[行政書士法・会則遵守義務と行政書士法人]現場編 「看板を貸しただけだ」の嘘。会則を踏みにじる悪徳代書屋と、存在しない法人の正体
看板を掲げることと、その看板に責任を持つことは、同じではありません。
たとえば。
立派な事務所。
豪華な応接室。
何人もの従業員。
そして、壁に飾られた行政書士の登録証。
それだけを見れば、誰だって信用してしまうでしょう。
でも。
もし、その行政書士が事務所にほとんど来ていなかったら。
実際に仕事をしているのが、資格のない人間だったら。
しかも、依頼人から受け取ったお金の領収証すら出していなかったら。
その立派な看板は、いったい誰を守っているのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、行政書士という資格の、少し怖い一面を知ることになります。
行政書士法。
会則の遵守義務。
名義貸し。
そして。
まだ、この時代には存在しないはずの制度。
行政書士法人。
未来の知識を持つ私にとって、これほどややこしい事件はありませんでした。
「先生、うちの父が、行政書士に二十万円も取られたんです」
朝一番。
事務所に駆け込んできた女性は、そう言いました。
「……二十万円?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、三浦由紀子さん。
二十九歳。
町外れで運送業を営む父親を手伝っているそうです。
「父の会社で、新しく運送関係の許可手続きを進めることになったんです」
「はい」
「それで、駅前にできた大きな法律事務所みたいなところにお願いしたんですけど……」
女性は鞄から、一枚の広告を取り出しました。
私は受け取りました。
そこには、大きな文字。
――東海総合法務センター。
その下に。
――行政書士業務・各種営業許可・契約書作成。
――専門家集団が、あなたの事業を全面支援。
さらに。
――代表 黒田剛三。
とあります。
「行政書士事務所ですか?」
「そう聞いています」
「申請は終わったんですか?」
「いいえ」
「え?」
「半年たっても、何も進んでいないんです」
……半年?
私は広告を見直しました。
「それなのに、二十万円?」
「はい。最初に全額払いました」
「領収証はありますか?」
由紀子さんは首を横に振りました。
「何度お願いしても、出してくれないんです」
「……え?」
「担当者は、黒田先生がまとめて管理しているから大丈夫だって」
その瞬間。
横で新聞を読んでいた相馬先輩が、ぴたりと手を止めました。
「今、何て言った?」
「領収証が、ないんです」
「違う。その前だ」
「黒田先生が管理していると……」
「誰が仕事をしてる?」
由紀子さんは少し考えました。
「担当の大沢さんという方です」
「行政書士か?」
「分かりません」
「黒田本人には会ったか?」
「……一度もありません」
相馬先輩が新聞を畳みました。
嫌な予感。
こういうときの先輩は、だいたい何かを見つけています。
「所長」
相馬先輩が奥へ声をかけました。
「名義貸しの臭いがします」
片桐所長が、帳簿から顔を上げました。
「……資料は」
「これから確認します」
「うん」
所長は短く頷きました。
私は首をかしげました。
名義貸し。
行政書士の名前だけを使わせて、実際には別の者が業務を行う。
それは、もちろん問題です。
でも。
「先輩」
「何だ」
「大きい事務所なら、担当者が別でもおかしくないですよね?」
「おかしくねえ場合もある」
「ですよね」
「だが、資格者が責任を持って業務を行っているかどうかは別だ」
「……あ」
「補助者が仕事を手伝うことと、無資格者が勝手に行政書士業務を引き受けることを一緒にするな」
なるほど。
そこですね。
現代の私は、つい考えてしまいます。
大きな法人。
複数の行政書士。
補助者。
支店。
組織的な業務分担。
今の行政書士法人なら、そうした体制もあります。
だから。
「行政書士法人なら、社員の行政書士が業務を分担して……」
「何だって?」
相馬先輩が顔を上げました。
「行政書士法人です」
「……何法人?」
「行政書士法人」
「お前、また変なこと言い出したな」
……しまった。
私は固まりました。
行政書士法人。
現代の行政書士法では、行政書士が法人を設立できる制度があります。
名称。
社員の資格。
定款。
登記。
業務執行。
代表。
支店への常駐。
競業禁止。
そして、法人に対する懲戒。
行政書士試験でも、条文がずらっと並ぶところです。
でも。
昭和六十三年。
行政書士法人という制度は、まだありません。
「……すみません」
「何だ」
「今のは忘れてください」
「忘れられるか。何なんだ、その法人は」
「未来の……いえ、私の勘違いです」
危ない。
また未来の法律を口走りました。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「この町に、大きな行政書士事務所を構えることはできる」
