[行政手続法23条・不出頭等の場合における聴聞の終結]現場編 「来なかったんだから、言い分はないんでしょ」の罠。不出頭と反論放棄を混ぜる役所と、“もう一度呼ぶ義務”のない手続
呼ばれた日に行かなかったからといって、言いたいことまで消えるわけではありません。
ただし。
言いたいことがある人を、役所が永遠に待たなければならないわけでもありません。
この二つは、よく似ているようで、まったく別の話です。
そして役所というところは、ときどきその間を豪快に省略します。
「来なかったんですから、もう終わりですよ」
たとえば、こんなふうに。
*
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所の朝は、電話のベルと相馬先輩の機嫌の悪さで始まります。
「こはる」
「はい」
「お前、昨日の建設業許可の台帳、どこやった」
「右の棚です」
「ない」
「二段目です」
「ない」
「青いファイルの後ろ」
「最初からそう言え」
「そこまで指定しないと見つけられない人が怒らないでください」
「口だけは一人前だな」
今日も平和です。
いえ、たぶん。
私は湯呑みにお茶を注ぎながら、机の端に置いてあった行政法の本をちらりと見ました。
昨夜、読んでいたのは行政手続。
正確には、私がいた未来では行政手続法と呼ばれる法律のあたり。
でも、ここは昭和六十三年。
行政手続法は、まだありません。
ないものを受験勉強していた人間が、ない時代に来ている。
転生ものとしては便利そうですが、実務ではだいぶややこしい。
未来の答えを知っているからといって、昭和の役所で、
「行政手続法二十三条です!」
などと叫ぼうものなら、私は法律家ではなく未来人として処理されます。
たぶん警察案件です。
「朝比奈さん!」
勢いよく事務所の戸が開きました。
飛び込んできたのは、五十代くらいの女性でした。
髪が乱れています。
手には茶封筒。
顔色が悪い。
「片桐先生……じゃなかった、所長さん、いますか」
「います。どうされました?」
「主人の店が……営業できなくなるって」
その一言で、事務所の空気が変わりました。
相馬先輩が台帳探しをやめます。
奥にいた片桐所長も顔を上げました。
「お掛けください」
女性は何度も頭を下げながら椅子に座りました。
「三宅と申します。駅裏で『みやけ食堂』をやっています」
私は知っていました。
駅から少し外れたところにある、小さな定食屋さんです。
古い暖簾。
赤い丸椅子。
昼になると工場の人たちがよく入っていく。
「主人が先月、保健所の人と揉めまして」
片桐所長が聞きます。
「何がありました」
「厨房の衛生管理で指摘を受けたんです。それで、何度か改善するように言われて……」
「改善は?」
「しました。床も直しましたし、冷蔵庫も買い替えました」
「書類はありますか」
「領収書なら」
「写真は?」
「あります」
女性は封筒から何枚か写真を出しました。
新しい冷蔵庫。
張り替えた床。
清掃された調理台。
どう見ても、何もしていないわけではありません。
「それで昨日、これが届いて」
差し出された書面を見ます。
営業停止を検討していること。
その前に、本人から事情を聞く機会を設けること。
日時。
場所。
そして――
その期日は、昨日でした。
「昨日?」
私は顔を上げました。
「はい」
「行かなかったんですか?」
女性は唇を噛みました。
「主人が倒れたんです」
空気が止まりました。
「朝、店で」
「病院は?」
「入院しています。心臓だと言われました」
「それは……」
私は言葉を失います。
女性は続けました。
「それで私、役所に電話したんです。今日でも明日でもいいから事情を説明させてくださいって」
「返事は?」
「来なかったんだから、もう手続は終わった、と」
相馬先輩の眉がぴくりと動きました。
「誰が言った」
「市役所の衛生担当の人です」
「保健所じゃなくて?」
「市の施設使用のほうも関係しているそうで……駅裏の市有地に店の一部がかかっていて」
なるほど。
話が少し複雑です。
衛生上の問題だけではない。
市有地上の仮設店舗の使用承認にも、取消しだか更新拒否だかの問題が絡んでいるらしい。
地方行政名物。
一個の困りごとに窓口が三つ付く。
「主人は昨日、行けませんでした」
三宅さんは両手を握りました。
