[基礎法学・法源と法解釈]法理編 こはるノート
法律の世界では、似ている言葉ほど危険です。
「推定する」
「みなす」
たった二文字の違い。
けれど、その違いを知らなければ。
自分の財産を奪われても、取り返せないと思い込んでしまうかもしれません。
そして。
法律を知っているつもりの人間ほど。
その二文字を、都合よく読み替えてしまうことがあるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、一冊のノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・基礎法学編。
「……先輩」
「何だ」
「基礎法学って、名前で損してません?」
新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。
「何の話だ」
「だって、基礎ですよ?」
「基礎だな」
「簡単そうじゃないですか」
「そうか?」
「なのに、今回の事件ですよ!」
私は鉛筆を握りしめました。
森下由紀子さん。
亡くなった父親から、小さな織物工場を受け継いだ女性。
父親が大切にしていた織機を、東山繊維株式会社に三か月だけ貸した。
ところが。
返還期限が来ても、東山社長は機械を返そうとしなかった。
しかも。
民法第百八十八条を持ち出し、
「占有しているから、所有権は俺のものとみなされる!」
と主張したのです。
でも。
その条文に書かれていたのは。
――推定ス。
という言葉でした。
「たった二文字で、あんなに大きな事件になるなんて……」
私は呟きました。
相馬先輩が鼻で笑います。
「基礎を間違えりゃ、その上に何を積んでも崩れるからな」
「……なるほど」
確かに。
民法を百条覚えていても。
行政法の判例を暗記していても。
商法の会社制度に詳しくても。
「みなす」と「推定する」を取り違えたら。
法律の意味そのものを誤解してしまう。
「よし!」
私はノートを開き直しました。
「今日は基礎法学を、完全に整理します!」
「昨日もそんなこと言ってなかったか」
「昨日は現場です!」
「今日は?」
「法理です!」
相馬先輩がため息をつきました。
「また長くなりそうだな……」
そのとき。
奥から片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
まず、私はノートに大きく書きました。
――法源。
「先輩。法律のルールって、どこから来るんでしょう?」
「いきなり大きな話だな」
「基礎法学ですから!」
法源。
簡単にいえば、法がどのような形で存在し、何を法的判断の根拠とするか、という問題です。
私は六法全書を持ち上げました。
「まず、成文法ですね」
「そうだ」
「文章として定められた法です」
憲法。
法律。
政令。
省令。
条例。
日本は、こうした成文法を中心とする法体系を採用しています。
「つまり、六法に載っている条文ですね」
「まあ、六法に載っていない法令も山ほどあるがな」
「あ、そうでした」
私は苦笑しました。
六法全書。
名前は立派です。
でも、日本に存在するすべての法令が、一冊に収まっているわけではありません。
「じゃあ、条文に書かれていないことは、どうするんですか?」
私が尋ねると、相馬先輩は新聞を畳みました。
「そこでもう一つ出てくる」
「不文法!」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――不文法。
法令の条文という形で明文化されていなくても、法的判断の根拠となり得る規範。
代表的なものとして。
慣習法。
判例法。
条理。
という分類があります。
「たとえば、慣習法です」
私は言いました。
「地域や業界で長く繰り返され、法的な規範として認められるようになった慣習ですね」
「そうだ。ただし、長く続いているだけで、何でも法律になるわけじゃねえぞ」
「はい!」
ここが重要です。
単なる習慣と、慣習法は違います。
毎年、町内会で餅つきをする。
これは習慣です。
だからといって、参加しなかった人に法律上の罰金を科せるわけではありません。
慣習が法的効力を持つためには、法秩序との関係など、必要な条件を満たさなければなりません。
「じゃあ先輩、東山社長が『この町では借りた機械は返さなくていい慣習がある』って言ったら?」
「そんな慣習が本当にあるのか、まず確かめる」
「はい」
「それが法的な効力を持つのかも問題だ」
「はい!」
「そもそも、期限を決めて返すと約束した書面があるだろ」
私は頷きました。
