[行政書士法・使命、業務範囲、誠実義務、依頼に応ずる義務]現場編 「金を払えば何でも書く」の嘘。偽造申請を持ち込んだ悪徳社長と、貧しい依頼人を追い返さなかった代書屋の誇り
紙に書けることと、書いていいことは、同じではありません。
たとえば。
お金を払うから、嘘の申請書を作ってほしい。
そう頼まれたら。
行政書士は、仕事として引き受けなければならないのでしょうか。
逆に。
お金がなく、手続きにも詳しくない人が、助けを求めてきたら。
「儲からないから」
という理由だけで、追い返してもいいのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は二人の依頼人に出会いました。
一人は、五万円を握りしめたおばあさん。
もう一人は、百万円の札束を持ってきた社長。
片方は、正しい書類を作ってほしいと願い。
もう片方は、嘘を本当にしてほしいと要求しました。
そして私は。
行政書士という仕事の、一番大切な境界線を知ることになるのです。
「すみません。こんなこと、お願いしてもいいんでしょうか」
朝九時。
事務所の扉を開けたのは、小柄なおばあさんでした。
年齢は七十歳くらい。
色あせた紺色の着物。
手には、古い風呂敷包み。
その中から、一冊の通帳と数枚の紙を取り出しました。
「市役所で、書類を出してくださいって言われたんです。でも、何を書けばいいのか分からなくて……」
「どんな手続きですか?」
私が尋ねると、おばあさんは紙を差し出しました。
――食品営業許可申請に係る施設設備の確認。
あ。
飲食店の営業許可です。
「お店を始めるんですか?」
「いえ。もう、ずっとやってるんです」
おばあさんの名前は、田村ハルさん。
七十一歳。
駅前商店街で、小さな惣菜店を営んでいます。
夫と二人で始めた店。
夫が亡くなってからは、一人で切り盛りしているそうです。
「主人の名前で許可を取っていたんですが、もう一度、きちんと手続きしなければいけないと言われまして」
「なるほど」
営業者が亡くなった場合、許可の取扱いや必要な手続きは、その時点の制度と具体的な事情を確認しなければなりません。
私は書類を見直しました。
施設の図面。
設備の配置。
営業者の情報。
そして。
「申請するために、台所の図面が必要なんですか?」
「ええ。保健所の方がそうおっしゃって。でも、私、図面なんて描けません」
ハルさんは困ったように笑いました。
「だから、知り合いに行政書士さんを教えてもらって……」
私は頷きました。
官公署に提出する書類。
それに添付する図面。
まさに行政書士の専門分野です。
「大丈夫ですよ。まず必要な手続きを確認して、それからお店の設備を調べてみましょう」
「本当ですか?」
「はい!」
すると。
ハルさんは風呂敷包みから、白い封筒を取り出しました。
「ただ、あの……」
「はい?」
「私、あまりお金がなくて」
封筒の口が開きました。
中には、一万円札が五枚。
「これだけしか用意できなかったんです」
「五万円……」
「足りなかったら、少しずつでも」
私は言葉に詰まりました。
行政書士の仕事には、報酬があります。
書類を作る。
調査する。
役所と連絡を取る。
その仕事には、当然、対価が必要です。
でも。
このおばあさんは、五万円を握りしめて来た。
生活のために続けてきた店を、守るために。
「ハルさん」
「はい」
「まず、必要な作業と費用を確認しましょう。全部を今ここで払う必要はありません」
私はそう答えました。
ところが。
「こはる」
奥から相馬先輩の声がしました。
「はい?」
「勝手に報酬を決めるな」
「あっ」
「仕事の範囲も決まってねえだろ」
「……はい」
そうでした。
親切心だけで、安請け合いしてはいけません。
どんな調査が必要か。
書類が何枚必要か。
実地確認が必要なのか。
それを調べて、報酬を説明する。
誠実さとは、何でも無料で引き受けることではないのです。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「田村さん」
「はい」
「まず、事情を詳しく聞かせてください」
所長は穏やかに言いました。
「引き受けられる仕事かどうかも含めて、こちらで確認します」
ハルさんは深く頭を下げました。
「ありがとうございます」
そのときです。
事務所の扉が、乱暴に開きました。
「片桐先生はいるか!」
大きな声。
高そうな背広。
金色の腕時計。
そして、強烈な整髪料の匂い。
四十代後半の男が、ずかずかと入ってきました。
「俺だ。大黒建設の大黒だ」
大黒建設。
