[基礎法学・法源と法解釈]現場編 「法律にそう書いてあるから俺のものだ」の嘘。たった二文字の違いが暴いた、町工場を乗っ取る男の誤算
法律の世界では、たった二文字で勝敗が変わることがあります。
たとえば。
「みなす」
と。
「推定する」
この二つ。
普通の会話なら、どちらも「そういうことにする」という意味に聞こえます。
でも。
法律では、まったく違うのです。
片方は、原則として反対の証拠を出しても覆せない。
もう片方は、反対の証拠があれば覆る。
つまり。
同じように見える二つの言葉が。
誰かの大切な財産を守ることもあれば。
奪おうとする人間の武器にもなるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私が出会ったのは。
法律の条文を、わざと一文字だけ読み替える男でした。
「父の機械を、返してもらえないんです」
朝一番。
事務所を訪れた女性は、そう言いました。
名前は、森下由紀子さん。
三十四歳。
紺色の作業着を着ています。
指先には、小さな傷がいくつもありました。
「機械?」
私は聞き返しました。
「はい。織物工場の機械です」
由紀子さんの父親は、町外れで小さな織物工場を営んでいたそうです。
従業員は五人。
古い木造の工場。
大きな織機が何台も並んでいる。
それが、森下織物工場でした。
「父は去年、亡くなりました」
「そうでしたか……」
「それから私が工場を継いだんです。でも、もう注文も少なくて」
由紀子さんは俯きました。
「そんなとき、知り合いの会社の社長が、うちの織機を一台貸してほしいって」
「貸したんですか?」
「はい。三か月だけという約束でした」
相手は、東山繊維株式会社。
社長は東山剛三。
地元では有名な、強引な経営者だそうです。
由紀子さんは鞄から一枚の紙を取り出しました。
――機械貸与確認書。
そこには、機械の名称。
製造番号。
貸与期間。
返還予定日。
そして、東山社長の署名と会社印がありました。
「ちゃんと書類がありますね」
私は言いました。
「はい。でも……」
由紀子さんの手が震えました。
「返してほしいと言ったら、こんなものを渡されたんです」
もう一枚。
今度は、立派な封筒に入った書面。
表題は、
――所有権に関する通知書。
私は目を通しました。
そして。
ある一文で、手が止まりました。
――民法第百八十八条により、占有者が占有物について行使する権利は適法なものとされる。
――当社は本件機械を現に占有し、所有者として管理使用している。
――したがって、本件機械の所有権は当社にあるものとみなされる。
……。
みなされる?
私は眉をひそめました。
その下には、さらにこうあります。
――以上により、貴殿の返還請求には応じない。
――本件機械の売却、移転その他の処分について、当社は自由に行うことができる。
「……先輩」
私は相馬先輩を呼びました。
「何だ」
「これ、変じゃありません?」
先輩が書面を覗き込みました。
そして。
「……ああ」
短く言いました。
「随分と都合のいい六法を持ってる社長だな」
「ですよね!」
私は机を叩きそうになりました。
でも、寸前で止めました。
片桐所長がこちらを見ていたからです。
怖い。
法律より怖い。
机を叩く見習いに対する、所長の無言の視線。
「こはる」
「はい!」
「六法を開け」
「はい!」
来ました。
基礎法学。
今日の戦いが始まります。
私は本棚から六法全書を取り出しました。
重い。
分厚い。
そして。
「……読みにくい!」
思わず声が出ました。
「何だ?」
相馬先輩が聞きます。
「カタカナだらけです!」
「当たり前だろ」
「当たり前なんですか!?」
「民法だぞ」
そうでした。
昭和六十三年。
民法は、まだ明治時代の文語体を多く残しています。
現代の六法でおなじみの、ひらがな交じりの条文とは見た目が違うのです。
私は目を凝らしました。
民法第百八十八条。
そこには、こうあります。
――占有者ガ占有物ニ付キ行使スル権利ハ之ヲ適法ニ有スルモノト推定ス
「……あ!」
私は顔を上げました。
「推定する!」
相馬先輩が頷きます。
「そうだ」
「みなす、じゃない!」
「そうだな」
私は由紀子さんに書面を見せました。
「由紀子さん。相手の通知書には『所有権があるものとみなされる』って書かれていますよね」
「はい」