「はい」
「しかし、行政書士という資格は、看板を掲げた会社へ渡せるものではない」
「……はい」
「誰が登録を受け、誰が責任を持って仕事をしたのか。そこを調べろ」
私は頷きました。
そうです。
昭和の行政書士は、個人の資格と責任で仕事をしています。
事務所が大きいからといって、無資格者に資格まで分け与えられるわけではありません。
「由紀子さん」
私は向き直りました。
「まず、契約のときのことを詳しく教えてください」
「はい」
「誰が説明しましたか?」
「大沢さんです」
「申請書類を作っているのも?」
「大沢さんだと思います」
「お金を渡したのも?」
「大沢さんです」
「黒田先生は?」
「奥にいると聞きました。でも、いつ行っても不在で……」
相馬先輩が低い声で言いました。
「なるほどな」
そして。
「所長。会の登録情報も確認します」
「頼む」
私は少し驚きました。
会?
行政書士会ですか?
片桐所長は私を見ました。
「こはる。行政書士は、資格を持っていれば好き勝手に仕事をしていいのか」
「いいえ」
「何を守る」
「行政書士法です」
「それだけか」
「……会則?」
「そうだ」
私は六法を開きました。
行政書士法。
行政書士会。
会則。
そして、会則の遵守義務。
「所長、行政書士会の決まりも守らないといけないんですよね」
「当然だ」
「法律だけ守ればいい、というわけではない」
「そういうことだ」
相馬先輩が笑いました。
「資格ってのは、取ったら何でもできる免許状じゃねえんだよ」
……なるほど。
試験に合格すること。
登録を受けること。
そして、資格者として仕事を続けること。
全部、別の話なんですね。
でも。
まだこの時点では。
私は、その違いがどれほど恐ろしいものか、理解していませんでした。
◇
翌日。
相馬先輩は、行政書士会への照会で得た情報を机に広げました。
「黒田剛三」
「はい」
「行政書士として登録されている」
「じゃあ、本物なんですね?」
「登録自体はな」
私は少し安心しました。
しかし。
先輩の顔は、まったく安心していません。
「大沢という男は?」
「行政書士としての登録は確認できなかった」
「……え?」
「センターを実際に仕切っているのは、そいつらしい」
私は広告を見ました。
東海総合法務センター。
代表。
黒田剛三。
では、黒田さんは何をしているのでしょう。
「所長」
私は聞きました。
「黒田さんがちゃんと指導監督していたら、問題ない可能性もありますよね?」
「ある」
「でも、実際には?」
「確認が必要だ」
片桐所長は、由紀子さんから預かった書類を並べました。
申込書。
手続費用の預り証。
申請のために集めた戸籍や会社関係の資料。
そして。
一枚の名刺。
――東海総合法務センター。
――業務統括責任者 大沢勝利。
そこには、行政書士の文字がありませんでした。
「こはる」
「はい」
「これを見ろ」
所長が示したのは、費用の預り証でした。
金二十万円。
受領者。
東海総合法務センター。
ただし。
印鑑はありません。
内訳もありません。
何の手続に、いくらの報酬と実費が必要だったのか。
まったく分かりません。
「……雑ですね」
私が言うと、相馬先輩が鼻で笑いました。
「雑で済むなら苦労しねえ」
「え?」
「金を受け取ったことは分かる。だが、依頼された仕事の中身と金の流れが分からねえ」
「はい」
「しかも半年、申請した形跡がない」
先輩は続けました。
「登録を受けた行政書士が、どこまで関与していたのかも不明だ」
私は背筋が冷たくなりました。
これは。
単なる書類の遅れではありません。
資格の信用そのものに関わる問題です。
「調べましょう!」
私は立ち上がりました。
「黒田先生のところへ!」
「おう」
相馬先輩が上着を取りました。
「ただし、喧嘩しに行くんじゃねえぞ」
「分かってます!」
「本当か?」
「事実確認です!」
「よし」
こうして。
私たちは、駅前の東海総合法務センターへ向かいました。
◇
そこは、想像以上に立派な建物でした。
三階建て。
ガラス張りの入口。
大きな看板。
受付には、制服を着た女性。
「……すごいですね」
私は思わず呟きました。
「片桐事務所の十倍くらい立派です」
「聞こえてるぞ」
「すみません!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「建物で仕事は決まらねえ」
「はい」
「紙切れ一枚、まともに作れねえ奴もいる」
そのとき。
「何のご用ですか?」
奥から男が現れました。
四十代半ば。
高そうな背広。
金時計。
そして、妙に自信満々な笑顔。
「業務統括責任者の大沢です」
相馬先輩が名刺を出しました。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
大沢は笑いました。
「何だ、同業者じゃありませんか」
……同業者?
