[行政手続法21条・陳述書等の提出]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、紙の音がよく似合います。
電話が減る。
来客も途切れる。
外では商店街のシャッターが、がらがらと順番に下りていく。
そして私の机の上には、今日の事件の主役が二つありました。
一つ。
伊藤文江さんの陳述書の控え。
もう一つ。
伊藤さんが置いていったコロッケ。
「……五個あったはずなんですけど」
「三個だ」
相馬先輩が言いました。
「さっき五個確認しました」
「見間違いだ」
「口の端にパン粉ついてますよ」
「証拠能力がない」
「ものすごくありますよ!」
私はコロッケの皿を自分の側へ避難させました。
証拠保全です。
たぶん。
それからノートを開きます。
今日の見出し。
――陳述書等の提出。
行政手続法二十一条。
未来の私なら知っています。
でも昭和六十三年の今、まだこの条文はありません。
だから今日の私は、
「法律にこう書いてあります」
とは言えなかった。
ただ、
市役所の事情聴取へ出られない伊藤さんが、
出られないからといって、
言いたいことまでなくなるわけじゃない。
その当たり前を、
どうやって行政の判断材料に乗せるか。
そこから始まりました。
「先輩」
「何だ」
「昨日まで、“陳述書”って名前、もう少し重いものだと思ってました」
「重いだろ」
「字面がですよ。陳述、って」
「じゃあ何だと思ってた」
「偉い人が毛筆で書く感じ」
「お前の行政法、時代劇に寄ってるな」
でも実際には。
陳述書は、
本人の言い分や反論を書いた書面。
ものすごく乱暴に言えば、
「私はこう思います」
「そこは違います」
「こういう事情があります」
を紙にしたものです。
「ただし」
片桐所長が奥から言いました。
「感想文じゃない」
「はい」
そこです。
昨日の伊藤さんも、
最初は、
ちゃんと直したんです。
今は違うんです。
お店を止められたら困るんです。
と話していました。
もちろん、それも大事。
でも行政側が判断するためには、
何を争っているのか。
どの事実が違うのか。
証拠は何か。
そこまで形にした方が伝わる。
私はノートに書きます。
陳述書。
不利益処分についての当事者や参加人の言い分・反論を記載した書面。
「で」
相馬先輩が言いました。
「いつ出せる」
「聴聞の期日まで」
「誰に」
「主宰者に」
「誰が」
「当事者または参加人」
「何と一緒に」
「証拠書類等」
相馬先輩が頷きました。
「そこだな」
はい。
二十一条一項。
ここは構造で覚えると分かりやすい。
誰が。
当事者または参加人。
いつまでに。
聴聞の期日までに。
誰に。
主宰者に。
何を。
陳述書および証拠書類等。
何の代わりに。
聴聞の期日への出頭に代えて。
「“出頭した上で、さらに陳述書を出す制度”じゃないんですね」
「そこを雑に覚えるな」
所長が言いました。
「条文は“出頭に代えて”だ」
私は丸をつけました。
ここ、試験で嫌な顔をして出てきそうです。
当事者は、
聴聞に必ず出頭しなければならない。
誤り。
出頭しない場合は、
一切意見を述べることができない。
誤り。
出頭に代えて、
陳述書と証拠書類等を出すことができる。
正しい。
「昨日の伊藤さん、そのままですね」
「ああ」
母親の介護。
惣菜店の営業。
市役所の期日に合わせられない。
だから本人は来られない。
でも、
来られない。
と、
何も言わない。
は別。
未来の二十一条は、
そこをはっきり分けます。
「所長」
「何だ」
「これって、欠席届とは違うんですよね」
「当然だ」
なるほど。
私は書き足しました。
単に、
その日は行けません。
だけを書く紙ではない。
陳述書は、
処分についての自分の主張を出すためのもの。
そこに証拠書類等も添えられる。
昨日なら、
工事完了後の写真。
施工業者の資料。
領収書。
冷蔵庫の配置。
保管記録。
そういうものです。
「陳述書だけでもいいんですか?」
私が聞くと、相馬先輩が言いました。
「条文読め」
「言い方」
