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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 持分会社

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675/701

[会社法・持分会社の社員の責任、加入・退社]現場編 「辞めたから借金は関係ない」の嘘。百八十万円を踏み倒した社長と、退社届では消せなかった無限責任

挿絵(By みてみん)

 会社を辞めれば、会社の借金とも縁が切れる。


 そう思っている人は、少なくありません。


 けれど。


 世の中には、会社を辞めても、簡単には消えない責任があります。


 しかも。


 自分が会社に入る前にできた借金まで、背負うことがあるのです。


 ……怖くありませんか?


 私は怖いです。


 だって。


 普通、入社前の借金なんて、自分には関係ないと思いますよね。


 でも。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、一枚の退社届を見て、思い知らされることになります。


 会社を辞めることと。


 責任から逃げられることは。


 まったく別の話なのだと。


「主人が、会社の借金を押しつけられそうなんです!」


 朝九時。


 事務所へ駆け込んできた女性は、椅子に座るなり、そう言いました。


 三十八歳。


 名前は、水野幸子さん。


 隣には、作業服姿の男性がいます。


 夫の水野修一さん。


 四十一歳。


 町工場で、長年旋盤工をしてきた職人さんでした。


「会社の借金ですか?」


 私が尋ねると、幸子さんは頷きました。


「百八十万円です」


「百八十万円……!」


 私は思わず声を上げました。


 昭和六十三年。


 百八十万円は、一般家庭にとって決して小さな金額ではありません。


「どんな会社なんですか?」


「東海精機合名会社です」


「……合名会社?」


 私は顔を上げました。


 合名会社。


 あ。


 知っています。


 現代の会社法で勉強しました。


 持分会社の一種です。


 合名会社。


 合資会社。


 合同会社。


 三つをまとめて、持分会社と呼ぶ。


 株式会社とは違って、出資者である社員の人的な結びつきが強い会社です。


「なるほど!」


 私は頷きました。


「持分会社ですね!」


 その瞬間。


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「……持分会社?」


「はい!」


「何だ、その呼び方は」


「あ」


 しまった。


 またです。


 未来人の悪い癖。


 昭和六十三年には、現代の会社法がまだありません。


 持分会社という統一的な会社類型も、現在の会社法によって整理されたものです。


 この時代には、商法第二編に合名会社や合資会社の規定があります。


 合同会社なんて、影も形もありません。


「合名会社のことです!」


 私は慌てて言い直しました。


「最初からそう言え」


「はい……」


 相馬先輩は水野さんに向き直りました。


「修一さん。合名会社の社員になったんですか?」


「……はい」


「いつから?」


「去年の十一月です」


「それ以前は?」


「ただの職人でした」


 修一さんは、膝の上で拳を握りました。


「社長に頼まれたんです」


「社長?」


「大沢鉄男という男です」


 修一さんが、苦しそうに続けました。


「長く勤めてきたんだから、これからは経営にも参加してほしいって」


「なるほど」


「俺も嬉しかったんです。職人から、会社の共同経営者になれるって言われて」


 私は少し胸が痛くなりました。


 二十年以上。


 油にまみれて働いてきた職人。


 その人が、経営者から、


「お前も会社の仲間だ」


 と言われたら。


 嬉しくないはずがありません。


「それで、定款に名前を書いたんですね」


 片桐所長が尋ねました。


「はい」


「定款変更の書類はありますか」


「あります」


 修一さんは茶封筒から書類を取り出しました。


 ――東海精機合名会社。


 ――定款変更に関する同意書。


 そこには、修一さんの名前がありました。


 そして。


 会社の社員名簿にも。


 修一さんの名前。


 水野修一。


 無限責任社員。


 ……。


 私は固まりました。


 無限責任。


 それは。


 会社の借金について、出資した金額だけでは済まない責任です。


「修一さん」


 私は恐る恐る聞きました。


「無限責任社員って、どういう意味か説明を受けましたか?」


「……無限?」


 修一さんが首をかしげました。


「社長には、名前だけの共同経営者だって」


「名前だけ?」


「実際の経営は全部社長がやるから、心配しなくていいって」


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩の眉間に、深いしわが寄っています。


「……また名前貸しか」


 低い声でした。