私は眉をひそめました。
「三浦さんから、こちらの手続について相談を受けています」
相馬先輩が言いました。
「依頼人の了承を得て、書類の作成状況などを確認したいのですが」
「ああ、三浦さん」
大沢は肩をすくめました。
「細かい人ですよね」
……。
私は一瞬、言葉を失いました。
半年待たされて。
二十万円払って。
申請が進んでいるかも分からない。
それで、細かい?
「こちらでは、誰が行政書士として業務を担当されていますか」
相馬先輩が聞きました。
「黒田先生ですよ」
「黒田先生は、今いらっしゃいますか」
「忙しいんです」
「どちらに?」
「いろいろですよ」
「申請書の内容を確認しているのも、黒田先生ですか」
「当然でしょう」
「では、作成済みの書類について、本人に確認させていただけますか」
大沢の笑顔が消えました。
「……何が言いたいんですか」
相馬先輩は表情を変えません。
「事実を確認しています」
「うちは大きな組織なんですよ」
大沢は胸を張りました。
「田舎の小さな事務所とは違うんです」
うわ。
言いました。
片桐事務所を敵に回す言葉です。
「うちには十人以上のスタッフがいます。営業担当も、書類担当もいる」
「はい」
「黒田先生が全部一人でやる必要なんてないでしょう」
私は口を開きました。
「補助者が仕事を手伝うのは分かります。でも、行政書士業務そのものを無資格者が独立して引き受けることは――」
「だから!」
大沢が声を荒らげました。
「黒田先生の名前でやってるんですよ!」
……。
その瞬間。
相馬先輩の目が細くなりました。
「名前で?」
「ああ」
「黒田先生の名前があれば、誰が仕事をしてもいいと?」
「そうですよ」
大沢は笑いました。
「行政書士なんて、結局は看板でしょう?」
……看板。
「名前を借りて、うちが仕事を回す。黒田先生には毎月金を払ってる。それで何が悪い」
私は息を呑みました。
今。
この人。
何と言いました?
