[会社法・合併]現場編 「会社を消せば借金も消える」の嘘。下請けを切り捨てる悪徳社長と、合併契約書に隠された逃げられない責任
会社が消えたら、借金も消える。
もし、それが本当なら。
世の中の悪い社長は、みんな会社を消してしまうでしょう。
代金を踏み倒して。
借金を置き去りにして。
真面目に働いた人だけを泣かせて。
そして、新しい会社で何食わぬ顔をして商売を続ける。
……そんなことが許されたら、たまりません。
でも。
世の中には、それができると本気で信じている社長がいるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一枚の通知書を見て、思わず叫びました。
「会社がなくなるから払わないって、どういう理屈ですか!」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「朝からうるせえな」
「だって先輩!」
「何だ」
「会社を合併させたら、借金を踏み倒せると思ってる人がいるんですよ!」
先輩は煙草をくわえました。
「ほう」
そして。
にやりと笑いました。
「そいつは、商法を知らねえ社長だな」
その笑顔を見て。
私は確信しました。
……あ。
今日も誰かが、六法全書に殴られる日なんですね。
◇
「三百八十万円、払ってもらえないんです」
事務所の相談席。
作業服姿の男性が、両手を膝に置いていました。
名前は、山岸修一さん。
四十八歳。
町外れで小さな金属加工工場を営んでいます。
従業員は六人。
旋盤と溶接機を使って、工場設備の部品を製作する仕事です。
「三百八十万円……」
私は思わず息を呑みました。
昭和六十三年。
小さな町工場にとって、決して軽い金額ではありません。
「どちらの会社からですか?」
「東海機械株式会社です」
東海機械。
地元では有名な機械販売会社でした。
社長は黒田剛三。
五十六歳。
強引な商売で知られるワンマン経営者です。
「うちは十年以上、あそこに部品を納めてきました」
山岸さんが言いました。
「ところが、今年になって支払いが遅れ始めまして……」
「契約書や納品書はありますか?」
「全部あります」
山岸さんは鞄から書類を取り出しました。
発注書。
納品書。
請求書。
検収印のある受領書。
私は一枚ずつ確認しました。
なるほど。
納品した事実は、かなり明確です。
「それで、支払期日を過ぎても入金がないんですね」
「はい。何度も催促しました。でも社長は、もうすぐ大きな仕事が入るから待ってくれと……」
山岸さんの声が震えました。
「うちだって、材料費を払わないといけません。従業員の給料もあります」
「そうですよね……」
「それなのに、昨日、こんな通知が届いたんです」
差し出されたのは、会社名入りの封筒でした。
私は中の紙を開きました。
そこには。
――東海機械株式会社は、昭和六十三年十一月一日をもって、中央産業株式会社との合併により消滅する予定です。
ふむ。
合併。
ここまでは分かります。
問題は次でした。
――これに伴い、旧東海機械株式会社に対する未払代金その他の請求については、当社消滅により対応いたしかねます。
……。
え?
私は二度読みました。
そして三度読みました。
「……は?」
思わず声が出ました。
「会社が消滅するから、請求には対応しない?」
「そう書いてあります」
「いやいやいや!」
私は紙を持ち上げました。
「それ、合併の意味を間違えてませんか!?」
山岸さんが驚いた顔をしました。
「間違い……ですか?」
「はい!」
私は立ち上がりました。
「合併したら、会社の権利も義務も引き継がれるんです!」
そうです。
行政書士試験で勉強したばかりの知識。
会社法。
合併。
吸収合併。
新設合併。
私は覚えています。
吸収合併なら、存続する会社が消滅会社の権利義務を承継する。
新設合併なら、新しく設立される会社が、消滅する各会社の権利義務を承継する。
つまり。
「合併は、借金を捨てるための制度じゃありません!」
私は言い切りました。
山岸さんの目に、少しだけ希望が宿りました。
「じゃあ、三百八十万円は……」
「消えません!」
「本当ですか!」
「はい! 会社法七百五十条では――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「何法だ?」
「会社法です!」
「……会社法?」
先輩の目が細くなりました。
あ。
しまった。
またです。
またやりました。
昭和六十三年。
まだ、独立した会社法という法律は存在しません。
会社に関する規定は、商法第二編などに置かれています。
