[会社法・株式交換と株式移転]現場編 「株を交換すれば会社は俺のもの」の嘘。存在しない制度で町工場を乗っ取ろうとした社長と、昭和の商法が守った最後の一株
会社を乗っ取るのに、工場の門を壊す必要はありません。
社長室に押しかける必要もありません。
従業員を追い出す必要さえありません。
ただ。
会社の株式を、全部手に入れればいい。
そうすれば、その会社を支配する立場になれるのです。
では。
株式の全部を手に入れるには、どうすればいいのでしょうか。
現代なら。
株式交換。
株式移転。
そんな便利な制度があります。
ところが。
昭和六十三年。
その便利な制度は、まだ生まれていませんでした。
そして私は、その事実を忘れたまま。
町工場を守るための、とんでもない作戦を口にしてしまうのです。
「会社が、なくなってしまうんです!」
朝一番。
片桐行政書士事務所に駆け込んできた男性は、そう叫びました。
「落ち着いてください」
私は慌てて椅子を勧めました。
「まず、お名前を」
「田辺修一です」
四十二歳。
作業着姿。
指先には油汚れが残っています。
小さな町工場を経営する男性でした。
会社名は、田辺精密工業株式会社。
自動車部品の加工を行う、従業員二十名ほどの会社です。
「なくなるというのは、倒産ですか?」
「違います」
「では、廃業?」
「それも違います」
田辺さんは震える手で、一枚の通知書を取り出しました。
「うちの会社が、勝手に他人のものにされるんです」
「……え?」
私は通知書を受け取りました。
そこには、大きな文字。
――企業グループ再編に伴う株式移転のお知らせ。
……。
株式移転?
私は思わず目を見開きました。
「田辺さん、これは誰から?」
「東栄産業株式会社です」
地元では有名な企業でした。
建設資材から機械部品まで扱う中堅会社。
社長は黒岩剛三。
五十五歳。
強引な企業買収で知られる人物です。
「東栄産業は、うちの取引先なんです」
「はい」
「三年前、資金繰りが苦しくなったとき、出資してもらいました」
「なるほど」
「それから少しずつ、株を買い集められて……」
田辺さんは唇を噛みました。
「今では、発行済株式の六割を持たれています」
六割。
私は顔を上げました。
かなりの支配力です。
「では、残りの四割は?」
「私と、古くから働いている職人たちが持っています」
「なるほど……」
私は通知書を読み進めました。
――東栄産業株式会社及び田辺精密工業株式会社は、企業経営の効率化を目的として、共同持株会社を設立する。
――新会社の名称は、東栄ホールディングス株式会社とする。
――両社の株主が保有する株式は、新設会社の株式に移転する。
――これにより、田辺精密工業株式会社は、新設会社の完全子会社となる。
完全子会社。
つまり。
田辺精密工業の株式を、新会社が一〇〇パーセント保有するということです。
「……なるほど」
私は頷きました。
株式移転。
現代の会社法で勉強したばかりです。
複数の会社の株式全部を、新しく設立する会社に取得させる仕組み。
たとえば。
A社とB社。
この二社の上に、新しくC社を作る。
A社の株主も、B社の株主も、それぞれ持っていた株式をC社へ移し、代わりにC社の株式を受け取る。
結果。
C社がA社とB社の完全親会社になる。
いわゆる持株会社を作る方法です。
「田辺さん」
「はい」
「これは、株式移転ですね」
「そう書いてあります」
「でも、株式移転には所定の手続きが必要です。株式移転計画を作って、株主総会で承認を――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「今、何て言った?」
「株式移転計画です」
「何だ、それは」
「え?」
私は固まりました。
相馬先輩が通知書を奪うように受け取ります。
そして。
しばらく読みました。
「……おい」
「はい」
「こいつ、何を言ってやがる」
「株式移転です」
「だから、その株式移転って何だ」
……。
あ。
私は背筋が凍りました。
待ってください。
今は。
昭和六十三年。
商法第二編。
有限会社法。
そして。
会社法という単独の法律は、まだ存在しない。
では。
株式交換と株式移転は?
