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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 組織再編

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681/701

[会社法・会社分割]現場編 「会社を二つに割れば借金も消える」の嘘。昭和には存在しない会社分割と、下請けを切り捨てた社長の誤算

挿絵(By みてみん)

 会社は、二つに分けることができます。


 儲かる事業を右へ。


 儲からない事業を左へ。


 工場も。


 従業員も。


 取引先との契約も。


 事業を切り分け、別の会社に引き継がせる。


 現代の会社法には、そんな仕組みがあります。


 その名も。


 ――会社分割。


 ところが。


 もし悪徳社長が、こう言い出したらどうでしょう。


「儲かる事業だけ新会社に移した。借金は古い会社に残した。だから俺には関係ない!」


 そんな都合のいい話が、許されるのでしょうか。


 しかも。


 ここは昭和六十三年。


 現代の会社法どころか。


 会社分割という制度そのものが、まだ存在しない時代なのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は一枚の通知書を見て、思わず叫びました。


「会社分割だ!」


 相馬先輩が新聞から顔を上げます。


「……何だって?」


「会社分割です!」


「会社を割る?」


「はい!」


「何で割るんだ」


「法律です!」


「法律は斧じゃねえぞ」


 違います。


 そういう話ではありません。


 私は現代の行政書士受験生。


 会社法の勉強も、それなりにやってきました。


 吸収分割。


 新設分割。


 事業に関する権利義務を、別の会社へ承継させる制度です。


 しかも、会社分割の手続には、合併と似た部分が多い。


 株主総会。


 債権者保護。


 効力発生日。


 このあたりは試験でも重要です。


 よし。


 今回こそ現代知識で活躍できる!


 そう思ったのですが。


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「その会社分割という制度は、どこに書いてある」


「会社法です!」


「会社法?」


「はい!」


「そんな法律は、うちの六法には載っていない」


 ……。


 しまった。


 またです。


 また未来の法律を持ち出しました。


「じゃ、じゃあ商法第二編で……」


「何条だ」


「ええと……」


 私は六法を開きました。


 ページをめくります。


 めくります。


 めくります。


 ありません。


 吸収分割。


 ありません。


 新設分割。


 ありません。


「……あれ?」


 相馬先輩が笑いました。


「見つかったか?」


「いえ……」


「そりゃそうだ」


「どうしてですか!」


「今の商法に、そんな制度はねえからだ」


「ええええっ!」


 私は六法を抱えました。


 会社法がないことは知っていました。


 でも。


 会社分割までないなんて!


