[行政行為の効力]現場編 「役所が間違えたんだから払わなくていい」の罠。届いた処分と役所のミス、争えることと無視できること
役所の間違いは、間違いだと分かった瞬間に消えてくれる――とは限りません。
そこが、役所の間違いの嫌なところです。
普通なら、
「すみません、間違えました」
「じゃあ、なしで」
で済みそうな話でも、行政の世界ではそう簡単に消えてくれないことがある。
紙は残る。
処分も残る。
そして、ときには支払期限まで残る。
人間より紙のほうが図太い。
昭和六十三年六月。
片桐行政書士事務所で働き始めてから、私はようやくこの時代の電話機にも慣れてきました。
ダイヤル式ではありません。
そこまで古くない。
でも受話器は重いし、コードは妙に絡むし、コピー機は「今日は働きたくありません」という意思をかなり頻繁に示します。
「こはる」
「はい」
「コピー」
「はい」
「三部」
「はい」
「裏表逆」
「はい……って、私ですか?」
「お前だ」
相馬先輩が無慈悲に紙を返してきます。
「コピー機のほうが悪い可能性は?」
「ない」
「公正な審査を要求します」
「却下」
「まだ申立てしてません」
朝から民主主義が弱い事務所です。
私は紙を抱えてコピー機へ戻りました。
そのとき。
入口の引き戸が、勢いよく開きました。
「先生!」
飛び込んできたのは、五十代くらいの男性でした。
作業服。
額に汗。
右手には茶封筒。
左手には、なぜかスーパーの紙袋。
怒っているのか焦っているのか、顔色だけでは判別できません。
「片桐先生、いるか!」
「所長なら奥です」
「助けてくれ!」
こういうときの「助けてくれ」は、だいたい本当に困っているやつです。
相馬先輩も、さっきまでの雑な顔を一瞬で仕事用に切り替えました。
「座ってください。何がありました」
「税金だよ!」
男性は茶封筒から一枚の紙を取り出しました。
固定資産税――ではない。
不動産取得税。
私は文字を追います。
去年、郊外に小さな倉庫付きの土地を買ったらしい。
その取得に対する県税。
そして通知書に書かれた税額を見て、私は眉を上げました。
「……八十六万円?」
「そうだよ!」
男性――山岸正夫さんは机を軽く叩きました。
「俺が聞いてた話じゃ、せいぜい五十万くらいだっていうんだ!」
「誰に聞いたんです?」
「不動産屋。あと県税事務所にも前に電話した!」
なるほど。
ただ、「前に聞いた金額」と「正式な税額」が違うだけなら、それだけでは何とも言えません。
評価や軽減の適用で変わることもあるでしょう。
「それで、県税事務所には確認しました?」
「ああ。今朝行ってきた」
「何て?」
「計算を間違えたって!」
相馬先輩が顔を上げました。
「間違えた?」
「そうだ。向こうの担当が認めた。軽減を入れ忘れてたんだと!」
それは、かなり話が変わります。
「本当なら五十二万四千円だってよ」
「差額、三十万円以上ありますね」
「ああ!」
山岸さんは椅子から半分立ち上がりました。
「だから俺も言ったんだ。じゃあこの紙はなしだなって」
「はい」
「そしたら何て言ったと思う?」
嫌な予感がします。
「『いったん送った通知ですので、こちらではすぐに何とも』だ!」
……ああ。
役所の「こちらではすぐに何とも」。
行政法受験生にとっては、雨雲より不穏な言葉です。
「しかもな」
山岸さんは通知書の下のほうを指で叩きました。
「納期限、来週だぞ!」
確かに書いてあります。
八十六万円。
納期限、六月二十七日。
今日は二十日。
一週間。
「間違えたのは向こうだろ?」
「そうですね」
「なら、払わなくていいだろ?」
私は口を開きかけて――止まりました。
ここです。
ここ。
ものすごく自然な理屈に見えるのに、何か危ない。
役所が間違えた。
本人も役所も間違いだと分かっている。
なら、その紙は無視していい。
……本当に?
