[行政行為]現場編 「受け付けたんだから、もう売れたも同じです」の罠。申請の受理と権利を動かす“許可”を混ぜる窓口と、受付印では動かない農地
役所のハンコは、ときどき人を安心させすぎます。
受付印。
赤い日付。
担当者の「はい、受け付けました」。
ここまで揃うと、人間というものは不思議なもので、
――終わった。
と思ってしまう。
終わっていません。
行政手続というものは、むしろそこから始まることがあります。
そして昭和六十三年の春。
片桐行政書士事務所の応接机に叩きつけられた一枚の書類にも、立派な受付印が押されていました。
「これがあるのに、駄目だっていうんですよ!」
相談者の男性は、怒っていました。
怒っているというより、困り果てた結果、怒る以外の表情がなくなっている顔です。
名前は杉浦正治さん。
五十代半ば。
駅の北側で代々畑をやっている農家でした。
日に焼けた両手が、机の上の書類をぎゅっと押さえています。
「役所でちゃんと受け付けてもらったんです。ほら。三月十四日。受付印もある」
「ありますね」
私は書類を覗き込みました。
農地に関する許可申請書。
土地は駅北側の畑、二筆。
売主が杉浦さん。
買主は隣接地で農業を営む田所さんという男性です。
駅前再整備の話が出てから、この辺りの土地は妙にざわついていました。
駅南側には商業施設の計画。
北側では道路拡幅の噂。
不動産屋がうろうろし、地主がそわそわし、市役所の電話は増え、片桐事務所のお茶の減りまで早くなる。
町が動くとき、最初に動くのは重機ではありません。
紙です。
そして紙が動くと、人も揉めます。
「で、その受付印がどうしたんだ」
相馬先輩が、ぶっきらぼうに聞きました。
言い方は雑ですが、ちゃんと話は聞いています。
杉浦さんは身を乗り出しました。
「田所さんに畑を売ったんです。代金も一部もらった。役所にも申請を出した。担当の若い人が『受け付けました』って言った。それで田所さんも、もう自分の土地になるつもりで苗の注文までしたんです」
「はい」
「そしたら昨日になって、市役所から電話ですよ」
杉浦さんは声を荒らげました。
「『まだ許可は出ていませんから、所有権移転の登記はできません』って!」
あ。
私は書類をもう一度見ました。
受付印。
確かにあります。
でも。
「杉浦さん」
「はい」
「許可書は?」
「許可書?」
「申請書じゃなくて、許可されたことを示す書面です」
杉浦さんの動きが止まりました。
「……これじゃないんですか」
申請書を指さします。
「これは杉浦さんたちが役所に出した書類です」
「でも役所の印がある」
「受付印ですね」
「同じじゃないんですか」
「たぶん、そこが今回の全部です」
口から出た瞬間、自分でも妙に腑に落ちました。
昨日までなら、
行政行為。
法律行為的行政行為。
準法律行為的行政行為。
受理。
許可。
認可。
そんな単語を並べられた時点で、私の脳は布団を敷いていました。
特に「準法律行為的行政行為」。
名前が長い。
長い名前の法律用語には、だいたい受験生を寝かせようという悪意があります。
少なくとも私はそう思っています。
ところが今。
机の上に一枚の受付印がある。
その印を「役所が認めてくれた証拠」だと思っている人がいる。
そして、その勘違いで現実のお金と畑が止まっている。
眠くありません。
行政法、現場に出ると急に目つき変わりますね。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何を確認する」
「誰が、何をしたのかです」
私は答えました。
所長は黙っています。
続けろ、という顔です。
「杉浦さんたちがしたのは、売買契約。それから役所への許可申請」
「うん」
「役所がしたのは、今のところ申請を受け付けたことだけ」
杉浦さんが顔をしかめました。
「だけって……役所ですよ?」
「役所だからこそ、です」
私は申請書を指しました。
「役所が書類を受け取ったことと、役所が『この売買について必要な許可を出します』と決めたことは、別です」