 修一さんが続けます。


「ところが先月、会社の資金繰りが悪くなって……」


「はい」


「取引先から、百八十万円の支払いを求められたんです」


「会社にですか?」


「はい。でも、社長は……」


 修一さんは、一枚の手紙を取り出しました。


 私は受け取りました。


 そこには、乱暴な文字でこう書かれていました。


 ――会社の債務については、社員全員が責任を負う。


 ――水野修一は無限責任社員であるため、会社債務百八十万円について弁済義務を負う。


 ――なお、大沢鉄男は既に退社しているため、今後の会社債務には一切関与しない。


 ……。


 私は二度読みました。


 社長が退社?


 それで、修一さんだけに借金を押しつける?


「これ、おかしくないですか!」


 思わず声が出ました。


「社長が会社の借金を作っておいて、自分だけ辞めて逃げるなんて!」


「そうなんです!」


 幸子さんが身を乗り出しました。


「主人は経営なんて何も知らないんです!」


 修一さんは、うつむいたまま言いました。


「俺、会社を辞めようと思ったんです」


「はい」


「でも社長に、辞めても借金は残るって言われて……」


 私は唇を噛みました。


 悔しい。


 どう考えても、社長が悪い。


 でも。


 私は、さっきの文字を思い出しました。


 ――無限責任社員。


 法律は、気の毒だからという理由だけで、責任を消してくれるわけではありません。


 そして。


 もっと嫌な予感がしました。


「修一さん」


「はい」


「会社の百八十万円の借金は、いつできたんですか?」


「え?」


「去年の十一月より前ですか? 後ですか?」


 修一さんは少し考えました。


「……前です」


「いつですか?」


「去年の八月です」


 私は息を呑みました。


 八月。


 修一さんが合名会社に加入したのは、十一月。


 つまり。


 借金ができたとき、修一さんはまだ社員ではなかった。


 なのに。


 会社の借金を背負わされている。


「それなら!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「加入する前の借金ですから、関係ないんじゃ――」


「こはる」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「六法を開け」


「……はい」


「合名会社の規定だ」


 嫌な予感。


 非常に嫌な予感です。


 私は昭和六十三年の六法を開きました。


 商法第二編。


 合名会社。


 社員の責任。


 加入。


 退社。


 そして。


 新たに加入した社員についての規定。


 ……あ。


 私は手を止めました。


「先輩」


「何だ」


「加入前の債務についても……」


「そうだ」


「責任を負うんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「合名会社に後から加入した社員も、加入前に生じた会社の債務について責任を負う」


 私は椅子に座り直しました。


 ……そんな。


 修一さんは、借金を作っていない。


 会社の経営もしていない。


 でも。


 正式に無限責任社員として加入したなら、会社債権者との関係で、その責任を負う。


「ひどい……」


 私が呟くと、片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「誰に対する責任だ」


「……会社の債権者です」


「そうだ」


 所長は続けました。


「取引先は、会社の内部事情など知らん」


「はい」


「合名会社の社員が無限責任を負うからこそ、信用して取引する相手もいる」


 私は黙りました。


 確かに。


 会社側の人間が、


「私は経営に関わっていません」


「名前を貸しただけです」


 と言えば借金を払わなくて済む。


 そんなことになれば。


 会社の外で真面目に商売をしている人は、誰を信用すればいいのでしょう。


 でも。


 修一さんは、騙されたようなものです。


「所長……」


「分かっている」


 片桐所長は静かに言いました。


「だからこそ、もう一人の責任を調べる」


「もう一人?」


「大沢鉄男だ」


 私は顔を上げました。


 そうです。


 元社長。


 退社届を出して逃げた男。


「退社したから、一切関係ない」


 本当に。


 そんな簡単に逃げられるのでしょうか。


 その日の午後。


 私たちは、東海精機合名会社の資料を集めました。


 定款。


 変更同意書。


 登記事項を確認するための資料。


 取引先から届いた請求書。


 そして。


 大沢鉄男の退社届。


 書類の上には、こう書かれていました。


 ――昭和六十三年九月三十日をもって、東海精機合名会社を退社する。


 大沢鉄男。


 署名押印。


 日付は九月二十日。


「九月三十日……」


 私は呟きました。


「今月末で退社したことにするんですね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「だが、こいつを見ろ」