 現代では普通に使われる組織再編の方法が、昭和には存在しない。


 これが、今回の事件の最大の壁になるとは。


 そのときの私は、まだ知りませんでした。


「うちの会社が、なくなったことにされたんです」


 午前九時。


 事務所を訪れた男性は、そう言いました。


 名前は、村田修一さん。


 四十八歳。


 町工場を経営しています。


 有限会社村田精密。


 従業員六人。


 自動車部品の金属加工を請け負う、小さな会社でした。


「なくなった?」


 私が尋ねると、村田さんは首を振りました。


「正確には、取引先の工場が別会社になったそうで……」


 机に置かれたのは、一通の通知書。


 差出人は、東陽工業株式会社。


 この町では、それなりに名の知られた部品メーカーです。


 私は読みました。


 ――当社は経営合理化の一環として、精密加工部門を東陽精密株式会社へ分離独立させました。


 ――同部門に関する設備、従業員、取引関係は、新会社へ移行しております。


 ――なお、旧会社において発生した債務につきましては、新会社では一切責任を負いません。


 ……。


「これ、どういうことですか?」


 村田さんは震える声で言いました。


「東陽工業から、八百四十万円の加工代金をもらっていないんです」


「八百四十万円!」


 私は目を見開きました。


 小さな町工場にとって、相当な金額です。


「三か月前から支払いが遅れていました。でも、社長が必ず払うと言っていたので……」


「それが突然、新会社になった?」


「はい」


 村田さんは唇を噛みました。


「加工機械も、従業員も、注文先も、全部そのままなんです。工場の看板だけ東陽精密に変わっていて」


「同じ工場で仕事をしているんですか?」


「そうです」


「でも、お金は払わない?」


「新しい会社には借金がないと言われました」


 私は通知書を見つめました。


 なるほど。


 儲かる事業だけを移す。


 古い会社には借金を残す。


 典型的な、債権者を置き去りにするような事業再編です。


「村田さん」


「はい」


「東陽工業は、まだ存在しているんですよね?」


「ええ。ただ、残ったのは古い事務所と、使わなくなった設備くらいだそうです」


「社長は?」


「新会社でも社長をしています」


 ……。


 同じ人間。


 同じ工場。


 同じ機械。


 同じ仕事。


 それなのに。


 借金だけは別。


 私は思わず拳を握りました。


「そんなの、ずるいです!」


 相馬先輩が横から言いました。


「ずるいだけじゃ話にならねえ。何の書類を使って事業を移したかだ」


「あ……」


「会社の看板を変えたのか。営業を譲渡したのか。新会社を作って財産を移したのか。それで話が変わる」


 確かに。


 現実に何をしたのか。


 そこを確かめなければなりません。


「村田さん」


 片桐所長が尋ねました。


「この通知書のほかに、何か受け取っていますか」


「これを……」


 差し出されたのは、新会社の名刺。


 東陽精密株式会社。


 代表取締役。


 黒岩剛三。


 私は名前を読みました。


「黒岩剛三……」


「東陽工業の社長と同じです」


 村田さんが言いました。


「私が代金を払ってほしいと電話したら、本人がこう言ったんです」


 村田さんの顔が歪みました。


「古い会社の借金は、古い会社に言え。新会社に請求するな、って」


「……ひどい」


「でも、同じ社長なんです。昨日までうちに仕事を頼んでいた人が、今日は別会社だから関係ないって……」


 村田さんの手が震えていました。


「このままでは、従業員の給料が払えません」


 私は息を呑みました。


 八百四十万円。


 単なる数字ではありません。


 六人の従業員。


 その家族。


 町工場の明日。


 その全部が、あの通知書一枚に押し潰されようとしていました。


「所長!」


 私は立ち上がりました。


「これ、会社分割でしょ!」


 片桐所長は黙っています。


「吸収分割なら、既存の会社に事業の権利義務を承継させる!」


「……」


「新設分割なら、新しく設立する会社に承継させる!」


「……」


「だから、まず分割契約や分割計画、それから債権者保護手続を確認すれば――」


「こはる」


「はい!」


「今は昭和六十三年だ」


「……あ」


 そうでした。


 また忘れました。


 相馬先輩が、机の上の六法を指で叩きました。


「お前の言う会社分割ってのは、今の商法にはねえ」


「はい……」


「この時代、事業を別会社へ移したいなら、営業譲渡や現物出資なんかを使うことになる」


「営業譲渡……」


「そうだ」


 先輩は通知書を指差しました。


「会社が二つに分かれたように見えても、法律上、勝手に権利義務が全部移るわけじゃねえ」


 私は息を止めました。


 あ。


 そうか。


 現代の会社分割では、法定の手続を経ることで、対象となる権利義務を包括的に承継させることができます。


 でも。


 昭和六十三年には、その制度がない。


 営業譲渡によって事業を移したのなら、個々の財産や契約について、必要な移転手続を考えなければならない。


 そして。


 借金を別会社へ引き受けさせるにも、債権者との関係を無視できません。


「……所長」


「何だ」


「もしかして、あの通知書だけでは、何が移ったのか分からないんじゃ……」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「工場の機械と従業員が移っていても、八百四十万円の借金がどうなったかは別問題……」


「うん」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと分かったか」


「はい!」


 私は通知書を握りました。


「だったら、まず営業譲渡の書類を調べましょう!」


 片桐所長は短く言いました。


「事実を集めろ」


 こうして。


 昭和の商法による、会社の看板を使った借金逃れへの反撃が始まったのです。


 翌日。


 村田さんは、東陽工業との取引書類を事務所へ持ってきました。


 発注書。


 納品書。


 請求書。


 受領印。


 そして。


 黒岩社長が署名した支払予定確認書。


 私は一枚ずつ並べました。


「発注者は全部、東陽工業株式会社……」


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「納品先も?」


「東陽工業の精密加工工場です」


「支払いを約束したのは?」


「東陽工業株式会社、代表取締役黒岩剛三」


「よし」


 先輩は確認書を取り上げました。


「こいつは使える」


「どうしてですか?」


「社長本人が、会社の債務を認めているからだ」


 私は頷きました。


 もちろん。


 会社の債務を認めたからといって、社長個人が直ちに支払義務を負うわけではありません。


 でも。


 東陽工業に八百四十万円の支払義務が存在することを裏付ける、重要な証拠になります。


「次は、新会社です」


 私はメモをめくりました。


 相馬先輩が、調査で確認した事項を書き出していました。


 東陽精密株式会社。


 設立は一か月前。


 取締役三名。


 監査役一名。


 代表取締役黒岩剛三。


「……三名と一名」


 私は呟きました。


「何だ」


「現代なら、取締役一人の株式会社も作れるのに……」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「何を言ってる。株式会社なら取締役は三名以上だ。監査役も必要だろ」


