[会社法・組織変更]現場編 「会社の看板を替えれば借金も消える」の嘘。全株主の同意を踏みにじった社長と、消せなかった三百万円の請求書
会社の名前を変えても、借金まで消えるわけではありません。
看板を掛け替えても。
社長の肩書を変えても。
立派な印鑑を新しく作っても。
昨日までの約束が、全部なかったことになるわけではないのです。
ところが。
世の中には、それを本気で信じている社長がいます。
あるいは。
信じているふりをして、他人の財産を踏み倒そうとする社長が。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私が出会ったのは。
会社を変えるという言葉を、借金から逃げる魔法だと思っている男でした。
そして私は、思い知ることになります。
会社の形を変えることと。
会社の責任を消すことは。
まったく別の話なのだと。
「三百万円、払わないと言われたんです」
午前九時。
事務所の扉を開けた男性は、そう言いました。
「……三百万円?」
私は思わず聞き返しました。
男性は四十代半ば。
作業着の袖口には、油の染みが残っています。
手には、使い込まれた革鞄。
名前は、森田修一さん。
町工場を営んでいるそうです。
「うちは精密金属の加工をやっています。親父の代から続く、小さな工場です」
「はい」
「半年前、大きな仕事を受けたんです」
取引先は、東海精機株式会社。
地元では、それなりに名前の知られた部品メーカー。
代表取締役は、黒岩剛三。
五十六歳。
強引な経営で有名な人物でした。
「特殊な歯車を三百個、納めました」
「三百個……」
「材料費だけでも相当なものでした。従業員にも残業してもらって、何とか納期に間に合わせたんです」
森田さんは鞄から書類を取り出しました。
発注書。
納品書。
検収印の押された受領書。
請求書。
金額。
三百万円。
「でも、支払日を過ぎても入金がなくて」
「催促は?」
「しました。何度も」
「相手は何と?」
森田さんは唇を噛みました。
「会社が変わるから、もう払わなくていいって」
……。
私は首を傾げました。
「会社が変わる?」
「はい」
森田さんが一枚の紙を差し出します。
そこには、大きな文字でこう書かれていました。
――東海精機株式会社 組織変更のお知らせ。
私は目を通しました。
――当社は経営合理化のため、組織変更を予定しております。
――新たな会社形態への移行に伴い、従来の取引関係については整理を進めます。
――旧会社に対する債権については、個別に協議するものとします。
「……何ですか、これ」
私は思わず呟きました。
会社を変える。
だから借金を整理する。
しかも、払うかどうかは個別協議。
そんな都合のいい話があるのでしょうか。
「社長からは、もっとひどいことを言われました」
森田さんが俯きました。
「株式会社はもう終わりだ。これからは別の会社になる。昔の請求書なんか持ってきても意味がない、って」
私は紙を握りました。
意味がない?
三百万円ですよ。
従業員が汗を流して作った部品。
材料費も。
電気代も。
給料も。
全部、現実に支払っている。
それなのに。
会社の看板を替えたから、もう払わない?
冗談じゃありません。
「大丈夫です!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「組織変更しても、会社の法人格は同じです! 債務は消えません!」
森田さんが顔を上げます。
「本当ですか?」
「はい!」
よし。
会社法です。
現代の行政書士試験で勉強しました。
株式会社。
合同会社。
合名会社。
合資会社。
これらの会社形態を変更する制度。
組織変更。
会社法第七百四十三条以下。
組織変更計画を作って。
全株主の同意を得て。
債権者保護手続きをして。
登記をする。
あれですね!
「それに、組織変更には総株主の同意が必要です! 債権者の異議手続きだって――」
「待て」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい?」
「今、何て言った」
「組織変更です」
「それは聞こえた」
「会社法の規定で――」
「会社法?」
……。
しまった。
嫌な予感。
相馬先輩が机の上に置いた六法を指差しました。
「こはる。もう一度言ってみろ」
「……商法です」
「そうだ」
あああ。
またです。
現代の会社法。
昭和六十三年には、まだありません。
この時代。
会社のルールは商法第二編や有限会社法などに分かれています。
現代の会社法が独立するのは、ずっと後。
「じゃあ、合同会社への組織変更で――」
「何だその会社形態は」
「……ですよね!」
「何が『ですよね』だ!」
相馬先輩が眉間を押さえました。
「こはる。今の商法で考えろ」
「はい……」
私は六法を開き直しました。
昭和六十三年。
株式会社から合同会社への組織変更。
できません。
そもそも合同会社という会社形態が存在しないのです。
さらに。
株式会社から合名会社や合資会社へ、自由に組織変更できるわけでもありません。
当時、通常の組織変更として認められていたのは、株式会社と有限会社の間、そして合名会社と合資会社の間など。
現代とは、制度の範囲そのものが違います。
「……あれ?」
私は通知書をもう一度見ました。
「先輩。相手は、何という会社に変わるつもりなんでしょう」
「そこだ」
片桐所長が初めて口を開きました。
「森田さん」
「はい」
「黒岩社長は、変更後の会社形態を説明しましたか」
「確か……」
森田さんは記憶をたどりました。
「最初は、合名会社にすると言っていました」
「合名会社?」
「はい。でも、あとから有限会社にすると言い直して……」
私は目を見開きました。
合名会社。
有限会社。
まったく違います。
しかも。
株式会社から合名会社への組織変更は、この時代の通常の制度では認められていません。
では、有限会社なら?
