[行政書士法・使命、業務範囲、誠実義務、依頼に応ずる義務]法理編 こはるノート
行政書士は、依頼を断ってはいけません。
でも。
断らなければならない依頼もあります。
お金を払うと言われても。
土下座されても。
百万円を積まれても。
書いてはいけない書類があるのです。
では。
その境界線は、どこにあるのでしょうか。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、一冊のノートを開いていました。
表紙には、大きな文字。
――こはるノート・行政書士法編。
「……行政書士って、矛盾してません?」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「依頼を断っちゃいけないんですよね?」
「ああ。正当な理由がなけりゃな」
「でも、昨日は百万円の仕事を断りました」
「断ったな」
「一方で、五万円しか用意できないおばあさんの仕事は引き受けました」
「そうだな」
「つまり!」
私は鉛筆を掲げました。
「お金持ちには冷たく、貧しい人には優しくする法律なんですか!」
「違う!」
即答でした。
「何でそうなるんだよ!」
「だって、結果だけ見ればそうじゃないですか!」
「金額で決めてねえからだろ!」
……。
あ。
そうでした。
昨日の事件。
大黒建設の大黒源蔵社長。
産業廃棄物収集運搬業の許可申請。
報酬として提示された百万円。
ところが、車両の使用権限に関する資料には、事実と異なる記載がありました。
さらに。
他社の承諾を装った書面まで持ち込んできたのです。
一方。
田村ハルさん。
七十一歳。
四十二年間続けてきた惣菜店を守るため、営業許可関係の書類作成を依頼してきました。
用意していたお金は五万円。
施設の図面を作り、必要な設備を確認し、保健所で手続きを調べました。
結果。
ハルさんは無事に営業を続けられることになりました。
この二つ。
行政書士法の考え方を知るには、ぴったりの事件だったのです。
「よし!」
私はノートを開きました。
「今日は行政書士法を完全攻略します!」
「昨日も似たようなこと言ってたな」
「昨日は実務です。今日は法理です!」
「お前、便利な言葉を覚えたな」
そのとき。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
私は拳を握りました。
よし。
今日も、強制勉強会の始まりです。
「まず、行政書士の使命からです!」
私はノートの一番上に書きました。
――行政書士は、何のために存在するのか。
「書類を作って金をもらうためだろ」
相馬先輩が言いました。
「身も蓋もない!」
「仕事なんだから、報酬は必要だ」
「それはそうですけど!」
私は鉛筆を握り直しました。
令和八年。
現代の行政書士法には、行政書士の使命が明文化されています。
行政に関する手続きの円滑な実施に寄与すること。
国民の利便に資すること。
そして。
国民の権利利益の実現に資すること。
「つまり」
私は言いました。
「行政書士は、ただ申請書を書く人じゃないんです」
「ほう」
「行政手続きを通じて、人々の権利や利益が正しく実現されるよう支える仕事なんです!」
相馬先輩は首をかしげました。
「ずいぶん大げさな言い方だな」
「あっ」
しまった。
また、未来の条文です。
私は慌てて昭和の六法を確認しました。
昭和六十三年当時の行政書士法第一条は、現代のように独立した「使命」を掲げる規定ではありません。
当時の第一条は、行政書士の業務を定める条文でした。
官公署に提出する書類。
権利義務に関する書類。
事実証明に関する書類。
それらの作成を業とする。
これが、昭和の行政書士法の基本的な姿だったのです。
「……またやりました」
「何をだ」
「未来の第一条を持ち込んでしまいました」
「今の六法を読めって、何度言わせるんだ」
「すみません!」
私は肩を落としました。
でも。
ここで不思議なことに気づきました。
「所長」
「何だ」
「現代では、国民の権利利益を実現することが使命として書かれているんです」
「そうか」
「でも、昨日の先生も、まさにそれをしていましたよね」
所長は黙って私を見ました。
「ハルさんの営業を続けるために、必要な手続きを調べた」
「うん」
「大黒社長の虚偽申請は断った」
「そうだ」
「つまり、使命という言葉が今と同じ形で条文に書かれていなくても、その考え方は仕事の中にあったんですね」
片桐所長は静かに頷きました。
「書類の向こうには、人がいる」
私は顔を上げました。
「役所に出す紙だけを見ていては、仕事を間違える」
なるほど。
行政書士法は、時代とともに変わりました。
業務範囲も広がりました。
使命も明文化されました。
でも。
書類を使って人々の暮らしを支える。
その根っこにある考え方は、昭和の事務所にも息づいていたのです。
「よし」
私はノートに書きました。
――現代の行政書士の使命は、行政手続きの円滑化と国民の利便を通じた、権利利益の実現。
「覚えました!」
「まだ始まったばかりだぞ」
「……先は長いですね」
「自分で始めたんだろ」
そのとおりでした。
「次は、行政書士の業務範囲です!」
私はノートに大きな丸を三つ描きました。
官公署に提出する書類。
権利義務に関する書類。
事実証明に関する書類。
「この三つが、行政書士の書類作成業務の基本です」
「そうだな」
「まず、官公署に提出する書類!」
私は昨日の大黒社長を思い出しました。
産業廃棄物収集運搬業の許可申請。
まさに、官公署に提出する書類です。
それから、ハルさんの営業許可関係の申請書。
これもそうです。
「官公署って、市役所だけじゃないんですよね」
「ああ」