昨日までテキストで見た、妙に偉そうな単語が頭の中から起き上がりました。
公定力。
いや。
まだ待って。
私は超人ではありません。
こういうとき、単語だけ飛び出してくるのが一番危険です。
行政法で覚えた単語を現場で叫ぶ人は、だいたい面倒な人です。
自覚はあります。
「山岸さん」
片桐所長が奥から出てきました。
いつの間に聞いていたのか。
この人、忍者かもしれません。
「県税事務所は、間違いを認めたんですね」
「ああ」
「口頭で?」
「そうだよ」
「書面は?」
「……ない」
「訂正した通知は?」
「ない」
「取消しの通知は?」
「ない」
所長は黙りました。
山岸さんの顔から、少しずつ勢いが消えていきます。
「先生」
「はい」
「何か、まずいのか?」
所長は通知書を指で軽く叩きました。
「今あるのは、この通知だけです」
その一言で。
私はようやく違和感の形が見えました。
「所長」
「何だ」
「これ、まだ生きてるんですか」
山岸さんがぎょっとして私を見ます。
「生きてるって何だ!」
「すみません、言い方が怖かったです」
税金の通知をゾンビ扱いしてはいけません。
でも。
たぶん、論点はそこです。
相馬先輩が腕を組みました。
「こはる。何を考えてる」
「県税事務所の人が『間違えました』と言ったことと、処分そのものが取り消されたことって……別ですよね」
所長が頷きました。
「そうだ」
来た。
胸の奥で、昨夜まで眠かった単語が急に輪郭を持ちます。
行政行為。
公定力。
取消し。
「山岸さん」
私は通知書を見ました。
「これ、届いたのはいつですか?」
「三日前」
「封筒ごと残ってます?」
「ある」
「よかった」
相馬先輩がこちらを見ます。
「そこ、何で聞いた」
「効力がいつ発生したのか、確認したくて」
一瞬。
相馬先輩の眉が上がりました。
「ほう」
お。
たぶん当たった。
行政行為は、役所の中で書類を作っただけでは、相手に対する効果が生じない。
外へ出て。
相手に告知されて。
初めて効力を生じる。
少なくとも、今回のような相手方のある処分では、そこが大事です。
山岸さんの通知書は、三日前に届いている。
つまり。
役所の机の上で計算を間違えただけの段階ではなかった。
もう外へ出てしまった。
山岸さんに届いてしまった。
「じゃあ」
山岸さんの声が低くなりました。
「向こうが間違えたって認めてるのに、俺は八十六万払わなきゃならないのか?」
「そこは、今から確認しましょう」
所長が言いました。
「ただし」
一拍。
「自分の判断だけで無視するのはやめましょう」
山岸さんの顔が険しくなります。
「何でだよ」
「役所が間違えたからです」
「だからだろ!」
「だからこそです」
所長は声を荒らげません。
こういうときの片桐所長は、静かなぶん怖い。
「間違った処分なら、間違った処分として正しく直させます」
私は心の中で、なるほど、と呟きました。
間違っている。
だから無視する。
ではない。
間違っている。
だから、取り消させる。
あるいは訂正させる。
ここが、行政法の面倒で、たぶん大事なところです。
「県税事務所へ行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「今から?」
「納期限が来週なんだろ」
「はい」
「論点で昼飯は食えん」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
行政法受験生、顔に論点が出るらしいです。
県税事務所は、市役所から少し離れた合同庁舎の一角にありました。
山岸さんと私たち三人で窓口へ向かうと、担当者はすぐに事情を思い出したようでした。
「ああ、山岸さん」
三十代くらいの男性職員です。
机の上には計算書。
すでに調べていたらしい。
「午前中は失礼しました」
「失礼じゃ済まんぞ」
「はい。それは承知しています」
逃げない。
そこは少し好感が持てます。
「こちらの確認不足で、軽減措置の反映が漏れていました。正しい税額は五十二万四千円です」
相馬先輩がすぐ聞きました。
「では、先に出した八十六万円の通知は?」
「訂正の処理を進めています」