地元では知られた建設会社です。
社長の名前は、大黒源蔵。
下請けに厳しく、金払いも悪いと噂の人物でした。
「先生、仕事だ!」
大黒は机に分厚い封筒を置きました。
どさっ。
嫌な音がしました。
「百万円ある」
「……百万円?」
私は思わず目を見開きました。
先ほどの五万円とは、桁が違います。
「急ぎで許可申請の書類を作ってもらいたい」
大黒は笑いました。
「簡単な仕事だ。先生なら一日で終わるだろ」
片桐所長は、封筒に手を伸ばしませんでした。
「何の申請ですか」
「産業廃棄物の収集運搬業だ」
私は顔を上げました。
産業廃棄物。
建設現場から出る廃材やがれきなどを扱う仕事です。
その収集運搬業を行うためには、廃棄物処理法に基づく許可が問題になります。
当時の法令や自治体の取扱いに従い、事業の内容や施設、車両などを確認して申請書を作る必要があります。
「必要書類を持ってきた」
大黒は茶封筒を机に投げ出しました。
私は中身を確認しました。
車両一覧。
事業計画。
営業所に関する資料。
運搬方法の説明。
そして。
車両の写真。
「……あれ?」
私は一枚の写真で手を止めました。
大型のダンプカー。
車体に書かれた会社名が、違います。
――浜松運送。
「社長。この車は?」
「ああ。知り合いの会社から借りる予定の車だ」
「借りる予定?」
「そうだ」
私は一覧表を見ました。
そこには、
――自社保有車両。
と記載されています。
「でも、ここには自社保有って……」
「細かいことを気にするな」
大黒は笑いました。
「許可が下りたら買うんだよ。先に許可が必要なんだ」
私は眉をひそめました。
待ってください。
現在は保有していない。
使用できる契約も、まだ確認できない。
なのに、申請書には自社保有車両と書いてある。
これは。
「社長」
片桐所長が口を開きました。
「その車両は、現時点で御社が使用できるものですか」
「だから、許可が下りたら買うんだ」
「現在の使用権限を証明する資料はありますか」
「そんなものは後でいい」
「申請書には、事実と異なる記載があります」
大黒の笑顔が消えました。
「何だと?」
所長は車両一覧を指差しました。
「このままでは作成できません」
静かな声。
でも。
絶対に譲らない声でした。
「おいおい、先生」
大黒は椅子にふんぞり返りました。
「俺は百万円払うと言ってるんだぞ」
「承知しています」
「だったら書けよ」
「事実と異なる内容では作れません」
大黒は鼻で笑いました。
「行政書士ってのは、客に頼まれた書類を書く商売だろ?」
私は唇を噛みました。
そう。
昭和の行政書士は、代書屋と呼ばれます。
でも。
だからといって。
「金さえ払えば、何を書いてもいいわけじゃありません!」
私は思わず言いました。
大黒がこちらを見ました。
「何だ、小娘」
「行政書士には、誠実に業務を行う義務があります!」
「ほう」
「信用や品位を害することも、してはいけないんです!」
よし。
行政書士法。
ここは覚えています。
私は勢いに乗りました。
「行政書士法第一条の二! 公正かつ誠実に業務を――」
「こはる」
相馬先輩が低い声で言いました。
「……はい?」
「また、お前の知らねえ条文を読み上げたな」
あ。
しまった。
現代の行政書士法。
第一条の二。
職責。
そして第一条には、行政書士の使命が明文化されています。
でも。
今は昭和六十三年。
令和八年の条文構成を、そのまま持ち込んではいけません。
「……すみません」
「今の六法を見ろ」
「はい……」
相馬先輩は、机に置かれた古い法令集を指で叩きました。
「行政書士法第十条だ」
私はページをめくりました。
そこには、行政書士の誠実な業務遂行と、信用・品位を害する行為の禁止が定められています。
なるほど。
昭和の行政書士にも、守らなければならない職業倫理がある。
現代の制度や条文構成とは違っても。
お金をもらえば嘘を書いていい。
そんな仕事では、昔からなかったのです。
「いいか、こはる」
相馬先輩が言いました。
「代書屋は、嘘を本当にする商売じゃねえ」
「はい」
「事実を確かめて、必要な書面にする仕事だ」
私は頷きました。
大黒は面白くなさそうに舌打ちしました。
「何だよ。説教か」
そして。
事務所の隅に座っていたハルさんを見つけました。
「何だ、ばあさんも客か」
ハルさんは小さく頭を下げました。
「どうも……」
「何の仕事だ?」
「店の営業許可のことで……」
「ふん。小さな惣菜屋か」
大黒は笑いました。
「先生、そんな仕事より俺のを先にやれよ。金になるんだから」
私は固まりました。
……今。
何と言いました?