「国の役所、都道府県庁、市町村役場、警察署なども含まれます」
許可申請書。
免許申請書。
届出書。
事業計画書。
添付する図面。
こうした書類の作成が、行政書士の重要な仕事です。
「でも、先輩」
「何だ」
「申請書を作ったら、必ず許可が出るんですか?」
「出るわけねえだろ」
「ですよね!」
私はノートに赤線を引きました。
――書類を作成できることと、行政庁が許可することは別。
これです。
大黒社長は、きれいな申請書を用意すれば許可が取れると思っていました。
でも。
実際に車両を使用できるのか。
事業計画に実現性があるのか。
必要な要件を満たしているのか。
行政庁は、そうした中身を審査します。
「申請書って、許可を出す魔法の紙じゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が笑いました。
「魔法で許可が出るなら、俺たちの仕事はずいぶん楽になる」
「確かに!」
私は続けました。
「二つ目は、権利義務に関する書類です」
売買契約書。
賃貸借契約書。
請負契約書。
内容証明郵便の文案。
法人の議事録。
定款。
そして、遺産分割協議書など。
「この分野は、これまでの事件でもたくさん出てきました」
「ああ」
「会社の定款や議事録も、行政書士の仕事になるんですよね」
「他の法律で制限されない範囲ならな」
相馬先輩が答えました。
ここが重要です。
行政書士法に書類作成業務として定められていても、他の法律によって業務が制限される場合があります。
たとえば。
裁判所に提出する書類については、司法書士法などとの関係が問題になります。
登記申請の代理にも、別の資格制度があります。
労働社会保険関係の手続きにも、社会保険労務士法による制限があります。
税務書類には、税理士法が関係します。
「つまり、行政書士なら何でも書ける、ではないんですね」
「そういうことだ」
「特に、紛争になっている事件の法律事務を、報酬を得て勝手に引き受けることはできません」
「弁護士の仕事に踏み込むなってことだ」
私は頷きました。
契約書を作ること。
それと。
争っている相手と、依頼人の代理人として示談交渉をすること。
この二つは、同じではありません。
行政書士は、弁護士ではないのです。
「じゃあ、三つ目!」
私はページをめくりました。
――事実証明に関する書類。
会社の沿革を示す書類。
各種の調査報告書。
名簿。
会計関係の書類。
実地調査に基づく図面類。
「これは、ハルさんの店で作った図面が分かりやすいですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「現場を見て、測って、実際の設備を記録した」
「はい!」
「ところが、大黒の持ってきた使用承諾書は?」
「事実と違っていました」
「そうだ」
私は鉛筆を止めました。
事実を証明する書類。
そこに嘘があれば。
書類が存在すること自体に、意味がなくなってしまいます。
「だから先輩は、見たまま書けって言ったんですね」
「そうだ」
「きれいに書くより、正確に書く方が重要」
「どっちも必要だが、正確さを捨てるな」
私は頷きました。
行政書士は、書類の専門家。
だからこそ。
自分で確かめていないことを、確かめたように書いてはいけません。
存在しない設備を描かない。
ない承諾を、あることにしない。
他人の署名や印鑑を、勝手に作らない。
「大黒社長、全部逆をやってましたね」
「そうだな」
「ある意味、反面教師として完璧です」
「嫌な褒め方だな」
私は苦笑しました。
でも。
試験の勉強では、こういう事件ほど記憶に残るものです。
「さて、ここからが昭和と令和の大きな違いです!」
私は次のページを開きました。
――提出代行と代理。
相馬先輩が眉をひそめました。
「何だ、その書き方」
「先輩。今の行政書士は、書類を作るだけじゃないんです」
「そりゃ、提出の手伝いもするが」
「そうなんです。でも、現代はさらに違うんです!」
私は説明を始めました。
昭和六十三年。
行政書士の仕事は、書類作成を中心とする制度でした。
提出についても、依頼人に代わって書類を持参するなどの代行が行われていました。
しかし。
現在のような、行政書士法上の提出手続の代理権は、まだ整備されていません。
「先輩。たとえば、役所の窓口で申請内容について判断が必要になったら?」
「依頼人に確認する」
「そうですよね」
行政書士が勝手に依頼人の意思を決めてよいわけではありません。
では、令和の制度ではどうでしょう。
現在の行政書士法第一条の四。
法律で認められた範囲で、官公署への提出手続きについて代理することができます。
さらに。
許認可等に関する一定の聴聞や弁明の機会の付与など、意見陳述のための手続きについても、法律上認められた範囲で代理できます。
「つまり、現代は単なる使者ではないんです!」
私は言いました。
「依頼人の代理人として、所定の手続きを進められるんです!」
相馬先輩は腕を組みました。
「へえ」
「ただし、何でも勝手に決めていいわけではありません」
「当たり前だ」
「代理権の範囲は、法律と依頼人からの委任によって決まります」
私は赤線を引きました。
――代理権があることと、無制限に代理できることは違う。
ここは大切です。
行政書士に代理権が認められていても、弁護士法など他の法律による制限があります。
裁判所で訴訟代理人になることはできません。
一般的な法律紛争について、報酬を得て示談交渉を引き受けることもできません。
「なるほどな」
相馬先輩が言いました。
「昔より仕事が広がっても、境界線は残るわけだ」
「そうです!」
私は嬉しくなりました。
そして。
「さらに、もう一つ!」
私はノートに書きました。
――特定行政書士。
