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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈基礎知識 配点56点/300点〉 基礎知識

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697/701

[住民基本台帳法・転出と第三者請求]現場編 夜逃げした悪党の足跡。十四日間の空白と、消された住民票が暴いた嘘

挿絵(By みてみん)

 人は、ある日突然、姿を消すことがあります。


 昨日まで住んでいた家。


 毎朝通っていた道。


 表札のかかった玄関。


 そこから荷物を運び出し、誰にも行き先を告げなければ。


 その人は、まるで最初から存在しなかったかのように、町から消えてしまう。


 でも。


 人間が消えても。


 住所の記録まで、簡単に消せるとは限りません。


 むしろ。


 消したつもりの記録こそが。


 逃げた人間の足跡を、はっきり残していることがあるのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、ひとつの奇妙な事件に出会いました。


 夜逃げした建築業者。


 消えた二百八十万円。


 そして。


 まだ誰も住んでいないはずの住所へ、引っ越すという届出。


 事件を解く鍵は。


 住民基本台帳法。


 通称、住基法。


 役所の窓口で扱う、あまりにも地味な法律でした。


 けれど。


 この法律には、逃げる人間が見落としがちな仕組みがあります。


 転出。


 転入。


 転居。


 そして、十四日間。


 たったそれだけの違いが。


 悪党の嘘を、根元からひっくり返すことになるのです。


「主人が、騙されたんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、膝の上でハンカチを握りしめていました。


 名前は、山下澄江さん。


 五十三歳。


 駅前で小さな仕出し弁当店を営んでいるそうです。


 その隣には、痩せた男性が座っていました。


 夫の山下正一さん。


 五十七歳。


 右手には、長年包丁を握ってきた人らしい、厚いまめがあります。


「二百八十万円を持って、いなくなったんです」


「二百八十万円……?」


 私は思わず聞き返しました。


 昭和六十三年。


 二百八十万円。


 小さなお弁当屋さんにとって、決して軽い金額ではありません。


「店舗の改装工事を頼んだんです」


 澄江さんが言いました。


「厨房の床が傷んでいて、保健所からも改善を勧められていました。それで、思い切って改装しようと……」


 相馬先輩が相談票を開きました。


「相手は?」


「黒田建設です」


「代表者は?」


「黒田栄一。四十八歳です」


 私は名前を書きました。


 黒田栄一。


 建築業者。


 工事代金。


 二百八十万円。


「工事は始まったんですか?」


 私が尋ねると、正一さんが首を横に振りました。


「床を少し剥がしただけです」


「え?」


「厨房の流し台も外されて、今は仕事ができない状態で……」


 澄江さんが鞄から写真を取り出しました。


 そこには。


 床板を剥がされた厨房。


 壁際に寄せられた調理台。


 むき出しの配管。


 そして、積み上げられた段ボール箱。


「これじゃ、お弁当を作れませんね……」


「はい」


 澄江さんは俯きました。


「もう十日間、お店を閉めています」


 十日。


 仕出し弁当店にとって、十日間の休業がどれほど重いか。


 私にも想像できます。


「黒田さんには連絡したんですか?」


「何度も」


 正一さんが答えました。


「電話もしました。会社にも行きました。でも、電話は誰も出ない。事務所は空っぽでした」


「自宅は?」


「そこも、もぬけの殻です」


 澄江さんが一枚の封筒を出しました。


 工事請負契約書。


 領収書。


 そして、黒田建設の名刺。


 住所は、この町の北側。


 山手町二丁目。


「昨日、その住所へ行ったんです」


 正一さんが言いました。


「そしたら、表札が外されていました」


「引っ越したんですね」


「ええ。ただ……」


 男性は言い淀みました。


「近所の人が、妙なことを言うんです」


「妙なこと?」


「黒田は、もう二週間も前に引っ越しの準備をしていたって」


「二週間前?」


「でも、うちが工事代金を払ったのは、一週間前なんです」


 私は鉛筆を止めました。


 ……ん?


 それは。


 おかしくありませんか。


 契約を結び、代金を受け取った時点で。


 すでに引っ越す準備をしていた。


 しかも、工事はほとんど進んでいない。


「最初から、逃げるつもりだった……?」


 私が呟くと、澄江さんの目に涙が浮かびました。


「私たち、あの人を信用してしまったんです」


 正一さんが、妻の手を握りました。


「三十年働いて、やっと貯めた金なんです」


 その声は、震えていました。


「店をもう少し続けようと思って……。息子が帰ってきたとき、胸を張れる店にしたかった」


 私は写真を見ました。


 剥がされた厨房の床。


 誰も立っていない調理場。


 この二人は、お金だけを奪われたのではありません。


 働く場所まで、壊されてしまったのです。


「絶対に、おかしいです」


 私は言いました。


「契約して、お金を受け取って、すぐ消えるなんて」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ。だが、まず事実を分けろ」


「はい」


「工事の履行を求めるのか、契約を解除して金を返してもらうのか。それから、相手が何を説明していたか」


 なるほど。


 怒る前に、整理です。


 契約書。


 領収書。


 工事の進捗。


 相手の説明。


 そして。


 相手がどこへ行ったのか。


「所長」


 相馬先輩が言いました。


「まず住所を確認します」


 片桐所長は、契約書に目を通していました。


 そして。


「こはる」


「はい!」


「黒田という男は、今どこに住んでいる」


「……分かりません」


「では、どこに住んでいた」


「山手町二丁目です」


「その住所を、誰が証明する」


 私は少し考えました。


 契約書?


 名刺?


