に、その人の側の情報が判断材料へ入ることです。


「坂上さん」


 私は言いました。


「市は、三浦さんが共用通路に危険物を置いたと判断してるんですよね」


「はい」


「三浦さんは、置いていないと言っています」


「ですから今、説明を――」


「写真があります」


「それは……」


「見た人の書面もあります」


「ですが今日は事情を聞く場で――」


「事情を聞くなら、一番事情が分かる物を見たほうが早くないですか」


 一瞬。


 沈黙。


 相馬先輩が口元を押さえました。


 笑うところじゃありません。


 たぶん。


 倉田係長が写真へ目を落としました。


「見せてもらえますか」


 坂上さんが振り向きます。


「係長」


「見るだけなら問題ないでしょう」


 私は心の中で、小さく拳を握りました。


 三浦さんが写真を渡します。


 倉田係長は一枚ずつ見たあと、坂上さんにも回しました。


「白線が写っていますね」


「はい」


「これが区画線です」


「見回り時にもこの位置だった?」


「そうです」


「証明できますか」


「向かいの徳田さんと、隣の吉川さんが見てます。二人が書いてくれました」


 今度は確認書。


 坂上さんの表情が少し変わります。


「これ……見回りした職員は、どこから通路上と判断したんだ?」


「写真を撮っているはずです」


 倉田係長が言いました。


「記録を持ってきてくれ」


 職員が奥へ消えます。


 数分後。


 一枚の写真が出てきました。


 市が撮ったもの。


 私は覗き込みました。


「あれ」


 相馬先輩も言いました。


「これ、角度だな」


 真正面ではなく、通路側から斜めに撮ってある。


 そのため白線が容器の後ろにあるようにも見える。


 しかし。


「別の写真は?」


 相馬先輩が聞く。


「これ一枚です」


「位置を測った記録は?」


「ありません」


「白線を越えていたって確認は?」


「現場担当がそう判断したと……」


 相馬先輩は机に身を乗り出しました。


「だったら、その判断と、本人の言い分が食い違ってるじゃないですか」


「まあ……そうなりますね」


「その状態で本人の写真を受け取らず、十分快い口頭説明だけで七日止めるつもりだった?」


「まだ処分は決定していません」


 坂上さんが少し強く言いました。


「だから、その前なんでしょう」


 私が言いました。


 坂上さんが黙ります。


「決まった後じゃ遅いから、今、話を聞くんですよね」


「……そうです」


「だったら今こそ、材料を見ないと」


 言ってから。


 私は自分でも、ああ、と思いました。


 昨夜までのテキストなら。


 不利益処分。


 聴聞。


 弁明の機会の付与。


 書面審理。


 証拠書類等。


 そう並んだ瞬間、眠気との戦いだったはずです。


 でも今は違う。


 三浦さんの七日間。


 昼の売上。


 仕入れ。


 常連客。


 家賃。


 そういうものが全部くっついている。


 人の暮らしに触れた途端、法律用語が急に起き上がる。


 片桐所長が、ここで初めて口を開きました。


「書面を置いていきます」


「しかし正式な手続として受け付ける様式が――」


「受領だけしてください」


「受領?」


「判断前に本人から提出された資料として」


 所長の声は低い。


「様式がないなら、ないなりに残せばいい」


 倉田係長が所長を見ました。


「片桐先生――」


「所長で結構です」


「あ、失礼しました。片桐所長。市としては、本人の話を聞く機会は設けています」


「分かっています」


「手続を軽んじているわけではありません」


「それも分かっています」


 所長は通知書を指で押さえました。


「だからこそ、形だけにしないほうがいい」


 倉田係長が黙りました。


「処分する前に聞く」


 所長が続けます。


「それなら、聞いた内容が判断に入らなければ意味がない」


 短い。


 でも。


 部屋の空気が変わりました。


 倉田係長はしばらく書面を見ていました。


 やがて手を伸ばします。


「……預かります」


 三浦さんが息を呑みました。


「写真も写しを取らせてください」


「はい」


「確認書も」


「はい」


「見回り担当から、もう一度状況を聞きます」


 坂上さんが何か言いかけましたが、係長が先に続けました。