 先輩が差し出したのは、百八十万円の請求書でした。


 取引先。


 浜名鋼材商会。


 鋼材代金。


 納品日。


 昭和六十二年八月二十五日。


「……去年の八月?」


「そうだ」


「大沢社長が退社する、一年以上前ですね」


「ああ」


 私は六法を開きました。


 現代の会社法なら。


 退社した社員の責任について、会社法第六百十二条。


 退社の登記前に生じた債務については、従前の責任の範囲内で責任を負う。


 しかも、一定の期間は責任が残る。


「所長!」


「何だ」


「退社前の借金なら、退社しても責任が残りますよね!」


「そうだ」


「だったら、大沢社長も逃げられません!」


 私は勢いよく六法を指差しました。


「会社法第六百十二条です!」


 ……。


 沈黙。


 相馬先輩がゆっくり顔を上げました。


「……会社法?」


「あ」


「第六百十二条?」


「……ああっ!」


 やりました。


 またです。


 昭和六十三年には会社法がありません。


 私は、未来の条文を口走ってしまいました。


「お前な」


 相馬先輩が呆れました。


「何度言えば分かる」


「すみません!」


「今は商法だ」


「はい!」


「未来の六法で内容証明を書いたら、相手に笑われるぞ」


「反省してます!」


「三秒で忘れるな」


 ……厳しい。


 でも。


 考え方自体は、間違っていません。


 当時の商法にも、合名会社の退社した社員について、既存の会社債務に対する責任を直ちに消さない仕組みがありました。


 退社。


 それだけで。


 過去に発生した債務への責任が、すべて消滅するわけではありません。


「つまり……」


 私は呟きました。


「修一さんは、加入前の借金についても責任を負う可能性がある」


「そうだ」


「でも、大沢社長も、退社前の借金について責任を負う」


「そうだ」


「両方、責任が残るんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「合名会社の無限責任ってのは、それだけ重いんだよ」


 私は深く息を吸いました。


 なるほど。


 会社の入口。


 社員の加入。


 会社の出口。


 社員の退社。


 その両方に、債権者を守るための仕組みがある。


 新しく入った人間が、


「昔の借金は知りません」


 と言えない。


 出ていった人間も、


「もう辞めたから知りません」


 では済まない。


 これ。


 人間関係としては怖いです。


 でも。


 会社の外にいる取引先からすれば、とても大切な仕組みなのです。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「もう一つ調べろ」


「何ですか?」


「会社の財産だ」


 私は首をかしげました。


「会社の財産?」


「会社が払えるのかどうかだ」


 あ。


 そうでした。


 合名会社も法人です。


 会社の債務は、まず会社自身の債務。


 無限責任社員だからといって、会社に十分な財産があるかも調べず、何の条件もなく個人の財産を取り上げてよいわけではありません。


「会社の財産だけでは債務を完済できない場合などに、社員の直接責任が問題になるんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「会社に弁済能力があるか、財産に対する執行がどうなっているか。そこを飛ばすな」