「でも受け付けたなら、中身も見たんでしょう?」
「見たかもしれません。でも」
私は少し考えて、言葉を選びました。
「映画館で切符をもぎってもらったからって、映画の内容まで保証されたわけじゃない、みたいな」
相馬先輩が眉を上げました。
「例えが微妙だな」
「じゃあ先輩が」
「郵便局が手紙を受け付けたからって、相手が承諾したことにはならん」
「あ、それです」
「人の例えを取るな」
杉浦さんは二人を見比べてから、ようやく小さく息を吐きました。
「じゃあ……まだ役所は、売っていいとも悪いとも言ってない?」
「たぶんそうです」
「たぶん?」
「ここで断言すると所長に怒られるので」
「正しい」
片桐所長が即答しました。
ほら。
昭和の実務家、断言に厳しい。
「申請の状態を確認する」
所長が立ち上がりました。
「相馬」
「はい」
「農政課」
「分かりました」
そして所長が私を見ます。
「こはるも来い」
「やっぱりですか」
「論点を出した」
この事務所では、論点を出した人間に現場同行義務が発生するらしい。
そんな行政規則は聞いていません。
市役所の農政課は、一階の奥にありました。
窓口の横には、
『農地の売買・転用については事前にご相談ください』
と書かれた看板。
事前相談。
便利な言葉です。
役所の看板って、だいたい大事なところだけ柔らかい。
相馬先輩が受付で名刺を出しました。
「杉浦正治さんの申請について確認したい」
職員が書類番号を確認し、奥へ消えます。
ほどなくして、見覚えのある顔が出てきました。
「……また片桐事務所ですか」
倉田係長。
最近この人を見る頻度が高い。
この町、市役所の職員が倉田係長しかいないんじゃないでしょうね。
「今度は農地か」
相馬先輩が言う。
「今度は、って言わないでください。こっちだって好きで揉め事を集めてるわけじゃありません」
「うちも好きで持ち込んでない」
「嘘でしょう。相馬さん、ちょっと楽しそうですよ」
「気のせいだ」
気のせいではないと思います。
倉田係長は書類を確認しました。
「杉浦さんと田所さんの件ですね。申請は受理されています」
その一言で、杉浦さんが私の袖を軽く引きました。
ほら。
という顔です。
私は小さく首を振りました。
ここからです。
「受理されている」
片桐所長が静かに言います。
「許可は?」
倉田係長の表情が変わりました。
「まだです」
「審査中?」
「はい。農業委員会で確認すべき事項が残っています」
「何が」
「買受人の耕作状況、通作距離、農地の利用状況。それから周辺農地への影響についても確認しています」
杉浦さんが声を上げました。
「そんなこと、聞いてませんよ!」
「説明したはずですが」
「聞いたのは『受け付けました』です!」
「それは申請を受け付けたという意味で……」
「だから、売っていいって意味じゃないんですか!」
「違います」
倉田係長は、今度ははっきり答えました。
空気が止まりました。
役所の窓口で、「違います」と言われると強い。
杉浦さんの肩が落ちます。
でも。
私は倉田係長を見ました。
「係長」
「何です」
「受付のとき、許可がまだ出ていないことは、明確に説明しましたか」
「申請ですから、当然まだですが」
出ました。
役所の「当然」。
行政法界の強敵です。
「杉浦さんにとっては、当然じゃなかったみたいです」
「しかし、申請書にも許可申請と書いてあります」
「だからこそです」
私は言いました。
「一般の人からすれば、許可申請書を役所が受け取ってハンコを押したら、『許可の手続が済んだ』と思っても不思議じゃありません」
倉田係長が少し黙りました。
相馬先輩が横から入ります。
「しかも窓口で『受け付けました』だけならな。『審査はこれからです』『許可書が出るまでは効力は完成していません』くらい言わないと、勘違いする奴は出る」
「そこまで一件一件……」
「言わなかった結果がこれだ」
強い。