「でも、本当の条文は違います」
「違うんですか?」
「はい!」
私は六法を指差しました。
「推定する、です!」
由紀子さんは首をかしげました。
「……何が違うんでしょう?」
私は一瞬止まりました。
そうですよね。
法律を勉強したことのない人には、似た言葉に聞こえます。
でも。
「大違いなんです!」
私は言いました。
「推定するというのは、とりあえずそう扱うけれど、反対の証拠があれば覆せる、という意味です」
「反対の証拠……」
「はい。つまり、相手が現に機械を持っているというだけで、絶対に所有者になるわけじゃありません!」
由紀子さんの目に、少し光が戻りました。
「じゃあ、父の機械を取り返せるんですか?」
「その可能性は十分にあります!」
勢いよく答えた私の横から。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「まだ結論を急ぐな」
「え?」
「条文の間違いを見つけたことと、依頼人の所有権を証明できたことは別だ」
「……あ」
所長は貸与確認書を手に取りました。
「この機械を誰が所有していたのか」
「はい」
「東山社長に、どんな権限で渡したのか」
「はい」
「その後、売買や譲渡の合意があったのか」
私は黙りました。
そうです。
相手の理屈が間違っていても。
それだけで、こちらの主張が全部正しいとは限らない。
「法律の言葉を知っているだけでは、事件は解決しない」
所長が静かに言いました。
「事実を確かめろ」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
基礎法学。
名前だけ聞くと、法律の入門科目。
でも。
入門だから簡単だなんて。
誰が決めたのでしょうか。
「由紀子さん」
私は尋ねました。
「機械を貸したときの状況を、詳しく教えてください」
「はい」
「売るという話は、一度でも出ましたか?」
「いいえ」
「代金を受け取りましたか?」
「受け取っていません」
「貸与期間の延長は?」
「一度だけ、電話で頼まれました。でも断りました」
「断ったんですね?」
「はい」
「その電話の内容を記録していますか?」
由紀子さんは少し考えました。
「あ……」
鞄から、小さな手帳を取り出します。
「父が、仕事の電話は必ず記録しろって言っていたので」
開かれたページには、鉛筆で細かく書き込まれていました。
昭和六十三年五月十二日。
東山社長より電話。
機械の貸与期間延長を希望。
森下側、返還期限の延長を拒否。
返還予定日を再確認。
「これです!」
私は思わず身を乗り出しました。
相馬先輩が手帳を覗きます。
「いいな」
「証拠になりますか?」
由紀子さんが聞きました。
「話し合いの経過を裏付ける資料になります。ただし、手帳だけで全部証明できるわけじゃありません」
私は答えました。
所長が頷きます。
「ほかには?」
「父が機械を買ったときの領収書があります」
「それも持っていますか?」
「はい」
次々と出てきます。
購入時の領収書。
機械の保証書。
修理伝票。
固定資産の管理台帳。
そして、貸与確認書。
私はそれらを机に並べました。
機械の製造番号。
すべて一致しています。
「……すごい」
私は呟きました。
「これだけ残っているんですね」
由紀子さんが小さく笑いました。
「父は、紙を捨てられない人だったんです」
「素敵なお父さんですね」
「そうでしょうか」
「はい!」
私は書類を揃えました。
「少なくとも、今日の私たちには、とても心強いです」
由紀子さんの目が潤みました。
そのとき。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「もう一つ確認だ」
「何ですか?」
「相手は、最初から借り物だと知っていたのか」
「……あ」
私は貸与確認書を見ました。
貸与。
返還予定日。
署名押印。
知っていたに決まっています。
「先輩!」
「何だ」
「知っています!」
「だな」
「つまり、悪意です!」
由紀子さんが驚きました。
「悪意!?」
「はい!」
「でも、東山さんは最初、親切に話してくださって……」
「あ、違うんです!」
私は慌てました。
「悪意って、法律では必ずしも意地悪とか悪人って意味じゃないんです!」
「そうなんですか?」
「はい。特定の事実を知っている、という意味で使われます」
