[会社法・会社分割]法理編 こはるノート
会社は、分けることができます。
でも。
借金まで、都合よく消せるわけではありません。
儲かる事業だけを新会社へ。
借金は古い会社へ。
そんなことが自由にできるなら、取引先は安心して商売ができなくなります。
だからこそ。
現代の会社法には、会社を分けるための仕組みと、関係者を守るための仕組みが用意されているのです。
吸収分割。
新設分割。
似たような名前ですが、決定的な違いがあります。
そして。
昭和六十三年には、そのどちらの制度も存在しません。
今回のこはるノートは、そんな時代を飛び越えた会社法のお話です。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かっていました。
目の前には、厚い六法。
その隣には、鉛筆と消しゴム。
そして、新しいノート。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法会社編。
と書いてあります。
「……会社って、分けられないんですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、いきなり」
「会社です」
「会社がどうした」
「分割できないんです」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないんですよ!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「未来では分割できるんです!」
「また未来か」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
あ。
しまった。
つい口が滑りました。
「いえ、将来そういう便利な仕組みができたらいいな、という話です!」
「お前、最近そればっかりだな」
「夢を見るのは自由です!」
「法律を夢で語るな」
ひどい。
でも。
今日ばかりは、私にも言い分があります。
だって。
あの八百四十万円の事件。
もし現代の会社法があれば、まったく違う法律問題になっていたかもしれないのです。
「先輩」
「何だ」
「東陽工業の事件、覚えていますよね」
「忘れるわけねえだろ」
東陽工業株式会社。
代表取締役、黒岩剛三。
精密加工部門を新会社の東陽精密株式会社へ移し、古い会社の未払代金八百四十万円を支払わずに済ませようとした社長です。
工場。
機械。
従業員。
取引先。
それらを新会社に移しながら。
借金だけは古い会社に残す。
そして。
「別会社だから俺には関係ない」
と、勝ち誇っていました。
でも、会社を作り直しても、東陽工業が負っていた債務が当然に消えるわけではありません。
私たちは発注書や納品書、支払予定確認書を整理し、村田精密さん本人の名義で内容証明を作成しました。
結局、東陽工業は八百四十万円を支払いました。
「……あの事件、すごく勉強になりました」
私は言いました。
「何がだ」
「社長が同じでも、会社は別の法人だということです」
「そうだな」
「でも、別法人になれば、何でも責任から逃げられるわけではない」
「そうだ」
「そして、昭和には会社分割がない!」
「だから、さっきから何の話なんだよ」
相馬先輩が頭を抱えました。
そのとき。
奥から片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「昨日の事件で、何が一番重要だった」
私は少し考えました。
「……会社の名前ではなく、どの会社が、どんな権利義務を負っているかを確認することです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「事業を移すことと、借金が消えることは違う」
「うん」
「その区別ができなければ、会社の看板に騙されます」
片桐所長は短く言いました。
「なら、続きを書け」
「はい!」
よし。
本日の勉強会。
開幕です。
私はノートの一番上に、大きく書きました。
――会社分割とは何か。
「まず、ここからです!」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「言ってみろ」
「会社分割とは、会社がその事業に関して有する権利義務の全部または一部を、別の会社に承継させる組織再編行為です!」
「……ずいぶん難しい言い方だな」
「法律の定義です!」
「もっと簡単に言え」
む。
確かに。
受験生の頃は、定義を丸暗記していました。
でも、それだけでは意味が分かりにくい。
私は昨日の事件を思い出しました。
「例えば、東陽工業が二つの事業をしているとします」
