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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈基礎知識 配点56点/300点〉 基礎知識

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698/701

[住民基本台帳法・転出と第三者請求]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 人が引っ越したからといって、その人の過去まで消えるわけではありません。


 家を出ても。


 表札を外しても。


 電話を解約しても。


 その人が、いつ、どこに住民登録をしていたのか。


 役所には、その記録が残っていることがあります。


 そして。


 その記録が、ときには誰かの権利を守るための証拠になる。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・住民基本台帳法編。


 と書いてあります。


「……住基法って、意外と怖い法律ですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「住民基本台帳法です」


「それは分かる」


「住所を記録するだけの法律だと思っていたんです」


「ほう」


「でも、黒田さんの事件では、住所の記録から嘘が見えてきました」


 黒田栄一。


 建築業者。


 山下さん夫妻から、店舗改装工事の代金二百八十万円を受け取りながら、工事を中断して姿を消した男。


 しかも。


 代金を受け取るより前に、転出届を出していた。


 転出先として届け出た住所は、半年間空き店舗。


 それなのに、転入届まで提出されていた。


 そして。


 実際には、元の町の資材置場で生活している可能性があった。


「黒田さん、住所を変えれば逃げられると思っていたんでしょうね」


 私が言うと、相馬先輩が鼻で笑いました。


「甘い考えだな」


「ですよね」


「だが、もっと大事なことがある」


「何ですか?」


「住民票に嘘があったからって、役所が何もかも見抜けるわけじゃねえ」


「あ……」


 そうでした。


 住民票。


 それは、公的な記録。


 でも、現実と必ず一致するとは限らない。


 だからこそ。


 住民基本台帳法には、記録を正確に保つための仕組みが用意されています。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、住基法を完全に整理します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は現場編です!」


「現場編?」


「あ、いえ、その……」


 危ない。


 また余計なことを口走りました。


 私は慌てて言い直しました。


「昨日は事件の調査! 今日は法律の整理です!」


「最初からそう言え」


 そこへ。


 奥の机から、片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……またですか」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


 ◇


「まず、住民基本台帳法の目的です!」


 私はノートに書きました。


 ――住民基本台帳法第一条。


 住民の居住関係を公的に証明すること。


 住民に関する行政事務の基礎を整えること。


 住所に関する届出などを簡素化すること。


 住民の記録を正確に管理すること。


「つまり、住民票はただの住所録ではないんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「選挙人名簿の登録や、住民に関係する行政事務にも使われます」


「そうだ」


「だから、住所が間違っていると困る」


 私は、黒田の事件を思い出しました。


 黒田は、実際には住んでいない疑いのある場所を、新住所として届け出ていました。


 もし。


 そんな届出を何の確認もなく放置すれば。


 行政は、本人がその住所に住んでいるものとして事務を進めてしまう可能性があります。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「住民票の正確性って、本人だけの問題ではないんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が言いました。


