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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈基礎知識 配点56点/300点〉 基礎知識

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699/701

[住民基本台帳法・住民票コードと利用制限]現場編 「番号を教えなければ家を貸さない」の罠。昭和の名簿屋が作ったブラックリストと、未来の法律が禁じた十一桁の呪い

挿絵(By みてみん)

 名前を知られることと、人生を知られることは、同じではありません。


 住所。


 生年月日。


 家族構成。


 引っ越した履歴。


 勤め先。


 そして。


 お金に困った過去。


 それらが一つの名簿にまとめられたら。


 人は、たった一枚の紙で判断されてしまうのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、一冊の黒い帳簿を見て、背筋が凍ることになります。


 帳簿の表紙には、こう書かれていました。


 ――要注意人物一覧。


 そして、その中には。


 まだ小学生の女の子の名前まで、記されていたのです。


「娘が、家を借りられなくなったんです」


 朝一番。


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


「……娘さんが?」


 私は思わず聞き返しました。


 女性の名前は、佐伯佳代子さん。


 三十六歳。


 町の縫製工場で働いているそうです。


 隣には、小学生くらいの女の子。


 佐伯美咲ちゃん。


 九歳。


 女の子は、小さな布の鞄を膝に抱えていました。


「引っ越そうと思って、不動産屋さんに行ったんです」


「はい」


「そうしたら……」


 佳代子さんは、鞄から一枚の紙を取り出しました。


 私は受け取りました。


 不動産会社の申込書。


 そこには、


 ――入居審査資料提出依頼。


 と印刷されています。


 氏名。


 住所。


 生年月日。


 勤務先。


 年収。


 家族構成。


 保証人。


 ここまでは、賃貸借契約の審査で尋ねられることのある項目です。


 ところが。


 最後に、妙な欄がありました。


 ――住民登録管理番号。


「……管理番号?」


 私は首をかしげました。


「何ですか、これ」


「不動産屋さんが言うには、市役所で管理している番号が必要だって」


「市役所の番号?」


「はい。住民票に関係する番号を調べて、提出しろと」


 私は紙を見つめました。


 住民登録。


 管理番号。


 そして、不動産契約。


 その組み合わせが、嫌な予感を呼び起こします。


 まさか。


「住民票コード……?」


 思わず口に出しました。


 すると。


「何だ、それ」


 背後から声がしました。


 相馬先輩です。


「住民票コードです」


「だから何だ、それ」


「住民票に記載される十一桁の番号で――」


「十一桁?」


「はい。住基ネットで本人確認情報を扱うときにも使われる番号です」


「住基……何だって?」


 先輩が怪訝な顔をしました。


 あ。


 しまった。


 私は固まりました。


 昭和六十三年。


 一九八八年。


 住基ネットが始まるのは、まだずっと先。


 住民票コードも、存在しません。


「お前、何の話をしてるんだ」


「い、いえ!」


 私は慌てて申込書を裏返しました。


「今のは忘れてください!」


「忘れられるか。十一桁の幽霊みてえな番号を出しやがって」


 うう。


 また未来の法律を口走ってしまいました。


 でも。


 もっと怖いのは、その申込書でした。


 この時代に、住民票コードは存在しない。


 なのに。


 それらしい名前の番号を、民間業者が要求している。


 しかも、賃貸住宅を借りようとする人に対して。


 何のために?


「佳代子さん」


 片桐所長が静かに尋ねました。


「その番号について、詳しい説明はありましたか」


「いいえ。ただ、提出しないと入居審査ができないって」


「ほかに何か言われましたか」


 佳代子さんは、しばらく黙りました。


 そして。


「……うちが、ブラックリストに載っているって」


 私は顔を上げました。


「ブラックリスト?」


「夫が亡くなる前、借金をしていたんです」


 佳代子さんの声が震えました。


「二年前に亡くなって、生活が苦しくなって……。家賃も一度、遅れたことがありました」


「それで?」


「不動産屋さんが、知っていたんです」


 私は眉をひそめました。


「家賃が遅れたことを?」


「それだけじゃありません」


 佳代子さんは、美咲ちゃんの肩を抱きました。


「前に住んでいた住所も。夫が亡くなったことも。娘が転校したことまで……」


 ぞくり。


 背中に冷たいものが走りました。


「どうして、そんなことまで……」


「分からないんです」


 佳代子さんは俯きました。


「不動産屋さんは言いました」


 ――あなたみたいな人は、どこの不動産屋へ行っても同じですよ。


 ――うちの名簿には、全部載っていますから。


 私は、申込書を握りしめました。


 名簿。


 ブラックリスト。


 他の不動産屋とも共有。


 まさか。


 この町には、人の生活を勝手に評価して売り買いする業者がいるのでしょうか。


「お母さん……」


 美咲ちゃんが、小さな声で言いました。


「私が転校したから、駄目なの?」


 佳代子さんが慌てて首を振りました。


「違うよ。美咲は悪くない」


「でも、不動産屋のおじさんが」


「うん」


「うちは問題のある家族だって……」


 私は息を呑みました。


 問題のある家族。


 九歳の子供に、そんな言葉を聞かせたのですか。


 私は申込書を机に置きました。


「……許せません」


 思わず立ち上がります。


「そんな個人情報を勝手に集めて、他の業者に提供するなんて!」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「こはる」


