[行政手続法26条・聴聞を経てされる不利益処分の決定]現場編 「話は聞きました。結論は最初から同じです」の罠。聴く手続と、読まずに決める役所
人の話を聞くことと、その話を考慮することは、似ているようで別物です。
もっと簡単に言えば。
「はいはい、聞きましたよ」
と、
「聞いたうえで考えます」
は、まるで違います。
家庭でも職場でもそうなのだから、役所ならなおさら――なのですが。
「……聞くだけ聞いて、最初から結論が決まってた?」
「そうなんです」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所の応接机で、五十代くらいの男性が、膝の上の帽子をぎゅっと握っていました。
名前は榊原俊夫さん。
駅前再整備区域の一角にある、市営の観光物産館で、小さな漬物店を営んでいます。
いや。
正確には。
営んでいました。
「三日前、市から通知が来まして」
榊原さんが封筒を差し出しました。
相馬先輩が受け取り、眉を寄せます。
「使用許可取消通知書……」
観光物産館の一角は市の施設で、各商店が使用許可を受けて営業しているらしい。
榊原さんは十二年間、そこで漬物や味噌を売ってきた。
ところが今年に入って、市から何度か衛生管理について注意を受けた。
店の裏に段ボールを積んでいた。
商品の一部に表示の不備があった。
共同通路へ荷物がはみ出したこともある。
榊原さん自身、それは認めています。
「そこは、わしが悪かったんです」
小さく頭を下げる。
「注意されてから片づけました。表示も直した。保健所の人にも見てもらいました。でも、市から『このままでは使用許可を取り消すことになる』と言われましてな」
「それで?」
片桐所長が聞きます。
「先月、市役所で話を聞く場がありました」
「聴聞?」
「そう書いてありました」
私は顔を上げました。
聴聞。
その二文字だけで、頭の中の受験生がむくりと起き上がります。
不利益処分。
意見陳述。
主宰者。
調書。
報告書。
――いや。
待って。
今は昭和六十三年です。
私の知っている行政手続法は、まだありません。
未来の法律が頭の中で先走るの、転生者としてものすごく扱いづらい。
「市の規程でやってるんだろう」
相馬先輩が通知書の裏面を見ながら言いました。
「観光物産館使用許可取扱規程。取消しを検討するときは、本人から事情を聴く機会を設ける、と」
「はい」
榊原さんが頷きました。
「その日、市役所へ行って、全部話したんです。直したところも、取引先のことも、ここを追い出されたら商売が続けられないことも」
「誰が話を聞いたんです?」
「商工課の人じゃありませんでした。総務課の……課長補佐だったかな」
片桐所長の目が少し動きました。
「商工課から離れた職員が進行した?」
「ええ。向こうも二人いて、こっちはわしと女房で」
「その場で何か結論は?」
「ありませんでした。ただ、その課長補佐さんが最後に言ってくれたんです」
榊原さんは、少し声を詰まらせました。
「『改善も確認できている。十二年の営業実績もある。取消しまで必要かどうかは、慎重に考えるべきでしょう』って」
私は相馬先輩を見る。
相馬先輩も私を見る。
何か引っかかりました。
「その人は、あとで何か書面を作ったんでしょうか」
私が尋ねると、榊原さんは首を傾げました。
「そこまでは……」
「こはる」
相馬先輩が低い声で言います。
「何考えてる」
「まだ分かりません。でも」
私は通知書を見ました。
使用許可取消し。
理由の欄には、
施設管理上の秩序を乱し、今後も適正な使用が期待できないため。
それだけ。
「聴聞で出た話が、この通知から全然見えないなって」
榊原さんが顔を上げました。
「そうなんですよ!」
声が大きくなる。
「わしもそこが納得できんのです。悪かったことまで無かったことにしろとは言わん。でも、直したことも、十二年間やってきたことも、全部話したんですよ。それなのに、三日後にはこれです」
「三日後?」
「はい」
早い。
いや、早いこと自体が悪いわけではありません。
行政処分に「熟成期間三十日」とか必要なわけじゃない。
でも。
事情を聴いた。
改善も確認した。
