[行政手続法24条・聴聞調書・報告書]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ嘘がつきにくい空気になります。
電話が減る。
来客が途切れる。
書類をめくる音だけが残る。
そして私の机の上には、一枚のメモ。
午後五時四十一分。
弁当箱内の唐揚げ、二個を確認。
その後、相馬誠司が一個を取得。
「まだ残してたのか、それ」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「重要な記録です」
「捨てろ」
「当事者から廃棄要求がありました」
「書くな」
「陳述の要旨です」
「だから書くな」
私はノートを開きました。
昨日までなら、行政法の条文をまとめる時間は、眠気との戦争でした。
定義。
要件。
効果。
例外。
似た制度。
数字。
期限。
そして受験生を仕留めにくる、「速やかに」と「遅滞なく」の群れ。
でも今日は少し違います。
長谷川美津子さんの、
――私は全部認めたんじゃありません。
という声が、まだ耳に残っていました。
だから。
今日まとめるのは、ただの暗記事項じゃない。
人の反論を、途中で消さずに判断者まで運ぶための仕組みです。
私はページの一番上に書きました。
――聴聞調書及び報告書。
「所長」
「何だ」
「昨日の役所みたいなことを、未来ではもっと細かく法律で防ぐんですよね」
片桐所長が新聞から目を上げます。
「未来?」
「あ」
しまった。
「いえ。将来的には、です」
「言い直しても怪しいぞ」
相馬先輩が言いました。
「気にしないでください」
「気になる言い方するな」
昭和六十三年。
まだ行政手続法はありません。
けれど私は知っています。
数年後。
行政処分に至る手続を全国的に整える法律が作られ、
不利益処分に先立つ聴聞についても、
誰が何を記録し、
何を判断者へ渡し、
当事者が何を確認できるのか。
そこまで条文で形にされることを。
私は心の中で、未来の条文を開きました。
行政手続法第二十四条。
聴聞調書及び報告書。
昨日の事件を見たあとでは、題名だけでもずいぶん生々しい。
「まず確認です」
私はペンを持ちます。
「聴聞では、話を聞くだけじゃなくて、記録を作る」
「当たり前だろ」
相馬先輩が言いました。
「先輩、昨日その当たり前が崩れてたんですよ」
「だから面倒だった」
そう。
長谷川さんは、役所に呼ばれて話をしました。
自分が認める事実。
否定する事実。
事情のある事実。
写真。
酒屋さんの証言。
そこまではあった。
でも、最後に課長へ届いたのは、
「本人も違反を認めた」
という雑な要約でした。
私はノートに最初の一行を書きます。
主宰者は、聴聞の審理の経過を記載した調書を作成する。
「主宰者」
相馬先輩が覗き込みます。
「昨日で言えば、話を聞く場を仕切った奴みたいなものか」
「はい。未来の制度だと、聴聞の進行を担当する人です」
「また未来って言ったな」
「仮定です。仮定」
「雑な誤魔化し方だな」
私は続けます。
その調書では、
不利益処分の原因となる事実について、
当事者や参加人が何を述べたのか、
その陳述の要旨を明らかにしておく。
「ここ、昨日そのままですね」
私は言いました。
「長谷川さんの件なら、たとえば」
荷物を通路に一時置いた。
そこは認める。
指定時間外搬入があった。
ただし、一部は事故渋滞。
別の日は、市職員の了承があったと主張する。
消防通路を塞いだ。
そこは否認。
酒屋も、自分のビールケースだったと述べる。
写真あり。
「こういうのを、事実ごとに残しておく」
「そうだな」
所長が言います。
「昨日みたいに、『違反は認めた』だけでは足りん」
「ですよね」
私は大きく丸をつけました。
ここが最初の核心です。
聴聞調書は、
「本人が来ました」
「話を聞きました」
という出席簿ではない。
何を言ったのか。
何について争っているのか。
それを残すための記録です。
「でも先輩」
「何だ」
「陳述の要旨ってことは、一字一句全部じゃないですよね」
「そりゃそうだろ。速記録じゃあるまいし」
「じゃあ、要約する人が勝手に削ったら?」
「昨日になる」
即答でした。
うまい。
私は少し悔しい。
「そこが怖いんですよね」
要旨とは、全部そのまま書くことではない。
でも。
