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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈基礎知識 配点56点/300点〉 基礎知識

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693/701

[戸籍法・婚姻、離婚、氏と名の変更・転籍]現場編 「あと一日で、私の名前が消える」の罠。三か月の期限と、元夫が握る戸籍の鎖

挿絵(By みてみん)

 名前は、自分のものだと思っていました。


 生まれたときから呼ばれて。


 学校で書いて。


 仕事で使って。


 結婚して変わって。


 離婚したら、また変わる。


 でも。


 もし、その名前を守るために、たった三か月という期限があったら。


 もし、別れた夫が、


「お前は一生、俺の名字から逃げられない」


 と笑っていたら。


 そして。


 生まれたときにつけられた名前が、二十年間も自分を苦しめていたとしたら。


 法律は、その人たちに何ができるのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、三つの手続に出会うことになります。


 婚氏続称。


 名の変更。


 転籍。


 どれも、名前と戸籍に関係する制度です。


 そして。


 どれも使い方を間違えると。


 誰かの人生を、他人の都合で縛り続けることになるのです。


「あと一日しかないんです!」


 朝九時。


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 飛び込んできた女性は、肩で息をしていました。


 三十代半ば。


 薄い青色のブラウス。


 右手には、古びた茶封筒。


 左手には、小さな女の子の手を握っています。


「お願いです!」


 女性は頭を下げました。


「私の名前を、取り上げないでください!」


 ……。


 名前?


 私は思わず立ち上がりました。


「落ち着いてください。まず、お掛けになってください」


 女性は椅子に座りました。


 女の子も、その隣に腰を下ろします。


 六歳くらいでしょうか。


 黄色いワンピースを着ています。


「お名前を伺ってもいいですか?」


「高瀬美和です」


「高瀬さんですね」


「はい。でも……」


 女性は唇を噛みました。


「法律上は、もう高瀬ではないんです」


「……え?」


 女性は茶封筒から、一枚の紙を取り出しました。


 離婚届の受理証明書。


 日付は。


 昭和六十三年三月三十日。


「三か月前に、離婚しました」


「はい」


「夫の暴力がひどくて、娘を連れて家を出たんです」


 私は女の子を見ました。


 母親の手を、ぎゅっと握っています。


「ようやく離婚届に判を押してもらえて……」


 美和さんは続けました。


「これで自由になれると思いました」


 ところが。


 離婚してから、奇妙なことが起きたそうです。


 銀行。


 勤め先。


 娘の幼稚園。


 あらゆる場所で、名前が問題になった。


「私は結婚してから、十年間、高瀬美和として暮らしてきました」


「はい」


「娘も、高瀬です」


「そうですね」


「だから離婚しても、そのまま高瀬を名乗っていました」


 私は頷きかけました。


 でも。


 次の言葉で止まりました。


「昨日、市役所に行ったら言われたんです」


 美和さんは震える声で続けました。


「離婚した以上、婚姻前の氏に戻っている。高瀬を続けたいなら、三か月以内に届け出てくださいって」


 ……。


 あ。


 私は背筋を伸ばしました。


 民法七百六十七条。


 離婚による復氏。


 そして。


 婚氏続称。


 婚姻によって氏を改めた人は、離婚すると原則として婚姻前の氏に戻る。


 ただし。


 離婚の日から三か月以内に届け出れば、離婚の際に称していた氏を引き続き称することができる。


「高瀬さん!」


「はい!」


「離婚した日は三月三十日ですね!」


「はい!」


 私は壁の暦を見ました。


 今日は。


 六月二十九日。


 つまり。


「明日です!」


「……え?」


「三か月の期限、明日までです!」


 美和さんの顔が青ざめました。


「やっぱり……」


 私は慌てて言いました。


「大丈夫です! まだ一日あります!」


 よし。


 今回は間に合う。


 令和の知識があります。


 現代なら、戸籍の広域交付だってある。


 市役所に行って必要書類を確認して、すぐに手続を――。


「相馬先輩!」


「何だ」


「戸籍謄本を取ってきます!」


「どこの?」


「本籍地です!」


「どこだ?」


 私は美和さんを見ました。


「本籍地はどちらですか?」


「……鹿児島です」


 ……。


 鹿児島。


 ここは静岡県の地方都市です。


 遠い。


 ものすごく遠い。


「じゃあ、近くの市役所で広域交付を……」


「何だそれ」


 相馬先輩が顔を上げました。


「え?」


「こういき、何だって?」


 しまった。


 私は固まりました。


 戸籍の広域交付制度。


 現代では、本籍地以外の市区町村窓口でも、一定の戸籍証明書を取得できる仕組みがあります。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 戸籍の電算化が本格的に広がる前。