進行役まで「取消しまで必要か慎重に」と口にした。
その三日後に、まるで何事もなかったような取消通知。
これは。
嫌な匂いがします。
漬物ではなく、行政法の。
「相馬」
片桐所長が言いました。
「市役所へ確認する」
「はい」
「こはるも来い」
「はい」
最近もう驚かなくなってきました。
見習いの業務範囲が異常に広いことに。
市役所の商工課へ着くと、窓口には見覚えのある顔がありました。
「……また君か」
倉田係長です。
「ご無沙汰しております」
「三日ぶりだ」
「十分ご無沙汰です」
「行政書士事務所の時間感覚はどうなってるんだ」
倉田係長は深いため息をつきました。
駅前再整備が本格化して以来、この人の眉間のしわは明らかに増えています。
「今日は何だ」
相馬先輩が榊原さんの取消通知を机へ置きました。
「これ」
倉田係長の表情が変わりました。
「ああ……榊原商店か」
「聴聞をやったそうですね」
「やった」
「記録は?」
「ある」
「進行した人の意見書も?」
倉田係長が、一瞬黙りました。
その一瞬。
私は見逃しませんでした。
「……ある」
やっぱり。
私は少し身を乗り出します。
「見せてもらえますか」
「それは内部資料だ」
「では中身だけ確認します。聴聞を担当した方は、取消し相当という意見だったんですか」
「いや」
倉田係長は腕を組みました。
「軽い処分で様子を見る余地がある、という内容だった」
榊原さんが息をのみます。
「やっぱり……!」
でも。
取消しになった。
私は聞きました。
「その意見書、処分を決めた方は読みましたか」
倉田係長の眉がぴくりと動きます。
「当然、決裁書類には付いている」
「読んだんですか」
「だから付いていると言ってる」
「付いているのと、読んだのは別です」
倉田係長が私を見る。
事務所なら相馬先輩が「お前、役所でその言い方やめろ」と頭を叩きそうなところですが。
今日は黙っています。
つまり続けていいらしい。
「聴聞で何を話したか。その記録と、進行した方の意見を確認したうえで、取消しが必要だと判断したんでしょうか」
「最終判断は商工部長だ」
「では商工部長が?」
「決裁は通っている」
「だから」
思わず声が強くなりました。
「それ、読んだんですか」
沈黙。
窓口の向こうで、電話のベルが鳴っています。
昭和の役所の電話は、どうしてあんなに主張が強いのでしょう。
誰も取らないから余計に気になります。
倉田係長が、ようやく言いました。
「……部長は以前から、榊原商店については退去させる方針だった」
あ。
来た。
相馬先輩の目が細くなります。
「以前から?」
「苦情が多かったからな」
「じゃあ聴聞は何のためにやった」
「本人の言い分を聞くためだ」
「聞いたあと、判断を変える可能性はあったのか」
倉田係長が黙る。
相馬先輩の声が一段低くなりました。
「なかったんじゃないのか」
「そんな言い方をされても困る」
「困るのは榊原さんだ」
その通りです。
聴聞を開く。
呼び出す。
時間を使わせる。
本人に事情を話させる。
資料も出させる。
そして進行役が、それを整理して意見まで付ける。
なのに。
最初から結論は変えない。
報告は決裁書類の下のほうに挟んでおくだけ。
そんなの。
意見を聞く機会ではありません。
儀式です。
「倉田係長」
片桐所長が口を開きました。
「聴聞をする意味は何です」
静かな声でした。
こういうときの所長は怖い。
「本人の言い分を聞くためです」
「何のために聞く」
「何のためって……」
「聞いた内容を、判断材料にするためでしょう」
倉田係長は答えません。
「結論を決めたあとで、形式だけ話を聞くなら、本人を呼ぶ意味がない」
所長は榊原さんの通知書を指先で押さえました。
「まして今回は、聴聞を担当した職員が、改善状況を踏まえれば取消し以外の対応も検討すべきだと意見を付けている。それを事実上無視しているなら、何のための手続だったのか説明が必要です」
私は、頭の中で別の文章を思い出していました。
まだこの世には存在しない法律。
未来の行政手続法。
その二十六条。
聴聞調書の内容と、報告書に記載された主宰者の意見を――
十分に参酌して。
不利益処分を決めなければならない。