「何だそりゃ」
相馬先輩が顔をしかめました。
ふふふ。
出ました。
昭和の先輩が知らない未来の制度。
「許認可等について、一定の行政不服申立ての代理を行える行政書士です!」
「行政不服申立ての代理?」
「はい!」
「普通の行政書士がか?」
「所定の研修を修了した、特定行政書士です」
私は説明しました。
平成二十六年の法改正。
これによって、特定行政書士の制度が設けられました。
もっとも、研修を受ければ国や自治体を相手にどんな争いでも代理できるわけではありません。
対象となるのは、行政書士法で定められた範囲の許認可等に関する行政不服申立てです。
「行政書士が作成できる書類に関係する許認可等について、一定の不服申立てを代理できるようになったんです」
「ほう……」
相馬先輩が、少しだけ感心した顔をしました。
「じゃあ、不許可になった客を助ける手段が増えるんだな」
「そうです!」
私は頷きました。
昭和の行政書士は、不許可処分について、不服申立ての代理人として戦う権限を持っていませんでした。
本人が行う不服申立てに関係する書類作成についても、当時の法令と他士業法による制限を慎重に確認する必要があります。
しかし現代では。
法律で認められた範囲において、特定行政書士が代理人として手続きに関わることができます。
「ただし、先輩」
「何だ」
「特定行政書士でも、裁判の訴訟代理人にはなれません」
「そこは弁護士の仕事だな」
「はい!」
私はノートに二重線を引きました。
提出手続の代理。
一定の行政不服申立ての代理。
裁判の訴訟代理。
この三つを混同してはいけない。
そこが重要なのです。
「しかし」
相馬先輩が煙草を取り出しました。
「未来の行政書士は、ずいぶん仕事が増えるんだな」
「そうなんです!」
「じゃあ、未来の行政書士は何でも知ってるのか?」
「え?」
「役所の手続きも、契約書も、不服申立ても、全部完璧か?」
「それは……」
私は言葉に詰まりました。
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「権限が増えれば、責任も増える」
私は顔を上げました。
「できる仕事が増えるほど、知識が足りないことの怖さも増す」
……。
なるほど。
行政書士の進化。
それは、ただ強い権限を手に入れることではありません。
より広い範囲で、人の権利や利益に関わる責任を負うこと。
だからこそ、専門家として学び続けなければならないのです。
「では、次は職責です!」
私はノートをめくりました。
――行政書士の職責。
「何だ。まだあるのか」
相馬先輩が、心底嫌そうな顔をしました。
「あります!」
「どれだけあるんだよ」
「行政書士法を甘く見ないでください!」
「お前が言うな」
私は咳払いをしました。
令和八年の行政書士法第一条の二。
ここには、行政書士の職責が定められています。
品位を保持すること。
業務に関する法令及び実務に精通すること。
公正かつ誠実に業務を行うこと。
「これ、全部、大黒社長の事件につながりますよね」
「ああ」
「百万円を積まれたからといって、虚偽の申請書を作ってはいけない」
「そうだ」
「依頼人に都合の悪い事実でも、正しく確認しなければならない」
「当然だ」
「そして、知らない法律について、知ったかぶりをしてはいけない」
相馬先輩が、私をじっと見ました。
「……それ、お前のことじゃねえか」
「ぐっ!」
痛い。
見事な反撃です。
でも、確かにそうです。
昨日の私は、昭和に存在しない条文番号を口にしてしまいました。
現代の法律を知っている。
それだけでは、専門家として十分ではありません。
いつの法律か。
今も有効なのか。
どの業務に適用されるのか。
他の法律による制限はないか。
そこまで確認する必要があるのです。
「所長」
「何だ」
「法律に詳しいだけじゃ、行政書士として十分ではないんですね」
「そうだ」
「実務にも精通しなければならない」
「うん」
「でも、どうしてですか?」
片桐所長は、昨日作成したハルさんの店舗図面を取り出しました。
「これを見ろ」
「はい」
「食品衛生に関する法令を知っているだけで、正しい図面が作れるか」
「……いいえ」
「現場を見なければ、設備の配置は分からん」
「はい」
「窓口で求められる資料も、確認が必要だ」
私は頷きました。
法律の知識。
実地調査。
書類作成。
行政手続き。
全部がつながって、初めて仕事になる。
「つまり、条文の暗記だけじゃ駄目なんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が言いました。
「六法を暗唱できても、現場で寸法を測れなきゃ図面は完成しねえ」
「確かに……」
「逆に、図面を描く腕があっても、法律を知らなきゃ申請を間違える」
私はノートに書きました。
――専門知識と実務能力の両方が、行政書士の信用を支える。
なるほど。
現代の職責規定が重視しているのは、肩書だけではありません。
専門家として、学び続ける姿勢なのです。
「ところで先輩!」
「今度は何だ」
「未来では、行政書士にパソコンの知識も必要になるんです!」
「ぱそこん?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「ああ、コンピューターのことか」
「そうです!」
私は勢いよく頷きました。
昭和六十三年。
事務所には、紙の帳簿。
和文タイプライター。
電話。
複写用紙。
そして、山ほどの書類があります。
現代のように、電子申請が日常的に利用されているわけではありません。
でも。
令和八年。
行政書士法第一条の二第二項には、デジタル社会の進展を踏まえた情報通信技術の活用などによって、国民の利便の向上と業務の改善進歩を図る努力義務が定められています。