「はい!」


「落ち着け」


「でも!」


「まず、何を集められたのか確かめろ」


「……はい」


「それから、どうやって集めたのかだ」


 片桐所長が、ゆっくりと口を開きました。


「相馬」


「はい」


「黒田商事を調べろ」


 私は首をかしげました。


「黒田商事?」


 所長は申込書の右下を指差しました。


 そこには小さく、


 ――情報管理委託先 黒田商事。


 と印刷されていたのです。


「所長、この会社を知っているんですか?」


「ああ」


 所長の表情が、少し険しくなりました。


「名簿屋だ」


 その一言で。


 事務所の空気が変わりました。


「名簿屋って、何ですか?」


 佳代子さんが帰ったあと。


 私は相馬先輩に尋ねました。


「そのまんまだ」


「そのまま?」


「人の名前や住所を集めて、名簿にして売る商売だ」


「……個人情報を?」


「ああ」


 先輩は煙草に火をつけました。


「商店の客名簿。学校の卒業生名簿。電話帳。いろんなところから集める」


「そんなの、個人情報保護法で――」


「何法?」


「……」


 またです。


 私は額を押さえました。


 個人情報保護法。


 現代では当然のように存在する法律。


 でも。


 昭和六十三年には、現代の民間事業者向け個人情報保護法はありません。


 もっとも、プライバシーが無法地帯だったわけではありません。


 民法上の不法行為。


 名誉毀損。


 秘密の侵害。


 場合によっては、刑法上の問題。


 個人の私生活を守る法的な考え方は、この時代にもあります。


 それでも。


 名簿の収集、検索、第三者提供をめぐる現代のような細かな規制は、まだ整っていません。


「先輩」


「何だ」


「住民基本台帳の閲覧って、どうなってるんですか?」


「役所で申請して、認められれば見られる」


「営利目的でも?」


「今は、営利目的だから一律に駄目って制度じゃねえ」


 私は絶句しました。


 現代では、ダイレクトメールを送るためだけに住民基本台帳の一部の写しを閲覧することは、認められません。


 でも、この昭和では。


 制度が違う。


「つまり……」


 私は呟きました。


「名前や住所を集めて、商売に使える可能性があるんですね」


「そうだ」


「怖すぎません?」


「今さら気づいたのか」


 私は黙りました。


 住所は、人が暮らしている場所です。


 でも。


 誰かにとっては。


 商品を送りつけるための情報。


 勧誘するための情報。


 居場所を追いかけるための情報。


 そして。


 人を選別するための情報にもなる。


「先輩」


「何だ」


「未来では、こんなことを防ぐために、住民票コードの利用が厳しく制限されるんです」


「また未来か」


「でも、聞いてください!」


 私はノートを開きました。


「現代の住民基本台帳法には、第三十条の三十八という条文があります」


「……知らん」


「当然です。まだありませんから」


「じゃあ何で持ち出した」


「そこが重要なんです!」


 私は勢いよく説明しました。


 住民票コード。


 十一桁の番号。


 住所や名前が変わっても、基本的には引き継がれる番号。


 民間事業者が、契約の相手にそのコードを教えるよう要求することは、禁止されている。


 さらに。


 そのコードを含む検索可能なデータベースを、他人に提供する目的で業として作ることも禁止されている。


「つまり!」


 私は机を叩きました。


「現代なら、賃貸借契約を結ぶ条件として住民票コードを要求すること自体、問題になるんです!」


 相馬先輩は黙って聞いていました。


「そして、違反を繰り返すおそれがあれば、知事による勧告や命令の制度があります!」


「ほう」


「命令に違反すれば、一年以下の拘禁刑又は五十万円以下の罰金!」


 私は拳を握りました。


「これです!」


「何がだ」


「名簿屋を止める法律です!」


 しかし。


 相馬先輩は、私の頭に六法を軽く乗せました。


「こはる」


「……はい」


「その法律、いつの法律だ」


「……未来です」


「今は?」


「……昭和六十三年です」


「だったら」


 先輩が言いました。


「未来の法律で、今の悪党は縛れねえ」


 ……。


 分かっています。


 分かっているんです。


 でも。


 悔しい。


 こんなに大切な人権が。


 法律の整備が遅れているだけで、簡単に踏みにじられるなんて。


「所長……」


 私は片桐所長を見ました。


「今の法律では、守れないんですか?」


 所長は、しばらく黙っていました。


 そして。


「こはる」


「はい」


「法律がないことと、何をしてもいいことは違う」


 私は顔を上げました。


「……はい」


「まず、相手が使っている紙を調べろ」


「紙?」


「人を支配する者は、必ず何かを残す」


 所長は申込書を指差しました。


「名簿か、契約書か、領収書か」


 そして。


「そこに嘘があれば、嘘から崩せ」


 私は、もう一度申込書を見ました。


 住民登録管理番号。


 黒田商事。


 そして。


 小さな文字で記された、


 ――本番号は公的な住民登録情報との照合に用いる。


 という一文。


 公的。


 照合。


 私は、はっとしました。


「所長!」


「何だ」


「これ、まるで公的な制度があるように書いてあります!」


「そうだ」


「でも、住民票コードは存在しません!」


「うん」


「この番号も、市役所が住宅審査のために提供する制度ではないはずです!」


 所長が頷きました。


「なら、確かめろ」


 その声は静かでした。


 でも。


 私には、はっきり分かりました。


 反撃開始です。


 翌日。


 相馬先輩と私は、市役所へ向かいました。


 向かった先は住民登録を担当する窓口。


「失礼します」


 相馬先輩が、相談の趣旨を説明します。


「民間業者が『住民登録管理番号』というものを要求しているんですが」


 窓口の職員は首をかしげました。


「管理番号?」


「はい」


「何の手続ですか?」


「賃貸住宅の入居審査です」


 職員は申込書を見ました。


 そして。


「……こんな番号を、うちで発行する制度はありませんよ」


 私は拳を握りました。


 やっぱり!