「うん」
「一つは精密加工事業」
「うん」
「もう一つは機械販売事業」
「なるほど」
「精密加工事業だけを別会社に移したい場合、現代なら会社分割という制度を検討できます」
私はノートに二つの四角を描きました。
一つ目。
東陽工業株式会社。
精密加工事業。
機械販売事業。
二つ目。
精密加工事業だけを移した会社。
「こうして、事業を切り分けるんです」
「ほう」
相馬先輩が覗き込みました。
「で、工場だけ渡すのか?」
「いいえ!」
私は首を振りました。
「そこが大切なんです!」
工場の建物。
機械設備。
材料や在庫。
売掛金。
買掛金。
契約上の権利義務。
会社分割では、分割契約や分割計画で定めた範囲について、法律上の承継が生じます。
「つまり、単に機械を売るのとは違うんです」
「なるほどな」
「事業に関する権利義務を、法律の仕組みで引き継がせる」
私は大きく丸をつけました。
ただし。
ここで一つ、絶対に間違えてはいけないことがあります。
「先輩」
「何だ」
「会社分割は、会社の財産も借金も、何もかも自動的に半分ずつ分かれる制度ではありません」
「そりゃそうだろ」
「分割契約や分割計画で、何を承継させるのか定めるんです」
私はノートに線を引きました。
――会社分割は、会社そのものを物理的に半分に切ることではない。
――事業に関する権利義務を、定められた範囲で承継させること。
なるほど。
これなら覚えやすいです。
でも。
ここで、相馬先輩が鋭い質問をしました。
「じゃあ、借金を移すかどうかも、その書類で決めるのか?」
「はい。どの債務を承継させるかも重要な事項になります」
「だったら、黒岩みたいな社長が悪用するんじゃねえか?」
……。
私は鉛筆を止めました。
そのとおりです。
会社分割は便利な制度です。
だからこそ。
債権者保護の仕組みが必要になるのです。
「では、次です!」
私はノートに大きく書きました。
――吸収分割。
「まず、吸収分割を覚えましょう!」
「吸収ってことは、会社を丸ごと飲み込むのか?」
相馬先輩が聞きました。
「違います!」
「違うのか」
「それだと、吸収合併と混同してしまいます!」
私は二つの会社を描きました。
A社。
B社。
A社は機械販売事業をしています。
B社は、精密加工事業と小売事業をしています。
「ここで、B社が小売事業をA社へ移すとします」
「うん」
「B社の小売事業に関する権利義務を、既に存在するA社に承継させるんです」
「なるほど」
「これが吸収分割です!」
私は矢印を引きました。
――B社の小売事業。
――既存のA社へ承継。
「この場合、B社を分割会社、A社を承継会社と呼びます」
「分割する側と、引き継ぐ側か」
「そうです!」
私は大きく丸をつけました。
吸収分割。
既に存在する会社へ、事業の権利義務を承継させる。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「B社はどうなるんだ?」
「残ります」
「ほう」
「会社分割をしたからといって、B社が当然に消滅するわけではありません」
ここが、吸収合併との重要な違いです。
吸収合併では、消滅会社の権利義務が存続会社へ承継され、消滅会社はなくなります。
でも。
吸収分割では、分割会社そのものが当然に消滅するわけではありません。
「つまり、B社は精密加工事業を続けられるんです」
「なるほどな」
「小売事業だけをA社へ移すわけですから」
私は昨日の事件を思い出しました。
東陽工業。
東陽精密。
黒岩社長は、儲かる精密加工部門を別会社へ移していました。
もし現代の会社分割を使うなら。
もともと存在している東陽精密に、その事業を承継させる。
そういう構成が考えられます。
「でも先輩」
「何だ」
「今回の黒岩社長は、事業を移すために新会社を作っていたんです」
「ああ」
「そこが次の論点です!」
私はページをめくりました。
――新設分割。
「こちらは、名前のとおりです!」
相馬先輩が頷きました。
「新しい会社を作るのか」
「そうです!」
私は大きく四角を描きました。
B社。
精密加工事業。
小売事業。
「B社が、小売事業だけを独立させたいとします」
「うん」
「そのために、新しくC社を設立するんです」
「なるほど」
「そして、B社の小売事業に関する権利義務を、新しく設立するC社へ承継させます」
私は矢印を描きました。
――B社の小売事業。
――新しく設立するC社へ承継。
「これが新設分割です!」
相馬先輩が腕を組みました。
「さっきの吸収分割と、どこが違う?」
「会社が既に存在しているかどうかです!」
私は二つの言葉を並べました。
吸収分割。
既存の会社に承継させる。
新設分割。