「名前を借りているんですか?」
私が聞くと、大沢は鼻で笑いました。
「そうですよ」
「それは……」
「先生の名前で仕事をしているんだから、問題ないでしょう」
私は思わず言いました。
「それ、名義貸しじゃないですか!」
大沢の顔が固まりました。
「……は?」
「行政書士の資格は、他人に貸していいものじゃありません!」
「何だと?」
「資格がない人が、資格者の名前だけ使って行政書士業務をするなんて!」
「お嬢ちゃん」
大沢が低い声で言いました。
「法律ってのは、商売を知らない人間が振り回すもんじゃないんだよ」
私はむっとしました。
しかし。
相馬先輩が私の前に手を出しました。
「こはる」
「はい」
「もういい」
「でも!」
「必要なことは聞けた」
先輩は大沢を見ました。
「黒田先生ご本人にも、事実を確認する必要がありますね」
「好きにしろよ」
大沢は笑いました。
「ただし、余計なことをして営業妨害するなよ」
……。
私は拳を握りました。
悔しい。
こんな人が。
行政書士の看板を使っているなんて。
でも。
相馬先輩は一言だけ言いました。
「看板ってのはな」
「何だ?」
「借りた奴より、貸した奴のほうが怖い目に遭うこともあるんだよ」
大沢は、意味が分からないという顔をしました。
私も、まだ全部は理解できませんでした。
◇
事務所へ戻ると。
私は机に六法を置きました。
「所長!」
「何だ」
「名義貸しです!」
「聞いた」
「本人が認めました!」
「発言内容は記録したか」
「はい!」
私は相談記録を差し出しました。
日時。
場所。
相手。
発言。
相馬先輩が確認した内容。
全部書きました。
片桐所長はそれを読みました。
「……うん」
「どうですか?」
「大沢の言葉だけで、黒田の関与の程度まで断定するな」
「はい」
「だが、調査を求める理由にはなる」
なるほど。
相手が偉そうに自白したからといって、それだけで全事実が確定するわけではありません。
そこは慎重に。
「ところで、所長」
「何だ」
「行政書士会の会則に違反すると、どうなるんですか?」
所長は六法を開きました。
「会則を守るのは、行政書士の義務だ」
「はい」
「会費の納入や、業務上の取扱いについても、会の規律がある」
「はい」
「ただし、会則違反と刑罰や懲戒処分は、何でも同じものとして扱ってはいかん」
「……あ」
「どの行為が、どの法令や規律に違反するのか。一つずつ調べる」
私は頷きました。
名義貸し。
報酬の取扱い。
帳簿。
依頼人への対応。
これらは、それぞれ確認が必要です。
所長は続けました。
「そして、懲戒は俺たちが決めるものではない」
「都道府県知事ですね」
「そうだ」
私は六法をめくりました。
行政書士に対する懲戒。
戒告。
業務停止。
業務禁止。
「つまり、問題を確認したら、県へ事実を知らせることもできるんですね」
「そうだ。だが、処分するかどうかは権限を持つ側が判断する」
「はい」
「俺たちは証拠を整理する」
また。
書類です。
片桐事務所の武器。
そして、私が毎回思い知らされること。
行政書士は、相手を怒鳴り負かす職業ではありません。
事実を集める。
整理する。
正確に書く。
必要な手続につなげる。
それが仕事なのです。
そのとき。
相馬先輩が電話を置きました。
「所長」
「どうした」
「黒田本人と話ができました」
「何と言っている」
「自分は事務所にほとんど出ていないそうです」
私は顔を上げました。
「え?」
「月に一度、書類を見る程度だと」
「……それって」
「しかも、三浦さんの案件は知らないとさ」
私は絶句しました。
知らない?
二十万円も受け取って。
半年も待たせて。
その資格者が、依頼そのものを知らない?
