[会社法・株式交換と株式移転]法理編 こはるノート
会社の株式を全部手に入れる。
たったそれだけで、会社同士の関係は大きく変わります。
昨日まで独立していた会社が。
今日から、別の会社の完全子会社になる。
しかも。
会社そのものが消滅するとは限りません。
工場も。
従業員も。
取引先との契約も。
基本的には、その会社に残ったまま。
変わるのは、株式の持ち主です。
そして現代には。
その仕組みを実現するための、二つの制度があります。
株式交換。
株式移転。
名前は似ています。
でも。
決定的な違いがあるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かっていました。
目の前には、一冊のノート。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……株式交換と株式移転って、名前が紛らわしすぎません?」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また何か始まったな」
「だって、先輩!」
「何だ」
「交換も移転も、株式が動くんですよ!」
「そりゃそうだろ」
「しかも、どちらも完全親子会社関係を作る制度なんです!」
「……お前の言う未来の制度だろ」
「そうです!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「だったら、今の仕事には使えねえな」
「分かってます!」
私は頬を膨らませました。
そう。
ここは昭和六十三年。
現代の会社法は、まだ存在しません。
株式交換も、株式移転も。
この時代の商法には、まだ導入されていないのです。
でも。
私は、どうしても整理しておきたかった。
なぜなら。
田辺精密工業の事件で、この二つの仕組みが持つ意味を、身をもって知ったからです。
「じゃあ、昨日の事件を思い出してみろ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「田辺精密工業の株式は、誰が持っていた?」
「東栄産業が六割です」
「残りは?」
「田辺社長と、古くからの職人さんたちが四割を保有していました」
「そうだな」
私はノートに書きました。
田辺精密工業株式会社。
東栄産業株式会社が六〇パーセント。
その他の株主が四〇パーセント。
東栄産業の社長、黒岩剛三は。
田辺精密工業を完全に支配しようとしました。
そこで持ち出したのが、
――共同持株会社の設立。
――株式移転。
という言葉です。
「黒岩社長は、東栄ホールディングスという新会社を作って、その会社に田辺精密工業の株式を全部持たせようとしていました」
「そうだったな」
「でも、昭和六十三年には株式移転制度がありません」
「ああ」
「しかも、本当は田辺さんたちに、安い値段で株式を売らせようとしていたんです」
そう。
株式移転と称しながら。
実際に準備していたのは、普通の株式譲渡契約書。
そして。
存在しない取締役会の承認決議を記載した、疑わしい議事録でした。
「そこで問題になったのが、株主本人の意思です」
私は言いました。
「株式の六割を持っているからといって、残り四割まで勝手に自分のものにはできません」
「当然だ」
「ただし、現代には、法律で定められた手続きを踏むことで、全株式を完全親会社に取得させる制度があるんです」
「それが株式交換と株式移転か」
「はい!」
私は勢いよくノートを開きました。
「今日は、この二つを完全に区別します!」
「昨日もそんなこと言ってなかったか」
「昨日は事件です。今日は試験対策です!」
「どっちも今の仕事じゃねえだろ」
「未来への投資です!」
「訳の分からんことを……」
そこへ。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も勉強会、開催です。
まず。
私はノートに大きく書きました。
――持株会社。
「先輩、持株会社って何だと思います?」
「他の会社の株を持っている会社だろ」
「はい。ただし、単に株式を持っているだけとは少し違います」
私は説明しました。
持株会社とは。
他の会社の株式を保有し、その会社の経営を支配することを目的とする会社です。
「たとえば、A社という会社があります」
「うん」
「A社が、B社とC社の株式を保有して、その経営を支配する」
「なるほど」
「この場合、A社が持株会社になるわけです」
私はノートに簡単な図を描きました。
A社。
その下にB社とC社。
B社の株式をA社が全部持つ。
C社の株式もA社が全部持つ。
「こうすれば、A社はB社とC社の完全親会社です」
「全部持ってるからな」
「はい!」
私は頷きました。
ここで重要なのが。
子会社と完全子会社の違いです。