そうです。
慣習だと言い張れば、契約も法律も消える。
そんな便利な制度ではありません。
「次は判例法です」
私は続けました。
過去の裁判所の判断。
その積み重ねが、法律の解釈や適用に大きな影響を与える。
ただし、日本では、英米法のように判例が一般的に成文法と同じ形式の法源となるわけではありません。
最高裁判所の判例は、実務上極めて重要な意味を持ちますが、個々の判決の効力と、判例が後の事件に与える影響は区別する必要があります。
「つまり」
私は言いました。
「過去の似た事件で、裁判所がどう判断したかを調べることも大切なんですね」
「そうだ」
そして。
条理。
物事の道理。
社会生活における合理性や公平の観念。
「条文にも慣習にも、直接の答えが見つからない場合などに、条理が問題になるんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「ただし、条理という言葉で、自分の好き嫌いを押し通すな」
「……はい」
「法の根拠が何か、何を補うために条理を使うのか。そこを考えろ」
私は頷きました。
なるほど。
書いてある法律。
書いていない法的な規範。
その両方を見渡す。
これが法源の考え方なのです。
「さて、次です!」
私は新しいページを開きました。
――公法・私法・社会法。
「おお、法の分類だな」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
法律は、規律する対象や目的などによって分類できます。
まず、公法。
国家権力の組織や作用、国家と国民の関係などを規律する法。
代表例は。
憲法。
行政法。
刑法。
「市役所が営業許可を出さないとか、行政処分を取り消してほしいとか。そういう事件で特に重要になりますね」
「そうだな」
次に、私法。
私人同士の法律関係を規律する法。
代表例は。
民法。
商法。
「今回の織機事件は、こちらですね!」
私は言いました。
森下由紀子さん。
東山繊維株式会社。
どちらも私人です。
機械を貸す。
返還する。
所有権を主張する。
こうした財産関係は、私法の問題です。
「じゃあ、社会法は?」
相馬先輩が尋ねました。
「社会的・経済的な格差を是正したり、弱い立場の人を保護したりするための法分野です!」
代表例として。
労働基準法。
生活保護法。
などがあります。
私は例を考えました。
「たとえば、工場の社長が従業員に『残業代は一切払わない』という契約書へ署名させたとします」
「うん」
「本人が同意したからといって、労働基準法の強行規定に反する部分まで有効になるわけじゃありません」
「そうだ」
私法では、契約自由が重要です。
けれど。
当事者が合意すれば、何を決めてもよいわけではありません。
法律には、当事者の合意でも排除できない強行規定があります。
「つまり、契約書に署名したから全部有効、とは限らないんですね」
「そうだ」
ここで私は、少し考えました。
「先輩」
「何だ」
「公法、私法、社会法って、きれいに三つに分けられるんですか?」
相馬先輩は少し笑いました。
「いい質問だ」
「褒めました!?」
「まだだ」
「またそれですか!」
先輩は続けました。
「分類は、法律の性質を理解するための道具だ。現実の法制度は、きれいに箱へ収まるとは限らねえ」
私は頷きました。
確かに。
労働基準法には、労働契約に関する規律もあれば、違反に対する行政監督や刑罰もあります。
私法的な側面。
公法的な側面。
それらが組み合わさっている。
「法律の分類は、絶対的な壁じゃないんですね」
「そういうことだ」
私はノートに線を引きました。
法律は、分類して終わりではない。
なぜその分類が必要なのか。
そこまで考えるのです。
「次は、実体法と手続法です!」
私は鉛筆を走らせました。
実体法。
権利や義務の発生、変更、消滅などを定める法。
手続法。
その権利や義務を公的な手続によって確定・実現する方法などを定める法。
「今回の事件に当てはめましょう!」
私はノートに織機を描きました。
四角い機械。
横に、糸。
……絵は苦手です。
相馬先輩が覗き込みました。
「何だこれ」
「織機です!」
「弁当箱かと思った」
「ひどい!」
気を取り直します。
「森下さんには、機械の返還を求める法律上の根拠がありました」
「うん」
「所有権や貸与契約の終了などに関する問題ですね」
「そうだ」
「こうした権利義務の内容を考えるのが、実体法です」
では。
相手が返還を拒否したら、どうするか。
裁判で請求する。
判決を得る。