「そのばあさん、いくら払うんだ?」
「それは……」
ハルさんが困ったように封筒を握りしめます。
「五万円しか……」
「五万円!」
大黒が大声で笑いました。
「おいおい、俺の二十分の一じゃねえか!」
そして、机の百万円を指で叩きました。
「先生、商売ってのはな、金を払う客を大事にするもんだ」
片桐所長は黙っています。
「儲からねえ仕事なんて断っちまえよ」
……。
私は所長を見ました。
相馬先輩も腕を組んでいます。
そして。
所長が静かに口を開きました。
「大黒さん」
「ああ?」
「行政書士法には、依頼に応ずる義務があります」
「何?」
「正当な事由がなければ、依頼を拒むことはできません」
大黒は眉をひそめました。
「何だそりゃ」
私も息を呑みました。
依頼に応ずる義務。
そうです。
行政書士法第十一条。
正当な事由がある場合でなければ、依頼を拒むことができない。
ただし。
それは、どんな依頼でも無条件で引き受けろという意味ではありません。
私は大黒を見ました。
そして、ハルさんを見ました。
……あ。
ようやく分かりました。
この二人。
行政書士法の、まったく違う側面を試しているんです。
「おかしいじゃねえか!」
大黒が机を叩きました。
「客の依頼を断れないなら、俺の申請書も作らなきゃいけねえだろ!」
私は反論しようとしました。
でも。
相馬先輩が先に口を開きました。
「お前、自分で何を言ってるか分かってんのか」
「ああ?」
「正当な事由があれば断れるんだよ」
「だから何だ」
「法律に反する書類を作れって依頼なら、断る理由になるだろうが」
大黒が顔をしかめました。
「まだ違法と決まったわけじゃねえ!」
「じゃあ、車を保有してるのか」
「だから後で買うんだ!」
「それを今持ってると書けって言ってんだろ」
「……!」
相馬先輩の声が低くなりました。
「申請書は、お前の願望を書く紙じゃねえ」
私は思わず背筋を伸ばしました。
「役所に提出する書類だ。許可の判断に使われるんだぞ」
「そんなの、役所が勝手に調べりゃいいだろ!」
「だったら最初から正直に書け」
ぐっ。
大黒が言葉に詰まりました。
片桐所長は、書類を一枚持ち上げました。
「大黒さん」
「……何だよ」
「車両の使用権限について、事実を確認できる資料を用意してください」
「……」
「そのうえで、実際の事業計画に沿って申請書を作成するのであれば、業務として検討できます」
所長は百万円の封筒を見ました。
「ですが、虚偽の内容を記載する依頼は受けられません」
大黒は舌打ちしました。
「融通の利かねえ代書屋だな」
「そうかもしれません」
「他の行政書士なら引き受けるぞ」
「そうですか」
「仕事を失ってもいいのか!」
所長は一瞬、ハルさんを見ました。
それから。
「仕事は、まだあります」
そう答えました。
ハルさんが驚いたように顔を上げます。
私は胸が熱くなりました。
百万円の仕事。
五万円を握りしめたおばあさん。
そのどちらを優先するか。
所長は、報酬の額では決めなかったのです。
もっとも。
それで話が終わるほど、大黒は素直な男ではありませんでした。
「……分かったよ」
大黒が急に笑いました。
「正直に書けばいいんだな」
「そのとおりです」
所長が答えると、大黒は懐から別の封筒を取り出しました。
「じゃあ、これを使ってくれ」
新しい車両一覧。
車の使用承諾書らしきもの。
そして。
会社印が押された証明書。
「これなら文句ねえだろ」
私は受け取りました。
確かに。
使用承諾書があるように見えます。
しかし。
「……あれ?」
私は日付を見ました。
昭和六十三年九月二十五日。
今日は九月二十日です。
「先輩」
「何だ」
「この書類、未来の日付です」
「は?」
「五日後になってます」
相馬先輩が覗き込みました。
「……おい」
大黒の顔が引きつりました。
「印刷の間違いだ!」
「そうですか」
「そうだ!」
相馬先輩は書類を裏返しました。
「じゃあ確認するぞ」
使用承諾者の名前。
浜松運送株式会社。
代表取締役。
浜田重吉。
その横に押された角印。
「こはる。電話帳を持ってこい」
「はい!」
私は棚から分厚い電話帳を取りました。
昭和です。
インターネットはありません。
法人情報を検索することも、電子申請システムで確認することもできません。
電話帳。
固定電話。
会社への照会。
必要なら現地確認。
紙と足で事実を確かめる時代です。
「浜松運送……ありました!」
私は番号を読み上げました。
相馬先輩が受話器を取りました。
「確認の電話を入れてもよろしいですね」
大黒の肩が、ぴくりと動きました。
「……何?」
「この使用承諾書について、発行元に確認します」
「待て!」
大黒が突然立ち上がりました。
「そこまでする必要はねえ!」