 役所の戸籍簿は、分厚い紙の帳簿です。


 全国の戸籍がオンラインでつながっているわけではありません。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「お前、鹿児島の戸籍を、この町の窓口から取り出せると思ってんのか?」


「あ、いえ……」


「できるわけねえだろ」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ!」


 またです。


 未来人。


 今度は戸籍の制度で地雷を踏みました。


 しかも。


 期限は明日。


 鹿児島から紙の戸籍謄本を郵送してもらっていたら、間に合わない可能性があります。


 私は頭を抱えました。


「ど、どうしましょう……」


「落ち着け」


 相馬先輩が言いました。


「まず、その届出に何が必要か確認しろ」


「はい」


「転籍と婚氏続称をごちゃ混ぜにするなよ」


「……え?」


 私は顔を上げました。


 そのとき。


 奥の机から、片桐所長の声がしました。


「こはる」


「はい!」


「名前を残すのに、鹿児島まで行く必要があるのか」


 私は息を止めました。


 ……そうだ。


 戸籍法。


 届出地。


 本人の本籍地。


 そして。


 届出人の所在地。


「所長!」


「何だ」


「戸籍法二十五条!」


 私は六法を開きました。


 戸籍法に基づく届出は、原則として本人の本籍地又は届出人の所在地で行う。


 つまり。


「今いる場所の市役所でも、婚氏続称の届出ができます!」


「そうだ」


「鹿児島まで行かなくても!」


「うん」


 私は机を叩きそうになりました。


 危ない。


 依頼人の前です。


 落ち着きましょう。


 でも。


 見えました。


 昭和の戸籍は紙です。


 本籍地が遠いと、戸籍証明書の取り寄せには時間がかかる。


 けれど。


 すべての届出について、本籍地まで本人が出向かなければならないわけではない。


 しかも、今回必要な婚氏続称の届出と、後で考える転籍の手続は別です。


「高瀬さん」


 私は言いました。


「明日までに、婚氏続称の届出を済ませる方法があります」


 美和さんの目が大きくなりました。


「本当ですか……?」


「はい。ただし、今すぐ準備しましょう」


 相馬先輩が机から相談票を取りました。


「戸籍の状況と届出書の記載事項を確認する。役所にも必要な取扱いを確認するぞ」


「はい!」


 私は大きく頷きました。


 期限を守るために。


 まず必要なのは、遠くの戸籍を追いかけることではない。


 今、どの届出を、どこへ出せるのか。


 そこを正確に見極めることだったのです。


「でも……」


 美和さんは、まだ不安そうでした。


「元夫が、許さないと言っているんです」


「……許さない?」


「はい」


 美和さんは茶封筒から、もう一枚の紙を取り出しました。


 夫から届いた手紙です。


 差出人。


 高瀬義明。


 そこには、乱暴な字でこう書かれていました。


 ――離婚した女が、いつまでも高瀬を名乗るな。


 ――高瀬は俺の家の名前だ。


 ――勝手に名乗り続けるなら、役所に抗議する。


 ――娘も高瀬家の人間だ。俺の許可なく戸籍を動かすな。


 私は手紙を読み終えました。


 ……。


 腹が立ちます。


 ものすごく腹が立ちます。


 名字を、所有物か何かだと思っているのでしょうか。


「高瀬さん!」


「はい」


「元夫の許可は必要ありません!」


 美和さんが顔を上げました。


「……え?」


「婚氏続称は、法律で認められた手続です。元夫の同意をもらう制度ではありません!」


「本当に……?」


「はい!」


 私は六法を指しました。


「離婚の日から三か月以内に、ご本人が届け出ることによって、離婚の際の氏を称することができるんです!」


 美和さんの目から涙がこぼれました。


「でも、夫は……」


「夫が何を言っても、要件を満たした届出を妨げる理由にはなりません」