「でも、行きたくなかったわけじゃないんです。言いたいことがないわけでもない。倒れたんです。それなのに……」
目に涙が浮かびました。
「来なかったから終わりだなんて、そんな……」
私は書面をもう一度見ました。
頭の奥で、未来の条文が立ち上がります。
不出頭。
陳述書。
証拠書類。
聴聞の終結。
――あ。
これ。
昨夜までなら、二行読んだところで眠気に負けていたところです。
でも今は違いました。
目の前に、病院の領収書を握った人がいる。
「所長」
「何だ」
「昨日来なかった、という事実だけで、全部終わりにしていいんでしょうか」
片桐所長が私を見ました。
「理由は?」
「少なくとも、来なかった理由を確認していません」
相馬先輩が腕を組みます。
「病気なら何でも延期しろってか」
「そうじゃありません」
私は首を振りました。
ここです。
たぶん、ここを雑にすると駄目なんです。
「来なかった人を役所がいつまでも待たなきゃいけない、って話じゃないです」
「じゃあ何だ」
「来なかった理由があるのか。書面で言い分を出しているのか。証拠は提出されているのか。それを分けないと」
三宅さんが私を見ます。
「書面?」
「はい。本人が出られなくても、言いたいことを紙にして出す方法が考えられます」
「そんな話、何も……」
「役所から案内は?」
「ありません」
相馬先輩が書面を取り上げました。
「出頭できない場合の扱い、何も書いてねえな」
私も覗き込みました。
本当です。
日時と場所。
対象となっている問題。
それだけ。
欠席した場合。
事情がある場合。
書面提出の可否。
そういうことが何もない。
私は嫌な感じがしました。
未来の私は知っています。
後の行政手続法では、こういう場面がもっと整理される。
当事者が正当な理由なく期日に出頭せず、しかも陳述書も証拠書類も出さない。
そういう場合には、主宰者は改めて意見を述べる機会を与えず、聴聞を終わらせることができる。
でも逆に言えば。
ただ「来なかった」。
それだけを切り取って、
はい終了。
とは、話が違う。
まして今回は、本人が倒れている。
私は未来の条文を口から出さないよう、慎重に言いました。
「所長。市役所に行ってもいいですか」
「行くぞ」
即答でした。
「まだ何も言ってませんけど」
「顔に書いてある」
「私、そんなに分かりやすいですか」
「うるさい。相馬、車」
「はいよ」
こうして、朝のお茶は一口も飲まれないまま冷めました。
法律相談所における湯呑みの扱いは、いつも不利益処分です。
*
市役所の担当課には、倉田係長がいました。
最近、この人と顔を合わせる頻度が高い。
私たちが行政法を勉強するたびに、この人の仕事が増えている気がします。
「また片桐さんですか」
「嫌そうですね」
私が言うと、倉田係長はため息をつきました。
「朝比奈さんを見ると、何か聞かれる気がするんですよ」
「学習されてますね」
「嬉しくない学習です」
今回は、市有地上の仮設店舗使用承認についてでした。
三宅食堂は、古くから駅裏で営業していました。
ところが再整備の話が進み、仮設店舗の管理が急に厳しくなった。
そこへ衛生上の指摘。
市は、使用承認を取り消すかどうか判断する前に、三宅さん本人の話を聞く場を設けていた。
「昨日ですよね」
私が聞きます。
「ええ」
「三宅さんは来なかった」
「来ませんでした」
「それで終了?」
「そういう扱いです」
「誰の判断ですか」
倉田係長が少し顔をしかめました。
「課長です」
「本人が来なかった理由は確認しました?」
「今朝、奥さんから電話があったとは聞いています」
「本人が入院したことも?」
「ええ」
「それでも?」
係長は机の上の書類を揃えました。
「朝比奈さん。こちらも困るんですよ」
「何がです?」
「一度期日を決めて通知しているんです。来なかった人を、そのたびにもう一度呼んでいたら、いつ終わるんです」
それは。
正しい。
私は一瞬、言葉に詰まりました。
役所だから悪い。
住民だから正しい。
そんな簡単な話ではない。
当事者が来ない。
また呼ぶ。
また来ない。
また呼ぶ。
これを無限に続ける制度は作れません。
行政手続には、終わりが必要です。
そこを無視して「かわいそうだから待ってください」では、論点にならない。
「そうですね」