子会社とは、他の会社によって経営を支配されている会社。
一方。
完全子会社とは、発行済株式の全部を完全親会社に保有されている株式会社です。
「六割持っているのと、一〇〇パーセント持っているのは、違うんですね」
「当たり前だろ」
「でも、ここが試験で大事なんです!」
私はノートに書きました。
支配している会社と、全株式を保有している会社は同じとは限らない。
東栄産業は、田辺精密工業の六割の株式を持っていました。
だからといって。
田辺精密工業の株式全部を持っていたわけではありません。
黒岩社長が欲しかったのは。
残り四割。
つまり、完全子会社にするための最後の株式だったのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「現代には、〇〇ホールディングスという会社がたくさんあります」
「ほう」
「その中には、自分では事業を行わず、他の会社の株式を持って支配することを主な目的とする会社もあります」
「純粋持株会社か」
「そうです!」
私は頷きました。
ただし。
ここで、昭和と現代の大きな違いがあります。
昭和六十三年。
当時の独占禁止法では、純粋持株会社が禁止されていました。
その後、平成九年、一九九七年の独占禁止法改正によって、一般的な禁止は撤廃されます。
もちろん現代でも、企業結合によって競争が実質的に制限される場合などには、独占禁止法上の規制が問題になります。
「つまり、持株会社なら何でも自由、というわけではないんですね」
「そうだな」
「でも、昭和六十三年に比べると、現代はグループ経営の仕組みを作りやすくなっています」
私は田辺精密工業の事件を思い出しました。
黒岩社長は、純粋持株会社を作るつもりでした。
しかも。
発起人は一人。
株式移転という、まだ存在しない制度を使う計画。
……。
今考えても、無茶苦茶です。
「未来の制度を先取りするにしても、もう少し法律を勉強してほしかったですね」
「お前が言うな」
「何でですか!」
「お前も最初、株式移転計画を作れって言ってただろ」
「……それは忘れてください!」
「忘れねえよ」
相馬先輩が笑いました。
ぐぬぬ。
法律の勉強に、黒歴史はつきものです。
「では、本題に入ります!」
私はページをめくりました。
――株式交換。
「株式交換とは、株式会社が、その発行済株式の全部を、他の株式会社または合同会社に取得させることです」
私は一度、息を吸いました。
「先輩、ここ、ものすごく重要です」
「何がだ」
「株式交換では、既に存在している会社が完全親会社になるんです」
「……なるほど」
私はノートに二つの会社を書きました。
A株式会社。
B株式会社。
どちらも、既に存在しています。
ここで。
A社が、B社を完全子会社にしたいと考えたとします。
「現代なら、株式交換という制度を利用できます」
私はB社を丸で囲みました。
「B社の株主が持っている株式全部を、A社が取得します」
「全部か?」
「全部です」
「一部じゃ駄目なのか?」
「少なくとも、会社法上の株式交換として完全親子会社関係を作るなら、全部を取得する仕組みです」
私は赤線を引きました。
――株式交換は、株式全部。
そして。
株式を取得する代わりに、B社の株主へ対価を交付します。
典型的な例では、A社の株式です。
「つまり、もともとB社の株主だった人たちは、A社の株主になるんです」
「ほう」
「そしてA社は、B社の株式を全部持つ」
「なるほど」
「これで、A社が完全親会社、B社が完全子会社になります」
私は図に矢印を書き込みました。
株式交換前。
A社の株主はA社株式を持っている。
B社の株主はB社株式を持っている。
株式交換後。
A社がB社株式の全部を保有する。
旧B社株主は、典型例ではA社株式を受け取る。
「ほら、先輩!」
「何だ」
「新しく親会社を設立していないでしょう?」
「ああ」
「ここが株式交換のポイントです!」
私は大きく丸をつけました。
株式交換。
既存の会社を完全親会社にする。
「ちなみに、親会社になる側は株式会社だけじゃないんです」
私が言うと、相馬先輩が眉をひそめました。
「ほかに何がある」
「合同会社です!」
「……何だ、その会社」
来ました。
昭和の壁。
「現代には合同会社という会社形態があります!」
「聞いたことねえぞ」
「この時代には、まだありませんから!」
「だったら言うな!」
「でも試験に出るんです!」
私は慌てて説明しました。
現代の会社法では、株式交換完全親会社は株式会社または合同会社になることができます。
ただし、株式を発行するのは株式会社です。
合同会社が完全親会社になる場合には、株式会社同士の場合と対価の仕組みも違ってきます。
「ここ、名前だけで判断すると間違えます」
「どういうことだ」
「株式交換という名前だからといって、必ず双方の会社の株式を交換するわけではないんです」