陳述書および証拠書類等。
実際の出題では、その提出制度として二つをセットで問われやすい。
ただ本質は、
本人の言い分を紙にし、
それを裏付ける資料も出せる。
ということです。
「じゃあ」
相馬先輩が腕を組みました。
「昨日の伊藤さん、もし写真だけ送ったらどうなる」
「写真だけでは、何を言いたい証拠なのか分かりにくいです」
「だな」
「陳述書があるから、“工事途中しか行政は見ていない。現在はこう改善した”って意味がつく」
「そういうことだ」
証拠は、
置いてあるだけでは喋りません。
写真。
領収書。
配置図。
それが何を証明したいのか。
本人の言い分と結びついて初めて意味が分かる。
逆も同じ。
言い分だけでは、
そう言ってます。
で終わることがある。
だから証拠書類等が支える。
「昨日やったこと、結構教科書どおりだったんですね」
「未来の教科書ならな」
「そうでした」
危ない危ない。
昭和六十三年です。
この事務所では、
まだ二十一条なんて誰も知りません。
でも。
現場では先に、
書面で出そう。
証拠をつけよう。
という必要が生まれている。
未来の法律は、それを制度として固定する。
「次」
所長が言いました。
「提出先」
「主宰者」
「行政庁じゃないのか」
「条文上は主宰者です」
ここも狙われそうです。
行政庁から不利益処分を受ける。
だから、
陳述書は行政庁へ出す。
と思いがち。
でも二十一条一項は、
主宰者に対し、
としています。
「聴聞を進めてる人のところへ出す」
「そうだ」
「行政庁の窓口に投げれば何でも同じ、じゃない」
「そういうことだ」
昨日。
片桐所長が、
担当者だけでなく、事情聴取を進める側にも届く形で出す。
と言った理由も、ここにつながります。
誰がその書面を、
聴聞の材料として扱うのか。
そこを間違えない。
「期限も大事ですね」
「ああ」
聴聞の期日まで。
期日の後ではない。
「一週間後でも読んでください、は?」
「二十一条一項の提出とは別問題だ」
所長が言いました。
ですよね。
試験では、
聴聞期日の終了後でも提出できる。
なんて書いてあったら危ない。
「前日じゃないと駄目ですか?」
「“期日まで”だ」
相馬先輩が言います。
「前日限定じゃない」
「はい」
こういう余計な条件を勝手に足さない。
行政法あるあるです。
私はノートに大きく書きます。
期日“まで”。
前日“まで”ではない。
通知後いつでも、という雑な覚え方もしない。
条文どおり。
「ところで」
私は少し考えました。
「書面を出す制度って、出頭するより弱いんですか?」
「何をもって弱いと言う」
所長が聞き返します。
「その場で話せないじゃないですか」
「そこだ」
昨日、所長も言っていました。
書面は便利。
でも万能ではない。
本人がその場に出れば、
行政側の説明を直接聞ける。
質問もできる。
主宰者から聞かれたことへ、その場で答えられる。
追加資料について話もできる。
でも書面提出だけなら、
基本的には、
自分が準備した言い分と証拠を届ける形になる。
「つまり」
私は整理します。
「二十一条は、“書面の方が出頭より上”でも、“下”でもない」
「そうだな」
「出頭できない人に代替手段を残す」
「それでいい」
だから条文も、
出頭に代えて。
と書く。
出頭義務の免除。
というより、
意見を出す別ルート。
そう考えた方が感覚に近い。
「試験で、“当事者は聴聞期日に出頭しなければ意見を述べることができない”」
「誤り」
「“参加人は陳述書を出せない”」
「誤り」
「“陳述書は行政庁に提出する”」
「誤り。主宰者」
「“期日後に提出できる”」
「二十一条一項では違う。期日まで」
「いいな」
相馬先輩がコロッケへ手を伸ばしました。
私は皿を引きました。
「今、勉強中です」
「腹も使ってる」
「どんな理屈ですか」
「糖分が要る」
「コロッケは主に脂質と炭水化物です」
「細かいな」
「行政法で鍛えられました」
さて。
二十一条には、もう一項あります。
二項。
「ここがちょっと面白いんですよね」
「何がだ」