私は記憶を探りました。
確か。
平成十一年。
一九九九年の商法改正で導入された制度です。
つまり。
今から十一年後。
「……ありません」
「何が」
「株式移転という制度が……」
「当たり前だろ」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「そんな便利な仕組み、今の商法にはねえぞ」
やってしまいました。
未来の会社法。
また持ち込んでしまいました。
しかも。
今度は相馬先輩だけではありません。
通知書を作った東栄産業まで。
未来の制度を使っているのです。
……え?
どうして?
私は通知書を見直しました。
これは偶然でしょうか。
それとも。
誰かが、まだ存在しない仕組みを知っている?
……いや。
そんなはずはありません。
でも。
相手は明らかに、存在しない制度を利用して会社を奪おうとしています。
「所長!」
私は奥の机へ駆け寄りました。
「大変です!」
「何だ」
「株式移転です!」
片桐所長は顔を上げました。
「何の話だ」
「二つの会社の株式を、新しく設立する会社に全部移して、完全親子会社関係を作るんです!」
「……それを、どうやってやる」
「株式移転計画を作って――」
「こはる」
「はい」
「今の商法に、その制度があるのか」
「……ありません」
「なら、その言葉を使うな」
ぐっ。
正論です。
未来の制度を知っていると、どうしても便利な方法に飛びついてしまいます。
でも。
今存在しない制度では、誰も守れません。
所長は田辺さんの通知書を読みました。
「相馬」
「はい」
「株主名簿を確認しろ」
「分かりました」
「定款もだ」
「はい」
所長は私を見ました。
「こはる」
「はい!」
「会社の株式を、全部他人に移すということは、どういう意味だ」
「株主が変わるということです」
「そうだ」
「会社自体の法人格が、必ず消えるわけではありません」
「うん」
「株式を全部取得した会社が、完全親会社になります」
所長が頷きました。
「では、今の商法で、それを一方的に実現できるのか」
「……できません」
「そうだ」
そこでした。
東栄産業は、株式の六割を持っています。
確かに多数派です。
普通決議なら、その議決権で押し切れる場面も多いでしょう。
でも。
多数派だからといって、残りの株主の所有物である株式を、自由に取り上げられるわけではない。
まして。
存在しない株式移転制度を使って。
「田辺さん」
私は顔を上げました。
「まだ、会社を奪われたと決まったわけではありません」
「本当ですか!」
「はい!」
その瞬間。
事務所の電話が鳴りました。
『田辺さんは、そちらにいるんだろう?』
低い男の声でした。
東栄産業の社長。
黒岩剛三。
本人です。
『行政書士に泣きついたところで、何も変わらんぞ』
私は受話器を握り直しました。
「こちらは片桐行政書士事務所です。ご用件は――」
『田辺に伝えろ』
黒岩は遮りました。
『会社は、もう俺のものだ』
「……」
『六割も株を持っているんだぞ。俺が決めたことに従うのが当然だろう』
私は唇を噛みました。
『それに、新会社の設立も進めている』
「新会社?」
『東栄ホールディングスだ』
黒岩は得意そうに笑いました。
『俺が親会社の社長になる。田辺の工場はその子会社だ。株式を移して、全部まとめる』
「その株式移転というのは――」
『細かい法律の話はどうでもいい!』
……出ました。
法律を守るつもりがない人ほど。
法律の細かいところを嫌うものです。
『俺が株主の過半数を握っている。だから俺が法律だ』
私は思わず言い返しました。
「違います!」
『何?』
「会社の過半数の株式を持っていることと、残りの株式まで所有していることは違います!」
『小娘が、偉そうに』
「そもそも、株式移転という制度は――」
「こはる」
相馬先輩が肩を叩きました。
「はい」
「電話を代われ」
私は受話器を渡しました。
「片桐事務所の相馬です」
『何だ、今度は男か』
「通知書の差出人は、御社で間違いありませんね」
『そうだ』
「新設会社が田辺精密工業の全株式を取得する、という内容ですね」
『だからそう言ってるだろう!』
「承知しました」
『何が承知した、だ』
「通知書の内容について、事実確認をさせていただきました」
『……それだけか?』
「はい。法律上の見解については、必要な書面で確認していただくことになります」
『ふん。好きにしろ』
電話が切れました。
私は相馬先輩を見ました。
「先輩!」
「何だ」
「何で言い返さなかったんですか!」
「相手は、自分で何をするつもりか喋った」
「はい」
「なら十分だ」
先輩は通知書を机に置きました。