新しく設立する会社に承継させる。
「これが最大の違いです」
「分かりやすいな」
「でしょう!」
私は得意になりました。
でも、ここで終わりではありません。
「実は、新設分割にはもう一つ覚えておきたいことがあります」
「何だ?」
「二つ以上の会社が共同して、一つの新会社を設立することもできるんです」
「何?」
相馬先輩が眉を上げました。
「二つの会社が、それぞれ事業を出すのか?」
「そうです!」
例えば。
A社が小売事業を持っている。
B社も小売事業を持っている。
両社がそれぞれの小売事業を、新しく設立するC社へ承継させる。
そんな新設分割も考えられます。
「つまり、一つの会社だけが分割するとは限らないんです」
「なるほどな」
私はノートに書きました。
――新設分割は、一社でも、複数の会社が共同して行うこともできる。
「ただし」
私は鉛筆を止めました。
「新設分割で設立できる会社や、分割する会社の種類には、会社法上の決まりがあります」
「何でも好きな形にできるわけじゃねえんだな」
「そうです」
現代では、株式会社や合同会社などの持分会社が関わる組織再編のルールが整備されています。
ただし、分割会社となれる会社と、承継会社・新設会社になれる会社の範囲は同一ではありません。
そこも条文で確認する必要があります。
「……合同会社?」
相馬先輩が首をかしげました。
あ。
しまった。
「こはる」
「はい」
「何だ、その合同会社ってのは」
「ええと……」
「合名会社や合資会社とは違うのか?」
「違います!」
「そんな会社、聞いたことねえぞ」
私は額を押さえました。
また未来の会社形態です。
昭和六十三年。
合同会社は存在しません。
現在の合同会社制度が登場するのは、平成十八年施行の会社法から。
「……新しい形の会社を想像していました」
「想像?」
「はい」
「お前、試験勉強より小説でも書いたほうがいいんじゃねえか?」
……。
相馬先輩。
それ、別の意味で鋭いです。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「吸収分割と新設分割の違いは分かったな」
「はい!」
「では、どういう書類を作る」
私は鉛筆を握りました。
「吸収分割は、吸収分割契約です!」
「うん」
「新設分割は、新設分割計画です!」
所長が頷きました。
「そこを混同するな」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――吸収分割=吸収分割契約。
――新設分割=新設分割計画。
相馬先輩が覗き込みました。
「何で片方は契約で、片方は計画なんだ?」
「いい質問です!」
「お前、最近偉そうだな」
「勉強会ですから!」
吸収分割では、既に存在する二つの会社が関わります。
分割会社。
承継会社。
その両社の間で、どの権利義務を承継するかなどを定める。
だから、吸収分割契約。
一方。
新設分割では、承継先の会社はまだ成立していません。
これから設立する会社に、どの権利義務を承継させるのかを定める。
だから、新設分割計画。
「なるほど」
相馬先輩が頷きました。
「既にいる相手と約束するのが契約。これから作る会社について決めるのが計画、ということか」
「そういうイメージです!」
私は嬉しくなりました。
暗記だけでは分からなかった違い。
でも。
会社が存在しているか。
まだ存在していないか。
そこから考えれば、覚えやすい。
「先輩」
「何だ」
「これ、試験で間違えたら悔しいですよね」
「まあな」
「吸収分割計画って書いてあったら?」
「違う」
「新設分割契約って書いてあったら?」
「違う」
「正解です!」
「何で俺が採点されてるんだよ!」
私は笑いました。
でも。
ここは本当に大切です。
会社分割の書類は、ただの形式ではありません。
何を承継するのか。
どのような対価を交付するのか。
いつ効力を発生させるのか。
事業再編の中身を決める重要な書類なのです。
「では、次の問題です!」
私はノートに日付を書きました。
――四月一日。
――四月十五日。
「先輩、どちらの日に会社分割の効力が発生すると思いますか?」
「何の話だ」
「吸収分割です!」
「契約で決めた日じゃねえのか?」
「正解です!」
私は大きく頷きました。
現代の会社法第七百五十九条第一項。
株式会社が承継会社となる吸収分割では、効力発生日に、吸収分割契約の定めに従って権利義務を承継します。
「つまり、吸収分割では、契約で定めた効力発生日が重要なんです!」
相馬先輩が頷きました。
「なるほどな」
「例えば、契約で四月一日を効力発生日と定めたなら、必要な法定手続などを満たしていることを前提に、その日に効力が生じます」