「ですよね!」


「お前、また変なこと考えてたな?」


「気のせいです!」


 ちなみに。


 昭和六十三年の株式会社設立では、発起人も七人以上必要です。


 現代のように、一人で気軽に株式会社を設立することはできません。


 この時代の会社設立。


 本当に大変です。


 そして。


「先輩。この新会社の取締役、東陽工業と同じ人が二人います」


「そうだな」


「監査役は……黒岩社長の義弟?」


「ああ」


「発起人も、身内や従業員の名前が並んでいますね」


「頭数を揃えたんだろうな」


 なるほど。


 古い制度が厳格だったからこそ。


 形式を整えるために、身内の名前を使うこともある。


 ただし。


 名前を揃えれば、何をしてもよいわけではありません。


「所長」


 私は顔を上げました。


「この会社、表面上は別会社です」


「そうだ」


「でも、同じ社長が支配している」


「うん」


「それだけで借金を新会社に請求できるわけじゃありませんけど……」


 所長が頷きました。


「続きを言え」


「事業移転が、債権者を害するために行われたのなら、調べる必要があります」


「そうだ」


 さらに、私は一枚の取締役会議事録の写しに目を留めました。


 村田さんが別の取引先を通じて入手した、社長の説明資料に添付されていたものです。


 そこには、こう書かれていました。


 ――精密加工部門の営業一式を、新会社へ譲渡する。


 ――譲渡対象には設備、在庫、営業上の取引関係を含む。


 そして。


 私は最後の一行で手を止めました。


 ――旧会社の買掛金その他の債務は、新会社に承継させない。


「……これ」


 相馬先輩が覗き込みました。


「どうした」


「借金だけ置いていくって、最初から決めてます」


「ああ」


「しかも、工場や設備は移すのに……」


 片桐所長が議事録を受け取りました。


 しばらく読みます。


 そして。


「株主総会の記録はあるか」


 そう尋ねました。


「まだありません」


「取ってこい」


「はい!」


「重要な営業の譲渡なら、取締役会だけで終わる話ではない」


 私は頷きました。


 昭和の商法でも、会社にとって重要な営業を譲渡する場合には、株主総会の特別決議が必要となる場面があります。


 つまり。


 社長が勝手に、


「この工場は今日から別会社だ!」


 と言っただけでは、済まないのです。


 三日後。


 東陽工業の古い本社前。


 私は相馬先輩と立っていました。


 事前に取材への了承を得た、経営者の話を聞くためです。


 ただし、私たちは村田さんの代理人として、代金の支払交渉をするわけではありません。


 会社がどのような手続で事業を移したのか。


 公開可能な資料や、相手が任意に説明する事実を確認するためです。


 応接室へ案内されると。


 大きな革張りの椅子に、男が座っていました。


 五十代後半。


 太い金の腕時計。


 灰色の背広。


 東陽工業と東陽精密、両社の社長。


 黒岩剛三です。


「行政書士?」


 黒岩は私たちを見て笑いました。


「何だ。村田の親父、弁護士も雇えねえのか」


 ……。


 出ました。


 行政書士を舐める社長。


「新会社への営業移転について、事実関係を確認させてください」


 相馬先輩が言いました。


「確認?」


「はい」


「会社の経営は、社長の俺が決めるんだよ」


 黒岩は煙草に火をつけました。


「儲からねえ会社を整理して、儲かる事業を別会社にする。何が悪い」


「事業再編そのものが悪いとは言っていません」


「だったら問題ねえだろ」


 黒岩は笑いました。


「古い会社には借金がある。新会社にはない。それだけだ」


 私は唇を噛みました。


 でも。


 ここで感情的になってはいけません。


 相馬先輩が尋ねました。


「東陽工業の精密加工部門は、営業譲渡で移されたということですね」


「ああ」


「譲渡の対価は?」


「会社同士で決めた」


「株主総会での承認は?」


 黒岩の目が細くなりました。


「……何だって?」


「営業譲渡について、必要な株主総会の決議が行われたか、という確認です」


「取締役会で決めた」


「株主総会は?」


「必要なのか?」


 ……。


 私は思わず顔を上げました。


 相馬先輩は何も言いません。


 ただ、手帳に書き込みます。


 黒岩は不機嫌そうに煙草を揉み消しました。


「うちは俺が作った会社だ。株主なんか身内ばっかりだぞ」


「それでも、商法に定められた手続は別です」


「細けえことを」


 黒岩は机を叩きました。


「お前らには分からねえんだよ。経営ってのはな、決断なんだ!」


 ……。


 私は考えました。


