[行政手続法24条・聴聞調書・報告書]現場編 「本人も違反を認めました」の罠。消えた反論と残された結論、聞いた人と決める人をつなぐ記録
人の話は、書かなければ、だいたい強い人の都合のいい形で残ります。
これは家族会議でも町内会でも役所でも、たぶん同じです。
「そんなこと言ってない」
「いや、言った」
「そういう意味じゃない」
「でも記録にはこうなってる」
――最後の一言が出た瞬間、だいたい勝負は決まります。
逆に言えば。
記録がなかったら?
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所で、その問いが私の机に飛び込んできたのは、午後二時十三分でした。
「取り消されるんです!」
入口の引き戸が、壊れる勢いで開きました。
私は驚いて、飲みかけのお茶を危うく戸籍謄本の写しへぶちまけるところでした。
「何がですか」
「店です!」
駆け込んできた女性は、四十代半ばくらい。
肩で息をしています。
手には茶封筒。
髪は風で少し乱れ、エプロンのまま。
相馬先輩が書類から顔を上げました。
「店が取り消されるって何だ。店そのものを消しゴムで消されるのか」
「先輩、言い方」
「使用許可です!」
女性は封筒から一枚の紙を取り出しました。
「駅前の仮設店舗です。うち、追い出されるんです!」
駅前。
その言葉で、私は少しだけ背筋を伸ばしました。
最近、この町では駅前再整備の話がやたら多い。
道路を広げる。
観光客を呼ぶ。
古い店舗を整理する。
広場を整備する。
便利になる話のはずなのに、なぜか片桐事務所には困った顔の人が増えている。
再開発とは、図面で見ると直線ですが。
現場では、人の暮らしを斜めに切っていくものらしいです。
「お名前を」
片桐所長が奥から出てきました。
「長谷川美津子です。駅前で弁当屋をやってます。『みつば』っていう」
知っています。
駅前広場の端に並ぶ、プレハブみたいな仮設店舗。
焼きそば、たこ焼き、花屋、靴修理、それから弁当屋。
駅前整備が完成するまで、旧商店街の事業者を暫定的に入れている場所です。
「これが来たんです」
長谷川さんが差し出した紙には、太い文字で書かれていました。
――市営駅前仮設店舗使用許可取消予定通知。
「予定?」
私は読み進めました。
理由。
施設管理上の指示に反し、荷物を通路に放置したこと。
指定時間外の搬入を繰り返したこと。
係員の指示に従わなかったこと。
これらを理由として、使用許可を取り消す予定である。
「まだ取消決定そのものじゃないですね」
「でも、もう決まってるんでしょう?」
長谷川さんの声が震えました。
「この前、役所に呼ばれて話したんです。言いたいことは全部言いました。それなのに昨日、担当の人が店に来て、『審理した結果、事情は変わりませんでした』って」
「呼ばれて話した?」
相馬先輩が聞き返します。
「はい。『正式に話を聞く場を設けます』って。係長さんと、別の課の人がいて」
私は紙を置きました。
話を聞く場。
不利益な扱いをする前に、本人に言い分を述べさせる。
昨夜までなら眠くなる単語が、頭の中でむくりと起き上がります。
聴聞。
ただし。
私は一瞬、口を閉じました。
待て。
今は昭和六十三年。
私の知っている行政手続法は――まだ、ない。
平成になってからできる法律です。
未来の法律を口走って、行政書士事務所で「この子、大丈夫か」と思われるのは避けたい。
転生者にも社会的信用は必要です。
「その場で、何を話しました?」
私は聞きました。
「全部です」
「全部を、もう少し細かく」
長谷川さんは膝の上で手を握りました。
「荷物を通路に置いたのは一回あります。認めました。でも十分くらいです。しかも、仕入れの箱を下ろしてる途中で」
「指定時間外の搬入は?」
「二回。でも一回は、朝の配達車が事故渋滞で遅れたんです。もう一回は、商工課の若い職員さんから『今日は祭りだから多少遅れてもいい』って言われた日です」
「係員の指示に従わなかった、というのは」
そこまで聞くと、長谷川さんの顔が変わりました。
「それが一番ひどいんです」
「どうひどいんです?」
「あの日、消防通路を空けろって言われたんです。でも、うちは空けてました」
「ではなぜ?」
「隣の店のビールケースが、うちの店の前まで置かれてたんです。それを見て、『長谷川さん、片付けてください』って」