「つまり、先輩!」
「何だ」
「未来では、紙だけにこだわっていたら、依頼人が困ることもあるんです!」
「ほう」
「電子申請!」
「うん」
「電子データ!」
「うん」
「インターネット!」
「……いんたあねっと?」
相馬先輩が首をかしげました。
しまった。
また未来の話をしすぎました。
「ま、まあ、コンピューターで遠くの役所に申請する仕組みです!」
「便利そうだな」
「すごく便利になります!」
私は言いました。
「でも、便利だからといって、法律や手続きの確認を省略していいわけじゃありません」
大黒社長の事件を思い出します。
偽の使用承諾書。
勝手に作った印鑑。
事実と異なる車両一覧。
もし、これを電子データにして提出したら。
嘘が本当になるのでしょうか。
答えは、もちろん違います。
「紙でも、電子データでも、嘘は嘘ですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「道具が変わっても、仕事の中身は変わらねえ」
片桐所長も頷きました。
「新しい道具を使うなら、なおさら正確に扱わなければならん」
私は微笑みました。
昭和の代書屋。
令和のデジタル行政書士。
使う道具は違います。
できる業務も違います。
けれど。
事実を確認する。
法律を守る。
依頼人に誠実である。
その原則は、時代を超えて続いていくのです。
「さて!」
私はノートをめくりました。
「いよいよ、昨日の事件の核心です!」
――行政書士法第十一条・依頼に応ずる義務。
相馬先輩が新聞を畳みました。
「やっと本題か」
「今までも全部本題です!」
「分かった、分かった」
私は鉛筆を握り直しました。
「行政書士は、正当な事由がある場合でなければ、依頼を拒むことができません」
「そうだ」
「これを応諾義務といいます!」
昨日。
ハルさんは、五万円の封筒を握りしめて事務所に来ました。
高齢で。
手続きも分からず。
自分一人では図面も描けない。
しかも、報酬を十分に用意できるかどうか不安を抱えていました。
「でも、所長は追い返しませんでした」
「ああ」
「報酬が高くないからというだけで、依頼を断る理由にはならないんですね」
片桐所長が頷きました。
「仕事として受けられるか、必要な事情を確認する」
「はい」
「報酬や作業内容を説明したうえで、依頼人に判断してもらう」
私は頷きました。
ここで重要なのは、応諾義務と無料奉仕を混同しないことです。
行政書士は、報酬を得て仕事をする専門家です。
必要な費用を説明し、依頼人との間で合意することは当然あります。
費用の負担について合意できない場合など、具体的な事情によっては受任できないこともあるでしょう。
しかし。
単に儲からない。
面倒くさい。
年寄りの相談は嫌だ。
そんな理由だけで、正当な業務依頼を門前払いすることは、行政書士法の趣旨に反します。
「どうして、こんな義務があるんでしょう?」
私が尋ねると、相馬先輩が答えました。
「行政書士の仕事には、法律で資格者に任されてるものがあるからだ」
「なるほど」
「依頼人が必要な書類を作れなくて困ってるのに、専門家が好き嫌いで全部断ってたらどうなる」
「……手続きが進みません」
「そうだ」
行政書士には、法律上、資格者でなければ業として行えない書類作成業務があります。
その仕事を担う以上。
国民が必要な行政手続きを利用できるようにするという、公共的な責任もある。
「だから、応諾義務があるんですね!」
「そういうことだ」
私はノートに大きく書きました。
――独占的な業務を担う資格者には、正当な理由なく依頼を拒まない責任がある。
「でも、先輩」
「何だ」
「それなら、大黒社長の百万円の依頼も受けるべきだったんじゃないですか?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「そこで出てくるのが、正当な事由だ」
私は頷きました。
そうです。
行政書士法第十一条。
その条文は、
「依頼を拒むことができない」
だけでは終わりません。
前に、大切な言葉がついています。
――正当な事由がある場合でなければ。
ここです。
「では、正当な事由とは何でしょう!」
私は言いました。
相馬先輩が答えます。
「まず、法律に反する仕事だな」
「はい!」
虚偽の申請書。
偽造された証明書。
他人の承諾を装った書類。
これらを作るよう求める依頼。
「行政書士が、そんな仕事を引き受ける必要はありません」
「当然だ」
「それどころか、事情によっては犯罪に関わるおそれがあります」
「そうだな」
私はノートに赤い丸をつけました。
さらに。
行政書士自身が病気や事故で業務を行えない場合。
すでに受任している緊急案件などによって、適切に対応することが困難な場合。
依頼内容が行政書士の業務範囲を超えている場合。
こうした事情も、依頼を断る正当な理由となり得ます。
「つまり、正当な理由があれば断れるんですね」
「そうだ」
「でも、理由があると言えば何でも断れるわけじゃない」
「そこだ」
相馬先輩が頷きました。
単に気分が乗らない。
依頼人の顔が気に入らない。
報酬の大きい別の仕事を優先したい。
それだけでは、法律上の正当な理由になるとは限りません。
「じゃあ昨日、大黒社長を断ったのは?」
「虚偽の内容で書類を作れという依頼だったからだ」
「正解です!」
「何で俺がお前に採点されてんだよ」
私は笑いました。
これなら、もう忘れません。
百万円を払う客だから、必ず引き受ける。
これは間違い。
五万円しか払えない客だから、必ず断ってよい。
これも間違い。
判断するのは、金額ではなく、依頼内容と受任できる事情なのです。