「お前、昨日も妙な法律を口走ってただろ」
「あ、あはは……」
「会社法七百五十条なんて、どこの本に載ってるんだ?」
「未来の……いえ、頭の中の参考書に……」
「寝ぼけてんのか」
私は慌てて六法を開きました。
商法。
第二編。
会社。
その中に、合併の規定がありました。
「そうでした……」
「何がだ」
「昭和六十三年は、商法なんですよね……」
「当たり前だ」
相馬先輩は六法の該当箇所を指差しました。
「株式会社の合併なら、商法四百八条以下を見ろ」
「はい!」
「あと、合併の効力は登記だ。そこも間違えるなよ」
「……登記?」
「そうだ」
私は顔を上げました。
あ。
これも、現代との違いです。
現代の吸収合併では、原則として合併契約で定めた効力発生日に効力が生じます。
でも。
昭和六十三年の商法では、合併登記によって効力が生じるのです。
「……未来の条文番号だけじゃなく、効力発生の仕組みまで違うんですね」
「何ぶつぶつ言ってんだ」
「いえ、勉強になります!」
「だったら今の法律で考えろ」
「はい!」
片桐所長が、静かに口を開きました。
「山岸さん」
「はい」
「合併する相手の中央産業株式会社について、何か聞いていますか」
「ええ。あそこも黒田社長の関係会社です」
「関係会社?」
「社長の弟が、代表をしていると聞いています」
私は顔を上げました。
なるほど。
自分の会社を。
身内の会社に吸収させる。
そして。
元の会社がなくなったから、請求には応じないと言い張る。
……なるほど。
ずいぶん都合のいい計画です。
「所長」
私は言いました。
「これ、最初から借金を踏み倒すための合併じゃないですか?」
「可能性はある」
所長は短く答えました。
「だが、決めつけるな」
「はい」
「まず、合併の中身を調べる」
所長は通知書を机に置きました。
「会社が何を引き継ぎ、誰が何を失うのか。それを書面で確かめるんだ」
私は頷きました。
今回の敵は。
黒田社長。
そして。
その社長が仕組んだ、会社の合併でした。
◇
翌日。
私と相馬先輩は、山岸さんから提供された資料を整理していました。
「先輩、合併って二種類ありますよね」
「ああ」
「吸収合併と新設合併」
「そうだ」
私はノートに二つの図を書きました。
東海機械株式会社。
中央産業株式会社。
その二つを矢印で結びます。
「吸収合併なら、たとえば中央産業が生き残って、東海機械が消える」
「うん」
「でも、東海機械の財産や借金は、中央産業が引き継ぐ」
「そうだ」
「じゃあ新設合併なら?」
「言ってみろ」
私は新しい図を書きました。
東海機械。
中央産業。
その二つから、新しい会社へ矢印。
「両方の会社が消えて、新しい会社ができる」
「うん」
「新会社が、両方の会社の権利義務を引き継ぐ!」
「正解だ」
よし。
今回は間違えていません。
私は胸を張りました。
「つまり、どちらでも借金は消えませんね!」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「合併ってのはな、都合のいい財産だけ拾う仕組みじゃねえ」
「はい」
「機械も、土地も、売掛金も引き継ぐ。だが、未払金や借金もついてくる」
「なるほど」
「会社が丸ごとつながるんだよ」
私はノートを見ました。
これです。
合併の核心。
権利義務の包括承継。
難しい言葉ですが、意味は明確です。
良いものだけ。
儲かるものだけ。
欲しいものだけ。
そんな選び方はできません。
「でも先輩」
「何だ」
「もし社長が、合併を装って機械や土地だけ移したら?」
「そりゃ別の問題だ」
「ですよね」
「合併による包括承継と、個別の財産譲渡を混同するなよ」
私は頷きました。
合併だと言いながら。
実際には財産だけを移す。
そうした取引なら、そもそも合併とは別に検討しなければなりません。
ですが。
今回の通知書には、明確に書かれています。
――合併により消滅。
つまり黒田社長は、自分から合併だと宣言している。
それなら。
商法の合併規定から逃げられないはずです。
「ところで」
相馬先輩が一枚の紙を差し出しました。
「これを見ろ」
「何ですか?」
「山岸さんが、東海機械の経理担当者から受け取った資料だ」
私は目を通しました。
そこには、合併契約書の写しの一部がありました。
――甲 中央産業株式会社。
――乙 東海機械株式会社。
――甲は乙を吸収合併し、乙は合併により解散する。
「……やっぱり吸収合併ですね」
「ああ」
私は続きを読みました。
――乙の資産、負債その他一切の権利義務は、合併により甲に承継される。
……。
あれ?