参酌。
受験生時代の私は、この言葉が嫌いでした。
なんですか、参酌って。
日常生活で使いません。
「今日の夕飯、冷蔵庫の残り物を十分に参酌してカレーにします」
とか言いません。
でも今なら分かります。
たぶんあの一語は。
こういうことを防ぐためにある。
聞くだけでは駄目。
紙を作るだけでも駄目。
提出させるだけでも駄目。
決める人が、それを判断材料としてちゃんと考えなさい。
そういう意味なんだ。
ただし。
今は昭和六十三年。
私は行政手続法二十六条を口にできません。
未来の法律で市役所を殴るわけにはいかない。
「係長」
私は言いました。
「処分を変えろ、とはまだ言ってません」
倉田係長がこちらを見ます。
「じゃあ何だ」
「聴聞で出た内容を、本当に検討してから決めてください、って言ってるんです」
「検討した結果だ」
「何をどう検討したんですか」
「それは……」
「改善したこと」
私は指を一本立てました。
「十二年間営業してきたこと」
二本目。
「保健所の確認も受けたこと」
三本目。
「そして聴聞を担当した方が、取消しではなく、もっと軽い対応を検討する余地があると意見を付けたこと」
四本。
「それを踏まえて、それでも取消しが必要だと判断したなら、その道筋があるはずです」
倉田係長は黙っています。
「逆に、その道筋を誰も説明できないなら」
私は一度、言葉を切りました。
「聴聞って、何だったんですか」
静かになりました。
ものすごく静かです。
こういうときに限って、さっきまでうるさかった電話も鳴りません。
空気を読んだのでしょうか。
昭和の黒電話、意外と有能です。
倉田係長が椅子の背にもたれました。
「……部長はな」
「はい」
「再整備を急いでるんだ」
ぽつりと言いました。
駅前の観光物産館は、来年から大規模改修に入る予定でした。
市はこれを機に、古くから入っている小規模商店を整理し、新しい観光事業者を呼び込みたい。
榊原商店は、その方針に合わなかった。
衛生上の注意を何度か受けていたこともあり、
「これを機会に退いてもらおう」
という空気が、上にはあったらしい。
なるほど。
急に話がつながりました。
衛生管理の問題だけではない。
駅前再整備。
またそこです。
この町の相談事は、一つずつ別の顔をして事務所へやってくるくせに、背中を見ると同じ紐が結ばれている。
「だったら、なおさらまずいだろ」
相馬先輩が言いました。
「衛生管理が理由の取消しに、再整備の都合を混ぜるなよ」
「混ぜてるとは言ってない」
「今、自分で言っただろ」
「背景を説明しただけだ」
「便利な言葉だな、背景」
倉田係長が睨みます。
「相馬さん、喧嘩を売りに来たんですか」
「行政書士事務所だぞ。書類を売りに来た」
「売ってないでしょ」
思わず突っ込みました。
「黙ってろ、こはる」
「急に雑!」
でも、少し空気が緩みました。
片桐所長が、その隙に本題へ戻します。
「係長」
「はい」
「こちらの要求は単純です」
「何です」
「処分の再検討です」
倉田係長の顔が険しくなる。
「取消通知はもう出ています」
「承知しています」
「今さら白紙には」
「白紙にしろとは言っていない」
所長は淡々と続けました。
「聴聞記録と担当者の意見を、決裁者に改めて読ませてください。そのうえで、取消しという結論を維持するなら、その理由を整理する」
「……」
「それだけです」
私は所長の横顔を見ました。
なるほど。
ここで、
取消しは違法だ。
撤回しろ。
と真正面から殴りにいくわけではない。
いったん判断を、
“正しい手続の場所”
へ戻す。
所長がよく使うやり方です。
人は結論を迫られると守りに入る。
でも、
「ちゃんと読んで考えてください」
は断りづらい。
なぜなら、それを断った瞬間、
「では何のために聴いたのですか」
という話になるからです。
倉田係長はしばらく黙ったあと、立ち上がりました。
「少し待ってください」
奥へ消えます。
「先輩」
私は小声で言いました。
「これ、処分そのものが直ちに無効とか、そういう話じゃないですよね」
「論点で喋るな」
「でも」
「今はな」
相馬先輩も声を落とします。
「榊原さんに必要なのは、試験答案じゃない」
