[戸籍法・婚姻、離婚、氏と名の変更・転籍]法理編 こはるノート
名前は、結婚すると変わることがあります。
離婚すると、元に戻ることもあります。
けれど。
結婚したときの名字を、そのまま使い続けることもできます。
生まれたときにつけられた名前を、後から変更することだってできます。
そして。
本籍地を、まったく別の場所へ移すこともできます。
ただし。
どれも、好きなときに、好きな方法でできるわけではありません。
三か月以内なら、届出だけで済むもの。
家庭裁判所の許可が必要なもの。
戸籍の筆頭者が関係するもの。
それぞれ、条件が違うのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・戸籍法編。
と書いてあります。
「……名前って、難しいですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「名字と名前です」
「どっちも名前だろ」
「それが法律では違うんですよ!」
私は鉛筆を握りました。
「氏と名!」
「ああ」
「婚姻で変わる氏! 離婚で戻る氏! 家庭裁判所の許可が必要な名!」
「うん」
「それから転籍!」
「それは本籍地だろ」
「そうなんです!」
私は頭を抱えました。
「全部、戸籍法に出てくるのに、要件が違いすぎます!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「だったら、あの二人を思い出せ」
「あの二人?」
「高瀬美和さんと、月城圭介君だ」
私は鉛筆を止めました。
高瀬美和さん。
三十五歳。
元夫の暴力から逃れ、六歳の娘を連れて離婚した女性。
十年間使ってきた高瀬という名字を、そのまま使い続けたいと願っていました。
けれど。
離婚から三か月の期限が迫っていたのです。
しかも、元夫は言いました。
――高瀬は俺の家の名前だ。勝手に名乗るな。
一方。
月城圭介君。
二十歳。
戸籍上の名は、皇帝。
読み方は、カイザー。
その名前を理由に、学校でも就職活動でも苦労してきた青年でした。
家庭裁判所の許可を得て、長年使っていた圭介という名に変更しました。
そして。
美和さんは新しい生活のために、本籍地を東京へ移しました。
「……なるほど」
私は頷きました。
「一つの事件で、氏と名と転籍が全部出てきたんですね」
「そうだ」
「じゃあ今日は!」
私はノートを開き直しました。
「戸籍法の三大混同ポイントを、完全攻略します!」
「何で三大なんだ」
「婚氏続称、氏と名の変更、転籍です!」
「婚姻そのものは?」
「もちろん入れます!」
「離婚届は?」
「それも入れます!」
「子供の戸籍は?」
「……入れます!」
「増えてるじゃねえか」
「細かいことは気にしないでください!」
「細かいことを気にするのが法律だろ」
……。
正論です。
悔しい。
そこへ、奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「またですか」
「戸籍の届出は、一つ間違えると人の身分に関わる」
所長は帳簿を閉じました。
「曖昧なままにするな」
「はい!」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、婚姻からです!」
私はノートに大きく書きました。
――婚姻。
「先輩、結婚って、いつ成立するんですか?」
「婚姻届が受理されたときだろ」
「そうです!」
日本人同士の法律上の婚姻は、原則として戸籍法の定める届出によって効力が生じます。
結婚式を挙げただけでは、法律上の婚姻にはなりません。
指輪を交換しても。
披露宴を開いても。
親戚全員が認めていても。
それだけでは足りない。
「つまり、結婚式は豪華でも、婚姻届を出していなければ法律上は未婚ということがあるんです」
「そうだな」
「逆に、結婚式を挙げなくても、適法な婚姻届で婚姻は成立します」
「そうだ」
私はノートに書きました。
民法七百三十九条。
婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。
「この基本は、昭和でも現代でも変わりません」
ただし。
婚姻届には、必要な事項があります。
「たとえば、夫婦が称する氏です」
「うん」
「日本人同士の夫婦は、婚姻の際に夫または妻の氏を称します」
民法七百五十条。
婚姻における夫婦の氏。
私は二重線を引きました。
「ここで注意したいのが、夫の氏にしなければならないわけではないことです」
「そうだな」
「妻の氏を選んでもいい」
「ああ」
昭和六十三年。
社会には、結婚したら妻が夫の家に入るという感覚が、まだ強く残っています。
でも。
法律が決めているのは、必ず夫の氏にしろということではありません。
夫か妻か。
どちらの氏を称するかを決める。
「なのに、高瀬さんの元夫は……」
私は声を低くしました。
「高瀬は俺の家の名前だ!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえ」