私は目をこすりました。
もう一度読みます。
――負債その他一切の権利義務。
「先輩!」
「何だ」
「書いてあります!」
「何が」
「借金も引き継ぐって!」
相馬先輩が笑いました。
「そうだな」
「黒田社長、自分の合併契約書で、自分の言い分を否定してるじゃないですか!」
「そういうことだ」
私は思わず笑いました。
なんということでしょう。
借金を踏み倒すために利用しようとした合併。
ところが、その契約書には。
借金も引き継ぐと、はっきり書いてある。
「これなら一発ですね!」
私は言いました。
ですが。
相馬先輩は笑顔を消しました。
「まだだ」
「え?」
「もっと面倒な問題がある」
先輩は資料の最後を指差しました。
そこには、手書きのメモがありました。
――山岸鉄工所への未払金三百八十万円。
――合併後の支払対象から除外予定。
私は固まりました。
「……除外?」
「ああ」
「どういう意味ですか?」
「文字どおりだろ」
相馬先輩の声が低くなりました。
「黒田は、山岸さんの金だけ払わずに済ませるつもりらしい」
「そんな!」
「だから問題なんだよ」
私は机を叩きそうになりました。
合併で財産を引き継ぐ。
機械も引き継ぐ。
土地も引き継ぐ。
顧客も引き継ぐ。
だけど。
下請けの未払代金だけは、なかったことにする。
……都合がよすぎます。
「所長!」
私は奥に声をかけました。
「この合併、止められませんか!」
片桐所長が顔を上げました。
「止める前に、確かめることがある」
「何ですか?」
「債権者に対する手続きだ」
……債権者。
私は山岸さんの請求書を見ました。
三百八十万円。
まだ支払われていない代金。
つまり。
山岸さんは、東海機械の債権者です。
「合併には、債権者を保護する手続きが必要なんですね!」
「そうだ」
片桐所長は頷きました。
「公告と催告を調べろ」
私は六法を開きました。
今度こそ。
昭和六十三年の商法です。
◇
三日後。
東海機械株式会社の応接室。
そこには、黒田剛三社長がいました。
高そうな背広。
金色の腕時計。
机には、分厚い灰皿。
いかにも昭和のワンマン社長です。
「何だ、行政書士だと?」
黒田は私たちを見て笑いました。
「弁護士じゃねえのか」
……出ました。
悪徳社長の定番台詞。
行政書士なら大したことはできないと思っている。
「こちらは、合併に関する事実確認をお願いするために参りました」
相馬先輩が言いました。
「山岸さんから、資料の整理を依頼されています」
「山岸?」
黒田が鼻で笑いました。
「ああ、あの町工場か」
その言い方に、私は眉をひそめました。
「三百八十万円の未払代金についてです」
私が言うと、黒田は大きく手を振りました。
「払わん」
「……え?」
「だから、払わんと言っとる」
黒田は煙草に火をつけました。
「うちは来月、中央産業と合併するんだ」
「はい」
「東海機械はなくなる」
「そうですね」
「なくなる会社に請求しても無駄だろうが」
……。
私は絶句しました。
ここまで堂々と。
間違った法律解釈を言えるものなのでしょうか。
「ですが、吸収合併では、存続会社が消滅会社の権利義務を引き継ぎます」
私は言いました。
「だから?」
「未払代金も承継されます」
「ふん」
黒田は笑いました。
「そんなもん、合併契約書でどうにでもなる」
「どうにでも?」
「ああ」
社長は机を叩きました。
「俺の会社だぞ!」
大きな声。
「どこと合併しようが、誰に金を払おうが、俺の自由だ!」
……来ました。
俺の会社。
俺の金。
俺の自由。
法律よりも社長の気分が偉いと思っている人です。
「黒田社長」
相馬先輩が言いました。
「合併は、社長一人が勝手に決めていいもんじゃありません」
「何だと?」
「株主総会の承認も必要です」
「そんなもの、とっくに済ませた!」
黒田は引き出しから書類を取り出しました。
そして机に放り投げました。
――臨時株主総会議事録。
私は目を通しました。
議案。
中央産業株式会社との合併契約承認の件。
議決結果。
承認可決。
なるほど。
議事録はあります。
ですが。
片桐所長なら、ここで何を見るでしょうか。
私はもう一度、書類を読みました。
議事録の作成日。
出席株主。
議決権。
合併契約書の内容。
……ん?