「俺たちは弁護士じゃねえ。相手の代理人として買収条件を交渉する仕事じゃない」
「……はい」
「依頼人のために、定款と議事録を調べる。そして本人の意思を正確な書面にする」
相馬先輩はにやりと笑いました。
「それだけで、奴の計画は止まるかもしれねえぞ」
私は通知書を見ました。
株式移転。
共同持株会社。
完全子会社。
聞こえは立派です。
でも。
制度が存在しないなら。
その看板の裏側には、別の企みがあるはずです。
翌日。
田辺さんが会社の書類を持ってきました。
定款。
株主名簿。
過去の株主総会議事録。
取締役会議事録。
そして。
東栄産業から届いた、株式譲渡契約書の案。
「……あれ?」
私は最後の書類を見ました。
「所長!」
「何だ」
「これ、株式移転じゃありません!」
所長が顔を上げます。
「どういうことだ」
「株式譲渡契約書です!」
私は書類を広げました。
そこには、こう書かれていました。
――譲渡人田辺修一は、保有する田辺精密工業株式会社の株式全部を、東栄産業株式会社に譲渡する。
――譲渡価額は、一株につき百円とする。
――譲渡人は、本件譲渡に関する一切の異議を申し立てない。
……。
私は田辺さんを見ました。
「一株百円?」
「はい」
「田辺さんの会社、そんなに価値が低いんですか?」
「とんでもありません!」
田辺さんは首を振りました。
「工場の土地と設備だけでも、かなりの財産です。借入金はありますが、利益も出しています」
「では、なぜ百円?」
「黒岩社長が、そう決めたんです」
私は書類を見つめました。
なるほど。
ここで、ようやく分かりました。
表向きは、株式移転による共同持株会社の設立。
でも、実際には。
田辺さんたち少数株主に、安い価格で株式を売らせようとしている。
その株式を買い集めて。
東栄産業が、田辺精密工業の全株式を取得する。
そして完全子会社にする。
「つまり……」
私は呟きました。
「株式移転という言葉で、普通の株式譲渡を隠している?」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだろうな」
「でも、譲渡なら田辺さんの同意が必要です!」
「当たり前だ」
「株式を持っているのは、田辺さん本人なんですから!」
そこで片桐所長が定款を開きました。
「こはる」
「はい」
「ここを読め」
所長が指差したのは、一つの条項でした。
――当会社の株式を譲渡するには、取締役会の承認を要する。
「株式譲渡制限!」
「そうだ」
私は頷きました。
田辺精密工業は、株式の譲渡を自由に認めない会社でした。
もちろん。
譲渡制限があるからといって、株主が株式を永久に売れなくなるわけではありません。
ただし、所定の承認手続きが必要になります。
「所長、これがあるなら、東栄産業は簡単に株式を集められないですね!」
「それだけではない」
「え?」
所長は、別の議事録を取り出しました。
――取締役会議事録。
議題。
田辺精密工業株式会社の株式譲渡承認について。
出席取締役。
田辺修一。
黒岩剛三。
東栄産業から派遣された取締役。
そして。
決議内容。
――全員一致により、株式譲渡を承認した。
「……全員一致?」
私は田辺さんを見ました。
「田辺さん、これに出席しましたか?」
「いいえ」
「え?」
「そんな取締役会、開かれていません」
……。
私は議事録を見直しました。
「では、これ……」
「黒岩社長が勝手に作ったものです」
田辺さんの声が震えました。
「私が反対しているのに、全員一致で承認したことにされているんです」
私は息を呑みました。
架空の取締役会。
存在しない承認決議。
しかも。
まだ署名していない株式譲渡契約書。
これで会社を奪おうとしていたのですか。
「ひどい……!」
私が言うと、相馬先輩が低く笑いました。
「なるほどな」
「先輩?」
「未来の制度を使うふりをして、実際には偽の議事録と契約書で株を集める。随分と雑な乗っ取りだ」
所長は議事録を机に置きました。
「相馬」
「はい」
「まず、事実関係を固める」
「分かりました」
「こはる」
「はい!」
「この議事録が、本当に会社の記録として作られたものか確認しろ」
「はい!」
「取締役会の招集通知。出席者。議事の経過。作成者。全部だ」
私は頷きました。
議事録に名前があるだけでは、実際に会議が開かれた証拠にはなりません。
そして。
もっと大事なことがあります。
「所長」
「何だ」
「仮に取締役会で株式譲渡を承認していたとしても、それだけで田辺さんの株が東栄産業に移るわけではありませんよね」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は思わず拳を握りました。