こちらは可能です。
ただし。
好き勝手に変えられるわけではありません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「まず、何を調べる」
私は息を吸いました。
「相手が本当に組織変更したのか。それとも、まだ予定しているだけなのか」
「そうだ」
「それから、現在の会社形態と、変更後の会社形態です」
「うん」
「そして、定款と議事録。それに、債権者への手続きが適法に行われているか」
所長が頷きました。
「よし」
私は通知書を見つめました。
何だか。
急に、この一枚が怪しく見えてきました。
組織変更。
経営合理化。
債務整理。
立派な言葉が並んでいます。
でも。
具体的な手続きは、何一つ書かれていません。
しかも、最も大切なことが抜けている。
森田さんの三百万円は。
いったい、誰が払うのか。
「所長」
私は聞きました。
「会社の形を変えても、会社そのものは続くんですよね」
「そうだ」
「だったら……」
所長は短く言いました。
「逃げ道にはならん」
その一言で。
今回の戦い方が、少し見えてきました。
翌日。
私たちは、森田さんから依頼された書類の確認を進めました。
商業登記簿。
定款の写し。
株主関係の資料。
過去の取引記録。
森田さんが取引先から受け取った書面。
それらを机に並べます。
「先輩、登記上はまだ株式会社ですね」
「ああ」
「つまり、組織変更は完了していない」
「そういうことだ」
私は頷きました。
会社が変わった。
だから借金は消えた。
黒岩社長はそう主張していました。
でも。
少なくとも登記上は、まだ東海精機株式会社。
しかも。
組織変更が正式に行われたとしても、借金は消えません。
「……どっちにしても駄目じゃないですか」
「そうだな」
相馬先輩が笑いました。
「悪党ってのは、手続きが面倒になると、法律のほうが勝手に消えてくれると思うらしい」
「便利な世界ですね」
「現実には存在しねえけどな」
そこで。
私は株主関係の資料を見て、手を止めました。
「あれ?」
「どうした」
「社長以外にも、株主がいるんですね」
「ああ」
黒岩剛三。
持株割合、六割。
残り四割。
そのうち二割を持っているのは、黒岩社長の弟。
残る二割を持っているのが。
「……森田さん?」
私は顔を上げました。
森田さんが頷きます。
「昔、東海精機が資金繰りに困ったことがあったんです」
「はい」
「そのとき、親父が出資を頼まれて」
森田さんの父親は、かつて東海精機を助けるために株式を引き受けていたそうです。
そして、父親が亡くなったあと。
森田さんが、その株式を相続しました。
「だから、今も二割の株主なんです」
私は資料を見つめました。
下請け業者。
未払い代金三百万円の債権者。
そして。
東海精機株式会社の株主。
……待ってください。
これ。
単なる代金未払い事件ではありません。
「先輩!」
「何だ」
「森田さん、株主でもあるんですよ!」
「知ってる」
「だったら、会社の組織変更手続きにも関係しますよね!」
「当然だ」
私は思わず拳を握りました。
ところが。
相馬先輩は、そこで釘を刺しました。
「ただし、こはる」
「はい?」
「現代の会社法でいう『総株主の同意』を、そのまま昭和の株式会社から有限会社への組織変更に持ち込むな」
「……あっ」
「この時代には、この時代の決議要件がある」
「はい……」
「株主全員の同意がなければ絶対に変更できない、なんて決めつけるなよ」
危ない。
また未来の法律を、そのまま使うところでした。
現代では。
株式会社が持分会社へ組織変更する場合、総株主の同意が必要です。
しかし。
昭和六十三年の株式会社から有限会社への組織変更は、現代の制度とは異なる規律に従います。
特別な株主総会決議など、当時の法定手続きを確認しなければなりません。
「じゃあ、森田さんが反対しただけで、絶対に止められるとは限らないんですね」
「そうだ」
私は少し残念になりました。
でも。
所長が一枚の紙を取り上げます。
「問題は、そこだけではない」
「え?」
それは、東海精機の臨時株主総会議事録の写しでした。
黒岩社長が取引先向けの資料に混ぜていたものです。
私は読みました。
――議案第一号。
――当会社を有限会社に組織変更する件。
――出席株主の賛成により、原案どおり可決した。
そして。
出席株主の欄。
黒岩剛三。
黒岩の弟。
森田修一。
……。
「森田さん」
「はい」
「この日、株主総会に出ました?」
「いいえ」
私は顔を上げました。
「……え?」
「呼ばれてもいません」
沈黙。
私はもう一度、議事録を見ました。
出席株主。
森田修一。
確かに書いてあります。