「役所の事務にも、ほかの人間の権利にも関係する」


 私は書きました。


 住民基本台帳法第二条。


 国及び都道府県は、住民の住所などの変更に関する届出が、できる限り一つの行為で済み、行政事務が住民基本台帳に基づいて行われるよう、必要な措置を講ずる。


「これは、届出をできるだけ合理化するための考え方ですね」


「そうだな」


「でも、ここで重要なのが第三条です」


 私はページをめくりました。


 住民基本台帳法第三条。


 市町村長は、住民基本台帳を整備し、正確な記録を行うよう努める。


 そして住民も、住所などの変更について正確な届出をするよう努めなければならない。


「黒田さんの事件は、まさにここですね」


「ああ」


「虚偽の届出をしてはいけない」


「そうだ」


 私は、大きく丸をつけました。


 すると。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「住民基本台帳を作るのは誰だ」


「市町村長です!」


「都道府県知事か」


「違います!」


「国の大臣か」


「違います!」


「よし」


 私は得意になりました。


「住民基本台帳法第六条です!」


 住民票は、個人を単位として作成され、世帯ごとに編成されます。


 そして、その住民票をまとめたものが住民基本台帳です。


 ここは、意外と重要です。


「所長!」


「何だ」


「住民票は個人が基本。でも、住民基本台帳は世帯ごとに編成されるんですね」


「そうだ」


「だから、世帯主や世帯員の関係も記録される」


「うん」


 私は、昨日の電話相談を思い出しました。


 同じ家に住んでいる息子夫婦が、世帯を分けたいという話。


 住所が同じでも、世帯が同じとは限らない。


 ここも、住基法の面白いところです。


「でも、それは次の事件でじっくり勉強します!」


「誰が次の事件を決めたんだ」


「私です!」


「勝手に決めるな!」


 相馬先輩が呆れました。


 私は笑いながら、ノートをめくりました。


 ◇


「さて!」


 私は、ページの真ん中に大きく書きました。


 ――転出・転入・転居。


「今回の最大の論点です!」


 相馬先輩が、新聞を畳みました。


「じゃあ黒田の事件で説明してみろ」


「はい!」


 私は、黒田の行動を順番に書きました。


 六月三日。


 旧住所地の市役所に転出届を提出。


 六月二十日。


 転出予定日。


 六月二十一日。


 桜川市に転入届を提出。


「ここで重要なのが、転出届です」


 私は言いました。


「住民基本台帳法第二十四条」


 転出をする者は、あらかじめ、その氏名、転出先及び転出予定年月日を市町村長に届け出なければならない。


「つまり、転出届は事前なんです!」


「そうだ」


「引っ越してから十四日以内、ではありません!」


 私は、赤鉛筆で線を引きました。


 転出届。


 事前。


「ここ、試験で絶対に引っかけられそうですよね」


「何にだ」


「選択肢です!」


 私は、少し声を低くしました。


「転出をした者は、転出した日から十四日以内に転出届をしなければならない」


 相馬先輩が即答しました。


「違うな」


「正解!」


「何でお前が試験官なんだ」


「気にしないでください!」


 私は続けました。


「では、転入届です」


 住民基本台帳法第二十二条。


 他の市町村から新たに住所を定めた人は、転入した日から十四日以内に、転入届を出す。


「重要なのは、実際に転入した日から数えることです」


「そうだ」


 ここで、私は黒田の事件を思い出しました。


 六月二十一日。


 黒田は桜川市に転入届を出していました。


 しかし、その届出先は、誰も住んでいない疑いのある空き店舗だったのです。


「先輩」


「何だ」


「転入届を出したからといって、本当にそこに住んでいるとは限らないんですよね」


「そうだ」


「届出が事実と違うこともある」


「ああ」


「だから、住民票は現実の居住関係と照らし合わせる必要がある」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 転入届は、実際に新しい市町村へ住所を定めた後に出す。


 届出期限は十四日以内。


 ただし、届出の日と、実際に住所を定めた日は、同じとは限らない。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「転入届の提出日を見ただけで、その日が引っ越し当日だったと決めつけてはいけないんですね」