「黒田先生は、何のために名前を貸してるんですか?」
相馬先輩が苦笑しました。
「月々の金だろうな」
「……」
「資格の値札を、自分で付けちまったんだよ」
私は、何も言えませんでした。
◇
数日後。
黒田剛三が、片桐事務所を訪れました。
六十歳を過ぎた、小柄な男性でした。
背広はくたびれています。
顔色も悪い。
「……申し訳ありません」
黒田は、座るなり頭を下げました。
「大沢から、名前を貸してほしいと言われたんです」
「はい」
「最初は断りました」
黒田は震える手を握りました。
「でも、年金だけでは生活が苦しくて……」
私は黙って聞きました。
「毎月五万円払うと言われました」
五万円。
「仕事はしなくていい。ただ、登録している行政書士の名前が必要だと」
黒田はうつむきました。
「それで……」
片桐所長が言いました。
「貸したのですか」
「……はい」
沈黙。
時計の音だけが響きました。
「黒田先生」
私は口を開きました。
「行政書士会の決まりをご存じですよね」
「……はい」
「資格を持っている人だけが、責任を持って行政書士の仕事をする。それが大前提ですよね」
「分かっています」
「だったら、どうして……」
言いかけた私を、所長が止めました。
「こはる」
「はい」
「責める前に、確認だ」
私は口を閉じました。
所長は黒田を見ました。
「三浦さんの件について、大沢にどこまで任せていましたか」
「全部です」
「書類の内容は?」
「知りません」
「報酬の額は?」
「知りません」
「依頼人の名前は?」
「今日、初めて聞きました」
……。
これは。
もう、補助者の仕事という話ではありません。
登録を受けた行政書士が、実際の業務を把握していない。
それなのに、名前だけを使わせている。
「黒田さん」
相馬先輩が言いました。
「大沢は、行政書士の資格を持っていません」
「はい」
「それで、自分が業務を仕切り、金も受け取っている」
「……はい」
「あなたの名前で」
「はい」
黒田は、とうとう顔を覆いました。
「こんなことになるとは……」
私は胸が苦しくなりました。
でも。
被害に遭ったのは、黒田さんだけではありません。
三浦由紀子さん。
そして、お父さん。
許可を取って事業を進めたかった。
そのために、お金を払った。
行政書士の看板を信用したからです。
なのに。
仕事は進まず。
お金の行方も分からない。
「所長」
私は小さな声で言いました。
「どうすればいいんでしょう」
片桐所長は、黒田を見たまま答えました。
「まず、依頼人の書類を守る」
「はい」
「次に、何が行われたのか記録する」
「はい」
「それから、必要なところへ事実を届ける」
所長は続けました。
「責任を取るというのは、謝れば終わる話ではない」
黒田の肩が震えました。
「……はい」
その言葉は。
私にも、重く響きました。
◇
片桐事務所が動いたのは、その翌日からでした。
まず、三浦家から正式に事情を確認。
提出した資料の控え。
支払った二十万円の記録。
担当者とのやり取り。
申請を依頼した内容。
全部、整理しました。
それから、三浦さん本人の意思に基づいて、東海総合法務センターへ通知書を作成しました。
――預けた原本書類の返還を求める。
――作業の進捗及び提出済み書類の有無について、書面で説明を求める。
――受領した金銭の内訳及び精算について、回答を求める。
そして。
片桐事務所では、行政書士会に対して、確認できた事実を資料とともに伝えました。
さらに、監督権限を持つ県にも、必要な調査を求めるための事実関係を整理した書面を提出しました。
私はその書面を見て、驚きました。
「所長」
「何だ」
「思ったより、短いですね」
「そうか」
「もっと、こう……」
「こう?」
「大沢がいかに悪い人間か、長々と書くのかと思いました」
相馬先輩が吹き出しました。
「馬鹿野郎」
「何ですか!」
「役所は、お前の感想文を読みたいわけじゃねえ」
「……はい」
「事実が欲しいんだよ」
そうでした。
いつ。
誰が。
何をしたか。
資格者は誰か。
実際の業務担当者は誰か。
金銭を受け取った者は誰か。
依頼人にどのような不利益が生じたか。
そして、それを裏付ける資料は何か。
所長は、そこだけを徹底的に揃えていました。
「感情で罰を決めるな」
所長が言いました。
「はい」
「違反が疑われる事実を、正確に伝える」
「はい」
「判断は、権限を持つ者に委ねる」
私は大きく頷きました。
これが。