「出頭した人に、提出された陳述書とか証拠を見せることができる」
「誰が」
「主宰者」
「いつでも勝手に?」
「いえ」
私は条文の記憶を引っ張りました。
聴聞の期日に出頭した者に対し、
その求めに応じて、
陳述書および証拠書類等を示すことができる。
「“求めに応じて”」
「そうだ」
ここも大事です。
主宰者が当然に全員へ配らなければならない。
ではない。
出頭した人から求めがあった。
その求めに応じて、
示すことができる。
「“示さなければならない”じゃないんですね」
「条文は“できる”だ」
所長が言いました。
義務。
裁量。
こういう語尾の違い、
行政書士試験はものすごく好きです。
いえ、好きというか。
こっちが嫌うところを正確に突いてきます。
「出頭した者、って誰です?」
私が聞くと、相馬先輩が答えます。
「当日来てる奴だろ」
「ですよね」
例えば。
伊藤さん自身は出頭せず、陳述書を提出した。
でも同じ聴聞に別の参加人が出頭している。
その人が、
伊藤さんは何を主張しているんですか。
出した資料を見せてもらえませんか。
と求める。
そこで主宰者は、
提出された陳述書や証拠書類等を示すことができる。
「これ」
私は言いました。
「紙だけが会議室に出席してるみたいですね」
相馬先輩が笑いました。
「変な言い方だが、まあ分かる」
本人はいない。
でも、
本人の言い分と証拠はそこにある。
そして出席している人が、その内容を見る道も用意されている。
「じゃあ、主宰者は必ず示さなければならない?」
「違う」
「“できる”」
「そうだ」
「求めがなくても主宰者が当然に示す?」
「条文上は“その求めに応じて”だ」
「はい」
ここ、
試験で丸ごと入れ替えられそうです。
行政手続法は、
主語と語尾を入れ替えるだけで立派な罠になる。
「行政法って」
私は呟きました。
「何だ」
「日本語の助詞で殺しに来ますね」
「物騒な言い方やめろ」
でも本当に。
行政庁に。
主宰者に。
までに。
後に。
できる。
しなければならない。
この数文字で正誤が変わる。
私はノートを整理しました。
昨日の伊藤さんの事件で考える。
伊藤さんは聴聞の期日に出頭できない。
だから、
出頭に代えて、
陳述書を作る。
その中で、
以前問題があったこと自体は否定しない。
でも、
行政側が最後に見たのは工事途中。
その後に改善工事が完了した。
現在の設備状態を確認してほしい。
と主張した。
そして、
工事後の写真。
領収書。
施工資料。
配置図。
保管記録。
これらを証拠書類等として提出した。
「結果」
相馬先輩が言います。
「役所がもう一度見に来た」
「はい」
「三日間の営業停止は見送られた」
「はい」
「ただし追加改善は必要だった」
「そうです」
ここも重要です。
陳述書を出す。
イコール、
処分されなくなる。
ではない。
証拠を出す。
イコール、
行政側の判断が必ず覆る。
でもない。
ただ、
行政が判断する材料に、
本人の側の事情をきちんと乗せられる。
それだけです。
でも。
その「それだけ」が大きい。
「もし伊藤さんが何も出してなかったら」
私は言いました。
「工事途中の状態だけを前提に判断されたかもしれない」
「ああ」
「今の店を見ないまま、昔の写真で決められたかもしれない」
「可能性はあるな」
行政は万能じゃない。
役所が持っている情報が、
いつも最新とは限らない。
本人しか持っていない情報もある。
だから、
陳述書や証拠書類等を出せることに意味がある。
「所長」
「何だ」
「書面提出って、行政のミスを減らす仕組みでもあるんですね」
「本人を守るだけじゃない」
「行政側も?」
「誤った前提で処分すれば、後で争いになる」
なるほど。
手続保障というと、
行政対住民。
役所を縛って住民を守る。
そんな構図だけで考えがちです。
もちろんそれは大事。
でも、
適切な情報を集めてから決める。
という意味では、
行政側にとっても必要な仕組みです。
「正しい処分をするための手続」
「そういう面もある」
所長の短い言葉が落ちました。
私はペンを止めました。