 いや。


 それらには、本人が好きな住所を書けます。


 本人の申告ではなく、公的な記録。


 そうなると。


「あっ!」


 私は顔を上げました。


「住民票です!」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私は思わず拳を握りました。


 来ました。


 住民基本台帳法。


 行政書士試験では、転入届、転出届、転居届の違いを暗記する分野。


 正直に言うと。


 受験生だった頃は、かなり地味な法律だと思っていました。


 ところが。


 今は違います。


 目の前にいる二人を助けるために。


 その地味な法律が、必要なのです。


「それなら簡単だろ」


 相馬先輩が言いました。


「市役所へ行けばいい」


「そうですね!」


「住民基本台帳を見せてもらう」


「……え?」


 私は止まりました。


「先輩」


「何だ」


「今、何て言いました?」


「台帳を見せてもらうって言ったんだよ」


「黒田さんの?」


「ああ」


「他人の住所ですよ?」


「そうだな」


「そんな簡単に見られるんですか?」


 相馬先輩は、不思議そうに私を見ました。


「何を今さら」


「え?」


「この時代、住民基本台帳は原則として閲覧できるだろ」


 ……。


 あ。


 そうでした。


 昭和六十三年。


 ここは、昭和六十三年です。


 現代では、他人の住所を知るために役所の台帳を自由に覗くなんて、原則としてできません。


 住民基本台帳の一部の写しの閲覧は、平成十八年の法改正によって厳格に制限されることになります。


 公益性の高い調査研究など、認められた目的でなければ利用できない。


 ダイレクトメールを送るために名簿を丸写しするなんて、現代では許されないのです。


 でも。


 昭和では。


「名簿屋なんて、しょっちゅう見に来てるぞ」


 相馬先輩が、こともなげに言いました。


「……名簿屋?」


「ああ。通信販売の広告を送るためだとか、営業先を調べるためだとか。そういう連中が住所を集めてる」


「えええっ!」


 私は思わず立ち上がりました。


「他人の住所を、営業用に集めるんですか!?」


「そうだ」


「個人情報ですよ!?」


「だから何だ」


「だから何だって……!」


 私は頭を抱えました。


 昭和。


 恐ろしい。


 個人情報保護の感覚が、現代と違いすぎます。


 もちろん、この時代にも、他人の情報をどんな目的で使ってもよいという話ではありません。


 閲覧制度が開かれていることと、他人の権利を侵害してよいことは別です。


 それでも。


 住所の公開についての感覚は、令和とは大きく違う。


「先輩!」


「何だ!」


「そんな制度、悪用されたら大変じゃないですか!」


「実際、悪用する奴もいるだろうな」


「何でそんな落ち着いてるんですか!」


「俺に怒鳴られても困る」


 ごもっともです。


 そのとき。


 片桐所長が、静かに口を開きました。


「こはる」


「はい」


「お前は、今回も自由閲覧だけで調べるつもりか」


「……いいえ」


 私は少し考えました。


 台帳を閲覧できる。


 それは、この時代の制度です。


 でも。


 今回必要なのは、興味本位で他人の住所を覗くことではありません。


 山下さんたちは、黒田に二百八十万円を支払っている。


 工事が履行されていない。


 金銭の返還や損害賠償について、法律上の請求が問題になっている。


 その相手方の住所を、正式に確認する必要がある。


「所長」


「何だ」


「住所を知りたい理由を、きちんと書面にします」


「うん」


「工事請負契約書と領収書を添えて、債権者として住所を確認する必要があることを説明します」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「それで、必要な範囲の住民票の写しを請求します」