「委任状を出しましたか?」
「出していません」
「誰かに議決権の行使を頼みました?」
「いいえ」
私は相馬先輩を見ました。
先輩は、にやりと笑いました。
「見つけたな」
私は息を呑みました。
出席していない株主を、出席したことにしている。
議決権の行使を委任してもいない。
それなのに。
議事録には、賛成したように記録されている。
これは。
単なる記載ミスでは済まない可能性があります。
「所長!」
「何だ」
「この議事録、事実と違います!」
「そうだな」
「それなのに、組織変更の根拠にしようとしている!」
所長は頷きました。
「相馬」
「はい」
「事実確認書を作れ」
「分かりました」
私は思いました。
なるほど。
社長が六割持っている。
会社を自分のものだと思っている。
だから。
残りの株主など、どうでもいい。
そんな考え方だったのでしょう。
でも。
会社は、社長一人の持ち物ではありません。
株式会社には、株主がいる。
会社の重要な変更には、法律上の手続きがある。
議事録も。
決議も。
社長の都合だけで作ってよいものではないのです。
「そんなもの、形式の問題だろうが!」
三日後。
東海精機株式会社の応接室。
私と相馬先輩は、書類作成に必要な事実確認のため、会社を訪れていました。
応接室の奥には、黒革の椅子。
大きな灰皿。
壁には、立派な額に入った社訓。
――信用第一。
……。
私はその文字を二度見しました。
信用第一。
三百万円を払わない会社の社訓としては、なかなか刺激的です。
「で?」
黒岩社長が煙草をくわえました。
「行政書士が何の用だ」
体格のいい男でした。
金色の腕時計。
高そうな背広。
いかにも、自分が一番偉いと信じている顔です。
相馬先輩が名刺を置きます。
「組織変更に関する資料について、事実関係を確認したい」
「弁護士じゃないんだろ?」
「行政書士です」
「じゃあ、俺に命令はできねえな」
黒岩社長が笑いました。
「会社のことは会社が決める。俺が社長だ。俺が法律みたいなもんだ」
……出ました。
俺が法律だ。
この時代の悪徳社長には、標準装備なのでしょうか。
「組織変更は予定どおり進めるんですね」
相馬先輩が聞きました。
「ああ」
「合名会社に変更するという話もあったようですが」
「最初はそう考えた」
黒岩社長は鼻で笑いました。
「だが、有限会社にしたほうが簡単だと聞いたんでな」
「なるほど」
「面倒な取締役も減らせるし、余計な株主にも口を出されずに済む」
私は眉をひそめました。
「森田さんも株主ですよ」
「たった二割だろ」
「二割でも、株主は株主です」
「黙ってろ、小娘」
黒岩社長が机を指で叩きました。
「俺が六割持ってるんだ。俺が決めれば済む話だろう」
相馬先輩が静かに言いました。
「株主総会議事録には、森田さんが出席したと記載されています」
「ああ」
「本人は出席していないと言っています」
「……それが?」
「委任状も出していないそうです」
黒岩社長は、一瞬だけ黙りました。
でも。
すぐに笑いました。
「どうせ俺の議決権で決まるんだ。細かいことを言うな」
「決議要件を満たしたかどうかは、正確な議決権数や出席状況によって判断します」
「何?」
「事実と違う出席記録を作ってよい、ということにはなりません」
社長の顔が険しくなりました。
「お前ら、俺に喧嘩を売りに来たのか?」
「いいえ」
相馬先輩は立ち上がりました。
「資料の確認です」
「……ふん」
「それと、一点だけ」
「何だ」
「森田さんへの三百万円について、組織変更すれば債務が消えると説明したそうですね」
黒岩社長が笑いました。
「ああ。そうだ」
「その根拠は?」
「会社が変わるからだ」
「会社の形が変わっても、同じ会社として権利義務が続くことはご存じですか」
「知らんね」
……。
私は唖然としました。
知らんね。
それで済むなら、法律の試験なんか必要ありません。
「有限会社になれば、株式会社時代の借金なんざ整理できるんだよ」
黒岩社長は椅子にもたれました。
「嫌なら裁判でも何でもしろ」
私は言い返そうとしました。
でも。
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい」
「帰るぞ」
「えっ」
「確認は済んだ」
私は唇を噛みました。
まだ何も解決していません。
三百万円も払われていない。
議事録もおかしい。
社長は開き直っている。
でも。
相馬先輩は、もう何も言いませんでした。
会社を出ると、私は我慢できずに言いました。
「先輩!」
「何だ」
「どうして言い返さなかったんですか!」
「何をだ」
「組織変更しても借金は消えないって、もっと説明すればよかったじゃないですか!」