「あの」
私は顔を上げました。
「この株主総会、出席株主は社長お一人ですか?」
「そうだ」
「ほかの株主は?」
「委任状を取った」
「委任状は確認できますか?」
「何で見せなきゃならん」
黒田の顔が険しくなりました。
私は相馬先輩を見ました。
先輩は小さく頷きました。
「議事録に記載された決議の成立を確認するためです。もちろん、閲覧できる立場や手続きについては商法に従う必要があります」
黒田は鼻を鳴らしました。
「細かいことを言うな!」
ですが。
細かいことこそ、会社の法律では重要です。
合併は、会社そのものの運命を変える行為。
社長が勝手に決めたから終わり。
そんな話ではありません。
「それにな」
黒田はにやりと笑いました。
「中央産業は、弟の会社だ」
「承知しています」
「弟が社長で、俺も取締役だ。話は全部ついてる」
私は一瞬、言葉を失いました。
……え?
弟の会社。
兄弟同士の合併。
しかも兄が両方に関与している。
利益がぶつかる問題までありそうです。
「だから問題ないんだよ!」
黒田は得意げに言いました。
「東海機械は消える。資産は中央産業が引き継ぐ。山岸への金は払わん。それで終わりだ!」
……。
終わり?
いいえ。
全然、終わっていません。
私は口を開こうとしました。
そのとき。
「確認できました」
相馬先輩が言いました。
「何?」
「社長のお考えは分かりました」
先輩は立ち上がりました。
「本日は、ここまでにします」
「何だ、もう帰るのか?」
「はい」
「大したことねえな、行政書士ってのは!」
黒田が笑いました。
私は悔しくなりました。
ですが。
相馬先輩は振り返りませんでした。
廊下を歩き。
建物を出て。
ようやく口を開きました。
「こはる」
「はい」
「腹立ったか」
「ものすごく!」
「そうか」
「先輩、何で言い返さなかったんですか!」
「言い返して、あいつが法律を守ると思うか?」
「……思いません」
「だろ」
先輩は煙草をくわえました。
「だったら、書類だ」
「書類……」
「ああ」
先輩は笑いました。
「社長の口はでかい。だが、商法の条文よりでかい口はねえよ」
私は思わず頷きました。
そうです。
こちらの武器は。
怒鳴り声ではありません。
商法。
合併契約書。
株主総会議事録。
そして。
債権者保護手続き。
相手が何を言おうと。
法律上の義務は、社長の一存では消えないのです。
◇
事務所へ戻ると、片桐所長が既に資料を広げていました。
「どうだった」
「黒田社長は、未払代金を払わないと言い切りました」
相馬先輩が報告しました。
「合併契約書で借金を除外できると思っているようです」
「そうか」
所長は短く答えました。
「こはる」
「はい!」
「合併したら、山岸さんの債権はどうなる」
「吸収合併なら、中央産業が債務を承継します!」
「そうだ」
「東海機械が消滅しても、三百八十万円の支払義務は消えません!」
「うん」
「合併契約書で、山岸さんに不利益な除外を書いても、それだけで山岸さんの権利を奪えません!」
所長が頷きました。
「では、債権者保護手続きは?」
「調べます!」
私は六法と資料を開きました。
合併。
株主総会の特別決議。
債権者への公告。
知れている債権者への各別催告。
異議を申し出る機会。
「……あ!」
私は声を上げました。
「山岸さんに、合併の異議申述についての催告が届いていません!」
相馬先輩が顔を上げました。
「本人には確認したのか?」
「はい。合併の通知書は届きましたが、異議を申し出られることも、その期間も書かれていません!」
「なるほどな」
「しかも、山岸さんの債権は会社側が把握しています。請求書も何度も受け取ってるんですから!」
所長は静かに言いました。
「知れている債権者だな」
「はい!」
「公告の状況は?」
「そこも調べます!」
さらに確認を進めると、重要な事実が出てきました。
東海機械は、合併の予定を取引先に知らせていました。
ところが。
債権者保護のために必要な公告や催告を、適切に進めていたことを示す資料が確認できなかったのです。
「……これは」
私は資料を見つめました。
「合併手続きそのものに、問題がある可能性がありますね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「株主総会で賛成を集めたからって、債権者を無視していいわけじゃねえ」
「はい」
「借金の相手は、株主じゃないからな」
なるほど。
株主と債権者。
立場が違います。
株主は会社に出資した人。
債権者は会社にお金や代金を請求できる人。
会社が合併すれば、株主の権利関係も変わります。
でも。
会社に金を貸した人。
商品を納めた人。
工事を請け負った人。
そういう債権者の利益も、法律は守ろうとしている。
「所長」
私は聞きました。
「じゃあ、公告も催告も適切にしないまま合併したら、合併は絶対に無効なんですか?」
「絶対とは言えん」
「え?」
「手続きの瑕疵がどの程度重大か、個別に判断する必要がある。登記まで進めば、当然に無効と扱えるわけでもない」
「……なるほど」
「合併の効力を争うには、法律に定められた訴えの手続きがある」
私は頷きました。
合併無効の訴え。
これは、合併が成立した後に、その効力を争う特別な裁判手続きです。
もちろん。
行政書士が代理人として裁判をすることはできません。
訴訟が必要なら、弁護士の領域です。
ですが。
その前に。
どんな問題があるか。
どの資料が必要か。
どの手続きが欠けているか。
それを整理することはできます。