争点を落としてはいけない。
本人が認めた部分と否定した部分を混ぜてはいけない。
条件つきで認めた話を、全面自認に変えてはいけない。
証拠を出したのに、その存在ごと消してはいけない。
長谷川さんの件でいえば、
「規則違反があったことは認めた」
だけでは危険です。
何の違反を。
どの程度。
どの事情つきで。
どれは争っているのか。
そこまで分からなければ、判断材料として歪みます。
「記録って、中立そうな顔してますけど」
私は言いました。
「何を残して何を削るかで、結論に影響しますね」
「だから記録を作る側の責任が重い」
所長が言いました。
私は頷きます。
そして次。
未来の第二十四条第二項。
「調書は、いつ作るか」
相馬先輩が嫌な顔をしました。
「出たな。試験の数字と時期」
「数字じゃないだけまだ優しいです」
「どうせ嫌らしいんだろ」
「嫌らしいです」
私は書きました。
聴聞の期日に審理が行われた場合。
――各期日ごとに作成。
「各期日ごと?」
「はい」
「最後にまとめて一冊じゃないのか」
「そこが引っかけです」
聴聞が一日で終わるとは限りません。
一回目。
二回目。
三回目。
何回か期日を重ねることもある。
その場合。
全部終わってから記憶を掘り返して一括作成、ではない。
審理が行われた各期日ごとに、調書を作る。
「なるほど」
相馬先輩が言います。
「三回分まとめて後で書いたら、誰が何日に何言ったか混ざる」
「そういうことです」
昨日の長谷川さんの件なら。
一日で終わりました。
でも仮に、
一回目に長谷川さん。
二回目に酒屋さん。
三回目に担当職員。
そう分けて聞いたなら。
各期日ごとに審理経過を残す。
その方が、後から見ても追いやすい。
「じゃあ、審理が行われなかった場合は?」
所長が聞きました。
来ました。
口頭試問。
昭和の事務所に塾代はありませんが、逃げ場もありません。
「ええと」
私は記憶をたどります。
「聴聞の終結後、速やかに作成です」
「そうだ」
よし。
私は書き足します。
審理が行われた。
各期日ごと。
審理が行われなかった。
聴聞終結後、速やかに。
「審理が行われなかったって?」
相馬先輩が聞きます。
「たとえば本人が来なくて、提出済みの書面だけで終わるような場合とかですね」
「なるほど」
「この区別、試験で混ぜてきそうでしょう?」
「性格悪いな」
「試験問題に言ってください」
私は線を一本引きました。
ここで、
調書。
と、
報告書。
を分けます。
「昨日、一番大事だったのはここかもしれません」
「どこだ」
「調書と報告書は、同じものじゃない」
相馬先輩が腕を組みました。
「説明してみろ」
「調書は、何があったかの記録です」
「うん」
「報告書は、それを踏まえて、主宰者がどう見るか」
「どう見る?」
私は書きました。
不利益処分の原因となる事実に対する、
当事者等の主張に理由があるかどうかについての意見。
「つまり」
私は長谷川さんの事件へ戻します。
消防通路を塞いだ。
市側はそう認定している。
でも長谷川さんは否定した。
酒屋も、
あのビールケースは自分のものだった、
と述べた。
写真もある。
ここまでが、まず調書に残るべき材料。
その上で主宰者が、
長谷川さんの反論には理由がある。
あるいは、
証拠を見てもなお市側の認定を覆すほどではない。
そういう意見を書く。
それが報告書。
「じゃあ調書が素材で、報告書が評価か」
相馬先輩が言います。
「ざっくり言えばそうです」
「そこ、試験で逆にされたら?」
「死にます」
「死ぬな」
「でも受験生の感覚としては死にます」
所長がこちらを見る。
「報告書は、誰が作る」
「主宰者です」
「いつ」
「聴聞の終結後、速やかに」
「何を書く」
「不利益処分の原因となる事実に対する当事者等の主張に理由があるかどうかについての意見」
「どこへ出す」
「行政庁へ」
「何と一緒に」
「聴聞調書と一緒に」
「それでいい」
やった。
私はノートに太く書きました。
聴聞終結後速やかに、
主宰者が報告書を作成。
聴聞調書とともに、
行政庁へ提出。
「ここ、昨日の構造そのものですね」
私は言いました。
「聞いた人と、決める人が別だった」
「そうだな」
長谷川さんの言い分を直接聞いたのは、担当職員たち。
最終的に取消しを決めるのは課長。
昨日は、その間の連結が雑でした。