……。
私は所長を見ました。
所長は、まったく表情を変えていません。
「大黒さん」
「な、何だ」
「確認できなければ、この資料を事実として扱うことはできません」
「……!」
「使用承諾書は、御社が作ったものですか」
沈黙。
大黒は唇を噛みました。
そして。
「……そうだよ!」
吐き捨てるように言いました。
「うちで作ったんだよ!」
私は息を呑みました。
「じゃあ、この印鑑は……」
「印刷屋に作らせた!」
……。
なんてことを。
「でも、実際に車を借りる話はしてるんだ!」
大黒は声を荒らげました。
「向こうも、そのうち貸すって言ってんだよ!」
「だから、今の使用承諾があることにしたんですか?」
私が聞くと、大黒は睨みつけました。
「細かいことを言うな!」
「細かくありません!」
私は思わず立ち上がりました。
「印鑑を勝手に作ったら、書類が本物になるんですか!」
「何だと!」
「相手の会社が承諾していないのに、承諾したと書いたら、それは事実じゃありません!」
相馬先輩が、私の肩を押さえました。
「こはる。落ち着け」
「でも!」
「事実は、もう分かった」
先輩は偽の使用承諾書を机に置きました。
「こいつは、うちに虚偽の申請書を作らせようとした。それだけだ」
大黒は拳を握りしめました。
「お前ら……!」
そのとき。
片桐所長が、机の百万円を大黒の方へ押し戻しました。
「お引き取りください」
「……何?」
「この内容での依頼は、受けられません」
「おい!」
大黒は声を荒らげました。
「俺は客だぞ!」
「はい」
「客の依頼を断るのか!」
「正当な事由があります」
所長は短く答えました。
「虚偽の書類は作成しません」
大黒の顔が真っ赤になりました。
「お前ら、行政書士のくせに偉そうに!」
その言葉に。
私は、今度こそ言い返そうとしました。
でも。
所長が先に口を開きました。
「行政書士だからです」
静かな声でした。
「行政書士だから、書けないものがあります」
大黒が止まりました。
「……」
「本当のことを、正しく書く。それが仕事です」
所長は偽の使用承諾書を指差しました。
「嘘を書けば、困るのは役所だけではありません」
「……」
「その許可を信用して仕事を頼む人もいます。廃棄物の運搬を任せる人もいます。事故が起きれば、周囲の住民にも影響が及びます」
私は黙って聞いていました。
そうか。
行政書士の仕事は、依頼人一人だけを見ていればいいわけではない。
行政手続きは、社会とつながっている。
その入口に置かれる書類が嘘だったら。
その先の判断まで、間違ってしまうかもしれない。
「大黒さん」
所長が言いました。
「事実に基づく申請をする気になったら、改めてご相談ください」
「……ちっ!」
大黒は百万円の封筒をつかみました。
「二度と来るか!」
扉が、乱暴に閉まりました。
事務所に静寂が戻ります。
私は、長い息を吐きました。
「……怖かった」
相馬先輩が笑いました。
「お前、あれだけ言い返してたじゃねえか」
「怖いものは怖いです!」
「そうか」
「でも、先輩」
「何だ」
「百万円ですよ」
「ああ」
「本当に断っちゃったんですね」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「百万円で嘘を書いたら、次は何を書くんだ?」
「……え?」
「二百万円で、他人の財産を勝手に売ったことにする書類か?」
「……」
「三百万円で、存在しねえ会社の議事録か?」
「……」
「一度でも金で事実を曲げたら、次からは値段の話になる」
私は黙りました。
相馬先輩は、机の上の六法を閉じました。
「代書屋が売っていいのは、書類を作る腕だ」
そして。
「信用まで売ったら、商売は終わりだ」
そう言いました。
「……あの」
事務所の隅から、小さな声がしました。
ハルさんです。
私は慌てて振り向きました。
「あっ、すみません! お待たせしてしまって!」
「いえ、いいんです」
ハルさんは申し訳なさそうに笑いました。
「でも、私……」
「はい?」
「やっぱり、帰ろうかと思って」
「えっ?」
私は驚きました。
「どうしてですか?」
「だって、百万円のお仕事を断ったんでしょう?」
「それは、嘘の書類を作れって話だったからです」
「でも、私のは五万円しか……」
ハルさんは封筒を握り直しました。
「先生にお願いするほどのものじゃないのかもしれません」
私は胸が痛くなりました。
大黒の言葉を、気にしていたんです。
儲からない仕事。
小さな惣菜店。
五万円。
でも。
所長は、ハルさんを見て言いました。
「田村さん」
「はい」
「お店は、何年続けているんですか」
「四十二年です」
「四十二年」
「主人と一緒に始めまして。最初は、おにぎりを三種類だけ売っていました」