必要な場合には強制執行を利用する。
こうした権利実現の手続を考える場面で、民事訴訟法や民事執行法などが関係します。
「ここ、行政書士としても重要ですね」
私は言いました。
「そうだな」
「権利があるからって、勝手に相手の倉庫へ入って機械を持ち帰るわけにはいきません」
「当たり前だ」
「正しい手続を踏まなければならないんですね」
片桐所長が頷きました。
「権利があることと、それを実現する方法は別だ」
「はい!」
私は書きました。
――実体法は「何を請求できるか」。
――手続法は「どのように実現するか」。
もっとも、実際には実体法と手続法の区別が単純でない規定もあります。
でも、この基本を押さえるだけで。
法律の地図が、少し見やすくなりました。
「さて、次は一般法と特別法です」
私は言いました。
「今回も関係したな」
相馬先輩が頷きます。
一般法。
広い範囲に適用される法。
特別法。
特定の事項や人、取引などについて、特別の規律を設ける法。
そして原則として。
同じ事項について一般法と特別法の規定が競合するときは、特別法が優先します。
「たとえば、民法と商法ですね」
「そうだ」
「民法は一般的な私人間の関係を定めています」
「うん」
「商法は、商人や商行為などについて特別の規律を置いています」
私はノートに書きました。
民法――一般法。
商法――特別法となる場面がある。
「ただし!」
私は自分で声を上げました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だ」
「商人同士なら何でも民法が使えなくなる、というわけじゃありません!」
「正解だ」
そうです。
特別法に規定がある事項について、その特別規定を優先する。
特別規定のないところでは、一般法が適用されることがあります。
「今回の東山社長みたいに、株式会社だから商法だけで全部決まる、という話ではないんですね」
「そういうことだ」
私は続けました。
「ところで、所長」
「何だ」
「会社に関する法律も、時代で大きく変わるんですよね」
「……何の話だ」
しまった。
また現代知識です。
私は慌てて言いました。
「いえ! 法律は改正によって体系が変わることもある、という話です!」
現代。
平成十七年に会社法が制定され、平成十八年に施行されました。
その結果、会社に関する基本的な規律は、商法から独立した会社法を中心に整理されるようになりました。
でも。
昭和六十三年。
今、私の目の前にある六法では。
会社に関する規定は、商法第二編などに置かれています。
「……危ない」
私は小さく呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「法律の分類だけでなく、法律の置き場所まで変わることがあるんだなって……」
「そりゃ、改正すりゃ変わることもあるだろ」
「ですよね!」
私は苦笑しました。
法律の根本的な考え方が同じでも。
法典の構成や条文番号は変わる。
転生者にとって、これほど恐ろしいことはありません。
「さて」
相馬先輩が言いました。
「本題に戻るぞ」
「はい!」
「今回の東山社長は、何を間違えた?」
「民法百八十八条の『推定する』を『みなす』に変えました!」
「その違いを説明してみろ」
私は大きく息を吸いました。
来ました。
今回の最重要論点。
――みなす。
――推定する。
私は二つの言葉を、ノートの左右に書きました。
「まず、みなすです」
法律上の「みなす」は、法律が一定の事実関係を別のものとして扱い、その法律効果を確定させる表現です。
「たとえば、法律でAをBとみなすと定めていれば、Aは法律上Bとして扱われます」
「うん」
「通常、『実際にはBじゃない』という反証だけでは、その扱いを覆せません」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、推定するは?」
「一定の事実があるとき、別の事実も存在するものとして一応扱います。でも、反対の証拠によって覆すことができます!」
「そうだ」
私は赤鉛筆で大きく書きました。
――みなす=原則として反証では覆せない。
――推定する=反証によって覆せる。
「これです!」
私は言いました。
「東山社長は、本当は『推定する』なのに、『みなす』と書いたんです!」
「そうだな」
「もし、そのまま信じていたら、森下さんは諦めてしまったかもしれません」
相馬先輩が頷きました。
「だから条文の一文字を軽く見るなってことだ」
私は今回の資料を広げました。
民法第百八十八条。