「そうだ」


「黒田の事件では、そこも確認する必要があった」


 私は頷きました。


 そして。


「次は転居届です!」


 住民基本台帳法第二十三条。


 同じ市町村の中で住所を変えた場合は、転居届。


 期限は、転居した日から十四日以内。


「つまり!」


 私は言いました。


「市町村をまたぐかどうかで、届出の種類が変わるんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


 私は例を書きました。


 同じ市内で、駅前から山手町へ引っ越す。


 転居届。


 市を越えて、隣の桜川市へ引っ越す。


 旧住所地で転出届。


 新住所地で転入届。


「先輩!」


「何だ」


「家と家の距離では決まらないんです!」


「当たり前だろ」


「でも大事なんです!」


 例えば。


 隣の家に引っ越した。


 ところが、その隣の家は、市境を越えた別の市だった。


 この場合。


 距離は数メートルでも。


 住民基本台帳法上は、別の市町村への転出と転入が問題になります。


「逆に、同じ市内で十キロ離れた場所へ引っ越しても?」


「転居だ」


「正解!」


「だから俺が答える必要あるのか?」


「復習です!」


 私は笑いました。


 そして、ノートの中央に大きく書きました。


 ――転出は事前。転入・転居は、実際に住所を移してから十四日以内。


 よし。


 これで、三つの違いは忘れません。


 ◇


「でも先輩」


 私は顔を上げました。


「黒田さんの事件には、もうひとつ重要な問題がありました」


「何だ」


「十四日間のタイムラグです」


「ああ」


 転入届は、実際に転入した日から十四日以内。


 つまり。


 新しい市町村へ引っ越したその日に、必ず転入届を出すとは限りません。


「例えば六月二十日に引っ越した場合、六月二十一日に転入届を出してもいいし、法定期間内の別の日でもいいんですよね」


「そうだ」


「ですから、六月二十一日に転入記録が見つからなかったとしても、その人がまだ引っ越していないとは断定できない」


「そのとおりだ」


 私は、思わず頷きました。


 これです。


 今回の事件で感じた、住基法の難しさ。


 役所の記録と。


 現実の生活。


 この二つは、届出のタイミングによってずれることがある。


 さらに。


 届出を忘れている場合もあります。


 虚偽の届出をしている場合もあります。


 だから。


「先輩」


「何だ」


「住民票に書かれた住所は、公的な記録として重要だけど、本人が今まさにそこにいることまで保証するものではないんですね」


「そういうことだ」


 片桐所長が、静かに口を開きました。


「こはる」


「はい」


「もうひとつ覚えておけ」


「何でしょう」


「住所は、届出をしただけで自由に作れるものではない」


 私は、所長を見ました。


「……生活の本拠ですね」


「そうだ」


 住所。


 それは、単に本人が住所だと言い張る場所ではありません。


 生活の本拠がどこにあるか。


 実際の生活状況によって判断されます。


 もちろん。


 住民登録は、その居住関係を示す重要な公的記録です。


 でも。


 実際に住んでいない場所へ転入届を出したからといって、そこが当然に生活の本拠になるわけではない。


「だから、黒田さんの場合は……」


 私は言いました。


「桜川市の空き店舗を住所として届け出ていたけれど、実際に生活していたのかどうかが問題になった」


「そうだ」


「それで、現地の状況を確認したんですね」


 所長が頷きました。


「記録は、現実を確かめるための手がかりだ」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


 なるほど。


 住民基本台帳法は、住所を紙の上だけで作り出す法律ではありません。


 実際の居住関係を、公的な記録に正しく反映させるための法律なのです。


 ◇


「さて、次です!」


 私は、新しいページを開きました。


 ――住民票と除票。


「今回の事件で、私が一番驚いたところです」


 相馬先輩が言いました。


「黒田の昔の住所が残っていたことか」


「はい!」


 山手町二丁目。


 黒田が以前、住民登録していた住所。


 転出に伴って、通常の住民票からは除かれていました。


 でも。


 その過去の記録を、確認することができた。


「これが除票ですね」


「ああ」


 私は書きました。


 除票。


 転出や死亡などによって、住民票から除かれた記録。


「つまり、現在の住民票とは違って、過去に住民登録していた事実を確認するために使われるんですね」


「そうだ」


「では、所長!」


「何だ」


「住民票から除かれたら、その人が死亡したという意味ですか?」


「違う」


「ですよね!」


 私は頷きました。


 ここも重要です。


 除票。


 名前だけ聞くと、何か特別な理由で消されたような印象を受けます。


 でも。


 普通に別の市町村へ引っ越した場合にも、旧住所地では住民票が除かれます。


 死亡した場合にも、除票が関係します。


「だから、除票があることだけで死亡したとか、夜逃げしたとか、決めつけてはいけないんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


 私は、黒田の記録を思い出しました。


 転出先。


 桜川市。


 転出予定年月日。


 六月二十日。


 それらの情報が、足取りを追うための手がかりになりました。


「でも先輩」


「何だ」


「除票って、過去の住所だけが書かれた紙じゃないんですね」


「ああ」


「なぜ住民票から除かれたのか。その事情も重要です」


 例えば。


 転出によって除かれたのか。


 死亡によって除かれたのか。


 職権による消除なのか。


 それぞれ、意味が違います。


「そして、もうひとつ」


 私はノートに書きました。


 ――職権による記載・修正・消除。


 住民基本台帳法第八条。


 住民票の記載、消除又は記載の修正は、届出に基づいて行うだけではなく、市町村長が職権で行うこともある。


「黒田さんの事件では、ここも問題になりました」


 相馬先輩が頷きます。


「ああ」


「桜川市に転入届を出していたけれど、本当にそこに住んでいたか疑われた」


「そうだ」


「そこで、役所が居住実態を確認することになった」


「うん」


「調査の結果、記録が実際の居住関係と違うと分かれば、必要な修正や消除をすることがある」


 所長が頷きました。


「ただし、届出が疑わしいというだけで直ちに消除するわけではない」


「はい」


 そこが大切です。


 誰かが、


「あの人は住んでいないと思う」


 と言っただけで、住民票を消せるわけではありません。


 必要な事実調査。


 適切な判断。


 そして、法律に従った処理。


 そうした手続が求められます。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「住民票って、本人の届出だけに任せているわけじゃないんですね」


「そうだ」


「市町村長にも、正確な記録を保つ役割がある」


 私は、第三条と第八条を線で結びました。


 市町村長の責務。


 住民票の職権による記載・修正・消除。


 つながりました。


 条文を一つずつ暗記していると、別々の話に見えます。


 でも。


 事件を通じて見ると、同じ目的のための仕組みだと分かるのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、昨日の市役所で何に驚いてた」


「何ですか?」


「他人の住所を閲覧できるって話だ」


「ああっ!」


 私は、思わず頭を抱えました。


「それです!」


 昭和六十三年。


 住民基本台帳は、原則として閲覧請求ができました。


 私は、その制度に衝撃を受けたのです。


「だって先輩!」


「何だ」


「他人の住所ですよ!」


「そうだな」


「そんな情報を、名簿業者まで集めていたんですよね!」


「ああ」


「令和なら、ダイレクトメールを送るために自由閲覧なんてできません!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「……令和?」