そこです。
譲渡承認。
それは、会社が株式の譲渡を認めるための手続き。
株主本人が、株式を売るという意思表示をしたこととは別です。
いくら取締役会の議事録を作っても。
田辺さん本人の株式譲渡契約が成立したことにはならない。
「つまり!」
私は言いました。
「黒岩社長は、承認の議事録さえ作れば株式を奪えると思っているんですね!」
「そうだろうな」
相馬先輩が笑いました。
「だが、株主の財産を、会社の決議だけで勝手に売り飛ばせると思ったら大間違いだ」
私は書類を見つめました。
これです。
今日の急所。
株式を全部取得すること。
それと。
他人の株式を勝手に取り上げること。
この二つは、同じではありません。
その日の午後。
さらに問題が見つかりました。
「所長!」
私は別の紙を持ち上げました。
「新会社の設立書類です!」
東栄ホールディングス株式会社。
定款の原案。
発起人の氏名。
代表取締役予定者。
監査役予定者。
そこには。
発起人が、たった一人しか書かれていませんでした。
黒岩剛三。
以上。
「……一人?」
私は思わず呟きました。
現代なら、株式会社は発起人一人でも設立できます。
取締役一人でも可能です。
最低資本金制度もありません。
でも。
ここは昭和六十三年。
「先輩!」
「何だ」
「これも駄目です!」
「ああ?」
「発起人が一人しかいません!」
相馬先輩が書類を覗きました。
「本当だな」
「この時代、株式会社は発起人が七人以上必要ですよね!」
「そうだ」
「しかも、取締役は三人以上!」
「ああ」
「監査役も必要!」
「そうだな」
私は頭を抱えました。
もう。
めちゃくちゃです。
株式移転という制度は存在しない。
新会社の発起人は足りない。
株式譲渡契約は未成立。
取締役会議事録には事実と違う記載。
これだけ問題が重なっているのに。
黒岩社長は、
「俺が法律だ」
と言っていたのです。
「……先輩」
「何だ」
「法律より偉い人って、こんなに書類が苦手なんですか?」
相馬先輩が吹き出しました。
「法律を馬鹿にする奴ほど、書類の細かいところを読まねえんだよ」
でも。
私は一つ、気になりました。
「所長」
「何だ」
「そもそも、昭和六十三年に、純粋持株会社って作れるんですか?」
所長が顔を上げました。
私は続けます。
「他の会社の株式を保有して支配することだけを目的とする会社です」
東栄ホールディングスの事業目的には、まさにそれが書かれていました。
――他の会社の株式を取得、保有し、その経営を支配すること。
所長は頷きました。
「そこにも問題がある」
「ですよね!」
当時の独占禁止法では、純粋持株会社の設立や、既存会社の純粋持株会社化が禁止されていました。
現代では一般的な、何々ホールディングスという企業形態。
でも昭和六十三年には、今とは違う規制があるのです。
もちろん、他社株式を持つ会社がすべて禁止されているわけではありません。
自分でも事業を営みながら、他社株式を保有する事業持株会社まで、ひとまとめに違法となるわけではない。
しかし。
黒岩社長が計画しているような、他社の支配だけを目的とする純粋持株会社には、当時の規制が立ちはだかります。
「つまり……」
私は書類を重ねました。
「現代なら会社法の株式交換や株式移転で考える問題なのに、この時代では、そもそも前提になる制度が違うんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「時代が違えば、使える道具も違う」
私は思いました。
昭和の商法。
確かに不便です。
会社を作るだけでも、大勢の発起人が必要。
役員の人数も必要。
今ならできる組織再編も、簡単にはできない。
でも。
それを知らずに、未来の便利な制度が使えるつもりでいると。
会社を守るどころか。
会社そのものを、危険にさらしてしまう。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「未来の制度を知ってるのは勝手だがな」
「はい」
「昭和の会社を守るなら、昭和の商法で戦え」
「……はい!」
私は、今度こそ六法を開きました。
それから二日。
私たちは、田辺精密工業の書類を確認し続けました。
株主名簿。
定款。
取締役会の招集記録。
株式譲渡契約書。
東栄産業から届いた通知書。
田辺さんが保管していた手紙。
そして。
偽の議事録が作られたとされる日の、田辺さんの出張記録。
「所長!」
私は声を上げました。
「これです!」
その日。
田辺さんは取引先の工場へ出張していました。