「物真似の評価は求めてません!」
「お前、悪党の真似するときだけ元気だな」
私は咳払いしました。
「とにかく、名字は元夫の所有物ではないんです」
そして。
婚姻届には、夫婦の氏以外にも必要な事項があります。
当事者の氏名。
父母の氏名。
初婚か再婚か。
再婚なら、直前の婚姻が死別で終わったのか、離婚で終わったのか。
同居を始めた時期など。
「どうして、こんなに細かく書くんでしょう?」
私が尋ねると、片桐所長が答えました。
「婚姻は、二人の気持ちだけの問題ではないからだ」
「はい?」
「法律上の夫婦という身分関係が生じる」
なるほど。
婚姻によって、配偶者という法的地位が生まれます。
相続。
扶養。
親族関係。
そして氏。
だから、誰と誰が、いつ法律上の夫婦になったのか。
その事実を正しく記録する必要があるのです。
「つまり、婚姻届は愛情の証明書ではなく、法律上の身分関係を成立させる届出なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
結婚式は、一日。
婚姻の法律効果は、その後の人生に続く。
これは、かなり大きな違いです。
「次は離婚です!」
私はページをめくりました。
――離婚。
「先輩、協議離婚は、いつ成立しますか?」
「離婚届を出して、受理されたときだ」
「はい!」
民法七百六十四条。
協議離婚には、婚姻の届出に関する規定が準用されます。
だから。
夫婦で離婚に合意しただけでは、協議離婚は成立しません。
離婚届という法律上の手続が必要です。
「じゃあ、夫婦喧嘩で『今日から離婚だ!』って言った場合は?」
「それだけじゃ離婚にならねえ」
「ですよね!」
「いくら大声でもな」
「高瀬さんの元夫に聞かせたい言葉です」
私はノートに書きました。
協議離婚。
離婚の合意。
届出。
適法な受理。
この流れです。
「ただし、裁判などによる離婚では、効力が生じる時点が違う場合があります」
たとえば。
離婚判決が確定した場合。
離婚の効力は、判決の確定によって生じます。
その後に行う戸籍の届出は、成立した身分関係を戸籍に反映させるためのものです。
「ここ、試験では大事ですね」
「何がだ」
「協議離婚は届出によって成立。でも判決による離婚は、判決の確定で成立する」
「そうだ」
「同じ離婚届という言葉が出てきても、法律上の意味が違うんです」
私は赤線を引きました。
さらに。
裁判による離婚では、確定後の届出期限にも注意が必要です。
原則として、訴えを提起した者が、裁判確定の日から十日以内に必要な書類を添えて届け出ます。
「三か月じゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「何でも三か月にするな」
「はい……」
私はノートに書きました。
離婚判決確定後の届出。
十日以内。
婚氏続称の届出。
三か月以内。
「この二つ、絶対に混同しちゃいけませんね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「期限は、何のための期限なのかを考えろ」
私はその言葉を記しました。
なるほど。
法律の数字は、単独で覚えると混乱する。
何を届け出るのか。
いつから数えるのか。
誰が届け出るのか。
そこまでセットにしなければいけないのです。
「では、今回の大本命です!」
私は次のページを開きました。
――離婚による復氏と、婚氏続称。
相馬先輩が言いました。
「高瀬さんの事件だな」
「はい!」
私はノートに家族の名前を書きました。
妻。
高瀬美和。
夫。
高瀬義明。
娘。
高瀬の氏を称する六歳の子。
そして。
昭和六十三年三月三十日。
協議離婚。
「ここで重要なのが、民法七百六十七条です」
私は六法を開きました。
婚姻によって氏を改めた夫または妻は、協議離婚によって婚姻前の氏に復する。
「つまり、結婚によって氏を変えた人は、離婚すると原則として元の氏に戻るんです」
「そうだ」
「高瀬さんの場合、結婚前の氏は西村でした」
私は書きました。
婚姻前。
西村美和。
婚姻中。
高瀬美和。
離婚後の原則。
西村美和。
「でも!」
私は大きく丸を描きました。
「ここに例外があります!」
民法七百六十七条第二項。
婚氏続称。
離婚の日から三か月以内に届け出ることによって、離婚の際に称していた氏を称することができます。
「つまり、高瀬さんは、婚姻中に使っていた高瀬を引き続き称することができる」
「そうだ」
「しかも元夫の同意は必要ない!」
「そこが大事だな」
相馬先輩が頷きました。
私は机を指しました。
「元夫が『俺の許可がいる』と言っても、法律上そんな要件はありません!」
「そうだ」
「高瀬という氏を、元夫が独占できるわけではありません!」
「分かったから机を叩くな」
「叩いてません!」
「叩きそうだったぞ」
私は慌てて手を引っ込めました。
でも。
ここは本当に重要です。
婚氏続称は、元配偶者との契約ではありません。
元配偶者に名前を貸してもらう制度でもありません。
法律が認めた、本人による届出です。
だからこそ。