「はい」
「店を畳む期限を、いったん止めることだ」
そうでした。
取消通知には、今月末までに明け渡すよう書かれています。
あと十日ほど。
法理論を百点満点で語っている間に、棚も冷蔵庫も運び出されてしまえば意味がない。
「それと」
相馬先輩が続けます。
「聴聞担当の意見を無視したから即アウト、なんて単純に決めつけるなよ」
「はい」
「意見に従わなきゃならないって話でもない」
そこ。
重要です。
私は頭の中で未来の二十六条を思い浮かべます。
十分に参酌しなければならない。
従わなければならない。
ではない。
主宰者が「取消しは重すぎる」と書いたから、行政庁は必ず取消しをやめなければならない。
そんな仕組みではない。
最終的に決めるのは行政庁。
でも。
だからといって、
読まなくていい。
無視していい。
ということでもない。
未来の条文。
なんて絶妙に嫌らしいところを突いてくるんでしょう。
行政法、ほんとそういうところあります。
十五分ほどして、倉田係長が戻ってきました。
「部長と話しました」
「はい」
「明け渡しについては、一週間、手続を進めないことにします」
榊原さんが顔を上げました。
「本当ですか」
「処分を撤回したわけではありません」
倉田係長がすぐに釘を刺します。
「ただ、聴聞の記録と意見書をもう一度確認して、再検討します」
「部長が読むんですね」
私が聞くと、倉田係長は少し嫌そうな顔をしました。
「私も同席して読ませます」
「それなら」
「それなら何だ」
「いえ。係長、だいぶ信用されてますね」
「君にだけは言われたくない」
なぜ。
私はまだ何もしていません。
いや、たぶんいろいろしています。
「もう一つ」
片桐所長が言いました。
「再検討の間、榊原さんの営業は」
「現状のままです」
「分かりました」
「ただし、通路への荷物のはみ出し等があれば別です」
「それは守ります」
榊原さんがすぐ答えました。
「もう二度としません。棚も直しました。裏も全部片づけました」
「……お願いします」
倉田係長の声が、少しだけ柔らかくなりました。
そこで話は終わりました。
完全勝利ではありません。
取消通知は消えていない。
再検討しても、結論が同じ可能性はある。
聴聞担当者の意見に、市が従わなければならないわけでもない。
でも。
少なくとも、
「話は聞きました」
のあとに、
「でも最初から結論は決まっています」
で蓋をすることはできなくなった。
役所を出たところで、榊原さんが立ち止まりました。
「朝比奈さん」
「はい」
「わし、勘違いしてました」
「何をですか」
「話を聞いてもらったら、それで十分なんだと思ってたんです」
私は黙って聞きます。
「役所がわざわざ席を作ってくれて、こっちの言い分を聞いてくれた。だから、あとは向こうが決めることだって」
「そう思いますよね」
「でも」
榊原さんは取消通知の入った封筒を見ました。
「聞いた話を、考えてくれたのかどうか。それも大事なんですね」
胸の奥に、かちりと何かがはまりました。
「はい」
たぶん。
今日の論点は、それです。
発言できること。
資料を出せること。
言い分を記録してもらえること。
それだけでも大事。
でも、その先。
決める人が、
それを本当に判断材料へ入れたのか。
そこまで行って初めて、
「話を聞く」
という手続に意味が出る。
事務所へ戻る途中、相馬先輩が煙草屋の前で立ち止まりました。
「榊原さん」
「はい」
「店の漬物、まだ買えます?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ今度、大根のやつ持ってきてください」
「先輩」
「何だ」
「依頼人に差し入れを要求しないでください」
「買うって言ってんだ」
「ならいいです」
「何様だ、お前」
「行政書士倫理の妖精です」
「一番信用できない肩書きだな」
榊原さんが笑いました。
今日初めて見る笑顔でした。
三日後。
片桐行政書士事務所に、市役所から電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『倉田です』
「お疲れさまです」
『まだ疲れさせたのは君らだがな』