私が答えると、倉田係長が少し意外そうな顔をしました。
「認めるんですか」
「来ない人を無期限に待たなくていい、というところは」
「じゃあ――」
「でも」
私は遮りました。
「今回、三宅さんは“正当な理由なく来なかった人”なんですか?」
係長が止まりました。
相馬先輩が横で口の端を上げました。
あ。
この人、今ちょっと楽しんでる。
「朝、倒れて入院してます」
私は続けました。
「しかも奥さんは、翌朝すぐ電話している。本人には説明したい意思がある。改善工事の写真も、領収書もある」
「しかし昨日は提出されていません」
「はい」
「だったら昨日の時点では、こちらには何も――」
「だから今日確認してるんです」
私は言いました。
「昨日来なかった。書面も出なかった。それだけなら、役所として手続を進める理由にはなると思います」
倉田係長の目が細くなります。
「でも、“来なかったから言い分はない”は別ですよね」
沈黙。
そこです。
私が引っかかっていたのは。
手続を終えてよいことと。
本人に反論がないと決めつけること。
これは違う。
「来ない人を永遠に待つ必要はない。でも、来なかった理由が明らかになったなら、その事情は無視できない」
私は一度言葉を切りました。
「少なくとも今回は、昨日出頭しなかったことだけを理由に、“もう意見を出す機会は一切ない”と決めるのは早いと思います」
「法律上、もう一度呼ばなければならない根拠は?」
来た。
倉田係長、反撃です。
私は口を閉じました。
ここで未来の法律を出すわけにはいきません。
しかも。
未来の行政手続法だって、条件を満たせば再度の機会を与えず終結できる。
むしろ「必ずもう一回呼べ」と言ったら、私は間違います。
「……もう一度呼べ、と言ってるんじゃありません」
私は答えました。
「じゃあ何を?」
「書面です」
倉田係長の表情が変わりました。
「本人がしばらく出頭できないなら、期限を切って、言い分と証拠を出してもらえばいい」
相馬先輩が私を見ました。
片桐所長は黙っています。
私は続けます。
「病院からすぐ出られるか分からない人を、“次はいつ来られますか”って何度も呼ぶのは現実的じゃない。でも、改善工事をしたというなら、写真や領収書は出せます。経緯だって書面で説明できる」
「それを受け取れと?」
「はい」
「いつまで待つんです」
「そこは期限を決めればいいです」
倉田係長は黙りました。
私は自分でも驚いていました。
口から出ている考え方が、未来の行政手続法二十三条二項とほとんど同じです。
出頭できない。
陳述書も証拠もまだ出ていない。
しかも、相当期間出頭できそうにない。
なら。
期限を区切って書面と証拠を求め、その期限が来たところで手続を終える。
制度って、未来から突然降ってくるわけじゃないんだ。
先にこういう揉め事がある。
現場で困る。
待ち続けるわけにもいかない。
でも、切り捨てるわけにもいかない。
その積み重ねを、あとから法律が形にする。
私は今、その「法律になる前の困りごと」を見ている。
「片桐先生……いや、片桐さん」
倉田係長が所長を見ました。
「どう思います?」
所長が初めて口を開きました。
「妥当だと思います」
「法的義務としてですか」
「そこまでは言わない」
短い。
でも、重要です。
「では?」
「手続としてだ」
所長は机の書類を指しました。
「市が本人の話を聞く場を設けたのは、判断を誤らないためだろう」
「ええ」
「なら、本人が病気で来られず、しかも資料があると分かった以上、今それを遮断する合理性は薄い」
「しかし、いつまでも――」
「だから期限を切る」
所長はそれだけ言いました。
倉田係長が腕を組みました。
「……三日」
「短いです」
私が即答すると、係長が睨みました。
「朝比奈さん」
「入院した人ですよ」
「一週間」
「せめて――」
「一週間」
相馬先輩が私の肩を軽く叩きました。
「取れ。十分だ」
「はい」
交渉というのは、勝ち過ぎても駄目らしい。
難しい。
「ただし」
倉田係長が言いました。
「本人を改めて呼ぶことはしません。書面と資料です。一週間以内。それが出なければ、こちらは手続を進めます」
私は頷きました。
「それでいいと思います」
「ずいぶん素直ですね」
「無期限に待てとは言ってませんから」
「最初からそう言ってください」
「最初からそう言ってます」