「うん」
「吸収分割の効力発生日は、承継会社の設立登記の日ではありません!」
「そりゃそうだ。既にある会社だからな」
……。
あ。
確かに。
私は少し感動しました。
「先輩!」
「何だ」
「今の、すごく分かりやすいです!」
「当たり前のこと言っただけだぞ」
「その当たり前が試験では重要なんです!」
私は大きく書きました。
――吸収分割は、契約で定めた効力発生日。
そして。
次です。
「では、新設分割は?」
「新会社を作るんだろ?」
「はい」
「じゃあ、新会社ができた日か?」
「大正解です!」
私は机を叩きました。
現代の会社法第七百六十四条第一項。
株式会社を新しく設立する新設分割では、新設会社の成立の日に、分割計画に従って権利義務を承継します。
株式会社は、設立登記によって成立します。
つまり。
新設分割は、設立登記の日に効力が発生するのです。
「ここ、間違えやすいんですよ!」
私は興奮して言いました。
「吸収分割は、契約で定めた効力発生日!」
「うん」
「新設分割は、新会社成立の日!」
「うん」
「つまり設立登記の日!」
「分かった、分かった」
「二つは違うんです!」
「何回言うんだよ!」
私はノートに二重線を引きました。
吸収分割。
契約で定めた効力発生日。
新設分割。
設立登記による会社成立の日。
これです。
この区別。
私は絶対に忘れません。
だって。
既存の会社に引き継ぐなら、契約で効力発生日を定める。
新しい会社に引き継ぐなら、まずその会社が成立しなければならない。
そう考えれば、理屈が通っています。
「……でも」
相馬先輩が呟きました。
「何ですか?」
「そんなに便利な制度なら、悪い奴が使いそうだな」
私は頷きました。
「はい」
そして。
ここからが、会社分割の本当に大切なところです。
「先輩」
「何だ」
「黒岩社長が、現代で会社分割を使ったらどうなると思います?」
「借金を古い会社に残すんだろ」
「そうです」
「で、古い会社を空っぽにする」
「はい」
「そりゃ、債権者が困るだろ」
私は頷きました。
そのとおりです。
会社分割は、事業を再編するための制度。
でも、使い方を誤れば、債権者に重大な不利益を与える可能性があります。
「そこで登場するのが、債権者保護手続です!」
「債権者保護?」
「はい!」
私は村田さんの顔を思い出しました。
八百四十万円。
支払いがなければ、従業員の給料が払えない。
そんな状況でした。
「会社分割で、債権者が不利益を受ける場合がありますよね」
「ああ」
「だから会社法は、一定の債権者に異議を述べる機会を与えています」
私はノートに書きました。
――債権者異議手続。
原則として、法律の定めに従い、官報公告などを行う。
異議を述べることができる債権者には、必要に応じて個別の催告をする。
異議を述べる期間は、一か月を下回ることができない。
「もし債権者が異議を述べたら?」
相馬先輩が尋ねました。
「会社は、原則として弁済するか、相当の担保を提供するか、相当の財産を信託するなどの対応が必要になります」
「なるほどな」
「ただし、その会社分割をしても債権者を害するおそれがない場合などには、例外があります」
私は赤線を引きました。
ここも試験で大事です。
債権者が異議を述べた。
だから必ず会社分割が禁止される。
そういう単純な仕組みではありません。
また、すべての債権者が、どんな会社分割でも一律に異議を述べられるわけではありません。
「例えば、分割後も古い会社に対して全額の履行を請求できる債権者と、そうでない債権者では、扱いが異なる場合があります」
「なるほど」
「誰が異議を述べられるかは、その債権者が分割後に誰へ請求できるかなど、法律上の要件で判断するんです」
相馬先輩は少し考えました。
「じゃあ、黒岩みたいに、支払う気もなく事業だけ移したら?」
「別の保護規定も問題になります」
私は頷きました。
現代の会社法では、残存債権者を害することを知って会社分割を行った場合に、一定の要件のもとで承継会社や新設会社に対する履行請求が認められる仕組みもあります。
もちろん。
誰でも無条件に請求できるわけではありません。
分割の事情。
承継した財産の価額。
債権者の立場。
そうした要件の確認が必要です。
「つまり」
私は言いました。
「会社分割は、債権者を置き去りにするための自由な道具ではないんです」
片桐所長が頷きました。
「会社の都合だけで、他人の権利を消してはいけないということだな」
「はい!」
私は嬉しくなりました。
昭和の商法と、現代の会社法。
制度は違います。
でも。
取引の安全を守る。
債権者を保護する。