 確かに。


 会社の経営には決断が必要です。


 赤字部門を整理することもある。


 事業を売却することもある。


 新会社を設立することもある。


 それ自体は、違法ではありません。


 でも。


 取引先を犠牲にしてよいという話にはならない。


「黒岩社長」


 私は口を開きました。


「村田精密さんの加工代金について、東陽工業に支払義務があることは認めていますか」


 黒岩が笑いました。


「さあな。経理に聞け」


「社長の署名がある確認書があります」


「昔の話だ」


「まだ支払われていません」


「だから?」


 黒岩は私を睨みました。


「文句があるなら古い会社に言えってんだ!」


 そのとき。


「こはる」


 相馬先輩が低い声で呼びました。


「はい」


「もういい」


「でも……!」


「必要な確認はできた」


 先輩は黒岩を見ました。


「本日はありがとうございました」


「二度と来るなよ」


 黒岩は勝ち誇ったように笑いました。


「会社ってのはな、法律を知らねえ奴が損するようにできてるんだよ」


 私は何も言い返しませんでした。


 でも。


 心の中で呟きました。


 それ。


 あなたにも当てはまるんじゃないでしょうか。


 事務所へ戻る途中。


 私は相馬先輩に尋ねました。


「先輩!」


「何だ」


「新会社に借金を移さなかったら、村田さんは泣き寝入りするしかないんですか?」


「そんな単純な話じゃねえ」


「でも、別会社なんですよね?」


「ああ」


「社長が同じでも、会社は別の法人……」


「そうだ」


 相馬先輩は立ち止まりました。


「だから、まず債務者は誰かを確定する」


「東陽工業です」


「そうだ。事業を移したからって、東陽工業が元の借金から勝手に解放されるわけじゃねえ」


「あ!」


 私は顔を上げました。


 そうです。


 ここが重要です。


 営業を譲渡したからといって、譲渡会社の債務が自動的に消えるわけではありません。


 それに。


 債務を引き受ける取り決めがあるのか。


 債権者との関係で、誰が責任を負うのか。


 さらに、譲渡先が従前の商号を続用する場合などには、旧商法上、営業譲受人の責任が問題となることもあります。


 今回は新会社の商号が異なるので、それだけで責任が生じるとはいえません。


 けれど。


「まだ調べることがある……」


「そういうことだ」


「しかも、会社に必要な財産をほとんど移してしまったなら……」


「その移転がどう行われたかも問題になる」


 私は頷きました。


 債権者を害するために財産を移したのであれば、民法上の詐害行為取消しなどの検討も必要になります。


 もちろん。


 成立するかどうかは、譲渡の対価や当事者の認識など、具体的な事情次第です。


 そして。


 訴訟による責任追及が必要になるなら、弁護士の仕事です。


 私たちは、そのための証拠を整理できます。


「先輩」


「何だ」


「現代の会社分割って、すごい制度なんですね」


「また妙なこと言い始めたな」


「だって、今の営業譲渡だと、財産も契約も、個別に移転の問題が出てくるんですよね」


「そうだな」


「でも、現代の会社分割なら、決められた事業の権利義務を、法律上の手続でまとめて承継させられるんです」


「そんな便利な制度があるなら、手続を間違えたら大変だろうな」


「そうなんです!」


 私は思わず頷きました。


 吸収分割なら、既に存在する会社に事業の権利義務を承継させる。


 新設分割なら、新しく設立される会社に承継させる。


 そして現代では。


 吸収分割は、原則として分割契約で定めた効力発生日。


 新設分割は、新会社の成立の日、つまり設立登記の日に効力が発生する。


 ただし、債権者や株主の保護など、必要な手続を守らなければなりません。


 便利だからこそ。


 事業を移される側。


 残される側。


 その両方を守る仕組みが必要なのです。


「こはる」


「はい」


「未来の会社の話をしてる暇があったら、今の商法を調べろ」


「……はい!」


 相馬先輩。


 正論が痛いです。


 その日の夕方。


 事務所には、厚い書類の束が積まれていました。


 東陽工業の定款。


 確認できた取締役会議事録。


 新会社の登記事項。


 設備移転に関する資料。


 村田精密の請求書。


 そして、支払予定確認書。


 片桐所長は、一つずつ確認していました。


「相馬」


「はい」


「株主総会の議事録は?」


「黒岩からは出ていません。登記やその他の資料も含めて調査中です」


「そうか」


「株主の一人が、営業譲渡について総会が開かれた記憶はないと話しているそうです。ただ、正式な確認はまだです」