「今日のところでは、使用停止は決めません」


 三浦さんの肩から、目に見えて力が抜けました。


「じゃあ……明日も店を開けていいんですか」


「現時点で使用停止処分はしていませんから」


「はい」


「ただし、ガス容器は今後、区画内でも店の裏側へ置いてください。安全上の話は別です」


「分かりました」


 そこは素直に受ける。


 大事です。


 法律で勝つことと、ガスボンベを人通りから遠ざけることは両立します。


 相馬先輩が立ち上がりました。


「じゃあ、再判断したら連絡を」


「します」


「今度は十分快いじゃなくて?」


 倉田係長が苦笑しました。


「嫌味ですか」


「確認です」


「半分は嫌味だろ」


 私が小声で言うと、


「八割だ」


 増えました。


     ◇


 事務所に戻ったのは、午後四時過ぎでした。


 三浦さんは帰り際、何度も頭を下げました。


「まだ決まったわけじゃないですよね」


「はい」


 私は言いました。


「使用停止になる可能性が完全になくなったわけじゃありません」


「分かってます」


「でも少なくとも、三浦さんの言い分を見ないまま決めることは避けられました」


「それだけでも違います」


 三浦さんは小さく笑いました。


「昨日はね」


「はい」


「十分快い話して、それで『やっぱり駄目です』って言われるんだと思ってたんです」


「私も、ちょっとそう思いました」


「こはる!」


 相馬先輩。


 そこは正直に言わなくていいところでした。


「でも」


 三浦さんは続けました。


「紙にしてもらったら、私、自分でも何が言いたかったのか分かったんです」


 私は少し驚きました。


「そうなんですか」


「電話だとね、『違います』『違います』ばっかりになるのよ」


「分かります」


「でも紙だと、どこに置いてたとか、誰が見てたとか、順番に書くでしょう」


「はい」


「私、怒ってたんじゃなくて、分かってほしかったんだねえ」


 その言葉に、私は何も返せませんでした。


 たぶん。


 そこなんだと思う。


 弁明。


 なんていうと、ずいぶん大げさな言葉です。


 裁判みたい。


 悪いことをした人が「違うんです」と申し開きをする感じがする。


 でも本当はもっと小さい。


 決める前に。


 ちょっと待ってください。


 こっちから見ると、こうなんです。


 その一言を、判断する側へ届ける。


 ただそれだけ。


「明日、焼きそば持ってきます」


 三浦さんが言いました。


「いえ、そんな」


「大盛りで」


「でしたらぜひ」


「遠慮どこ行った」


 相馬先輩が呆れます。


「焼きそばは別腹です」


「その言葉の使い方、初めて聞いたぞ」


 三浦さんが笑いました。


 相談に来たときには固かった顔が、ようやく少しほどけていました。


 完全勝利ではありません。


 処分がなくなったわけでもない。


 役所側の調査で、本当に管理上の問題が見つかるかもしれない。


 それなら、それはそれで向き合う必要があります。


 ただ。


 今日、一つだけ変わったことがあります。


 役所の記録には、


「本人から事情を聴取した」


 だけではなく。


 本人が何を主張したのか。


 どんな写真を出したのか。


 誰が現場を見ていたのか。


 それが残ることになりました。


 口から出た言葉は消えます。


 でも紙は残る。


 そして、ときどき。


 残るというだけで、人の立場は少し強くなる。


     ◇


 夕方。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『都市整備課の倉田です』


「あ、係長」


『三浦さんの件ですが』


「はい」


『見回り担当へ確認しました』


 私は背筋を伸ばしました。


『本人も、白線を越えていたかまでは確認していなかったそうです』


「え」


『通路寄りに容器が置かれていたので、通路上だと思い込んだと』


「じゃあ」


『今回、使用停止処分は見送ります』


「……よかった」


 思わず声が漏れました。


『ただし、仮設店舗全体に、安全物品の置き場所を改めて周知します』


「それはいいと思います」


『それと』


「はい」


『本人から書面を受け取る件』


 少し間。