「よし」


 私は少し胸を張りました。


 これなら。


 ただ他人の情報を覗くのとは違います。


 権利を行使するために、必要な記録を確認する。


 これこそ、法律的な調べ方です。


 ただし。


 私はもうひとつ、重要なことを思い出しました。


 昭和六十三年には、現代の住基法第十二条の三のような、第三者による住民票交付請求の仕組みは、まだありません。


 当時の住民票の写しの請求制度を使い、請求の理由と資料を示して、役所の判断を受ける必要があります。


 ……危ない。


 また現代の条文を、そのまま使いそうになりました。


「先輩」


「何だ」


「現行法の十二条の三って……」


「十二条の三?」


「あ、いえ! 何でもありません!」


 危険。


 未来の条文番号を口にするところでした。


 相馬先輩が眉をひそめます。


「お前、また変な法律を思い出したな」


「気のせいです!」


「本当か?」


「昭和の法律で頑張ります!」


「当たり前だ!」


 片桐所長は、そんな私たちを見ながら短く言いました。


「理由を明確にしろ」


「はい」


「必要のない情報まで集めるな」


「はい!」


「記録を追うことと、人を追い回すことは違う」


 私は、その言葉に頷きました。


 住所を調べる。


 それは単なる好奇心ではない。


 人の生活に踏み込む行為でもあります。


 だからこそ。


 目的を持って。


 必要な範囲で。


 正当な手続を使う。


 私は、申請書の原案を書き始めました。


 翌朝。


 私と相馬先輩は、市役所を訪れました。


 昭和の市役所。


 木製のカウンター。


 金属製の書類棚。


 机の上には、大きな帳簿。


 奥では、職員が紙の台帳をめくっています。


 コピー機が低い音を立てていました。


「……懐かしいというか、不便というか」


 私が呟くと、相馬先輩が振り向きました。


「何がだ」


「いえ、その……」


 現代なら、住民記録はコンピューターで管理されていることが多い。


 でも、この役所では、まだ紙の記録が中心です。


 当然。


 マイナンバーカードなんてありません。


 住民票コードもありません。


 住民基本台帳ネットワークもありません。


 市町村をまたいだ記録の確認には、書類や役所同士の連絡が重要になります。


 転生者にとっては、不便です。


 でも。


 今回に限っては。


 その紙の動きそのものが、事件の手がかりになるかもしれません。


「すみません」


 相馬先輩が窓口で声をかけました。


「黒田栄一さんの住民票について、請求の相談をしたいのですが」


 職員が顔を上げました。


「ご本人ですか?」


「いいえ。工事代金を支払った山下さんから、書類作成の依頼を受けています」


 相馬先輩は、準備してきた資料を差し出しました。


 工事請負契約書。


 二百八十万円の領収書。


 工事が止まった経過をまとめた書面。


 山下さん本人の請求意思を記した書類。


 請求する理由は、明確です。


 ――工事請負契約に基づく権利行使のため、相手方の住所を確認する必要がある。


 職員は、資料を確認しました。


「少々お待ちください」


 奥の棚へ向かいます。


 私は、どきどきしていました。


 黒田栄一。


 どこへ消えたのか。


 次の住所が分かれば、書面を送ることができます。


 でも。


 数分後。


 戻ってきた職員の言葉は、予想外でした。


「黒田栄一さんですが……」


「はい」


「こちらでは、すでに住民票が除かれています」


「……除かれている?」


 私は聞き返しました。


「転出の手続がされています」


 相馬先輩が、私を見ました。


「こはる」


「はい」


「これが除票だ」


 除票。


 私は、その言葉を頭の中で繰り返しました。


 住民票から除かれた記録。


 転出。


 死亡。


 その他の事由によって、その市町村の住民基本台帳から外れた人の記録です。


 つまり。


 黒田は、この町の現在の住民票には載っていない。


 でも。


 かつてここに住民登録していた事実は、記録として残っている可能性がある。


「除票の写しについても、必要性を確認していただけますか」


 相馬先輩が言いました。


 職員は、請求資料をもう一度見ました。


 そして、担当者と相談したうえで、交付できる範囲の記録を確認してくれました。


 私は、出てきた紙を見つめました。


 そこには。


 黒田栄一。


 旧住所。


 山手町二丁目。


 そして。


 転出先として届け出られた住所。


 隣県の桜川市。


 新町三丁目。


「……見つかった!」


 私は思わず声を上げました。


 やった。


 夜逃げした男の次の住所です。


 これなら追跡できます。


 そう思ったとき。


 相馬先輩が、低い声で言いました。


「こはる」


「はい?」


「日付を見ろ」


「日付?」


「転出の届出日だ」


 私は、紙に目を落としました。


 転出届の提出日。


 ――六月三日。


 転出予定日。


 ――六月二十日。


 私は眉をひそめました。


「六月三日……?」


「そうだ」


「でも、山下さんが二百八十万円を支払ったのは……」


 私は相談票を開きました。


 代金支払日。


 ――六月十二日。


 ……。


 私は固まりました。


 黒田は。


 六月三日に、別の市へ転出する届出をしていた。


 つまり。


 六月十二日に工事代金を受け取ったときには。


 すでに、その町を出る予定を役所に届けていたのです。


「先輩」


「何だ」


「これって……」


「ああ」


 相馬先輩が、紙を指差しました。


「仕事を完成させる前に、出ていくつもりだった可能性がある」


 私は息を呑みました。


 ただし。


 引っ越す予定だったからといって、直ちに詐欺だと決まるわけではありません。


 引っ越してから工事を続けるつもりだった可能性も、理屈の上ではあります。


 でも。


 山下さんには、何も説明されていない。


 契約後も、黒田は自分の事務所がそのまま営業するかのように振る舞っていた。


 そして、工事は中断。


 連絡は途絶えた。


 この日付には、意味があります。


「なるほど……」


 私は紙を握りました。


「住民票って、住所だけじゃないんですね」


「そうだ」


「いつ、住所の変更を届け出たか。それも重要なんですね」


 片桐所長の言葉が、頭に浮かびました。


 人が生きている限り、必ずどこかに記録が残る。


 そういうことでした。


 黒田は、事務所を空にしました。


 表札も外しました。


 電話も止めました。


 でも。


 六月三日に市役所へ出した届出までは。


 なかったことにできなかったのです。


 ところが。


 事件は、そこでは終わりませんでした。


「じゃあ、桜川市へ行けば本人に会えるんですね!」


 私が言うと、相馬先輩が首を横に振りました。


「まだ分からん」


「え?」


「転出届には、何を書く?」


「氏名、転出先、転出予定年月日です」


「そうだ」


「ですから、桜川市に――」


「転出届を出しただけで、そこに住んだことになるのか?」


 ……。


 私は黙りました。


 あ。


 違います。


 転出届は、これから別の市町村へ住所を移すための届出。


 原則として、あらかじめ出すものです。


 つまり。


 転出予定先として桜川市を書いたからといって。


 黒田が実際に桜川市で生活を始めたとは限らない。


「なるほど……!」


「気づいたか」


「転出先は、予定なんですね」


「そうだ」


「だから、そこに本当に住み始めたかどうかは、別に確認する必要があります」


 相馬先輩が頷きました。


「転入届を出しているか、確かめるぞ」


「はい!」


 ここで登場するのが。


 住基法の十四日ルール。


 他の市町村から引っ越してきた人は、実際に転入した日から十四日以内に、転入届を出す。


 一方。


 同じ市町村の中で住所を変えた場合は、転居届。


 こちらも、転居した日から十四日以内です。


 そして。


 他の市町村へ引っ越す場合には、転出届をあらかじめ提出します。


 この違い。


 受験生の頃は、ただの暗記事項でした。


 転出は事前。


 転入・転居は十四日以内。


 何度も書いて覚えたものです。


 でも。


 事件の現場では。


 この違いが、人の足取りを推理する鍵になります。


「先輩」


「何だ」


「六月二十日に本当に引っ越したとしても、その日に転入届を出したとは限らないんですよね」


「そうだ」


「十四日以内ですから」


「ああ」


 私は指折り数えました。


 六月二十日。


 二十一日。


 二十二日。


 ……。


 法律上の届出期限がある。


 だから。


 転入先の役所にまだ記録がない場合でも、直ちに不正とは言えない。


 そもそも、まだ実際には引っ越していない可能性だってある。


「先輩!」


「何だ」


「住民票に書かれた住所と、実際に住んでいる場所が一致しない時期もあるんですね!」


「届出の前後にはな」


「しかも、届出を怠る人もいる」


「いるだろうな」


「つまり、住民票だけでは絶対に本人がそこにいるとは断定できない」


 相馬先輩が、少し笑いました。


「ようやく分かってきたな」


 私は拳を握りました。


 地味な住基法。


 ところが、意外と奥が深い。


 そして。


 このときの私は、まだ知りませんでした。


 桜川市に書かれた住所が。


 黒田の、もうひとつの嘘だったことを。


 翌日。


 私たちは、隣県の桜川市へ向かいました。


 汽車を乗り継ぎ、駅前からバスに揺られること三十分。


 ようやく到着したのは、古い商店街の外れでした。


「新町三丁目……」


 私は住所を書いた紙を見ながら、周囲を見渡しました。


 八百屋。


 自転車屋。


 古い旅館。


 そして。


「先輩」


「何だ」


「この住所……」


 私は目の前の建物を指差しました。


 そこにあったのは。


 空き店舗でした。


 シャッターは錆びています。


 入口には、古びた貸店舗の札。


 窓には、蜘蛛の巣。


 人が生活している気配は、まったくありません。


「……え?」


 私は呆然としました。


「黒田さん、ここに引っ越したんですよね?」


「そう届け出たんだろうな」


「でも、ここ……」


 相馬先輩が、近くの八百屋に入りました。


「すみません。隣の建物なんですが」


「ああ、あの空き店舗?」


 店主のおじいさんが答えました。


「いつ頃から空いていますか?」


「もう半年くらいだな」


「半年?」


「ああ。前の店が閉めてから、ずっと誰も使っとらんよ」


 私は目を見開きました。


 半年。


 黒田の転出予定日は六月二十日。


 もし本当にこの場所へ引っ越していたなら、少なくとも何らかの生活の痕跡があるはずです。


 ところが。


 半年間、空き店舗。


「黒田という男性を見かけたことは?」


 相馬先輩が尋ねました。


「黒田?」


「四十八歳くらいの男です」


「知らんなあ」


 店主は首を横に振りました。


「ただ、先月、背広の男が二人ほど建物を見に来とったな」


「中へ入りましたか?」


「いや。表で何か話して、すぐ帰ったよ」


 私は、相馬先輩を見ました。


「先輩」


「ああ」


「ここに住んでいない可能性が高いですね」


「そうだな」


 私は空き店舗を見つめました。


 転出届には、桜川市の住所。


 しかし、実際には住んだ形跡がない。


 では。


 黒田は、どこへ行ったのでしょう。


「市役所へ行くぞ」


 相馬先輩が言いました。


「転入の記録を確認する」


「はい!」


 私たちは、桜川市役所へ向かいました。


 桜川市役所。


 住民課。


 相馬先輩は、再び必要書類を提示しました。


 山下さんの契約書。


 領収書。


 請求目的を記した書面。


 そして、旧住所地で確認した転出先の情報。


 窓口の職員は、書類を確認しました。


 やがて。


「黒田栄一さんについてですね」


「はい」


「六月二十一日付で、転入の届出がされています」


 ……。


 私は耳を疑いました。


「転入届が?」


「はい」


「六月二十一日に?」


「そうです」


 私は思わず尋ねました。


「届け出た住所は、新町三丁目の……」


 職員が確認しました。


「はい。その住所です」


 ……!