その根本的な考え方は、つながっているのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「会社分割の手続って、やたら面倒そうだな」
「そうですね」
「契約だの、株主総会だの、債権者への通知だの」
「はい」
「何か、似たような手続がなかったか?」
私は目を輝かせました。
「あります!」
「何だ?」
「合併です!」
私は新しいページを開きました。
――会社分割の手続は、合併の手続と共通する部分が多い。
「まず、契約や計画を作ります」
「うん」
「それから、法律上必要な書類の備置きや、株主総会での承認などを行います」
「うん」
「さらに、必要な債権者保護手続を行います」
「うん」
「そして、所定の時点で効力が発生します」
相馬先輩が頷きました。
「確かに、合併に似てるな」
「そうなんです!」
私は続けました。
「もちろん、簡易分割や略式分割のように、一定の要件で株主総会の承認を省略できる場合もあります」
「ほう」
「だから、必ずすべての会社で同じ手続をする、というわけではありません」
ここは、試験でひっかけられやすいところです。
原則。
例外。
この区別が大切です。
「先輩」
「何だ」
「合併と会社分割の違い、確認します!」
「また試験か」
「はい!」
私はノートに書きました。
吸収合併。
消滅会社の権利義務を存続会社が承継し、消滅会社は消滅する。
新設合併。
新会社が権利義務を承継し、合併する会社は消滅する。
吸収分割。
既存の会社へ、事業に関する権利義務の全部または一部を承継させる。
新設分割。
新しく設立する会社へ、事業に関する権利義務の全部または一部を承継させる。
「どうですか!」
相馬先輩が少し考えました。
「合併は、会社そのものが消える場合がある」
「はい!」
「分割は、分割した会社が当然に消えるわけじゃない」
「そうです!」
「で、吸収なら既存会社、新設なら新会社」
「完璧です!」
私は拳を握りました。
ついでに。
もう一つ大切な違いがあります。
「会社分割では、新しく設立する会社や承継会社に事業を移す一方、分割会社そのものは存続します。対価の交付や資本関係は、その会社分割の内容によって変わるんです」
「単純に、半分ずつ株主が分かれるわけでもねえんだな」
「はい!」
なるほど。
会社分割という名前だけを見ていると。
会社が二つに割れて、すべてが半分になる。
そんなイメージを持ってしまいます。
でも、実際には違います。
権利義務をどこへ承継させるのか。
誰が対価を受け取るのか。
分割後の会社に、どんな財産と債務が残るのか。
それらを法定の手続に従って定めるのです。
「さて」
片桐所長が静かに言いました。
「ここまで、未来の制度の話ばかりだな」
「……はい」
「では、今の昭和六十三年なら、どうする」
私は背筋を伸ばしました。
「営業譲渡などの方法を使います!」
「そうだ」
「でも、会社分割のように、事業の権利義務が法律上まとめて承継される制度はありません」
所長が頷きました。
昭和六十三年。
会社のルールは、商法第二編や有限会社法などに分かれています。
この時代、会社分割制度はまだありません。
事業を別会社へ移したいなら、営業譲渡などの手法を使う必要があります。
「営業譲渡では、事業を構成する財産や契約について、それぞれの移転を考える必要があります」
「うん」
「債務を引き受けるなら、債権者との関係も問題になります」
「そうだ」
「重要な営業譲渡なら、株主総会の特別決議が必要になる場合もあります」
所長が頷きました。
「それが、昨日の事件だ」
「はい!」
東陽工業。
黒岩社長。
儲かる事業だけを新会社へ移し、借金を古い会社に置いていこうとした。
でも。
営業譲渡は、借金を消す魔法ではありません。
旧会社が負っている債務は、単に営業を譲渡しただけで消滅しない。
さらに、財産の移転や社内手続が適法だったかも確認する必要があります。
「つまり、黒岩社長は」
私は言いました。
「会社を分けたつもりでも、法律上の責任をきちんと整理していなかったんです」
「そうだな」
「それに、営業譲渡をしても、古い会社の債務は残る」
「そういうことだ」
私は頷きました。
そこで、もう一つ疑問が浮かびました。
「所長」
「何だ」
「どうして、後の時代に会社分割制度が作られたんでしょうか?」
片桐所長は少し考えました。
「会社の事業が複雑になれば、組織を組み替える必要も増えるだろうな」
「はい」
「そのたびに、権利義務を一つずつ移していたら大変だ」
「そうです!」
私は大きく頷きました。
時代が進むにつれて。
企業の事業は、大きくなります。
製造業。
小売業。
運送業。
情報通信。