占有者が占有物について行使する権利は、適法に有するものと推定する。
昭和の条文は文語体ですが、内容の基本は現代と共通しています。
「ここで、もう一つ重要なのが占有です」
私は言いました。
占有。
物を事実上支配している状態。
所有権。
物を使用・収益・処分する権利。
「この二つも、違いますよね」
「そうだ」
たとえば。
友人から本を借りた人。
その本を手元に持っています。
占有はしています。
でも、所有者とは限りません。
「借りた本を持っているからといって、その本が当然に自分の所有物になるわけじゃない」
「そういうことだ」
今回の織機も同じです。
東山繊維は、機械を占有していました。
でも。
貸与確認書には、期間を定めて借りたことが明記されていました。
さらに。
購入時の領収書。
保証書。
管理台帳。
返還についての電話記録。
こうした資料がありました。
「つまり」
私は言いました。
「東山社長が現に機械を持っているというだけでは、森下さんの所有権を否定できないんですね」
「そうだ」
「しかも、百八十八条は、占有によって当然に所有権が移ると定めた規定ではありません」
「そのとおり」
ここが決定的です。
推定と擬制を取り違えた。
それだけではありません。
占有と所有も混同していた。
さらに、推定規定から当然の所有権取得という、条文が定めていない効果まで導いていた。
「……三重に間違っていたんですね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「それを自信満々に書いてきたんだから、大したもんだ」
「褒めてませんよね?」
「もちろんだ」
私は思わず笑いました。
「では、次です」
私はページをめくりました。
――善意と悪意。
「これも今回、勘違いされそうになりました」
相馬先輩が頷きます。
善意。
法律上、ある事実を知らないこと。
悪意。
ある事実を知っていること。
「道徳的に良い人か悪い人か、という意味ではありません」
「そうだ」
私は例を挙げました。
「知らずに他人の物を買った人は、その事情について善意です」
「うん」
「他人の物だと知って買った人は、その事情について悪意です」
「そうだな」
では。
東山社長はどうだったでしょう。
最初から、織機が森下さんの所有物だと知っていました。
なぜなら。
貸与確認書に自分で署名押印していたからです。
「だから東山社長は、その機械が借り物であることについて悪意だった、と言えるんですね」
「そうだ」
「でも!」
私は赤線を引きました。
「悪意だから、どんな契約でも無効になるわけではありません!」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「今回、私が最初に間違えたところです……」
私は苦笑しました。
悪意。
無効。
この二つを、勢いで結び付けてしまった。
でも。
善意か悪意かが法律上の効果に影響するかどうかは、適用される規定によります。
「法律用語は、覚えたら好きなところへ貼り付けていいわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「包丁だって、使う場所を間違えりゃ危ねえだろ」
「……なるほど」
法律用語は道具。
使う場所を間違えれば、逆に自分を傷つける。
私はその言葉をノートに書きました。
「次は、無効・取消し・撤回です!」
「まだあるのか」
「基礎法学ですから!」
私は三つの言葉を並べました。
――無効。
――取消し。
――撤回。
「まず無効です」
法律行為が、初めから法律上の効力を生じないこと。
次に取消し。
取消権を持つ人が取り消すことによって、法律行為が初めから無効だったものと扱われること。
そして撤回。
すでにした意思表示などを、法律上認められる範囲で取りやめること。
「ただし、撤回には注意が必要ですね」
私は言いました。
「ほう?」
相馬先輩が顔を上げます。
「撤回は、何でも自由にできるわけではありません。法律によって撤回できる条件や効力が違います」
「そうだ」
私はノートに補足しました。
撤回は、一般に、過去の法律関係を当然に最初から消す取消しとは区別されます。
ただし、法律によって撤回の対象や具体的効果が異なるので、「撤回なら必ず将来効だけ」と機械的に決めつけないこと。
「たとえば、契約を取り消す場合と、行政庁が適法に成立した処分を後から撤回する場合では、考える問題が違いますよね」
「そうだな」
私は頷きました。
無効。
取消し。
撤回。
似ています。