離婚後も仕事上の氏を変えたくない。
子供と同じ氏を使い続けたい。
長年その氏で暮らしてきた。
そうした人が、元配偶者の許可を求めずに手続をすることができるのです。
「ただし!」
私は自分で言いました。
「三か月以内!」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
「高瀬さんは三月三十日に離婚しました」
「ああ」
「六月二十九日に届出を済ませました」
「そうだ」
「だから間に合ったんです!」
私は大きく丸をつけました。
ここで注意。
三か月というのは、単純に九十日という意味ではありません。
暦に従って期間を計算します。
「一日違いで、手続が変わる可能性があるんですね」
「そうだ」
「怖い……」
私は鉛筆を握り直しました。
でも。
さらに大事なことがあります。
「所長、もし三か月を過ぎてしまったら、絶対に二度と高瀬という氏を使えないんでしょうか?」
所長は首を横に振りました。
「そこも区別が必要だ」
「はい?」
「婚氏続称の届出による方法は、期限を過ぎれば使えない」
「はい」
「だが、氏の変更には別の制度がある」
あ。
私は六法をめくりました。
戸籍法百七条。
氏の変更。
「家庭裁判所の許可ですね!」
「そうだ」
ただし。
こちらは、婚氏続称のように、期限内の届出だけで自由に選べる制度ではありません。
やむを得ない事由。
家庭裁判所の許可。
そして届出。
別の条件が必要です。
「つまり、三か月を逃したら、自動的に例外扱いしてもらえるわけではないんですね」
「そうだ」
「氏の変更を求めるなら、別途厳しい要件を満たす必要がある」
私はノートに書きました。
離婚後三か月以内。
婚氏続称の届出。
原則として家庭裁判所の許可不要。
三か月経過後。
婚氏続称の届出だけでは不可。
別途、氏の変更許可が問題となる。
「これ、完全に別物ですね」
「そういうことだ」
なるほど。
三か月という期限は、飾りではありません。
高瀬さんが、あの日あんなに必死だった理由が、ようやく分かりました。
「ところで」
私は手を挙げました。
「先輩、一つ疑問があります」
「何だ」
「高瀬さんは、離婚後も高瀬を名乗り続けることになりましたよね」
「ああ」
「じゃあ、娘さんも自動的にお母さんの戸籍へ移るんですか?」
「移らねえ」
「ですよね!」
「分かってるなら聞くな」
「確認です!」
ここも重要です。
離婚。
親権。
子供の氏。
子供の戸籍。
全部同じように見えますが、実は別の問題なのです。
私はノートに書きました。
母親が親権者になる。
だからといって。
子供が自動的に母親の戸籍へ移るわけではない。
「しかも、高瀬さんの場合、母親も娘さんも同じ高瀬という氏でした」
「そうだな」
「だから最初、私は勘違いしました」
同じ名字なら、同じ戸籍に入れる。
そんな単純な話ではありません。
婚氏続称によって母親が称する高瀬という氏と、婚姻中の父母の戸籍に残る子供の高瀬という氏は、法律上の戸籍の扱いを分けて考える必要があります。
「子供を母親の戸籍へ移すには?」
相馬先輩が尋ねました。
「家庭裁判所の子の氏の変更許可が問題になります!」
「そうだ」
民法七百九十一条。
子が父または母と氏を異にする場合には、家庭裁判所の許可を得て、その父または母の氏を称することができます。
そして。
戸籍法に従った届出を行います。
「ここで、高瀬さんのように、母子が同じ文字の氏を称している場合も注意が必要なんです」
「そうだな」
「離婚後の戸籍の編製状況によって、必要な手続を確認しなければなりません」
片桐所長が頷きました。
「文字が同じだからといって、確認を省くな」
「はい!」
私は書きました。
親権者の指定。
子の氏。
子の入籍。
それぞれ別に確認。
そして。
家庭裁判所で行う申立てについては、行政書士が代理するわけではありません。
必要に応じて、弁護士や司法書士に引き継ぐ。
行政書士として扱える戸籍関係の届書と、裁判所に提出する申立書を混同しない。
「先輩」
「何だ」
「名前一つでも、法律の境界線があるんですね」
「当たり前だ」
「行政書士だから全部できる、とはならない」
「そうだ」
私は頷きました。
高瀬さんの事件で、私たちは婚氏続称の届出を整えました。
けれど。
子供の氏について家庭裁判所の許可が必要となる場面では、適切な専門家を案内しました。
法律の知識があることと、その手続を職業として代理できることは違う。
これも、大事な教訓です。
「では、次です!」
私はノートをめくりました。
――氏の変更。
「先輩、氏と名って、変更の条件が違うんですよね」
「そうだ」
「ここ、受験生泣かせです」
「泣くな。覚えろ」
「冷たい!」
「戸籍は涙じゃ書き換わらねえ」
……。
またそれです。
私は六法を開きました。
戸籍法百七条第一項。
氏の変更。
やむを得ない事由がある場合に、家庭裁判所の許可を得て届け出る。
「ここで大事なのが、やむを得ない事由です」
「ああ」
「単に名字が気に入らない、というだけでは足りません」