でも、杉浦さんの顔を見ると、必要な強さだと思いました。
片桐所長が口を開きます。
「倉田さん」
「はい」
「こちらも、受理されたから許可された、と言うつもりはない」
倉田係長の表情が少し緩みます。
「ただ」
所長は続けました。
「役所の一つ一つの行為には意味が違う。受付と、許可と、通知とを、住民が全部区別できる前提で窓口を回すのは危ない」
私は思わず所長を見ました。
受付。
許可。
通知。
あ。
今日の話、行政行為の種類が、そのまま窓口に並んでいる。
テキストでは一ページに表で載っていたものが、今は全部、人間の動作になっています。
書類を受け取る。
審査する。
決める。
知らせる。
同じ役所がやっていても、全部同じ意味ではない。
「じゃあ」
杉浦さんが、おそるおそる聞きました。
「今、うちの土地はどうなってるんです」
それです。
結局、相談者が知りたいのは用語じゃありません。
自分の土地がどうなっているか。
お金を返さなきゃいけないのか。
契約は駄目になったのか。
田所さんは苗を植えられるのか。
生活は、試験問題みたいに「次のうち正しいものを選べ」では終わりません。
片桐所長が倉田係長を見ました。
「現状を説明してもらえますか」
倉田係長は少し姿勢を正しました。
「売買の当事者間で契約はされています。ただ、農地について必要な許可がまだ出ていません」
「はい」
「したがって、現段階で所有権移転が完成した前提で扱うことはできません」
杉浦さんが口をへの字に曲げます。
「じゃあ、田所さんが払った金は?」
「それは契約内容によります。こちらが決めることではありません」
倉田係長が答える。
ここは大事です。
役所が何でも決めるわけではない。
行政の話と、私人同士の契約の話。
ここも混ぜたら危ない。
相馬先輩が私を肘でつつきました。
「今、顔がうるさいぞ」
「頭の中で線を引いてるんです」
「何の線だ」
「役所が動かせるところと、当事者同士で決めるところ」
「口に出すなよ」
「今出しましたけど」
「遅い」
倉田係長がため息をつきました。
「朝比奈さん」
「はい」
「また何か言いたそうですね」
「言っていいですか」
「止めても言うでしょう」
だいぶ理解されてきました。
「許可が出たときは、誰の何が変わるんですか」
「何が?」
「役所が紙を一枚出す。それで、さっきまで完成していなかった法律関係が動くわけですよね」
倉田係長は一瞬こちらを見て、それから頷きました。
「そうです」
「じゃあ、やっぱり受付とは全然違う」
「ええ」
「受付は、申請を有効なものとして受け取った段階」
「大ざっぱに言えば」
「許可は、行政庁の判断によって、法律上の効果を生じさせる」
「そういう整理になります」
頭の中で、昨日までのテキストが開きました。
行政行為。
行政庁が一方的に法的効果を生じさせる。
許可。
認可。
特許。
下命。
受理。
通知。
確認。
公証。
文字で見ると全部同じように眠かった言葉。
でも今。
杉浦さんの農地は、受付印では動かなかった。
役所が「受け付けた」と言ったことと、
行政庁が「この法律関係について必要な判断をする」と決めること。
その間には、現実の畑一枚ぶんくらい大きな距離がある。
「分かりました」
私は言いました。
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「何がだ」
「役所が何かした、だけじゃ足りないんですね」
「当たり前だ」
「昨日までの私には、その当たり前が分からなかったんです」
行政行為。
役所が何かすること。
そんなざっくりしたイメージで覚えていました。
でも本当は、
何をしたのか。
その行為によって、誰の権利や義務がどう動くのか。
そこを見なきゃいけない。
「係長」
片桐所長が言いました。
「審査は、いつ頃までに」
「必要な確認が取れれば、次回の委員会にかけられます」
「不足書類は」
「今のところ一つあります」
杉浦さんが顔を上げました。
「不足?」