 そこで。


 相馬先輩が口を開きました。


「ただしな」


「はい?」


「一つ、確認する」


 先輩は美和さんを見ました。


「離婚したとき、お子さんの親権者は誰になりました?」


「私です」


「離婚届にも、そう書いてある?」


「はい」


「そうか」


 相馬先輩は頷きました。


「じゃあ、子供の氏の問題は別に整理する必要がある」


「……え?」


 美和さんが首をかしげました。


「私が高瀬を名乗れるようになれば、娘もそのままでいいんじゃないんですか?」


 私は口を開きかけました。


 でも。


 先輩の視線が飛んできました。


 余計なことを断定するな。


 そういう目でした。


 私は慌てて考えました。


 離婚。


 母親の氏。


 子供の氏。


 そして戸籍。


 ……あ。


 同じ名字。


 でも、同じ戸籍とは限らない。


「高瀬さん」


 私はゆっくり言いました。


「娘さんの氏や戸籍が、離婚だけで自動的にお母さんと同じ状態になるとは限らないんです」


「……そうなんですか?」


「はい。親権者になったことと、子供の氏や戸籍が変わることは別です」


 相馬先輩が頷きました。


「そこを勘違いすると、後で困る」


 美和さんは娘を見ました。


 女の子は、母親の手を握ったままです。


「じゃあ、この子は……」


「まず、お母さんの期限のある届出を済ませます」


 私は言いました。


「そのうえで、娘さんの氏と戸籍について必要な手続を確認しましょう」


 片桐所長が静かに頷きました。


「慌てて一度に全部変える必要はない」


「はい」


「順序を間違えないことだ」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 順序。


 法律の手続では、とても重要です。


 一つの届出を済ませたからといって、家族全員の身分関係が自動的に変わるとは限らない。


 逆に。


 全部を一度に片付けようとして、明日までの期限を逃してしまったら。


 取り返しのつかない面倒が増えるかもしれません。


「よし」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「こはる。市役所へ行くぞ」


「はい!」


「届出書の準備と確認だ」


「分かりました!」


「泣いたって戸籍は変わらねえ。必要なのは、正しい届出と期限だ」


「先輩、もう少し優しい言い方を……」


「期限が優しく延びてくれるなら、いくらでも優しく言うさ」


 ……。


 反論できません。


 残り一日。


 昭和の戸籍は、今日も容赦がないのです。


 午前十一時。


 市役所の戸籍窓口。


 私は、棚に並んだ分厚い戸籍簿を見ていました。


 重そうな表紙。


 細かな見出し。


 紙。


 紙。


 とにかく紙。


 令和の感覚でいえば、検索ボタン一つで見つけたい情報が、ここでは人の手で管理されています。


「……すごいですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が言いました。


「これ、全部紙なんですね」


「当たり前だろ」


「間違ってページを破いたら大変そうです」


「大変に決まってるだろ」


「バックアップは?」


「……ばっく?」


「いえ、何でもありません」


 危ない。


 また未来の言葉を使うところでした。


 窓口の職員が、こちらを見ました。


「片桐事務所さんですね」


「どうも。婚氏続称の届出について確認したいんですが」


 相馬先輩が用件を伝えました。


 職員は書式を取り出しました。


 戸籍法七十七条の二。


 離婚の際に称していた氏を称する届。


「離婚年月日は?」


「三月三十日です」


「それなら明日が期限ですね」


「はい」


 職員は頷きました。


「届出人の所在地がこちらですから、当市でも受け付けることができます」


 私は思わず笑顔になりました。


 よし!