行政書士の仕事。
自分の正義感で勝手に誰かを処罰するのではありません。
法律と手続に従って、事実を届ける。
そういう仕事なのです。
◇
それから二週間ほどたった頃。
三浦由紀子さんが、再び事務所を訪れました。
「書類が戻ってきました!」
私は顔を上げました。
「本当ですか!」
「はい!」
由紀子さんは、厚い封筒を机に置きました。
そこには、預けた原本書類が揃っていました。
そして。
「お金も、二十万円全部返してもらえました」
「えっ!」
「大沢さんから連絡があって……」
由紀子さんは苦笑しました。
「これ以上、問題を大きくしたくないからって」
私は思わず拳を握りました。
やった。
でも。
「先輩!」
「何だ」
「返金されました!」
「ああ」
「解決ですね!」
「三浦さんの件は、ひとまずな」
「ひとまず?」
相馬先輩が言いました。
「資格者の責任は、それとは別だ」
……あ。
そうです。
依頼人にお金を返したからといって。
名義貸しが、なかったことになるわけではありません。
無資格者による業務が疑われる事実も。
資格者が名前を貸していた事実も。
消えません。
「県の調査も、これからだ」
相馬先輩が続けました。
「俺たちが懲戒を決めるわけじゃねえ」
「はい」
「けど、返金したから全部終わり、なんて話でもねえんだよ」
私は頷きました。
行政書士という資格は。
依頼人との一件だけで、信用を測られるものではない。
社会全体から信用されて、初めて成り立つ仕事なのです。
由紀子さんが、深く頭を下げました。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ!」
私は慌てました。
「お父様の許可手続も、まだ残っていますから」
「はい」
「今度は、きちんと資格者が責任を持って手続きを進める必要があります」
「そうですね」
由紀子さんは笑いました。
「父が言っていました」
「何て?」
「立派なビルより、ちゃんと仕事をしてくれる人のほうが大事だって」
私は思わず、片桐所長を見ました。
所長は、黙って帳簿を閉じました。
相馬先輩がにやりと笑います。
「聞いたか、こはる」
「はい!」
「うちの建物が古いって文句、もう言うなよ」
「そんなこと言ってません!」
「十倍立派だって言ったろ」
「それは建物の話です!」
「同じだ!」
「違います!」
由紀子さんが笑いました。
事務所に、久しぶりに明るい空気が戻りました。
◇
その日の夕方。
私は机の上で六法を開いていました。
行政書士法。
会則。
行政書士会。
登録。
懲戒。
今回の事件で、私は一つだけ強烈に理解したことがあります。
資格は、持っているだけでは足りない。
その資格を使って、何をするのか。
誰のために働くのか。
誰が責任を取るのか。
そこまで含めて、行政書士なのです。
「所長」
「何だ」
「行政書士って、個人の信用がすごく大事なんですね」
「そうだ」
「でも、大きな組織で仕事をすれば、依頼人を守れる場面も増えそうですよね」
所長が顔を上げました。
「組織か」
「はい」
私は少し考えました。
令和の行政書士法人。
複数の行政書士が、法人を設立して仕事をする。
定款を作る。
登記する。
誰が社員なのか。
誰が業務を執行するのか。
誰が代表するのか。
特別な資格が必要な業務を、誰が担当するのか。
そして、どの事務所に誰を常駐させるのか。
そうした仕組みを法律で定める。
それは単に、事務所を大きくするためだけの制度ではありません。
組織の中で、責任の所在を明確にするためでもあるのです。
「でも……」
私は呟きました。
「組織になったからって、資格を持たない人に何でも任せていいわけじゃないんですよね」
「当然だ」
所長が答えました。
「看板の形が変わっても、守るべきものは変わらん」
私は息を呑みました。
……そうか。
未来の行政書士法人。
その制度が生まれても。
名義貸しが許されるわけではない。
行政書士会の会則を無視していいわけでもない。
報酬の管理や帳簿が不要になるわけでもない。
むしろ。
組織が大きくなるほど。
責任の所在を曖昧にしてはいけない。
そのための規律が、必要になるのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「未来には、行政書士が法人を作れる時代が来るかもしれませんね」
先輩が笑いました。
「何だ、また未来の話か」
「もしもの話です!」