でも、全部同じではありません。
「それと、無効と取消しの区別も重要です」
私は続けました。
「未成年者が法定代理人の同意を得ずにした法律行為は、原則として取り消すことができます」
「うん」
「最初から当然に無効になるわけではありません」
「そうだ」
取消権がある場合には、誰が、いつ、どのように行使できるのか。
その点も重要です。
「だから、取消権の期間制限も調べる必要があるんですね」
「そのとおり」
私は鉛筆を置きました。
無効と取消し。
ただ言葉を知っているだけでは足りない。
効果がいつ生じるのか。
誰が主張できるのか。
期間制限はあるのか。
そこまで理解して、初めて事件に使えるのです。
「さて、次は法解釈です」
私は言いました。
相馬先輩が苦笑しました。
「ようやく今回の核心のもう半分か」
「はい!」
法律の条文は、抽象的に書かれています。
現実の事件は、具体的です。
だから。
条文の言葉を、具体的な事実に当てはめるためには解釈が必要になります。
「まず、文理解釈!」
私は書きました。
条文の言葉や文章の通常の意味を重視して読む方法。
「東山社長の事件では、まずこれですね」
「そうだな」
「『推定する』と書いてあるのに、『みなす』と読むことはできません!」
「そのとおり」
次に、論理解釈。
条文の目的。
制度の趣旨。
他の条文との関係。
法体系全体との整合性。
そうした要素から、合理的な意味を考える方法です。
「法律って、一つの条文だけ孤立しているわけじゃないんですね」
「そうだ」
たとえば。
民法第百八十八条。
占有者の権利の推定。
でも。
その周辺には、占有や所有権などに関する別の規定があります。
だから、一条だけを切り取って、
「占有しているから何でも自分のものだ!」
と結論づけることはできません。
「次は、類推解釈です」
私は続けました。
ある事柄について直接適用できる規定がない場合に、似た事柄についての規定を、その趣旨から考えて適用する方法。
「ただし、類推解釈にも限界があります」
「何だ?」
「刑罰を科すために、刑法の規定を被告人に不利益に類推適用することは許されません」
罪刑法定主義。
どのような行為が犯罪となり、どんな刑罰を受けるかは、法律によって定められていなければならない。
だから。
「似ているから犯罪にしよう!」
というような、処罰範囲を広げる類推解釈は認められないのです。
「民法などでは、一定の場合に類推適用が認められることがありますが、何でも自由に広げていいわけではありません」
「そうだ」
次は、反対解釈。
条文が一定の場合について特別な効果を定めているとき、反対の場合にはその効果が生じないと解釈する方法。
「でも、これも注意ですね」
私は言いました。
「条文にAの場合と書いてあるからって、必ずA以外を全部排除するとは限らない」
「そういうことだ」
その規定が、例外を限定しているのか。
単なる例示なのか。
制度の目的は何か。
そこまで考えなければなりません。
「それから、拡張解釈と縮小解釈です」
拡張解釈。
条文の文言について、通常想定される範囲より広い意味を認める解釈。
縮小解釈。
逆に、条文の趣旨などを踏まえ、適用範囲を狭く読む解釈。
「ただし、どちらも条文の意味や法の趣旨から離れて、勝手に効果を作るための方法ではありません」
私は鉛筆を置きました。
「……なんだか、全部に共通点がありますね」
片桐所長が顔を上げました。
「何だ」
「法律の解釈って、好き勝手に読んでは駄目なんです」
「そうだ」
「条文の言葉と、目的と、制度全体の筋道を考えなければならない」
所長が静かに頷きました。
「そのとおり」
私は少し嬉しくなりました。
これが、法的思考力。
ただ条文を暗記するだけではない。
事実を拾い。
問題を分け。
適用する法律を探し。
その意味を正しく理解する。
そして、結論へとつなげる。
東山社長のように、強そうな言葉を選んで勝手に書き換えるのとは、正反対の作業なのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「条文が改正されたら、古い事件にも新しい法律を使うんですか?」
相馬先輩は首を振りました。
「そんな単純な話じゃねえ」
私は頷きました。
――法の時間的効力。
法律には、施行日があります。
一般に、新しく施行された法律は、その施行後の事実や法律関係に適用されることを基本とします。
ただし。
施行前に生じた事柄への適用については、経過措置や法律の性質などを確認する必要があります。