「もう取り消したんですか」
「いえ、それが……内部決裁が必要でして」
出ました。
内部決裁。
行政機関の奥に生息する、見えない巨大生物です。
「じゃあ現時点では?」
私が聞くと、担当者は少し困った顔をしました。
「形式上は、先の通知が出ている状態です」
「納期限は?」
「来週です」
「訂正通知は間に合いますか」
「……何とも」
山岸さんが机を叩きました。
「ほら! おかしいだろ!」
職員が身を固くする。
私は慌てて山岸さんの袖を引きました。
「山岸さん、気持ちは分かります。でも今、そこを怒鳴るより先に確認したいです」
「何をだよ」
私は担当者を見ました。
「そちらでは、誤りがあることは確定してるんですよね」
「はい」
「正しい税額も確定している」
「はい」
「でも、間違った通知を正式に取り消す処理がまだ終わっていない」
「……はい」
ほら。
同じ「間違い」なのに、段階が違う。
計算上の間違い。
担当者が認識した間違い。
組織として確認した間違い。
処分として正式に取り消された状態。
全部、同じではありません。
行政法、細かい。
ものすごく細かい。
でも三十万円以上違うと思えば、急に細かさが頼もしく見えてくるから不思議です。
「じゃあ」
山岸さんが言いました。
「正式に取り消すまで、俺には八十六万円払えっていうのか」
担当者が言葉に詰まりました。
「いや、そういう趣旨では……」
「でも紙にはそう書いてある!」
「それは……」
これです。
制度の雑さ。
役所の中では、
「ミスは分かってます」
「訂正予定です」
で話が通じている。
でも外にいる山岸さんの手元には、
八十六万円を来週までに払え。
という正式な紙しかない。
内側では解決へ向かっているつもりでも、外側の人間には何も見えないのです。
「何か、書面を出せませんか」
私が言いました。
担当者がこちらを見る。
「書面?」
「少なくとも、現在出ている納税通知書の税額に誤りがあって、訂正手続中だということを」
「それは……」
奥から声がしました。
「何を揉めてる」
振り返ると、倉田係長がいました。
「……係長?」
どうしてここに。
市役所の商工観光課にいたはずでは?
「あれ?」
倉田さんも私を見て目を丸くします。
「片桐さんとこの……」
「こはるです」
「何で県税事務所に」
「それはこちらの台詞です」
倉田さんは苦笑しました。
「四月に県へ異動になったんだよ」
地方行政、人材シャッフルが激しい。
というか、この町、狭い。
「今は課税第二係だ」
「ちょうどいい」
相馬先輩が言いました。
「係長なら話が早い」
「嫌な予感しかしないな」
倉田係長は事情を聞きました。
担当者から計算資料も確認します。
しばらく黙っていたあと、ため息をつきました。
「こっちのミスだな」
「はい」
担当者が小さく答えます。
「じゃあ取り消して、正しい通知を出してください」
山岸さんが言う。
「それはやる」
倉田係長は即答しました。
「ただ、今日この場で正式な通知を差し替えるのは無理だ」
「じゃあどうするんだ!」
「待ってください」
私は口を挟みました。
山岸さんから睨まれる。
怖い。
でも、ここで感情だけ前へ出ると、話が「役所は謝れ」「いや手続が」に戻ってしまいます。
今日必要なのは謝罪ではありません。
山岸さんが、一週間後にどう動けばいいか分かることです。
「係長」
「何だ」
「このまま納期限が来たら、どうなるんですか」
「現状のままなら、納付義務がある前提で処理は進む」
山岸さんの顔が変わりました。
「ほら!」
「ただし」
倉田係長が続ける。
「こっちの誤りが確定してるんだから、そうならないように訂正処理を急がせる」
「急がせる、だけですか」
私が聞くと、係長は嫌そうな顔をしました。
「お前、前より面倒になったな」
「成長です」
「悪い方向にな」
褒められたことにしておきます。
「山岸さんには、何を出せるんです?」
「……訂正手続中であることの確認書なら、課長決裁で出せるかもしれん」
「それをお願いします」
「こはる」
相馬先輩が横から言いました。
「勝手に決めるな」
「すみません」
「でも、それは出してもらえ」
「結局同じじゃないですか」