 ところが。


 職員は続けました。


「ただ、本籍地が鹿児島でしたね。記載事項の確認は必要ですし、戸籍への反映には時間がかかります」


 私は身を乗り出しました。


「ということは、明日までに鹿児島で戸籍の記載が終わらないと駄目ですか?」


「いいえ。そこは違います」


 職員が言いました。


「届出の期限と、届出を受けた後の戸籍事務の処理は、分けて考えてください」


 ……。


 私は止まりました。


 そうか。


 受理されるべき届出が期限内に行われたか。


 その後、関係する市区町村間で戸籍の処理が進められるか。


 この二つは、同じではない。


「つまり、期限内の届出をきちんと成立させることが大事なんですね」


「そうです」


 相馬先輩が横から言いました。


「お前、やっと分かったか」


「はい!」


「だったら、余計なこと考えずに書式を見ろ」


「はい……」


 私は届出書を受け取りました。


 そこには。


 離婚の年月日。


 離婚の際に称していた氏。


 届出人の情報。


 必要な事項を正確に記載する欄が並んでいました。


 元夫の承諾欄などありません。


 私は心の中で拳を握りました。


 高瀬義明。


 残念でした。


 あなたがどんな手紙を書いても。


 ここには、あなたの許可を求める欄はないのです。


 事務所に戻ったのは、正午過ぎでした。


 美和さんには、必要事項と届出の意思を改めて確認してもらいました。


 私は原案を整えます。


 相馬先輩が確認。


 片桐所長が最終確認。


 そして。


 美和さん自身が、届出書に署名しました。


「これで……」


 美和さんは自分の名前を見つめました。


 ――高瀬美和。


「私は、この名前を使い続けられるんでしょうか」


 片桐所長が言いました。


「期限内に、要件を満たす届出をします」


「はい」


「その氏を称するかどうかは、元夫が決めることではありません」


 美和さんは、しばらく黙りました。


 それから。


「……ありがとうございます」


 小さな声で言いました。


 そして。


 その日の午後。


 美和さんは、私たちが整えた書類を持って市役所へ向かいました。


 必要な確認を受け、届出は無事に受理されました。


 六月二十九日。


 期限の前日。


 婚氏続称。


 間に合いました。


「やりましたね!」


 事務所に戻った私は、思わず叫びました。


「まだ終わりじゃねえぞ」


 相馬先輩が言いました。


「え?」


「最初の依頼は終わった。だが、相談はそれだけじゃないだろ」


「……あ」


 そうでした。


 元夫の手紙。


 娘の戸籍。


 そして。


 美和さんが言っていた、もう一つのこと。


 ――あの人から、完全に離れたい。


 片桐所長が美和さんに尋ねました。


「本籍地については、どうお考えですか」


「……本籍地?」


「今後、どこに置くかです」


 美和さんは顔を上げました。


「変えられるんですか?」


「はい。転籍という手続があります」


 転籍。


 本籍地を移すことです。


 私は六法を開きました。


 戸籍法百八条。


「それです!」


 私は勢いよく言いました。


「本籍地を別の場所に移すことができます!」


 美和さんは目を見開きました。


「じゃあ……」


「はい」


「夫の家の本籍地から、離れられるんですか?」


「ご自身の戸籍について、適法に転籍の手続を進めることができます」


 私は答えました。


「ただし!」


 相馬先輩が割り込みました。


「こはる。転籍すれば何が起きるか、正確に言え」


「……はい?」


「本籍を移せば、昔の戸籍の記録が全部消えるのか?」


「え?」


「離婚した事実も、元夫との婚姻の記録も、存在しなかったことになるのか?」


 私は固まりました。


 ……ならない。


 当然です。


 転籍は、過去を消す魔法ではありません。


 戸籍の記載には、その人の身分関係の履歴を証明する役割があります。


 転籍して新しい戸籍が編製されても、古い戸籍が何もなかったことになるわけではない。


 必要な場合には、従前の戸籍をたどって過去の身分関係を確認することもある。


「すみません」


 私は言いました。


「転籍で過去の記録が消えるわけではありません」


「そうだ」


「それに、元夫から絶対に居場所を知られなくなる、という制度でもありません」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