「田所さん側の耕作計画の補足です。昨日、連絡しました」
「田所さん、今日一日畑に出てますよ」
「電話がつながらなくて」
……。
またです。
大事件じゃない。
悪人もいない。
ただ、
担当者が電話を一本かけた。
相手が出なかった。
そのまま一日経った。
その間、申請者は「審査中だから待つしかない」と思っている。
こういう小さな隙間に、人の不安はどんどん溜まります。
「書面で不足内容を出してもらえますか」
片桐所長が言いました。
「書面?」
「はい。何が不足していて、何を補えば審査が進むのか。こちらでも整理します」
倉田係長は少し考えました。
「分かりました。簡単なものになりますが」
「十分です」
相馬先輩が小声で言います。
「口頭だけだと、また『言った』『聞いてない』になるからな」
私は頷きました。
今日の敵が少し見えました。
受理と許可の違い。
それだけじゃない。
役所側は、自分たちが毎日扱っている言葉を、住民も同じ意味で理解していると思っていた。
「受理しました」
「審査中です」
「許可はまだです」
役所の人間には明確に違う。
でも杉浦さんには全部、
「役所に出した」
の一言だった。
その差が、揉め事になった。
結局、市役所では、その場で二つのことが決まりました。
不足している耕作計画の内容を、書面で出してもらうこと。
そして、許可の判断が出るまでは、所有権移転が完成した前提で勝手に話を進めないこと。
派手さはありません。
許可もまだです。
でも、杉浦さんの顔は、来たときより少しだけましになっていました。
「つまり」
市役所の廊下を歩きながら、杉浦さんが言いました。
「今まで俺は、“役所待ち”だと思ってたけど」
「はい」
「実際は、田所さんが追加の紙を出せば進むんですね」
「そういうことです」
「それを知らずに、昨日からずっと腹立ててた」
「腹が立つのは分かります」
「役所が止めてるんだと思ってたからな」
相馬先輩が振り返りました。
「役所も止めてるっちゃ止めてる。ただ、止め方の種類が違う」
「分かりにくい言い方するねえ」
「法律屋だからな」
「行政書士ですよ」
「同じようなもんだ」
「雑にくくると所長に怒られますよ」
「聞こえてるぞ」
後ろから所長の声がしました。
怖い。
事務所へ戻ると、田所さん本人が待っていました。
泥のついた長靴。
帽子。
日に焼けた顔。
いかにも畑から直接来ました、という姿です。
「杉浦さん!」
「お前、役所から電話あったらしいじゃないか!」
「えっ」
「耕作計画だよ!」
「ああ、あれ」
「あれじゃない!」
二人とも声が大きい。
昭和の農家、電話より直接会った方が通信速度が速い。
田所さんは頭をかきました。
「いやあ、役所から留守電なんてないしな」
「留守番電話、持ってないんですか」
私が聞くと、田所さんは笑いました。
「そんな高いもの」
そうでした。
昭和六十三年。
スマートフォンどころか、常時連絡がつく世界ですらありません。
役所が一回電話してつながらなかった。
それだけで手続が止まることもある。
現代ならメール一通で済みそうなことが、この時代では人が走ります。
いや。
現代でも役所は郵送してきそうな気がします。
そこはあまり変わってないかもしれません。
片桐所長が、不足内容を書いた紙を田所さんに見せました。
「この二点を書き足して、明日出しましょう」
「これだけですか」
「今のところは」
田所さんは紙を見ました。
「だったら今日書けますよ」
「書けるところまで書きます」
私は筆記具を出しました。
「朝比奈さん」
「はい」
「字、きれい?」
「普通です」
「俺、字が汚いんだ」
「行政手続に字の美しさは要求されません」
「じゃあ頼む」
「結局私が書くんですか!」
相馬先輩が笑いました。
「見習い」
「便利な身分ですね!」
その日の夕方。
追加書類の下書きができる頃には、杉浦さんも田所さんもだいぶ落ち着いていました。
「じゃあ」
杉浦さんが確認します。
「これを出して」
「はい」
「審査してもらって」