「はい!」


 私たちは、修一さんに事情を確認しました。


 すると。


 新たな事実が分かりました。


「会社の機械は、先月ほとんど運び出されました」


 修一さんが言ったのです。


「……え?」


「社長が、別の工場に移すって」


「誰の工場ですか?」


「大沢社長が、個人で始める新しい工場です」


 私は固まりました。


 ……ちょっと待ってください。


 会社には百八十万円の未払金。


 会社の機械は、社長の新しい工場へ移される。


 その一方で。


 社長は合名会社から退社。


 残された修一さんに、借金を押しつける。


「……これ、計画的じゃないですか?」


 私は呟きました。


 相馬先輩の目が細くなりました。


「そう見えるな」


 片桐所長が短く言いました。


「機械の移転を調べろ」


「はい!」


「会社の帳簿と、譲渡契約の有無も確認だ」


「はい!」


「会社のものを、社長が自分のものとして持っていったなら、別の問題になる」


 そうです。


 会社の財産。


 社長個人の財産。


 この二つは、同じではありません。


 会社の金は、社長の財布ではない。


 会社の機械も、社長の私物とは限らない。


 その区別を曖昧にしたまま、債権者への支払いだけ拒む。


 そんな都合のいい話が、通るはずありません。


 翌日。


 大沢鉄男が、片桐行政書士事務所へやって来ました。


 五十歳前後。


 派手な背広。


 金色の腕時計。


 顔には、いかにも自信満々という笑みが張りついています。


「おう。行政書士さん」


 大沢は椅子に座るなり、足を組みました。


「水野が相談に来たそうじゃねえか」


 私は顔を上げました。


「……はい」


「困るんだよなあ。会社の内部のことに、部外者が首を突っ込んじゃ」


 相馬先輩が静かに言いました。


「当事務所は、水野さんから会社関係書類の確認と作成について相談を受けています」


「ふん」


 大沢は鼻で笑いました。


「どうせ、借金を払いたくないって話だろ?」


「事実関係を確認しています」


「無駄だよ」


 大沢は机を指で叩きました。


「合名会社の社員は無限責任だ。水野は社員になった。だから払う。それだけだ」


 私は唇を噛みました。


 腹が立ちます。


 でも。


 法律の一部分だけを見れば、完全に間違いとも言えません。


 修一さんが正式に加入した無限責任社員なら、加入前の会社債務についても責任が問題になる。


 ただし。


 それは、大沢自身の責任が消えることを意味しません。


「では」


 片桐所長が口を開きました。


「大沢さんご自身は、いつ退社されたのですか」


「九月三十日だ」


「退社届の日付も、そうなっていますね」


「ああ」


「退社に関する定款変更と登記は、どのように処理しましたか」


 大沢の表情が、少し変わりました。


「……登記?」


「はい」


「そんなもん、後からやればいいだろ」


 相馬先輩が顔を上げました。


「後から?」


「退社届を出したんだから、もう俺は社員じゃねえよ」


「退社届を一枚書けば、登記も自動的に変わると思っているんですか」


「何?」


 相馬先輩は資料を机に置きました。


「合名会社では、社員の加入や退社、責任関係について、商法の定めがあります。退社に伴う登記も重要です」


「だから何だ」


「そもそも、その退社が適法に成立したかどうかも確認が必要です」


 大沢は不機嫌そうに顔をしかめました。


「俺の会社だぞ」


 出ました。


 その言葉。


「俺が作った会社だ。誰が入るか、誰が辞めるか、俺が決めるんだよ」


 私は心の中で叫びました。


 違います!


 会社は社長の私物ではありません!