 所長が頷きます。


「決議がないと断定するな」


「はい」


「ただし、重要な営業譲渡なら、その承認手続を確かめる必要がある」


 私はノートに書きました。


 ――必要な手続があること。


 ――その手続が行われた事実。


 この二つは別。


 議事録を確認できないだけで、決議が存在しなかったと決めつけることはできません。


「所長」


「何だ」


「黒岩社長って、かなり危ないことをしてませんか?」


「何がだ」


「会社の主要な事業を移して、支払いに使えそうな財産を残していないんです」


「その可能性がある」


「それに、株主総会の手続も怪しい」


「確認が必要だ」


「社長個人の責任も問題になりませんか?」


 所長は私を見ました。


「どういう責任だ」


「会社の財産を、不当に安く新会社へ移していたら……」


「うん」


「旧会社に損害を与える行為ですよね」


「そうだ」


 私は続けました。


「取締役の善管注意義務や忠実義務に違反する可能性があります」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな。ただ、安いかどうかも、対価が支払われたかどうかも、まだ調査が要る」


「はい」


「それに、社長個人の責任が生じるかは、法律上の要件と事実関係による」


「そうですね」


 片桐所長が静かに言いました。


「会社を別にしただけで、社長個人に借金を払わせられるわけではない」


「はい」


「だが、取締役として違法な行為をしたなら、会社に対する責任や、要件を満たす場合の第三者に対する損害賠償責任が問題となる」


 私は頷きました。


 ここが大切です。


 株式会社は、社長の財布ではありません。


 会社の財産を好き勝手に動かしてよいわけではない。


 そして。


 法人格が別だからといって、取締役自身の違法行為まで帳消しになるわけでもないのです。


「でも所長」


「何だ」


「今回は、社長を訴えるんですか?」


「それは弁護士と相談して判断することになる」


「じゃあ、私たちは?」


「書面を作る」


 所長は、村田さんの請求書を机の中央に置きました。


「まず、確実な債務からだ」


 私は背筋を伸ばしました。


 来ました。


 片桐事務所の武器。


 内容証明郵便です。


 翌朝。


 私は、村田さん本人の名義で発送する内容証明の原案を書きました。


 宛先。


 東陽工業株式会社。


 代表取締役黒岩剛三。


 差出人。


 有限会社村田精密。


 代表取締役村田修一。


 私は読み上げました。


「第一。通知人は、貴社から発注を受けた精密加工業務を履行し、その代金合計八百四十万円の支払請求権を有する」


「うん」


「第二。貴社代表取締役は、右未払代金について支払予定を記載した書面に署名しており、その支払義務を確認している」


「うん」


「第三。貴社は精密加工部門を東陽精密株式会社へ譲渡した旨を通知しているが、営業譲渡の事実のみをもって、貴社が既に負担する債務から当然に免責されるものではない」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。通知人は、右営業譲渡について、対象財産、譲渡対価、債務の取扱い及び必要な社内承認手続の有無を確認する必要があると考えている」


「よし」


「第五。本通知は、東陽精密株式会社が当然に右債務を負担すると断定するものではないが、営業移転の実態及び関係書類の内容によっては、別途法的責任の検討を要する」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。ついては、貴社に対し、未払加工代金八百四十万円の支払を請求し、本通知到達後七日以内に、支払について書面による回答を求める」


 読み終わると。


 相馬先輩が言いました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、まだ足りねえ」


「ええっ!」


「証拠を整理した別紙だ」


 先輩が、納品書を机に置きました。


「発注日、納品日、請求日、支払期日。全部照合しろ」


「はい!」


「数字が一円でも違えば、相手はそこを突いてくる」


「分かりました!」


 私は書類を並べ直しました。


 さらに、所長から指示がありました。


「会社の営業譲渡についての資料も、事実確認用に整理しておけ」


「はい」


「ただし、今の段階で『譲渡は無効だ』と決めつけるな」


「はい」


「株主総会の決議が必要か、実際に決議があったか、譲渡されたものは何か。確認すべき点を分けろ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 強い書面とは。