ハルさんは懐かしそうに笑いました。
「今は、煮物や卵焼きも作っています」
「そうですか」
「近くの工場で働いている人が、毎朝買いに来てくれるんです」
私は情景を想像しました。
朝早く。
まだ薄暗い商店街。
小さな惣菜店の明かり。
湯気の立つ煮物。
工場に向かう人たち。
四十二年。
その店が、町の一部になっている。
「だから、もう少しだけ続けたくて」
ハルさんは言いました。
「私が元気なうちは」
片桐所長は、机の上の申請書を手に取りました。
「必要な手続きを確認しましょう」
「……え?」
「店を続けるために、何が必要なのか」
「先生……」
「それが分かれば、書類を作る費用も説明できます」
所長は、少しだけ微笑みました。
「まだ、断る理由はありません」
ハルさんの目に、涙が浮かびました。
「ありがとうございます……!」
私は、その光景を見つめていました。
百万円の仕事は、断った。
五万円しか用意できないおばあさんには、手を差し伸べた。
でも。
これは単なる人情話ではありません。
行政書士法。
依頼に応ずる義務。
誠実に業務を行う義務。
その二つが、今日の事務所で生きていたのです。
翌日。
私は相馬先輩と一緒に、ハルさんの惣菜店を訪れました。
――田村惣菜店。
小さな木の看板。
ガラスケースの中には、卵焼き。
ひじきの煮物。
かぼちゃの煮つけ。
店の奥には、古い調理場がありました。
「こちらです」
ハルさんが案内してくれます。
私は方眼紙と鉛筆を取り出しました。
「では、設備の配置を確認しますね」
流し台。
調理台。
冷蔵庫。
手洗い設備。
換気設備。
私は一つずつ位置を記録しました。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「見たまま書けよ」
「もちろんです!」
「昨日の社長みたいに、存在しねえ設備を勝手に描くな」
「描きませんよ!」
私は笑いました。
でも。
先輩の言いたいことは分かります。
許可申請に必要な図面。
それは、役所に提出するための大切な資料です。
きれいに見せるための絵ではありません。
実際の施設を、正確に伝えるための書類。
だから。
少しでも分からないところがあれば、確認する。
「先輩、ここの流し台って、寸法を測った方がいいですよね」
「そうだな」
「こっちの棚も?」
「配置が分かるように記録しとけ」
「はい!」
私は巻尺を伸ばしました。
ところが。
「あれ?」
流し台の下を見た瞬間、手が止まりました。
そこにあるはずの設備が、見当たりません。
私は持参した保健所の確認事項を見直しました。
……あ。
「先輩」
「何だ」
「この設備、現状だと基準に合わない可能性があります」
相馬先輩が覗き込みました。
「そうだな。保健所に確認が必要だ」
私はハルさんを見ました。
「ハルさん、ここなんですけど……」
「はい?」
「必要な設備について、確認していただいた方がいいと思います」
「そうなんですか?」
「はい。申請書だけ作っても、施設が基準に合っていなければ許可が出ないことがあります」
ハルさんの顔が曇りました。
「……お金、かかりますか?」
私は即答できませんでした。
改修が必要なら、費用がかかる。
営業の継続にも関わる。
でも。
だからといって、存在しない設備を図面に描くことはできません。
昨日の大黒と同じになってしまう。
「まず、保健所に必要な設備の基準を確認しましょう」
相馬先輩が言いました。
「事情を説明して、どこを直す必要があるか確かめる」
「はい……」
ハルさんは不安そうでした。
「私、お店を続けられるでしょうか」
私は胸が苦しくなりました。
でも。
ここで、
「絶対に大丈夫です!」
とは言えません。
まだ、必要な条件が確認できていないからです。
私は一度、息を吸いました。
「ハルさん」
「はい」
「今のままで許可が取れるかどうかは、まだ分かりません」
「……そうですか」
「でも、必要なことを一つずつ確認すれば、どうすればいいか見えてくると思います」
ハルさんが私を見ました。
「だから、まずは正確に調べましょう」
私はそう言いました。
すると。
ハルさんは、小さく頷きました。
「……お願いします」
そのとき。
相馬先輩が、私の頭を軽く小突きました。
「痛っ!」
「今のは悪くねえ」
「え?」
「できるか分からねえことを、できるって言わなかった」
私は目を丸くしました。
「褒めました?」
「まあな」
「えっ、本当に!?」
「調子に乗るな。図面がまだ半分だ」
「……はい!」
褒められた時間。
約三秒。
短いです。
でも。
少しだけ、嬉しくなりました。
その日の午後。
私たちは保健所で、必要な手続きと設備基準を確認しました。
そして、分かったことがあります。