 私は美和さんを見ました。


「でも、高瀬さん」


「はい」


「転籍には意味があります」


 私は言いました。


「元夫の家と同じ本籍地に、いつまでも縛られる必要はありません。ご自身の新しい戸籍の本籍を、別の場所に定めることができるんです」


 美和さんは、しばらく考えていました。


「私……」


 その声が震えました。


「娘と、東京に行こうと思っているんです」


「東京?」


「はい。姉が住んでいて、仕事も紹介してくれるそうなんです」


 なるほど。


 新生活。


 今の町を離れて。


 娘と二人で暮らす。


「じゃあ、新しい本籍も東京に……」


 私が言いかけると。


「できる」


 片桐所長が言いました。


「ただし、先に確認することがある」


「はい?」


「美和さんの新しい戸籍の状態だ」


 私は頷きました。


 離婚。


 復氏。


 婚氏続称。


 新戸籍。


 それぞれの処理を確認してから、転籍を考える。


「それと」


 所長が続けました。


「お子さんの戸籍は、別に確認する必要がある」


 あ。


 またです。


 私は美和さんの娘を見ました。


 幼い女の子は、机の上に置かれた鉛筆を眺めています。


「この子も、一緒に東京の戸籍に入れたいんです」


 美和さんが言いました。


「できますか?」


 私は少し考えました。


 母親が離婚しても、子供の戸籍は自動的に母親の戸籍へ移るわけではありません。


 子供の氏を母親の氏に変更する手続には、家庭裁判所の許可が問題になります。


 そして。


 許可を得た後、戸籍の届出が必要になる。


 同じ「高瀬」という文字を使っていても、法律上は母親の婚氏続称と子供の氏の問題を区別しなければならない。


「所長」


 私は言いました。


「娘さんについては、家庭裁判所の手続が必要になるんですね」


「そうだ」


「それが済んでから、戸籍への入籍届を考える」


「うん」


「転籍だけで娘さんを自動的に移せるわけではない」


 所長が頷きました。


「分かってきたな」


 私は少し嬉しくなりました。


 でも。


 美和さんの表情は曇っていました。


「家庭裁判所……」


「はい」


「裁判をするんですか?」


 私は慌てて首を振りました。


「元夫と争う裁判が必ず始まる、という意味ではありません。子供の氏の変更について、家庭裁判所の許可を求める手続です」


「そうなんですね……」


「ただし、家庭裁判所で行う申立ては、行政書士が代理する仕事ではありません」


 片桐所長が言いました。


「必要な案内はします。裁判所への申立書類の作成や代理が必要なら、司法書士や弁護士に相談していただくことになります」


 美和さんは頷きました。


「分かりました」


 そして、小さく笑いました。


「でも……」


「はい?」


「初めて、自分で選べる気がします」


 私は彼女を見ました。


「今までは全部、夫が決めていたんです」


 住む場所。


 働くこと。


 娘の幼稚園。


 親戚との付き合い。


 名前まで。


「でも、これからは……」


 美和さんは娘の頭を撫でました。


「自分たちの暮らす場所を、自分で決めたいんです」


 私は胸が熱くなりました。


 転籍。


 ただ本籍地を移すだけの制度。


 試験のテキストなら、一行で終わるかもしれません。


 でも。


 この人にとっては。


 誰かの家の中で生きてきた人生から、一歩外へ出るための手続なのです。


 ところが。


 その日の夕方。


 事務所に、もう一人の相談者がやってきました。


「……名前を変えたいんです」


 二十歳の青年でした。


 細身。


 白いシャツ。


 少し長い前髪。


 表情は暗く、声も小さい。


「お名前は?」


 私が聞くと、青年は俯きました。


「笑わないでください」


「……え?」


「絶対に、笑わないでください」


 私は頷きました。


「もちろんです」


 青年は、学生証を差し出しました。


 そこに書かれた名前を見て。


 私は一瞬、息を止めました。


 ――月城皇帝。


 ……。


 皇帝。


 皇帝と書いて。


「読み方は……」


 青年が小さな声で言いました。


「カイザーです」


 ……。


 カイザー。


 私は表情を動かさないようにしました。


 ものすごく頑張りました。


「月城……カイザーさん、ですね」


「はい」


 青年は唇を噛みました。


「父親が、外国の皇帝に憧れてつけたそうです」


「そうなんですね」


「子供の頃から、ずっと笑われてきました」


 私は黙りました。


「小学校では、王様って呼ばれて」


「……はい」


「中学校では、軍隊ごっこの大将にされて」


「……はい」


「高校では、先生まで名前を読み間違えて」


 青年の声が震えました。


「就職の面接でも、笑われたんです」


 私は顔を上げました。


「面接で?」


「はい」


 青年は鞄から一枚の紙を取り出しました。


 不採用通知。


 その隣には、面接のときに書かれた質問メモ。


 ――珍しいお名前ですね。


 ――本名ですか。


 ――何かの芸名ではありませんか。


 青年は言いました。


「名前を聞かれるたびに、自分の人生を説明しなきゃいけないんです」


 私は何も言えませんでした。


 名前。


 自分で選んだわけではない。


 でも。


 一生、呼ばれ続ける。


 履歴書にも。


 卒業証書にも。


 免許証にも。


 そして。


 就職の面接でも。


「父は言うんです」


 青年は続けました。


「俺がつけた名前を嫌がるなんて、親不孝だって」


 ……。


 私は拳を握りました。


 またです。


 また、誰かが名前を所有物のように扱っている。


 さっきの元夫と同じ。


 名字は俺の家のもの。


 名前は俺がつけたもの。


 だから、お前には選ぶ権利がない。


 そんな理屈。


 私は、どうしても納得できませんでした。


「月城さん」


 私は言いました。


「変えたい名前は、決まっていますか?」


「……はい」


 青年は小さな紙を取り出しました。


 そこには。


 丁寧な字で。


 ――月城圭介。


 と書いてありました。


「圭介……」


「はい」


「どうして、その名前に?」


 青年は少しだけ笑いました。


「小さい頃、おばあちゃんが、そう呼んでくれたんです」


「おばあちゃんが?」


「皇帝なんて、子供には重すぎるって」


 青年の目が潤みました。


「だから、家では圭介って呼んでくれていました」


 私は紙を見つめました。


 月城圭介。


 普通の名前です。


 でも。


 その青年にとっては。


 二十年間、ずっと欲しかった名前だったのです。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく言いました。