「特に刑法では、不利益な遡及処罰を禁じる原則が重要ですね」
「そうだ」
日本国憲法第三十九条。
行為時に適法だった行為を、後から刑罰法規を作って処罰することはできません。
私は書きました。
――新しい法律だから、過去の事件にも何でも適用できるわけではない。
「これ、昭和と令和で法律を比べるときに、すごく重要ですね」
「そうだな」
私は六法を見ました。
昭和六十三年。
民法には、まだ文語体の規定が多く残っています。
刑法も、現代語化されていません。
現代では。
刑法は平成七年に現代語化され。
民法も平成十六年の現代語化によって、読みやすい表現へと改められました。
ただし、すべての法律が一斉に同じ時期に変わったわけではありません。
「つまり」
私は言いました。
「条文の考え方は共通でも、実際に適用する法律は、その時代の施行法令を確認しなければならないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が頷きます。
私は小さく呟きました。
「未来の条文番号をうっかり言っちゃいけない……」
「何だ?」
「い、いえ!」
また危なかった。
転生者の悩みは、尽きません。
「次は、法令用語の残りです!」
私はノートに三つの言葉を書きました。
――直ちに。
――速やかに。
――遅滞なく。
「全部『早くしろ』って意味ですよね」
相馬先輩が言いました。
「そうです。でも、ニュアンスが違うんです!」
一般的な法令用語の使い分けでは。
直ちに。
時間的な遅れを置かず、即時に行うことが求められる。
速やかに。
できるだけ早く行うことが求められる。
遅滞なく。
正当な理由のない遅れを生じさせずに行うことが求められる。
「一般に、直ちに、速やかに、遅滞なく、という順に緊急性の違いが説明されます」
「なるほどな」
「でも、これも言葉だけで判断したら駄目なんです」
私は続けました。
「実際にどの程度の時間が許されるかは、適用される法律や具体的な事情によります」
「そうだな」
「それに、『速やかに』と書いてあるから遅れても絶対に違法にならない、というわけでもありません」
相馬先輩が頷きました。
私は例を挙げました。
「たとえば、台風で道路が通れなくなった場合です」
「うん」
「『遅滞なく』行うべき義務について、その遅れに正当な理由があるかどうか、事情を検討する余地があります」
「そうだ」
「だから、事情も調べずに『一日遅れたから即アウト』とは言えません」
私は鉛筆を止めました。
法律用語を暗記する。
それは必要です。
でも。
言葉の意味だけで機械的に結論を出してはいけない。
今回の事件と、同じです。
窓の外は、すっかり薄暗くなっていました。
私はノートを閉じかけました。
すると。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「裁判制度も整理しておけ」
「あっ!」
忘れていました。
基礎法学では、日本の裁判制度も重要です。
私は新しいページを開きました。
――日本の裁判制度。
まず、民事裁判。
私人間の財産や身分関係などに関する争いを扱う裁判です。
今回の織機事件も、返還が実現しなければ、民事訴訟へ発展する可能性がありました。
「民事訴訟では、原告と被告が争うんですね」
「そうだ」
次に、刑事裁判。
犯罪の成否や刑罰を判断する裁判。
原則として、検察官が公訴を提起し、被告人の刑事責任が審理されます。
そして。
行政事件訴訟。
行政庁の処分の取消しなど、公権力の行使に関する紛争を扱う訴訟です。
「でも行政事件訴訟って、民事訴訟や刑事訴訟とまったく同じ分類の階層にあるわけではありませんよね」
私は言いました。
「そうだ」
日本の裁判所の体系には。
最高裁判所。
高等裁判所。
地方裁判所。
家庭裁判所。
簡易裁判所。
があります。
そして、事件の種類に応じて、裁判所の管轄や手続が定められています。
「昭和六十三年には、裁判員制度はありません」
私は思わず呟きました。
「裁判員?」
相馬先輩が怪訝な顔をします。
「あっ!」
しまった。
「いえ! 将来、裁判の仕組みが変わることもあるかなって!」
「何を言ってるんだ、お前は」
現代では。
平成二十一年に裁判員制度が始まりました。
また、平成十七年には知的財産高等裁判所が設けられました。
ただし、知財高裁は、通常の高等裁判所と完全に別系統の新たな審級ではありません。
東京高等裁判所の特別の支部として設けられています。
「……未来の基礎法学って、覚えることが増えるんですよね」
私は小さく呟きました。