 私は、相馬先輩を見ました。


「先輩!」


「ああ」


「おかしいです!」


 だって。


 あの建物。


 半年間、空き店舗だったんです。


 近所の人も、黒田という人を知らない。


 それなのに。


 住民票には、転入した記録がある。


「つまり……」


 私は息を吸いました。


「黒田さんは、実際には住んでいない住所を届け出た可能性があります!」


 相馬先輩が頷きました。


「だが、まだ決めつけるな」


「はい」


「住民票があることは、実際に住んでいることの絶対的な証明じゃねえ」


 そうでした。


 住民票に住所が記録されている。


 それは、市町村がその人の居住関係について、公的な記録を備えているということです。


 しかし。


 届出が事実と違っていれば。


 台帳そのものが、現実と食い違うことがあります。


「それに」


 相馬先輩が続けました。


「黒田がいつ、どこに住んでいたのか。もう少し証拠が要る」


「はい」


 私は職員に尋ねました。


「あの、実際に住んでいない住所で登録されている疑いがある場合、市役所は確認できるのでしょうか」


「具体的な事情があれば、実態を調査して、必要に応じて職権で住民票を修正したり、消除したりすることがあります」


「職権消除……!」


 私は思わず呟きました。


 住民票の記載や修正、消除は、本人の届出だけで行われるわけではありません。


 市町村長が、必要な調査をして、職権で行うこともあるのです。


 ただし。


 役所が疑いを聞いた瞬間、必ず消除するわけではない。


 居住の実態を確認し、適切な手続を踏む必要があります。


「先輩」


「何だ」


「黒田さんが嘘の住所を届けたなら、住基法第三条第三項にも関わりますね」


「ああ」


 相馬先輩が、声を低くしました。


「夜逃げするのは勝手だ。だが、役所に嘘の住所を届けていいって話じゃねえ」


 私は頷きました。


 そして。


 もう一つ、重要なことに気づきました。


「でも先輩」


「何だ」


「虚偽の転入届が疑われることと、山下さんへの詐欺が成立することは、別の問題ですよね」


「そうだ」


「届出が虚偽だったとしても、それだけで工事代金を騙し取ったと断定はできない」


 先輩が、少しだけ口元を上げました。


「いいぞ」


「え?」


「法律を混ぜなくなってきたな」


 ……!


 褒められました。


 相馬先輩に。


 これは、なかなか珍しいことです。


「先輩!」


「何だ」


「もう一回言ってください!」


「調子に乗るな」


「一回くらい!」


「帰るぞ」


「冷たい!」


 でも。


 私の頭の中では、事件の形が見え始めていました。


 六月三日。


 転出届。


 六月十二日。


 二百八十万円の受領。


 六月二十日。


 転出予定日。


 六月二十一日。


 桜川市への転入届。


 そして。


 届け出られた住所は、半年間空き店舗。


 偶然にしては、できすぎています。


 ただ。


 ひとつだけ、疑問が残りました。


 黒田は、なぜわざわざ転入届を出したのでしょう。


 完全に姿を消すつもりなら。


 何も届けずに逃げることだって、できたはずです。


「先輩」


「何だ」


「黒田さんは、どうして嘘の転入届を出したんでしょう」


 相馬先輩は、少し考えました。


「役所の記録を整えておきたかったんじゃねえか」


「記録を?」


「ああ。何かの手続に、桜川市の住所が必要だったのかもしれねえ」


 なるほど。


 住民票。


 ただの紙ではありません。


 住所を公的に示す資料です。


 銀行。


 契約。


 各種の届出。


 人が社会の中で生活するとき、住所の証明が必要になる場面はいくらでもある。


 もしかすると。


 黒田は、その証明書を利用して、別のことを始めようとしていたのかもしれません。


 私は、空き店舗の住所を見つめました。


 そのとき。


 ふと、ひとつの考えが浮かびました。


「……あれ?」


「何だ」


「先輩」


「だから何だ」


「黒田さん、本当にこの町から出ていったんでしょうか」


 相馬先輩の目が、少し細くなりました。


「どういう意味だ」


「転出届は、事前に出すものです」


「ああ」


「でも、実際に転出したことの証明とは違います」


「そうだ」


「それなら……」


 私は、ゆっくり言いました。


「黒田さんは、まだ元の町にいる可能性もありますよね」


 相馬先輩は、しばらく黙っていました。


 それから。


「……面白いな」


 低い声で言いました。


「何がですか?」


「お前の考えだ」


 私は目を見開きました。


「褒めました?」


「まだだ」


「またですか!」


 でも。


 先輩は、すぐに続けました。


「確かめる価値はある」


 私は拳を握りました。


 やった。


 今度こそ。


 逃亡者の足跡が、見えてきた気がしました。


 片桐事務所へ戻ったのは、夕方でした。


 所長は、私たちの報告を黙って聞いていました。


 そして。


「こはる」


「はい」


「黒田が今いる場所は、分かったか」


「いいえ」


「では、何が分かった」


 私は資料を並べました。


「まず、黒田は六月三日に転出届を提出しています」


「うん」


「転出予定日は六月二十日」


「うん」


「ところが、六月十二日に山下さんから二百八十万円を受け取っています」


「そうだ」


「さらに、六月二十一日付で桜川市に転入届を出しています」


「うん」


「しかし、その住所は半年間空き店舗だったという証言があります」


 所長が頷きました。


「つまり?」


「転入届の内容と、実際の居住関係が食い違っている疑いがあります」


「そうだ」


 私は続けました。


「ただし、これは住民登録の問題です。工事代金を騙し取ったことの直接の証明ではありません」


「よし」


 所長が、ようやく少しだけ表情を緩めました。


「では、何を調べる」


「黒田が実際にどこで生活していたのか、です」


「そうだ」


 私は、相談資料を見直しました。


 契約書。


 領収書。


 写真。


 黒田建設の名刺。


 ……名刺?


 その裏に、小さな文字がありました。


 ――資材置場 南工業団地五番地。


「あっ!」


 私は声を上げました。


「所長!」


「何だ」


「黒田建設の資材置場です!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「南工業団地……」


「ここ、同じ市内ですよね?」


「ああ」


 私は興奮して言いました。


「会社の事務所を引き払っても、資材置場までは処分していないかもしれません!」


 所長が、短く言いました。


「確認しろ」


「はい!」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


 相馬先輩が受話器を取ります。


「はい、片桐行政書士事務所」


『あの……山下です』


 澄江さんでした。


『主人が、黒田建設で働いていた人に会ったんです』


 私は顔を上げました。


 相馬先輩が聞き返します。


「元従業員ですか?」


『はい。それで……』


 少しの沈黙。


『黒田さん、まだこの町にいるかもしれないって』


 ……!