ハルさんの店は、全面改装しなければならないわけではありませんでした。
必要な設備について、一定の改善を行えば、申請を進められる見込みがある。
もちろん、最終的に許可するかどうかは、行政庁の判断です。
でも。
少なくとも。
最初から諦めなければならない状況ではなかったのです。
「よかった……!」
私は思わず笑いました。
「先輩! これなら!」
「ああ。必要な改修をして、確認を受ける。それから申請だ」
「はい!」
私は書類を握りしめました。
そのときです。
保健所の廊下で、聞き覚えのある声がしました。
「だから! 何で受け付けねえんだよ!」
……。
まさか。
角を曲がると。
いました。
大黒源蔵。
昨日の百万円社長です。
「書類は揃ってんだろ!」
窓口の職員が、困った顔で答えていました。
「車両の使用権限に関する資料について、確認が必要です」
「何でだ!」
「提出された資料と、事業計画の記載に食い違いがあります」
「細かいことを!」
……またですか。
大黒はこちらに気づきました。
「おい! お前ら!」
私は身構えました。
「昨日の代書屋じゃねえか!」
相馬先輩が面倒くさそうに答えました。
「どうも」
「お前らが余計なことを言ったんじゃねえだろうな!」
「何の話ですか」
「俺の申請だよ!」
大黒は書類を振り回しました。
「別のところに頼んで作らせたんだ! なのに補正しろだの確認が必要だの!」
……。
私は相馬先輩を見ました。
先輩は肩をすくめました。
「そりゃ、事実が確認できなきゃそうなるだろ」
「何だと!」
「書類だけ整えりゃ許可が出ると思ってたのか?」
大黒は口を閉じました。
「許可申請ってのはな」
相馬先輩が続けました。
「きれいな紙を役所に渡す儀式じゃねえんだよ」
私は息を呑みました。
そうです。
書類が完成した。
それだけで、手続きが終わるわけではありません。
役所は、その中身を審査する。
必要な条件を満たしているか。
事実が正しく記載されているか。
それが重要なのです。
「それに」
相馬先輩が言いました。
「俺たちは、あんたの申請について第三者に話したりしてねえよ」
私は頷きました。
行政書士には、業務上知り得た秘密を守る義務もあります。
依頼人の情報を、勝手に他人へ漏らすことはできません。
だから。
大黒が昨日何を相談したのか。
こちらから保健所に話すことはしていません。
「……ちっ」
大黒は舌打ちしました。
そして、声を落としました。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
私は驚きました。
あの大黒が。
初めて、相談らしいことを言いました。
相馬先輩は少し考えてから答えました。
「まず、実際に使える車両を確保することだな」
「……」
「そのうえで、必要な資料を揃えろ。詳しい要件は担当窓口に確認しろよ」
「……それだけか」
「それだけだ」
大黒は、しばらく黙っていました。
やがて。
「……最初からそうしときゃよかったのか」
ぼそりと呟きました。
私は思わず言いました。
「そうですよ!」
大黒が睨みました。
「うるせえ!」
「だって、そうじゃないですか!」
私は一歩前に出ました。
「嘘の書類を作っても、実際の車が増えるわけじゃありません!」
「……!」
「だったら、本当に車を使えるようにして、正しい申請をすればいいんです!」
大黒は、何も言い返しませんでした。
そして。
書類を抱えたまま、廊下を歩いていきました。
私はその背中を見送りました。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「行政書士は、依頼人の代わりに許可を出す仕事じゃねえ」
「はい」
「許可を出すのは役所だ」
「……そうですね」
「俺たちは、必要な事実を確かめて、正しい書類を整える」
私は頷きました。
そして。
現代なら、許認可申請について行政書士が代理人として手続きを行える場面があります。
でも。
昭和六十三年の行政書士は、現在と同じ代理権を持っていたわけではありません。
窓口に書類を提出することと、依頼人の法的な代理人として手続き上の意思表示を行うことは、区別しなければならない。
私は、改めてそのことを思い出しました。
未来では。
行政書士の代理業務は、もっと広がっていきます。
許認可の提出手続き。
一定の聴聞や弁明手続き。
そして、所定の研修を修了した特定行政書士による、一定の行政不服申立ての代理。
でも。
昭和六十三年には、まだその制度はありません。
私は現代の知識を持っています。
けれど。
この時代の所長や相馬先輩には、今の法律で戦う方法がある。
そして、その戦い方の中心には。
いつも、書類がありました。
それから十日ほど経ちました。
田村惣菜店。