「何?」
「何でもありません!」
相馬先輩が首をかしげています。
でも。
裁判制度は、社会の変化とともに発展していく。
そう考えると。
基礎法学も、決して古い知識の暗記だけではないのです。
「さて、最後です」
私は言いました。
「今度こそ最後か?」
相馬先輩が聞きます。
「はい!」
私はノートに書きました。
――裁判外紛争解決手続。
「……長い名前だな」
「そうですね」
裁判外紛争解決手続。
一般に、ADRとも呼ばれます。
裁判所の判決による解決とは別に、調停、あっせん、仲裁などの仕組みを通じて紛争解決を図るものです。
「今回の織機事件では、裁判まで行かずに解決しましたね」
「そうだな」
「でも、内容証明を送ったこと自体が、法律上のADRになるわけではありません」
「そのとおり」
ここも大事です。
当事者同士の話し合い。
第三者によるあっせん。
調停。
仲裁。
これらは同じではありません。
また、仲裁では、仲裁合意や仲裁判断に特有の法的効果があります。
「それに、私たち行政書士が、弁護士のように法律紛争の代理交渉を自由にできるわけではありません」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「今回も、森下さん本人の意思を確認して通知書を作った。紛争が続くなら弁護士へ引き継ぐ。それが役割の区別だ」
「はい!」
私は頷きました。
昭和六十三年にも、裁判外で紛争を解決する仕組みや実務はありました。
民事調停や家事調停なども、昔から存在しています。
ただし。
現代のように、裁判外紛争解決手続の利用促進に関する法律、いわゆるADR法が整備されるのは、もっと後のことです。
平成十六年に成立し、平成十九年に施行されます。
「つまり、裁判以外の解決方法そのものが、現代になって突然生まれたわけではないんですね」
「そりゃそうだ」
「でも、制度の整理や利用を促す仕組みは、時代によって発展してきた」
私はノートに書きました。
――紛争解決の方法も、社会とともに変わる。
片桐所長が頷きました。
「いいだろう」
私は嬉しくなりました。
やっと、最後まで来ました。
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「確認問題でもやるか」
「はい!」
私は身を乗り出しました。
「来ましたね!」
「第一問」
先輩が言いました。
「法律に『AをBと推定する』とある。反対の証拠が出たら?」
「推定が覆ることがあります!」
「正解」
「第二問は私が出します!」
「何でだ」
「勉強会ですから!」
私は続けました。
「法律に『AをBとみなす』とある。Aは実際にはBと違うと証明すれば、必ず覆せますか?」
「覆せねえ」
「正解!」
「お前が採点するのかよ」
「次です!」
私は笑いました。
「善意とは?」
「その事実を知らねえこと」
「悪意とは?」
「知ってること」
「無効とは?」
「初めから効力がねえこと」
「取消しとは?」
「取り消したら、初めから無効だったものと扱われること」
「一般法と特別法が同じ事項について競合したら?」
「原則として特別法が優先する」
私は拳を握りました。
「完璧です!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「俺を試験にかけてどうする」
「先輩も復習できました!」
「余計なお世話だ」
私は笑いました。
でも。
今日の勉強で、ようやく分かった気がします。
基礎法学は。
法律の名前や用語を覚えるだけの科目ではありません。
ルールがどこから来るのか。
どの法律を使うのか。
その法律は、いつの事件に適用されるのか。
条文をどう解釈するのか。
その言葉は、法律上どんな意味を持つのか。
そして。
その法律を、具体的な事実にどう当てはめるのか。
そこまで考えて。
初めて、法律の知識は現場で使えるようになるのです。
私は最後のページを開きました。
「所長」
「何だ」
「今日の一行、書きます」
「ああ」
私は鉛筆の先を整えました。
森下由紀子さん。
父親が残した織機。
貸与確認書。
所有権の通知書。
そして。
東山社長が、自分に都合よく書き換えた二文字。
あの事件を思い出しながら。
ゆっくり書きました。
――法律は、言葉の意味を正しく読み、事実と証拠を当てはめて初めて武器になる。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、一番大切なことは何だ」
私は少し考えました。
そして答えました。