先輩は煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「相手の社長と、依頼人の代理人として支払交渉をするわけにはいかねえ」
「分かってます」
「だったら、怒鳴り合っても仕方ねえだろ」
私は黙りました。
「それに」
相馬先輩が笑いました。
「相手は、自分から大事なことをしゃべってくれた」
「大事なこと?」
「ああ」
先輩は指を一本立てました。
「第一。株式会社から有限会社に変更する予定だ」
「はい」
「第二。森田さんが株主だと知っている」
「はい」
「第三。議事録の出席記録がおかしい」
「はい」
「第四。組織変更を理由に、債務を払わないつもりだ」
私は息を呑みました。
全部。
確認できた事実です。
「先輩……」
「何だ」
「相手、余計なことばっかり話してましたね」
「そうだろ」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「口が達者な奴ほど、書面に残すと困ることを自分で増やすんだよ」
なるほど。
言い負かす必要はない。
相手がどんな理屈で逃げようとしているか。
それを把握して。
事実と法律を整理する。
そして。
本人の名義で、正確な通知書を作る。
「帰ったら内容証明ですね!」
「ああ」
「私、書きます!」
「いいだろう」
「任せてください!」
「ただし、未来の会社法は持ち込むなよ」
「……はい!」
痛いところを突かれました。
事務所に戻ると。
片桐所長は、黙って資料を読んでいました。
そして。
臨時株主総会議事録の一行に、赤鉛筆を引きました。
――出席株主 森田修一。
「ここだ」
所長が言いました。
「はい」
「この記載を、相手は説明できるか」
「できないと思います」
「思うだけでは足りん」
私は背筋を伸ばしました。
「森田さん本人から、当日は出席していないこと、委任状も出していないことを確認した事実確認書を作成します」
「そうだ」
「それから、当日の所在を示せる資料も集めます」
森田さんは、その日、自分の工場で納品作業をしていたそうです。
作業日報。
運送会社の受領印。
従業員の記録。
これらが残っています。
「よし」
所長が頷きました。
「では、組織変更について書いてみろ」
「はい!」
私は原稿用紙に向かいました。
まず。
相手が本当にしようとしていること。
株式会社から有限会社への組織変更。
昭和六十三年当時、これは可能です。
ただし。
商法と有限会社法に従った手続きが必要。
株主総会の決議。
定款。
所定の登記。
さらに、会社債権者の保護。
これらを無視することはできません。
そして。
組織変更しても、会社の法人格は同一です。
だから。
東海精機が負っている三百万円の債務は、それだけでは消えない。
私は書き進めました。
ところが。
「こはる」
所長が呼びました。
「はい」
「ここ」
赤鉛筆。
嫌な予感。
「『総株主の同意がなければ、株式会社は有限会社になれない』」
「はい!」
「違う」
「……ですよね」
「昭和六十三年の制度と、現代の株式会社から持分会社への組織変更を混同している」
赤線。
私は頭を抱えました。
「また未来の法律!」
相馬先輩が笑いました。
「お前、何年先の六法で仕事してるんだ?」
「すみません!」
私は急いで修正しました。
現代なら。
株式会社が持分会社に組織変更するには、総株主の同意が必要。
持分会社が株式会社になる場合にも、総社員の同意が必要。
そして、組織変更計画や債権者保護手続きが必要です。
でも。
昭和六十三年に、株式会社から有限会社になる場合。
同じ条文は使えません。
当時の有限会社法に従って、必要な株主総会決議やその他の条件を確認する。
何より。
議事録に虚偽の出席記録を記載してよいわけではない。
「所長」
「何だ」
「制度は違っても、勝手に会社の形を変えられないという原則は共通していますね」
「そうだ」
「それから、債権者を守るという考え方も」
所長が頷きました。
「会社の形を変える自由と、他人の権利を奪う自由は違う」
私は、その言葉を覚えました。
そして。
もう一つ、気づいたことがありました。
「先輩。そもそも、株式会社から合名会社へ直接変えるという最初の案は、この時代では認められていないんですよね」
「そうだ」
「でも、現代では可能になる」
「ああ?」
「いえ、その……」
私は慌てて口を閉じました。
まずい。
また未来の話をするところでした。
しかし。
この違いこそ、今回の事件の面白いところです。
昭和六十三年。
会社形態の変更には、限られた道しかありません。
一方、現代では、株式会社と持分会社の間で組織変更できる制度が整えられています。