 強い言葉を使った書面ではありません。


 証拠のあることを、正確に書いた書面。


 そして。


 分からないことを、分かったふりで書かない書面です。


「それと、こはる」


 所長が言いました。


「はい」


「村田さんに、弁護士へ相談するよう伝えておけ」


「訴訟ですか?」


「必要になるかもしれん」


 所長は静かに続けました。


「財産の移転を争う場合や、取締役個人の責任を追及する場合は、裁判手続が問題になる」


「はい」


「俺たちは、その訴訟を代理する立場じゃない。書類と事実を揃え、依頼人が適切な専門家に相談できるようにする」


 私は頷きました。


 行政書士は、万能ではありません。


 でも。


 事実を整理する。


 証拠を残す。


 本人の意思を、法的な通知書にする。


 それは、確かにできる仕事です。


 三時間後。


 内容証明郵便の原案が完成しました。


 私は、机に置かれた書面を見つめました。


 罵倒する言葉はありません。


 脅迫する言葉もありません。


 あるのは。


 八百四十万円。


 発注書。


 納品書。


 支払予定確認書。


 そして。


 営業譲渡をしても、旧会社の債務が当然に消えるわけではないという、法律上の事実。


「所長」


「何だ」


「怖いですね」


「何がだ」


「逃げようとしても、元の借金は残っているって……」


 所長は短く言いました。


「借金は、会社の看板に付いているわけじゃない」


「はい」


「誰が何を約束し、誰が何を負っているか。それを見ろ」


 私は頷きました。


 その言葉が、胸に残りました。


 内容証明郵便が発送されてから三日後。


 黒岩社長から村田さんへ連絡が入りました。


 村田さんが、その内容を事務所に報告しに来たのです。


「社長、慌てていました」


「何と言っていました?」


「弁護士に相談したそうです」


 私は顔を上げました。


「それで?」


「古い会社の債務は、営業譲渡しただけでは消えないと説明されたそうです」


 相馬先輩が頷きました。


「当然だな」


 村田さんは続けました。


「それに、営業譲渡の手続も調べ直しているそうで……」


「株主総会ですか?」


「ええ。必要な承認がきちんと取られていたのか、確認することになったそうです」


 私は息を呑みました。


 でも。


 驚きはそれだけではありませんでした。


「新会社に移した機械のことで、銀行からも説明を求められているそうです」


「銀行?」


 村田さんが頷きました。


「東陽工業の借入金について、担保になっている設備もあったみたいで……」


 あ。


 私は理解しました。


 事業を別会社へ移す。


 それは、単に会社の看板を変える話ではありません。


 設備に担保権が付いていれば、その関係も確認が必要。


 取引契約を移すなら、契約相手との関係も問題になる。


 従業員を移すなら、雇用契約も考えなければならない。


 そして。


 会社の財産を不適切に移せば、取締役の責任が問題になる可能性もある。


「つまり……」


 私は呟きました。


「社長は、借金を置いていけば全部終わると思っていたんですね」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「事業ってのは、機械と看板だけでできてるわけじゃねえからな」


 なるほど。


 現代の会社分割が、なぜ大きな意味を持つ制度なのか。


 少しだけ、分かった気がしました。


 さらに一週間後。


 村田さんが、再び事務所へ来ました。


 今度は。


 笑顔でした。


「支払いの話が、まとまりそうです」


「本当ですか!」


「はい。黒岩社長から、未払代金を支払うという書面が届きました」


 村田さんは一枚の書類を差し出しました。


 そこには。


 ――東陽工業株式会社は、有限会社村田精密に対する未払加工代金八百四十万円の支払義務があることを確認する。


 と書かれていました。


 さらに。


 具体的な支払期日。


 支払方法。


 会社の代表者名。


 署名押印。


「弁護士にも見てもらいました」


 村田さんが言いました。


「向こうの会社に支払える資金があるかも含めて確認してもらっています」


 片桐所長が頷きました。


「それが大事です」


 相馬先輩も言いました。


「支払うって紙を出しただけじゃ、まだ終わりじゃねえからな」


「はい」


 村田さんは深く頭を下げました。


「でも、最初は完全に諦めていたんです」


 その声が少し震えていました。


「会社が別になったと言われたら、もう何もできないと思って……」


 私は首を振りました。


「そんなことありません」


「え?」


「会社を作り直したからといって、前の約束が全部消えるわけじゃないんです」


 村田さんは、ゆっくり頷きました。


「そうですね」


 そして。


 小さく笑いました。


「うちの工場、まだ続けられそうです」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は胸が熱くなりました。