「俺が言うのとお前が言うのは違う」
「何法ですか、それ」
「先輩法」
朝から二つ目の悪法が誕生しました。
片桐所長はずっと黙っていました。
そして、倉田係長へ一言だけ言いました。
「口頭で終わらせないでください」
空気が少し止まりました。
「……分かってます」
係長は頷きました。
「通知を出したのは、こちらですから」
その言葉は重かった。
通知を出した。
つまり。
役所内部で「あ、間違えた」と話しているだけでは足りない。
外へ向けて処分をしたのなら。
外へ向けて直さなければならない。
私はそこに、妙な納得を覚えました。
制度って、冷たい。
手続って、面倒くさい。
でも。
口頭で、
「間違えました」
「直しておきます」
だけで済ませないのも、手続です。
それは面倒だけれど。
外にいる人からすれば、その面倒こそが必要なのかもしれない。
結局。
県税事務所はその日のうちに、山岸さんへ「課税額に誤りがあり、現在取消し・再処理中である」旨の文書を交付しました。
正式な訂正通知は、二日後に出す。
それまで誤った税額での督促などが進まないよう内部処理を止める。
そして正しい税額を記載した通知を改めて送る。
そこまで確認して、ようやく山岸さんの肩から力が抜けました。
「じゃあ」
庁舎を出たところで、山岸さんが聞きました。
「俺、最初の八十六万は払わなくていいんだな」
「今回については、正式に訂正する段取りが確認できました」
所長が答えます。
「新しい通知を確認してから納付してください」
「そうか……」
山岸さんは大きく息を吐きました。
さっきまで県税事務所を丸ごと持ち上げて振り回しそうな勢いだった人が、急に小さく見えました。
「俺さ」
ぽつりと言います。
「本当は、金がないわけじゃないんだ」
「はい」
「五十万くらいなら、見込んでた」
「はい」
「でも八十六万って来て……嫁に言えなくてな」
あ。
そういうことだったんだ。
「倉庫買うのも、かなり無理したんだ。息子と一緒に仕事広げようと思って」
山岸さんは笑いました。
「三十万違うと、でかいんだよ」
「でかいですね」
「でも役所から来た紙だろ。間違ってる気はしても、俺のほうがおかしいのかと思った」
私は何も言えませんでした。
分かります。
役所の紙って、それだけで強い。
印刷された金額。
知事名。
納期限。
問い合わせ先。
あれだけ揃っていると、人は自分の記憶のほうを疑います。
「だから午前中に間違いだって聞いたとき、腹が立って」
「はい」
「間違いなら捨てりゃいいと思った」
「それも分かります」
「でも、捨てなくてよかったな」
「本当に」
私は全力で頷きました。
通知書を勢いで破っていたら、たぶん今日の話はもう少し面倒になっています。
「紙って怖いな」
山岸さんが言いました。
「はい」
私は答えました。
「でも、紙だから直した証拠も残せます」
山岸さんは少し驚いた顔をして。
それから笑いました。
「なるほどな」
事務所へ戻ったころには、すっかり夕方でした。
机の上に、スーパーの紙袋が置いてあります。
「何ですか、これ」
「山岸さんのだ」
相馬先輩が中を覗きました。
「置いてった」
中には、小ぶりのメロンが二つ。
「おお」
「倉庫の隣の農家にもらったんだと」
「いいんですか」
「相談料とは別だ。差し入れ」
私は一つ持ち上げました。
重い。
「二個ですね」
「そうだな」
「三人ですね」
「所長は甘い物食わん」
「メロンを甘い物という分類で切らないでください」
奥から所長の声がしました。
「俺はいらん」
「本人が言った!」
なら二個。
私と相馬先輩。
平和です。
「一個ずつですね」
「何でだ」
「何で?」
「俺は運転した」
「それで一個半?」
「そうだ」
「どの法律に基づく処分です?」
「俺法」
「今日だけで悪法が多すぎる」
相馬先輩が笑います。
私は自分の机に戻り、鞄からノートを取り出しました。
今日のページ。
行政行為の効力。
昨夜の私は、この見出しを見ただけで眠くなりました。
公定力。
不可争力。
不可変更力。
自力執行力。
漢字が強い。
四天王みたいです。
しかも全員、名前から能力が分かりにくい。
ですが。
今日、一つだけ。