「市民との対話による健全な疲労です」
『何だそれ』
倉田係長の声は、前より少し軽かった。
『榊原商店の件だ』
「はい」
『取消しは、いったん撤回することになった』
「え」
私は立ち上がりました。
相馬先輩がこちらを見る。
『代わりに、三か月の改善確認期間を置く。施設管理上の条件を文書で示して、守られなければ改めて対応を検討する』
「それは……」
『聴聞の記録を読み直した』
倉田係長は、そこで少し声を落としました。
『担当した総務課長補佐の報告もな』
「部長も?」
『読んだ』
「どうでした」
『君、そういう聞き方するか普通』
「気になりまして」
『……改善が確認できている以上、直ちに取消しまでは重いんじゃないか、ということになった』
私は思わず息を吐きました。
「そうですか」
『念のため言っておくが』
「はい」
『担当者の意見に従ったわけじゃない』
お。
そこを言いますか。
『最終的な判断は市がした。施設管理上の問題があったことも事実だ。ただ、記録を全部見たうえで、現時点では取消しまでは必要ないと判断した』
「はい」
それでいい。
たぶん。
まさにそれでいい。
「ありがとうございます」
『君に礼を言われる筋合いじゃない』
「じゃあ榊原さんから言ってもらいます」
『それもいらん』
少し間がありました。
『……こっちも、手続をやったことで安心してたところはあった』
「安心?」
『本人から話を聞いた。記録も作った。だから手続は踏んだ、と』
私は黙ります。
『でも、読まずに決めたら意味がないな』
その言葉に、少し驚きました。
「係長」
『何だ』
「今日、格好いいです」
『二度と言うな』
電話が切れました。
昭和の男、褒められ耐性が低い。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「取消し撤回。三か月の改善確認になりました」
「そうか」
奥の机で書類を読んでいた所長も顔を上げます。
「所長」
「何だ」
「通りました」
「何が」
「ちゃんと読む、が」
所長は一瞬こちらを見て。
「それが普通だ」
と言いました。
重い。
普通なのに。
普通のことなのに、現場ではそれが抜ける。
本人を呼んだ。
話を聞いた。
記録を作った。
報告書を付けた。
そこまでやると、人は安心してしまう。
手続を踏んだ、と。
でも本当は。
その紙を、決める人が読む。
そこに書かれた本人の言い分も、証拠も、進行役の意見も、判断の中へ入れる。
それで初めて、
「聞いた」
が、
「考えた」
につながる。
未来の私は、この考え方に名前が付くことを知っています。
行政手続法二十六条。
聴聞を経てされる不利益処分の決定。
行政庁は、聴聞調書の内容と報告書に記載された主宰者の意見を、十分に参酌して処分を決めなければならない。
でも。
昭和六十三年のこの部屋には、その条文はまだありません。
未来で条文になる前に。
問題のほうが、先にここにある。
それが少し不思議でした。
法律というのは、ときどき何もないところから新しい問題を作るわけではない。
昔から誰かが困っていたこと。
現場で何度も起きていたこと。
役所の善意や慣行だけでは防ぎきれなかったこと。
そういうものに、あとから名前を付けて、線を引いていく。
行政手続法も、きっとそうなのだろう。
夕方。
榊原さんが事務所へやって来ました。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げます。
「いや、まだ三か月ありますよ」
相馬先輩が言いました。
「分かってます。もう通路には一センチも出しません」
「一センチならいいとか、そういう話じゃありませんからね」
私が言うと、
「分かってますよ」
榊原さんが笑いました。
「それで、これ」
紙袋が机に置かれます。
大根の漬物。
胡瓜。
茄子。
あと、よく分からない茶色いもの。
「これは?」
「山ごぼう」
「ほう」
相馬先輩の目が輝きます。
「先輩。今回はちゃんと買うって言ってませんでした?」
「言った」
「じゃあ払ってください」
「差し入れだろ」
「榊原さん」
「差し入れです」
「ほら」
「ぐっ……」
法的に負けました。