 八百四十万円。


 それは、売上帳簿に記された数字です。


 でも。


 その向こうには、六人の従業員がいます。


 油の染み込んだ作業着。


 毎朝の機械の音。


 納期に追われる日々。


 そして。


 家へ帰れば待っている、家族。


 会社を守るとは。


 そういう人たちの生活を守ることでもあるのです。


 数日後。


 東陽工業から、約束の八百四十万円が振り込まれたという連絡がありました。


 私は思わず立ち上がりました。


「所長!」


「何だ」


「全額、入金されたそうです!」


「そうか」


「よかった……!」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと一段落だな」


「はい!」


 その後、村田さんから聞いた話では、黒岩社長は新会社への営業移転について、改めて専門家と手続を確認することになったそうです。


 株主総会の承認の要否。


 譲渡財産の内容。


 銀行との関係。


 そして、旧会社に残された債務の処理。


 どれも。


「社長が決めたから」


 という一言では、終わらない問題でした。


「先輩」


「何だ」


「黒岩社長、最後はちゃんと法律を調べたんですね」


「調べざるを得なくなったんだろ」


「どうしてですか?」


「会社の金を、自分の財布みたいに考えてたからだ」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「いいか、こはる」


「はい」


「会社ってのは、社長が一番偉いんじゃねえ」


「はい」


「ルールを守った奴が勝つんだよ」


 私は笑いました。


 先輩。


 その台詞、格好いいです。


 たぶん本人には言いませんけど。


 夕方。


 私は机の上に、新しいノートを開きました。


 商法・会社法。


 今回のテーマ。


 会社分割。


 吸収分割。


 新設分割。


 でも。


 昭和六十三年には、まだその制度がありません。


 私は少し不思議な気持ちになりました。


 現代では当たり前の仕組み。


 事業の権利義務を、別会社へ包括的に承継させる。


 それができるようになるのは、もっと後のことです。


 平成十二年の商法改正によって会社分割制度が創設され、平成十三年四月から施行される。


 さらに。


 平成十八年施行の会社法では、組織再編の制度として整理される。


 吸収分割。


 新設分割。


 現代の行政書士試験で学ぶ言葉です。


 でも。


 この時代の人たちは、まだ知りません。


 未来では、事業をまとめて承継させる制度が作られることを。


 会社を再編する方法が、大きく変わっていくことを。


 そして。


 その便利な制度にも、債権者や株主を守るためのルールが必要になることを。


「こはる」


 相馬先輩が声をかけました。


「はい?」


「何を考えてる」


「会社を二つに分けることです」


「まだ言ってるのか」


「だって、すごいじゃないですか!」


「何がだ」


「会社って、人間じゃないのに、分けたり、くっつけたりできるんですよ!」


「……お前、会社を何だと思ってるんだ」


「法人です!」


「それは知ってる」


 私は笑いました。


「でも、今日分かりました」


「何がだ」


「会社を分けるって、建物を半分に切るような話じゃないんですね」


 相馬先輩が黙ってこちらを見ました。


「機械も、契約も、従業員も、借金も」


「うん」


「全部、誰かの権利や義務とつながっている」


「そうだ」


「だから、事業だけを切り離すつもりでも、簡単にはいかないんです」


 先輩が頷きました。


「そのとおりだ」


 私は少し得意になりました。


「それに、現代の会社分割だって、借金を自由に消せる魔法じゃありません!」


「未来の話は知らねえが、そりゃそうだろうな」


「はい!」


 私はノートの端に書きました。


 ――会社を分けても、責任が勝手に消えるわけではない。


 うん。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、さっきから吸収分割だの新設分割だの言ってるな」


「はい!」


「何が違うんだ?」


 私は目を輝かせました。


 来ました。


 説明の機会です!