私は眉を寄せました。
「長谷川さんの荷物じゃない」
「違います」
「それも役所で話した?」
「何度も!」
声が少し大きくなりました。
「写真まで持っていったんです。日付の入った写真。隣の酒屋さんも、『あれはうちの箱だった』って一緒に来てくれました」
「参加した人がいたんですね」
「はい?」
「いえ、こっちの話です」
危ない。
未来用語が口から滑りかけました。
私は誤魔化すように、写真を見せてもらいました。
確かに店の前。
ビールケース。
横には酒屋の屋号が印刷されています。
「それで、役所の人は何て?」
「聞いてくれました。『分かりました』って。酒屋さんの話も聞いて」
「記録は?」
片桐所長が、そこで初めて短く聞きました。
長谷川さんが瞬きをします。
「記録?」
「その日に、あなたが何を話したか。酒屋が何を話したか。役所側が何を確認したか。書面はもらいましたか」
「いいえ」
「署名は?」
「してません」
「調書を読まされた?」
「調書……?」
ありません。
私は嫌な感じがしました。
相馬先輩も同じだったらしく、椅子の背にもたれていた体を起こしました。
「役所から、その日の内容について何か紙は来たか」
「これだけです」
長谷川さんは別の紙を出しました。
市の職員が持ってきたという、簡単な通知。
そこには、
――事情聴取を行った結果、使用許可取消しの原因となる事実関係について、当初の認定を変更すべき事情は認められなかった。
とだけ書いてありました。
「ずいぶん省エネな文章ですね」
思わず口から出ました。
相馬先輩が横目で見る。
「褒めてんのか」
「行政文書の省エネは、だいたい市民の説明負担に転嫁されます」
「生意気になったな」
「成長です」
でも、本当に気になる。
当初の認定を変更すべき事情は認められなかった。
では。
写真は?
酒屋さんの証言は?
職員が時間外搬入を容認したという話は?
何より、
長谷川さんが「違反を認めた」という部分と、
「そこは認めていない」という部分は、
誰が、どう整理したのか。
「相馬先輩」
「何だ」
「聞いた人と、取消しを決める人って同じですか」
「市の規程次第だな」
「もし違ったら?」
「何が言いたい」
私はテーブルの紙を指しました。
「話を聞いた人の頭の中にしか反論が残ってなかったら、決める人には何が届くんでしょう」
相馬先輩が黙りました。
所長が私を見ます。
「続けろ」
「長谷川さんは、三つの指摘のうち一部は認めた。でも、全部は認めてない。証拠も出した。別の人も話した」
「そうだな」
「それなのに、最後に残った紙が『事情は変わらない』だけなら」
私は一度言葉を切りました。
「聞いたことと、決める材料が、途中で別物になってませんか」
長谷川さんが私を見ました。
「そう。それです」
声が小さくなります。
「私は、全部認めたんじゃありません」
その言葉だけは、妙にはっきりしていました。
「荷物を置いたことは謝りました。でも、消防通路のことまで私のせいにされたら……」
彼女はエプロンの端を握りました。
「あの店を出たら、もう行くところないんです」
駅前再整備で、元の店舗は既に取り壊されている。
仮設店舗は、完成後のテナント選考にも影響すると説明されていたらしい。
今、使用許可を取り消されれば。
単に数か月店を閉めるという話ではない。
この町で商売を続けられるか、そのものが怪しくなる。
「分かりました」
片桐所長が立ち上がりました。
「市役所へ行きます」
長谷川さんが顔を上げます。
「何をするんです?」
「まず、何が残っているか確認する」
「何が?」
「あなたの話が」
所長のその一言で。
私は、今回の事件の形が初めて見えた気がしました。
市役所の商工整備課には、見覚えのある顔がいました。
「ああ……また皆さんですか」
倉田係長です。
「またとは何ですか」
私が言うと、相馬先輩が小声で、
「胸張るところじゃない」
と突っ込みました。
倉田係長は、悪人ではありません。
ただ、最近の駅前再整備のせいで、日々胃を削っている顔をしています。
髪の分け目にも疲労が出ています。
「長谷川さんの仮設店舗の件です」
所長が言いました。
倉田係長は表情を固くしました。
「あの件は、既に事情を聞いています」
「その記録を確認したい」
「記録?」
係長の返しが、一瞬遅れました。