「住民票と関係する番号ではないんですね?」


「少なくとも、この申込書に書かれたような住宅審査用の公的番号はありません」


「ありがとうございます!」


 まず一つ。


 確認できました。


 次に、住民基本台帳の閲覧制度を確認します。


 当時の取扱いでは、閲覧できる範囲や手続があり、誰でも無制限に何でも見られるわけではありません。


 けれど。


 営業目的の情報収集を、現代のように厳しく制限する制度にはなっていない。


「なるほど……」


 私は唇を噛みました。


「ここから名簿を作ることも、あり得るんですね」


「可能性はある」


 相馬先輩が答えました。


「ただ、住民基本台帳から分かることだけで、借金の有無まで分かるわけじゃねえ」


「あっ」


 確かに。


 住民票には、家賃の滞納歴なんて書かれていません。


 勤務先の評価も。


 借金の内容も。


 それなら。


「別の業者が、情報を持ち寄っている……?」


「その可能性を調べる」


 相馬先輩が言いました。


「そして、何が正しい情報で、何が単なる噂なのかもな」


 私は頷きました。


 ここが大切です。


 名簿に書いてあることが、全部事実とは限らない。


 誰かの思い込み。


 古い情報。


 間違った評価。


 それが一つの名簿に載った瞬間。


 まるで確定した事実のように扱われる。


 情報が集まることの恐ろしさは。


 単に秘密が知られることだけではないのです。


 三日後。


 相馬先輩が、事務所に一冊の冊子を持ち帰ってきました。


「こはる」


「はい」


「見ろ」


 机に置かれた冊子。


 表紙には、


 ――地域信用情報管理サービス。


 と印刷されていました。


「……何ですか、これ」


「黒田商事が、不動産会社向けに配ってる営業案内だ」


 私はページをめくりました。


 そこには、こんな説明がありました。


 ――入居者の過去の住所。


 ――家族構成。


 ――転居回数。


 ――家賃支払状況。


 ――取引上の注意情報。


 ――独自管理番号による照合。


 私は息を呑みました。


「……これ!」


「ああ」


「完全にデータベースじゃないですか!」


 相馬先輩が頷きました。


 そして、最後のページ。


 そこには、当時のパソコンを使った管理システムの写真が載っていました。


 大きなブラウン管の画面。


 横にはフロッピーディスク。


 説明文。


 ――氏名・管理番号による高速検索。


 私はぞっとしました。


 昭和だから紙だけ。


 そんなことはありません。


 パソコンは、もう存在しています。


 企業が情報を電子計算機で管理することも、できる時代です。


 つまり。


 住基ネットがなくても。


 住民票コードがなくても。


 独自の番号をつけて、人間を管理することはできる。


「先輩……」


「何だ」


「これ、名前が変わっても、引っ越しても、同じ人物だと追いかけるための番号ですよね」


「そういう使い方ができるだろうな」


「怖い……」


 私は画面の写真を見つめました。


 人が引っ越す。


 結婚して姓が変わる。


 生活を立て直す。


 新しい仕事を始める。


 でも。


 古い名簿が残っていたら。


 その人の過去が、いつまでも追いかけてくる。


「住民票コードも、同じ危険があるんです」


 私は呟きました。


「だから、未来では民間利用を制限する……」


 住民票コードそのものは、行政事務の効率化のための仕組みです。


 でも。


 もし民間のあらゆる会社が、同じ番号で人を管理できたら。


 銀行。


 不動産会社。


 雇用主。


 通信販売会社。


 それぞれが持つ情報を、一つの番号で結びつけられてしまう。


 本人の知らないところで。


 巨大な人物記録が作られる危険がある。


 だからこそ。


 現代の住民基本台帳法は、住民票コードの民間利用に厳しい制限を置いているのです。


「先輩」


「何だ」


「十一桁の番号が怖いんじゃないですね」


「ほう」


「その番号を使えば、人の情報をどこまでも結びつけられることが怖いんです」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「やっと分かったか」