「名の変更ですね! 戸籍法百七条の二です!」


 青年が顔を上げました。


「変えられるんですか?」


「はい! 正当な事由があれば、家庭裁判所の許可を得て変更できます!」


 よし。


 今度は間違いありません。


 戸籍法。


 名の変更。


 正当な事由。


 家庭裁判所の許可。


 そして届出。


 完璧です。


 ……と思ったのですが。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今、お前は何を約束した」


「名の変更ができると……」


「確実に許可が出るのか?」


「……あ」


 私は固まりました。


 そうでした。


 家庭裁判所の許可。


 つまり。


 本人が希望すれば、必ず変更できるわけではありません。


「珍しい名前だから、即変更できると思うな」


「はい……」


「正当な事由があるかどうかは、具体的な事情で判断される」


 相馬先輩は青年を見ました。


「名前が珍しいだけじゃ、足りないこともある」


 青年の顔が曇りました。


「……やっぱり、無理なんですか」


「まだそんなことは言ってねえ」


 相馬先輩は続けました。


「困っている事実を集めろってことだ」


「事実……?」


「学校で何があった。仕事で何があった。普段、どの名前を使ってきた。客観的に示せるものはあるか」


 青年は鞄を開きました。


 そこから出てきたのは。


 何通もの手紙でした。


 祖母からの手紙。


 友人からの年賀状。


 アルバイト先の名札。


 どれにも。


 ――圭介。


 という名前が使われています。


「これは……」


 私は驚きました。


「ずっと圭介って名前を使ってきたんですか?」


「はい」


「いつから?」


「中学校に入った頃からです」


「それなら……」


 私は紙を一枚ずつ確認しました。


 学校関係の資料。


 勤務先の記録。


 友人からの手紙。


 そして、青年自身が書き留めていた、名前による支障の記録。


 なるほど。


 単に変わった名前が嫌だ、という話ではありません。


 長年、別の名前を社会生活で使用してきた事情がある。


 実際に、名前によって困難を感じてきた経緯もある。


 その事情を、資料で説明できる。


「所長!」


 私は言いました。


「これ、証拠になりますね!」


 片桐所長が頷きました。


「事情を裏づける資料にはなる」


「はい!」


「ただし、許可するかどうかは家庭裁判所が判断する」


「分かっています!」


 私は青年を見ました。


「月城さん」


「はい」


「絶対に許可されるとは約束できません」


 青年は黙って聞いています。


「でも、あなたが長年困ってきたこと。そして圭介という名前を使ってきたこと。そうした事情を、きちんと説明する材料があります」


「……はい」


「家庭裁判所に相談して、名の変更許可の申立てを検討しましょう」


 青年は目を伏せました。


 そして。


「……ありがとうございます」


 小さく言いました。


 片桐所長が続けました。


「申立ての書類作成については、司法書士など適切な専門家を案内します。許可が出た場合、その後の戸籍の届出については、こちらでも必要事項を確認できます」


「分かりました」


 青年は、初めて少しだけ笑いました。


 その顔を見て。


 私は思いました。


 名前を変えることは、親を否定することではありません。


 自分の人生を、自分の名前で生きたい。


 それだけの願いが、あるのです。


 翌日。


 六月三十日。


 午前十時。


 事務所に、高瀬美和さんから電話が入りました。


『先生……!』


「はい、高瀬さん!」


『元夫が……!』


 私は息を呑みました。


「どうしました?」


『今朝、家に来たんです!』


「えっ!」


『お前はまだ高瀬を名乗っているのかって!』


 電話の向こうで、美和さんの声が震えます。


『勝手に名字を使うなって……』


 私は受話器を握りました。


 あの男。


 まだそんなことを。


『それに、娘を連れて行くなら、戸籍を取り上げるって……』


 私は顔を上げました。


 片桐所長が、静かにこちらを見ていました。


「高瀬さん」


 私は言いました。


「昨日の届出は、受理されています」


『……はい』


「あなたが高瀬の氏を称し続けるために、元夫の許可は必要ありません」


『……本当ですか』


「はい」


 私は続けました。


「ただし、元夫が家に押しかけているなら、安全を優先してください。危険があれば警察に相談してください」


『分かりました……』


「娘さんの戸籍の手続も、順番に進めていきましょう」


『……はい』


 電話が切れました。


 私は大きく息を吐きました。


「所長」


「何だ」


「あの元夫、ひどいですね」


「ああ」


「婚氏続称の届出が受理されているのに、まだ名前を使うなって……」


 所長は静かに言いました。


「人間はな」


「はい」


「法律上の権限がなくても、権限があるように振る舞うことがある」


 私は黙りました。


「だからこそ、身分関係を正しく記録することが大切なんだ」


 そうか。


 戸籍は。


 誰かが自分勝手に家族を支配するための道具ではない。


 婚姻した事実。


 離婚した事実。


 氏が変わった事実。


 子供の身分関係。


 それらを、法律に従って明らかにするための制度です。


 元夫がどれだけ怒鳴っても。


 適法な届出の効力まで、怒鳴り声で消せるわけではない。


「所長」


「何だ」


「私、昨日まで、戸籍ってただの記録だと思っていました」


「うん」


「でも違うんですね」


 所長は私を見ました。


「どう違う」


「名前や身分を勝手に決めつけられないようにする。そのための証明でもあるんですね」


 所長は頷きました。