「相馬」
所長が言いました。
「合併の登記は?」
「まだです。十一月一日を予定しているようですが、現時点では登記されていません」
「なら、今のうちだ」
所長が一枚の用紙を取り出しました。
「山岸さんの意思を確認して、通知書を作る」
私は背筋を伸ばしました。
「内容証明ですね!」
「そうだ」
「やります!」
そして。
私たちは、黒田社長が最も嫌がるであろう書類の作成に取りかかりました。
◇
午後三時。
机の上。
原稿用紙。
六法。
合併契約書の写し。
請求書。
納品書。
検収書。
そして、山岸さんの署名した事実確認書。
私は鉛筆を握りました。
「まず、債権の存在です」
所長が頷きました。
「書け」
私は原案を書き始めました。
――通知書。
――通知人 山岸修一。
――被通知人 東海機械株式会社。
――代表取締役 黒田剛三殿。
私は息を吸いました。
そして。
一行ずつ、書きました。
――第一。
――通知人は、貴社の発注に基づき、金属加工部品を製作し、指定された期日までに納品した。
――第二。
――右取引に基づく未払代金は、合計金三百八十万円である。
――第三。
――貴社は、中央産業株式会社との吸収合併により消滅する予定である旨を通知している。
――第四。
――しかしながら、吸収合併においては、存続会社が消滅会社の権利義務を包括して承継する。
――第五。
――したがって、貴社が合併によって消滅することのみを理由として、本件未払代金債務が消滅するものではない。
私は顔を上げました。
「ここまで、どうでしょう!」
相馬先輩が読みました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「だが、まだ肝心なところがある」
「何ですか?」
「債権者保護だ」
「あ!」
私は続きを書きました。
――第六。
――通知人は、貴社に対する既知の債権者であるにもかかわらず、合併に係る債権者保護手続きについて、法定の異議申述期間を明示した各別の催告を受けていない。
――第七。
――通知人は、本通知をもって、予定されている合併について異議を述べる意思を明らかにする。
――第八。
――貴社における法定公告及び催告の実施状況を確認するとともに、本件債務の弁済又は相当な担保の提供その他法令に従った対応を求める。
そこまで書いて。
私は、最後の一文を考えました。
相手は、会社が消えるから払わないと言っています。
ですが。
合併が有効に成立した場合には、存続会社に債務が承継される。
逆に。
合併前なら、東海機械自身に支払義務がある。
どちらに転んでも。
会社が消えるという理由だけでは逃げられない。
私は書きました。
――なお、通知人は、本件債権を放棄する意思を一切有していない。
――今後も弁済がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、適切な法的措置を検討する。
……できました。
「所長!」
「何だ」
「原案、完成です!」
片桐所長が受け取りました。
ゆっくり読みます。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……嫌な予感。
「ここ」
「はい!」
「合併の効力が発生したら必ず現金が直ちに支払われる、と書きかけているな」
「え?」
私は原案の余白を見ました。
確かに。
そこに、そんな一文を加えようとしていました。
「債務を承継することと、直ちに現金で弁済されることは別だ」
「……はい」
「支払期日、債務の内容、担保の有無。そこも確認する」
「分かりました!」
「次」
「はい!」
「『公告をしていないから合併は必ず無効』という断定は入れるな」
「……はい」
「事実がまだ確定していない」
所長は静かに言いました。
「書面は、相手を脅すために作るものじゃない」
「はい」
「法律上、相手が逃げられない事実を明らかにするために作る」
私は頷きました。
これです。
片桐所長の書類。
感情はありません。
怒鳴りもしません。
ただ。
確認された事実。
法律上の権利。
必要な手続き。
それだけを積み重ねる。
でも。
だからこそ。
相手は反論しにくい。
「所長」
私は聞きました。
「これを受け取ったら、黒田社長はどうするでしょう」
「分からん」
「えっ」
「相手がどうするかは、相手が決める」
所長は赤鉛筆を置きました。
「だが、少なくとも」
「はい」
「知らなかった、では済まなくなる」
私は、その言葉を胸に刻みました。
◇
内容証明郵便を発送して、三日後。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……片桐先生はいるか』
低い声。
私は一瞬、固まりました。
黒田剛三。
あの社長です。
「少々お待ちください」
所長が電話に出ました。
「片桐です」
『……通知書を受け取った』
「はい」
『あんなもの、送ってきやがって』
電話越しにも、苛立ちが伝わります。
『合併に文句があるなら、裁判でも何でもしろと言いたいところだが……』
所長は黙って聞いています。
『うちの顧問にも見せた』
「そうですか」
『……あんたらの指摘、間違ってないらしいな』
私は思わず顔を上げました。
相馬先輩も、こちらを見ています。
『東海機械の借金は、中央産業が引き継ぐんだってな』
「吸収合併が有効に成立すれば、そのとおりです」
『……知らなかった』
黒田の声が小さくなりました。
『いや、そこまでは考えてなかった』
私は心の中で叫びました。
そこが一番大事でしょう!