私は貸与確認書を指差しました。
「東山社長は、これが借り物だと知っていた。その意味では『借り物であることについて悪意』だった、ということです」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、こはる」
「はい」
「何について善意か悪意か、そこまで言え」
「……はい」
「悪意という単語だけで、どんな法律効果でも出てくるわけじゃねえ」
なるほど。
悪意。
法律用語としては「知っている」。
でも、その知識がどの条文で、どんな意味を持つかは別問題。
言葉の定義を知っただけで、勝った気になるな。
そういうことですね。
……今日の基礎法学、容赦がありません。
翌日。
東山繊維株式会社から、事務所に電話が入りました。
「片桐って行政書士はいるか!」
受話器の向こうから、怒鳴り声。
東山剛三社長です。
私が受話器を握り直すと、相手は続けました。
『森下の娘が、お前らに相談しているそうじゃねえか!』
「はい。ご相談を受けています」
『法律を知らない小娘に、妙な知恵をつけるなよ!』
……。
小娘。
今の言葉、私にも刺さりました。
年齢的には、私はもっと小娘です。
『こっちには民法があるんだよ!』
「民法ですか」
『百八十八条だ! 占有している奴の権利は認められる! そう書いてあるだろ!』
私は一度、息を吸いました。
「条文には、『推定する』と書いてあります」
『同じことだろうが!』
「同じではありません」
『何!?』
「それに、その規定は、占有している人が当然に所有権を取得するという意味でもありません」
受話器の向こうが静かになりました。
「貸与確認書には、東山社長ご自身の署名押印があります。貸与期間も返還予定日も記載されています」
『……それがどうした!』
「少なくとも、所有権の帰属を考えるうえで重要な資料です」
『生意気な小娘が!』
相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。
「代われ」
「……はい」
先輩が受話器を受け取ります。
「相馬です」
『何だ、お前は!』
「片桐行政書士事務所の者です」
『そっちが法律を持ち出すなら、こっちだって――』
「社長」
相馬先輩の声が低くなりました。
「法律を持ち出すのは結構です」
『ああ!?』
「ただし、条文は最後まで読んでください」
『何だと!』
「借りた機械が、持っているだけで自分の所有物になる。民法百八十八条は、そんなことを定めていません」
『……!』
「それと、当事務所は森下さんの依頼で事実関係と書面を整理しています。紛争の代理交渉を引き受けているわけじゃありません」
『じゃあ、お前らに何ができる!』
「森下さんご本人の意思を確認したうえで、必要な書類を整えることです」
先輩は淡々と続けました。
「返還に応じず紛争が続くなら、弁護士に相談していただくことになります」
『裁判でも何でもしろ!』
「その点も含めて、依頼人が判断します」
電話が切れました。
私は拳を握りました。
「先輩!」
「何だ」
「悔しいです!」
「だろうな」
「完全に舐められています!」
「そうだな」
「でも、あの社長、絶対おかしいですよ!」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「法律で大事なのは、相手を言い負かすことじゃねえ」
「……はい」
「何を証明できるかだ」
私は机に並んだ資料を見ました。
領収書。
保証書。
貸与確認書。
電話記録。
これだけの紙がある。
それぞれは地味です。
でも。
一枚一枚が、事実を支えている。
「先輩」
「何だ」
「書面を作らせてください」
先輩が笑いました。
「ようやくその気になったか」
「はい!」
こうして。
私たちの反撃が始まりました。
その日の午後。
私は内容証明郵便の原案を書きました。
差出人は、森下由紀子。
宛先は、東山繊維株式会社代表取締役、東山剛三。
もちろん、由紀子さんご本人に通知内容を確認してもらうことが前提です。
私は慎重に文章を組み立てました。
まず、機械の特定。
次に、購入と所有の経緯。
そして、貸与確認書の存在。
貸与期間。
返還期限の到来。
返還に応じていない事実。
最後に。
相手の主張に対する反論です。