 でも。


 相馬先輩は、声を荒らげませんでした。


「大沢さん」


「何だよ」


「合名会社に、株式会社のような社長の独裁権があるとお考えなら、定款を読み直した方がいい」


「は?」


「社員の加入も、退社も、会社の財産の処分も、法律と定款に従って行うものです」


「法律、法律ってうるせえな!」


 大沢は机を叩きました。


「会社は俺が作ったんだ! 俺が法律だ!」


 ……。


 言いました。


 本当に言いました。


 俺が法律だ。


 ここまで堂々と言われると、むしろ清々しい。


 もちろん。


 法律的には、まったく清々しくありません。


 片桐所長は、淡々と言いました。


「では、法律に従って書類を確認します」


 大沢の笑みが、少し引きつりました。


 まず問題になったのは、退社の時期でした。


 合名会社では、定款に存続期間を定めていない場合など、一定の条件のもとで、事業年度末に退社できる仕組みがあります。


 その際には、原則として事前の予告が必要です。


 やむを得ない事由があれば、別の扱いが問題になります。


 しかし。


 大沢の提出した退社届は、九月二十日付。


 退社希望日は、九月三十日。


 わずか十日後。


「この退社について、他の社員との合意を示す書類はありますか」


 片桐所長が尋ねました。


「……ない」


「定款に、特別の退社規定がありますか」


「知らん」


「やむを得ない事由があったのでしょうか」


「俺が辞めたいんだよ!」


 所長は黙って頷きました。


「分かりました」


 そして。


 一枚の定款を開きました。


「こちらには、会社の存続期間の定めがありません」


「だから?」


「退社の効力については、法律に従って検討する必要があります」


 大沢の表情が、少しずつ険しくなりました。


「……何が言いたい」


 片桐所長は静かに答えました。


「退社届の日付だけでは、法律上の退社が成立したと断定できません」


 大沢は黙りました。


 さらに。


 所長は続けました。


「仮に退社が有効だったとしても、それ以前に生じた会社債務に対する責任が、直ちに消えるわけではありません」


「……何?」


「百八十万円の鋼材代金は、あなたが退社を申し出る前に発生しています」


 大沢の顔色が変わりました。


「いや、だから、それは水野が……」


「水野さんの責任と、あなたの責任は別の問題です」


 相馬先輩が言いました。


「新しく社員になった水野さんにも、加入前の債務について責任が生じ得る。そこは否定しません」


「だったら!」


「ですが」


 先輩は言葉を切りました。


「後から入った人間に責任が生じるからといって、先にいた人間の責任が消えるわけじゃねえ」


 ……。


 事務所が静かになりました。


 大沢の口が、少し開いたまま止まっています。


「社長が一番偉いんじゃねえ」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「商法を守った奴が勝つんだよ」