「はい」
「許可が出たら、そのとき初めて次へ進める」
「そうです」
「最初の受付印は?」
「入口です」
私は答えました。
「ゴールじゃなくて」
杉浦さんは、しばらく受付印を見つめました。
「ずいぶん立派な入口だな」
「役所のハンコ、見た目だけは強いですから」
「おい」
相馬先輩が笑います。
「役所に聞かれたら怒られるぞ」
「倉田係長なら、たぶんもう慣れてます」
「慣れさせるな」
田所さんが持ってきた紙袋を机に置きました。
「これ、皆さんで」
「何ですか?」
「苺」
「おお」
相馬先輩の反応が急に良くなりました。
「うちのハウスの余りものです」
「余りもの、大歓迎です」
「お前は遠慮を覚えろ」
「法律上の義務ですか?」
「社会人としての義務だ」
「十八歳見習いに社会人圧をかけないでください」
紙袋を開けると、真っ赤な苺が並んでいました。
少し形は不揃い。
でも甘い匂いがします。
杉浦さんが一つ手に取り、笑いました。
「田所さんよ」
「何です」
「この畑もちゃんと許可が出たら、来年はここで苺でもやるか」
「豆って言ってたじゃないですか」
「予定は変わる」
「役所に出す計画と違うこと言うなよ!」
今度は私たちが笑いました。
少し前まで、二人とも役所に騙されたような顔をしていた。
でも本当は、誰かが騙したわけではありません。
杉浦さんは、受付を許可だと思った。
窓口は、申請者なら受付と許可の違いくらい分かると思った。
田所さんは、不足書類の連絡に気づかなかった。
担当者は、一度電話したから連絡したつもりになった。
ほんの少しずつ。
みんなの認識がずれていた。
そして行政というものは、その「ほんの少し」を放っておくと、人の土地や仕事を簡単に止めます。
苺を一つ食べる。
甘い。
今日も法律用語より圧倒的に分かりやすい。
「こはる」
所長が言いました。
「今日の教訓は」
急に来ました。
この人、ときどき抜き打ち試験を始めます。
私は机の上を見ました。
申請書。
受付印。
不足書類。
これから出るかもしれない許可書。
全部、役所に関係する紙です。
でも全部、意味が違う。
「……役所が何かしたら」
「うん」
「“何をしたのか”を確認する」
所長は黙っています。
「受け取っただけなのか」
「うん」
「決めたのか」
「うん」
「誰かに知らせただけなのか」
「そうだ」
私は少し考えました。
「同じ役所の行為でも、国民の権利義務にどんな効果が出るかは違う」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩が苺を二つまとめて取りました。
「じゃあ俺が苺を二個取る」
「待ってください」
「何だ」
「今のは何という行政行為ですか」
「行政行為じゃねえ」
「私の苺取得可能性を一方的に減少させています」
「民事で争え」
「所長!」
「自分で守れ」
「制度の救済がない!」
杉浦さんが大声で笑いました。
その笑い声を聞いて、私は少しだけ肩の力を抜きました。
完全に終わったわけではありません。
許可はまだ出ていない。
農地の売買が予定どおり進むかも、最終的には審査次第です。
でも。
昨日まで杉浦さんは、
受け付けてもらったのに、なぜ突然駄目になった。
そう思っていました。
今は違います。
まだ駄目になったわけでもない。
まだ認められたわけでもない。
今どこにいるのかが、分かった。
ただそれだけです。
でも人間は、出口がなくて苦しいときより、
自分がどこにいるのか分からないときの方が、案外つらいのかもしれません。
役所の制度は冷たい。
受付。
審査。
許可。
通知。
全部きっちり切り分ける。
人間から見れば、
そんなの全部まとめて「役所に出した」でいいじゃないか、
と言いたくなる。
でも。
今日の杉浦さんを救ったのも、その冷たい区別でした。
受付は受付。
許可は許可。
まだ決められていないなら、
「駄目になった」
と諦める必要はない。
何が足りないかを確認して、そこから先へ進めばいい。