「言い方がいちいち刺さるんですよ」
それはたぶん、行政法の副作用です。
*
三宅さんの病室に行ったのは、その日の午後でした。
もちろん、私一人ではありません。
相馬先輩と一緒です。
「失礼します」
ベッドの上の三宅さんは、思ったより元気そうでした。
ただ、顔には疲れが残っています。
「女房から聞きました」
「お身体は?」
「しばらく安静です」
相馬先輩が椅子を引きました。
「話せますか」
「ええ」
「じゃあ、短くいきます」
こういうときの相馬先輩は、意外と優しい。
口は悪いけど。
本当に口は悪いけど。
「役所から一週間もらいました」
「一週間?」
「もう一度市役所まで来い、とは言われません」
私は説明しました。
「その代わり、言いたいことを書面にして、改善した証拠を付けて出します」
三宅さんの目が少し見開かれました。
「それで、見てもらえるんですか」
「見てもらいます」
私は写真を並べました。
「床を直した日」
「二十日です」
「冷蔵庫を入れ替えた日」
「二十二日」
「保健所の人が来たのは?」
「二十四日」
「何と言われました?」
「前より良くなった。あとは排水口だって」
相馬先輩がメモを取ります。
「排水口は?」
「翌日に業者呼びました」
「領収書は」
「女房が持ってる」
「よし」
ひとつずつ。
ばらばらだった事実が、紙の上で並び直していきます。
改善しなかった店。
ではない。
指摘を受け。
床を直し。
冷蔵庫を替え。
排水口を修繕し。
その途中で、使用承認の見直し話が進んだ。
そして事情を説明する日。
本人が倒れた。
ただそれだけのことだった。
なのに一度、
「来なかった」
という札が貼られると。
全部が、
「何も言わずに逃げた人」
のように見えてしまう。
私は少し腹が立ちました。
でも同時に思います。
役所側からすれば、昨日の時点では何も分からなかった。
本人は来ない。
書面もない。
証拠もない。
役所だって、空白を見て判断するしかない。
だからこそ。
空白のまま放っておかない仕組みが必要なんだ。
「朝比奈さん」
三宅さんが言いました。
「俺、行かなかったから、もう駄目だと思ってました」
「来なかったことは軽くないです」
私は答えました。
ここは甘くしてはいけない気がしました。
「役所が決めた日に、何も言わず来なければ、役所は先へ進まなきゃいけないこともあります」
「……はい」
「でも今回は理由がある。それに、言いたいことも資料もある」
私は紙を差し出しました。
「だから、今度はそれを期限までに出しましょう」
三宅さんはゆっくり頷きました。
「お願いします」
「はい」
そこで相馬先輩が言いました。
「ただし」
三宅さんが顔を上げます。
「こっちは書面を作る。写真も整理する。出すべきものは全部出す」
「はい」
「その上で役所がどう判断するかは別だ」
「分かってます」
「営業を続けられる保証はしない」
「それでもいいです」
三宅さんは小さく息を吐きました。
「何も言えないまま終わるのが、一番嫌だったんです」
その言葉は、妙に残りました。
勝ちたい。
許可が欲しい。
営業したい。
もちろん、それもある。
でも。
人は、自分の生活が変わるような決定をされるとき、
せめて、
自分が何をしてきたか。
何があったのか。
何を言いたかったのか。
それくらいは見てほしいのだと思います。
そして同時に。
行政は、いつまでもその人を待ってはいられない。
だから期限がある。
冷たい。
でも。
その冷たさは、ときどき公平です。
*
一週間後。
片桐行政書士事務所の机には、三宅さんの陳述書と資料の控えが積まれていました。
改善工事の領収書。
写真。
保健所から受けた指摘内容。
対応した日付。
入院を示す診断関係の書類。
そして本人の説明。
相馬先輩が封筒を閉じます。
「これで終わり」
「何だか薄いですね」
「何が」
「一週間、大騒ぎした割に、封筒一つ」
「手続なんてそんなもんだ」
片桐所長が言いました。
「厚さではなく、中身だ」
「名言っぽい」
「黙れ」
その日の夕方。
倉田係長から電話がありました。
『資料、受け取りました』
「ありがとうございます」
『一応、関係課でも確認します』
「はい」
『それと』
「はい?」
『前に言ったとおり、これでまた本人を呼ぶことはしません』
「分かってます」