訪問記録があります。
納品書にも、本人の署名があります。
取締役会が開催されたという時間には、別の場所にいた可能性を裏付ける資料です。
さらに。
ほかの取締役の一人も、その日の会議に出席した事実はないと書面で確認していました。
「これで、全員一致の議事録には重大な疑いがあります!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「しかも、田辺さんは株式を売る契約書に署名していません!」
「ああ」
「なら、東栄産業が田辺さんの株式を取得したという根拠もありません!」
所長は静かに言いました。
「よし」
そして。
机の上に、白い用紙を置きました。
「内容証明の原案を作れ」
「はい!」
いよいよです。
私たちの武器。
内容証明郵便。
ただし、今回の目的は、行政書士が田辺さんに代わって買収条件を交渉することではありません。
田辺さん本人の意思を確認し。
本人名義で。
存在しない株式譲渡の事実と、既に送付された通知書の問題点を明確にする。
私は鉛筆を握りました。
そして。
一行目を書き始めました。
三時間後。
内容証明郵便の原案が完成しました。
差出人。
田辺修一。
宛先。
東栄産業株式会社。
代表取締役 黒岩剛三。
私は読み上げました。
「第一。通知人は、田辺精密工業株式会社の株主として、同社株式を保有している」
「うん」
「第二。通知人は、貴社との間で、当該株式の譲渡契約を締結した事実がない」
「うん」
「第三。通知人は、貴社提示の株式譲渡契約書について、署名押印をしておらず、株式譲渡の意思表示もしていない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。貴社が通知した『株式移転』について、昭和六十三年現在の商法には、通知書記載の方法によって当然に全株式を移転させる制度は存在しない」
「よし」
「第五。田辺精密工業株式会社の取締役会議事録と称する書面には、通知人が出席し、全員一致で株式譲渡を承認した旨の記載があるが、通知人は当該会議に出席しておらず、そのような決議に賛成した事実もない」
私は息を吸いました。
「第六。仮に株式譲渡承認の決議が適法に成立していたとしても、それのみをもって通知人の保有株式の譲渡が成立するものではない」
ここです。
最大の急所。
会社による譲渡の承認と。
株主本人による株式の譲渡。
それは別の問題なのです。
「第七。貴社が計画する新設会社については、発起人の員数等に関する当時の商法上の設立要件及び独占禁止法上の規制についても、適法性の確認を要する」
「うん」
「第八。以上のとおり、通知人は貴社による本件株式の取得を認めておらず、通知人の意思に反する株式名義の変更その他の処理を行わないよう通知する」
私は最後の一文を読みました。
――本件につき通知人の権利を侵害する行為が行われた場合には、弁護士に相談のうえ、必要な法的措置を検討する。
読み終えました。
沈黙。
片桐所長が書面を受け取りました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感。
「こはる」
「はい」
「ここ」
「はい」
「最初の原案には『株式移転は絶対に無効』と書いていたな」
「はい……」
「その言い方は正確ではない」
「……はい」
所長は静かに言いました。
「そもそも、この時代には、通知書が前提にしている株式移転制度がない。存在しない制度によって、当然に株式が移ることはない。それと、別に行われた契約や取引の効力は、分けて考える必要がある」
私は頷きました。
そうです。
株式移転という名称が使われているからといって、あらゆる取引が自動的に無効になるわけではありません。
実際に何が行われたのか。
誰が、何に同意したのか。
どの株式について、どんな契約が成立したのか。
そこを確認しなければならない。
「では所長」
「何だ」
「今回は、田辺さんが株式譲渡に同意していないことを、はっきり示すんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「書類の名前ではなく、実際に生じた法律関係を見る」
なるほど。
今日もまた。
法律の条文だけではなく、事実の確認が勝負を決めるのです。
田辺さんは完成した書面を確認し、自分の意思に相違がないことを確かめて、署名しました。
内容証明郵便は、その日のうちに発送されました。
同時に、相馬先輩は田辺精密工業の会社記録について、関係者から確認した事実を整理し、真正な議事録と問題のある写しを区別して保存しました。
そして、所長が言いました。