氏は、本人だけでなく、戸籍を同じくする家族の身分関係にも関わります。
だから。
頻繁に変更されると、社会生活や身分関係の確認に混乱が生じることがあります。
「つまり、氏の変更には慎重な判断が必要なんですね」
「そうだ」
たとえば。
氏を変更しないと、社会生活に著しい支障が生じるような事情。
そうしたものが、やむを得ない事由として問題になります。
「高瀬さんの場合は?」
相馬先輩が尋ねました。
「三か月以内に婚氏続称の届出ができたので、一般の氏の変更許可を求める必要はありませんでした!」
「正解」
私は笑いました。
よし。
ここまでは順調です。
ところが。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「外国人と婚姻した場合はどうだ」
「……え?」
私は止まりました。
外国人との婚姻。
氏の変更。
あ。
「戸籍法百七条第二項です!」
私は六法をめくりました。
日本人が外国人と婚姻し、その外国人配偶者の称している氏に変更したい場合。
婚姻の日から六か月以内であれば、家庭裁判所の許可を得ずに、届出によって氏を変更することができます。
「六か月!」
私は大きく書きました。
「三か月じゃないんですね!」
「そうだ」
「ここ、絶対に混同します!」
「混同するな」
「努力します!」
私は例を書きました。
日本人。
山田花子。
外国人配偶者。
スミス。
婚姻後、スミスの氏に変更したい。
婚姻から六か月以内。
家庭裁判所の許可を得ない届出による変更が可能。
「さらに!」
私は続けました。
「この制度で外国人配偶者の氏に変更した人が、離婚などをした場合にも、特別な手続があります」
戸籍法百七条第三項。
離婚。
婚姻取消し。
配偶者の死亡。
そうした事情が生じた場合、一定の期間内に、以前の氏へ戻るための届出ができます。
「期間は?」
相馬先輩が聞きました。
「三か月以内です!」
「そうだ」
「また三か月!」
「数字だけで覚えるなよ」
「はい!」
私はノートに整理しました。
日本人同士の離婚による婚氏続称。
三か月。
外国人配偶者の氏への変更。
婚姻から六か月。
外国人配偶者の氏から、変更前の氏へ戻る特別な届出。
離婚などから三か月。
「同じ氏の変更でも、原因によって期限が違うんですね」
「そういうことだ」
私は大きく頷きました。
法律の期限は、数字ではなく、事件と結びつけて覚える。
これなら間違えにくいと思います。
「それでは!」
私は新しいページを開きました。
――名の変更。
「月城圭介さんの事件です!」
相馬先輩が頷きました。
「ああ。カイザー君か」
「先輩!」
「何だ」
「もう圭介さんです!」
「ああ、そうだったな」
私は少し頬を膨らませました。
でも。
相馬先輩も、悪気があったわけではなさそうです。
それだけ、昔の名前の印象が強かったのでしょう。
月城皇帝。
読み方はカイザー。
二十年間、その名を使うことに苦痛を感じてきた青年。
そして。
祖母が呼んでくれた、圭介という名前。
「ここで使ったのが、戸籍法百七条の二です」
私は書きました。
名の変更。
正当な事由。
家庭裁判所の許可。
届出。
「先輩、氏の変更と比べてください」
「何をだ」
「氏の変更には、やむを得ない事由」
「うん」
「名の変更には、正当な事由」
「そうだ」
「言葉が違います!」
私は二重線を引きました。
氏。
やむを得ない事由。
名。
正当な事由。
「これ、試験で入れ替えて出されたら危険です!」
「そうだな」
氏の変更では、社会生活上の著しい支障などが重要になります。
一方。
名の変更では、珍奇な名前や難読な名前、長年使用してきた通称など、具体的な事情から正当な事由が認められるかが問題になります。
「ただし」
私は自分で言いました。
「珍しい名前だから、必ず変更できるわけではありません!」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
「家庭裁判所が、個別の事情を判断します」
だから。
圭介さんの事件でも、私たちは証拠を整理しました。
祖母からの手紙。
友人の年賀状。
職場の名札。
長年、圭介という名前を使用してきた記録。
そして。
学校や就職活動で困ってきた事情。
「ただ変えたいと言うだけでなく、なぜ変更する必要があるのかを説明したんですね」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「申立人の事情を、資料で裏づけることが大切だ」
「はい!」
私は頷きました。
家庭裁判所が審査する手続では、本人の気持ちは重要です。
でも、それだけで結論が決まるとは限りません。
その名前で、どんな支障があったのか。
どのような経緯で変更を求めるのか。
日常生活で別の名前を使ってきたのか。
そうした事情が、判断の材料になります。
「ところで、先輩」
「何だ」
「家庭裁判所の許可が出たら、その瞬間に戸籍の名前が変わるんですか?」
「違う」
「そうです!」
私は書きました。
家庭裁判所の許可。
その後。
名の変更の届出。
この二段階です。