『追加で出したい資料があるなら、期限は今日までです』
「はい」
『今日が終われば、こちらで判断します』
私は少しだけ受話器を握り直しました。
「分かりました」
これは大事です。
一度機会を与えた。
出頭できなかった。
代わりに期限を区切って、書面と証拠を出す機会を設けた。
その期限が来る。
そこで手続を終える。
役所は、もう一度、さらにもう一度と、際限なく機会を与え続けるわけではありません。
『朝比奈さん』
「はい」
『前回、あなたが言った意味、少し分かりました』
「どれです?」
『来なかったから終わり、じゃなくて』
倉田係長が少し間を置きます。
『来なかった人を、どこまで待つかを決める話なんですね』
私は笑いました。
「たぶん、そうです」
『たぶん?』
「私も勉強中なので」
『困るなあ』
「そこは係長も一緒じゃないですか」
『……余計なことを言うな』
電話が切れました。
やっぱりこの人、嫌いじゃありません。
*
最終的に。
三宅食堂の使用承認は、即時取消しにはなりませんでした。
衛生面の改善状況を確認したうえで、一定期間の条件付きで継続。
その間に駅前再整備に伴う移転について協議する。
そんな落としどころになりました。
完全勝利ではありません。
いずれ移転の問題は来ます。
店の将来が全部解決したわけでもない。
でも。
「店、開けられるそうです」
三宅さんの奥さんが事務所へ来たとき、顔は最初の日とは別人でした。
「主人も、退院したら少しずつ戻るって」
「よかったです」
「これ」
机に置かれたのは、大きな紙袋でした。
中から出てきたのは。
「……唐揚げ?」
「うちの人気ですよ」
相馬先輩が立ち上がります。
「三宅さん。気を使わなくていいですよ」
言いながら手はもう紙袋に伸びています。
「先輩」
「何だ」
「口と手が別人格です」
「いただきます」
「早い!」
三宅さんの奥さんが笑いました。
初めて見た笑顔でした。
「主人ね」
「はい」
「病院でずっと気にしてたんです」
「店のことを?」
「それもだけど」
少しだけ目を伏せます。
「自分が行かなかったせいで、全部終わったんじゃないかって」
私は何も言えませんでした。
「でも、朝比奈さんたちが来てくれて」
奥さんは笑います。
「行けないなら書けばいいんだ、って。主人、それが嬉しかったみたいで」
「そうですか」
「字、汚かったでしょう」
「かなり」
「こはる」
相馬先輩が睨みました。
「そこは黙っとけ」
「すみません」
でも三宅さんの奥さんは笑いました。
「昔からなんです」
よかった。
怒られなかった。
「また食べに来てください」
「はい」
「相馬さんはご飯大盛りでしたよね」
「覚えてました?」
「毎回ですもの」
「先輩、常連じゃないですか」
「うるさい」
なるほど。
相馬先輩が妙に気合いを入れていた理由の三割くらいが分かった気がします。
*
三宅さんの奥さんが帰ったあと。
私は一個だけ残っていた唐揚げを狙いながら、机の上のノートを開きました。
相馬先輩も同じ唐揚げを見ています。
敵です。
「先輩」
「何だ」
「今日のところは、私が頑張ったと思いません?」
「俺も車出した」
「私、病室で陳述書まとめました」
「俺もいた」
「倉田係長と交渉しました」
「俺もいた」
「何でもいますね」
「先輩だからな」
強い。
先輩という地位、法的効果が広すぎます。
私は唐揚げを諦めずにノートへ視線を落としました。
今日の事件。
いや。
一週間の事件。
未来の私は、その答えに名前が付いていることを知っています。
行政手続法。
聴聞。
不出頭等の場合における聴聞の終結。
けれど昭和六十三年のこの町では、まだその法律はありません。
片桐所長たちは、そんな名前を使わなかった。
ただ。
来なかった者を永遠に待つ必要はない。
けれど、来なかった事情を無視してよいわけでもない。
本人が出られないなら、書面や証拠で意見を述べさせる方法がある。
それでも期限までに何も出ないなら、どこかで手続を終えなければならない。
その考え方だけは、もう現場にありました。
法律ができる前から。
問題はあった。
人は来ない。
病気にもなる。
逃げる人もいる。
何度呼んでも来ない人もいる。
言い分があるのに来られない人もいる。
役所は判断をしなければならない。
待ち続けてもいられない。
だから。
どこまで機会を保障し、