現代の会社法では、株式会社を完全親会社とする株式交換であっても、対価が親会社株式だけに限られるわけではありません。
金銭などを対価とする場合もあります。
もっとも、合同会社が完全親会社となる場合には、法律上の別の制約があります。
「だから、さっきのA社株式を渡すというのは、典型例なんですね」
「そういうことか」
相馬先輩が頷きました。
私は嬉しくなりました。
そうです。
法律を覚えるとき。
典型例と、制度の定義は区別する必要があります。
株式交換の核心は。
完全子会社になる株式会社の株式全部を、既存の完全親会社に取得させること。
対価の種類だけで、制度が決まるわけではないのです。
「じゃあ次!」
私はページをめくりました。
――株式移転。
「先輩、今度は新しく親会社を作ります!」
「……さっきは作らなかったな」
「そうです!」
私はノートに、A株式会社とB株式会社を書きました。
A社。
B社。
この二社の上に。
新しくC株式会社を設立します。
「C社は、まだ存在していない会社です」
「うん」
「そして、A社とB社の株式全部を、新しくできるC社に取得させます」
「なるほど」
「その代わりに、A社とB社の株主は、新しく設立されるC社の株式を受け取ります」
私は図を描きました。
上にC社。
その下にA社とB社。
C社からA社へ矢印。
C社からB社へ矢印。
「これで、C社がA社とB社の完全親会社になります!」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、A社とB社はどうなる」
「完全子会社です」
「消滅するのか?」
「いいえ!」
私は首を振りました。
「ここ、重要です!」
株式移転は、合併とは違います。
合併では、消滅会社の法人格がなくなる場合があります。
でも。
株式移転では、もともとのA社とB社が、そのまま法人として存続します。
変わるのは、株式の保有関係です。
「つまり、A社の工場も、B社の事業も、基本的にはそれぞれの会社に残ります」
「なるほどな」
「でも、株式は新しいC社が全部持つようになるんです」
私は頷きました。
田辺精密工業の事件で、黒岩社長がやろうとしたこと。
東栄産業と田辺精密工業の上に。
東栄ホールディングスを作る。
そこへ両社の株式を集める。
まさに、現代の株式移転を思わせる構想でした。
ただし。
昭和六十三年には、まだその法定制度がありません。
「……そう考えると、黒岩社長って、すごく未来的な発想をしてましたね」
私が言うと、相馬先輩が鼻で笑いました。
「発想だけな」
「はい」
「やってることは、無理やり株を安く買おうとしただけだろ」
「……そうでした」
私は苦笑しました。
でも。
現代の株式移転なら、法律に定められた手続きを踏むことによって、各株主と個別に株式譲渡契約を結ぶ方法とは異なる仕組みで、全株式を取得させることができます。
もちろん。
株主保護のための手続きは必要です。
多数派が何をしてもいい、という制度ではありません。
そこが、法律の大切なところなのです。
「ここで一つ質問です!」
私は鉛筆を掲げました。
「株式移転では、親会社になるのは株式会社と合同会社のどちらでしょう!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「また合同会社か」
「はい!」
「……さっきと同じじゃねえのか?」
「違います!」
私は大きく書きました。
――株式移転で新設する完全親会社は、株式会社。
「ここ、株式交換との違いです」
株式交換では、完全親会社は株式会社または合同会社。
でも。
株式移転によって新設される完全親会社は、株式会社です。
「合同会社を新設する株式移転は、できないんです」
「ほう」
「しかも、株式移転によって完全子会社になる側も株式会社です」
私は赤線を引きました。
株式移転。
一つまたは二つ以上の株式会社が対象。
新設される完全親会社も株式会社。
「先輩、これで違いが見えてきました?」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「今ある会社を親にするのが交換」
「はい!」
「新しい株式会社を親にするのが移転」
「正解です!」
私は嬉しくなって拍手しました。
「これなら覚えられますね!」
「お前に褒められると腹が立つな」
「何でですか!」
私は笑いました。
でも。
試験では、この区別が本当に大切なのです。
名前の違いは一文字。
交換。
移転。
けれど。
新しく親会社を設立するかどうかという、決定的な違いがある。
そこを覚えれば、二つの制度が一気に整理できます。
「さて」
片桐所長が口を開きました。
「親子会社関係を作る仕組みは分かった」
「はい!」