許可を得ただけで、戸籍の記載が自動的に変更されるわけではありません。
圭介さんも、許可を受けた後に届出を済ませました。
そしてようやく。
戸籍に、月城圭介という名前が記載されたのです。
「つまり」
私は言いました。
「家庭裁判所の許可と、戸籍の届出は、別の段階なんですね」
「そうだ」
「ここも覚えます!」
私はノートに丸をつけました。
氏の変更。
名の変更。
似ています。
でも。
必要な事由の表現が違う。
家庭裁判所の許可が必要かどうかも、特例によって変わる。
許可後には届出も必要。
この区別が、重要なのです。
「さて」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「最後の大物が残ってるぞ」
「転籍ですね!」
「ああ」
私はノートをめくりました。
――転籍。
本籍地を移転すること。
「高瀬さんは、東京に本籍を移したんですよね」
「そうだ」
「でも先輩。最初、私は転籍って、住所変更みたいなものだと思っていました」
「全然違うぞ」
「ですよね……」
私は鉛筆を握り直しました。
住所。
実際に生活する場所。
本籍。
戸籍が置かれる場所。
この二つは、必ずしも同じではありません。
「つまり、静岡に住んでいて、東京に本籍がある人もいるんですね」
「いるな」
「鹿児島に本籍を置いたまま、東京で働いている人も」
「ああ」
高瀬さんが、まさにそうでした。
結婚していた頃の本籍地は鹿児島。
生活していた場所は静岡。
そして離婚後、東京へ引っ越しました。
「住所を移したからといって、本籍が自動的に移るわけではないんですね」
「そうだ」
そこで登場するのが、転籍です。
戸籍法百八条。
私は六法を開きました。
「転籍をするときは、新しい本籍地を届書に記載して届け出ます」
「うん」
「届出人は、戸籍の筆頭に記載された者と、その配偶者です」
私は書きました。
夫婦が同じ戸籍にいる場合。
原則として筆頭者と配偶者が届け出る。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「高瀬さんは離婚していますよね」
「ああ」
「元夫の署名も必要なんですか?」
「必要ねえ」
「ですよね!」
私は思わず笑いました。
ここ、重要です。
高瀬さんが転籍するのは、元夫の戸籍ではありません。
離婚後に編製された、自分自身を筆頭者とする戸籍です。
だから。
元夫に転籍届への署名を求める必要はありません。
「もし元夫が『俺が署名しないから転籍できない』と言ってきたら?」
私は尋ねました。
「何の権限で署名するんだって話だな」
「そうです!」
私は机を指しました。
「離婚した元夫は、高瀬さんの新しい戸籍の配偶者ではありません!」
「そうだ」
「勝手に転籍を妨害できません!」
「だから机を叩くなって」
「叩いてません!」
……。
危ない。
また熱くなりました。
でも。
高瀬さんの元夫が、どれだけ間違った理屈を振りかざしていたのか。
こうして整理すると、よく分かります。
「ところで、所長」
私は奥の机を見ました。
「他の市町村に転籍するときは、どうするんですか?」
片桐所長が答えました。
「戸籍の謄本が必要だ」
「そうです!」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
他の市町村への転籍。
戸籍謄本を添付。
ここが、昭和の大きな壁でした。
鹿児島の本籍を東京に移す場合。
鹿児島の戸籍謄本が必要になる。
でも。
この時代、全国の戸籍がオンラインでつながっているわけではありません。
本籍地が遠ければ、郵送などで取り寄せる必要があります。
「婚氏続称のときも、鹿児島の戸籍が問題になりましたね」
「ああ」
「でも、婚氏続称と転籍は別の届出だから、必要な書類も個別に確認しなければならない」
「そうだ」
私は頷きました。
高瀬さんの事件で、片桐所長が最初に言いました。
――順序を間違えるな。
その意味が、ようやく分かりました。
まず。
三か月の期限が迫っていた婚氏続称の届出を済ませる。
次に。
娘さんの氏と戸籍について必要な手続を確認する。
そして。
新しい戸籍の状況を確認し、東京への転籍を進める。
「一度に全部やろうとしていたら、混乱していたかもしれませんね」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「期限があるものから、確実に処理する」
「はい!」
私は二重線を引きました。
手続の順序。
これは法律の条文だけでは分からない、実務の知恵です。
「でも、先輩」
「何だ」
「転籍届って、新しい本籍地でも出せるんですよね?」
「そうだ」
戸籍法百九条。
転籍の届出は、転籍地ですることもできます。
一般的な戸籍の届出地のルールに加え、転籍地でも届け出られるという規定です。
「つまり、高瀬さんは、新しく本籍を置く東京の市区町村でも届け出られたんですね」
「ああ」
「鹿児島まで本人が行かなくてもいい」
「そうだ」
私は頷きました。
昭和の戸籍は紙です。