さまざまな事業を一つの会社が持つこともあります。
その中で。
特定の事業を独立させたい。
別の会社と事業を統合したい。
経営を効率化したい。
そんな必要が生じます。
「そこで、事業に関する権利義務を、法定の手続でまとめて承継させる仕組みが必要になったんです」
私はノートに書きました。
会社分割制度。
平成十二年の商法改正で創設。
平成十三年四月一日施行。
その後。
平成十八年施行の会社法に整理される。
「でも、ただ便利にしただけではありません」
私は続けました。
「債権者や株主を守るルールも必要だったんです」
相馬先輩が頷きました。
「便利だからって、取引先を犠牲にしたら意味がねえからな」
「はい!」
そして。
従業員の問題もあります。
会社分割によって事業が移るとき、そこで働いている人の労働契約をどう扱うのか。
これも重要です。
現代では、会社分割に伴う労働契約の承継に関する特別な法律もあります。
「機械は移すけど、人間は知らない」
そんな単純な話ではないのです。
「会社を分けるって、本当に大変ですね……」
私は呟きました。
相馬先輩が笑いました。
「やっと分かったか」
「はい」
「会社ってのは、紙の上だけで動いてるんじゃねえ」
「そうですね」
私は村田さんの顔を思い出しました。
八百四十万円。
六人の従業員。
その家族。
工場の機械の音。
会社を分ける。
その決断の向こうには、必ず人間がいます。
だからこそ。
会社法は、単に会社を便利に動かすためだけの法律ではないのです。
「では、確認問題です!」
私はノートを閉じました。
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「またか」
「最後です!」
「本当だろうな」
「たぶん!」
「信用できねえ」
私は笑いました。
「第一問!」
「はいはい」
「A社が持っている小売事業を、既に存在するB社へ承継させる。これは?」
「吸収分割」
「正解!」
「第二問!」
「まだあるのか」
「A社が、新しく設立するC社へ小売事業を承継させる。これは?」
「新設分割」
「正解!」
「第三問!」
「おい」
「吸収分割で作成するのは?」
「吸収分割契約」
「正解!」
「第四問!」
「終わらねえじゃねえか!」
「新設分割で作成するのは?」
「新設分割計画」
「正解!」
私は満足しました。
でも。
まだ一番大切な問題が残っています。
「第五問!」
「……」
「吸収分割の効力発生日は?」
「契約で決めた日」
「正解!」
「第六問!」
「こはる!」
「新設分割の効力発生日は?」
「新会社が成立した日!」
「完璧です!」
私は大きく拍手しました。
相馬先輩は頭を抱えました。
「お前、絶対楽しんでるだろ」
「もちろんです!」
「俺は疲れたぞ」
「試験に出ますから!」
「俺は受験しねえ!」
私は笑いました。
でも、これで終わりではありません。
最後に。
片桐所長が静かに尋ねました。
「こはる」
「はい」
「会社分割をしたら、借金は全部消えるのか」
「消えません!」
「なぜだ」
「会社分割は、権利義務を承継させる制度であって、債務を自由に消滅させる制度ではないからです!」
所長が頷きました。
「債権者は?」
「法律に定められた保護を受けます!」
「よし」
私は嬉しくなりました。
これで、今日の内容が一本につながりました。
吸収分割。
新設分割。
分割契約。
分割計画。
効力発生日。
債権者保護。
全部、別々の暗記事項に見えます。
でも。
根っこは同じ。
事業を誰に承継させるのか。
いつ承継させるのか。
そして、その結果、不利益を受ける人をどう守るのか。
そこを考えれば、会社分割の仕組みが見えてくるのです。
窓の外は、もう夕暮れでした。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行。
何を書こう。
少し考えました。
そして。
鉛筆を走らせます。
――吸収分割は「既存会社へ・契約で定めた日」、新設分割は「新会社へ・設立登記の日」。借金は勝手に消えない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「一行です!」
「無理やり一行にしてるだけだろ」
「大切なことが全部入ってます!」
相馬先輩は苦笑しました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
私は笑いました。
でも。
この一行を見れば、あの事件を思い出せます。
東陽工業。
東陽精密。
黒岩社長。
そして、八百四十万円を受け取れずに困っていた村田さん。
会社の形を変えることはできます。
事業を別会社へ移すこともできます。