会社の合併ですよ!
会社の借金をどうするか考えていないなんて!
ですが。
所長は何も言いませんでした。
『それに……』
黒田は続けました。
『債権者への催告の件だ』
「はい」
『うちの総務が、そこまで手続きを進めていなかったらしい』
「そうですか」
『合併の登記に必要な書類も揃ってないと言われた』
……。
私は息を呑みました。
やはり。
債権者保護手続きが、きちんと進んでいなかった。
『それだけじゃねえ』
黒田の声がさらに低くなりました。
『株主総会の議事録も確認し直したら、委任状の数が合わねえって話になって……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩が、にやりと笑いました。
あの議事録です。
社長一人が出席し、ほかは委任状で処理したと主張していた。
その資料に、疑問が生じているのです。
『合併の承認決議までやり直しになるかもしれん』
所長は落ち着いた声で答えました。
「必要な手続きについては、顧問の専門家とご確認ください」
『……ああ』
『それでな』
「はい」
『山岸の三百八十万円だが……』
私は身を乗り出しました。
『……払う』
……!
私は机の下で拳を握りました。
『合併の前に、きちんと払うことにした』
「そうですか」
『もう揉めたくねえ』
黒田は深く息を吐きました。
『あの合併自体が止まったら、こっちも困るんだ』
所長は答えました。
「支払いについては、山岸さんへ直接ご連絡ください。私どもは通知書の作成をお手伝いした立場ですので」
『分かった』
電話が切れました。
静寂。
私はしばらく、受話器を見つめていました。
そして。
「……所長!」
「何だ」
「払うって!」
「ああ」
「三百八十万円!」
「聞こえた」
「やりましたね!」
相馬先輩が笑いました。
「まだだ」
「……またそれですか!」
「当たり前だろ。口で払うと言っただけだ」
私は肩を落としました。
そうでした。
実際に入金されるまで、安心はできません。
ですが。
ひとつだけ、はっきりしました。
黒田社長は、もう言えません。
会社が消えるから借金も消える。
そんな理屈は。
商法の前では、通用しなかったのです。
◇
一週間後。
山岸修一さんが事務所に来ました。
手には、一枚の銀行の入金票。
「……入りました」
山岸さんが言いました。
「三百八十万円、全額です」
私は思わず立ち上がりました。
「本当ですか!」
「はい!」
山岸さんは笑っていました。
初めて見る笑顔でした。
「これで、従業員に給料が払えます」
その声が震えました。
「材料屋にも、支払いができます」
私は胸が熱くなりました。
三百八十万円。
大きな金額です。
でも。
それ以上に。
そこには、働いた人たちの時間が詰まっていました。
朝早くから機械を回して。
鉄を削って。
溶接して。
寸法を確認して。
納期を守って。
そうして納めた部品の代金です。
会社がなくなるから払わない。
そんな一言で、消されていいお金ではありません。
「本当に、ありがとうございました」
山岸さんが深く頭を下げました。
片桐所長は静かに答えました。
「山岸さん」
「はい」
「仕事をしたのは、あなたたちです」
「……はい」
「私たちは、その仕事の対価が失われないよう、書面を整えただけです」
山岸さんは目を拭いました。
「それが、どれだけありがたいことか……」
私は言葉を失いました。
そうです。
法律の世界では、三百八十万円は債権です。
会社法や商法の言葉では、未払代金債務です。
でも。
町工場にとっては。
従業員の生活。
家族の食卓。
明日も工場を続けられるという安心。
そういうものなのです。
◇
山岸さんが帰ったあと。
私はノートを開きました。
――合併。
――吸収合併。
――新設合併。
そして、その下に。
――権利義務の包括承継。
と書きました。
「先輩」
「何だ」
「今日、すごくよく分かりました」
「何が」
「合併って、会社が消えるだけじゃないんですね」
「そうだ」
「消える会社の権利や義務を、別の会社が引き継ぐ」
「うん」
「だから、借金もなくならない」
「そういうことだ」
相馬先輩は頷きました。
「社長が好き勝手に決めていい制度じゃねえんだ」
「はい」
「株主もいる。債権者もいる。取引先もいる」
「はい」
「会社ってのは、社長一人で成り立ってるわけじゃねえ」
私はノートを見つめました。
現代の会社法では。
吸収合併と新設合併の制度が整理されています。
合併契約。