「はい」


「だが、今は十一桁の番号じゃねえ」


 先輩は冊子を指差しました。


「この会社が勝手につけた番号だ」


 私は頷きました。


 そうです。


 未来の法律を、そのまま使うことはできません。


 でも。


 何を止めなければならないのか。


 その本質は、同じです。


「問題は、その会社が何を根拠に情報を持っているかだ」


 夕方。


 片桐所長が、資料を並べました。


 佳代子さんの入居申込書。


 黒田商事の営業案内。


 不動産会社の説明文。


 それから。


 佳代子さんから預かった、亡くなった夫の借金に関する書類。


「相馬」


「はい」


「その名簿屋、ほかに何をしている」


「貸金業者にも情報を売っています」


「貸金業者?」


 私は聞き返しました。


「ああ。借金のある人物や、支払いが遅れた人物の情報を集めているらしい」


「それで、ブラックリストを……」


「ただし、登録されている内容の真偽はまだ分からん」


 相馬先輩は続けました。


「黒田商事は、複数の会社から情報を買っている。中には根拠の怪しいものもある」


 私は眉をひそめました。


「じゃあ、間違った情報でも、そのまま他の会社に流れるんですか?」


「そういう危険がある」


 最悪です。


「所長、これって名誉毀損になりませんか?」


「内容と伝え方による」


「はい」


「事実を摘示して社会的評価を低下させた場合には、名誉毀損の問題が生じ得る」


「でも、情報を集めただけで、必ず犯罪になるとは限らない……」


「そうだ」


 所長は頷きました。


「だから、具体的な事実を見ろ」


 私は、佳代子さんの書類をもう一度読みました。


 夫の死亡。


 家賃の支払いが一度遅れたこと。


 その後の支払い。


 そして。


「あれ……?」


 私は一枚の領収書で手を止めました。


「先輩」


「何だ」


「この家賃、もう支払っていますよね」


「ああ」


「遅れたのは事実だけど、未払いのままじゃない」


「そうだ」


 ところが。


 黒田商事の情報を使った不動産会社は、佳代子さんにこう言っていました。


 ――現在も支払能力に重大な問題がある。


 私は顔を上げました。


「これ、過去の一度の遅れを、現在の評価に使っているんですね」


「そうらしいな」


「しかも、今も借金を踏み倒しているみたいな言い方です」


 所長が頷きました。


「そこが一つ目だ」


「一つ目?」


「次を見ろ」


 所長が指差したのは、申込書の下部でした。


 小さな文字。


 ――申込者は、当社及び提携会社による情報収集、情報照合、情報提供に同意する。


 私は読みました。


「同意条項……」


「そうだ」


「でも、何を、どの会社へ、どんな目的で提供するのか、具体的に書いてありません」


「うん」


「しかも、署名しなければ家を貸さないと言われている」


 相馬先輩が口を挟みました。


「同意欄があるからって、何でも許されるわけじゃねえ」


「はい」


「ただし、昭和の今、その一文だけで当然に無効だとも決めつけるな」


「……分かりました」


 またです。


 未来の法律なら、もっと細かく検討できます。


 でも、今は昭和。


 だからこそ。


 契約書の意味。


 情報の入手方法。


 相手の説明。


 本人が何に同意したのか。


 そこを一つずつ確かめる必要があります。


「所長」


「何だ」


「もう一つ、気になることがあります」


「言ってみろ」


「黒田商事は、番号を市役所の制度みたいに説明しています」


「そうだ」


「しかも、佳代子さんが断ったら、どこの不動産屋でも家を借りられなくなるようなことを言った」


「うん」


「これ、事実と違う説明で申込みをさせようとしていませんか?」


 所長が、ゆっくり頷きました。


「そこを確かめる」


 そして。


「本当の敵は、番号じゃない」


「え?」


「番号を利用して、人を従わせようとする者だ」


 私は、しばらく黙りました。


 十一桁の番号。


 独自管理番号。


 黒い帳簿。


 データベース。


 どれも、それ自体が人を脅すわけではありません。


 それを使って。


「お前のことは全部知っている」


「逆らえば、どこでも暮らせなくなる」


 そう言う人間がいる。


 そこに、本当の恐怖があるのです。


 翌朝。


 佳代子さんから電話がありました。


『あの……大変なんです』


「どうしました?」


『黒田商事の人が、家に来て……』


 私は背筋を伸ばしました。


「何か言われましたか?」


『申込書を出さなかったら、次の就職先にも連絡するって』


「……!」


『私、今の工場から別の工場に移る予定なんです。それを、どうして知っているのか……』


 私は言葉を失いました。


 転職先。


 そこまで知っている。


 しかも。


 それを使って脅す。


『娘の学校にも、何か知らせるって……』


 佳代子さんの声が震えました。


『もう、どうしたらいいか……』


 私は受話器を握りしめました。


「佳代子さん」


『はい』


「その人が言った言葉を、できるだけ正確に覚えていますか?」


『……はい』


「日時も分かりますか?」


『今日の朝、八時ごろです』


「何か紙を置いていきましたか?」


『名刺と、封筒を……』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩が頷きます。


「佳代子さん。その封筒を捨てずに保管してください」


『はい』


「そして、これから同じようなことがあれば、無理に応じないでください」


『……はい』


「身の危険を感じたら、すぐ警察に相談してください。私たちも、まず事実関係を整理します」


 電話を切りました。


 私は相馬先輩に言いました。


「先輩!」


「ああ」


「これはもう、単なる名簿の話じゃありません!」


「分かってる」


「転職先に連絡する、学校にも知らせるって……」


「脅しだな」


 先輩の目つきが変わりました。


「名簿を持ってるだけなら、問題の整理は難しい」


「はい」


「だが、相手に害を加えるようなことを告げて、無理に何かをさせようとするなら話が違う」


 刑法。


 脅迫。


 強要。


 その可能性が出てきます。


 ただし、どんな発言でも直ちに犯罪になるわけではありません。


 実際に何を言ったのか。


 何を要求したのか。


 どんな不利益を告げたのか。


 そこを確かめる必要があります。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「相談記録を作れ」


「はい!」


「日時、場所、発言内容、渡された書類。推測と事実は分けろ」


「はい!」


「警察への相談に使えるようにする」


 私は頷きました。


 行政書士が、犯罪を捜査するわけではありません。


 裁判で代理人として争うわけでもありません。


 でも。


 本人から聞いた事実を整理する。


 証拠となる書類を整える。


 本人の意思に基づく通知書を作成する。


 必要に応じて警察や弁護士につなぐ。


 それは、今の私たちにもできることです。


「所長!」


「何だ」


「未来の条文は使えませんけど……」


「うん」


「今ある法律でも、守れるところがありますね」


 所長が頷きました。


「法律は、一つじゃない」


 私は、急いで相談票を開きました。


 その日の午後。


 佳代子さんが、封筒を持って事務所に来ました。


 封筒の中には、数枚の書類が入っていました。