未来の二十一条。
ものすごく地味です。
聴聞に来なくても、
陳述書を出せます。
証拠書類等を出せます。
以上。
教科書なら一瞬です。
でも。
今日の私には、
伊藤さんのお母さんの姿が見えます。
寝たきりの母親。
開けなければならない惣菜店。
指定された市役所の時間。
三つを同時には選べない。
法律が、
出頭しなさい。
来なければ知りません。
とだけ言ったら、
生活の事情がある人から順に、
言い分を失います。
でも二十一条は、
本人の身体が来られなくても、
言葉と証拠は先に行ける。
そうする。
制度って。
人の都合に優しくしてくれるわけじゃないんですね。
市役所の日程は変わらない。
介護も代わってくれない。
店番もしてくれない。
でも、
別の入口を一本作る。
そのくらいの冷たさ。
それが、案外助かる。
「こはる」
所長が言いました。
「一行」
「はい」
来ました。
今日の覚え書き。
私は少し考えます。
そして書きました。
――聴聞に行けなくても、言い分まで欠席させなくていい。
相馬先輩が覗き込みます。
「珍しくいいな」
「珍しくは余計です」
「試験向きにもう一個」
「はいはい」
私はその下に書きます。
――出頭に代えて、期日までに、主宰者へ、陳述書と証拠書類等。
「順番もいい」
「でしょう?」
「二項は」
「忘れてません」
さらに書きます。
――出頭者が求めれば、主宰者は提出済みの陳述書・証拠書類等を示すことができる。
「“示さなければならない”じゃない」
「はい。“できる”」
「“求めに応じて”」
「はい」
少し分かってきました。
二十一条は、
派手な条文ではありません。
誰かの処分を取消すわけでもない。
行政に勝つ必殺技でもない。
ただ、
来られない人にも、
言葉を出す道を残す。
それだけ。
でも昨日の伊藤さんは、
その道一本で、
「欠席した人」から、
「改善後の事実を主張した人」
になりました。
扱われ方が変わった。
判断材料が変わった。
そして、
結果も少し変わった。
制度の冷たさって、
こういうことなのかもしれません。
同情したから受け取る。
かわいそうだから読んであげる。
ではなく。
出頭できなくても、
書面で主張できる。
証拠も出せる。
そうルールにしてしまう。
誰かの優しさを待たなくていい。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が聞きます。
「はい」
「じゃあコロッケ」
「まだ狙ってたんですか」
皿の上には最後の一個。
私はすぐメモ用紙を出しました。
「何してる」
「陳述書です」
「何の」
私は書きます。
本件コロッケについては、相馬先輩が既に三個を摂取しており、朝比奈こはるとの間で著しい配分格差が生じているため、残余一個は私に配分されるべきである。
添付証拠。
相馬先輩の皿。
パン粉。
目撃者・片桐所長。
「提出します」
「誰に」
「主宰者に」
「誰だよ」
私は所長を見ました。
「所長」
「却下」
「まだ読んでません!」
「口頭で足りる」
「書面提出権を雑に扱わないでください!」
相馬先輩が笑いながら最後のコロッケを持ち上げました。
その瞬間。
「相馬」
所長が言いました。
「半分」
相馬先輩の手が止まります。
「……またですか」
「まただ」
私は笑いました。
結局、
コロッケは半分。
私の陳述書が採用されたのか。
所長が最初からそう決めていたのか。
そこは分かりません。
でも。
少なくとも今日は、
紙にした言い分が、
机の上から消えることはありませんでした。
未来の法律も、
きっと同じです。
本人がその場にいなくても、
言葉だけは残せる。
証拠も残せる。
そして誰かが判断するとき、
そこに置いておける。
行政手続法二十一条。
昨日までなら、
「欠席したときの書面提出」
くらいで覚えていたかもしれません。
でも今夜は違います。
――欠席は、沈黙ではない。
たぶん私は、
もう忘れません。
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