「田辺さん」
「はい」
「ここから先、相手が株式の名義を勝手に変更したり、虚偽の議事録を利用して具体的な権利侵害に及んだりするなら、早急に弁護士へ相談してください」
「分かりました」
「当事務所で確認した資料は、引き継げるよう整理してあります」
「ありがとうございます」
田辺さんは深々と頭を下げました。
「……これで、工場を守れますか」
所長は、少し間を置きました。
「まだ、終わってはいません」
「……はい」
「ですが、少なくとも、あなたの株式が勝手に移転したという主張には、明確に反論できる資料があります」
田辺さんの目に、少しだけ力が戻りました。
私は思いました。
内容証明は、魔法ではありません。
送れば必ず勝てるわけでもありません。
でも。
相手が曖昧な言葉で押し切ろうとしているとき。
事実と法律を正確に並べるだけで。
状況が大きく変わることがあるのです。
内容証明が届いた翌日。
東栄産業の社長室。
黒岩剛三は、書面を机に叩きつけていました。
「ふざけるな!」
その前には、顧問の法律専門家が座っていました。
「社長」
「何だ!」
「この通知書ですが……」
「行政書士が作っただけの紙だろう!」
「内容を確認してください」
専門家は静かに言いました。
「まず、株式移転という法定の制度は、現行の商法にはありません」
「……何?」
「御社の説明する手続きだけで、田辺精密工業の株式全部が新会社へ移ることはありません」
黒岩の顔が歪みました。
「だが、俺は六割持っている!」
「残り四割は、別の株主の財産です」
「だったら、株主総会で決めればいいだろう!」
「多数決で当然に他人の株式を取得できるわけではありません」
「……!」
「それから、この取締役会議事録です」
専門家は別の紙を取り出しました。
「田辺社長が出席したと記載されていますが、本人は出席を否定しています」
「……それがどうした」
「会議が本当に開催されたのか、決議が成立したのか、重大な問題になります」
黒岩は黙りました。
「仮に譲渡承認が有効だったとしても、田辺社長自身が株式を売っていなければ、当然に取得できるわけではありません」
「……」
「さらに、東栄ホールディングスの設立案です」
「何だ」
「発起人が一人になっています」
「それが?」
「この時代の株式会社の設立要件を満たしていません」
黒岩の額に汗が浮かびました。
「それに、事業目的に記載されている純粋持株会社についても、独占禁止法上の問題があります」
「……そんな馬鹿な」
専門家は淡々と続けました。
「架空の議事録を利用して株式の名義を変更するなどすれば、民事上だけでなく、行為の内容によっては刑事上の問題も生じかねません」
黒岩は椅子にもたれました。
強引な買収。
六割の株式。
新会社の設立。
完全子会社化。
すべてを、自分の思いどおりに進めるつもりだった。
でも。
最も大事なものが、欠けていました。
法律上の根拠。
そして。
残り四割の株主の意思。
「……じゃあ」
黒岩が、かすれた声で言いました。
「俺は、田辺の株を取れないのか」
「適法な方法による取得を検討することはできます」
専門家は答えました。
「ですが、田辺社長の意思に反して、今回の書類だけで株式を奪うことはできません」
黒岩は机の上の通知書を見ました。
そこには。
田辺修一という名前。
そして。
株式を譲渡していないという、明確な意思表示。
どれだけ大きな会社の社長でも。
どれだけ多くの株を持っていても。
その一人の株主の意思を、勝手に書き換えることはできなかったのです。
三日後。
田辺さんが、再び事務所を訪れました。
「所長!」
声が明るい。
私は思わず立ち上がりました。
「どうしたんですか!」
「東栄産業から、書面が届きました!」
田辺さんは封筒を取り出しました。
私は受け取りました。
そこには。
――先般通知した共同持株会社設立及び株式移転に関する計画については、法的手続きの再検討のため、撤回する。
――田辺精密工業株式会社の株式譲渡については、株主本人の意思に反して進めない。
――問題となった取締役会議事録については、当該記載の正確性を確認し、これを有効な譲渡承認決議の証拠として使用しない。
私は目を見開きました。
「……撤回?」
「はい!」
「本当に?」
「はい!」
田辺さんは笑いました。
今度は、心から。
「工場を、守れました!」
私は思わず拳を握りました。
「やりましたね!」
相馬先輩が横から言いました。
「まだ気を抜くなよ」
「ええっ!」
「東栄産業が六割の株を持っていること自体は、変わってねえ」
「あ……」
そうでした。
今回の乗っ取り計画は撤回されました。