だから、
酒屋の証言。
写真。
消防通路についての否認。
そこが、最終判断者へ十分届いていなかった。
未来の制度では、
審理を主宰した人が、
調書。
そして意見を書いた報告書。
両方を行政庁へ渡す。
「この二枚セットには意味がありますね」
私は言いました。
「事実だけでも駄目。評価だけでも駄目」
「どういうことだ」
相馬先輩が聞きます。
「報告書だけだと、『反論には理由がありませんでした』だけで終わるかもしれない」
「うん」
「でも調書が一緒なら、何を聞いて、その意見になったのか辿れる」
「逆は?」
「調書だけだと、発言は残っても、主宰者が争点をどう見たかが行政庁に伝わりにくい」
所長が頷きました。
「両方あって初めて、判断材料になる」
「はい」
なんだ。
行政法、よくできています。
面倒くさいけど。
よくできています。
「ただし」
私は自分で言いながら、指を一本立てました。
「報告書に書くのは、最終処分そのものの結論じゃないですよね」
相馬先輩が眉を上げます。
「違うのか」
「そこ、たぶん重要です」
主宰者は、
当事者の主張に理由があるかどうかについて意見を書く。
でも。
最終的に不利益処分をするかどうかを決定するのは、行政庁です。
「主宰者が『取消しにしろ』と決めるわけじゃない」
「そういうことだ」
所長が答えました。
「聴聞を主宰する者と、処分をする行政庁は役割が違う」
私は大きく二つに分けました。
主宰者。
聞く。
記録する。
当事者等の主張に理由があるかについて意見をまとめる。
行政庁。
調書と報告書などを踏まえ、
最終的に不利益処分について判断する。
「昨日の課長が、未来なら行政庁側の判断者に近い」
「まあ、仕組みによるがな」
「はい」
そして。
もし主宰者が、
長谷川さんの消防通路についての反論には理由がある、
と報告したとしても。
それだけで自動的に取消しなし、とは限らない。
他の違反。
処分基準。
全体事情。
行政庁が最終的に判断する。
「じゃあ、主宰者の意見に行政庁は絶対従わないといけないんですか」
相馬先輩が聞きました。
「絶対、ではないです」
「出たな。“絶対”」
「行政法で強すぎる言葉は警戒です」
主宰者の報告書は重要な判断資料です。
でも。
主宰者自身が処分庁になるわけではない。
ここを混ぜると、
報告書イコール処分決定。
という誤解になります。
「昨日だったら」
私は言いました。
「担当者が『長谷川さんの言い分には理由なし』ってまとめたとしても、それで取消しが自動確定するわけじゃない」
「最終的には決裁権者が判断する」
「はい」
ただ。
その判断者が正しく判断するためには。
調書と報告書がちゃんとしていないと困る。
結局、また同じところへ戻ってきます。
何を聞いたか。
何を争ったか。
どう評価したか。
それを判断者まで運ぶ。
「で」
相馬先輩が私のノートの下を指しました。
「まだあるんだろ」
「あります」
「嫌な顔して言うな」
私は書きました。
当事者または参加人は、
聴聞調書及び報告書の閲覧を求めることができる。
「ここです」
「閲覧?」
「はい」
「本人が見られるのか」
「求めることができます」
私は昨日の長谷川さんを思い出しました。
もし。
最初からあの仕組みがあったなら。
長谷川さんは、
自分の話がどう記録されたのか。
酒屋さんの証言がどう残ったのか。
そして主宰者が、自分の反論をどう評価したのか。
それを確認できる。
「これは大きいですね」
「何がだ」
「勝手な要約をされても、本人が気づける」
相馬先輩が少し考えます。
「昨日みたいに、『本人も違反を認めた』って書かれてたら?」
「調書を見て、『いや、そこは否定した』と言える」
「報告書に『反論に理由なし』って書かれていたら?」
「少なくとも、どう評価されたか分かる」
分からないことと。
負けることは。
違います。
負けても。
理由が分かれば、次に争う場所を探せる。
でも。
何を根拠に不利益を受けたのか分からなければ。
反論すらできません。
「閲覧できるって、地味に大事ですね」
「地味な制度ほど効く」
所長が言いました。
ああ。
それ、すごくこのシリーズっぽい。
私は心の中だけでそう思いました。
「所長」
「何だ」
「閲覧できるのは当事者だけですか」
「条文なら確認してみろ」
逃げない。