「行政書士が会社でも作るのか?」
「会社とは、ちょっと違うんですけど……」
「何?」
「あ、いえ!」
危ない。
行政書士法人は、株式会社ではありません。
しかも、昭和六十三年には制度そのものがない。
現代の行政書士法十三条の三から先を口走ったら、また未来人だと疑われてしまいます。
「とにかく!」
私は話を変えました。
「資格者が責任を持つことは、いつの時代でも大事だと思います!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「当たり前だ」
「ですよね!」
「一人でやろうが、十人でやろうが、資格は他人に貸せねえ」
「はい!」
「組織がでかくなったって、責任が消えるわけじゃねえんだよ」
私は大きく頷きました。
そのとき。
片桐所長が、机の引き出しから一枚の紙を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「これを見ろ」
行政書士会から届いた研修会の案内でした。
許認可申請の実務について、講師を招いて勉強する会合らしいです。
「研修ですか?」
「そうだ」
「先輩も行くんですか?」
「行くぞ」
「えっ!」
私は驚きました。
「相馬先輩でも勉強するんですか?」
「どういう意味だ!」
「いえ、だって、いつも全部知ってるみたいな顔してるので!」
「知ってる顔と、知ってることは別だ!」
私は笑いました。
片桐所長も、ほんの少し口元を緩めました。
「こはる」
「はい」
「法律も実務も、変わる」
「はい」
「昨日まで知っていたことが、明日もそのまま通用するとは限らん」
私は、はっとしました。
それ。
私が一番よく分かっています。
だって。
私は未来から来た受験生です。
現代では存在する条文が、昭和には存在しない。
現代ではできる業務が、昭和にはできない。
現代の行政書士法人も。
特定行政書士も。
この時代には、まだありません。
そして逆に。
昭和の人たちが当たり前に使っている制度が、未来では大きく変わっていることもある。
「……勉強し続けないといけないんですね」
私が言うと、所長は頷きました。
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「資格試験に受かったら勉強終了、なんて思ってる奴は、すぐ置いていかれるぞ」
「耳が痛いです……」
「お前、まだ受かってもいねえだろ」
「そこは言わないでください!」
先輩が笑いました。
私も笑いました。
でも。
今日の事件を思い出すと、胸の奥が少し痛みます。
黒田さんは、行政書士の資格を持っていました。
登録も受けていました。
法律の勉強をして、試験に合格したのでしょう。
それなのに。
最後には、自分の名前をお金に換えてしまった。
資格はあった。
けれど。
資格者として守るべきものを、守れなかった。
その結果。
依頼人が傷ついた。
私は六法を閉じました。
「所長」
「何だ」
「私、行政書士になったら、絶対に名前を貸しません」
「うん」
「会則も守ります」
「うん」
「ちゃんと勉強も続けます」
「そうか」
所長は静かに言いました。
「なら、一つ覚えておけ」
「はい」
「資格の信用は、自分一人のものではない」
私は顔を上げました。
「……どういうことですか?」
「一人が信用を壊せば、同じ資格を持つ者まで疑われる」
私は、息を呑みました。
そうか。
黒田さんが名前を貸した。
大沢が無資格で業務をした。
三浦さんは被害に遭った。
そのとき。
三浦さんが疑ったのは、黒田さんだけだったでしょうか。
きっと違います。
行政書士という仕事そのものを、不安に思ったはずです。
だから。
行政書士会がある。
会則がある。
研修がある。
そして、監督や懲戒の仕組みがある。
資格者一人ひとりの行動が、職業全体の信用につながっているから。
その信用を、誰か一人の勝手で壊させないためなのです。
「……分かりました」
私は小さく答えました。
所長は頷きました。
「それでいい」
夕暮れの光が、机の上を照らしていました。
私はノートを開きました。
そして、今日の一行を書きました。
――資格は貸せない。信用も売れない。会則は、仲間と依頼人を守るためにある。
よし。
これなら忘れません。
そのとき。
相馬先輩が、私のノートを覗き込みました。
「こはる」
「はい?」
「いいこと書いてるじゃねえか」
「えっ!」
珍しい。
褒められました!