「では、その手続きはどうなる」
私は背筋を伸ばしました。
ここからです。
行政書士試験では、制度の名前だけでなく、手続きの違いも重要になります。
「まず、作る書類が違います!」
私はノートに書きました。
株式交換。
――株式交換契約。
株式移転。
――株式移転計画。
「契約と計画か」
相馬先輩が言いました。
「そうです!」
株式交換では、完全親会社と完全子会社になる会社の間で、株式交換契約を締結します。
一方。
株式移転では、新しい完全親会社がまだ存在していません。
そこで。
株式移転を行う株式会社が、株式移転計画を作成します。
「なるほど」
相馬先輩が頷きました。
「新会社はまだ存在してねえから、その会社と契約するわけにはいかねえな」
「そうなんです!」
私は大きく丸をつけました。
ここ。
単なる暗記ではありません。
理由があるのです。
株式交換。
既存会社同士。
だから契約。
株式移転。
新しい親会社を設立する。
だから計画。
「分かりやすいでしょう?」
「まあな」
私は続けました。
「そして原則として、株主総会の承認が必要になります」
株式交換や株式移転は、会社の支配関係や株主の地位を大きく変える行為です。
だから。
取締役だけが勝手に決めればいい、というものではありません。
法律に定められた株主総会決議が必要となるのが原則です。
「通常は特別決議が問題になります」
「普通決議じゃないのか」
「原則として、もっと厳しい決議が必要なんです」
私は説明しました。
特別決議では、原則として、議決権を行使できる株主の議決権の過半数を有する株主が出席し、出席株主の議決権の三分の二以上の賛成が必要です。
ただし、定款による定足数の緩和や、法律上の例外などがあります。
そして株式交換については、条件によって簡易手続や略式手続が認められる場合もあります。
「だから、どんな場合でも両社で必ず同じ株主総会を開く、とは覚えないほうがいいんですね」
所長が頷きました。
「例外まで含めて、制度を見ることだ」
「はい!」
私はノートに書きました。
――原則と例外を混同しない。
これは行政書士試験でも、実務でも大切な考え方です。
「次は、株主を守る仕組みです」
私は続けました。
「昨日の田辺さんの事件を思い出してください」
田辺精密工業。
東栄産業が六割。
田辺さんたちが四割。
黒岩社長は、六割持っているから何でも決められると思っていました。
でも。
株式を持つ人には、それぞれ権利があります。
「現代の株式交換や株式移転でも、反対する株主の保護が問題になります」
私はノートに書きました。
――反対株主の株式買取請求権。
一定の要件を満たす反対株主は、会社に対し、自己の株式を公正な価格で買い取るよう請求できる場合があります。
「公正な価格、ですか」
相馬先輩が言いました。
「そうです」
会社が組織再編する。
それ自体は、経営上必要なことかもしれません。
でも。
その結果、株主の立場が大きく変わる。
しかも。
多数派の意見だけで、少数派の利益が不当に害されるようでは困ります。
「だから、反対株主を保護する仕組みがあるんですね」
「なるほどな」
私は頷きました。
ただし。
株式買取請求権には、行使できる株主の範囲や手続き、例外があります。
単に気に入らないと言えば、いつでも自由に買い取ってもらえるわけではありません。
それに。
株式買取請求権は、組織再編そのものを当然に止める権利でもありません。
「ここは、株式の譲渡を拒否する話とは区別が必要ですね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「田辺さんの事件では、そもそも株式譲渡契約が成立していなかった」
「そうだ」
「現代の株式交換や株式移転では、適法な組織再編によって株式の帰属が変わる」
「うん」
「そのうえで、反対株主を守る制度が用意されている」
私は鉛筆を止めました。
なるほど。
同じ株式の移動でも。
普通の株式譲渡と。
法定の組織再編では。
仕組みが違うのです。
「法律って、便利な制度を作るだけじゃないんですね」
「どういうことだ」
「便利にしたことで、不利益を受ける人を守る仕組みも考えているんです」
片桐所長が静かに頷きました。
「そこを忘れるな」
私はその言葉に、赤線を引きました。
「ところで」
相馬先輩が聞きました。
「会社を組み替えるなら、債権者はどうなるんだ?」
「いい質問です!」
「また俺が生徒かよ」
「勉強会ですから!」
私はノートに書きました。
――債権者保護手続。
会社が合併したり、分割したりするとき。
債権者を守る手続きが問題になります。
では。
株式交換や株式移転では、どうでしょうか。
「先輩、ここは注意が必要です」
「何だ」
「株式交換や株式移転では、会社の債務が当然にすべて親会社へ移るわけではありません」