いや、教えてくれないだけです。
私は記憶を引っ張ります。
「当事者または参加人」
「そうだ」
「参加人も見られる」
昨日の酒屋さん。
未来の制度で正式な参加人に当たるかどうかは、その手続上の位置づけ次第です。
でも受験上は、
閲覧を求められる主体。
当事者。
参加人。
ここは覚える。
「逆に、誰でも見せろって言えるわけではない」
「そうだな」
「傍聴人とか、近所の人が第二十四条を根拠に閲覧請求できるわけじゃない」
「そこも引っかけだな」
相馬先輩が言いました。
私は頷きます。
そして少し間を置いて。
ノートを一度、最初から見返しました。
調書。
主宰者が作る。
審理の経過。
当事者・参加人の陳述の要旨。
審理が行われたなら各期日ごと。
行われなければ終結後速やかに。
報告書。
主宰者が聴聞終結後速やかに作る。
不利益処分の原因事実に対する当事者等の主張に理由があるかどうかについて意見を書く。
調書とともに行政庁へ提出。
当事者・参加人は閲覧を求められる。
「先輩」
「何だ」
「これ、全部覚えようとすると眠いですよね」
「知らん」
「でも昨日の事件に当てると簡単です」
「言ってみろ」
「長谷川さんの言葉を」
私は指を一本立てます。
「残すのが調書」
二本目。
「どう見るかを書くのが報告書」
三本目。
「両方を、決める行政庁へ渡す」
四本目。
「本人たちが、内容を見られる」
相馬先輩が少し笑いました。
「それで覚えりゃいいだろ」
「受験生の頃の私に教えてあげたいです」
「だからお前は何歳なんだ」
「十八歳です」
「即答だけは速いな」
私は笑って、またノートへ目を落としました。
でも。
まだ一つ、引っかかります。
「所長」
「何だ」
「昨日みたいに、未来の行政手続法がない時代なら」
「うん」
「調書や報告書の形式が法律で細かく決まってないから、適当にやってもいいんですか」
所長は少しだけ黙りました。
そして言います。
「そうはならん」
やっぱり。
「手続を設けた以上、その目的に沿って運用しなければならない。本人に弁明させる場を作っておきながら、言い分を判断材料にしないなら、その場を設けた意味がない」
「法律に細かく書いてないから、雑でいいわけじゃない」
「そうだ」
ここ。
時代設定としてすごく大事です。
昭和六十三年には、まだ行政手続法第二十四条はありません。
だから。
片桐所長が、
「第二十四条違反だ」
なんて言うことはできない。
でも。
聞く人。
記録。
判断する人。
この間に問題が起きること自体は、法律ができる前から存在した。
むしろ。
そういうバラバラの問題があるからこそ。
後に、
全国共通のルールとして整理されていく。
私は未来を知っている。
だから。
今目の前で起きている雑さが、
後世のどの条文につながるのか見えてしまう。
これはちょっと反則です。
転生者特権。
でも便利なので使います。
「未来の法律って」
私は危うく口に出して、飲み込みました。
「何だ」
「いえ。法律って、先に問題があって、後から形になることもあるんだなって」
所長が私を見ました。
「当たり前だ」
「ですよね」
「問題がなければ、細かい手続など作らん」
なるほど。
法律は突然、空から落ちてくるわけじゃない。
役所の現場。
処分される側。
裁判。
批判。
不信。
そういうものの積み重ねで。
「ここは記録しろ」
「ここは見せろ」
「聞いたことを決める人まで持っていけ」
そうやって制度になる。
「じゃあ試験用に整理します」
私は背筋を伸ばしました。
「お、受験生モードか」
相馬先輩が言います。
「まず一つ目」
調書に書くもの。
審理の経過。
当事者及び参加人の陳述の要旨。
ここで、
主宰者の意見を書く。
ではない。
意見は報告書。
「二つ目」
調書の作成時期。
審理が行われたら、各期日ごと。
審理が行われなければ、聴聞終結後速やかに。
「三つ目」
報告書。
聴聞終結後速やかに作成。
当事者等の主張に理由があるかどうかについて主宰者の意見。
「四つ目」
報告書だけ行政庁へ提出する。
ではなく。
聴聞調書とともに行政庁へ提出。
「五つ目」
調書は閲覧できるが報告書はできない。
ではなく。
当事者または参加人は、
調書も報告書も閲覧を求められる。
「先輩」
「何だ」
「ひっかけ問題作れそうじゃないですか」
「作るな」