公定力という言葉だけは、少し顔が見えた気がしました。
山岸さんへの八十六万円の課税。
役所も間違いだと認めた。
山岸さんも間違いだと知った。
それでも、
「じゃあ最初から存在しなかったことにしましょう」
とはならなかった。
正式に出た処分を、正式に直す必要があった。
間違った行政行為でも。
一定の場合には、権限のある行政庁や裁判所が取り消すまでは、勝手に存在を無視することはできない。
たぶん。
これが、公定力。
……たぶん、です。
ここで断言すると所長から赤ペンが飛んできそうなので、慎重にしておきます。
「こはる」
相馬先輩が、私のノートを覗き込みました。
「何書いてる」
「今日のことです」
「もう勉強か」
「忘れないうちに」
「珍しい」
「所長に言われましたから」
私はペンを止めました。
「先輩」
「何だ」
「今日の通知って、もし山岸さんにまだ届いてなかったら、どうだったんでしょう」
「知らん」
「即答で逃げましたね」
「所長」
丸投げ。
片桐所長は帳簿から目を上げません。
「相手に告知されていないなら、まだ外に向けた効力の問題には入らない」
「ですよね」
つまり。
県税事務所の中で、
「山岸さん、八十六万円」
と計算した。
通知書を印刷した。
課長が判子を押した。
それだけではまだ、山岸さんに対する効力は発生していない。
でも三日前。
通知が山岸さんの手元へ届いた。
そこで初めて、紙がただの役所内部の紙ではなくなる。
山岸さんに対して、
「あなたにはこの税額を納めてもらいます」
という外向けの行政行為になる。
――届く。
たったそれだけのことが、大きい。
「じゃあ」
私は言いました。
「役所の中で間違えた段階なら、書き直せばいい。でも、外へ出して相手に届いたら、ちゃんと外向けに直さなきゃいけない」
「大雑把にはな」
「なるほど」
今日の話が、少しつながりました。
山岸さんが困ったのは、計算ミスそのものだけではありません。
間違った数字が、
正式な通知という形で、
自分のところまで届いてしまった。
だから重かった。
「でも先輩」
「まだあるのか」
「もし今日、役所が『間違ってるけど、とりあえず八十六万払ってください』って押し切ってきたら?」
「それは争うんだろ」
「どうやって?」
「知らん」
「実務派!」
「そこから先は、お前の好きな行政不服審査法だ」
「好きではありません」
本当に。
好きになった覚えは一度もない。
でも。
今日みたいなことがあると、少しだけ見方が変わります。
審査請求。
取消訴訟。
出訴期間。
執行停止。
テキストでは、どれも眠気を呼ぶ単語でした。
でも現実には。
間違った通知が来た人に、
「それ、変です」
と言うだけでは足りない。
どう争うのか。
いつまで争えるのか。
争っている間、その処分はどうなるのか。
その道筋がなければ、人はただ紙の前で立ち尽くすしかない。
山岸さんは今日、たまたま役所がミスをすぐ認めた。
だから早く進んだ。
でも。
もし認めなかったら。
もし、
「こちらの計算で合っています」
と言われたら。
そのとき山岸さんは、自分では間違いだと思っている八十六万円の通知と向き合わなければならない。
そこで、
「俺は納得してないから無効だ」
では済まない。
たぶん、公定力というのは。
行政の言うことが常に正しい、という意味ではない。
行政は間違える。
今日、思い切り間違えた。
でも、間違いだと思った人がそれぞれ勝手に行政行為を無視していいことにすると、今度は制度そのものが動かなくなる。
だから、
取り消されるまでは一応通用させる。
その代わり。
争うための仕組みを用意する。
……冷たいです。
ものすごく冷たい。
「間違ってても一応有効です」
なんて。
困っている本人からしたら、何を言ってるんだと思うでしょう。
でも。
今日の山岸さんを救ったのも、
「口頭で間違いを認めたから、あとは好きにしてください」
ではなく。
どの通知が今生きているのか。
どうやって取り消すのか。
新しい通知はいつ出るのか。
その間の督促はどう止めるのか。
そこを一つずつ確認したことでした。
冷たい仕組みだからこそ。
曖昧な「直しときます」で終わらせない。