「あっ」


 しまった。


 また未来の話です。


「い、いえ!」


「令和って何だ」


「ええと……未来の年号を想像しただけです!」


「また変なことを考えてるな」


 私は慌てて話題を戻しました。


「とにかく、この時代の住民基本台帳法第十一条です!」


 昭和六十三年。


 住民基本台帳の閲覧は、何人でも請求できるという形でした。


 ただし。


 完全に無制限ではありません。


 請求事由を明らかにする仕組みがあり、不当な目的による請求や、不当な利用のおそれがある場合などには、市町村長が拒むこともできました。


「つまり、誰でも好き勝手に使ってよかったわけではないんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


 でも。


 現代の制度と比べれば、非常に広く閲覧が認められていたのは確かです。


「ここで昭和と令和の違いが出てくるんです」


 私は、小声で呟きました。


 現代。


 平成十八年の制度改正によって、住民基本台帳の閲覧制度は大きく変わります。


 営利目的の名簿収集などのために、自由に閲覧することは認められなくなりました。


 認められるのは、公益性の高い調査研究や、公共的団体による公益性の高い活動、特別な事情のある居住関係の確認など、法律の定める範囲です。


「先輩」


「何だ」


「住民の住所って、社会に必要な情報でもあるけれど、個人の生活に深く関わる情報でもありますよね」


「そうだな」


「だから、どこまで公開するかは難しい問題なんです」


 私は、少し考えました。


 住所が分かれば。


 連絡を取ることができる。


 権利を行使できる。


 行政手続を進めることもできる。


 でも。


 悪意のある相手に住所が知られれば。


 嫌がらせ。


 つきまとい。


 その他の被害につながる危険もある。


「だから、現代では閲覧が厳しく制限されるようになったんですね」


 私は小さく頷きました。


 すると。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「情報を公開することと、権利を守ることは、どちらが大事だ」


 私は、すぐに答えられませんでした。


「……どちらも、大事です」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「だから、目的によって必要な範囲を考える必要があります」


「うん」


 私は、黒田の事件を思い出しました。


 山下さん夫妻。


 二百八十万円を支払った。


 工事を放棄され、相手の居場所が分からなくなった。


 あの場合。


 住所を確認することには、正当な必要性があります。


 けれど。


 単に誰かの私生活を覗きたいという理由で、同じように情報を求めてよいわけではありません。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「だから、閲覧と証明書の請求も分けて考える必要があるんですね」


 所長が、静かに言いました。


「そのとおりだ」


 ◇


「ここで、今回のもうひとつの核心です!」


 私は、大きく書きました。


 ――第三者による住民票の写しの請求。


「黒田さんは、山下さんと同じ世帯ではありません」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「それに、山下さんは黒田さん本人でもありません」


「そうだ」


「それでも、相手の住所を確認する必要がありました」


 私は、契約書を思い出しました。


 工事請負契約。


 二百八十万円。


 履行されなかった工事。


 山下さん夫妻には、契約に基づく権利があります。


 その権利を行使するためには、相手方の住所を確認しなければならない場合があります。


「ここが、単なる興味本位の住所調べとは違うんです」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


「必要な理由がある」


「はい」


 私は言いました。


「ただし、昭和六十三年と現代では、請求制度が違います」


 昭和六十三年。


 当時の住民基本台帳法第十二条は、何人でも住民票の写し等を請求できる仕組みでした。


 ただし、不当な目的であることが明らかな場合などには、請求を拒むことができました。


「つまり、現代の第三者請求と同じ仕組みではないんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 昭和の制度は、請求できる人の範囲が広かった。