 私は、思わず机を叩きました。


「やっぱり!」


 相馬先輩に睨まれました。


「静かにしろ」


「はい!」


 受話器の向こうで、澄江さんが続けました。


『南工業団地の倉庫で、夜になると明かりがついているそうなんです』


 ……。


 南工業団地。


 資材置場。


 名刺の裏。


 全部、つながりました。


 片桐所長が、静かに言いました。


「相馬」


「はい」


「今夜のうちに、現地を確認しておけ」


「分かりました」


「ただし、無断で敷地には入るな。相手との交渉もしない」


「はい」


 所長は、私を見ました。


「こはる」


「はい!」


「記録を持っていけ」


「はい!」


 私は、書類を鞄に入れました。


 転出届の日付。


 転入届の日付。


 空き店舗の所在地。


 そして、名刺の裏に書かれた資材置場。


 悪党が消そうとした足跡は。


 もう、一本の線になり始めていました。


 その夜。


 南工業団地。


 辺りは暗く、道路には街灯がまばらに立っています。


 工場からは、機械の低い音が響いていました。


「先輩」


「何だ」


「怖くないですか?」


「何が」


「夜の工業団地ですよ」


「昼間の遊園地じゃねえんだから、暗いのは当たり前だ」


「そういう問題じゃありません!」


 私たちは、公道から黒田建設の資材置場を確認しました。


 金網のフェンス。


 古いトラック。


 積み上げられた足場材。


 そして。


「あっ……!」


 私は息を呑みました。


 倉庫の奥に、明かりがついています。


 人影。


 一人。


 男です。


 少し太った体格。


 金縁の眼鏡。


 手には煙草。


 相談資料に添えられた写真と、よく似た顔でした。


「……黒田」


 相馬先輩が呟きました。


 男は、倉庫から出てきました。


 古い乗用車のトランクを開き、段ボールを積み込んでいます。


 私は、目を凝らしました。


 段ボールには。


 ――黒田建設。


 そう印刷されていました。


「先輩!」


「声を落とせ」


「本人ですよね!」


「似ている。だが、ここで騒ぐな」


 相馬先輩は、男の動きを確認していました。


 私は、ふと倉庫の脇に目を向けました。


 洗濯物。


 小さな物干し竿。


 そこには、男性用のシャツが二枚、干されています。


 窓際には、炊飯器らしきもの。


 そして、湯気の出ているやかん。


 ……。


 私は、静かに息を吸いました。


 資材置場。


 ただ荷物を置くだけの場所ではない。


 ここで生活している可能性がある。


 つまり。


 黒田は、桜川市に引っ越していないどころか。


 元の町の倉庫に、身を潜めているのかもしれません。


「先輩」


「何だ」


「これって……」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「転出したって届けておきながら、実際には元の市内に残っている可能性がある」


 私は拳を握りました。


 見つけた。


 ついに。


 でも。


 相馬先輩は、私の肩を軽く叩きました。


「帰るぞ」


「えっ!」


「何だ」


「声をかけないんですか!?」


「何のために」


「だって、黒田さんがいるかもしれないんですよ!」


「だから?」


「二百八十万円を――」


「こはる」


 先輩の声が、低くなりました。


「俺たちは、取り立て屋じゃねえ」


 私は口を閉じました。


「依頼人の代理人として、相手と返金交渉をするわけにはいかねえ。そこは弁護士の仕事だ」


「……はい」


「それに、夜中に押しかけて騒げば、相手がまた逃げるかもしれん」


 なるほど。


「今日の目的は、居場所についての事実確認だ」


「はい」


「記録と現実が食い違っている疑いが、強くなった。それで十分だ」


 私は頷きました。


 声を荒らげて捕まえるのではない。


 証拠を固める。


 それが、片桐事務所の戦い方です。


 私たちは、静かにその場を離れました。


 背後で。


 倉庫の明かりが、一つ消えました。


 けれど。


 もう、黒田の足跡は消えていませんでした。


 翌朝。


 事務所の机には、三種類の資料が並んでいました。


 一つ目。


 山下さんから提供された、工事請負契約書と領収書。


 二つ目。


 住民記録の確認によって得られた、転出と転入の日付。


 三つ目。


 桜川市の空き店舗と、南工業団地の倉庫についての調査記録。


 片桐所長が、それらを一枚ずつ確認しました。


「こはる」


「はい」


「書面を作れ」


「はい!」


「何を書く」


 私は少し考えました。


「まず、山下さんが確認した契約の経緯です」


「うん」


「二百八十万円を支払ったこと」


「うん」


「工事が中断し、店舗が使えなくなっていること」


「そうだ」


「そして、黒田さんが代金受領より前に転出届を出していたこと」


 所長が頷きました。


「続けろ」


「転出先として届け出られた住所に、実際に居住している形跡が乏しいこと」


「うん」


「一方、旧住所地の市内にある資材置場で、本人らしい人物が生活している可能性があること」


「よし」


 相馬先輩が、横から言いました。


「断定するなよ」


「はい」


「倉庫で明かりがついていたから、そこが住所だと即決できるわけじゃねえ」


「そうですね」


 私は書面を修正しました。


 ――桜川市の届出住所について、現地調査の結果、居住の実態に疑義が認められた。


 ――旧住所地の市内にある資材置場について、継続的な利用及び生活の実態をうかがわせる事情が確認された。


「これならどうでしょう」


 所長が頷きました。


「いい」


 私は、さらに書きました。


 第一。


 工事代金支払日。


 第二。


 転出届提出日。


 第三。


 転出予定日。


 第四。


 転入届提出日。


 第五。


 現地調査による確認事項。


 そして。


 ――以上の事実から、住民基本台帳に記録された住所と、実際の居住関係との間に不一致が存在する可能性がある。


 ――関係市町村に対しては、必要な調査及び適切な記録の修正を求めるため、資料を提出する。


 私は読み終わりました。


「所長」


「何だ」


「これで、黒田さんの嘘を証明できますか?」


「まだだ」


 即答でした。


「……まだ?」


「役所の調査結果を待て」


 所長は、書面を机に置きました。


「転出先として届けた場所に住んでいないという疑いは、強い」


「はい」


「だが、実際の住所はどこなのか。届出の時点で何を認識していたのか。そこは確認が必要だ」


 私は頷きました。


「はい」


「そして、工事代金の問題は別に整理する」


「そうですね」


 所長は続けました。


「山下さんが契約を解除するのか、履行を求めるのか。それによって書面の内容も変わる」


 私は、山下さんの相談票を見ました。


 壊された厨房。


 止まった営業。


 二百八十万円。


 依頼人が求めているのは、単純に黒田を懲らしめることではありません。


 店を元に戻し、もう一度働けるようにすること。


 それが、最も大切なことです。


「所長」


「何だ」


「山下さんの意思を確認したうえで、契約解除の通知書を作成したいです」


「そうだな」


「返還請求について争いが続くなら、弁護士へ引き継ぎます」


「よし」


 相馬先輩が、机に肘をつきました。


「こはる」


「はい?」


「お前、最初はどうするつもりだった」


「え?」


「黒田を見つけたら」


 私は少し考えました。


「……捕まえて、二百八十万円を返せって言うつもりでした」


「だろうな」


「でも、それは私たちの仕事ではありません」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「俺たちの武器は、事実と書面だ」


 私は、大きく息を吸いました。


 そして。


 山下さんたちのための書類を、一枚ずつ整えていきました。


 数日後。


 事態が動きました。


 桜川市では、提出された情報をもとに居住実態の調査が始まりました。


 空き店舗の所有者への確認。


 周辺の状況調査。


 届出住所の使用関係。


 一方、旧住所地の市役所にも、黒田が実際には市内で生活している疑いがあることが伝えられました。


 ただし、職権による修正や消除が直ちに行われたわけではありません。


 居住関係の判断には、確認すべき事実があるからです。


 そして。


 この調査が進む中で、意外な人物が片桐事務所を訪ねてきました。


「……黒田建設で働いていた者です」


 三十歳くらいの男性でした。


 名前は、小野寺進。


 黒田の元従業員。


 山下さん夫妻から、私たちが事情を調べていると聞いたそうです。


「実は、どうしても話しておきたいことがあって」


 小野寺さんは、封筒を取り出しました。


「黒田社長に、これを渡されていたんです」


「何ですか?」


 私が尋ねると、男性は封筒から紙を出しました。


 それは。


 工事の予定表でした。


 しかし。


 ただの予定表ではありません。


 そこには、赤い鉛筆で文字が書かれていました。


 ――山下弁当店。


 ――六月十二日 残金回収。


 ――六月十五日以降 現場作業停止。


 ……。


 私は目を見開きました。


「これ……!」


 小野寺さんが、俯きました。


「六月の初めに、社長から渡されました」


「六月の初め?」


「はい。工事の順番を確認するためでした。でも、山下さんの工事だけ、妙な指示があって」


「どんな?」


「金を受け取ったら、作業員を別の現場に回せって」


 私は息を呑みました。


「……最初から、工事を止めるつもりだったんですか?」


「そうだと思います」


 小野寺さんの声が震えました。


「俺も、おかしいと思ったんです。でも、社長に逆らえなくて……」


 相馬先輩が、静かに尋ねました。


「この紙は、いつ渡されたものですか」


「六月二日です」


 ……!