嫌な予感が、的中の鐘を鳴らします。
「はい」
所長は変わらない声で言います。
「当日の審理経過。本人の陳述。立会人の話。提出された写真。そして、それを踏まえて誰がどんな整理をしたのか」
「そこまで正式なものは……」
来ました。
昭和役所名物。
正式なものはない。
行政法の怪談として後世まで残したい日本語です。
「では何がある」
相馬先輩が聞きます。
「担当者のメモです」
「見せてもらえますか」
「内部文書ですので」
倉田係長は渋りました。
所長は押しませんでした。
代わりに聞きます。
「では、そのメモを基に、誰が取消し相当と判断した?」
「最終的には課長です」
「課長は聴取に立ち会った?」
「いえ」
「長谷川さんの話を直接聞いた?」
「いえ」
「酒屋の証言は?」
「担当から報告を受けています」
私は思わず口を挟みました。
「どんな報告ですか」
「朝比奈」
相馬先輩が低く呼びました。
止められたのかと思ったら、
「聞き方が広い。絞れ」
そっち。
私は頷きます。
「長谷川さんが、どの事実を認めて、どの事実を争ったと課長へ報告されましたか」
倉田係長が、今度こそ詰まりました。
「……本人は、一部の規則違反を認めたと」
「一部?」
「はい」
「消防通路を塞いだ点は?」
「そこまでは……」
「報告に入ってますか」
「確認しないと」
「隣の酒屋さんが、自分の荷物だったと述べた点は?」
「それも担当者に……」
「課長に届いたんですか」
「……確認します」
私は内心で頭を抱えました。
聞いた。
でも書いてない。
書いた。
でもまとめてない。
まとめた。
でも何を削ったか分からない。
これは伝言ゲームです。
しかも最後の人が店を取り消す権限を持っている伝言ゲーム。
笑えません。
「係長」
所長が言いました。
「長谷川さんは、三つの事実全部を認めたのか」
「いや、それは……」
「課長は、それを正確に知っているのか」
沈黙。
答えは、それだけで十分でした。
そこへ、奥から別の男性が出てきました。
五十代半ば。
グレーのスーツ。
倉田係長が姿勢を正します。
「課長」
「どうした」
課長は私たちを見ると、少し眉をひそめました。
「長谷川さんの件なら、事情聴取は済んだでしょう」
「はい。ただ、記録の確認を」
「本人も違反を認めたと聞いている」
出ました。
その一言。
私は、思わず長谷川さんを見ました。
彼女の顔から血の気が引いていました。
「認めてません」
低い声。
「全部は、認めてません」
課長が戸惑います。
「しかし報告では」
「何の報告です?」
相馬先輩が切り込みました。
「本人が、どの事実を認めたと書いてあるんです?」
「それは……」
「消防通路を荷物で塞いだことも?」
「……そこまでは分からない」
「じゃあ、『本人も違反を認めた』って、何を認めた話なんです?」
課長は黙りました。
空気が変わります。
さっきまで、
違反者が言い訳をしている。
そんな構図だった。
でも今は違う。
問題は、
この人が違反したか。
だけではない。
この役所は、
本人が何を言ったかを正確に把握した上で判断しようとしているのか。
そこへ軸がずれました。
私は口を開きます。
「長谷川さんは、荷物を一時置いたことは認めています」
課長が私を見る。
「指定時間外の搬入があったことも、一部は認めています。でも理由があります。市の職員から了承を得たと主張している日もあります」
「……」
「そして消防通路の件は、否定しています。隣の酒屋さんも、自分の荷物だったと話したそうです」
倉田係長が苦い顔をします。
「その話は、私も聞いています」
「では」
私は課長を見ました。
「課長は、今初めて聞きました?」
課長は答えませんでした。
答えないということは。
まあ。
そういうことです。
胸の奥で、未来のテキストが一ページ開きました。
主宰者は、審理の経過を記載した調書を作成する。
当事者や参加人の陳述の要旨を明らかにする。
聴聞が終われば、当事者らの主張に理由があるかについて意見を記した報告書を作る。
そして。
調書と報告書を行政庁へ出す。
行政手続法第二十四条。
――まだ、この時代には存在しない。
でも。
なぜ後の法律が、わざわざそんな面倒なことを条文にしたのか。
今なら分かる。
必要だからです。
聞いた人が、覚えていればいいからじゃない。
本人に喋らせたという事実だけ作ればいいからでもない。