ただし、自由が広がったぶん。
関係者の同意や、債権者を守る仕組みが重要になる。
会社を変えるというのは。
名前を書き直すだけの話ではないのです。
さらに所長は、森田さんから集めた請求書類を机に並べました。
「こはる」
「はい」
「三百万円の請求について、事実を確認しろ」
「はい」
私は、一枚ずつ見ていきました。
発注書。
納品書。
検収記録。
請求書。
支払期日。
そして。
東海精機の担当者が署名した受領書。
「納品は確認されています」
「うん」
「金額も一致しています」
「うん」
「支払期日も過ぎています」
「それで?」
私は顔を上げました。
「組織変更しても、代金支払義務は残ります」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「なら、その事実を通知する」
私は頷きました。
ここで気をつけること。
行政書士は、紛争の代理人として相手と示談交渉をすることはできません。
でも。
依頼者本人の意思に基づいて、事実や法律関係を明確にした通知書を作成することはできます。
もっとも、争いのある請求について、相手と交渉する役割は弁護士の領域です。
だから今回も。
私たちは書類の作成と事実整理に徹します。
そのうえで、必要なら弁護士に引き継ぐ。
紙で戦う。
ただし。
自分たちに許された範囲を超えない。
それが、片桐行政書士事務所のやり方でした。
三時間後。
机の上には、二通の内容証明郵便の原案が並びました。
一通は、東海精機株式会社に対する支払請求に関する通知。
もう一通は、森田さんが株主として行う、議事録の記載に関する異議の通知です。
差出人は、どちらも森田修一さん本人。
私は一通目を読み上げました。
「第一。通知人は、貴社からの発注に基づき、昭和六十三年某月某日、金属加工部品三百個を納入した」
「うん」
「第二。貴社は右部品を検収し、代金三百万円の支払義務を負っている」
「うん」
「第三。右代金の支払期日は既に経過しているが、現在まで入金が確認されていない」
私は息を吸いました。
「第四。貴社は株式会社から有限会社への組織変更を予定している旨通知しているが、組織変更によって法人格の同一性が失われるものではなく、右売買代金債務が当然に消滅するものではない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第五。通知人は、貴社に対し、未払代金三百万円の支払を求める」
そして最後。
――本通知後も支払がなされない場合、通知人は弁護士に相談のうえ、法的措置を検討する。
私は読み終えました。
「どうでしょう!」
相馬先輩が紙を受け取りました。
「余計なことが減ったな」
「褒めました?」
「褒めてねえ」
「ひどい!」
でも。
所長は黙って頷きました。
よし。
一通目、合格。
そして。
二通目。
こちらが、もう一つの刃です。
「第一。通知人は、東海精機株式会社の株主であり、同社発行済株式の二割を保有している」
「うん」
「第二。昭和六十三年某月某日付臨時株主総会議事録には、通知人が出席した旨記載されている」
「うん」
「第三。しかし通知人は、右株主総会に出席しておらず、議決権行使の委任状を交付した事実もない」
所長が目を上げました。
「続けろ」
「第四。したがって、右議事録における通知人の出席及び議決権行使に関する記載は、事実に反する」
私はゆっくり読みました。
「第五。通知人は、右虚偽記載について訂正を求めるとともに、組織変更に関する決議の成否及び手続の適法性について、正確な確認を求める」
最後に。
――通知人は、事実に反する議事録の記載を承認しておらず、必要に応じて弁護士への相談その他の法的措置を検討する。
私は顔を上げました。
「……できました」
相馬先輩が笑いました。
「どうだ、こはる」
「何がですか?」
「社長が六割持ってるから、何でも自由にできるわけじゃねえだろ」
「はい」
「決議要件を満たしているかどうかと、議事録が事実どおりかどうかは、別の話だ」
「そうですね」
「形式だけの書類だと思ってる奴は、その形式に足をすくわれる」
私は頷きました。
組織変更。
現代のテキストでは、四つの手続きを覚えるだけでした。
計画。
同意。
債権者保護。
登記。
でも。
その一つ一つの裏には、人がいます。
株主。
会社の経営に財産を託した人。
債権者。
会社を信用して商品を納めた人。
従業員。
会社で働き、生活を支えている人。
その人たちを無視して。
社長が一人で会社の看板を掛け替える。
そして。
借金を消す。
そんな魔法は、法律のどこにも書かれていないのです。
内容証明郵便を発送してから三日後。