 私は思わず拳を握りました。


 出ました。


 相馬先輩の決め台詞。


 でも今回は。


 ここで終わりではありませんでした。


「もう一点あります」


 片桐所長が言いました。


「会社の工作機械です」


 大沢の肩が、ぴくりと動きました。


「……機械?」


「東海精機合名会社が所有していた旋盤二台と、フライス盤一台です」


「ああ」


「現在は、どこにありますか」


「俺の新しい工場だ」


「譲渡契約書はありますか」


「……ない」


「代金は支払いましたか」


「俺の会社の機械だぞ!」


 大沢が怒鳴りました。


 けれど。


 所長は少しも動じません。


「東海精機合名会社の財産と、大沢鉄男個人の財産は別です」


「……!」


「会社の機械を、適法な手続を経ずに個人の工場へ移したのであれば、会社に対する返還や損害賠償の問題が生じ得ます」


 大沢の顔が、青ざめました。


 所長は続けます。


「会社の財産で鋼材代金を支払えないというのであれば、なぜ会社の機械が移転したのか、確認する必要があります」


「そ、それは……」


「必要な資料が整わなければ、債権者への説明も難しくなるでしょう」


 大沢は黙り込みました。


 私は、ようやく事件の全体像が見えてきました。


 会社の借金。


 新しい社員。


 退社した社長。


 移された会社の機械。


 これらは、別々の問題ではありません。


 大沢は、会社の資産を自分の新事業に移して。


 古い会社には借金だけを残し。


 その会社から、自分だけ逃げようとしていた可能性がある。


 ……なんて人でしょう。


「大沢さん」


 片桐所長が言いました。


「本日は、ご説明いただいた事実を記録しました」


「……ああ」


「今後の書類は、関係者の正式な意思を確認したうえで作成します」


 所長は淡々と続けました。


「法律上の責任が争いになる場合には、弁護士に相談する必要があります」


 大沢は立ち上がりました。


「……分かったよ」


 もう、最初の余裕はありませんでした。


 けれど。


 この日の大沢は、まだ白旗を上げませんでした。


 翌朝。


 私は事務所の机に向かい、資料を整理していました。


「所長」


「何だ」


「やっぱり修一さんの責任は、消せないんでしょうか」


 片桐所長は、しばらく黙っていました。


「正式に無限責任社員になっているなら、会社債権者に対する責任を、簡単に否定することはできん」


「……はい」


「だが、それで大沢の責任が消えるわけでもない」


 相馬先輩が横から言いました。


「それに、修一さんがどういう説明で社員になったか、会社内部でどんな約束があったかも調べる必要がある」


「はい」


「債権者に対する責任と、会社内部の負担関係は同じじゃねえからな」


 私は頷きました。


 そうです。


 会社の外にいる債権者を守ること。


 会社の内部で、誰が最終的に損失を負担すべきかを考えること。


 それは、別の問題です。


「では、まず書類ですね!」


「ああ」


 相馬先輩は、机に資料を並べました。


「修一さんが加入したときの定款変更書類」


「はい」


「大沢の退社関係書類」


「はい」


「会社の財産に関する資料」


「はい」


「そして、取引先の債権を示す請求書」


「はい!」


 片桐所長が言いました。


「こはる。事実関係を一覧にしろ」


「分かりました!」


 私は紙を広げました。


 昭和六十二年八月。


 東海精機合名会社、鋼材代金百八十万円の債務を負担。


 昭和六十二年十一月。


 水野修一、合名会社に加入。


 昭和六十三年九月。


 大沢鉄男、退社届を提出。


 同時期。


 会社の機械が大沢個人の新工場へ移転。


「……できました!」


 片桐所長が目を通しました。


「よし」


 それから所長は、修一さんの話を思い出すように言いました。


「本人に説明しなければならんことがある」


「何ですか?」


「無限責任社員の責任だ」


 私は顔を上げました。


「加入するときだけじゃなく、退社するときも、慎重でなければならない」


「はい」


「そして、退社に伴う持分の計算も必要になる」


 持分。


 つまり、その社員が会社に対して持っている出資者としての権利関係です。


 会社を辞めるからといって、最初に出したお金がそのまま全部戻るとは限りません。


 会社の財産。


 借金。


 利益。


 損失。


 それらを踏まえた計算が必要です。


 私は思いました。


 会社に入るのも大変。


 辞めるのも大変。


 しかも。


 辞めた後まで責任が残る。


「合名会社って、思った以上に重いですね……」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「だから無限責任なんだよ」