――貴社は民法第百八十八条を根拠として、本件機械の所有権が貴社に帰属すると主張する。
――しかし、同条は占有者の行使する権利について適法な権利の存在を推定する規定であり、占有の事実のみをもって所有権の取得を認める規定ではない。
――本件機械は、貸与確認書に基づき、期間を定めて貴社に貸し渡されたものである。
――通知人は、本件機械の所有権を譲渡した事実はなく、返還期限の延長にも同意していない。
私は最後に書きました。
――よって、通知人は本件機械の返還を求める。なお、返還がなされない場合には、弁護士への相談を含む適切な法的措置を検討する。
「……できました!」
私は原案を差し出しました。
片桐所長が受け取ります。
読みます。
そして。
赤鉛筆。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『東山社長は悪意であるため、契約は無効』」
「……はい」
「消せ」
「ええっ!」
「相手が借り物だと知っていることと、貸与契約が無効になることは別だ」
「あっ……」
所長は赤線を引きました。
「貸与契約そのものは、成立していたんだろう」
「はい」
「だったら、それを無効にしてどうする」
「……機械を貸した根拠が消えてしまいます」
「そうだ」
私は頭を抱えました。
しまった。
法律用語を使いたいあまり、必要のない法律効果を付け足してしまいました。
「こはる」
「はい」
「相手を悪人に仕立てるな」
「え?」
「事実を書け」
所長は静かに言いました。
「借り物であることを認識していた。その根拠として、相手が署名した貸与確認書がある。それで十分だ」
「……はい」
「法律用語は、飾りじゃない」
私は頷きました。
基礎法学。
善意。
悪意。
無効。
取消し。
推定。
みなす。
全部覚えれば、法律に強くなれる。
そう思っていました。
でも。
ただ覚えた言葉を並べるだけでは駄目なのです。
正しい意味で。
正しい場面に。
正しい法律効果と結び付けて使う。
それができなければ。
どれだけ立派な法律用語でも、ただの飾りです。
「ところで所長」
私は書面を直しながら尋ねました。
「何だ」
「これ、民法だけの問題なんでしょうか」
「どういう意味だ」
「相手は株式会社ですよね。商法は関係しませんか?」
相馬先輩が顔を上げました。
「ほう」
「え?」
「少しは考えるようになったな」
「褒めました!?」
「まだだ」
またそれですか。
私は続けました。
「商法は、商人の営業や商行為に関する特別の規律がありますよね」
「そうだ」
「だったら、民法の一般的な規定だけ見ていればいいわけじゃない」
片桐所長が頷きました。
「そのとおりだ」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
「ただし、今回の機械貸与に、どの商法の規定が関係するかは、別に調べる必要がありますね」
「そうだ」
「株式会社が関係するからといって、民法が全部使えなくなるわけじゃありません」
「そのとおり」
相馬先輩が言いました。
「一般法と特別法ってのは、そんな単純な上下関係じゃねえ」
なるほど。
民法。
商法。
そして、会社の規律。
昭和六十三年には、独立した現代の会社法はまだありません。
会社に関する基本的な規律は、商法第二編などに置かれています。
私は思わず呟きました。
「会社法が独立していれば、もっと整理しやすいのに……」
「何?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「い、いえ!」
「会社法が何だって?」
「商法の会社編のことです!」
「だったらそう言え」
「はい!」
危ない。
また現代の知識が口から出ました。
令和の法律を知っていることと。
昭和の事件を正しく処理できること。
それも、別問題なのです。
翌日。
由紀子さんに通知書の内容を確認してもらい、本人名義で内容証明郵便を発送しました。
同時に、相手の主張と食い違う資料を整理した証拠一覧も作成しました。
そして。
三日後。
思いがけない人物が事務所に現れました。
「……東山社長の会社の者ですが」
灰色の背広を着た男性。
四十代くらい。
名刺には、
――東山繊維株式会社 総務課長・久保田修。
とあります。
私は身構えました。
「どういったご用件でしょうか」
「社長のことで……」