必要な設備の改善が終わり、確認を受けたうえで、申請書類も整いました。
新たな営業許可についても、無事に良い知らせが届いたのです。
「先生!」
ハルさんが、事務所に駆け込んできました。
「許可が出ました!」
「本当ですか!」
私は思わず立ち上がりました。
「はい!」
ハルさんは、嬉しそうに書類を見せてくれました。
「これで、また店を続けられます」
私は胸が熱くなりました。
「よかった……!」
ハルさんは、片桐所長に深く頭を下げました。
「先生。本当にありがとうございました」
「いえ」
所長は短く答えました。
「必要な手続きを、順番に進めただけです」
「でも、私一人だったら、きっと諦めていました」
ハルさんは目元を拭いました。
「年寄りだから、もう店を閉めた方がいいのかと思って……」
私は首を振りました。
「そんなことありません!」
そして、思わず言いました。
「四十二年も続けたお店じゃないですか!」
ハルさんは笑いました。
「そうですね」
その笑顔を見て。
私は思いました。
行政書士法。
試験のテキストでは、硬い言葉ばかり並んでいます。
使命。
業務。
誠実義務。
応諾義務。
秘密保持。
登録。
報酬。
でも。
その一つ一つが。
こういう人を支えるためにあるのかもしれない。
「ところで、先生」
ハルさんが言いました。
「これ、皆さんで召し上がってください」
風呂敷包みが机に置かれました。
中には。
卵焼き。
かぼちゃの煮物。
それから、おにぎり。
「お店で作ってきました」
「わあ……!」
私は思わず声を上げました。
相馬先輩が笑いました。
「うまそうだな」
片桐所長は少し困ったような顔をしました。
「田村さん。お気持ちはありがたいですが、あまりお気遣いなさらず」
「大したものじゃありませんから」
「……そうですか」
所長は小さく頷きました。
「では、ありがたくいただきます」
ハルさんは何度も頭を下げて、帰っていきました。
私は包みの中のおにぎりを見つめました。
百万円の札束。
五万円の封筒。
そして。
手作りのおにぎり。
今日、一番重く感じたのは。
不思議なことに。
この小さなおにぎりでした。
夕方。
私は事務所の帳簿を開いていました。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「田村さんの件、記帳したか」
「はい!」
「事件名は?」
「食品営業許可関係書類作成業務です!」
「日付は?」
「記入しました!」
「依頼人の住所氏名は?」
「あります!」
「報酬額は?」
「記載しました!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は少し得意になりました。
「行政書士って、書類だけじゃなくて帳簿も大事なんですね」
「当たり前だ」
「どうしてですか?」
「仕事をした記録を、きちんと残すためだ」
私は帳簿を見ました。
事件の名称。
年月日。
報酬額。
依頼者の住所氏名。
必要な事項を記載する。
しかも。
帳簿は、関係書類とともに一定期間保存する必要があります。
書類のプロだからこそ。
自分の仕事の記録も、正確に残さなければならない。
「先輩」
「何だ」
「じゃあ、大黒社長の件は?」
「相談の経過は記録してある」
「断った仕事なのに?」
「後で何が問題になるか分からねえからな。何を持ち込まれて、どう対応したかは残しておく」
「なるほど……」
私は頷きました。
そのとき。
片桐所長が、机の端を指差しました。
「こはる」
「はい」
「そこに何がある」
私は振り向きました。
壁には、報酬についての掲示。
その横には、行政書士の登録に関する証票がありました。
「報酬の案内と、先生の証票です」
「そうだ」
所長は言いました。
「客が安心して仕事を頼めるようにしておく」
私は掲示を眺めました。
どんな仕事に、どのくらい費用がかかるのか。
誰が責任を持って仕事をしているのか。
そういうことが、依頼人に分かるようになっている。
なるほど。
行政書士の信用は、腕前だけで決まるものではありません。
報酬を明らかにすること。
登録を受けて業務を行うこと。
仕事の記録を残すこと。
秘密を守ること。
そして。
嘘の書類を作らないこと。
それらが全部、つながっているのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「行政書士は、依頼を断れないことがあります」
「うん」
「でも、違法な依頼まで引き受ける義務はありません」
「そうだ」
「それから、報酬が安いからって、正当な理由もなく断っていいわけじゃありません」
「うん」
「行政書士は、ただ紙を書く仕事じゃないんですね」
片桐所長が顔を上げました。
「では、何だ」