言い分を、
判断する場所まで、
きちんと運ばなければ意味がない。
「こはる」
所長の声で、私は未来から戻ってきました。
「はい」
「何を考えている」
「……聞いただけでは駄目なんだな、と」
倉田係長がこちらを見る。
私は続けました。
「本人に話す機会を与えても、その中身が決める人まで届かなかったら、話してないのと似たことになります」
「言い過ぎだ」
相馬先輩が言います。
一瞬、叱られたかと思いました。
「似たことじゃない。場合によっちゃ、もっと悪い」
「え?」
「本人は『ちゃんと聞いてもらえた』と思うからな」
あ。
その言葉は重かった。
形式だけ話を聞く。
本人は、反論した。
証拠も出した。
これで判断材料になったと思う。
でも実際には、途中で削られている。
それなら。
最初から「聞きません」と言われるより、気づきにくい。
「課長」
所長が言いました。
「このまま取消しを決めるのは早い」
「しかし管理上の問題が――」
「管理上の問題があることは否定していません」
所長は淡々と遮りました。
「だが今、あなた自身が、争われている事実を把握していなかった」
課長の顔が険しくなります。
「だから何です」
「事実関係を整理してから判断すべきだと言っています」
「こちらには担当者の報告がある」
「その報告に何が書かれているか、今あなたは説明できなかった」
静かです。
片桐所長は声を荒らげません。
でも。
静かな人の事実指摘は、逃げ道を順番に塞いでいきます。
「少なくとも」
所長は続けました。
「本人の陳述、酒屋の陳述、提出写真、各違反事実ごとの認否を整理してください。その上で、取消しの原因となる事実が本当に認められるのか、もう一度検討するべきです」
倉田係長が息を吐きました。
「課長」
小声で言います。
「私も、その方がいいと思います」
課長が振り向きました。
「倉田」
「このまま行くと、後で『何を聞いたのか』の説明ができません」
お。
私は少し驚きました。
倉田係長。
着実にこちら側――ではないですね。
制度側でまともになっています。
それが一番いい。
課長はしばらく黙っていました。
やがて言います。
「……取消しの決裁は、いったん止める」
長谷川さんが息をのみました。
「本当ですか」
「結論を変えるとは言っていません」
課長は厳しい顔のまま答えます。
「事実確認をやり直すだけです」
「十分です」
長谷川さんが言いました。
声は震えていました。
でも今度は、少しだけ力が戻っています。
「ちゃんと、聞いたことを残してください」
課長は答えませんでした。
ただ。
否定もしませんでした。
その日の夕方。
片桐行政書士事務所には、弁当の匂いが満ちていました。
「唐揚げが五個」
私は蓋を開けました。
「相馬先輩」
「何だ」
「三人なのに五個です」
「二、二、一だな」
「何で当然のように私が一なんですか」
「見習いだから」
「地位を理由とする不利益な取扱いです」
「知らん」
「未来ではたぶん何かに引っかかりますよ」
「未来を持ち出すな」
危ない危ない。
長谷川さんが、店へ戻ったあと差し入れてくれた弁当です。
使用許可取消しは、まだ撤回されたわけではありません。
役所がもう一度記録を整理する。
それだけです。
でも。
午前中には、
「本人も違反を認めた」
という一文に押し潰されかけていた人が。
今は、
何を認め、
何を否定し、
どんな証拠を出したのか。
そこから話をやり直せる。
これは小さく見えて。
かなり大きい。
「所長」
私は唐揚げを守りながら聞きました。
「今日の役所のやり方、やっぱりまずかったですよね」
「雑だった」
「法律上、必ず調書を作れって決まりは?」
私は慎重に聞きました。
行政手続法第二十四条。
それは今じゃない。
所長は少し考えました。
「今回の市の規程には、聴取内容を記録に残す定めがある」
「あるんですか」
「ああ。ただし、今のように細かく形式が整っているわけじゃない」
「なるほど」
「それ以前に」
所長が弁当の蓋を閉じました。
「話を聞く制度を設けるなら、何を聞いたのかが後から分からないようでは困る」
相馬先輩が唐揚げを一個取ります。
「特に、聞く奴と決める奴が別ならな」
「ですよね」
私は頷きました。
今日。
長谷川さんの話を直接聞いた職員。
それを整理した担当。
報告を受けた係長。