 だからこそ、他人の住所を取得することについて、現代とは異なる問題がありました。


 そして。


 時代が進むと、制度が見直されます。


 平成十九年の法改正。


 翌平成二十年に施行された住民票の写し等の交付制度の見直し。


 そこでは、本人等の請求と、本人等以外の第三者による請求が、より明確に区別されるようになります。


「現代では、住民基本台帳法第十二条の三ですね」


 私は小声で言いました。


 当然。


 昭和六十三年の相馬先輩には聞こえないように。


 この時代には、まだその規定はありません。


「……こはる」


「はいっ!」


「今、何か言ったか?」


「何でもありません!」


「怪しいな」


「復習です!」


 危ない。


 未来の条文を、また口にするところでした。


 私は咳払いしました。


「では、現代の制度を想像して整理すると……」


 私は、ノートの端に書きました。


 本人または同一世帯の人による請求。


 それ以外の第三者による請求。


 この二つは、区別されます。


 そして、第三者が住民票の写し等の交付を受ける場合には、正当な理由が必要です。


 例えば。


 自己の権利を行使するために、住所を確認する必要がある。


 自己の義務を履行するために、住所を確認する必要がある。


 国や地方公共団体の機関に提出する必要がある。


 その他、住民票の記載事項を利用する正当な理由がある。


「黒田さんの事件なら、どれに当たりますか?」


 私は自分で問いかけました。


 相馬先輩が、少し不思議そうな顔をします。


「何の話だ?」


「あ、いえ! 仮に請求理由を厳しく確認する制度だったら、という問題です!」


「ほう」


 私は答えました。


「山下さんには、契約上の権利を行使するため、相手方の住所を確認する必要があります」


「そうだな」


「そして、契約書や領収書など、請求理由を裏付ける資料があります」


 私は頷きました。


 これが、第三者請求の大切な考え方です。


 単に、


「あの人の住所を知りたい」


 では足りません。


 なぜ必要なのか。


 どのような権利や義務があるのか。


 そのために、住民票のどの情報が必要なのか。


 そうしたことを示す必要があります。


「ただし」


 私は赤線を引きました。


「正当な理由があると主張すれば、必ず交付されるわけではありません」


 請求の相当性は、市町村長が判断します。


 必要な資料の確認も行われます。


 個人情報を扱う以上、どんな目的でも自由に取得できるわけではありません。


「つまり、正当な権利行使のための請求と、単なる住所探しは違うんです」


 私は、大きく丸をつけました。


 ここは、今回の事件の重要な教訓でした。


 ◇


「ところで先輩」


「何だ」


「住民票の写しと、住民票記載事項証明書って、何が違うんですか?」


 相馬先輩が、机から一枚の書類を取りました。


「住民票の写しは、住民票に記載された事項を、定められた形式で証明するものだ」


「はい」


「記載事項証明書は、必要な記載事項について、住民票の記載と相違ないことを証明する」


「なるほど」


 私は書きました。


 住民票の写し。


 住民票の記載内容を証明するもの。


 住民票記載事項証明書。


 必要な事項が住民票に記載されていることを証明するもの。


「つまり、全部の情報を確認する必要がない場合には、必要な事項について証明を受けるという考え方もあるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 個人情報。


 必要な範囲。


 正当な目的。


 現代の住基法を考えるとき、この三つは非常に重要です。


「さらに、第三者請求では、基礎証明事項という言葉も出てきます」


 私は、現代の受験生時代の知識を思い出しました。


 氏名。


 生年月日。


 性別。


 住所。


 住民となった年月日。


 住所を定めた年月日。


 届出の年月日。


 従前の住所。


「こうした情報が、住所の記録を確認するための基本になります」


 私は、ノートに書きました。


 黒田の事件。


 黒田栄一という氏名。


 以前の住所。


 転出に関する日付。


 届け出られた転出先。


 それらを確認したことで、行動の時系列を整理できました。


「ただし!」


 私は鉛筆を立てました。


「証明書に何でも載せてもらえるわけではありません!」


 必要な情報。


 請求できる事項。


 省略される事項。


 それぞれ、法律上の制限があります。


 本人以外の第三者が、正当な理由もなく、本籍や世帯の詳しい情報などを自由に取得できるわけではありません。


「なるほど……」


 私は、少し考えました。


「住民票って、情報が多いからこそ、何を証明するために必要なのか考えないといけないんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「証明書は、集めれば集めるほどよいわけではない」


「うん」


「必要なものを、必要な理由で取得する」


 所長は短く言いました。


「それが基本だ」


 私は、大きく頷きました。


 ◇


「次は、市町村同士の連絡です!」


 私は、新しいページを開きました。


 ――住民基本台帳法第九条。


「黒田さんは、元の町から桜川市へ住所を移したと届け出ました」


「そうだな」


「この場合、転入先の市町村が住民票に記載したとき、前の市町村へ通知する仕組みがあります」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「つまり、転入先だけで記録が終わるわけではないんですね」


「そうだ」


 私は続けました。


 他の市町村から転入した者について住民票の記載をした市町村長は、従前の住所地の市町村長に、その旨を遅滞なく通知する。


「これ、地味ですけど重要ですよね」


「何がだ」


「転入先の記録と、転出元の記録がつながるんです!」


 私は、黒田の事件を思い出しました。


 元の市町村。


 桜川市。


 二つの役所。


 もし、どちらも勝手に別々の記録を作っていたら。


 その人が、いつ、どこへ住所を移したのか。


 正確に把握することが難しくなります。


「だから、市町村同士の通知があるんですね」


「そうだ」


 片桐所長が言いました。


「住民基本台帳は、市町村ごとに備えられる」


「はい」


「だが、人は市町村の境界を越えて移動する」


「そうですね」


「だから、記録をつなぐ仕組みが要る」


 私は、大きく頷きました。


 市町村長が作成する住民基本台帳。


 転出届。


 転入届。


 市町村間の通知。


 それらが組み合わさって、住所の異動を正確に記録しようとしているのです。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「住基法って、バラバラの条文を覚えるより、引っ越しの流れで覚えた方が分かりやすいですね」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと気づいたか」