『今後、同じような案件では、提出したい資料があるなら受け取るようにします』


「本当ですか」


『少なくとも、最初から“口で言ってください”とは言わない』


 私は笑ってしまいました。


『何ですか』


「いえ」


『また何か言いたい顔してるでしょう』


「電話なので見えませんよ」


『見えますよ、何となく』


 怖い。


 付き合いが長くなってきました。


「倉田係長」


『はい』


「ありがとうございます」


『礼を言われることじゃありません』


 係長は少し疲れた声で言いました。


『資料を見たら、最初の判断が怪しかった。それだけです』


 それだけ。


 でも、たぶん。


 行政の手続って、その「それだけ」を確保するためにある。


 電話が切れます。


「どうだった」


 相馬先輩が聞きました。


「処分、見送りです」


「お」


「それから、今後は本人が出したい資料があれば受け取るそうです」


 相馬先輩が鼻を鳴らしました。


「最初からそうしろって話だな」


「そうなんですけど」


 私は受話器を置きながら言いました。


「たぶん、最初から分かってるなら、法律ってそんなに増えないんですよ」


「何だそれ」


「いえ。独り言です」


 本当は独り言ではありません。


 私だけが知っている未来。


 この数年後。


 日本には行政手続法という法律ができる。


 不利益処分をする前の意見陳述について、全国的な一般ルールが整えられていく。


 その中には。


 聴聞と。


 弁明の機会の付与という、二つの手続が置かれる。


 そして弁明は原則として書面。


 証拠書類等も提出できる。


 今なら私は、それを試験問題の知識として覚えています。


 でも昭和六十三年のこの町では。


 まだ、その条文は存在しない。


 存在しないのに。


 その条文が後で必要になる理由だけは、目の前に転がっている。


 忙しいから十分。


 口頭で聞けばいい。


 資料まではいらない。


 本人の話を聞いたという事実さえあればいい。


 そんな小さな雑さ。


 たぶん法律は、そういう雑さが積み重なったあとにやって来る。


 私は少し不思議な気分になりました。


 未来のテキストでは、


 行政手続法第二十九条。


 弁明の機会の付与の方式。


 そんな無機質な見出しだった。


 今日までなら、蛍光ペンを引いて終わりでした。


 でも今は。


 あの条文の向こうに、三浦さんの顔が見える。


 十分快い口頭説明だけで店を閉められそうになった人。


 写真を持っているのに、「いりません」と言われた人。


 自分の言葉を紙にしたら、自分でも何を訴えたかったのか分かった人。


 条文は冷たい。


 でも。


 冷たいからこそ、


「忙しいから」


「いつもこうしているから」


「話だけ聞けば十分だから」


 そんな人間の都合に、少しブレーキをかけられる。


「何ニヤニヤしてる」


 相馬先輩が言いました。


「してません」


「してる」


「行政法の未来について考えてました」


「また始まった」


 奥から片桐所長が出てきました。


「三浦さんは?」


「処分見送りです」


「そうか」


 それだけ。


 でも口元が、ほんの少し緩んだ気がしました。


「所長」


「何だ」


「今日のって、何て言えばいいんでしょう」


「何が」


「処分する前に、その人の言い分を聞くことです」


 所長は少し考えます。


「弁明の機会、とでも言えばいい」


 私は固まりました。


「……え」


「何だ」


「今、何て」


「弁明の機会だ」


 未来から単語が飛んできた。


 いや違う。


 言葉そのものは昔からある。


 法律が後から、それを制度の名前として拾うだけです。


「相馬先輩」


「何だ」


「ちょっと鳥肌立ちました」


「病院行け」


「だからそうじゃないです!」


 所長は私たちを無視して机へ戻りました。


「呼び方はどうでもいい」


 そのまま帳簿を開く。


「決める前に、聞くべきものを聞く。それだけだ」


 私はしばらく、その言葉を頭の中で転がしました。


 決める前に、聞く。


 ただし。


 今日知ったのは、もう一つ。


 聞けばいい、ではない。


 聞いたことを残す。


 出されたものを見る。


 判断材料に入れる。


 そこで初めて「機会」になる。