そう考えると、少しだけ行政法が人間らしく見えます。
「難しい顔してるぞ」
相馬先輩が言いました。
「公定力について考えてました」
「夕飯前にする顔じゃないな」
「じゃあメロンについて考えます」
「それは俺のだ」
「まだ決まってません」
「もう決まった」
「誰が?」
「俺が」
「その決定、私に告知されてませんでした」
「今した」
「効力発生させないでください!」
所長が小さくため息をつきました。
「半分ずつにしろ」
「二個あるのに?」
「一個は山岸さんから、事務所全員へだ」
「じゃあもう一個は?」
「明日の客用」
相馬先輩が固まりました。
「……俺のメロンが」
「最初からお前のではない」
所長、強い。
しかも正しい。
私は笑いながら、ノートへ一行だけ書きました。
今日の覚え書き。
――「間違っている」と「無視していい」は、同じではない。
書いてから。
もう一行、足しました。
――役所の紙が届いたら、まず「何が決まったのか」「まだ生きているのか」を確認する。
そこまで書いて、私はペンを置きました。
公定力。
不可争力。
不可変更力。
自力執行力。
まだ残り三人います。
しかも名前だけ見れば、全員かなり強そうです。
不可争力なんて、
「もう争えません」
でしょうか。
怖い。
不可変更力は、
「もう変えられません」。
怖い。
自力執行力なんて、
「役所が自分で取り立てに来ます」。
名前からして一番物騒です。
私はノートを閉じました。
今日はまだ、そこまで考えないことにします。
今夜全部やったら、行政法四天王に夢の中まで追いかけられそうです。
ただ。
今日ひとつだけ、はっきり分かったことがあります。
行政行為は、役所の机の上だけで生きているものではありません。
外へ出て。
誰かに届いて。
その人の財布や、仕事や、生活に触れた瞬間。
ただの書類ではなくなる。
だからこそ。
出した側にも、直し方がある。
受け取った側にも、争い方がある。
役所の間違いは、腹が立つ。
でも、腹が立つから破り捨てるのではなく。
その紙が今、法的にどういう状態なのかを確かめる。
それがたぶん、今日の行政法でした。
机の向こうで、相馬先輩がこっそりメロンを持ち上げます。
「先輩」
「何だ」
「それ、明日の客用ですよ」
「まだ切ってない」
「だから?」
「まだ食ったという効果は発生してない」
「行政行為みたいに言わないでください」
「切ったら発生する」
「しません」
「じゃあ告知する。今から食う」
「告知で正当化されません!」
奥から、片桐所長の短い声が飛びました。
「戻せ」
相馬先輩は黙ってメロンを戻しました。
強い。
異議申立て不要。
即時執行。
この事務所で一番怖い効力は、たぶん所長力です。
私は笑いながら、もう一度ノートを開きました。
ページの上には、まだ題名しかありません。
――行政行為の効力。
今日触れたのは、その入口だけ。
届いた瞬間、何が始まるのか。
間違った処分は、なぜ勝手に無視できないのか。
いつまで争えるのか。
誰なら変更できて、誰ならできないのか。
そして、国民が従わなかったとき、行政はどこまで自分の力で実現できるのか。
疑問が四つ。
きれいに残りました。
私はその下を空けておきます。
分かった気になって埋めるより、今夜はこのほうがいい。
山岸さんの八十六万円は、二日後には五十二万四千円へ直る予定です。
たった一枚の通知書。
たった一つの計算ミス。
でもその一枚のおかげで。
昨日まで意味不明だった「行政行為の効力」という言葉が、少しだけこちらを向きました。
法律は。
間違いを消す魔法ではありません。
むしろ時々、間違いにさえ手続を要求します。
面倒です。
腹も立ちます。
それでも。
「間違えました」で人の生活を揺らし、
「直しときます」で済ませないために。
その面倒くささは、必要なのかもしれません。
私はノートの端に、小さく書き足しました。
――間違いなら、無視するんじゃない。正しく取り消させる。
たぶん今夜は、それだけ覚えておけば十分です。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