「先輩!」


「何だ」


「試験勉強のときに教えてほしかったです!」


「知らねえよ!」


 ……ごもっともです。


 私は、昭和へ転生する前の受験生ですから。


 でも。


 今なら分かります。


 制度の流れを理解すれば、条文の意味がつながる。


 そして、その流れが分かれば。


 どこに記録が残るのかも、推理できるようになるのです。


 ◇


「さて、もう一つ整理しましょう」


 私は言いました。


「転出届と、実際の住所の関係です」


 相馬先輩が頷きました。


「黒田の事件の核心だな」


「はい!」


 黒田は、六月三日に転出届を提出しました。


 しかし、転出予定日は六月二十日。


 ここが重要です。


「転出届を六月三日に出したからといって、その日に引っ越したわけではありません」


「そうだ」


「だから、六月十二日に旧住所地で工事代金を受け取ったこと自体は、転出届と矛盾しないんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そのとおりだ」


 私は少し考えました。


 現場編では、六月三日の転出届が、黒田の怪しい行動を示す手がかりになりました。


 でも。


 それだけで悪意が証明されるわけではありません。


 普通の人でも、引っ越しの予定を立てて転出届を出すことはあります。


 引っ越しの前に、仕事の代金を受け取ることだってある。


「だから、問題はそれだけじゃなかったんですね」


「そうだ」


「六月二日の工事停止予定表」


「ああ」


「六月十二日の代金受領」


「うん」


「六月十五日以降の工事停止」


「そうだ」


「それらを合わせて考える必要があった」


 片桐所長が頷きました。


「一つの記録だけで、結論を急ぐな」


「はい」


 私は、鉛筆を握り直しました。


 住民票がある。


 転出届がある。


 転入届がある。


 それだけでは、相手が詐欺をしたことにはなりません。


 住民基本台帳法上の問題と。


 契約上の問題。


 刑事上の問題。


 それぞれ、判断するための要件が異なります。


「つまり、住基法は事件の全部を解決したわけではないんですね」


「そうだ」


「でも、真実を調べるための重要な手がかりになった」


 所長が、静かに言いました。


「それが証拠の役割だ」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 法律知識があるからといって、いきなり相手の悪意を断定してはいけない。


 事実を積み重ねる。


 そこから、必要な法律を選ぶ。


 今回の事件は、それを教えてくれたのです。


 ◇


 窓の外が、少しずつ赤く染まり始めました。


 私は、ここまでのノートを見直しました。


 住民基本台帳法第一条。


 目的。


 第二条。


 国及び都道府県の責務。


 第三条。


 市町村長や住民の責務。


 第六条。


 住民基本台帳の作成。


 第八条。


 記載・修正・消除。


 第九条。


 市町村間の通知。


 そして。


 第二十二条。


 転入届。


 第二十三条。


 転居届。


 第二十四条。


 転出届。


「……こうして見ると、結構つながっていますね」


 私が呟くと、相馬先輩が言いました。


「当たり前だろ」


「でも、受験生の頃は数字ばかり追っていたんです」


「ほう」


「二十二、二十三、二十四って」


「覚えやすそうじゃねえか」


「それが、意外と逆に覚えちゃうんですよ!」


 私は苦笑しました。


 転入。


 転居。


 転出。


 条文の順番と、引っ越しの実際の流れは同じではありません。


 別の市町村へ引っ越す場合には。


 先に転出届。


 あとから転入届。


「条文番号だけで覚えると混乱するんです!」


「なら、事件を思い出せ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「黒田が最初に出したのは?」


「転出届です!」


「いつ出す?」


「事前です!」


「次に、別の市町村へ住所を定めたら?」


「転入届です!」


「期限は?」


「実際に転入した日から十四日以内です!」


「同じ市内で引っ越したら?」


「転居届です!」


「期限は?」


「転居した日から十四日以内です!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は、拳を握りました。


 完璧。


 今回は、絶対に間違えません。


 すると。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい!」


「追加で問題を出す」


「望むところです!」


 所長は、ゆっくり言いました。


「黒田が六月二十日に転出する予定として届け出た。しかし、実際には六月二十五日に引っ越した。この場合、届出に書いた予定日だけで、六月二十日に住所が変わったと断定できるか」