東海精機株式会社から、森田さんに連絡が入りました。
そして。
その翌日。
黒岩社長本人が、片桐行政書士事務所にやって来ました。
「……片桐さんはいるか」
私は顔を上げました。
黒岩剛三。
あの威圧的な社長です。
でも。
今日は、何だか様子が違います。
金色の腕時計は同じ。
高そうな背広も同じ。
ただ。
顔色が悪い。
「所長にお取次ぎします」
私は言いました。
片桐所長が奥から出てきました。
「片桐です」
「……あの書類だが」
「はい」
黒岩社長は、封筒を机に置きました。
「弁護士に見せた」
私は息を呑みました。
「そうですか」
所長は淡々と答えます。
「組織変更しても、三百万円の借金は消えないと言われた」
「そのとおりです」
「……それから」
黒岩社長が言葉を詰まらせました。
「議事録の件も、まずいと」
私は相馬先輩を見ました。
先輩は黙っています。
「森田が出席していないのに、出席したと書いた」
黒岩社長は俯きました。
「それを前提に手続きを進めるのは危険だ、と」
所長は頷きました。
「実際の決議状況を確認しなければなりません」
「……ああ」
黒岩社長は額の汗を拭いました。
「書類を作ったのは、うちの経理担当だ」
……。
出ました。
責任転嫁。
「俺は、詳しいことまで知らなかった」
所長は何も言いません。
「だが、俺が指示したと思われれば……」
黒岩社長の声が小さくなりました。
「役員としての責任も問題になると言われた」
私は黙って聞きました。
取締役には、会社に対する善管注意義務があります。
会社の重要な手続きを、事実に反する資料で進めた場合。
その行為や損害の内容によっては、役員としての責任が問題になります。
ただし。
議事録に誤りがあったというだけで、直ちに個人財産が差し押さえられるわけではありません。
責任を追及するには、その根拠や損害、必要な法的手続きが問題になります。
それでも。
黒岩社長は、ようやく理解したのでしょう。
社長だから何をしても許される。
そんな理屈は、通用しないことを。
「……会社の金が苦しかったんだ」
黒岩社長が呟きました。
「受注が減って、銀行も追加融資に応じない。だから、有限会社にして経営を立て直そうと思った」
私は少しだけ、表情を緩めました。
会社が苦しい。
それ自体は、理解できます。
有限会社への組織変更も、法律上認められた選択肢です。
問題は。
そのために、他人の権利を踏みにじったこと。
「……三百万円は」
黒岩社長が言いました。
「森田さんに、払う」
私は顔を上げました。
「本当ですか?」
「ああ」
黒岩社長が苦々しく頷きました。
「銀行との話もついた。全額、支払う」
相馬先輩が静かに言いました。
「その意思は、森田さん本人に直接伝えてください」
「……分かっている」
所長も頷きました。
「支払に関する具体的な条件は、当事者間で確認してください。争いが残るようなら、弁護士に相談されるのが適切でしょう」
「ああ」
黒岩社長は立ち上がりました。
そして。
帰り際に、小さく言いました。
「……議事録も、事実に合わせて直す」
私は頷きました。
黒岩社長は、最後まで謝罪らしい謝罪をしませんでした。
でも。
会社の看板を替えれば何でも許される。
そう豪語していた男が。
今は、書類の一行を訂正すると言っている。
その変化だけでも。
法律の力を、少し感じました。
一週間後。
森田さんが、事務所を訪れました。
「入金されました」
その一言に。
私は、思わず立ち上がりました。
「三百万円ですか!」
「はい」
森田さんは通帳の写しを見せてくれました。
三百万円。
確かに入金されています。
「よかった……!」
私は胸を撫で下ろしました。
「本当によかったです」
森田さんが笑いました。
「工場を畳まずに済みそうです」
その言葉に。
私は、はっとしました。
三百万円。
大きな金額です。
でも。
このお金は、単なる数字ではありません。
材料費。
従業員の給料。
機械の修理代。
工場の電気代。
家族の生活費。
いくつもの人生が、その三百万円に結びついている。
「うちは、小さい工場ですから」
森田さんが言いました。
「三百万円入らなかったら、本当に危なかったんです」
「そうだったんですね」
「従業員にも、何とか給料を払えます」
私は、胸が熱くなりました。
今回の事件。
組織変更という、会社法の一つの論点。
でも。
守ったものは。
一つの工場の未来だったのです。
「黒岩社長からも、連絡がありました」
「何て?」
「組織変更は、適法な手続きを確認してからやり直すそうです」
私は頷きました。
「それがいいと思います」
「それから……」
森田さんが少し笑いました。