現代なら、会社分割という便利な制度もあります。
でも。
それは、誰かの権利を自由に消してよいという意味ではありません。
法律が守るべきもの。
それは。
会社の看板だけではないのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、会社を分けるのがそんなに好きなのか?」
「好きというか、興味があります!」
「だったら、うちの事務所も分けるか?」
「え?」
「片桐行政書士事務所を二つに分割するんだよ」
私は目を輝かせました。
「いいですね!」
「何がいいんだよ」
「本店と支店ですか?」
「いや」
相馬先輩がにやりとしました。
「仕事をする事務所と、掃除だけする事務所だ」
「……はい?」
「仕事をするのは俺と所長」
「はい」
「掃除だけするのは、お前」
「ちょっと待ってください!」
私は立ち上がりました。
「それ、不公平です!」
「会社分割だろ?」
「そもそも、ここは株式会社じゃありません!」
「そうだな」
「行政書士事務所です!」
「そうだ」
「しかも、昭和六十三年には会社分割制度がありません!」
相馬先輩が笑いました。
「よく分かってるじゃねえか」
「分かってますよ!」
私は腕を組みました。
「それに、仕事と掃除を勝手に分けるなんて、私の意思を無視してます!」
「じゃあ、掃除を引き受ける別の奴を探すか」
「そうしてください!」
「お前の給料から掃除代を払うか?」
「それも嫌です!」
相馬先輩が吹き出しました。
「わがままだな」
「正当な権利の主張です!」
そのとき。
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「こはる」
「はい!」
「会社分割の勉強は終わったか」
「終わりました!」
「なら、机を片付けてくれ」
「……はい」
「相馬も手伝え」
相馬先輩が固まりました。
「……俺もですか?」
「ああ」
所長は淡々と言いました。
「仕事は二人で分けろ」
私は思わず笑いました。
「先輩!」
「何だよ」
「業務分担ですね!」
「うるせえ」
「会社分割じゃありませんけど!」
「分かってるよ!」
私は箒を取りました。
相馬先輩は、しぶしぶ雑巾を手に取ります。
窓の外。
昭和の町に、家々の明かりが灯り始めていました。
あのどこかで。
村田さんの工場も、今日の仕事を終えようとしているのでしょう。
機械の音が止まる。
従業員が作業着を脱ぐ。
そして家へ帰る。
会社の帳簿には、八百四十万円と書かれていた。
でも。
その金額には、六人の従業員の生活がつながっていたのです。
会社を分ける。
その仕組みを知ることは大切です。
でも。
なぜ分けるのか。
何を移すのか。
誰の権利が影響を受けるのか。
そこまで考えなければ、本当の意味で会社法を理解したことにはならない。
私は箒を動かしながら、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――吸収分割は「既存会社へ・契約で定めた日」、新設分割は「新会社へ・設立登記の日」。借金は勝手に消えない。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、知識を定着させていたんです!」
「知識より先に、その床の埃を片付けろ!」
「先輩!」
「何だ!」
「この掃除業務を、新しい会社に承継させたいです!」
「会社を作る金がどこにあるんだよ!」
「資本金一円で!」
「何だその冗談みてえな金額は!」
……。
あ。
そうでした。
昭和六十三年。
資本金一円の株式会社なんて、まだ作れません。
それどころか。
発起人は七人以上。
取締役は三人以上。
監査役も必要。
掃除を逃れるために会社を作るなんて、あまりにも大がかりです。
「……諦めます」
「最初から掃除しろ!」
「はいっ!」
私は笑いながら箒を動かしました。
昭和の商法は、本当に堅苦しい。
現代の会社法は、ずいぶん便利。
でも。
便利になったからこそ、守らなければならないルールもあります。
事業を移すなら、正しい手続で。
会社を新しく作るなら、正しい手続で。
そして。
借金を負っているなら、会社の形を変えただけで責任から逃げられると思わないこと。
会社を分ける技術よりも。
約束を守ることのほうが、ずっと大切なのです。
……とはいえ。
もし本当に、掃除業務だけを別会社へ移せるなら。
私は少しだけ、その会社分割を使ってみたいと思いました。
残念ながら。
そんな都合のいい会社分割は、未来の会社法にも存在しないのでした。
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