 ……確かに。


 その日。


 修一さんが、もう一度事務所を訪れました。


 私たちは、確認できた事実を説明しました。


「……そうですか」


 修一さんは、しばらく黙っていました。


「俺にも、責任があるんですね」


 その声は、小さく震えていました。


「会社に加入する前の借金でも……」


 私は胸が苦しくなりました。


「修一さん」


「はい」


「まだ、全部を諦める必要はありません」


 私は言いました。


「会社の財産がどれだけあるか、責任が問題になる条件が満たされているか、確認することがあります」


「……はい」


「それから、大沢さん自身の責任も消えていません」


 修一さんが顔を上げました。


「社長も?」


「はい」


 片桐所長が頷きました。


「会社の債務をどう処理するか。会社の財産はどうなっているか。退社が適法だったか。それぞれ整理していきましょう」


 修一さんは、ゆっくり頷きました。


 その隣で、幸子さんが夫の手を握ります。


「あなた」


「……うん」


「一人で抱え込まないで」


 私は、二人の姿を見ていました。


 法律は、時に厳しい。


 知らなかった。


 説明されなかった。


 名前だけだった。


 それだけで、債権者に対する責任が消えるとは限らない。


 でも。


 法律が責任を重く定めているからこそ。


 強い立場の人間が、弱い立場の人間にすべてを押しつけて逃げることも、簡単ではないのです。


 私たちは、水野さん本人の意思を確認し、大沢に送る通知書の原案を作成しました。


 内容証明郵便です。


 差出人。


 水野修一。


 宛先。


 大沢鉄男。


 書面には、感情的な言葉を入れませんでした。


 ただ、確認すべき事実と法律上の問題を、順番に記載しました。


 ――第一。


 東海精機合名会社は、昭和六十二年八月、浜名鋼材商会に対して鋼材代金百八十万円の債務を負担した。


 ――第二。


 通知人水野修一が同社社員となったのは、同年十一月である。


 ――第三。


 合名会社の社員が加入前の会社債務について責任を負い得るとしても、そのことによって、既存社員であった貴殿の責任が当然に免除されるものではない。


 ――第四。


 貴殿の退社の効力及び退社に伴う登記について、関係書類の確認を要する。


 ――第五。


 仮に退社が有効に成立している場合であっても、退社前に発生した会社債務については、商法上、従前の責任が存続する場合がある。


 ――第六。


 会社所有の工作機械が貴殿の新工場へ移転した経緯について、その所有権及び譲渡代金の処理に関する事実確認を要する。


 そして最後に。


 ――以上の事項について、関係資料を整理のうえ、書面による回答を求める。


 ――なお、本件に関して法律上の紛争が生じる場合には、弁護士への相談その他の適切な手続を検討する。


 私は書面を読み終えました。


「……できました」


 相馬先輩が頷きました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、断定できない部分を断定してねえのがいい」