株主総会の承認。
債権者保護手続き。
反対株主の保護。
効力発生日。
合併無効の訴え。
それぞれの位置づけが、体系的に分かるようになっています。
でも昭和六十三年。
会社の法律は、まだ商法の中にあります。
株式会社を設立するにも、発起人は七人以上必要。
取締役も三人以上。
監査役も必要。
現代のように、一人で株式会社を設立することはできません。
……今思うと、すごい時代です。
「先輩」
「何だ」
「もし黒田社長が、新しい会社を一人で作って、そこに財産を移そうとしたら?」
「一人で株式会社?」
「はい!」
「無理だろ」
「ですよね……」
「発起人を七人集めろ」
「ですよね……!」
「それに、会社を作っただけで借金が消えるわけじゃねえぞ」
「はい!」
私は苦笑しました。
現代なら、発起人一人でも株式会社が設立できます。
合同会社という選択肢もあります。
でも。
この時代には、合同会社など存在しません。
会社を作るだけでも、法律上のハードルが高い。
そのため。
名前だけの発起人。
名ばかりの取締役。
そうした頭数合わせが行われることもあったのでしょう。
ですが。
「会社を作るのが難しい時代でも、借金を踏み倒していいわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「会社の形がどう変わろうと、取引相手を守らなきゃ商売なんか成り立たねえ」
私は頷きました。
確かに。
もし合併するだけで借金が消えるなら。
誰も安心して会社に商品を売れません。
誰も安心して、会社にお金を貸せません。
会社同士の取引そのものが、成り立たなくなってしまいます。
だから。
合併では、権利義務を包括して引き継ぐ。
債権者には、異議を述べる機会を与える。
株主にも、重大な組織変更について意思を示す手続きを用意する。
会社は社長の持ち物だから、何でも自由。
そんな乱暴な話には、ならないのです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今回、黒田社長が一番間違えたことは何だ」
私は少し考えました。
合併の意味を知らなかったこと。
債権者保護手続きを軽く見たこと。
株主総会の手続きを適当に扱ったこと。
どれも間違いです。
でも。
一番大きな間違いは。
「……会社が消えれば、責任まで消えると思ったことです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「合併は、責任を捨てる制度じゃない」
「うん」
「会社の権利と義務を、次の会社へ引き継ぐ制度です」
「それでいい」
私はノートに書きました。
――合併で消えるのは会社の法人格であって、承継されるべき権利義務ではない。
うん。
これなら忘れません。
◇
その日の夕方。
事務所の窓から、赤い夕日が差し込んでいました。
私は書類を整理しながら、ふと考えました。
「所長」
「何だ」
「もし、黒田社長が本当に合併を成立させていたら、どうなっていたんでしょう」
所長は帳簿を閉じました。
「山岸さんの債権は、存続会社に承継される」
「はい」
「だが、合併手続き自体に重大な問題があれば、別の争いにもなり得る」
「合併無効の訴え、ですね」
「そうだ」
私は頷きました。
合併は、会社の存在そのものを変える大きな行為です。
だから。
成立した合併を、誰もがいつでも自由に無効だと言い出せるわけではありません。
法律は、合併の効力を争うための特別な訴えを用意しています。
そして。
無効判決が確定した場合でも、合併の無効は原則として将来に向かって効力を生じる。
過去の取引をすべて最初からなかったことにしてしまえば、かえって多くの人を混乱させてしまうからです。
「……会社の合併って、すごく重いんですね」
「そうだ」
所長は答えました。
「一つの会社が消えるということは、その会社に関わってきた人間の関係が、大きく変わるということだ」
私は窓の外を見ました。
町には、いくつもの会社があります。
大きな工場。
小さな町工場。
運送会社。
建設会社。
商店。
そして。
そこで働く人たち。
会社の名前が変わっても。
会社が別の会社と一つになっても。
そこで生まれた約束まで、簡単に消えていいわけではありません。
むしろ。
会社の形が変わるからこそ。
法律は、その約束を守ろうとするのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が声をかけました。