久保田さんは封筒を取り出しました。
「実は、あの通知書ですが」
「はい」
「社長が、自分で作ったんです」
……。
「え?」
私は目を丸くしました。
「法律の本を買ってきて、都合のいいところだけ読んで……」
久保田さんは困った顔をしました。
「最初は私も、おかしいと思ったんです」
「どのあたりが?」
「『推定する』と書いてあるのに、『みなす』と書き直していたので」
私は息を呑みました。
やっぱり。
間違いではなく。
意図的だった。
「理由を聞いたら、社長はこう言いました」
久保田さんは苦笑しました。
「『推定じゃ弱いだろ。みなすのほうが強そうじゃねえか』って」
……。
私は固まりました。
相馬先輩が額を押さえます。
「……法律ってのは、強そうな単語を選ぶ競技じゃねえんだぞ」
「まったくです」
久保田さんが深く頭を下げました。
「それで、顧問の弁護士に相談したんです」
「はい」
「そうしたら……」
久保田さんは一度、言葉を切りました。
「『そもそも機械を借りた契約書があるでしょう』と」
片桐所長が頷きました。
「当然でしょうね」
「しかも、所有権があるとみなされるなんて、百八十八条には書いていないと」
「はい」
「弁護士から、あの通知書の理屈では所有権を主張できないと言われまして……」
私は思わず拳を握りました。
よし。
でも、まだです。
相手が間違いを認めたとしても。
機械が戻らなければ終わらない。
「それで、機械は?」
所長が尋ねました。
久保田さんは、もう一枚の書類を差し出しました。
「社長が、返還すると決めました」
……!
私は顔を上げました。
「本当ですか!?」
「はい。森下さんへ返還するため、会社から直接、日時を連絡する予定です」
そして、久保田さんは小さな声で続けました。
「実は、社長には売却先の心当たりがあったようでして」
「……売却?」
「はい」
私は息を止めました。
「返さないまま、中古機械として売るつもりだったんです」
相馬先輩の表情が険しくなりました。
「まだ売ってはいないんですね」
「はい。弁護士に止められました」
久保田さんは頭を下げました。
「本当に申し訳ありませんでした」
私は机の上の貸与確認書を見ました。
一枚の紙。
社長の署名。
会社印。
返還予定日。
もし、この書面がなかったら。
由紀子さんは、もっと大変な思いをしていたかもしれません。
そして。
もし、相手の言った「みなす」を、そのまま信じていたら。
法律で勝ち目がないと思い込み、諦めてしまっていたかもしれない。
たった二文字。
でも。
その二文字には。
誰かの人生を変えるだけの重さがあったのです。
一週間後。
織機は、森下織物工場へ戻ってきました。
由紀子さんと東山繊維の担当者との間で返還日程が決まり、運送会社の立会いのもとで搬入されたのです。
機械には傷がありましたが、修理可能な状態でした。
返還時には、双方で機械の製造番号と状態を確認し、引渡確認書を取り交わしました。
由紀子さんは、機械が元の場所に据え付けられるのを見届けたそうです。
その翌日。
由紀子さんが事務所を訪れました。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げます。
「父の機械が、帰ってきました」
「よかったです!」
私は思わず笑いました。
由紀子さんは、小さな写真を見せてくれました。
古い工場。
窓から差し込む朝日。
そして、並んだ織機。
「父が使っていた頃と、同じ場所に戻しました」
「そうなんですね」
「昨日、久しぶりに動かしてみたんです」
由紀子さんの目が潤みました。
「懐かしい音がしました」
私は写真を見つめました。
機械というものは、不思議です。
法律上は、ただの動産。
所有権の対象。
価値のある財産。
でも。
それを使ってきた人間には。
数字では表せないものがある。
働いた日々。
家族の記憶。
失敗した仕事。
ようやく仕上がった製品。
そうした時間が、機械の中に積み重なっているのです。
「父が、昔から言っていたんです」
由紀子さんが言いました。
「大事な約束は、紙に残しておけって」
「はい」
「私、少し面倒だと思っていました」
小さく笑います。
「でも、今回分かりました」
「何がですか?」
「紙って、人を守ってくれるんですね」
私は頷きました。
「はい」
そして。