「ただし、もう一つ大事なことがあります」
私は鉛筆を立てました。
「何だ?」
「違法な依頼を断ることと、合法な方法を案内することは別です」
相馬先輩が、少しだけ目を細めました。
「ほう」
大黒社長は、虚偽の使用承諾書を持ち込んできました。
その書類を使って申請するよう依頼した。
だから、片桐所長は断りました。
でも。
所長は最後に、こう言ったのです。
――事実に基づく申請をする気になったら、改めてご相談ください。
「つまり、相手が嫌な人だから仕事を断ったわけじゃないんですね」
「そうだ」
「悪いのは、虚偽の書類を作れという依頼内容」
「ああ」
「なら、正しい資料を揃えて、適法な申請をするのであれば、話は別」
片桐所長が頷きました。
「依頼人の人格と、依頼内容は分けて考える」
私は感心しました。
なるほど。
これが、公正さということなのでしょう。
大黒社長は、横柄でした。
お金で人を動かそうとしました。
ハルさんを馬鹿にもしました。
だから、私は正直、あの人が嫌いです。
でも。
嫌いだからといって、合法な依頼まで当然に断っていいわけではありません。
「難しいですね……」
「そうだな」
相馬先輩が言いました。
「仕事は、好き嫌いだけじゃできねえ」
私は頷きました。
行政書士は、依頼人に誠実でなければならない。
でも。
依頼人の言いなりになってはいけない。
そして。
依頼人が嫌いだからといって、感情だけで仕事を決めてもいけない。
「法律家って、思った以上に自分を律しないといけないんですね」
片桐所長が短く答えました。
「そうだ」
私は、その言葉をノートの端に書き留めました。
「次は、第十条です!」
私は勢いよく言いました。
――誠実義務と信用・品位保持。
「また条文か」
「これが大事なんです!」
昭和六十三年の行政書士法第十条。
行政書士は、誠実に業務を行い、行政書士の信用や品位を害する行為をしてはならない。
現代でも、この考え方は引き継がれています。
「先輩。信用を害する行為って、何でしょう?」
「昨日の大黒みてえな依頼に乗っかることだろ」
「そうですね!」
虚偽の書類を作る。
依頼人を騙す。
不当な方法で依頼を集める。
秘密を漏らす。
正当な理由なく仕事を放置する。
こうした行為は、専門家としての信用を損ないます。
「それに、誠実さって、嘘を書かないことだけじゃないんですよね」
「ああ」
「報酬をきちんと説明することも大事です」
私は、事務所の壁を見ました。
そこには、報酬に関する掲示があります。
現代の行政書士法第十条の二では、事務所の見やすい場所に報酬額を掲示することが求められています。
「なぜ、掲示する必要があるんでしょう?」
相馬先輩が言いました。
「頼む側が、いくらかかるか分からなきゃ困るからだろ」
「そうです!」
行政書士の報酬は、業務の種類や内容などによって異なります。
だからこそ。
依頼人が判断できるように、報酬を明らかにすることが大切です。
「ハルさんも、最初は費用が心配だったんですよね」
「ああ」
「だから、必要な仕事と費用を説明した」
「そうだ」
私は頷きました。
それから。
――秘密を守る義務。
行政書士法第十二条。
「これは昨日、大黒社長が保健所で怒っていたときにも関係しましたね」
大黒は、片桐事務所が自分の申請内容を保健所に知らせたのではないかと疑いました。
でも。
相馬先輩は、相談内容を第三者に漏らしていないと答えました。
「依頼を断った相手でも、秘密を守る必要があるんですか?」
「業務上知った秘密なら、正当な理由なく漏らしちゃいけねえ」
「なるほど」
行政書士を辞めた後も、秘密保持義務は続きます。
仕事を辞めたからといって、昔の依頼人の情報を自由に話していいわけではありません。
「依頼人の秘密って、仕事が終わったら消えるものじゃないんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
信用というものは、目に見えません。
でも。
秘密を守る。
費用を明らかにする。
約束した仕事を誠実に処理する。
その積み重ねで、初めて生まれるものなのです。
「では、次!」
私は帳簿を開きました。
「第九条、帳簿の備付けと保存です!」
相馬先輩が、嫌そうな顔をしました。
「お前、帳簿まで勉強するのか」
「当然です!」
「昨日さんざん書いたろ」
「今日は意味まで覚えるんです!」
私はノートに書きました。
事件の名称。
年月日。
報酬の額。
依頼者の住所氏名。
その他必要な事項。
「行政書士は、こうした内容を帳簿に記録する必要があります」
「ああ」
「そして、現代の行政書士法では、帳簿と関係書類を、帳簿閉鎖の時から二年間保存することになっています」
私は赤線を引きました。
――二年間。
「これ、試験に出そうですよね!」
「知らねえよ」
「出ると思って覚えます!」
ただし。
私は昭和の六法に目を落としました。
「……ここも注意ですね」
「何がだ」
「昭和六十三年当時の規定と、現在の規定をそのまま同じに扱ってはいけません」
帳簿の保存期間についても、法改正の経過を確認する必要があります。
昭和の事務所で使うなら昭和の法令。
令和の試験を受けるなら、令和の施行法令。
当然のことですが、転生者には最大の落とし穴です。
「お前、本当に未来の法律ばっかり気にしてるな」
「だって、未来から来たんですから!」
……。
言ってしまいました。
相馬先輩が、ゆっくりこちらを見ます。
「……何?」
「あっ!」
私は慌てました。
「み、未来の行政書士試験を想像してるって意味です!」
「変な奴だな」
「よく言われます!」
危ない。
転生者の秘密。
また漏れるところでした。
「そういえば」
相馬先輩が言いました。
「お前、昨日、登録の話をしてただろ」