「はい?」
「合併の話、理解したか」
「もちろんです!」
「じゃあ問題だ」
「望むところです!」
先輩は煙草をくわえました。
「A社がB社を吸収合併した。B社はどうなる?」
「消滅します!」
「B社の借金は?」
「A社が承継します!」
「じゃあ、A社とB社が新設合併してC社を作ったら?」
「A社とB社が消滅して、C社が両社の権利義務を引き継ぎます!」
「ほう」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、消滅会社は普通の解散みたいに清算して終わりか?」
「いいえ!」
私は勢いよく答えました。
「合併では権利義務が包括承継されるので、消滅会社について通常の清算手続きは行いません!」
「正解」
「やった!」
私は拳を握りました。
ですが。
相馬先輩がにやりと笑いました。
「じゃあ最後だ」
「はい!」
「社長が『俺の会社だから、合併も俺の自由だ』と言ったら?」
私は即答しました。
「商法を開きます!」
「何でだ?」
「会社は社長個人の財布じゃないからです!」
相馬先輩が吹き出しました。
「違いねえ!」
私も笑いました。
でも。
それが、今回の事件の核心でした。
会社は、一人の社長の欲望だけで動くものではありません。
株主がいる。
債権者がいる。
従業員がいる。
取引先がいる。
そうした人たちとの関係の上に、会社は存在している。
だから。
会社を一つにするなら。
責任も一緒に引き継がなければならないのです。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あの……合併のことで相談したいんですが』
年配の男性の声でした。
「はい。どのようなことでしょう」
『うちの会社、今度ほかの会社と一緒になるそうなんです』
「合併ですか?」
『はい。ところが、社長が勝手に決めたみたいで……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
『私は株主なんですが、そんな話、何も聞いてなくて……』
……。
来ました。
今度は債権者ではありません。
株主です。
『それに、合併したら私の持っている株がどうなるのかも、教えてもらえないんです』
私はノートを開きました。
吸収合併。
新設合併。
合併対価。
株主総会。
反対株主の保護。
今度は、会社に出資した人の権利が問題になりそうです。
「先輩」
「何だ」
「次は株主です」
「聞こえてる」
「会社の借金だけじゃなく、株主の権利も引き継ぎ方が重要なんですよね!」
「そうだ」
「しかも、合併の種類によって、株主が受け取るものも違います!」
「だからまず相談を聞け」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「申し訳ありません。まず、お持ちの株式と、会社から届いた書類について教えていただけますか」
昭和六十三年。
商法の世界。
会社が消える。
会社が一つになる。
会社が新しく生まれる。
言葉だけなら簡単です。
でも。
その裏には、いつも人がいます。
お金を貸した人。
商品を納めた人。
株式を持っている人。
会社を信じて働いている人。
法律は、その人たちを置き去りにして、会社だけを自由に消せるようにはしていません。
私は今日、それを学びました。
そして。
もう一つ、確信しました。
会社を消して借金も消そうと考える社長ほど。
合併契約書の「権利義務の一切を承継する」という言葉を読んだ瞬間。
顔色が変わるのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「商法って、すごいですね!」
「急にどうした!」
「会社が消えても、約束は残るんですよ!」
相馬先輩は少し黙りました。
そして。
「当たり前だろ」
そう言って笑いました。
「商売ってのはな、会社の看板でやるもんじゃねえ」
「え?」
「信用でやるもんだ」
私は、その言葉をノートの隅に書きました。
――会社は消えても、信用を踏みにじった事実は消えない。
よし。
今日の勉強も、忘れられそうにありません。
ただし。
次からは、会社法七百五十条を口走る前に。
昭和六十三年の商法を開くことにします。
だって。
未来の法律を知っていても。
今、目の前で泣いている人を救えなければ。
何の意味もないのですから。
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