「ありがとうございます!」
「ただし」
「はい?」
「もう一つ覚えとけ」
「何ですか?」
先輩は、にやりと笑いました。
「資格を持ってても、会費を払わなきゃいいって話にはならねえぞ」
「……会費?」
「ああ」
私は固まりました。
行政書士会。
入会金。
会費。
そうでした。
会則の遵守義務には、そんな現実的な話もあります。
「……先輩」
「何だ」
「行政書士って、お金がかかるんですね」
「当たり前だろ」
「登録するにも、お金」
「そうだ」
「事務所を構えるにも、お金」
「そうだ」
「会費も、お金」
「そうだ」
「研修に行くにも、費用が必要な場合がある」
「そうだな」
私は、机に突っ伏しました。
「……資格試験に受かれば、人生が楽になると思ってました」
相馬先輩が大笑いしました。
「甘えんな!」
「ひどい!」
「資格ってのは、仕事をするための入口だ!」
「はい……」
「そこから先は、信用を積み上げるんだよ!」
私は顔を上げました。
信用。
そうですね。
今回の事件で、一番大事だったもの。
法律の条文でも。
立派な看板でも。
豪華な事務所でもなく。
依頼人が安心して、自分の大切な手続きを任せられること。
それが、信用です。
「でも先輩」
「何だ」
「だったら、私が行政書士になったときは、立派な法人を作ります!」
「また法人か!」
「はい!」
「だから何だ、その行政書士法人ってのは!」
「未来の夢です!」
「意味が分からねえ!」
私は笑いました。
いつか。
行政書士が法人を作れる時代が来る。
複数の資格者が力を合わせて。
事務所を増やして。
専門分野を分担して。
より多くの依頼人を支える。
でも。
組織が大きくなるほど、忘れてはいけないことがある。
誰が資格を持っているのか。
誰が仕事をしているのか。
誰が責任を負うのか。
そこを曖昧にしないこと。
未来の行政書士法に並ぶ、法人の設立、社員の資格、登記、代表、業務執行、常駐、競業禁止、懲戒。
あの長い条文の列にも、きっと意味がある。
そう思うと。
受験生時代、ただの暗記地獄にしか見えなかった行政書士法人の規定が。
少しだけ。
人間の欲望から依頼人を守るための仕組みに見えてきました。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私、行政書士法が好きになってきました!」
「そりゃ結構だ!」
「特に、会則遵守義務です!」
「地味なところが好きだな!」
「でも、大事なんです!」
「分かったから、そこの書類を整理しろ!」
「はいっ!」
私は笑いながら、机の書類を揃えました。
昭和六十三年。
行政書士は、まだ個人の看板で仕事をする時代です。
行政書士法人という制度はありません。
特定行政書士という制度もありません。
研修についても、未来の条文をそのまま持ち込めるわけではありません。
でも。
行政書士という資格を、無資格者に貸してはいけない。
依頼人を裏切ってはいけない。
登録を受けた資格者として、責任を持って仕事をしなければならない。
その根っこにある考え方は。
昭和でも、令和でも。
変わらないはずです。
私は最後に、東海総合法務センターの広告を見ました。
専門家集団。
全面支援。
立派な言葉。
立派な建物。
けれど、その中身は。
一人の行政書士が名前を貸し。
無資格者が業務を取り仕切り。
依頼人からお金を受け取っていた。
資格の看板は、そんな使い方をするためにあるのではありません。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『行政書士の先生が、急に仕事をやめると言い出したんです』
「……え?」
『会社の書類をお願いしていたんですが、もう自分は廃業するから関係ないって』
私は顔を上げました。
「廃業……ですか?」
『はい。でも、県から何か調査を受けていたみたいで……』
……。
嫌な予感。
私は、相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
『先生が登録を消してしまったら、もう責任を追及できないんでしょうか?』
私は受話器を握り直しました。
登録。
廃業。
懲戒。
そして。
処分を逃れるために、先に行政書士をやめてしまう。
そんなことが、許されるのでしょうか。
「先輩」
「何だ」
「次の相談、登録抹消と懲戒です」
「聞こえてる」
「資格を返せば、全部なかったことになると思ってるみたいです」
相馬先輩は、ゆっくりと立ち上がりました。
「こはる」
「はい!」
「法律ってのはな」
「はい」
「看板を外しただけで、全部チャラになるほど甘くねえんだよ」
私は大きく頷きました。
行政書士法。
まだまだ奥が深いです。
でも。
今日、一つだけ確信しました。
行政書士の看板は、商売道具である前に。
依頼人から預かった信用の証なのです。
だからこそ。
その看板を貸して儲けようとした人間には。
いつか必ず。
その名前に見合う責任が、問われることになるのです。
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