「できません!」


「なぜだ」


「実際に住所を移した日を確認する必要があるからです!」


「よし」


 次。


「黒田が桜川市へ転入届を提出した。しかし、実際にはそこに住んでいなかった場合は?」


「住民記録と現実の居住関係が食い違っている可能性があります!」


「その場合、市町村長は?」


「必要な調査をして、職権で記録の修正や消除をすることがあります!」


 所長が頷きました。


「では、黒田が転出したあと、旧住所地で過去の住民登録を確認する記録は?」


「除票です!」


「よし」


 私は笑いました。


 ここまで、全問正解。


 でも。


 所長は、まだ終わりませんでした。


「最後だ」


「はい!」


「山下さんが、黒田の住所を知りたいと申し出た。どんな理由でも、必ず住民票の写しを交付してもらえるか」


「いいえ!」


 私は答えました。


「昭和六十三年の制度では請求できる者の範囲が広かったですが、不当な目的などによる請求は拒まれることがありました!」


 所長が頷きました。


「うん」


「そして現代では、本人等以外の第三者による請求には、権利行使などの正当な理由が必要になります!」


 ……。


 相馬先輩が、こちらを見ました。


「現代?」


 私は固まりました。


 しまった。


 調子に乗って、未来の制度を説明してしまいました。


「あ、ええと……」


「お前、また妙なことを言い出したな」


「未来の法律を予想したんです!」


「予想で条文を語るな!」


「はい!」


 私は、慌ててノートを閉じました。


 危ない。


 住基法まで、時代錯誤の地雷がいっぱいです。


 ◇


「でも、所長」


 私は、少し真面目な声で尋ねました。


「何だ」


「住民票の閲覧が広く認められている制度には、問題もありますよね」


「あるだろうな」


「他人の住所が知られやすいということですから」


 片桐所長は、しばらく黙っていました。


 それから。


「こはる」


「はい」


「黒田のような男が、住所を隠して逃げたとする」


「はい」


「山下さんたちが、法律上の請求を進めるために住所を確認したいと考える」


「はい」


「その場合、必要な情報にたどり着けない制度でも困るだろう」


「……そうですね」


 私は頷きました。


 でも。


 逆の立場もあります。


 例えば。


 誰かが、暴力や嫌がらせから逃げている場合。


 その人の新しい住所が、誰にでも簡単に知られてしまったら。


 どうなるでしょう。


「……危険です」


 私は呟きました。


 所長が頷きました。


「そうだ」


「権利行使のために住所が必要な場合もある。でも、住所を知られることで危険にさらされる人もいる」


 私は、少し考えました。


 情報を公開すれば、便利になる。


 でも、公開しすぎれば危険も生じる。


 逆に。


 情報を守れば、安全になる。


 でも、必要な手続まで妨げてしまうことがある。


「難しいですね……」


 私は言いました。


 片桐所長は、静かに頷きました。


「だから法律は、必要に応じて制度を変えていく」


 ……。


 私は、所長を見ました。


 その言葉が、胸に残りました。


 昭和六十三年。


 住民基本台帳の閲覧は、広く認められています。


 でも。


 未来では、制度が変わる。


 個人情報の保護をより重視しながら。


 正当な権利行使に必要な情報については、一定の手続で取得できる道を残す。


 その方向へ、法律は進化していくのです。


「所長」


「何だ」


「法律って、社会の変化に合わせて変わるんですね」


「そうだ」


「でも、住民の記録を正確にするという目的は、変わらない」


 所長が頷きました。


「うん」


 私は、ノートの端に書きました。


 制度は変わる。


 守ろうとする目的は、受け継がれる。


 その一行が、なんだかとても大切に思えました。


 ◇


「よし!」


 私は、最後のページを開きました。


「今日の総復習です!」


 相馬先輩が、嫌そうな顔をしました。


「まだやるのか」


「あと少しです!」


「信用できねえな」


 私は笑いました。


「まず、住民基本台帳を作るのは?」


「市町村長」


「正解!」


「転入届の期限は?」


「実際に転入した日から十四日以内」


「正解!」


「転居届の期限は?」


「実際に転居した日から十四日以内」


「正解!」


「転出届は?」


「あらかじめ」


「正解!」


 私は、勢いよく続けました。


「転出と転居の違いは?」


「市町村の区域を越えるかどうかだ」


「正解!」


「転出や死亡によって住民票から除かれた記録は?」


「除票」


「正解!」


「住民票の修正や消除は、本人の届出でしかできませんか?」


「職権でもできる」


「正解!」


「昭和六十三年の住民基本台帳の閲覧は?」


「原則として広く請求できた」


「ただし?」


「不当な目的などなら拒まれることがある」


「完璧です!」


 私は、思わず拍手しました。


 相馬先輩が、呆れたように言いました。


「何で俺が褒められてるんだ」


「勉強会ですから!」


「勝手に開催して、勝手に採点するな!」


 私は笑いました。


 でも。


 こうして事件と結びつけて覚えると。


 住基法の条文が、急に身近になります。


 転出届。


 黒田が、事前に出していた書類。


 転入届。


 誰も住んでいない疑いのある住所について出された届出。


 除票。


 旧住所地に残っていた、過去の記録。


 職権による記録の修正・消除。


 現実と食い違った住民票を正すための仕組み。


 第三者請求。


 正当な権利行使のために、必要な住所情報を確認するという考え方。


 それぞれが、一本の事件につながっています。


「なるほど……」


 私は、静かに頷きました。


「住民基本台帳法って、ただ人の住所を記録する法律じゃないんですね」


 片桐所長が、こちらを見ました。


「どういう意味だ」


「住所の記録を正確に保つことで、行政の仕事を支えている」


「うん」


「そして、必要なときには、その記録が人の権利を守るための証拠にもなる」


「そうだ」


「でも、その情報を使うときには、個人の権利にも配慮しなければならない」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は、最後の一行を書きました。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――転出は「出る前」、転入・転居は「住んでから十四日」。除票は過去の足跡、第三者請求は正当な理由。