「……ほう」
そうです。
株式が移動して、完全親子会社関係が生まれる。
でも。
それだけで、完全子会社の借金が全部親会社の借金になるわけではありません。
また、会社分割のように事業に伴う権利義務を承継する仕組みとも違います。
「だから、債権者保護手続についても、合併などと全く同じだと思い込んではいけません」
私は続けました。
株式交換では、対価の内容などによって債権者異議手続が必要になる場合があります。
また株式移転でも、新設する完全親会社が既存会社の新株予約権付社債に係る債務を承継する場合など、法律所定の場面で債権者保護手続が問題になります。
「つまり」
相馬先輩が言いました。
「株式交換や株式移転だから、いつでも必ず債権者異議手続が必要というわけじゃねえんだな」
「そのとおりです!」
私は丸をつけました。
逆に。
「株式しか動かないから、債権者保護は絶対に不要」
という覚え方も危険です。
「何が動くのか。誰の権利に影響するのか。それを確認するんですね」
所長が言いました。
「そうだ」
私は頷きました。
昨日の事件でも同じでした。
書類の名前だけを見ていたら、真相は分からなかった。
株式移転という表題。
株式譲渡契約書という本文。
そして。
実際には成立していない、株主本人の意思表示。
何が起きているのか。
そこを確認することが、法律を使う第一歩だったのです。
「では次!」
私は元気よくページをめくりました。
「効力が発生する日です!」
「……また細かい話か」
「ここ、試験で間違えやすいんです!」
私はノートに二つの欄を作りました。
株式交換。
株式移転。
「先輩、株式交換は、いつ効力が発生すると思います?」
「契約を結んだ日か?」
「違います!」
「じゃあ株主総会で承認した日か?」
「それも違います!」
私は赤鉛筆を取りました。
――株式交換は、株式交換契約で定めた効力発生日。
現代の会社法第七百六十九条第一項。
「ここです!」
私は言いました。
「必要な手続きを適法に終えたうえで、契約に定められた効力発生日に、完全親会社が完全子会社の発行済株式全部を取得するんです」
「なるほど」
「契約を結んだ瞬間に、全部移るわけではありません」
私は頷きました。
たとえば。
A社とB社が株式交換契約を結んだ。
契約で、四月一日を効力発生日と定めた。
必要な手続きが整っていれば、原則としてその日に株式交換の効力が生じる。
「では株式移転は?」
相馬先輩が言いました。
「こっちは違うんです!」
私は次の欄に書きました。
――株式移転は、新設する完全親会社の成立の日。
現代の会社法第七百七十四条第一項。
「新会社の設立登記によって、完全親会社が成立した日に効力が生じるんです」
相馬先輩が腕を組みました。
「なるほどな」
「株式交換は、既に親会社が存在している」
「うん」
「だから、契約で決めた効力発生日」
「うん」
「株式移転は、新しく親会社を作る」
「そうか」
「だから、新会社が成立する日なんです!」
私は大きく丸をつけました。
――交換は契約で決めた日。
――移転は新会社ができた日。
「これ、覚えやすくないですか!」
「まあな」
「理由まで分かると、忘れませんよね!」
相馬先輩は少し笑いました。
「お前、そういうところだけ妙に熱心だな」
「試験に受かりたいですから!」
私は胸を張りました。
ただし。
ここでも注意があります。
契約に定めた日が来れば、必要な手続きを無視しても何でも有効になる。
そんな意味ではありません。
法律上必要な手続きが整っていることが前提です。
「日付だけ覚えて、手続きを忘れてはいけないんですね」
私は呟きました。
片桐所長が頷きました。
「法律は、一つの数字だけで動くものではない」
……深い。
私は、その言葉もノートに書いておきました。
「さて」
所長が静かに言いました。
「もし、組織再編の手続きに重大な問題があったら、どうする」
「……無効を主張することになります」
「どうやってだ」
私は鉛筆を止めました。
ここです。
最後の重要論点。
――組織再編の無効の訴え。
私はノートに大きく書きました。
「現代の会社法では、株式交換や株式移転について、その無効を主張するための特別な訴えが用意されています」
相馬先輩が首をかしげました。
「普通に、無効だと言えばいいんじゃねえのか?」
「それが、そう簡単ではないんです!」
考えてみてください。
株式交換。
株式移転。
会社の株式全部が動きます。
親会社と子会社の関係も変わります。
その後には、株主総会が開かれたり。
新しい経営判断が行われたり。
取引先との契約が進んだりします。
なのに。
何年も経ってから、誰かが突然、
「最初から全部無効だった!」
と主張できたら。
関係者は大混乱です。
「そこで、現代の会社法には特別なルールがあります」