 私は机の端に置いてあったノートを開きました。


 白いページの上に、題名だけ書きます。


 ――弁明の機会。


 その下へ何か書こうとして。


 止めました。


「書かないのか」


 相馬先輩が覗き込みます。


「今日は題名だけにします」


「またか」


「整理すると長くなりそうなので」


 頭の中には、すでに未来の条文が並んでいます。


 聴聞との違い。


 どんな不利益処分で使い分けるのか。


 なぜ弁明は原則書面なのか。


 口頭が許される場合はどうなるのか。


 証拠書類等はどう扱うのか。


 そして。


 昭和六十三年の今日と、数年後にできる制度が、どうつながるのか。


 でも。


 それは、今まとめるときではありません。


 今日はまだ、焼きそばの匂いのほうが強い。


「こはる」


「はい」


「三浦さんからだ」


 所長が電話を取ったまま言いました。


「え?」


「明日、焼きそば三人前持ってくるそうだ」


「四人前じゃなくて?」


「誰が四人目だ」


 相馬先輩が言いました。


「私、相馬先輩、所長で三人」


「じゃあ合ってるだろ」


「私、大盛りって約束したので一・五人前換算です」


「行政法より計算が雑だな」


 所長が受話器に向かって言いました。


「三浦さん。普通盛り三つで結構です」


「所長!」


 切られました。


 行政庁より迅速な処分です。


「私の意見陳述は?」


「聞いた」


「聞いただけですよね?」


「判断もした」


「不利益処分!」


「大盛りを認めないだけだ」


 相馬先輩が笑っています。


「朝比奈、弁明しろ」


「じゃあ書面で出します」


「焼きそば一・五人前を求める弁明書?」


「証拠書類も付けます」


「何を付けるんだよ」


「食欲」


「書類じゃねえ」


 笑い声が、夕方の事務所に広がりました。


 窓の外では、駅前再整備の工事現場から、作業を終える音が聞こえています。


 町は少しずつ変わっていく。


 建物が変わる。


 道路が変わる。


 役所の仕事も増える。


 そしてたぶん。


 手続も、いつか変わっていく。


 今日みたいな、


「口で説明すれば十分です」


 というやり方に、


 本当にそれで十分ですか、と線を引く法律が、やがてできる。


 私はそれを知っている。


 でも。


 条文ができる前にも、人は困っていた。


 証拠を持っているのに見てもらえない人がいた。


 言い分が記録に残らない人がいた。


 そして、その小さな困りごとが積み重なった先に、制度が生まれる。


 昨夜まで私は、法律から現実を覚えていました。


 今は逆です。


 現実のほうから、法律が生まれる理由を覚えている。


 私はノートを閉じました。


 今日の教訓は、一つだけでいい。


 ――「話を聞きました」と「言い分を判断材料にしました」は、同じではない。


 明日。


 もう一度ノートを開こう。


 そのときはきっと、


 聴聞と弁明。


 口頭と書面。


 処分と、その前にある手続。


 未来のテキストで眠かった言葉たちが、今日よりずっとはっきり見えるはずです。


 もっとも。


 その前に。


「所長」


「何だ」


「焼きそばの大盛りだけ、再考を――」


「却下」


「まだ理由を述べてません!」


「聞く必要がない」


「これこそ手続保障が必要です!」


「食費は事務所持ちだ」


「……普通盛りで結構です」


 相馬先輩が吹き出しました。


 制度の冷たさは、ときどき人を救う。


 でも。


 おごりという人情は、制度を一瞬で黙らせることもあるらしい。


 行政法は、やっぱり奥が深い。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
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新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
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動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
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