「じゃあ一問だけ」
「嫌だ」
「主宰者は、聴聞終結後速やかに聴聞調書を作成し――」
「もう違う」
相馬先輩が即答しました。
「え?」
「審理やったなら各期日ごとなんだろ」
「……覚えてる」
「馬鹿にすんな」
ちょっと悔しい。
「じゃあ次」
「まだやるのか」
「主宰者は、聴聞調書に当事者の主張に理由があるかについての意見を記載し――」
「それ報告書」
「強い」
「昨日の事件で覚えた」
私は少し笑いました。
そう。
これなんです。
テキストだけなら、
調書。
報告書。
似た紙が二つ。
で終わります。
でも昨日を思い出せば。
調書は、
長谷川さんが何を言ったか。
酒屋さんが何を言ったか。
どんな証拠が出たか。
報告書は、
その反論に理由があるかどうかについて、主宰者がどう考えたか。
全然違う。
「じゃあ最後」
私は言いました。
「当事者は報告書の閲覧はできるが、参加人はできない」
「嘘」
「正解です」
「雑な試験だな」
「本番はもっと巧妙です」
私はノートの余白に、大きく囲みを作りました。
――調書は「何を聞いたか」。
――報告書は「どう見たか」。
――両方を「決める人」へ。
――当事者・参加人は「何が残ったか」を見られる。
これでかなり整理できました。
そして。
私は昨日の電話を思い出します。
倉田係長は言いました。
担当メモには、
長谷川さんの消防通路についての反論も。
酒屋さんの証言も。
写真も。
残っていた。
でも。
課長への報告には落ちていた。
つまり。
昨日の役所には、
調書に近い素材はあった。
でも。
それを判断者につなぐ仕組みが弱かった。
「昨日の事件って」
私は言いました。
「記録が全くなかったわけじゃないんですよね」
「ああ」
相馬先輩が答えます。
「担当者メモはあった」
「でも、それだけじゃ足りなかった」
「課長に上がった報告が雑だったからな」
「そう考えると」
私はノートを指で叩きました。
「第二十四条って、紙を増やす条文じゃないんですね」
「どういう意味だ」
「情報を途中で落とさないための流れを作ってる」
聞く。
残す。
評価する。
渡す。
見せる。
これが一連になっている。
「役所って、紙多いじゃないですか」
「多いな」
「でも、紙が多いこと自体が目的じゃない」
「当たり前だ」
「必要な情報を、判断までつなげるための紙なら意味がある」
所長が静かに言いました。
「形式は、目的のためにある」
短い。
でも。
今日のまとめは、ほとんどそれで終わりです。
形式だけ見れば面倒です。
各期日ごとに作れ。
終わったらまた報告書を作れ。
二つ一緒に出せ。
本人には見せろ。
役所側からすれば、
仕事が増える。
時間もかかる。
紙も増える。
でも。
その手間を省いた結果。
長谷川さんの、
「そこは違います」
が消えかけた。
なら。
面倒には、面倒である理由があります。
「制度の冷たさって」
私はぽつりと言いました。
「やっぱり、人を守ることがありますね」
「急に文学になるな」
相馬先輩が言いました。
「いいところだったのに」
「続けろ」
「条文って、人情ゼロの顔してるじゃないですか」
「まあな」
「でも、昨日みたいなことを見たあとだと」
私はノートを眺めました。
調書を作れ。
報告書を作れ。
行政庁へ出せ。
閲覧させろ。
命令口調。
冷たい。
でも。
その冷たさが、
担当者の思い込み。
記憶違い。
面倒だから省略。
都合のいい要約。
そういう人間の雑さにブレーキをかける。
「人間がちゃんとしてる前提で制度を作らないんですね」
「当たり前だ」
所長が言いました。
「人間は忘れる」
「はい」
「省く」
「はい」
「自分に都合よく理解する」
「はい」
「だから残す」
私は笑いました。
「昨日と同じですね」
「ああ」
そのとき。
入口の引き戸が開きました。
「こんばんは」
長谷川さんでした。
「お邪魔していい?」
「どうぞ」
彼女は昨日より少しだけ明るい顔をしています。
手には小さな紙袋。
「役所から連絡がありました」
「どうでした?」
「取消しは、いったん見送るそうです」
私は思わず身を乗り出しました。
「本当ですか」
「まだ正式には決まってないけどね」
長谷川さんは笑いました。
「消防通路の件は、私の責任とは認定しない方向だって。搬入の件も、市の職員に確認するって」
「よかった」