私は赤鉛筆を取りました。
――組織再編の無効は、原則として効力発生日から六か月以内に、訴えによってのみ主張できる。
会社法第八百二十八条。
「六か月か」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「しかも、裁判でしか無効を主張できねえのか」
「そうです」
私は頷きました。
もちろん。
これは組織再編そのものの無効を争うための特別な制度です。
普通の株式譲渡契約について、契約が成立しているかどうかを争う話とは、区別しなければなりません。
田辺精密工業の事件では。
そもそも昭和六十三年に株式移転制度が存在していませんでした。
しかも。
田辺さんは株式譲渡契約を結んでいなかった。
だから、現代の会社法の組織再編無効の訴えを、そのまま使う事件ではなかったのです。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「仮に現代で、株式交換が適法に実行されたあと、その組織再編自体に重大な問題が見つかった場合は?」
「六か月以内に訴える」
「正解です!」
私は続けました。
「しかも、誰でも自由に訴えを起こせるわけではありません」
会社法では、組織再編の種類ごとに、無効の訴えを提起できる人が定められています。
当事会社や設立会社の株主。
一定の役員等。
法律所定の債権者などです。
債権者についても、どの組織再編で、どのような立場にあるかによって、提訴資格が問題になります。
「つまり、利害関係がありそうだから誰でも訴えられる、というわけではないんですね」
「そうだな」
「はい」
私は丸をつけました。
そして。
もう一つ、大事なことがあります。
組織再編の無効を認める判決が確定しても、その効力は原則として将来に向かって生じます。
「え?」
相馬先輩が顔を上げました。
「無効なら、最初からなかったことになるんじゃねえのか?」
「普通の法律行為の無効とは、扱いが違うんです」
私は頷きました。
組織再編の効力が生じたあと。
いろいろな法律関係が積み重なります。
そのすべてを、最初からなかったことにすると。
取引の安全が大きく損なわれてしまう。
だから。
組織再編の無効については、特別な仕組みが置かれているのです。
「なるほどな……」
相馬先輩が呟きました。
「会社の法律ってのは、随分と大勢の人間を気にしなきゃならねえんだな」
「そうなんです!」
私は頷きました。
株主。
会社。
役員。
債権者。
取引先。
従業員。
会社の組織を変えるということは、たくさんの人に影響する。
だからこそ。
便利な制度であっても、勝手気ままに使うことはできないのです。
窓の外が、少しずつ暗くなってきました。
私はノートを見直しました。
持株会社。
株式交換。
株式移転。
株主総会の承認。
反対株主の保護。
債権者保護手続。
効力発生日。
組織再編の無効の訴え。
「……多いですね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「まだ覚えられねえのか」
「覚えられます!」
「本当か?」
「試してください!」
すると。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「では、一問目」
「はい!」
「株式交換では、既存の会社を完全親会社にできるか」
「できます!」
「新しく親会社を設立することが必須か」
「いいえ!」
「株式交換完全親会社になれる会社の種類は?」
「株式会社または合同会社です!」
所長が頷きました。
「では、株式移転」
「はい!」
「新しく設立する完全親会社の種類は?」
「株式会社です!」
「一社だけで株式移転を行うことはできるか」
「できます!」
「二社以上でもできるか」
「できます!」
「効力が生じるのは?」
「新設する完全親会社が成立する日です!」
よし。
順調。
「では株式交換の効力発生日は?」
「株式交換契約で定めた日です!」
「株式交換で作る書類は?」
「株式交換契約です!」
「株式移転では?」
「株式移転計画です!」
私は拳を握りました。
完璧です。
そこへ。
相馬先輩が割り込んできました。
「じゃあ俺からも一問」
「はい!」
「昭和六十三年に、田辺精密工業が株式移転をすることはできるか?」
「現代の会社法でいう株式移転制度は、まだありません!」
「よし」
「株式交換もありません!」
「よし」
「純粋持株会社も当時は禁止されています!」
「よし」
「しかも、この時代の株式会社は、発起人が七人以上必要です!」
「そうだ!」
「取締役も三人以上、監査役も必要!」
「よし!」
私は得意になりました。
すると。
相馬先輩がにやりと笑いました。
「じゃあ最後だ」
「何ですか?」
「株式交換と株式移転が導入されるのは、いつだ?」