「そうだ」


 そして。


 いつもの低い声で言いました。


「戸籍という紙切れ一枚に、人間の愛憎すべてが詰まっている」


 私は、その言葉を忘れないようにしました。


 それから数週間。


 月城皇帝さんの件にも、進展がありました。


 紹介先の司法書士の助力を受け、本人が家庭裁判所に名の変更許可を申し立てたのです。


 資料は、丁寧に整理されました。


 祖母からの手紙。


 友人の証言書。


 長年使用してきた名前の記録。


 学校や職場での事情。


 そして。


 本人が、なぜ名の変更を望むのかを書いた書面。


 家庭裁判所は、必要な調査を行いました。


 すぐに答えが出たわけではありません。


 けれど。


 ある日の午後。


 青年が事務所に駆け込んできました。


「先生!」


 私は顔を上げました。


「あ、月城さん!」


 青年は封筒を握っていました。


「……出ました!」


「何がですか?」


「許可です!」


 ……。


 私は立ち上がりました。


「本当ですか!」


「はい!」


 青年は家庭裁判所の審判書を見せてくれました。


 名の変更を許可する内容でした。


「よかった……!」


 私は思わず声を上げました。


 青年は笑っていました。


 前に来たときとは、まるで別人です。


「圭介に、なれるんですね」


 その声は震えていました。


「あと、届出が必要です」


 相馬先輩が言いました。


「え?」


「家庭裁判所の許可が出ただけで、戸籍の名前が勝手に書き換わるわけじゃねえ」


「あ……」


 青年は慌てました。


 私は笑いました。


「大丈夫です。今度は、その届出をきちんと進めましょう」


 所長が頷きました。


「審判書など、必要な書類を確認しろ」


「はい!」


 私は戸籍法百七条の二を開きました。


 正当な事由。


 家庭裁判所の許可。


 そして。


 名の変更の届出。


 この順番です。


 青年は必要な手続を済ませました。


 そして、後日。


 変更後の戸籍証明書を持ってきてくれたのです。


 そこには。


 ――月城圭介。


 と記されていました。


「……これが」


 青年は、紙を見つめました。


「僕の名前です」


 私は頷きました。


「はい」


「もう、自己紹介で笑われるのが怖くない気がします」


 その目から涙が落ちました。


「おばあちゃんが呼んでくれた名前で、生きていけるんですね」


 私は胸がいっぱいになりました。


 戸籍法百七条の二。


 たった一つの条文。


 でも。


 その条文が、この青年の二十年間を変えたのです。


 さらに、その翌月。


 美和さんからも便りが届きました。


 東京へ引っ越したそうです。


 娘さんと二人。


 小さなアパート。


 新しい仕事。


 新しい幼稚園。


 そして。


 子供の氏についても、家庭裁判所で必要な許可を得たうえで、戸籍の届出を済ませたとのことでした。


 私は手紙を読み進めました。


 最後に、こう書かれていました。


 ――本籍地も、東京に移すことができました。


 私は顔を上げました。


「所長!」


「何だ」


「高瀬さん、転籍も終わったそうです!」


「そうか」


「娘さんと新しい生活を始めたって!」


 相馬先輩が手紙を覗きました。


「ほう」


「よかったですね!」


「ああ」


 私は続けて読みました。


 ――最初は、転籍すれば昔のことが全部消えると思っていました。


 ――でも、先生方に教えていただいて分かりました。


 ――過去の結婚も、離婚も、なかったことにはならないんですね。


 ――それでも、私は今の自分の人生を選べる。


 ――それが、何より嬉しいです。


 私は、その一文を何度も読みました。


 過去は消えない。


 離婚した事実も。


 かつて誰かと結婚した事実も。


 戸籍の記録には残る。


 けれど。


 だからといって。


 過去の家族関係が、その人の未来を永遠に支配していいわけではない。


 婚氏続称。


 名の変更。


 転籍。


 どれも目的は違います。


 どれも要件が違います。


 家庭裁判所の許可が必要なものもあれば、期限内の届出でできるものもあります。


 そして。


 全部に共通することが、一つだけあります。


 自分の名前と身分に関する法律上の扱いを、他人の勝手な理屈だけで決めさせない。


 そのための仕組みがあるということです。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、ちょっと不思議なことに気づきました」


「またか」


「名字を変えない人と、名前を変える人が、同じ日に来たんですよね」


「ああ」


「高瀬さんは、名字を残したかった」


「そうだな」


「月城さんは、名前を変えたかった」


「うん」


「正反対なのに、二人とも同じものを求めていたんです」


 相馬先輩が顔を上げました。


「何だ」


 私は少し考えました。


 そして答えました。


「自分の名前を、自分の人生のものにしたかったんです」


 先輩は、しばらく黙っていました。


 それから。


「……まあな」


 短く言いました。


 珍しい。


 今日は否定しませんでした。


 私は笑いました。


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は答えました。


「離婚した人が婚姻中の氏を引き続き称するには、離婚の日から三か月以内の届出が必要です」


「うん」


「名の変更には、正当な事由と家庭裁判所の許可が必要です」


「そうだ」


「転籍は本籍地を移す手続ですが、過去の身分関係を消すものではありません」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートを開きました。