「法律に書いてあるから正しい、じゃなくて」
「うん」
「本当にそう書いてあるのか」
「うん」
「その条文が、何を定めているのか」
「そうだ」
「そして、その事件に適用できるのか」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は笑いました。
法律の勉強。
受験生だった頃は、暗記することばかり考えていました。
成文法。
不文法。
公法。
私法。
社会法。
実体法。
手続法。
一般法。
特別法。
文理解釈。
類推解釈。
反対解釈。
そして。
推定と擬制。
どれも、試験のための知識だと思っていた。
でも。
違いました。
その一つ一つが。
現実の事件で、誰かを守るために使われることがある。
それを知った今。
私はもう、基礎法学を退屈な暗記科目だとは思いません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日はもう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、この書類を整理しろ」
先輩が机の上に、山のような紙を置きました。
「……え?」
「事件記録だ」
「こんなに!?」
「基礎法学を勉強したんだろ?」
「しましたけど!」
「じゃあ、分類できるな」
私は紙の山を見つめました。
契約書。
内容証明の控え。
相談票。
領収書。
電話記録。
資料が山ほどあります。
「……先輩」
「何だ」
「私の労働時間について、労働基準法の問題が発生する可能性があります」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「ほう」
「社会法です!」
「それがどうした」
「労働者の保護です!」
「お前、もうすぐ定時だぞ」
「……!」
「しかも、まず適用関係と労働時間の事実を調べろ。条文も見ずに違法だって決めつけるな」
私は固まりました。
……やられました。
基礎法学。
まさか、自分の仕事で復習することになるとは。
「所長!」
私は奥へ声をかけました。
「何だ」
「この書類整理、今日中ですか?」
「いや」
「え?」
「明日でもいい」
私は顔を輝かせました。
「本当ですか!」
「ああ」
やった。
助かりました。
私は相馬先輩を振り返ります。
「先輩!」
「何だ」
「所長が明日でいいって!」
「聞こえてる」
「つまり、今日は帰れます!」
相馬先輩は少し考えてから言いました。
「こはる」
「はい」
「それは明日まで放っておいていいという意味じゃねえぞ」
「……え?」
「明日の仕事が増えただけだ」
私は固まりました。
確かに。
今日やらなかった仕事が、消えるわけではありません。
単に、期限が先になっただけ。
私は机の上の紙の山を見つめました。
「……これが、法解釈ですか」
「ただの業務指示だ!」
相馬先輩が笑いました。
私も、思わず笑ってしまいました。
窓の外。
昭和の町に、夕暮れの灯りがともっています。
あのどこかで。
森下由紀子さんは、父親の織機を動かしているのでしょう。
規則正しい機械の音。
長年働いてきた人たちの声。
そして。
また少しずつ動き始めた、小さな町工場。
法律は。
冷たい条文の集まりではありません。
正しく読めば、人を守る力になる。
けれど。
意味を間違えれば、人を傷つける道具にもなる。
だから。
私はこれからも、六法を開きます。
たとえ、カタカナだらけで読みにくくても。
たとえ、条文の意味を理解するのに時間がかかっても。
一文字ずつ。
一つずつ。
その意味を確かめていくのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「帰る前に、机の上だけは片付けろ!」
「分かりました!」
「返事だけはいいな!」
「先輩!」
「何だ!」
「今日の私、基礎法学を完全に理解した気がします!」
「気がするだけだろ!」
「ひどい!」
私は笑いながらノートを閉じました。
表紙には。
――こはるノート・基礎法学編。
その最後のページには、たった一行。
――法律は、言葉の意味を正しく読み、事実と証拠を当てはめて初めて武器になる。
これなら、忘れません。
そして。
もし次に誰かが、
「法律にそう書いてある!」
と胸を張って言ってきたら。
私はきっと、こう答えるでしょう。
「では、その条文を一緒に確認しましょう」
それが、昭和で学んだ、私の法的思考です。
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