 私は一枚ずつ並べます。


 黒田商事の名刺。


 情報登録確認書。


 個人情報照合申込書。


 そして。


 一枚の一覧表。


「……これは?」


 私は手を止めました。


 一覧表には、名前が並んでいました。


 佐伯佳代子。


 佐伯美咲。


 ほかにも、見知らぬ人たちの名前。


 住所。


 年齢。


 家族構成。


 さらに。


 右端には、アルファベットの評価記号。


 A。


 B。


 C。


 そして。


 佐伯家の欄には、


 ――D。


 と書かれていました。


「……D?」


 私が尋ねると、佳代子さんが俯きました。


「不動産屋さんが言っていました」


 ――D評価は、要注意人物だ。


 ――どこの会社も、あんたみたいな家族は嫌がる。


 私は紙を握りました。


 九歳の美咲ちゃんまで。


 同じ一覧表に載っています。


「美咲ちゃんにも、評価をつけているんですか……?」


「娘が何をしたっていうんでしょう」


 佳代子さんの目から、涙がこぼれました。


「学校に行って、勉強して、友達と遊んでいるだけなのに……」


 私は何も言えませんでした。


 この紙の向こうにいる人たちは。


 誰かの母親で。


 誰かの子供で。


 毎日働いて。


 食事を作って。


 笑ったり、泣いたりして生きている。


 それなのに。


 たった一文字で。


 D。


 要注意。


 そう決めつけられてしまう。


「所長……」


 私は震える声で言いました。


「これが、データベースの怖さなんですね」


 所長は静かに頷きました。


「情報を集めれば、便利になる」


「はい」


「だが、間違った情報まで集めれば、その間違いも広がる」


 そして。


「人間を、帳簿の一行にしてはいけない」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


「それから、もう一つ」


 相馬先輩が、一覧表の下部を指差しました。


 そこには、


 ――加盟業者以外への複写・転売を禁止する。


 と書かれていました。


「……加盟業者?」


「ああ」


「この情報、複数の不動産会社で共有するためのものなんですね」


「そういうことだ」


 つまり。


 単独の不動産会社が入居審査のために情報を持っているだけではない。


 黒田商事が情報を集める。


 独自の管理番号をつける。


 検索できる形にまとめる。


 そして。


 別の会社に提供する。


 その仕組みが、存在する。


 私は息を吸いました。


「……先輩」


「何だ」


「これ、未来の住民基本台帳法第三十条の三十八第三項が問題にしている構造と似ています」


「また未来か」


「でも!」


 私は一覧表を指差しました。


「番号で人を識別して、検索できるようにして、他の会社に提供する!」


「うん」


「現代の住民票コードなら、まさに民間利用を制限しなければならない理由です!」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし」


「……はい」


「これは住民票コードじゃねえ」


「分かっています」


「将来のその条文を、そのまま当てはめるな」


「はい」


 そうです。


 この独自管理番号が、現代の住民票コード利用制限に直ちに該当するわけではありません。


 住民票コードは、法律上の特定の番号です。


 独自の顧客番号とは違います。


 でも。


 危険の構造は、とても似ている。


 だからこそ、未来では。


 行政が利用するために設けた番号を、民間が勝手に人間の追跡番号として使えないようにする。


 そんな制度が整えられたのでしょう。


「所長」


 私は尋ねました。


「この一覧表を作った人は、人間を何だと思っているんでしょう」


 所長は少し考えました。


「商品だろうな」


「……商品?」


「売れる情報としてしか、見ていない」


 私は、唇を噛みました。


 だから。


 止めなければならない。


 誰かが。


 翌朝。


 片桐所長は、私が作った通知書の原案を読みました。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 ……嫌な予感。


「こはる」


「はい」


「ここ」


「はい!」


 所長は、一行目に線を引きました。


 ――貴社の行為は住民基本台帳法第三十条の三十八に違反する。


「……あっ」


「何だ、これは」


「すみません!」


 完全にやらかしました。


 昭和六十三年。


 まだ存在しない条文です。


「未来の法律で相手を処罰できると思うな」


「はい……」


 赤線。


「次」


「はい」


 ――貴社は一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処せられる。


 ……。


 所長は、黙って私を見ました。


「……未来の話です」


「そうだな」


 赤線。


「そもそも、こはる」


「はい」


「その未来の罰則も、禁止行為を一度しただけで直ちに適用されるのか」


 私は、はっとしました。


 違います。


 住民票コードの契約時の告知要求や、提供予定のデータベースの構築については、知事による勧告と命令の仕組みがあります。


 そして。


 刑罰が問題になるのは、所定の命令に違反した場合。


 禁止行為。


 勧告。


 命令。


 命令違反に対する罰則。


 この流れを飛ばしてはいけません。


「……間違えました」


「うん」


「条文があっても、罰則の適用条件まで正確に見ないと駄目なんですね」


「そうだ」


 私は、二本の赤線を見つめました。


 未来の条文。


 未来の罰則。


 どちらも、今は使えない。


 しかも。


 未来の制度についての理解まで、雑になっていた。


「所長」


「何だ」


「私、悔しくて、法律を武器みたいに振り回していました」


「うん」


「でも、法律って、相手を怖がらせるためだけのものじゃないんですね」


 所長は、赤鉛筆を置きました。


「正確でなければ、守れるものも守れん」


 私は頷きました。


 そして。


 原案を最初から書き直しました。


 二時間後。


 机の上には、新しい書面がありました。


 差出人。


 佐伯佳代子。


 宛先。


 黒田商事。


 私は、一行ずつ読み上げました。


「第一。通知人は、貴社又は貴社の関係者から、賃貸住宅の入居審査に必要であるとして、住民登録管理番号その他の個人情報の提出を求められた」


「うん」


「第二。通知人は、当該番号の法的根拠、利用目的、提供先について、具体的な説明を受けていない」


「うん」


「第三。当該番号は、住宅入居審査のために市町村が発行する公的番号ではない旨を確認した」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。貴社又は貴社関係者が、通知人の過去の居住歴、家賃支払状況、家族情報及び転職先に関する情報を保有し、第三者への提供を予定していると説明した事実がある」


「うん」


「第五。通知人は、これらの情報の取得経緯、内容、利用目的及び提供先について、書面による説明を求める」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。通知人は、貴社の情報管理サービスへの登録及び第三者提供について、少なくとも本書面で特定した範囲において同意していない旨を明らかにし、情報の提供及び利用を停止するよう求める」