私は、ハルさんが置いていったおにぎりを見ました。
それから。
大黒社長が置いていった、偽の使用承諾書の写しを見ました。
同じ紙。
同じ申請。
でも。
中身は、まったく違った。
「……本当のことを、正しい手続きにつなげる仕事です」
私は答えました。
所長は静かに頷きました。
「それでいい」
私は嬉しくなりました。
でも。
ここで、一つ疑問が浮かびました。
「所長」
「何だ」
「行政書士試験に合格したら、すぐ行政書士になれるんですか?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、急に」
「だって、試験に合格したら資格があるんですよね?」
「ああ」
「じゃあ、合格した瞬間から、お金をもらって申請書を作っていいんですか?」
相馬先輩がにやりとしました。
「お前、また大事なところを忘れてるな」
「え?」
「登録だよ」
「……登録?」
「行政書士になるには、資格があるだけじゃ足りねえ」
私は固まりました。
そうです。
行政書士法。
第二条。
資格。
そして。
第六条。
登録。
試験に合格して、行政書士となる資格を持っている。
それだけで、自動的に行政書士として業務を始められるわけではありません。
「……あっ!」
私は頭を抱えました。
「資格と登録!」
「そうだ」
「別なんですね!」
「今さらかよ」
「だって、今日の事件は誠実義務と応諾義務だったじゃないですか!」
「法律は、お前の都合で区切ってくれねえよ」
「うう……!」
私は机に突っ伏しました。
行政書士法。
思った以上に、奥が深いです。
すると。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『もしもし……』
男の声でした。
少し若い声。
『行政書士の登録について、相談したいんですが』
「はい!」
『私、試験には合格しているんです。でも、登録をしないまま、知人の申請書を何件か有料で作ってしまって……』
……。
私は止まりました。
『これって、まずいんでしょうか』
相馬先輩を見る。
先輩も、こちらを見ました。
「……先輩」
「何だ」
「今度は、無登録です」
「聞こえてる」
「行政書士法の続きです!」
「分かってるよ!」
私は受話器を握り直しました。
「まず、どのような書類を、どんな形で作成されたのか教えていただけますか」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も、法律と人情の狭間で、書類が積み上がっていきます。
百万円を積まれても、書いてはいけないものがある。
五万円しかなくても、正当な理由なく門前払いしてはいけない人がいる。
そして。
試験に合格していても、登録という手続きを経なければ、行政書士として仕事を始めることはできない。
行政書士法。
それは単なる、資格者のための法律ではありません。
誰が。
どんな責任を持って。
何を仕事として行うのか。
その境界線を定める法律なのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「行政書士法って、面白いですね!」
「面白がってる場合か!」
「だって、仕事を断っちゃ駄目なのに、断らなきゃいけない仕事もあるんですよ!」
「そうだよ!」
「しかも、試験に受かっただけじゃ開業できない!」
「だから登録があるんだろ!」
「そして、登録しても、何でもできるわけじゃない!」
「そのとおりだ!」
私は笑いました。
相馬先輩は、呆れたようにため息をつきました。
「こはる」
「はい!」
「結局、行政書士の仕事で一番大事なのは何だと思う?」
私は少し考えました。
書類の知識。
法律の知識。
役所の手続き。
確かに全部大事です。
でも。
今日の大黒社長。
そして、ハルさん。
二人を思い出すと。
答えは、自然に出てきました。
「……信用です」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
片桐所長も、静かに言いました。
「書類は、何度でも書き直せる」
私は顔を上げました。
「だが」
所長は、机の上の六法を閉じました。
「一度失った信用は、簡単には書き直せん」
私は、その言葉を胸に刻みました。
そして。
ノートの端に、小さく書きました。
――行政書士は、依頼人の言いなりになる仕事ではなく、正しい書類で依頼人と社会の信用を守る仕事。
この一行。
きっと忘れません。
だって。
百万円の札束よりも。
四十二年間、町の人にお惣菜を作り続けたおばあさんのおにぎりの方が。
今日の私には、ずっと重く感じられたのです。
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