「ただ、荷物を置いた件は注意を受けるみたい」
「そこは認めてましたもんね」
「うん」
完全勝利ではありません。
でも。
それがいい。
認めるところは認める。
争うところは争う。
証拠があるなら見る。
事情があるなら確認する。
全部一色に塗らない。
それこそが、昨日ほしかったものです。
「倉田さんから聞いたよ」
長谷川さんが言いました。
「今後は話を聞くとき、誰が何を言ったか、もっときちんと書くことにするって」
「そうですか」
「あと、本人にも内容を確認させるようにするって」
私は少し驚きました。
未来の法律そのものではありません。
でも。
同じ問題から。
同じ方向へ。
現場が自分たちで一歩進んでいる。
なんだか変な感じがしました。
私は未来を知っている。
でも。
未来の制度が突然生まれるわけではない。
こういう小さな困りごと。
こういう雑な処理。
こういう「それ、おかしくないですか」。
それが積み重なった先に、
条文ができる。
「これ」
長谷川さんが紙袋を机に置きました。
「差し入れ」
中を見る。
唐揚げ。
昨日より多い。
「何個ですか」
「十二個」
私はすぐメモを取りました。
相馬先輩が嫌な顔をします。
「何書いてる」
「受領時点の個数です」
「やめろ」
「昨日の教訓です」
「唐揚げに行政手続持ち込むな」
長谷川さんが笑いました。
「いいじゃない。ちゃんと記録しなさい」
「ほら」
「味方増やすな」
私は十二個の唐揚げを見ながら言いました。
「配分について、当事者の陳述を聞きます」
「四個ずつ」
長谷川さんが即答します。
「本人の主張に理由あり」
「主宰者誰だよ」
「私です」
所長が紙袋を見ました。
「一人三個だ」
「所長?」
「長谷川さんも食べる」
長谷川さんが目を丸くして、それから笑いました。
「じゃあ、そうしようかね」
合理的。
そして温かい。
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――聞く手続は、聞いた事実を残し、評価し、決める人まで届けて、初めて意味を持つ。
少し考えて。
その下に、試験用の一行も書き足します。
――調書は「経過と陳述」、報告書は「主張に理由があるかの意見」。両方を行政庁へ、当事者・参加人は両方を閲覧できる。
「二行じゃないか」
相馬先輩が横から言いました。
「一行の覚え書きと、一行の試験対策です」
「ずるい」
「行政書士受験生は生き残るためなら何でもします」
「大げさだ」
大げさじゃありません。
五択問題の一肢で人生を削られるんです。
私はノートを閉じました。
窓の外では、昭和六十三年の町が夕暮れに沈んでいます。
まだ、この町には行政手続法はありません。
第二十四条もありません。
聴聞調書と報告書について、全国共通の細かなルールが整うのは、もう少し先です。
でも。
問題は、もうここにある。
話したのに、伝わらない。
証拠を出したのに、落ちる。
一部認めただけなのに、全部認めたことになる。
聞いた人と決める人が違う。
本人は、自分の言葉がどう残ったのか分からない。
後の法律は。
きっと、こういう現場に名前をつけていくのでしょう。
調書。
報告書。
閲覧。
速やかに。
各期日ごとに。
受験生だった私は、その言葉だけを見て眠くなっていました。
でも今は違う。
条文は。
人の言葉が途中で消えないようにするための、輸送箱みたいなものなのかもしれません。
無機質で。
四角くて。
面白くない。
でも。
中身を潰さず、判断する場所まで運ぶ。
そう考えると。
少しだけ、好きになれます。
「こはる」
「はい」
「唐揚げ食わないならもらうぞ」
「駄目です」
「根拠は」
私は紙袋を抱き寄せました。
「調書に残ってます。三個ずつです」
「誰が決めた」
「所長です」
「行政庁かよ」
所長が新聞をめくりながら言いました。
「不服申立ては認めん」
「横暴!」
長谷川さんが声を上げて笑いました。
その笑い声を聞きながら。
私は思いました。
話したことが、ちゃんと残る。
残ったものを、ちゃんと見てもらえる。
たったそれだけで。
人は少し、自分の扱われ方を信じられる。
制度の冷たさは。
ときどき。
人の言葉を、いちばん丁寧に守ります。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