いや法的ではありません。
贈与です。
たぶん。
「お茶入れますね」
私は湯呑みを並べました。
榊原さんは椅子に座り、少しだけ照れたように言いました。
「店に戻ったら、女房に怒られまして」
「何をです?」
「役所に注意されるようなことをしたのは、こっちも悪いんだから、そこはちゃんと直せって」
「正論ですね」
「ええ。四十年一緒にいますが、正論ほど腹の立つものはない」
相馬先輩が笑います。
「分かるなあ」
「先輩は誰に正論言われてるんです?」
「主に所長」
奥から声が飛んできました。
「仕事しろ」
「ほらな」
「リアルタイムで来た」
榊原さんが声を上げて笑いました。
その笑い声を聞きながら、私は自分の机に戻ります。
ノートを開きました。
今日のことを書こうとして。
やめました。
いや。
一行だけ。
題名を書く。
――聴聞を経てされる不利益処分の決定。
昭和六十三年のノートには、少し未来すぎる題名です。
だから、その上に小さく書き足しました。
――話を聞くなら、決めるときまで聞け。
「何書いてんだ」
相馬先輩が覗き込みます。
「今日の教訓です」
「変な日本語だな」
「じゃあ先輩なら?」
「聞くだけなら、飲み屋の愚痴と同じだ」
「さらに品がない」
「分かりやすいだろ」
「否定しづらいのが腹立つ」
所長が書類から目を上げました。
「聞くことが目的じゃない」
私たちは振り返ります。
「判断を誤らないために聞くんだ」
短い。
でも。
今日一日の話が、そこに全部入っていました。
私はノートに、その言葉も書き足しました。
法律の手続は、ときどき面倒です。
本人を呼ぶ。
話を聞く。
記録する。
報告する。
決める人が読む。
考える。
それから決める。
急いでいる人から見れば、遠回りでしょう。
紙も増える。
仕事も増える。
役所にとっては面倒かもしれない。
でも。
その面倒が一つ抜けるだけで、人の店が一つ消えることがある。
十二年続けた商売が、
「もう方針ですから」
の一言で終わることがある。
だから制度は、面倒なくらいでちょうどいいのかもしれません。
条文は冷たい。
本人の人生なんて書いてありません。
漬物屋を続けたい気持ちも。
夫婦で十二年守った店の匂いも。
駅前から追い出される夜の不安も。
何も書いていない。
ただ、
話を聞きなさい。
記録しなさい。
意見をまとめなさい。
それをちゃんと考えてから決めなさい。
そういう冷たい手順だけがある。
でも。
冷たいからこそ。
「もう決めてあります」
という誰かの都合へ、静かにブレーキをかけられる。
私は大根の漬物を一切れつまみました。
「こはる」
「はい?」
相馬先輩がこちらを指さしています。
「それ、俺が狙ってたやつ」
「話は聞きました」
「返せ」
「でも結論は最初から決まっています」
「今日一日何を学んだんだ、お前!」
「先輩の意見は十分に参酌しました」
「さんしゃく?」
相馬先輩が眉をひそめます。
しまった。
未来語。
「……参考にして考えました」
「考えた結果?」
「食べます」
ぱくり。
「お前なあ!」
榊原さんがまた笑いました。
片桐所長は、こちらも見ずに言いました。
「相馬」
「はい」
「まだ山ごぼうがある」
「……じゃあいいです」
「折れるの早っ」
窓の外では、駅前の工事現場に夕方の光が落ちていました。
この町は変わろうとしています。
新しい建物。
新しい店。
新しい計画。
その裏で、古いものが押し出される。
変えること自体が悪いわけではない。
でも。
誰かを押し出すときくらい。
その人の話を聞いて。
聞いたなら。
決める前に、ちゃんと考える。
それくらいの遠回りは、あっていい。
今日の私は、未来の条文を一つだけ先に知っていました。
けれど。
たぶん本当に覚えたのは、条文番号ではありません。
聴聞は、話させて終わりじゃない。
決める人のところまで、その声を届けて初めて意味がある。
昭和六十三年。
まだ行政手続法のない町で。
私は未来の二十六条が必要になる理由を、漬物の匂いのする事務所で、少しだけ先に知りました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