「『お前の親父には借りがある。今回は俺が悪かった』って」
私は目を丸くしました。
「あの社長が?」
「はい」
意外でした。
でも。
森田さんは嬉しそうでした。
「親父が出資したときのこと、覚えていたんですね」
私は頷きました。
会社を支えるのは。
社長一人ではありません。
出資してくれる人。
部品を納める人。
働いてくれる人。
信用してお金を貸す人。
その人たちがいるから。
会社は会社として、存在していられるのです。
森田さんが帰ったあと。
私は机の上の通知書を眺めていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「組織変更って、思っていたより怖いですね」
「怖い?」
「はい」
私はノートを開きました。
「会社の形を変えるだけだと思っていました」
「うん」
「株式会社を持分会社にする。持分会社を株式会社にする。現代では、それが組織変更ですよね」
「未来の話だな」
「はい」
私は苦笑しました。
「でも、会社の形が変わるってことは、株主や社員の立場が変わることもあるんですね」
たとえば。
現代の株式会社から合名会社への組織変更。
株式会社の株主は、原則として引き受けた株式についての責任を負う有限責任の立場です。
しかし。
合名会社の社員は、会社債務について直接無限責任を負う立場になります。
つまり。
会社の形を変えるというだけで。
出資者の責任のあり方が、大きく変わることがある。
だからこそ。
現代の会社法では、株式会社から持分会社になる場合に総株主の同意が必要になる。
勝手に、
「今日からあなたは無限責任社員です」
なんて言われたら。
たまったものではありません。
「先輩」
「何だ」
「現代の制度で全株主の同意が必要な理由、少し分かった気がします」
「そうか」
「単なる多数決だけで、出資者の責任を大きく変えてはいけないからですね」
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
私は続けました。
「それに、会社の債権者もいます」
「森田さんみたいな人間だな」
「はい」
会社が形を変えることで、債権者が不当に不利益を受けないようにする。
だから、現代の組織変更では債権者保護手続きが重要になる。
会社債権者には、法律に従って異議を述べる機会が与えられます。
会社の経営者だけで、全部決めていいわけではない。
「でも」
私は少し考えました。
「どうして昔は、株式会社から合名会社へ自由に変更できなかったんでしょう」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「会社の種類によって、社員や株主の責任が大きく違うからな」
「はい」
「簡単に変えられる制度にして、関係者の権利を害したら困るだろ」
私は頷きました。
なるほど。
昭和の商法は、会社の種類ごとに制度が分かれています。
組織変更できる組合せも限られている。
一方、現代の会社法では。
株式会社と持分会社の間で組織変更を認める。
ただし。
全員の同意や債権者保護といった条件を設ける。
自由に変えられる範囲を広げながら。
守るべき人の権利も、守る。
そんな制度へと整理されていくのです。
「面白いですね……」
私は呟きました。
「何がだ」
「昔の法律を知ると、現代の会社法がなぜこうなったのか、分かるんです」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
「会社の組織変更は、借金を消すための魔法じゃありません」
「うん」
「会社の形を変えても、法人格は同じです」
「そうだ」
「それから、株主や債権者を無視してはいけない」
所長が頷きました。
「もう一つ」
「はい?」
「会社を変える手続きと、会社を潰して別の会社を作ることは、同じではない」
私は目を見開きました。
あ。
確かに。
「組織変更は、会社の同一性を保ったまま形態を変更する制度なんですね」
「そうだ」
「登記上、旧会社の解散と新会社の設立という形を取っても、それだけで別人格になるわけじゃない」
所長が頷きました。
「そこを忘れるな」
私はノートに書きました。
――会社の看板は変えられる。でも、会社の責任は置き去りにできない。
今日の教訓。
これなら忘れません。
そのとき。
相馬先輩が、机の上に一枚の紙を置きました。
「そういえば、こはる」
「はい?」
「お前、さっきから一つ勘違いしてるぞ」
「えっ」
「株式会社の社長が一番偉いと思ってるだろ」
「思ってません!」
「じゃあ、誰が偉い」
私は少し考えました。
「……株主?」
「違う」
「取締役会?」
「違う」
「監査役?」