 六月二日。


 私は頭の中で日付を並べました。


 六月二日。


 工事停止の予定表。


 六月三日。


 転出届。


 六月十二日。


 二百八十万円の受領。


 六月十五日。


 工事停止。


 六月二十日。


 転出予定日。


 そして。


 六月二十一日。


 実際に住んでいない疑いのある住所への転入届。


 私は、ゆっくり顔を上げました。


「所長……」


「ああ」


 片桐所長が、資料を見つめていました。


「これで、事情が変わったな」


 はい。


 大きく変わりました。


 転出届だけなら、普通の引っ越しだったかもしれません。


 転入先が空き店舗だったことだけなら、住所の届出を誤った可能性もあります。


 でも。


 工事代金を受け取る前に、工事を止める予定が書かれていた。


 その翌日に、転出届が提出されていた。


 そして、代金を受け取った後、実際に工事は止まった。


 これらの事実が、一本につながったのです。


「先輩」


「何だ」


「黒田さんは、引っ越したから工事が止まったんじゃない」


「そうだな」


「工事を止める予定を立てて、そのうえで住所を移そうとしていた」


 相馬先輩が頷きました。


「少なくとも、その疑いは相当強くなった」


 私は書面を見ました。


 日付。


 日付。


 日付。


 法律が記録させた日付が、悪党の行動を浮かび上がらせていました。


 転出届は、ただの引っ越しの手続。


 でも。


 そこに記された一日が。


 契約書の日付と組み合わさることで。


 別の意味を持ち始めたのです。


「所長」


 私は言いました。


「これは、詐欺の疑いもありますよね」


「そうだな」


「警察へ相談する資料にもなります」


「うん」


「山下さんの返還請求についても、重要な証拠になります」


 所長が頷きました。


「ただし、刑事上の詐欺罪が成立するかどうかは、別に判断される」


「はい」


「我々が決めることではない」


 私は頷きました。


 詐欺罪。


 契約上の債務不履行。


 住民基本台帳法上の虚偽届出。


 それぞれ、問題となる要件が違います。


 何もかも一緒にしてはいけない。


 今回の事件で、私はそのことを痛感していました。


 片桐所長は、山下さん夫妻のために整理した資料を閉じました。


「弁護士に渡す資料をまとめろ」


「はい!」


「それから、警察へ相談する場合も、確認できた事実と推測を分けろ」


「はい!」


 相馬先輩が言いました。


「特に、六月二日の予定表だ」


「はい」


「原本の保管、作成経緯、誰がいつ受け取ったか。全部確認しておけ」


「分かりました!」


 私は、記録を作り始めました。


 法律の知識は、相手を言い負かすためだけにあるのではありません。


 どの事実が証明されているのか。


 どの事実は、まだ推測にすぎないのか。


 それを分けるためにも、必要なのです。


 さらに数日が過ぎました。


 山下さん夫妻は、紹介された弁護士に相談しました。


 工事請負契約をめぐる問題。


 代金返還請求。


 営業できなかった期間の損害。


 それらについて、正式な法的手段を検討することになりました。


 警察にも、証拠資料を添えて相談が行われました。


 一方。


 桜川市の届出住所については、居住実態に重大な疑いがあることが調査で確認され、住民記録の是正に向けた手続が進められました。


 黒田が提出した転入届。


 その住所には、生活の実態が認められない。


 少なくとも。


 届出をしたからといって、何の問題もなく住所を作れるわけではなかったのです。


 そして。


 事件が大きく動いたのは、それから間もない日のことでした。


「……片桐先生は、いらっしゃいますか」


 事務所の入口に、男が立っていました。


 四十代後半。


 金縁の眼鏡。


 黒い背広。


 顔には、疲れが浮かんでいました。


 私は、思わず息を呑みました。


「……黒田さん?」


 男は、びくっとしました。


「な、何で俺の名前を……」


 相馬先輩が、机から顔を上げました。


「黒田栄一さんですね」


「……ああ」


 黒田は、不機嫌そうに答えました。


「おたくら、何を嗅ぎ回ってるんだ」


 来ました。


 本人です。


 あれほど逃げ回っていた男が。


 自分から、事務所へ来たのです。


「私どもは、山下さんから依頼を受けて、資料を整理しています」


 相馬先輩が答えました。


「あなたの住所についても、確認しました」


「住所?」


 黒田が鼻で笑いました。


「桜川市だよ」


「そう届け出ていますね」


「なら、それでいいだろ」


 私は、思わず口を開きました。


「でも、そこに住んでいませんよね?」


 黒田の表情が変わりました。


「……何?」


「新町三丁目の建物です」


「それがどうした」


「半年間、空き店舗だったと確認しています」


 黒田は黙りました。


 私は続けました。


「それに、六月二十一日に転入届を出していますよね」


「……」


「でも、実際には元の市内の資材置場を使い続けていた可能性があります」


 黒田の額に、汗が浮かびました。


「お、お前ら……!」


 そのとき。


「こはる」


 片桐所長の声がしました。


 私は口を閉じました。


 所長は、黒田を見ました。


「黒田さん」


「……何だ」


「お話があるのでしたら、伺います」


 所長の声は、静かでした。


 黒田は、しばらく黙っていました。


 それから。


「……山下の件だ」


「はい」


「あいつら、弁護士まで連れてきやがって」


 相馬先輩が、表情を変えずに言いました。


「山下さんには、弁護士へ相談する権利があります」


「分かってるよ!」


 黒田が、声を荒らげました。


「ただ、二百八十万を今すぐ全部返せって言われても、無理なんだよ!」


 私は驚きました。


 ……返す?


 この人、今。


 返すと言いました?