「よし」


「第七。通知人及びその子の転居、就業、就学等について、不利益を与える旨の発言があったことを踏まえ、今後同種の言動を行わないよう求める」


 片桐所長が頷きました。


「最後は」


「はい」


 私は読み上げました。


「本件については、関係資料を保存のうえ、必要に応じて警察その他の関係機関及び弁護士への相談を行う予定である」


 読み終えると。


 所長は、しばらく書面を見つめました。


「……よし」


 私は顔を上げました。


「本当ですか!」


「ああ」


「やった!」


 思わず拳を握りました。


 でも。


 相馬先輩が、すぐに言いました。


「まだだ」


「え?」


「それを送ったからって、相手が必ず言うことを聞くわけじゃねえ」


「はい」


「それに、俺たちは弁護士じゃねえ。法律紛争の代理交渉を引き受けるわけにもいかねえ」


「分かっています」


「本人の意思に基づく通知書の作成と、事実関係の整理。それから、必要な専門家への引継ぎだ」


 私は頷きました。


 行政書士の仕事。


 何でも解決できるわけではありません。


 でも。


 何もできないわけでもない。


 事実を整理する。


 資料を残す。


 本人の意思を明確にする。


 嘘を、書面で指摘する。


 それが、今の私たちの武器です。


 通知書の発送にあわせて。


 佳代子さんは、これまでの発言をまとめた相談記録と、黒田商事から渡された書類を持って、警察に相談しました。


 事務所では、必要に応じて弁護士に相談できるよう、資料の一覧も整えました。


 そして。


 もう一つ。


 相馬先輩が、意外なところに目をつけていました。


「こはる」


「はい」


「黒田商事の営業案内、もう一度見ろ」


「はい」


 先輩は一行を指差しました。


 ――公的住民登録情報に基づく信頼性の高い信用評価。


「……あれ?」


「気づいたか」


「住民基本台帳に、信用評価なんて書いてありませんよね」


「そうだ」


「家賃の滞納も、勤務先での評価も、記載事項じゃありません」


「そのとおり」


 私は顔を上げました。


「ということは」


「ああ」


「公的情報に基づいて信用評価しているという説明、少なくとも誤解を招きます」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと見えたな」


 そして。


 先輩は、もう一つの書類を置きました。


 黒田商事が、加盟する不動産会社へ送っていた営業文書。


 そこには、


 ――本サービスへの登録を拒否した申込者は、加盟各社において入居審査の対象外とすることを推奨する。


 と書かれていました。


 私は息を呑みました。


「……これ」


「ああ」


「番号を出さない人を、業者同士で締め出そうとしているんですね」


「そういう方針を勧めている」


 単に、情報を集めるだけではない。


 情報を渡さない人。


 登録を拒否する人。


 そんな人を、取引から排除しようとする。


 これでは。


 同意という名前の強制です。


「でも先輩」


「何だ」


「賃貸借契約を結ぶかどうかは、貸主側にも判断する自由がありますよね」


「ある」


「だから、登録を拒否されたからって、必ず家を貸さなければならないわけじゃない」


「そうだ」


「それでも、存在しない公的番号を持ち出したり、就職先や学校への連絡をちらつかせたりするのは別です」


「そこだ」


 先輩が頷きました。


「契約しない自由と、嘘や脅しで従わせることを混同するな」


 私はノートに書きました。


 ――契約の自由は、人を脅す自由ではない。


 よし。


 この一行。


 忘れません。


 数日後。


 黒田商事から、佳代子さん宛てに書面が届きました。


 私は、事務所でその写しを読みました。


 ――弊社が使用する住民登録管理番号は、弊社独自の管理番号であり、公的機関が発行する番号ではありません。


 まず一つ。


 認めました。


 ――貴殿に対する説明において、公的制度との関係につき誤解を与える表現があったことを確認しました。


 私は目を見開きました。


「先輩!」


「ああ」


「認めています!」


「続き読め」


 私は読み進めました。


 ――また、弊社担当者による就業先及び就学先への連絡に関する発言について、適切でない言動があったことを確認しました。


 そして。


 ――貴殿及びご家族に係る情報については、加盟先への新たな提供を停止し、保有情報の内容及び取得経緯を調査いたします。


 私は、思わず息を吐きました。


「……やりましたね」


 でも。


 片桐所長は、首を横に振りました。


「まだだ」


「え?」


「調査すると言っているだけだ」


 あ。


 そうでした。


 情報を止めると書いてある。


 でも。


 既に渡された名簿は?


 別の会社がコピーしていたら?


 情報が間違っていたら?


 そのまま残るのでは?