遠方の戸籍謄本を取り寄せるのには時間がかかります。
でも。
本人が必ず元の本籍地まで出向かなければならないわけではありません。
届出できる場所と、添付する書類。
この二つを区別することが大切なのです。
「これ、分かっていないと大変ですね」
「そうだろ」
「鹿児島まで新幹線と列車を乗り継いで……」
「大変だな」
「しかも役所の閉庁時間が迫って……」
「なおさらだ」
「やっぱり昭和の戸籍って、時間との戦いですね!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「だから書類は先に揃えるんだよ」
私は頷きました。
そして。
もう一つ、気になっていたことを尋ねました。
「所長。転籍したら、元の戸籍の記録は全部消えるんですか?」
所長は首を横に振りました。
「消えない」
「ですよね」
「転籍は、過去の身分関係をなかったことにする制度ではない」
私は書きました。
転籍。
本籍地を移す。
過去の婚姻や離婚の事実そのものは消えない。
新しい戸籍にすべての過去の事項が同じように記載されるとは限らないが、従前の戸籍をたどって確認できる。
「つまり」
私は言いました。
「転籍したら戸籍が真っ白になって、過去が存在しなかったことになる、というわけではないんですね」
「そうだ」
「元夫との婚姻の事実も、消滅するわけではない」
「ああ」
私は少し考えました。
では、転籍にはどんな意味があるのでしょう。
高瀬さんは、なぜあんなに喜んでいたのでしょう。
答えは、手紙にありました。
――過去は消えない。でも、これからの人生を自分で選べる。
私は頷きました。
「所長」
「何だ」
「転籍は、過去を消す制度ではないけれど、新しい本籍を自分で定めるための制度なんですね」
「そうだ」
所長は短く答えました。
「本籍がどこにあるかと、人間の価値は関係ない」
私は、その言葉をノートに書きました。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「そろそろ時代の違いも整理しろ」
「はい!」
私は新しいページを開きました。
――昭和六十三年と令和八年の戸籍。
「まず、昭和です!」
昭和六十三年。
戸籍の実務は、紙の帳簿を中心に行われていました。
役所には、分厚い戸籍簿。
手書きやタイプライターによる記載。
戸籍謄本の取得も、基本的には本籍地の市区町村に請求する仕組みです。
遠くの本籍地の戸籍が必要なら、郵送で取り寄せるなどの手間がかかりました。
「高瀬さんの事件では、そこが問題になりましたね」
「そうだな」
「本籍地は鹿児島。今いるのは静岡」
「ああ」
「しかも、婚氏続称の期限まで残り一日!」
「危なかったな」
「本当に!」
私は頷きました。
そして。
令和八年。
現代の戸籍事務は、電算化が進んでいます。
令和六年三月一日からは、戸籍証明書等の広域交付制度も始まりました。
一定の戸籍謄本などについて、本籍地以外の市区町村の窓口でも請求できる仕組みです。
「便利になったんですね」
「未来の話だろ?」
「そうでした!」
私は慌てて口を押さえました。
相馬先輩が怪訝な顔をしています。
「お前、また妙なことを言い出したな」
「あ、いえ、その……将来は便利になるんじゃないかなって!」
「ずいぶん具体的な想像だな」
「夢がありますから!」
「戸籍で夢を見る奴も珍しいな」
……。
危ない。
未来人、また正体を疑われました。
私は慌てて話を続けました。
「ただし、広域交付があるからといって、すべての戸籍証明書を、誰でも、どこでも、どんな方法でも取れるわけではありません」
「ほう」
相馬先輩がこちらを見ました。
「そこは大事ですね」
私は頷きました。
広域交付には、請求できる人や証明書の種類、窓口での本人確認などの条件があります。
また、婚姻や離婚などの届出に添付する戸籍謄本についても、制度改正によって取扱いが変わっています。
「だから、昭和の書類の準備を、そのまま令和に当てはめてもいけないんです」
「なるほどな」
所長が頷きました。
「便利になっても、確認は必要ということだな」
「はい!」
私は少し嬉しくなりました。
昭和と令和。
技術は大きく違います。
でも。
誰の戸籍なのか。
誰が請求できるのか。
誰が届け出るのか。
どんな事実を記録するのか。
そうした法律上の確認が重要であることは、変わりません。
私はノートに書きました。
――戸籍の技術は変わっても、身分関係を正しく証明するという役割は変わらない。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「戸籍が電算化されると、何でも簡単になるのか?」
「手続は便利になります!」
「じゃあ、名前の変更も簡単になるのか?」
「……あ」
私は止まりました。
そうでした。
技術が進歩することと、法律上の要件が緩くなることは違います。
たとえば。
令和になって戸籍がデータ化されても、名の変更に正当な事由と家庭裁判所の許可が必要であるという基本構造がなくなるわけではありません。