 黒田は、さらに続けました。


「工事だって、最初から全部放り出すつもりじゃ……」


 そこで、言葉が止まりました。


 片桐所長が、静かに尋ねました。


「六月二日の予定表について、ご存じですか」


 ……。


 黒田の顔色が変わりました。


「……予定表?」


「山下弁当店の工事を、代金受領後に停止する旨の記載がある書面です」


「……誰がそんなものを」


 所長は答えませんでした。


 黒田は、唇を噛みました。


 そして。


「……小野寺か」


 ぽつりと呟きました。


 私は、息を呑みました。


 所長は落ち着いたまま言いました。


「契約に関する資料は、すでに山下さんの弁護士へ引き継いでいます」


「……」


「住民登録の問題についても、関係市町村が確認を進めています」


 黒田は、拳を握りました。


「住所なんか……」


 低い声。


「住所なんか、適当に届けたって、分かりゃしねえと思ったんだよ」


 ……。


 私は、黒田を見つめました。


 黒田は続けました。


「桜川に住民票があれば、もう前の町にいないことになるだろ」


 私は、静かに言いました。


「なりません」


 黒田が顔を上げました。


「何?」


「住民票は、届出だけで現実を自由に変えられる魔法の紙ではありません」


「……」


「人がどこに住所を有するかは、実際の生活の本拠がどこにあるかという事実が重要なんです」


 私は、少し息を吸いました。


「転出届を出したからといって、本当に転出したとは限りません」


「……」


「転入届を出したからといって、本当にそこに住んでいるとは限りません」


 黒田の表情が、みるみる険しくなりました。


「実際の居住関係と記録が違えば、市町村は調査して、必要な修正や消除を行うことができます」


 私は、黒田をまっすぐ見ました。


「そして、虚偽の届出をした場合には、法律上の問題になります」


 黒田は、何も言いませんでした。


 その横で。


 相馬先輩が、低い声で言いました。


「夜逃げしようが、役所に嘘の転入届を出していいことにはならねえんだよ」


 黒田は、俯きました。


 私は、その姿を見ました。


 自信満々だった男。


 住所を変えれば逃げられると思っていた男。


 その男が。


 今は、たった数枚の書類の前で、言葉を失っています。


 なぜか。


 書類には、嘘を書ける。


 でも。


 いくつもの記録を突き合わせれば。


 嘘のつじつまが合わなくなることがあるからです。


 片桐所長が、静かに言いました。


「山下さんへの対応については、弁護士を通じてお話しください」


 黒田が、ゆっくり顔を上げました。


「……分かった」


 そして。


「俺も、弁護士に相談する」


 そう言い残して、事務所を出ていきました。


 ドアが閉まります。


 私は、しばらく動けませんでした。


「……先輩」


「何だ」


「すごかったですね」


「何が」


「住民基本台帳法です」


 相馬先輩が、鼻で笑いました。


「まだ金は返ってねえぞ」


「はい」


「市役所の調査も、全部終わったわけじゃねえ」


「はい」


「だから、事件が完全に片づいたわけじゃない」


「分かってます」


 私は頷きました。


 でも。


 大きな一歩です。


 黒田は、もう。


 誰にも居場所が分からない人間ではなくなりました。


 記録に残された日付が。


 逃亡の経緯を調べる手がかりになった。


 そして。


 山下さん夫妻が、法律上の請求を進めるための道が開かれたのです。


 それからしばらくして。


 山下さん夫妻が、再び事務所を訪れました。


「ありがとうございました」


 澄江さんが、深く頭を下げました。


「まだ全部終わったわけではありませんが……」


 私は頷きました。


「はい」


「黒田さん側の弁護士から、連絡があったんです」


「連絡?」


「工事を続けることはできないので、代金の返還について話し合いたいと」


 私は、息を呑みました。


「本当ですか?」


「はい」


 正一さんが言いました。


「返還の条件については、こちらの弁護士さんに任せています」


 なるほど。


 適切な形です。


 行政書士事務所は、契約書や資料を整理する。


 法律紛争の交渉は、弁護士が担当する。


 役所の住民記録の問題は、市町村が調査する。


 それぞれが、自分の役割を果たす。


 その結果。


 止まっていた事態が、ようやく動き始めたのです。


「それから」


 澄江さんが、少しだけ笑いました。


「厨房の修理も、別の業者さんにお願いすることにしました」


「よかった……!」


「工事が終わったら、お弁当屋を再開します」


 私は、胸が温かくなりました。


「絶対、買いに行きます!」


「ふふ。ありがとうございます」


 正一さんが、頭を下げました。


「本当に、助かりました」


 私は慌てて首を振りました。


「いえ! 私たちは、まだ大したことは……」


「そんなことありません」


 正一さんが言いました。


「私たち、もう諦めかけていたんです」


「……」


「住所が分からない。電話もつながらない。事務所もない」


 男性の声が、少し震えました。


「そんな相手に、何をしたって無駄だと思っていました」


 私は、黙って聞きました。


「でも」


 正一さんは続けました。


「役所の記録に、ちゃんと手がかりが残っていたんですね」


 ……。


 私は、思わず頷きました。


「はい」


 そして。


 少し考えてから、言いました。


「住民票って、人を縛るためだけのものではないんです」


「え?」


「今、誰がどこに住んでいるのか。それを公的に記録するためのものです」


 私は、澄江さんを見ました。


「だから、必要なときに、正当な手続で住所を確認することもできます」


「……そうなんですね」


「今回みたいに、相手が逃げてしまった場合でも」


 私は、小さく笑いました。


「紙が、道を残してくれることがあるんです」


 澄江さんの目から、涙が一粒落ちました。


「ありがとうございます」


 私は、少し照れくさくなりました。


 住民基本台帳法。


 転出届。


 転入届。


 除票。


 第三者による住民票の請求。


 受験勉強では、どれも無機質な言葉でした。


 でも。


 今日、私は知りました。


 それらの仕組みが。


 誰かの失われかけた生活を取り戻すための、最初の一歩になることもあるのです。


 二人が帰ったあと。


 私は机の上の住基法の条文を見つめていました。


「……先輩」


「何だ」


「住所って、不思議ですね」


「何が」


「引っ越すだけなのに、こんなに法律が関わっているなんて」


 相馬先輩が、新聞を畳みました。


「当たり前だろ」


「そうですか?」


「ああ。住所が変われば、役所の仕事だって変わる」


 私は頷きました。


 住民基本台帳。


 それは、単なる住所録ではありません。


 住民の居住関係を公的に示し、さまざまな行政事務の基礎となる記録です。


 選挙。


 福祉。


 保険。


 その他、住民に関する行政サービス。


 その土台には。


 誰が、どこに住んでいるかという情報があります。


「でも先輩」


「何だ」


「だからこそ、嘘の届出は駄目なんですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「住所の記録が間違ってりゃ、その上に乗っかる手続もおかしくなる」