でも。
東栄産業は依然として、田辺精密工業の大株主です。
株主として適法に行使できる権利まで、消えたわけではありません。
「田辺さん」
片桐所長が言いました。
「今後の経営については、株主構成も含めて慎重に考える必要があります」
「はい」
「事業を続けるなら、株主総会と取締役会の手続きも、これまで以上に正確に」
「分かりました」
田辺さんは深く頭を下げました。
「でも、今日はお礼を言わせてください」
そう言って。
一枚の写真を取り出しました。
工場の前に並ぶ、従業員たち。
年配の職人。
若い作業員。
作業着姿の女性。
みんな、笑っています。
「昨日、工場のみんなに話したんです」
「何をですか?」
「まだ、会社はなくならないって」
私は写真を見ました。
「みんな、喜んでくれました」
田辺さんの声が少し震えました。
「うちは小さな工場です。大きな会社から見れば、たいした価値はないかもしれません」
「そんなこと……」
「でも、あそこには二十人の生活があります」
田辺さんは写真を撫でました。
「父の代から働いてくれている職人もいます。高校を出て入ってきた若い子もいる。家族を養っている者もいる」
私は黙って聞きました。
「会社って、株だけじゃないんですね」
「……はい」
「機械も、建物も、帳簿も大事です。でも、それだけじゃない」
田辺さんは、少し照れくさそうに笑いました。
「働いている人間がいるんです」
私は胸が熱くなりました。
そうです。
会社。
株式会社。
法人。
株主。
取締役。
試験では、硬い言葉ばかりです。
でも。
その会社で働く人たちにとっては。
毎朝出勤する場所。
家族の生活を支える場所。
自分の技術を生かす場所。
そういう存在なのです。
そして。
その会社の所有と支配をめぐるルールは。
ただの数字遊びではないのでした。
田辺さんが帰ったあと。
私は机の上に、三枚の紙を並べました。
一枚目。
株式譲渡契約書。
二枚目。
取締役会議事録。
三枚目。
株式移転のお知らせ。
「……先輩」
「何だ」
「何だか、怖いですね」
「何がだ」
「会社の株式って、ただの紙じゃないんですね」
「そりゃそうだ」
私は頷きました。
株式を持つということは。
会社に対して、株主としての権利を持つということ。
そして。
株式の全部を取得するということは。
その会社の唯一の株主になるということ。
「だから、現代には株式交換や株式移転があるんですね」
私が言うと、相馬先輩が眉をひそめました。
「また未来の話か」
「いえ、ちょっとだけ!」
私はノートを開きました。
「だって、考えてみてください」
「何をだ」
「現代なら、既存の会社を完全親会社にしたいときは株式交換」
「……」
「新しく親会社を作りたいときは株式移転」
「……」
「どちらも、所定の手続きを踏むことで、完全親子会社関係を作れるんです」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
「ずいぶん都合のいい話だな」
「そうなんです」
私は頷きました。
「もちろん、株主の利益を守るための手続きも必要ですけど」
「そりゃそうだろうな」
「会社同士の関係を組み替えるって、それくらい重大なことですから」
私はノートに、二つの図を描きました。
まず。
株式交換。
A社が、B社の株式全部を取得する。
B社の株主には、契約で定められた対価が交付される。
典型的には、A社の株式です。
これで、A社が完全親会社、B社が完全子会社になります。
次に。
株式移転。
A社とB社の上に、新しくC社を設立する。
C社がA社とB社の株式全部を取得する。
もともとのA社とB社の株主は、新しくできたC社の株主になる。
C社が完全親会社。
A社とB社が完全子会社。
「ほら!」
私はノートを見せました。
「違い、分かりやすいでしょう!」
相馬先輩が覗き込みました。
「……なるほどな」
「ですよね!」
「ただし」
「はい?」
「昭和六十三年には、そんな制度はねえ」
「……はい」
「しかも、純粋持株会社も禁止されている」
「……はい」
「今の仕事に使うんじゃねえぞ」
「分かってます!」
私は頬を膨らませました。
でも。
少しだけ嬉しくなりました。
現代の会社法を知っているからこそ。
昭和の商法の不便さが分かる。
昭和の商法を知っているからこそ。
なぜ現代の会社法には、あんな便利な制度が用意されたのかが分かる。
そして。
便利な制度だからこそ。
株主を守るための手続きも、しっかり必要になる。
……なるほど。
法律の改正には、ちゃんと理由があるのです。