制度が細かく分かれているからこそ、
誰かの一言で全部終わったことにはならない。
夕方。
杉浦さんと田所さんが帰ったあと、私は自分のノートを開きました。
昨日のページには、
行政立法。
と書いてあります。
その次の白紙。
私は一番上に、新しく書きました。
――行政行為。
その下に、
受理。
許可。
認可。
下命。
免除。
特許。
確認。
公証。
通知。
ずらりと並べて、早くも嫌になります。
「うわあ」
声が出ました。
「何だ」
相馬先輩が覗き込みます。
「急に敵が増えました」
「敵じゃねえ」
「名前だけ見ると完全に敵です」
特に、
法律行為的行政行為。
準法律行為的行政行為。
この二つ。
長い。
そして似ている。
受験生の集中力を確実に刈り取りに来ています。
「まとめないのか」
相馬先輩が言いました。
「今日はやめます」
「逃げるな」
「逃げてません。保留です」
「同じだ」
「違います。今日分かったのは、まだ一個だけです」
「何だよ」
私は赤い受付印を思い出しました。
「役所のハンコは、押された瞬間に全部同じ魔法を使うわけじゃない」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「小学生みたいなまとめだな」
「でも覚えやすいです」
所長が奥から言いました。
「最初はそれでいい」
私は少し驚きました。
「いいんですか?」
「分類はあとでやれ」
「はい」
「今日は、人の権利がどこで動いたかだけ覚えろ」
私はペンを止めました。
人の権利が、どこで動いたか。
それでした。
杉浦さんが申請書を書いたときではない。
窓口が受付印を押したときでもない。
これから行政庁が審査をして、
法律が予定した判断をし、
必要な行政上の行為がなされたとき。
そこで初めて、現実の法律関係が次へ進む。
行政行為って、
役所が何かすること。
そんな薄いイメージで覚えていました。
でも今日見たのは、
役所の一つの判断で、
できなかったことができるようになったり。
払う義務が生まれたり。
営業できなくなったり。
誰かの権利関係が完成したり。
現実を切り替える瞬間です。
だから、似たような役所の行為でも、
何が起きたのかを区別しないといけない。
私はノートの余白に、一行だけ書きました。
――「役所が何かした」で止まらない。その行為で、誰の何が変わったかを見る。
「今日はまともだな」
相馬先輩が言いました。
「昨日も言われた気がします」
「気のせいだ」
「絶対言いました」
「証拠は」
「私の記憶」
「弱い」
「じゃあ公証してください」
「何をどう公証するんだよ」
所長が新聞をめくります。
「勉強するなら静かにしろ」
「はい」
「はい」
二人で返事をして、少しだけ静かになりました。
机の上には最後の苺が一つ。
私と相馬先輩が、同時に見ます。
「先輩」
「何だ」
「それ、私が先に見つけました」
「だから?」
「取得する権利が」
「ない」
「一方的に否定した!」
「俺の意思に基づいてな」
「行政庁でもないのに!」
私は苺へ手を伸ばしました。
相馬先輩も伸ばす。
所長が新聞の向こうから言いました。
「半分にしろ」
二人の手が止まりました。
絶対的な決定でした。
「……所長」
「何だ」
「今のって行政行為ですか」
「違う」
「ですよね」
「事務所命令だ」
それが一番逆らえません。
苺を半分に切りながら、私は笑いました。
役所の言葉は、同じように聞こえても同じではない。
受け付けた。
認めた。
命じた。
免じた。
知らせた。
証明した。
その一つ一つで、人に起こることが違う。
昨日までなら、そんな分類を見ただけで眠くなっていました。
でも今は、
赤い受付印を見ても、
たぶんもう、
「これで全部終わった」
とは思いません。
まず聞くはずです。
――これは、何をしたハンコですか。
たぶん行政法は、
そこから始まるのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