「所長……」


「完全に消えたと考えるな」


 私は頷きました。


 これが、データベースの恐ろしさです。


 一度広がった情報は、簡単には回収できない。


 だからこそ。


 最初から、集め方と使い方を制限する必要がある。


 未来の法律が、住民票コードの民間利用を厳しく制限している理由。


 私は、ようやく胸の底から理解できた気がしました。


 それから一週間ほど経ったある日。


 佳代子さんが、事務所にやってきました。


 美咲ちゃんも一緒です。


「先生方……」


 佳代子さんが深く頭を下げました。


「ありがとうございました」


「何か進展がありましたか?」


 私が尋ねると、佳代子さんは一枚の紙を見せてくれました。


 賃貸借契約書。


「……これは!」


「別の不動産屋さんで、家を借りられることになったんです」


 私は思わず立ち上がりました。


「本当ですか!」


「はい」


 佳代子さんは、少し笑いました。


「今度の不動産屋さんは、勤務先や収入の資料をちゃんと見てくれました」


「はい」


「家賃が一度遅れたことも、正直に話しました」


「それで?」


「事情を聞いたうえで、今は安定して働いていることも確認してくれて……」


 佳代子さんの声が、少し震えました。


「大家さんも、入居を認めてくださったんです」


 私は胸が熱くなりました。


 過去に家賃が遅れたことがある。


 それ自体は、事実かもしれません。


 でも。


 その一つの事実だけで、人間の全てが決まるわけではありません。


 今、どう暮らしているのか。


 今、どう働いているのか。


 これから、どう生活していくのか。


 そこまで見て判断する人もいるのです。


「お姉ちゃん!」


 美咲ちゃんが、私の袖を引っ張りました。


「何?」


「新しいお家、決まったの!」


「よかったね!」


「うん!」


 美咲ちゃんは、嬉しそうに笑いました。


「今度のお家ね、窓から公園が見えるんだよ」


「へえ!」


「それでね」


「うん」


「お母さんと一緒に、朝ご飯を食べるの」


 私は少し首をかしげました。


「今も一緒じゃないの?」


 美咲ちゃんは、小さく頷きました。


「今は、お母さんが朝早く工場に行っちゃうから」


「あ……」


「でも、新しいお家は工場に近いんだって」


 そうか。


 引っ越しには、理由がある。


 単なる住所の変更ではありません。


 朝、少し長く眠れるように。


 親子で食卓を囲めるように。


 学校に通いやすいように。


 生活を、少しでも良くするために。


 人は、引っ越すのです。


 その自由を。


 誰かが作った名簿だけで、簡単に奪っていいはずがありません。


「美咲ちゃん」


「何?」


「新しいお家、楽しみ?」


「うん!」


 女の子は、満面の笑みで答えました。


「私ね、今度は友達を呼びたい!」


 私は笑いました。


「いっぱい呼べるといいね」


「うん!」


 その笑顔を見て。


 私は思いました。


 D。


 要注意人物。


 そんな評価記号では、この笑顔は表せない。


 人間は、帳簿の一行ではないのです。


 二人が帰ったあと。


 私は窓の外を眺めていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今回の事件、住民票コードがなかったのに、住民票コードの怖さが分かった気がします」


「変な話だな」


「そうですか?」


「ああ」


 先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「存在しねえ番号の話だからな」


「でも!」


 私は振り返りました。


「未来では、住民票コードが存在するんです」


「うん」


「全員に十一桁の番号がつく」


「うん」


「でも、その番号を民間業者が契約の条件として要求することは、禁止される」


「そうなのか」


「はい!」


 私は続けました。


「それに、住民票コードを含む情報を、他人に提供する目的で業として検索できるデータベースにすることも禁止されます」


「なるほどな」


「そして、その規制には、ちゃんと理由があるんです」


 相馬先輩が、こちらを見ました。


「言ってみろ」


 私は少し考えました。


 住民票コード。


 住基ネット。


 本人確認情報。


 市町村長。


 都道府県知事。


 地方公共団体情報システム機構。


 未来の試験では、覚えることが山ほどあります。


 でも。


 その真ん中にある考え方は。


「人間を、番号だけで支配させないためです」


 私は答えました。


 相馬先輩は、しばらく黙っていました。


 そして。


「まあな」


 短く言いました。


「番号は便利だ」


「はい」


「だが、便利だからって、誰でも好き勝手に使っていいわけじゃねえ」


「そうです」


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は答えました。


「住民票コードは、行政事務に使うための番号であって、民間業者が人を追いかけるための番号じゃありません」


「うん」


「だから、未来では告知要求やデータベース化が制限される」


「そうだな」


「でも、昭和六十三年には、まだその制度がない」


 所長が頷きました。


「では、今できることは」


「今の法律で、相手の行為を具体的に確かめることです」


「うん」


「虚偽の説明がないか。脅迫や強要の問題がないか。名誉やプライバシーを侵害していないか」


 私は一度、息を吸いました。


「そして、本人が何に同意して、何に同意していないのかを書面で明らかにすることです」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は、少し嬉しくなりました。


 未来の法律。


 今の法律。


 条文は違います。


 制度も違います。


 でも。


 守ろうとしているものは、つながっている。


 人間の尊厳。


 私生活の自由。


 自分の情報を、勝手に他人の商売道具にされない利益。


 そこに、法律の進歩があるのだと思いました。


「ところで」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、さっきから十一桁、十一桁って言ってるけどな」