「こはる」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「はい!」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
「株式を全部持つことと、会社を経営することは関係があります」
「うん」
「でも、過半数の株式を持っているからといって、残りの株主の株式を勝手に奪うことはできません」
「そうだ」
「そして、株式譲渡の承認と、株式譲渡契約そのものは別です」
所長が頷きました。
「他には?」
「昭和六十三年には、現代の株式交換と株式移転の制度はありません」
「うん」
「純粋持株会社にも、当時の独占禁止法による規制があります」
「そうだ」
「だから、現代の制度をそのまま当てはめてはいけません」
所長が短く答えました。
「それでいい」
私は嬉しくなりました。
今日の事件。
最初は、難しそうな会社組織の話でした。
でも。
実際には、とても単純な問題が隠れていたのです。
誰の株式なのか。
誰が売ると決めたのか。
会社は何を承認したのか。
そして。
その手続きは、今の法律で本当に認められているのか。
たったそれだけ。
けれど。
その区別ができなかった黒岩社長は、会社を丸ごと奪おうとして失敗したのです。
夕方。
私は窓の外を眺めました。
町の向こうに、田辺精密工業の煙突が見えます。
夕日に照らされた、古い工場。
今日もきっと。
機械の音が響いているのでしょう。
鉄を削る音。
職人たちの声。
油の匂い。
そうした毎日が、続いている。
私は思いました。
株式交換。
株式移転。
持株会社。
完全親会社。
完全子会社。
どれも、試験では図を書いて覚える言葉です。
でも。
その図の下には、実際に働く人たちがいる。
そして。
法律は、会社を支配するためだけに存在しているのではありません。
会社の持ち主である株主の権利を守るためにも。
会社で働く人々の生活を、無責任な行為から守るためにも。
重要な役割を果たしているのです。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「私、株式交換と株式移転、もう忘れないと思います!」
「何でだ」
「だって、田辺さんの事件を思い出せばいいんです!」
「……そうか」
「株式交換は、今ある会社を親会社にする!」
「うん」
「株式移転は、新しく親会社を作る!」
「うん」
「でも昭和六十三年には、どっちもない!」
「そうだ!」
相馬先輩が頷きました。
「やっと覚えたか」
「はい!」
私は胸を張りました。
ところが。
そのとき。
片桐所長が机から一枚の書類を取り出しました。
「こはる」
「はい?」
「では、次はこれだ」
「何ですか?」
私は受け取りました。
そこには。
――企業買収に伴う株式売買契約について。
と書かれていました。
相談者は、別の会社の社長。
相手企業に株式を売ったあと、経営権を巡って揉めているらしいのです。
「……また株式ですか?」
私が言うと、相馬先輩が笑いました。
「会社の争いは、株式を見りゃだいたい面倒くせえことになってる」
「そんな!」
「今度は未来の制度を口走るなよ」
「分かってます!」
私は六法を抱えました。
昭和六十三年。
会社法は、まだありません。
株式交換も、株式移転も、ありません。
でも。
だからこそ。
今ある商法のルールを正確に理解しなければ、会社も株主も守れないのです。
そして。
今日、私は一つ確信しました。
大きな会社の社長が、
「俺が法律だ」
と叫んでも。
その言葉だけでは、小さな町工場の最後の一株さえ奪えない。
株主の権利は。
社長の声の大きさでは、決まらないのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「会社って、面白いですね!」
「お前は何でも面白がるな!」
「だって!」
私は笑いました。
「株式一枚で、会社の運命が変わるんですよ!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
それから。
少しだけ笑って言いました。
「だから、書類の一行を間違えるな」
私は大きく頷きました。
「はい!」
窓の外。
遠くの工場から、夕方の汽笛が聞こえました。
今日も。
誰かが、真面目に働いている。
その仕事を守るために。
私たちは、明日も六法を開くのです。
たとえ。
便利な未来の会社法が、まだ存在しない時代であっても。
法律を守る者には。
今の時代の法律という、確かな武器があるのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