どこで終わらせるのか。
その線を引かなければならない。
「何書いてんだ」
相馬先輩が覗き込みました。
「まだ書いてません」
「さっさと書け」
「整理してるんです」
「論点で考えるな」
「先輩、それ私に毎回言いますけど」
「実務は人間で考えろ」
「じゃあ今日の人間は?」
「来なかった亭主と、待てない役所」
私はペンを止めました。
「……それ、分かりやすいですね」
「だろ」
悔しい。
この人、たまに急所を一言で持っていく。
所長が奥から言いました。
「もう一人いる」
「誰です?」
「来なかった理由を確認する者だ」
私は顔を上げました。
なるほど。
本人。
役所。
その間に、
「来なかった」という事実だけで全部を決めていいのか。
そう問い直す人間が必要になる。
私はノートの一番上に、題名だけ書きました。
――不出頭等の場合における聴聞の終結。
もちろん、この言葉は未来のものです。
所長たちには見せないほうがいい。
見せたら、
「何だこの法律は」
となります。
説明できません。
未来から来ました、で済むなら行政法より転生法を勉強したい。
私は題名の下を空白にしました。
まだ、書くべきことがある。
正当な理由なく来なかった場合。
来なかったうえ、陳述書も証拠も出さなかった場合。
そのとき、もう一度意見を言う機会を必ず与えなければならないのか。
逆に、病気のような事情があって、しばらく出頭できそうにない場合はどうするのか。
書面提出の期限を切って、そこで終えることはできるのか。
そして。
参加している第三者のような人が来なかった場合は、当事者と同じ扱いなのか。
考え始めると、眠かった条文が急に人の顔を持ち始めます。
三宅さん。
病室。
倉田係長。
一週間。
陳述書。
領収書。
写真。
昨夜までなら、
「主宰者は……」
のあたりで意識が飛んでいた条文です。
でも今ならたぶん、読める。
「こはる」
「はい?」
相馬先輩が最後の唐揚げを持ち上げました。
「これ、食うか?」
「え」
意外でした。
「いいんですか」
「半分な」
「優しい」
「今日だけだ」
「何か悪いもの食べました?」
「要らんなら全部食う」
「要ります!」
相馬先輩が箸で唐揚げを半分に割りました。
見事に。
大きい方と小さい方に。
「先輩」
「何だ」
「大きさが違います」
「俺が切った」
「その事実から、先輩に大きい方を取る権利は発生しません」
「不服なら言え」
「言ってます!」
奥から片桐所長が言いました。
「早く食え。冷める」
はい。
手続には終わりが必要です。
どうやら唐揚げ争いにも。
私は小さい方を口に入れました。
おいしい。
そして思います。
今日の教訓は、まだノートには書かない。
でも一つだけなら、たぶん言えます。
来なかった。
それだけで、人の言い分まで消えたことにはならない。
けれど。
言い分を言える機会は、永遠に開いている扉でもない。
だから制度は、
もう一度待つのか。
書面で受けるのか。
期限を切るのか。
どこで終えるのか。
その順番を決める。
条文は冷たいです。
期日。
期限。
不出頭。
終結。
どの言葉にも人情はありません。
でも。
冷たい線があるからこそ、
「来なかったんだから、もう知らない」
にも、
「かわいそうだから、いつまでも待とう」
にも流されずに済む。
制度の冷たさが、
切り捨てるためではなく。
切り捨て方まで勝手にさせないために使われることがある。
そんなことを考えながら、私はノートを閉じました。
明日は、この続きをちゃんと整理しよう。
未来では、もう条文になっている。
でも今夜はまだ。
昭和六十三年の片桐行政書士事務所で、
病院へ行けなかった一人の食堂主と、
いつまでも待てない一つの役所の間に、
ようやく一本の線が引かれたところでした。
「先輩」
「何だ」
「やっぱり唐揚げ、大きい方そっちでしたよね」
「まだ言うのか」
「言い分を述べる機会は保障してください」
「もう食った」
「手続を勝手に終結しないでください!」
相馬先輩が笑いました。
所長は新聞をめくったまま言いました。
「遅い」
「所長まで!」
どうやら、この事務所では。
不出頭でなくても、救済されないことがあるようです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