婚氏続称の三か月という期限も、単に電子化されたから消えるわけではない。
「つまり、紙がデータになっても、法律の条件まで自動的に変わるわけではないんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「便利と自由は、別の話だからな」
私は鉛筆を止めました。
なるほど。
便利。
自由。
似ているようで、違う。
戸籍を簡単に取得できるようになること。
戸籍に記載された身分関係を、自由に変更できること。
それは同じではないのです。
「次は、戸籍とプライバシーです」
私はノートの端に書きました。
――戸籍は、誰でも自由に見られるものなのか。
「先輩、昭和って、戸籍が家のものみたいに扱われることが多いですよね」
「まあ、そういう感覚はあるな」
「高瀬さんの元夫も、まさにそうでした」
――高瀬は俺の家の名前だ。
――娘の戸籍も俺が決める。
私は思い出すだけで腹が立ちました。
けれど。
戸籍は、誰か一人が家族全員を支配するためのものではありません。
法律上の身分関係を記録し、公証するための制度です。
婚姻。
離婚。
親子関係。
氏名。
本籍。
そこに記録される情報は、非常に個人的なものです。
「だからこそ、戸籍を見せることにも慎重さが必要なんですね」
「そうだな」
私は続けました。
「現代では、戸籍証明書の請求についても、本人確認や請求権限の確認が重視されています」
誰でも理由なく、他人の戸籍を好き勝手に取得できるわけではありません。
ただし。
親族関係などに基づく法定の請求権が認められる場合もあります。
「だから、転籍したら元夫に絶対知られない、とは言えないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「身分関係によって請求できる場合もある。戸籍は秘密の隠れ家じゃねえ」
「はい」
私は頷きました。
高瀬さんのように、暴力を振るう元夫から逃れたい場合。
本籍を移すことと、安全を確保することは、別に考える必要があります。
住所を知られないようにするための公的な支援措置など、状況に応じた対応が必要になることがあります。
「転籍だけで安全が保証される、とは説明してはいけないんですね」
「そうだ」
所長が静かに言いました。
「できることと、できないことを、両方伝えるのが仕事だ」
「はい!」
私は赤線を引きました。
転籍は本籍地の変更。
過去の記録の抹消ではない。
安全確保の万能手段でもない。
この三つは、絶対に忘れないようにします。
窓の外は、いつの間にか夕暮れになっていました。
私はここまでのノートを見直しました。
婚姻。
離婚。
婚氏続称。
氏の変更。
名の変更。
転籍。
最初は全部、名前に関する似たような制度だと思っていました。
でも。
高瀬さんと月城さんの事件を思い出すと、それぞれの役割が見えてきます。
「所長!」
「何だ」
「確認問題を出してもらっていいですか?」
「いいだろう」
所長は少し考えました。
「婚姻は、結婚式を挙げれば成立するか」
「いいえ! 法律上の婚姻には、原則として適法な婚姻届が必要です!」
「夫婦は、必ず夫の氏を称するか」
「いいえ! 夫または妻の氏を称します!」
「協議離婚は、夫婦が口頭で合意しただけで成立するか」
「いいえ! 離婚届が必要です!」
「離婚によって氏を改めた者は、原則としてどうなる」
「婚姻前の氏に戻ります!」
「では、婚姻中の氏を続けたい場合は?」
「離婚の日から三か月以内に婚氏続称の届出をします!」
「元夫の同意は必要か」
「必要ありません!」
よし。
完璧です。
所長が続けました。
「一般の氏の変更に必要な事由は?」
「やむを得ない事由です!」
「名の変更は?」
「正当な事由です!」
「名の変更には、原則として何が必要だ」
「家庭裁判所の許可と、その後の届出です!」
所長が頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
やった。
ここまでは完璧。
「じゃあ俺からも一問」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい!」
「外国人と婚姻した日本人が、配偶者の氏に変更する特別な届出の期限は?」
「婚姻の日から六か月以内です!」
「よし」
「その制度で変えた氏を、離婚後に元へ戻す特別な届出は?」
「離婚の日から三か月以内です!」
「よし」
「転籍届の届出人は?」
「戸籍の筆頭者と、その配偶者です!」
「他市町村への転籍で、昭和六十三年に必要となる添付書類は?」
「戸籍謄本です!」
「転籍すると、過去の離婚歴は消えるか?」
「消えません!」
相馬先輩が頷きました。
「まあ、合格だな」
「本当ですか!」
「ああ」
「先輩が褒めてくれた!」
「一回くらいはな」
「今日は記念日ですね!」
「大げさだ」
私は笑いました。
でも。
そのとき。
所長が最後の問題を出しました。
「こはる」
「はい!」
「高瀬さんは、何を守りたかった」
私は止まりました。
……。
三か月の期限?
婚氏続称?
転籍?