私は答えました。
「平成十一年、一九九九年の商法改正です!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「……何でそんな未来の改正年まで知ってるんだ?」
……。
しまった。
私は固まりました。
やばい。
未来人。
うっかり知識を披露しすぎました。
「あ、いえ、その……」
「何だ?」
「予想です!」
「予想?」
「法律は、きっと進化していくんだろうなって!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前、本当に変な奴だな」
「よく言われます!」
「褒めてねえよ!」
危ない。
また転生者としての秘密を、うっかり漏らしかけました。
でも。
私の頭には、未来の会社法までの流れが浮かんでいました。
昭和六十三年。
会社に関するルールは、商法第二編や有限会社法などに分かれている。
平成九年。
純粋持株会社に関する独占禁止法上の一般的禁止が撤廃される。
平成十一年。
商法改正で株式交換・株式移転制度が導入される。
その後も、会社組織の再編に関する制度は整備されていく。
そして。
平成十七年、二〇〇五年。
会社法が制定される。
平成十八年、二〇〇六年。
会社法が施行される。
商法などに分かれていた会社関係の制度が、独立した会社法として再編・整理されたのです。
「……なるほど」
私は呟きました。
現代の会社法。
それは、ある日突然生まれた便利な法律ではありません。
長い時間をかけて。
会社を設立しやすくする。
組織再編を柔軟にする。
企業活動の実態に合わせる。
株主や債権者を適切に保護する。
そうした課題に向き合ってきた結果なのです。
だからこそ。
現代では、一人でも株式会社を設立できる。
一定の機関設計では、取締役一人の株式会社も認められる。
最低資本金制度もなくなり、資本金一円での設立も法律上は可能になった。
そして。
株式交換や株式移転のような組織再編制度を利用して、完全親子会社関係を作ることもできる。
「法律って、時代と一緒に変わっていくんですね」
私が言うと、片桐所長が静かに答えました。
「社会が変われば、必要な仕組みも変わる」
「はい」
「だが、変えてはいけないものもある」
「……何でしょう?」
所長は少し考えました。
「人の権利を、理由なく踏みにじらせないことだ」
私は黙りました。
その言葉が。
昨日の田辺精密工業の事件と、重なったのです。
黒岩社長は、六割の株式を持っていました。
大きな会社を経営していました。
資金力もありました。
それでも。
残り四割の株式を、勝手に自分のものにはできなかった。
法律は、多数派の力を認めながら。
少数派の権利にも、目を向けている。
そして現代の株式交換や株式移転も。
適法な手続きによって、全株式を取得させる仕組みを認める一方で。
反対株主の保護や、組織再編の無効を争う制度などを用意している。
便利さと保護。
その両方が必要なのです。
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「今日の勉強は終わりか?」
「あと少しです!」
「まだあるのかよ」
「最後の一行が残っています!」
私はノートの最後のページを開きました。
株式交換。
株式移転。
似ている二つの言葉。
でも。
その違いは、もう分かります。
既存の会社を完全親会社にするか。
新しく株式会社を設立して、完全親会社にするか。
そして。
その違いに合わせて、契約と計画、効力発生日も変わってくる。
私は鉛筆の先を整えました。
そして。
ゆっくり書きました。
――株式交換は「今ある親へ全部」、株式移転は「新しい親へ全部」。交換は契約の日付、移転は親会社の成立日。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「……まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
田辺精密工業。
小さな町工場。
二十人の従業員。
その工場を守ろうとした田辺社長。
そして。
「会社は俺のものだ」
と叫んだ黒岩社長。
あの事件を思い出せば。
株式を全部取得するということが、どれほど重大な意味を持つのか。
自然に分かるからです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「もし、お前が会社を作るなら、何の会社にする?」
「え?」
私は少し考えました。
「……行政書士試験の勉強を教える会社です!」
「ほう」
「法律を、事件で覚えられる教材を作るんです!」
「なるほどな」
「しかも、株式交換や株式移転も、物語で覚えられるようにするんです!」
相馬先輩が笑いました。
「そんな勉強好きな奴が、世の中にいるのか?」