「あっ!」
私は思い出しました。
昨日の夕方。
電話をかけてきた男性。
行政書士試験には合格している。
でも、登録しないまま、知人の申請書を有料で作っていた。
そんな相談でした。
「先輩、あの人の話も重要ですよね」
「ああ」
「試験に合格したら、行政書士として開業できるわけじゃない!」
「そうだ」
私はノートに二つの言葉を書きました。
――資格。
――登録。
「これ、違うんですよね」
「説明してみろ」
「はい!」
行政書士法第二条。
行政書士となる資格を有する者について定めています。
行政書士試験に合格した者。
弁護士となる資格を有する者。
弁理士となる資格を有する者。
公認会計士となる資格を有する者。
税理士となる資格を有する者。
そして、法律に定める一定の行政事務経験を持つ者。
「ただし!」
私は鉛筆を立てました。
「資格があるだけでは、行政書士として当然に業務を始められるわけではありません」
相馬先輩が頷きました。
「登録が必要だな」
「はい!」
現代の行政書士法第六条。
行政書士となるには、日本行政書士会連合会が備える行政書士名簿に登録を受けなければなりません。
「つまり、試験合格と登録は別なんです!」
「そうだ」
「登録しないまま、行政書士の独占業務を報酬を得て行えば、行政書士法違反の問題が生じます」
私は昨日の電話を思い出しました。
ただし、その男性が実際にどのような書類を、どんな形で作成していたのかは、詳しく確認する必要があります。
行政書士法による独占業務に該当するか。
他の法律に基づく例外はないか。
そうした事情を確かめずに、犯罪だと決めつけるわけにはいきません。
「先輩。資格があっても登録が必要なら、登録できない人もいるんですか?」
「ああ」
相馬先輩が答えました。
「欠格事由がある」
私は頷きました。
行政書士法第二条の二。
現代では、未成年者。
破産手続開始の決定を受けて復権を得ない者。
一定の刑罰を受け、法律で定める期間を経過していない者。
その他、法定の欠格事由に該当する者。
こうした場合には、資格を持っていても、行政書士になることができません。
「たとえば、破産した人は一生行政書士になれないんですか?」
「そんなことはねえ」
「そうです!」
私は赤い丸をつけました。
破産については、復権を得ていないことが問題になります。
復権すれば、その欠格事由には該当しなくなります。
「破産したら必ず三年間登録できない、というわけではないんですね」
「そうだ」
「一方で、刑罰や懲戒処分に関係する欠格事由には、一定期間が定められているものがあります」
私は頷きました。
行政書士法は、ただ試験に受かった人を登録する法律ではありません。
国民から信頼される資格者であることを、制度として確保しようとしているのです。
「じゃあ、登録申請はどこに出すんですか?」
私は相馬先輩に尋ねました。
「所属する都道府県の行政書士会を通すんだ」
「そうです!」
私はノートに書きました。
事務所所在地の都道府県行政書士会を経由する。
登録を行うのは、日本行政書士会連合会。
「ここ、間違えやすいんですよね」
「何がだ」
「都道府県知事が行政書士の登録をする、と思ってしまうことです」
私は首を振りました。
知事ではありません。
日本行政書士会連合会です。
さらに、現代の登録制度では、登録を拒否する際の手続きも定められています。
資格審査会の議決。
事前の弁明の機会。
拒否理由の書面による通知。
「つまり、登録を拒否する側も、勝手に判断していいわけじゃないんですね」
「そういうことだな」
私は頷きました。
行政書士になる資格があるのに、理由も説明されず、登録を拒まれたら。
その人は、仕事を始めることができません。
だから、適正な手続きが必要なのです。
「それから、登録拒否に不服がある場合は、審査請求の制度もあります」
「ほう」
「現代の法律では、総務大臣に対する審査請求が定められています」
私はノートに書きました。
登録拒否。
総務大臣への審査請求。
さらに、登録申請から三か月を経過しても何らの処分がされない場合についても、特別な規定が設けられています。
「ただし、所長」
「何だ」
「これは現代の制度ですから、昭和六十三年の事件には、そのまま当てはめません」
所長が頷きました。
「ようやく分かってきたな」
「はい!」
私は胸を張りました。
すると、相馬先輩が笑いました。
「最初からそれができてりゃ、赤鉛筆の出番も減るんだがな」
「……今後の課題です」
法律の勉強には、反省がつきものです。
「ちなみに」
私は続けました。
「登録したら、好きな場所に事務所を何軒でも作れるんですか?」
「作れねえよ」
「そうです!」
私は大きく書きました。
――行政書士法第八条・事務所。
現代の行政書士法では、独立して業務を行う行政書士は、原則として事務所を設ける必要があります。
そして、個人の行政書士が事務所を二つ以上設けることはできません。
「一人で第一事務所、第二事務所、第三事務所って作るわけにはいかないんですね」
「そうだ」
「でも、現代では行政書士法人という制度もあります」
「法人?」
相馬先輩が顔を上げました。
「行政書士が法人を作れるのか?」
「はい!」
行政書士法人。
昭和六十三年には、まだ存在しない制度です。
平成十五年以降、行政書士法人の設立が可能となり、組織として業務を行う道が広がりました。
「つまり、未来では複数の行政書士が組織として仕事をすることもできるんです!」
「へえ」
「ただし、法人の事務所と、個人行政書士の事務所については、それぞれの規定を守る必要があります」
相馬先輩は少し考えました。
「じゃあ、未来の片桐事務所も法人になるのか?」
「それは……」
私は所長を見ました。