「はい!」


「その未来の番号って、引っ越したら変わるのか?」


 私はにやりとしました。


「変わりません!」


「ほう」


「基本的には、住所が変わっても、名前が変わっても、同じ番号が使われます」


「ずいぶん長く付き合う番号だな」


「そうなんです!」


 私はノートを開きました。


「ただし、本人は市町村長に変更を請求できます」


「理由は必要なのか」


「理由を問わず、変更を請求できます!」


「じゃあ、好きな番号に変えられるのか」


「それはできません!」


「ほう」


「好きな数字を指定できるわけじゃありませんし、以前の番号に戻すこともできません」


 相馬先輩は、少し考えました。


「なら、未来の法律は、ずいぶん慎重に番号を扱うんだな」


「はい!」


「一度決めた番号を基本的に使い続ける。でも、変更の道もある」


「そうです!」


 私は笑いました。


 その番号があれば、行政事務が便利になる。


 でも。


 その番号が悪用されれば、人の情報を結びつける手掛かりになってしまう。


 だから。


 利用を制限する。


 変更も認める。


 管理する側にも、厳しいルールを設ける。


 便利さと危険。


 両方を考えた制度なのです。


「……なるほどな」


 相馬先輩が言いました。


「未来も、楽じゃねえな」


「どういう意味ですか?」


「便利な仕組みができたら、それを悪用する奴も出てくるってことだ」


 私は、はっとしました。


 確かに。


 昭和の名簿屋。


 未来のデータベース。


 使う道具は変わっても。


 人の情報を支配したがる人間は、いなくならないのかもしれません。


「だから、法律も変わるんですね」


 私が言うと、所長が頷きました。


「そうだ」


「悪用される可能性を考えて、先回りして守る」


「うん」


 私は、机の上の申込書を見ました。


 あの不動産会社が求めた、住民登録管理番号。


 公的な番号ではありませんでした。


 ただの独自管理番号。


 でも。


 その番号の向こうには。


 一人の母親と。


 九歳の女の子の生活があった。


 番号を使う側には、見えなかったのかもしれません。


 D。


 要注意。


 その二文字で、全てが片づくと思っていたのかもしれません。


 でも。


 そんな簡単に、人間を分類できるはずがありません。


 夕暮れ。


 事務所の窓から、商店街の明かりが見え始めました。


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 大きく、一行。


 ――番号は人を識別するための道具であって、人の価値を決めるものではない。


 よし。


 これなら忘れません。


「所長!」


「何だ」


「今日の一行、できました!」


「そうか」


「見てください!」


 所長は、私のノートを見ました。


 そして、小さく頷きました。


「いいだろう」


 私は嬉しくなりました。


 すると。


「こはる」


 相馬先輩が呼びました。


「はい!」


「じゃあ、俺から一問」


「望むところです!」


「住民票コードは何桁だ?」


「十一桁です!」


「個人番号は?」


「十二桁です!」


「同じ番号か?」


「違います!」


「住民票コードを指定するのは?」


 私は答えかけました。


「地方公共団体情報システム――」


 ……。


 あっ。


 私は固まりました。


 昭和六十三年。


 地方公共団体情報システム機構なんて、まだ存在しません。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「ほらな」


「……先輩」


「何だ」


「また、引っかけましたね!」


「お前が勝手に未来へ飛んだんだろ」


「ひどい!」


 私は頬を膨らませました。


 でも。


 今回は、少しだけ嬉しかったのです。


 法律を覚えるということは。


 単に条文番号を覚えることではありません。


 その法律が、なぜ必要なのか。


 誰を守るために作られたのか。


 何を禁止しているのか。


 そして。


 どんな手順で違反を取り締まるのか。


 そこまで理解して、初めて。


 現場で使える知識になるのです。


 そのとき。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 男性の声。


『自分の住民票に書いてある情報が、間違っているみたいで……』


 私は姿勢を正しました。


「どのような情報でしょうか?」


『住所の記録なんですが……。昔の住所が、どうも違うらしいんです』


「なるほど……」


『市役所に聞いたら、確認が必要だと言われまして』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見ました。


 住民票。


 住所。


 記録の正確性。


 そうです。


 住民基本台帳法には、もう一つ大切な役割があります。


 情報を守ること。


 そして。


 情報を正確に保つこと。


 未来の制度では、本人確認情報について、自分の情報の開示を請求する仕組みもあります。


 開示された情報に誤りがあれば、訂正、追加、削除を申し出る制度もある。


 ただし、それもまた。


 昭和六十三年に、そのまま存在する制度ではありません。


「先輩」


「何だ」


「今度は、情報を集められた人じゃありません」


「そうだな」


「情報そのものが、間違っている人です」


「ああ」


 私は受話器を握り直しました。


「まず、現在の住民票の記載内容と、以前の住所が分かる資料を確認させてください」


『はい』


「そのうえで、市役所にどのような確認や申出ができるか、整理しましょう」


『お願いします』


 電話を切りました。


 私は、ゆっくりとノートを閉じました。


 昭和六十三年。


 住民基本台帳法の世界は、想像以上に奥が深い。


 名前を登録する。


 住所を記録する。


 必要な手続に使う。


 それだけなら、便利な制度です。


 でも。


 そこに悪意が入り込めば。


 人を監視する道具にもなる。


 人を選別する道具にもなる。


 間違った情報で、人の人生を狂わせる道具にもなる。


 だからこそ。


 情報を正確に管理すること。


 必要以上に利用させないこと。


 本人が自分の情報を確かめられること。


 そうした仕組みが、少しずつ整えられていくのでしょう。


 私は窓の外を見ました。


 どこかの家で、夕食の支度が始まっています。


 どこかの子供が、学校から帰っています。


 そして。


 佐伯佳代子さんと美咲ちゃんも。


 もうすぐ、新しい家で暮らし始めるはずです。


 黒い名簿に書かれた、Dという評価ではなく。


 一人の母親と、一人の娘として。


 自分たちの生活を、もう一度始めるのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「住民基本台帳法って、ただの住所の法律じゃないんですね!」


「今さらかよ!」


「人間を守る法律なんですね!」


 先輩は呆れたように笑いました。


「まあ、そういうことだ」


 私は、もう一度ノートを開きました。


 最後の一行を、赤鉛筆で囲みます。


 ――番号は人を識別するための道具であって、人の価値を決めるものではない。


 十一桁。


 たった十一個の数字。


 でも。


 その数字の向こうには、必ず人間がいる。


 名前があって。


 家族があって。


 過去があって。


 未来がある。


 だから。


 番号を知っただけで、その人の全てを知ったつもりになってはいけない。


 名簿を持っているだけで、その人の人生を支配できると思ってもいけない。


 昭和六十三年には、まだ存在しない住民票コード。


 その未来の番号を守るために、やがて法律が厳しい制限を設ける理由を。


 私は、一人の母親と九歳の女の子から教わったのでした。


「こはる!」


「はい!」


「ノートはもういいから、次の相談票を取れ!」


「はいっ!」


 私は鉛筆を握りました。


 法律の勉強は、まだまだ続きます。


 ただし。


 次からは、番号を見る前に。


 その向こうにいる人間を、見ることにします。


 だって。


 人間の人生は。


 十一桁の数字にも。


 アルファベット一文字にも。


 収まりきるほど、小さなものではないのです。

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