違う。
それは手段です。
高瀬さんが本当に守りたかったもの。
私は、少し考えました。
「……自分と娘さんの生活です」
所長は黙って聞いていました。
「高瀬という名字を、十年間使ってきたんです」
「うん」
「仕事でも、幼稚園でも、その名前で暮らしてきた」
「そうだ」
「だから、元夫に決められるのではなく、自分の意思でその名前を使い続けたかったんです」
所長が頷きました。
「月城君は?」
「自分の名前で、堂々と生きたかったんだと思います」
「そうか」
「名前が変われば、過去の嫌な思い出が全部消えるわけではありません」
私は続けました。
「でも、これから人に呼ばれる名前を、自分のものとして受け入れられる」
少しだけ、胸が熱くなりました。
「二人とも、自分の人生を取り戻したかったんです」
所長は静かに言いました。
「それが分かればいい」
私は頷きました。
法律の勉強は、条文を覚えることです。
でも。
条文が何を守ろうとしているのか。
そこまで理解できると、忘れなくなる。
三か月。
正当な事由。
やむを得ない事由。
転籍。
どれも、ただの暗記項目ではありません。
あの人たちの人生を思い出せば。
数字も、要件も、自然に浮かんできます。
「よし!」
私はノートの最後のページを開きました。
「今日の一行を書きます!」
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――婚氏続称は「三か月以内の届出」、氏の変更は「やむを得ない事由」、名の変更は「正当な事由」、転籍は「本籍を移すだけ」。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
離婚した高瀬美和さん。
三か月という期限に追われていました。
元夫から名字を使うなと言われても、法律上必要なのは元夫の許可ではありませんでした。
必要だったのは、本人の意思による、期限内の適法な届出。
そして。
月城圭介さん。
自分の名を変えたいと願っていました。
けれど、希望するだけでは戸籍の名前は変わりません。
正当な事由。
家庭裁判所の許可。
その後の届出。
必要な手続を一つずつ進めたからこそ、名前を変えることができたのです。
さらに。
転籍。
高瀬さんは、本籍を東京に移しました。
それによって過去の婚姻や離婚が消えたわけではありません。
けれど。
自分の新しい生活に合わせて、本籍を定めることができました。
法律は、過去をなかったことにする魔法ではありません。
しかし。
過去があるからといって、未来の選択まで他人に奪われるわけでもない。
私は、そう思いました。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、その机の書類を片付けろ」
「え?」
「戸籍の資料が散らばってるぞ」
私は机を見ました。
六法。
戸籍法の資料。
婚姻届の書式見本。
転籍届の記載例。
そして。
ノート。
確かに、散らかっています。
「先輩」
「何だ」
「私、今日、名前の大切さを学びました」
「そうか」
「だから、先輩の名前も大切にしたいと思います」
「……何だ、急に」
私はにっこり笑いました。
「相馬閻魔さん!」
「だから、その名前はやめろ!」
「だって似合います!」
「似合っても変えねえよ!」
「でも先輩!」
「何だ!」
「戸籍法百七条の二では、名の変更には正当な事由が必要です!」
「知ってるよ!」
「先輩が毎日怖いから、閻魔に変更する正当な事由が……」
「あるわけねえだろ!」
私は笑いました。
「それに!」
私は指を立てました。
「本人が希望していませんから、そもそも駄目ですね!」
「今さら気づいたのか!」
そこへ。
片桐所長が、静かに口を開きました。
「相馬」
「はい?」
「閻魔に変えるなら、名の変更だな」
「所長!」
「氏を変えるわけではない」
「そこを整理しなくていいんです!」
私は吹き出しました。
所長。
またです。
今日も、妙に鋭い冗談です。
「じゃあ、所長!」
私は勢いよく言いました。
「片桐大魔王はいかがですか!」
……。
事務所が静まり返りました。
所長は、ゆっくり私を見ました。
「こはる」
「はい!」
「その提案には、正当な事由があるのか」
「……ありません!」
「なら、却下だ」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「所長、判断が早いです!」
「当然だ」
私は笑いながら、資料を片付け始めました。
窓の外。
昭和の町に、夕暮れの明かりが灯っていきます。
遠くで、踏切の警報音が鳴りました。
あの列車の先には、いくつもの町があります。
そして。
それぞれの町には、戸籍があります。
生まれた人。
結婚した人。
離婚した人。
名前を変えた人。
本籍を移した人。
数え切れないほどの人生が、紙の記録に残されています。
その一つ一つに。
家族の喜びや悲しみがある。
誰かと出会った日。
誰かと別れた日。
名前を守ろうとした日。
名前を変えようと決めた日。
戸籍は、それを記録します。
でも。
人生そのものを決めるのは、戸籍の紙ではありません。
その人が、これからどう生きていくか。
そこには、法律が守ろうとしている自由があります。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――婚氏続称は「三か月以内の届出」、氏の変更は「やむを得ない事由」、名の変更は「正当な事由」、転籍は「本籍を移すだけ」。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートばっかり見てねえで、片付けろ!」
「今、学習内容を確認していたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「もし私が名前を変えるなら、何がいいと思います?」
「変える必要ねえだろ!」
「でも!」
「でもじゃねえ!」
「朝比奈こはるから、朝比奈天才に!」
「却下!」
「どうしてですか!」
「正当な事由がねえ!」
……。
なるほど。
自分が天才だと思っているだけでは、名の変更が認められるとは限らないようです。
残念ながら。
戸籍法は、自称天才にも、なかなか厳しい法律なのでした。
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