所長は、古びた事務机に座っています。
壁には、長年使われてきた時計。
書棚には、法律書がぎっしり。
床には、少し傾いた書類棚。
昭和の小さな行政書士事務所。
でも。
ここには、何十年も積み重ねた信用があります。
「……法人になっても、ならなくても」
私は言いました。
「所長の仕事の仕方は、変わらない気がします」
片桐所長が顔を上げました。
「そうか」
「はい!」
所長は少しだけ笑いました。
「まずは、今の事務所の書類を片付けることだな」
「……はい」
未来の法人化より先に。
目の前の書類整理。
昭和の現実は、なかなか厳しいです。
窓の外が、夕焼け色に染まっていました。
私はノートを見直しました。
行政書士の使命。
職責。
書類作成業務。
提出手続の代理。
特定行政書士。
登録。
欠格事由。
事務所。
帳簿。
誠実義務。
報酬の掲示。
依頼に応ずる義務。
秘密保持。
「……多い!」
私は机に突っ伏しました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きました。
「行政書士法、覚えることが多すぎます!」
「そりゃ法律だからな」
「でも、昨日の事件を思い出すと、少し分かりやすいです」
「ほう」
私はノートを開き直しました。
「では、確認問題をお願いします!」
相馬先輩がため息をつきました。
「またか」
「お願いします!」
片桐所長が、静かに口を開きました。
「では、一問目」
「はい!」
「行政書士は、報酬百万円の依頼を必ず引き受けなければならないか」
「いいえ!」
「理由は?」
「正当な事由があれば、依頼を拒むことができます。違法な書類作成の依頼は、その典型です!」
所長が頷きました。
「二問目。報酬が低いというだけで、正当な業務依頼を自由に拒めるか」
「原則として、できません!」
「三問目。行政書士は、依頼人の希望どおりに虚偽の事実を書いてよいか」
「駄目です!」
「四問目。行政書士試験に合格すれば、自動的に行政書士として開業できるか」
「いいえ! 登録が必要です!」
「五問目。登録を行うのは?」
「日本行政書士会連合会です!」
「六問目。行政書士には、秘密保持義務があるか」
「あります! 行政書士でなくなった後も続きます!」
所長は頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やった。
ここまでは完璧です。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「昭和六十三年の行政書士が、今のお前の言う特定行政書士として審査請求を代理できるか?」
「できません!」
「理由は?」
「当時、特定行政書士制度が存在しないからです!」
「よし」
「その後の改正で制度が設けられ、現在では法定の範囲で不服申立ての代理が認められています!」
「正解だ」
私は得意になりました。
でも。
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「じゃあ最後だ」
「はい!」
「大黒が車を一台も確保してねえのに、お前が最新のコンピューターで申請書を作ったら、車は増えるか?」
「増えません!」
「正解」
「電子申請でも、事実は正しくなきゃ駄目です!」
「そのとおりだ」
私は笑いました。
これなら覚えられます。
どんなに時代が変わっても。
どんなに便利な道具が増えても。
嘘の事実を、正しい事実に変えることはできない。
それが、行政書士の書類作成の基本なのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、今日はずいぶん熱心だな」
「当然です!」
「どうしてだ」
私は少し考えました。
そして。
「……昨日、ハルさんが笑ってくれたからです」
そう答えました。
相馬先輩が黙りました。
四十二年間続けた惣菜店。
夫婦で始めた小さなお店。
一人になっても続けてきた場所。
ハルさんは、その店を守りたかった。
でも。
役所の手続きが分からない。
図面も描けない。
何をすればいいのかも分からない。
そんなとき。
行政書士がいた。
必要な事実を調べて。
正しい書類を作り。
必要な手続きを案内した。
それだけで。
一人の人の暮らしを支えることができた。
「先輩」
「何だ」
「行政書士って、派手な仕事じゃないかもしれませんね」
「そうだな」
「裁判で相手を論破するわけでもありません」
「ああ」
「でも、書類を一枚作ることで、誰かの生活が続いていくこともあるんですね」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
それから。
「まあな」
短く答えました。
私は微笑みました。
そのとき。
片桐所長が、机の上に一枚の紙を置きました。
田村惣菜店の営業許可に関する書類の控えです。
「こはる」
「はい」
「これを見ろ」
私は書類を見ました。
店の名前。
所在地。
必要な事項。
そこには、たくさんの文字が並んでいます。
「この一枚で、何が変わったと思う」
私は少し考えました。
「……ハルさんがお店を続けられるようになりました」
「そうだ」
「でも、所長」
「何だ」
「それは、書類を作ったからだけじゃありませんよね」
所長が、こちらを見ました。
「設備を確認して、必要な改善をして、正しい手続きを進めたからです」
片桐所長は頷きました。
「そのとおりだ」
私は、ようやく気づきました。
行政書士の仕事。
それは、書類を作ること。
でも。
書類を作ること自体が、最終目的ではない。
正しい手続きを通じて、依頼人が必要とする権利や利益の実現を支える。
そして。
その過程で、社会からの信用を守る。
だから。