「いますよ!」
「どこに」
「ここに!」
私は自分を指差しました。
相馬先輩が吹き出しました。
「お前だけじゃ商売にならねえだろ」
「失礼な!」
私は腕を組みました。
「それなら、会社を大きくして、持株会社を作ります!」
「ほう」
「最初は法律教材の会社!」
「うん」
「次は資格試験の問題集を作る会社!」
「うん」
「そして全部まとめて、こはるホールディングス!」
相馬先輩はしばらく黙りました。
それから。
「こはる」
「はい!」
「今は昭和六十三年だぞ」
「……はい」
「純粋持株会社は?」
「……禁止されています」
「株式移転は?」
「……ありません」
「発起人は?」
「……七人以上必要です」
「取締役は?」
「……三人以上です」
「監査役は?」
「……必要です」
相馬先輩がにやりとしました。
「じゃあ、まず七人集めてこい」
「ええっ!」
「それから役員の人選だな」
「ちょっと待ってください!」
「どうした」
「私の壮大な経営計画が、発起人の頭数合わせで止まりました!」
相馬先輩が大笑いしました。
「それが今の商法だ!」
「厳しすぎます!」
すると。
奥から片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「会社を作る前に、やることがある」
「何でしょう!」
「掃除だ」
「……!」
私は固まりました。
「所長!」
「何だ」
「今、私は会社経営の未来を語っていたんです!」
「そうか」
「はい!」
「では、未来の社長に、今の事務所の掃除を頼む」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「何ですか!」
「社長になりたきゃ、まず目の前の仕事を片付けろ」
「ぐっ……!」
確かに。
株式交換を知っていても。
株式移転を理解していても。
掃除を免れる法律上の権利は、発生しません。
残念ながら。
私は箒を手に取りました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
遠くに見える田辺精密工業の煙突からは、まだ薄い煙が上がっていました。
あの工場では。
今日も職人たちが、機械を動かしているのでしょう。
誰かが旋盤を回して。
誰かが部品を検査して。
誰かが明日の納品の準備をする。
そんな日常が、続いている。
私は箒を止め、ノートを見ました。
株式交換。
株式移転。
試験のテキストでは、似たような二つの言葉です。
でも。
昨日の事件が教えてくれました。
会社の組織を変えるということは。
株式の持ち主を変えるということ。
そして。
その背後にいる、多くの人の未来を変えるということでもある。
だからこそ。
誰が株式を取得するのか。
どの会社が親会社になるのか。
どんな手続きが必要なのか。
いつ効力が生じるのか。
反対する株主や、関係する債権者をどう守るのか。
そこまで、法律は考えているのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――株式交換は「今ある親へ全部」、株式移転は「新しい親へ全部」。交換は契約の日付、移転は親会社の成立日。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「株式交換と株式移転の違い、もう完璧です!」
「そうか!」
「はい!」
「じゃあ次は、箒と雑巾の違いも覚えろ!」
「……それは知ってます!」
「だったら使え!」
……なるほど。
法律知識がいくら増えても。
実務では、知っているだけでは足りません。
使えること。
それが大事。
昭和の商法も。
未来の会社法も。
同じなのです。
私は笑いながら、再び箒を動かしました。
会社を作るのも。
会社を守るのも。
会社を組み替えるのも。
必要なのは、法律の仕組みを正しく理解すること。
そして。
その仕組みを、誰かの権利を踏みにじるためではなく。
人々の仕事と生活を、よりよくするために使うこと。
それこそが。
商法と会社法を学ぶ、本当の意味なのかもしれません。
もっとも。
今の私にとって、最大の問題は。
完全親会社でも、完全子会社でもなく。
この事務所の掃除を、誰が完全に終わらせるかということなのでした。
「相馬先輩!」
「まだ何かあるのか!」
「掃除の仕事も、株式移転みたいに別の会社へ移せませんか!」
「株式移転は仕事を移す制度じゃねえ!」
「……ですよね!」
「覚えたばかりのことを間違えるな!」
私は思わず笑いました。
そうでした。
株式交換も、株式移転も。
動くのは、会社の支配関係を作るための株式です。
掃除の仕事を移したいなら。
まったく別の話なのでした。
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