「でも、紙に書いてあれば何でも正しいわけじゃないんです」
由紀子さんが笑いました。
「そうですね。東山社長の通知書みたいに」
「はい!」
私は思わず笑い返しました。
条文が書かれている。
法律用語が並んでいる。
立派な会社の封筒に入っている。
だから正しい。
そんなことはありません。
法律の文章は、魔法の呪文ではないのです。
由紀子さんが帰ったあと。
私は机に向かいました。
「相馬先輩」
「何だ」
「基礎法学って、面白いですね」
「また始まった」
「だって、たった二文字ですよ!」
「そうだな」
「推定する、なのか。みなす、なのか」
「うん」
「それだけで、反対の証拠が使えるかどうかが変わるんですよ!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「こはる」
「はい」
「じゃあ、もう一つ教えてやる」
「何ですか?」
「法律は、条文に書いてあることだけ読んでも足りねえことがある」
「……はい?」
私は首をかしげました。
「法律の文章は、全部の事件を一つずつ書いているわけじゃねえ」
「はい」
「だから、解釈が必要になる」
私は考えました。
文理解釈。
論理解釈。
類推解釈。
反対解釈。
拡張解釈。
縮小解釈。
現代の行政書士試験では、見慣れた言葉です。
「でも先輩」
「何だ」
「解釈って、好き勝手に読んでいいわけじゃないですよね」
「当たり前だ」
「じゃあ東山社長のは?」
「解釈以前の問題だ」
「……ですよね」
相馬先輩が笑いました。
「条文に『推定する』と書いてあるのを、自分に都合がいいから『みなす』に変える。そんなのは解釈じゃねえ」
「改ざんに近いですね」
「少なくとも、正しい条文の引用じゃねえな」
私は頷きました。
法律の解釈には、筋道が必要です。
言葉の意味。
規定の目的。
他の条文との関係。
そして、具体的な事実。
そこを考えて、初めて法律を使える。
そのことを、私は今回の事件で思い知りました。
「ところで、こはる」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「はい!」
「今日の一番大きな間違いは、何だったと思う」
「東山社長が『推定する』を『みなす』に変えたことです!」
「それだけか」
「え?」
私は考えました。
「……機械を持っているだけで、所有権を取得したと思い込んだこと?」
「そうだ」
所長が頷きます。
「条文の言葉を取り違えたうえ、条文が定めていない法律効果まで勝手に作っている」
「はい」
「それを見抜くには、条文の意味を知っていなければならん」
私は頷きました。
基礎法学。
法律の土台。
私は今まで、少し甘く見ていたのかもしれません。
憲法なら人権。
民法なら契約。
行政法なら処分や不服申立て。
商法なら会社や取引。
それぞれ、分かりやすい事件があります。
でも。
基礎法学は違います。
あらゆる法律に共通する、考え方そのもの。
土台なのです。
土台を間違えれば。
その上に積み上げた知識も、全部おかしくなる。
「所長」
「何だ」
「基礎法学って、基礎だから簡単なんじゃないんですね」
「そうだ」
「基礎だから、一番間違えちゃいけないんですね」
所長が、静かに頷きました。
「そういうことだ」
その日の夕方。
私は六法全書を棚に戻そうとして、手を止めました。
「……しかし」
思わず呟きます。
「何だ」
相馬先輩が聞きました。
「カタカナの条文って、やっぱり読みづらいです」
「またそれか」
「だって、現代ならもっと読みやすいんですよ!」
「現代?」
「あっ」
しまった。
私は慌てて言い直しました。
「そのうち、読みやすくなるかもしれないって意味です!」
相馬先輩は怪訝な顔をしました。
「法律は、読みやすけりゃいいってもんでもねえぞ」
「それはそうですけど」
「言葉が新しくなっても、法律の意味を間違えりゃ同じだ」
私は固まりました。
……そのとおりです。
令和の民法は、ひらがな交じりの現代語になっています。
でも。
「推定する」と「みなす」。
その違いは、変わりません。
善意と悪意。
無効と取消し。
一般法と特別法。
実体法と手続法。
法律の文章が読みやすくなっても。
考えなければならないことは残る。
むしろ。
読みやすくなったからこそ、分かった気になってしまう危険もあるのかもしれません。
「相馬先輩」
「何だ」