書いてはいけないものは、書かない。
断ってはいけない依頼は、正当な理由なく断らない。
そこに、行政書士法の大切な考え方があるのです。
「よし!」
私はノートの最後のページを開きました。
「今日の一行を書きます!」
相馬先輩が笑いました。
「また大げさなこと言い始めたな」
「大事なんです!」
私は鉛筆の先を整えました。
そして。
ゆっくり書きました。
――行政書士は、正当な依頼を理由なく拒まず、違法な依頼には応じず、誠実な書類で国民の権利利益を支える。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「少しだけな」
「やった!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん一生忘れません。
百万円の札束を積んだ社長。
五万円の封筒を握りしめたおばあさん。
同じ行政書士事務所に来た、二人の依頼人。
けれど。
一方は嘘の書類を求め。
もう一方は、正しい書類を求めていた。
行政書士は、お金の額で判断しません。
もちろん、報酬は大切です。
事務所を維持するためにも、専門家として仕事を続けるためにも、必要なものです。
でも。
仕事の正しさを、報酬の額で売ってはいけない。
その原則があるからこそ。
行政書士という資格には、社会から信用が寄せられるのです。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「勉強は終わったか」
「はい!」
「では、机を片付けろ」
「……え?」
「書類が積み上がっている」
私は机を見ました。
六法。
ノート。
図面。
資料。
赤鉛筆。
確かに、山です。
「所長!」
「何だ」
「私は今、行政書士の使命について深く学んでいたんです!」
「そうか」
「国民の権利利益の実現に資するという、崇高な使命です!」
「うん」
「だから、書類整理よりも大切なことが――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「整理しなきゃ、次の依頼人の書類を置く場所がねえぞ」
「……!」
痛いところを突かれました。
「それに」
先輩が続けました。
「依頼の順番や処理の期限が分からなくなったら、誰が困るんだ?」
「……依頼人です」
「そうだ」
私は机を見ました。
確かに。
書類を整理することも、事務所の仕事。
単なる雑用ではありません。
依頼人の大切な資料をなくさない。
処理を遅らせない。
秘密を守る。
必要なときに、正しい記録を取り出せるようにする。
それも、誠実な業務の一部です。
「……分かりました!」
私は書類を手に取りました。
「片付けます!」
「いい返事だ」
相馬先輩が笑いました。
でも。
私は、ここで一つ思いつきました。
「先輩!」
「何だ」
「未来なら、こういう書類も電子データで管理できるんです!」
「また未来か!」
「パソコンで検索して、すぐに見つけられます!」
「ほう」
「しかも、電子申請なら役所まで行かなくても手続きできる場合があります!」
「便利だな」
「ですよね!」
「じゃあ、その未来の道具を持ってこい」
「……え?」
「今すぐ」
「……」
私は固まりました。
無理です。
未来人ではありますが。
未来のパソコンを召喚する能力まではありません。
「……ありません」
「じゃあ片付けろ」
「はい……」
相馬先輩が吹き出しました。
片桐所長も、少しだけ口元を緩めました。
私はため息をつきながら、書類を揃えました。
昭和六十三年。
紙とハンコと足で稼ぐ時代。
令和八年。
電子申請やデジタル技術が広がる時代。
行政書士の業務は、これからも変わっていくでしょう。
代理権が整備され。
特定行政書士が誕生し。
行政書士法人が生まれ。
デジタル社会への対応も求められるようになる。
でも。
昨日、片桐所長が百万円を突き返した理由。
そして、ハルさんの小さな依頼を大切にした理由。
その二つだけは。
どれだけ法律が改正されても、変わってほしくありません。
私は最後の書類を棚に戻しました。
そして、ノートの一行をもう一度読みました。
――行政書士は、正当な依頼を理由なく拒まず、違法な依頼には応じず、誠実な書類で国民の権利利益を支える。
よし。
覚えました。
これなら、行政書士法第十一条を見ても。
もう迷いません。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「まだ一枚、机に残ってるぞ!」
「今、行政書士の使命を確認してたんです!」
「使命の前に整理整頓だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「整理整頓も、行政書士の職責の一部なんですね!」
「そうだよ!」
「じゃあ、先輩も手伝ってください!」
「何で俺が!」
「国民の利便の向上のためです!」
「俺の利便も考えろ!」
私は笑いました。
相馬先輩も、呆れながら笑っていました。
窓の外。
夕暮れの商店街に、少しずつ明かりが灯っていきます。
その一角には、田村惣菜店があります。
きっと明日の朝も。
おにぎりが並び。
卵焼きが焼かれ。
工場へ向かう人たちが、いつものように店に立ち寄るのでしょう。
行政書士が作った書類は、棚の中にしまわれます。
けれど。
その書類によって守られた日常は、明日も続いていく。
法律の条文には、そんなことまで書かれていません。
でも。
私は、少しだけ分かってきました。
行政書士法が守ろうとしているのは、書類そのものではない。
書類の向こうにある、人の暮らしなのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