「なるほど」


「それに、住所を勝手に他人へ漏らしていいって話でもねえ」


「……ですよね」


 私は少し嬉しくなりました。


 そうです。


 昭和では、住民基本台帳の閲覧制度が広く認められていました。


 でも。


 それは、他人の個人情報を好き勝手に利用していいという意味ではありません。


 実際、この時代の法律にも、不当な目的による閲覧を拒む仕組みがあります。


 公開されている制度と。


 権利を守る必要性。


 その両方を考えることが重要なのです。


「相馬先輩」


「何だ」


「私、最初は住基法って地味だと思ってました」


「ほう」


「でも、違いました」


「何が」


「今回は、転出届の日付が事件の鍵になったんです」


 私は指を立てました。


「しかも、転出先が書かれていても、そこに本当に住んだとは限らない」


「そうだ」


「転入届が出されていても、実際の住所と食い違うことがある」


「そうだ」


「だから、記録と現実を照らし合わせる必要がある」


 相馬先輩が頷きました。


「分かったじゃねえか」


 私は、少し得意になりました。


「はい!」


 そして。


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今回、何が一番大事だった」


 私は考えました。


 転出届。


 転入届。


 十四日以内。


 除票。


 職権による記録の修正。


 第三者による住民票の請求。


 全部、大切です。


 でも。


 一番重要だったこと。


 それは。


「……記録を、鵜呑みにしないことです」


 所長が頷きました。


「うん」


「転出届は、これから引っ越すという予定の届出です」


「そうだ」


「転入届は、実際に転入したあと、十四日以内に出す届出です」


「うん」


「同じ市町村内の引っ越しなら、転居届です」


 私は続けました。


「そして、住民票に記録された住所と、実際に住んでいる場所が違うこともある」


「そうだ」


「だから、住所の記録を確認するときは、いつ、何が届け出られたのか。そして、実際には何が起きていたのかを、分けて考える必要があります」


 所長は、静かに頷きました。


「それでいい」


 私は、嬉しくなりました。


 ようやく。


 住民基本台帳法の意味が、少し分かった気がします。


 そのとき。


 相馬先輩が、突然言いました。


「こはる」


「はい?」


「じゃあ、問題だ」


「問題?」


「ああ」


 先輩が、机に指を置きました。


「山下さんが、この町の中で引っ越したら?」


「転居届です!」


「期限は?」


「転居した日から十四日以内!」


「隣の市へ引っ越す場合は?」


「転出届を、あらかじめ出します!」


「転入先では?」


「実際に転入した日から十四日以内に、転入届です!」


 よし。


 完璧。


 相馬先輩が、少し笑いました。


「じゃあ、引っ越す前に転入届を出せるか?」


「いいえ!」


「なぜだ」


「まだ実際に転入していないからです!」


「よし」


 私は、拳を握りました。


 全部、正解。


 これはもう、住基法マスターと言っても過言では――。


「じゃあ」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「同じ市内で、隣の家に引っ越すときは?」


「転居届です!」


「隣の家でも?」


「同じ市町村内なら転居です!」


「じゃあ隣の家が、たまたま市境を越えた別の市だったら?」


「転出と転入です!」


「ほう」


「行政区域が違いますから!」


 私は得意になりました。


「先輩!」


「何だ」


「もう間違えません!」


「そうか」


「転出は事前! 転入と転居は十四日!」


「よし」


 私は笑いました。


 すると。


 片桐所長が、奥から声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「では、もう一問」


「はい!」


「住民票から除かれた人について、過去の住所の記録を確認したい場合は?」


「除票です!」


「よし」


「転出や死亡などによって除かれた住民票の記録です!」


「うん」


「ただし、必要な証明書が交付されるかどうかは、適用される法律と請求の条件によります!」


 所長が頷きました。


「いいだろう」


 やった。


 今日の勉強は、完璧です。


 私はノートを取り出しました。


 表紙には。


 ――こはるノート・住民基本台帳法編。


 そう書きました。


 そして。


 今日の事件を忘れないために、一行だけ書きました。


 ――転出は「これから」、転入・転居は「住んでから十四日」。除票は、消えた住所の足跡を残す。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、忘れません。


 黒田の事件を思い出せばいい。


 六月三日の転出届。


 六月十二日の代金受領。


 六月二十一日の転入届。


 半年間、誰も住んでいない空き店舗。


 そして。


 元の町に残されていた、資材置場の明かり。


 記録は、人間の行動をすべて教えてくれるわけではありません。


 でも。


 その記録と、実際に起きた出来事を照らし合わせたとき。


 隠されていた事実が、浮かび上がることがあります。


 住民基本台帳法。


 それは。


 人の住所を管理する法律であり。


 同時に。


 社会の中で、人の居住関係を正しく記録するための法律なのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、住所変更の届出を忘れたことはないか」


「え?」


「引っ越したときだよ」


 私は固まりました。


 ……。


 転生前。


 現代。


 大学生の頃。


 一度だけ。


 引っ越しのあと、住民票の手続を後回しにしてしまったことがありました。


「……先輩」


「何だ」


「十四日って、意外と短いですよね」


「何だ、その反応」


「いえ、その……」


「お前、まさか」


「昔の話です!」


「何が昔だ!」


「ちゃんと手続しましたから!」


「いつだよ!」


「それは……!」


 危ない。


 非常に危ない。


 昭和の行政書士事務所で。


 令和の自分の手続忘れが、掘り返されそうになっています。


 片桐所長が、静かに言いました。


「こはる」


「はい!」


「住民に求められるのは、正確な届出だ」


「はい!」


「後回しにしていいものではない」


「はい……」


 私は、素直に頷きました。


 住民基本台帳法第三条第三項。


 住民は、住民としての地位の変更に関する届出を正確に行うよう努めなければならない。


 虚偽の届出など、住民基本台帳の正確性を妨げる行為をしてはならない。


 そういうことでした。


 黒田のような悪意ある届出は論外です。


 でも。


 普通の人も、正確な届出をする必要があります。


 住民基本台帳は。


 役所が勝手に作るだけの記録ではありません。


 住民一人一人の、正しい届出によって支えられているのです。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい! 片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 年配の女性の声でした。


『ちょっと、お尋ねしたいんですが』


「はい」


『うちの息子が、結婚してから同じ家に住んでいるんですけど……』


「はい」


『お嫁さんと世帯を分けたいって言い出しまして』


 ……。


 私は、受話器を持ったまま固まりました。


 同じ家。


 同じ住所。


 でも。


 世帯を分けたい。


 なるほど。


 今度は、住所を変える話ではありません。


 世帯の話です。


『同じ家に住んでいても、住民票の世帯って分けられるんでしょうか?』


 私は、相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ています。


「先輩」


「何だ」


「次は、世帯分離です」


「聞こえてる」


「住所を変えないのに、住民基本台帳の手続が必要になるんですね!」


「そうだな」


「先輩!」


「何だ!」


「住基法、まだまだ奥が深いです!」


 相馬先輩は、深いため息をつきました。


「こはる」


「はい!」


「面白がってる暇があったら、相談内容を聞け!」


「はいっ!」


 私は、受話器を握り直しました。


「すみません。まず、ご家族の生活状況と、世帯を分けたい理由を教えてください」


 昭和六十三年。


 住民基本台帳法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。


 転出。


 転入。


 転居。


 そして。


 今度は、世帯。


 住所が同じでも。


 暮らし方は同じとは限らない。


 名前が台帳に載っているからといって。


 その人の生活のすべてが、紙から分かるわけでもない。


 だからこそ。


 記録と現実を、丁寧に照らし合わせる必要があるのです。


 私は、机の上の除票を思い出しました。


 黒田栄一。


 あの男は、住所を変えれば逃げられると思っていた。


 でも。


 転出届を出した日。


 転入届を出した日。


 そこに、本人が思いもしなかった意味が生まれてしまった。


 人は、姿を消せます。


 表札を外すこともできます。


 電話を止めることもできます。


 けれど。


 自分が残した行動の記録まで、すべて消せるわけではありません。


 そして。


 法律は、その記録を、必要なときに確かめるための道を用意しています。


 ただし。


 それは、誰でも自由に他人の人生を覗いてよいという意味ではない。


 権利を守るために、必要な情報を、正当な手続で確かめる。


 その区別を、私は今日、覚えました。


「こはる!」


「はい!」


「電話の相手を待たせるな!」


「あっ! すみません!」


 私は慌てて相談票を開きました。


 住民基本台帳法。


 地味だと思っていたこの法律には。


 人の暮らしと。


 人を守るための記録と。


 ときには、悪党が隠した真実まで。


 ぎっしり詰まっていたのです。


 だから。


 今日の教訓。


 転出届は、逃亡届ではありません。


 そして。


 住民票は、嘘を書けば真実になる魔法の紙でもありません。


 人がどこで暮らしているのか。


 最後に問われるのは、紙に書かれた都合のいい住所ではなく。


 その人が、実際に残した生活の足跡なのです。

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