取消しを決める課長。
人が一人増えるごとに、言葉は少しずつ薄くなる。
写真が消える。
但し書きが消える。
「一部認めた」が、
最後には、
「本人も違反を認めた」
になる。
伝言ゲームなら笑えます。
でも。
店を失うかどうかを決める材料なら、笑えません。
「だから記録か」
私は呟きました。
片桐所長がこちらを見る。
「何だ」
「いえ」
私は首を振りました。
「今まで、調書って役所が自分のために作る紙だと思ってました」
「自分のためでもある」
「でも、それだけじゃない」
私は今日の長谷川さんの顔を思い出しました。
「本人の言葉を、本人がいない場所まで連れていく紙でもあるんですね」
相馬先輩が箸を止めました。
「たまに妙な言い方するな、お前」
「褒めてます?」
「半分だけ」
「残り半分は」
「気持ち悪い」
「返してください、私の感動」
所長が、ほんの少し口元を緩めました。
そのとき電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『商工整備課の倉田です』
係長でした。
「お疲れさまです」
『さっき、担当メモを全部確認しました』
声が少し疲れています。
『長谷川さんの言っていた通りでした』
「え?」
『消防通路の件。酒屋さんが自分のケースだと説明した記録が残ってました』
「……はい」
『写真も添付されてました』
私は相馬先輩を見る。
先輩もこちらを見返します。
『ただ、課長に上がった報告には、その部分が抜けてました』
「どうしてです?」
『担当は、“全体として違反歴があることに変わりはない”と思って、要点だけまとめたそうです』
要点。
便利な言葉です。
人の人生を左右する部分まで要点から落とすと、ただの切り捨てです。
『課長から、事実ごとに整理し直せと言われました』
「そうですか」
『あと』
倉田係長が一拍置きます。
『次から、この手の事情聴取は、本人の主張が分かる形で記録を作ることになりそうです』
「次から」
『今回もやりますよ』
少し不機嫌そうに付け加えました。
私は笑いそうになりました。
「ありがとうございます」
『礼を言われることじゃない』
「じゃあ言いません」
『そこは言え』
面倒くさい人です。
でも、ちょっと好きになってきました。
『取消しについては、まだ結論は出てません』
「分かってます」
『長谷川さんにもそう伝えてください』
「はい」
『……あの子にも』
「誰です?」
『いや、何でもない』
電話は切れました。
何だったんでしょう。
私は受話器を置きました。
「どうだった」
相馬先輩が聞きます。
「記録には残ってました。酒屋さんの話も写真も」
「じゃあ途中で落ちたか」
「はい」
所長が一言。
「だから、残すだけでは足りない」
私は顔を上げました。
「え?」
「判断する者に届かなければ意味がない」
あ。
また一段、話が進みました。
記録する。
まとめる。
判断する人へ渡す。
そして。
その記録が、本人の言ったことをちゃんと表しているか。
未来の行政手続法第二十四条が、頭の奥で光ります。
聴聞調書。
報告書。
当事者や参加人の陳述の要旨。
主張に理由があるかについての主宰者の意見。
行政庁への提出。
さらに。
当事者や参加人は、それを閲覧できる。
そこまで用意する理由。
今日の事件を見たあとなら、もう眠い条文には見えません。
むしろ。
すごく人間臭い。
聞いたふりをしないための仕組み。
言ったことを消さないための仕組み。
途中で都合よく丸めないための仕組み。
あとで、
「そんなことは聞いていない」
にならないための仕組み。
法律の条文は冷たい。
でも。
人の記憶はもっと頼りない。
人の要約はもっと危うい。
だから、冷たい紙に残す。
なんだ。
案外、優しい理由じゃないですか。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何ニヤニヤしてる」
「してません」
「してる」
「法律がちょっと分かっただけです」
「気持ち悪いな」
「二回目ですよ!」
私は自分の弁当を引き寄せました。
唐揚げ。
残り二個。
「あれ」
「一個食った」
相馬先輩。
「今、私の唐揚げ二個だったはずです」
「証拠は?」
「見ました」
「記録は?」
「……」
しまった。
私は机の上のメモ用紙を引き寄せました。
そして書きます。