 そして、一行だけ書きました。


 ――戸籍は過去を記録する。でも、未来の名前まで他人に支配させる制度ではない。


 よし。


 これなら、忘れません。


 そのとき。


 相馬先輩が言いました。


「ところで、こはる」


「はい?」


「お前、自分の名前を変えたいと思ったことはあるか?」


「え?」


 私は少し考えました。


 朝比奈こはる。


 うん。


 気に入っています。


「ありません!」


「そうか」


「はい!」


「じゃあ、よかったな」


「何がですか?」


「お前みたいに騒がしい奴が、さらに名前まで派手にしたら大変だ」


「どういう意味ですか!」


 相馬先輩が笑いました。


 私は腕を組みました。


「じゃあ先輩は、名前を変えたいと思ったことはないんですか?」


「ねえな」


「本当に?」


「ああ」


「相馬誠司。いい名前ですよね」


「急に何だよ」


「でも、もし変えるなら……」


 私は考えました。


「相馬大魔王とか!」


「何でだよ!」


「似合うと思います!」


「お前、喧嘩売ってんのか!」


「名の変更には正当な事由が必要ですから、たぶん無理ですね!」


「当たり前だ!」


 私は笑いました。


 すると。


 片桐所長が、ぽつりと言いました。


「相馬」


「はい?」


「大魔王より、閻魔の方が似合うな」


 ……。


 一瞬。


 事務所が静まり返りました。


 そして。


「所長まで何を言ってるんですか!」


 相馬先輩の叫び声が響きました。


 私は机に突っ伏して笑いました。


 珍しい。


 片桐所長の冗談です。


 しかも。


 かなり的確です。


 相馬閻魔。


 ……うん。


 似合いすぎです。


 昭和六十三年。


 戸籍は、まだ紙の世界です。


 遠い本籍地から戸籍謄本を取り寄せるには、時間がかかる。


 届出書には、手書きの文字。


 確認するのは、役所の職員。


 間違いがあれば、訂正。


 期限があれば、急がなければならない。


 便利なデータの仕組みは、まだありません。


 けれど。


 紙だからこそ。


 一枚の届出書を、自分の手で書く重みがある。


 婚姻届。


 離婚届。


 名の変更届。


 転籍届。


 そこにあるのは、ただの文字ではありません。


 誰と家族になるのか。


 誰と別れるのか。


 どんな名前で生きるのか。


 どこに新しい本籍を置くのか。


 人生の大切な選択が、紙の上に記されているのです。


 高瀬美和さんは、三か月の期限に間に合いました。


 元夫の許可なしに、十年間使ってきた名字を守りました。


 月城圭介さんは、家庭裁判所の許可を得て、長年望んでいた名前を手に入れました。


 そして。


 美和さんは娘と一緒に、新しい土地で暮らし始めました。


 過去を消したわけではありません。


 元夫との関係が、何もなかったことになったわけでもありません。


 それでも。


 自分の名前で、これからの人生を生きていく。


 その一歩を踏み出したのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「何をぼんやりしてる!」


「人生について考えてました!」


「考える前に、机の書類を片付けろ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、今日分かりました!」


「何がだ!」


「名前って、大切なんですね!」


「そりゃそうだろ!」


「だから先輩!」


「何だよ!」


「相馬閻魔への改名、諦めないでください!」


「最初から希望してねえよ!」


 ……なるほど。


 本人が希望しない名の変更を、勝手に進めてはいけない。


 当たり前ですが。


 これも大切な教訓のようです。


 私は笑いながら、机の書類を揃えました。


 戸籍法。


 婚姻。


 離婚。


 氏と名の変更。


 転籍。


 試験では、どれも細かな期限や手続を覚える分野です。


 でも。


 今日の私は、その数字を忘れないと思います。


 三か月。


 家庭裁判所の許可。


 新しい本籍。


 なぜなら。


 その向こう側に。


 名前を奪われそうになって泣いていた母親と。


 二十年間、自分の名前を呼ばれることが怖かった青年がいたからです。


 そして。


 私は今日、ひとつだけ確信しました。


 名前をつけた人が偉いわけでも。


 結婚によって名字を与えた人が偉いわけでもありません。


 戸籍は、誰かの支配を証明するためのものではないのです。


 だから。


「俺の名字だ。勝手に使うな」


 そう勝ち誇る相手ほど。


 戸籍法を開いた瞬間。


 顔色が変わることがある。


 そして、そのときこそ。


 私は胸を張って言ってやりたいのです。


 ――その名前は、あなたの所有物ではありません。


 名前の向こうには。


 その人自身の人生があるのですから。

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