「吸収分割は、既にある会社に事業の権利義務を承継させるものです!」


「ほう」


「新設分割は、新しく作る会社に承継させるものです!」


「なるほどな」


「しかも!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「効力が発生する日にも違いがあるんです!」


「……何?」


「吸収分割は、原則として契約で定めた効力発生日!」


「うん?」


「新設分割は、新会社が成立する日! つまり設立登記の日です!」


「……」


 相馬先輩は黙りました。


 そして。


 机の上の六法を、私の前に置きました。


「こはる」


「はい!」


「それ、何条だ」


「会社法七百五十九条と七百六十四条です!」


「……」


 沈黙。


 あ。


 しまった。


 またです。


 相馬先輩が、ゆっくり言いました。


「お前」


「はい……」


「今は何年だ?」


「昭和六十三年です……」


「会社法って法律は?」


「まだありません……」


「会社分割制度は?」


「まだありません……」


 先輩は大きく息を吐きました。


「じゃあ、何で今の事件に未来の条文を持ってくるんだ!」


「勉強になると思って!」


「今の商法を勉強しろ!」


「はいっ!」


 私は慌てて六法を閉じました。


 でも。


 少しだけ、笑ってしまいました。


 昭和の人に、現代の会社分割を説明する。


 そんなことは、もちろんできません。


 でも。


 昭和の営業譲渡の不便さを知ったからこそ。


 現代の会社分割が、どうして生まれたのか。


 その理由が分かるのです。


 そして、もう一つ。


 どれほど制度が便利になっても。


 守るべきものは変わらない。


 債権者。


 株主。


 従業員。


 取引先。


 その人たちの権利を、会社の都合だけで消してはいけない。


 その原則は、昭和でも令和でも同じなのです。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 男性の声。


『会社を二つに分けたいんですが……』


 私は固まりました。


 ……。


 また?


『今ある会社から、新しい会社へ事業を移したいんです』


 私は受話器を握り直しました。


「新しい会社ですか?」


『はい。工場だけを独立させたくて』


「なるほど!」


『それで、従業員も機械も全部まとめて移そうと思うんですが……』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見ました。


『何か、簡単な方法はありませんかね?』


 ……。


 あります。


 未来には。


 ものすごく便利な制度があります。


 新設分割。


 会社を新しく作り、その会社に事業の権利義務を承継させる制度。


 でも。


 昭和六十三年にはありません。


「先輩」


「何だ」


「新設分割が欲しいです」


「何だそれ」


「ものすごく欲しいです」


「だから何なんだよ!」


 私は泣きそうになりました。


 現代の受験生としては、もう答えを知っているんです。


 でも。


 その答えが使えない。


 これが昭和転生の厳しいところ。


 私は受話器に向き直りました。


「まず、現在の会社の形態と、移したい事業の内容を詳しく教えてください」


『はい』


「それから、設備や契約、借入金、従業員の方の状況も確認させてください」


『そんなに必要なんですか?』


「はい」


 私は微笑みました。


「会社を分けるというのは、単に看板を二つにすることではありませんから」


 受話器の向こうで、男性が息を呑む気配がしました。


 私は続けました。


「今の商法で、どんな方法が使えるか。一つずつ整理しましょう」


 相馬先輩が、少しだけ笑いました。


 片桐所長は、黙って新しい相談票を差し出しました。


 昭和六十三年。


 会社法は、まだありません。


 会社分割という便利な制度も、まだありません。


 けれど。


 会社の財産を守る商法はある。


 約束を守らせる民法もある。


 そして。


 誰かの都合で、一方的に切り捨てられてはいけない権利がある。


 私は相談票に、最初の一行を書き込みました。


 ――新会社設立に伴う営業移転の相談。


 よし。


 今度こそ。


 未来の条文に頼らず、昭和の法律で考えます。


 ……たぶん。


「こはる!」


「はい!」


「今、また会社分割のこと考えてただろ!」


「どうして分かるんですか!」


「顔に書いてある!」


「そんな!」


 相馬先輩が笑いました。


「いいか。会社は社長の思いつきで切ったり貼ったりできる紙じゃねえんだ」


「はい!」


「そこにいる人間も、取引先も、全部つながってんだよ」


 私は頷きました。


 そのとおりです。


 会社を二つに分けることはできても。


 長年の信頼まで、都合よく切り捨てることはできない。


 そして。


 会社を新しく作ったからといって。


 昨日までの約束が、魔法のように消えるわけでもない。


 だって。


 法律が守ろうとしているのは、会社の看板ではありません。


 その看板の下で働き、取引し、生活している人たちなのです。


 私は、机の上の請求書をもう一度見ました。


 八百四十万円。


 その数字の向こうにある、六人の従業員の笑顔。


 それを守れたことが、今日の一番の収穫でした。


 会社は分けられても。


 人の生活まで、切り捨ててよいわけではない。


 昭和の商法は、今日もまた。


 そのことを、私に教えてくれたのでした。

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