午後五時四十一分。
弁当箱内の唐揚げ、二個を確認。
その後、相馬誠司が一個を取得。
「何してんだ」
「調書です」
「やめろ」
「当事者の陳述も記載します。先輩、何か言い分は」
「腹が減ってた」
「陳述の要旨――『腹が減っていた』」
「書くな!」
所長が新聞をめくります。
「報告書も作れ」
「所長まで!」
「意見は?」
私は少し考えました。
そして、メモの下に書き足します。
――相馬先輩の主張には理由がない。
「おい」
「主宰者の意見です」
「誰が主宰者だ」
「私です」
「勝手に制度を作るな」
私は笑いました。
もちろん。
今日の本物の問題は、こんな笑い話ではありません。
長谷川さんの店は、まだ残ると決まったわけじゃない。
確認の結果、別の違反が重いと判断されるかもしれない。
取消し以外の措置になるかもしれない。
最終的には、役所がもう一度判断する。
でも。
今度は少なくとも、
「本人も認めています」
という雑な一言だけで終わらない。
荷物を置いた。
それは認めた。
時間外搬入。
理由がある日があった。
消防通路。
それは否定した。
別人の荷物だったという証言もある。
写真もある。
事実ごとに。
主張ごとに。
一本ずつ切り分けて。
その上で決めてもらえる。
制度って、ときどき冷たいです。
紙を書け。
記録を残せ。
報告しろ。
形式を守れ。
面倒くさい。
役所の人から見れば、きっとそうでしょう。
でも今日。
その面倒くささがなかったせいで、
一人の女性の、
「そこは違います」
が消えかけました。
私は机の端に置いてあったノートを開きました。
白いページ。
題名だけ書きます。
――聴聞調書・報告書。
そして。
その下は、まだ空けました。
「書かないのか」
相馬先輩が聞きます。
「今日はまだ」
「またか」
「だって、整理すると色々ありそうなんです」
誰が作るのか。
いつ作るのか。
何を書くのか。
何を一緒に提出するのか。
誰が見られるのか。
そして何より。
調書と報告書は、何が違うのか。
未来の私は、その答えを知っている。
でも。
条文を暗記しただけの知識と。
今日、長谷川さんの顔を見て分かったことは。
たぶん、同じではありません。
「所長」
「何だ」
「人の話って、聞くだけじゃ足りないんですね」
「ああ」
「残さないと」
「ああ」
「しかも、決める人に届かないと」
所長は新聞をたたみました。
「そこで初めて、聞いたことになる」
私は、その言葉をノートの端にだけ書きました。
今日の教訓。
――「話は聞きました」で終わらせない。何を聞き、どう残し、誰の判断まで届けたかを見る。
たぶん。
数年後。
この国では、こういう話をもっと細かく法律に書くことになる。
聴聞の期日ごとに調書を作れ。
本人たちの陳述の要旨を明らかにしろ。
終わったら報告書を作れ。
主張に理由があるか、主宰者の意見を書け。
行政庁へ出せ。
本人には閲覧させろ。
未来の受験生だった私は。
それを見て、
覚えること多すぎ。
と文句を言っていました。
でも昭和六十三年の今日。
まだその条文がない場所で。
私は先に、その条文が必要になる理由を見てしまった。
人は忘れます。
人は省きます。
人はまとめます。
そしてときどき。
まとめた瞬間に、一番大事な反論が消えます。
だから。
紙にする。
だから。
残す。
法律は冷たい。
けれど。
冷たい紙だからこそ、人の言葉を途中で溶かさずに運べることがある。
「こはる」
「はい」
「唐揚げ食わないならもらうぞ」
「駄目です!」
私は弁当箱を抱え込みました。
「その処分理由を」
「私の唐揚げだからです!」
「弱いな」
「所有権です!」
「急に民法出すな」
相馬先輩が笑います。
所長は新聞を広げ直しました。
「その件は記録不要だ」
「所長!」
窓の外。
再開発予定地の向こうで、駅前の明かりが一つずつ点いていました。
今日も町のどこかで。
誰かが何かを話し。
誰かがそれを聞き。
誰かがその先で決めています。
その間に、一枚の紙があるかないか。
たったそれだけで。
人の言葉は、残ることも。
消えることもある。
私は最後の唐揚げを口に入れました。
少し冷めていました。
でも今日は。
冷たいものも、案外悪くない気がしました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