「やっぱり、六法はちゃんと読まないと駄目ですね」
「当たり前だ」
「一文字ずつ!」
「そうだな」
「意味まで!」
「そうだ」
「そして証拠も!」
「ようやく分かったか」
私は笑いました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
今度は、男性の声。
『土地を貸しているんですが、借りた人が、もう自分の土地だと言い出しまして……』
私は目を丸くしました。
「土地ですか?」
『はい。二十年以上使っているから、もう自分のものだって』
……。
二十年。
占有。
所有権。
私はゆっくりと相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
『法律で決まっているって言うんです。本当なんでしょうか?』
私は息を吸いました。
「まず、どんな約束で土地を貸したのか、確認させてください」
『約束ですか?』
「はい。契約書はありますか?」
『古い紙なら、ありますけど……』
「それを大切に保管してください」
私は相談票を手元に引き寄せました。
相馬先輩が、にやりと笑います。
「こはる」
「はい」
「次も、占有の話だな」
「そうみたいです」
「二十年使ったから自分の土地になる、ってか」
「でも、先輩」
「何だ」
「借りている人が、ただ長く使っただけで所有者になれるとは限りませんよね」
「そうだ」
「所有の意思があったか、どんな占有だったか、ほかにも調べることがあります」
「そのとおり」
私は相談票に書き込みました。
借地の経緯。
契約書。
使用開始時期。
賃料の有無。
地主とのやり取り。
確認すべきことが、次々と浮かんできます。
たった一つの法律用語から、こんなに多くの事実が必要になる。
……面白い。
やっぱり、面白いです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
法律の勉強は、今日も終わりません。
そして私は、今回の事件で確信しました。
法律で一番怖いのは、難しい言葉ではありません。
簡単そうな言葉を、分かったつもりで使うこと。
それこそが、一番危険なのです。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「今日の事件、絶対に忘れません!」
「そりゃ結構だ」
「『推定する』と『みなす』!」
「うん」
「似ているけど、法律上は大違い!」
「そうだ」
「それから、条文を勝手に書き換えない!」
「そんなことするのは東山くらいだ!」
私は思わず笑いました。
でも。
同じような勘違いをしている人は、きっとほかにもいるのでしょう。
法律には、独特の言葉があります。
日常では同じように聞こえても。
法律では違う。
そして、その違いを知らない人が。
知っているつもりの人に、騙されることもある。
だからこそ。
私たちには、六法と書類がある。
条文を確かめ。
意味を考え。
事実を調べ。
証拠を残す。
声の大きさでもなく。
肩書の立派さでもなく。
筋の通った説明ができるかどうか。
そこが勝負なのです。
私は相談票を取りながら、もう一度、あの二文字を思い出しました。
――推定する。
反対の証拠があれば、覆せる。
あの日。
東山社長が自分に都合よく消そうとしたのは、たった二文字でした。
でも。
その二文字の向こうには。
父親が残した機械を守ろうとする娘がいた。
町工場の仕事があった。
働く人たちの生活があった。
そして。
証拠を残してくれた、亡き父親の思いがあったのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「感動してる暇があったら、次の相談を聞け!」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、土地を貸した当時のことから、詳しく教えてください」
電話の向こうで、男性が少し安心したように息をつきました。
法律の世界では。
たった二文字で、勝敗が変わることがある。
けれど。
その二文字を正しく使うためには。
誰よりも丁寧に、人の話を聞かなければならない。
それが、昭和で、私が学んだ基礎法学でした。
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