「……できた!」


 私は、ノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「絶対に褒めました!」


「うるせえな!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん一生忘れません。


 黒田栄一。


 あの男は、住所を変えれば逃げられると思っていました。


 表札を外し。


 会社を空にし。


 電話を止め。


 住民票まで別の市へ移した。


 けれど。


 自分が出した転出届の日付。


 転入届の内容。


 過去の住所の記録。


 それらを、すべてなかったことにはできませんでした。


 そして。


 山下さん夫妻は、記録を確かめるための正当な理由を持っていました。


 だから、必要な資料を整え。


 法律に従って住所を調べ。


 事実を確認することができたのです。


 住民基本台帳法。


 それは。


 人の居場所を暴くためだけの法律ではありません。


 人の居住関係を正確に記録し。


 行政の仕事を支え。


 必要なときに、その人の権利や生活を守るための制度なのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は、もう終わりか?」


「はい!」


「なら、机を片付けろ」


「……え?」


「六法も戻せ」


「はい」


「書類棚も整理しろ」


「ええっ!」


 私は、思わず抗議しました。


「先輩!」


「何だ!」


「今日は、ものすごく勉強したんですよ!」


「知ってる」


「転入、転出、転居、除票、第三者請求!」


「全部聞いた」


「頭の中が住基法でいっぱいなんです!」


「じゃあ整理しやすいだろ」


「どういう理屈ですか!」


 私は、腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私、今日はもう帰ろうと思います」


「まだ仕事が残ってるぞ」


「でも、住基法的には、帰宅は自由ですよね?」


 相馬先輩が、怪訝な顔をしました。


「……何?」


「だって、人がどこに住むかは、本人の生活の問題でしょう?」


「それがどうした」


「だから、私が今から家に帰っても、誰にも文句は――」


「こはる」


 片桐所長の声がしました。


「はい!」


「お前が家に帰ることと、事務所の仕事を終えることは別問題だ」


「……!」


 私は固まりました。


 相馬先輩が、吹き出しました。


「ほらな」


「何ですか!」


「住基法を覚えたからって、掃除を免れるわけじゃねえんだよ」


「ぐっ……!」


 確かに。


 転出届。


 転入届。


 転居届。


 それらは、住民の住所変更についての手続です。


 仕事が嫌だから帰るという話とは、まったく関係ありません。


「……分かりました!」


 私は、箒を手に取りました。


「掃除します!」


「いい返事だ」


「でも先輩!」


「何だ!」


「掃除が終わったら、もう一問出します!」


「は?」


「同じ住所に住んでいても、世帯を分けられるかどうかです!」


 相馬先輩が、嫌そうな顔をしました。


「また始まった……」


「次は、世帯分離と世帯変更届です!」


「俺を巻き込むな!」


「勉強会です!」


「勝手に決めるな!」


 私は、笑いながら床を掃き始めました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 あのどこかで。


 山下さん夫妻は、再開するお弁当屋の準備をしているのでしょう。


 止まっていた厨房に、新しい床が張られ。


 再び包丁の音が響き。


 朝早くから、お弁当の匂いが町に広がる。


 そんな日が、もうすぐ来るのかもしれません。


 そして。


 黒田の事件を思い出すたびに、私はきっと住基法の条文を思い出すのでしょう。


 転出は、あらかじめ。


 転入・転居は、十四日以内。


 除票は、過去の住民登録の記録。


 第三者による証明書の請求には、時代ごとに異なる制度と、情報を適切に扱うためのルールがある。


 どれも、試験のためだけの知識ではありません。


 そこには。


 現実に暮らしている人たちの生活があり。


 守るべき権利があり。


 正確な記録を必要とする社会があります。


 私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――転出は「出る前」、転入・転居は「住んでから十四日」。除票は過去の足跡、第三者請求は正当な理由。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、今日だけで住基法の重要論点を全部覚えました!」


「そうか!」


「だから、今日はもう勉強しなくてもいいと思うんです!」


「じゃあ掃除に集中できるな!」


「……!」


 なるほど。


 どうやら。


 住民基本台帳法を完璧に覚えても。


 見習い行政書士の掃除当番からは、逃げられないようです。


 残念ながら。


 そのための転出届は、存在しないのでした。

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