「何でそうなる」
私は首をかしげました。
「じゃあ、誰ですか」
相馬先輩が笑いました。
「法律を守った奴だよ」
……。
私は目を瞬かせました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
先輩は、森田さんの請求書を指差しました。
「ルールを守った奴が勝つんだ」
私は、しばらく黙りました。
そして。
少し笑いました。
「……先輩」
「何だ」
「今日、珍しく格好いいですね」
「珍しくは余計だ」
「だって、いつも掃除しろしか言わないじゃないですか」
「じゃあ掃除しろ」
「ほら!」
相馬先輩が笑いました。
片桐所長も、ほんの少しだけ口元を緩めた気がしました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが広がっていました。
遠くから。
工場の終業を知らせるサイレンが聞こえます。
あのどこかで。
森田さんの工場も、今日の仕事を終えるのでしょう。
三百万円が支払われたことで。
従業員は給料を受け取り。
家族は、いつもどおり夕飯を囲み。
明日も機械を動かせる。
私はノートを閉じました。
組織変更。
最初は、ただの暗記事項でした。
株式会社を持分会社に変更する。
持分会社を株式会社に変更する。
計画を作る。
同意を得る。
債権者を保護する。
登記をする。
現代の教材では、そんなふうに並んでいます。
でも。
今回の事件で分かりました。
その手続きの一つ一つは。
会社の都合で誰かが損をしないように、用意されたものなのです。
株主の同意。
債権者の異議。
適法な登記。
どれも。
会社を変える社長にとっては、面倒な手続きかもしれません。
でも。
会社を信用して、お金や仕事を託した人にとっては。
大切な防波堤なのです。
「先輩!」
「何だ」
「私、現代の会社法がちょっと好きになりました!」
「また未来の話か」
「だって、会社の形を変える自由と、関係者の保護を両立させてるんですよ!」
「そうか」
「これ、試験に出ますよ!」
「俺は受けねえよ」
「じゃあ問題出します!」
「出すな!」
私は笑いました。
でも。
ノートの最後の一行だけは、真面目に書き直しました。
――組織変更とは、会社の姿を変える制度であって、会社の義務を消す制度ではない。
よし。
完璧。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の男性の声。
『うちの会社、合資会社なんですが……』
「はい」
『社長が、有限責任の社員はもう必要ないと言い出しまして……』
私は鉛筆を止めました。
『全員が無限責任を負う会社に変えるとか言ってるんです』
……。
来ました。
今度は。
合資会社。
そして。
合名会社への変更。
昭和六十三年の商法でも認められている、もう一つの組織変更の道です。
でも。
有限責任社員が、無限責任を負う立場に変わるとなれば。
話は簡単ではありません。
「先輩」
「何だ」
「次も組織変更です」
「聞こえてる」
「しかも、有限責任と無限責任です!」
「分かってる」
「これ、もっと怖い話になりませんか?」
相馬先輩が溜息をつきました。
「こはる」
「はい!」
「面白がる前に、相談票を取れ」
「……はい!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、現在の定款と、社員の皆さんの出資や責任の状況を教えていただけますか?」
昭和六十三年。
商法第二編。
会社の世界は、まだまだ厳格です。
株式会社には株式会社の規律があり。
有限会社には有限会社法があり。
合名会社と合資会社には、それぞれ異なる社員の責任があります。
そして。
どんな会社であっても。
経営者の一存で、他人の権利や義務を好き勝手に書き換えられるわけではありません。
私は今日、ようやく理解しました。
会社とは。
社長の名刺に書かれた肩書ではありません。
株主。
社員。
従業員。
債権者。
いくつもの人間の信用と責任で成り立つ、法律上の存在なのです。
だからこそ。
その形を変えるときには。
一人の社長の都合ではなく。
法律が、口を出す。
そして。
会社の看板を掛け替えるだけで三百万円を踏み倒そうとした男に、私は一つだけ教えてあげたいと思いました。
黒岩社長。
残念でしたね。
会社の名前は変えられても。
納品書に押した検収印まで、消せるわけじゃないんですよ。
だって。
三百万円分の歯車を作った人たちの仕事は。
会社の看板なんかより、ずっと確かなものなのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