「はい」


「退社が無効だとか、機械を横領したとか、まだ決まってもいないことを書くな」


「分かっています」


 私は、原案に目を落としました。


 事実を確かめる。


 法律を当てはめる。


 分からないことは、分からないと区別する。


 そのうえで。


 相手に説明を求める。


 これが、書類の力です。


「所長」


「何だ」


「内容証明って、やっぱり怖いですね」


 所長は、朱肉の蓋を閉めながら言いました。


「怖いのは紙じゃない」


「はい?」


「紙に残る事実だ」


 私は黙りました。


 昨日も今日も。


 片桐所長の言葉は、短いのに重い。


 そして。


 その重さは、数日後に証明されることになります。


 内容証明郵便を発送してから三日後。


 大沢鉄男から、書面が届きました。


 差出人は、大沢本人。


 ただし。


 今回は、あの乱暴な手紙とは違いました。


 丁寧な文章でした。


 ――会社の既存債務について、自身の責任が当然に消滅するものではないことを理解した。


 ――会社所有機械の移転について、会社と個人の財産関係を整理する。


 ――浜名鋼材商会に対する未払代金について、関係者と協議し、適切な支払方法を検討する。


 ――水野修一に対し、会社債務の全額を単独で負担させるとの従前の主張は撤回する。


 私は思わず立ち上がりました。


「所長!」


「何だ」


「大沢社長が!」


「ああ」


「自分の責任を認めました!」


 相馬先輩が手紙を読みました。


「……あいつ、弁護士にでも相談したな」


「そうなんですか?」


「文面が急にまともになってる」


 私は笑いそうになりました。


 確かに。


 あの、


「俺が法律だ!」


 と怒鳴っていた人とは思えません。


 でも。


 片桐所長は、まだ笑いませんでした。


「支払われるまで、終わりではない」


 私は頷きました。


「はい」


 そうです。


 書面で責任を認めた。


 それだけでは、百八十万円は消えません。


 実際に誰が、どのように支払うのか。


 会社の財産はどう扱われるのか。


 それを、これから確認しなければならないのです。


 ただ。


 少なくとも。


 大沢が一方的に責任を押しつけて逃げるという思惑には、待ったがかかったのでした。


 その後。


 大沢は弁護士に相談し、浜名鋼材商会との間で未払代金の処理を進めました。


 移転していた工作機械についても、会社の資産であることを前提に、返還と財産関係の整理が行われました。


 大沢が個人として支払資金を出し、会社から浜名鋼材商会へ百八十万円が支払われたのは、それから二週間後のことでした。


 もちろん。


 修一さんが無限責任社員として加入した事実まで、消えたわけではありません。


 加入時の説明や、今後の退社の問題も残っています。


 けれど。


 今回の百八十万円については、債権者への支払いが確認されました。


 会社の借金を、そのまま修一さん一人に押しつける事態は、避けられたのです。


 一週間後。


 浜名鋼材商会の主人が、修一さんと一緒に事務所へ来ました。


 五十代の男性。


 名前は、浜田源治さん。


「代金、受け取りました」


 浜田さんは、深く頭を下げました。


「本当に助かりました」


 私は慌てて立ち上がりました。


「いえ、そんな!」


 浜田さんが言いました。


「うちは、小さな鋼材屋です」


「はい」


「百八十万円が入ってこないと、次の仕入れができなくなるところだった」


 私は息を呑みました。


「……そんなに」


「うちにも、従業員が五人いるんです」


 浜田さんは、少し笑いました。


「みんな家族を抱えてますからね」


 その言葉に、私は胸が熱くなりました。


 百八十万円。


 ただの数字ではありません。


 鋼材屋の仕入れ代金。


 従業員の給料。


 その家族の生活。


 取引先へ支払うお金。


 会社の債務とは。


 誰かの日常を支える約束でもあるのです。


「修一さん」


 浜田さんが言いました。


「あなたに腹を立てていたわけじゃないんです」


「……はい」


「ただ、うちだって、払ってもらわないと困るんです」


 修一さんは、深く頭を下げました。


「すみませんでした」


 浜田さんは首を振りました。


「もういいんです。代金は受け取りましたから」


 それから。


 少し照れくさそうに言いました。


「また、いい仕事してくださいよ」


 修一さんの目が潤みました。


「……はい」


 私は二人を見ていました。


 鋼材を売る人。


 その鋼材で機械を作る人。


 どちらも、真面目に働く人です。


 そして。


 会社法や商法は、本来こういう人たちの取引を支えるためにある。


 社長が偉そうにするためでも。


 従業員を騙すためでも。


 借金を踏み倒すためでもありません。


 約束を守る。


 信用を守る。


 そのための法律なのです。


 二人が帰ったあと。


 私は机に向かい、六法を眺めていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「会社の社員って、怖いですね」


「今さらか」


「だって!」


 私は指を折りました。


「会社に入る前の借金でも、責任を負う場合がある」


「そうだ」


「会社を辞めても、昔の借金について責任が残る場合がある」


「そうだ」


「出資者としての持分を払い戻してもらう話も、単純じゃない」


「そうだな」


「しかも、無限責任社員だと、個人の財産にまで責任が及ぶ可能性がある!」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、合名会社の社員になるってのは、簡単な話じゃねえ」


 私は深く息を吸いました。


「現代なら、合同会社という選択肢もあるんですけどね……」


「……何?」


 しまった。


 私は固まりました。


「ご、合同……」


「合同?」


「……合同で、会社をよくする方法があるかなって!」


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「お前、また妙なこと考えてるな」


「気のせいです!」


 危ない。


 合同会社。


 現代では、持分会社の一つ。


 社員全員が有限責任という仕組みです。


 けれど。


 昭和六十三年には、まだ存在しません。


 この時代には、合名会社や合資会社のほか、有限会社法に基づく有限会社などがある。


 会社の種類。


 出資者の責任。


 設立の手続。


 どれも、現代とは違います。


「でも先輩」


「何だ」


「合資会社なら、有限責任社員もいるんですよね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「合資会社は、無限責任社員と有限責任社員がいる会社だ」


「そうですよね」


「だからといって、有限責任社員は何があっても一円も払わなくていい、なんて勘違いするなよ」


「はい!」


 有限責任。


 無限責任。


 言葉は似ています。


 でも。


 責任を負う範囲が、根本的に違う。


 合名会社の社員は、全員が無限責任社員。


 合資会社には、無限責任社員と有限責任社員がいる。


 その有限責任社員についても、出資の履行状況などによって、債権者に対する責任の範囲が問題になります。


 そして。


 私は、あることに気づきました。


「所長」


「何だ」


「会社の種類って、結局、誰がどこまで責任を負うかで考えると、分かりやすいですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「名前だけ覚えても駄目なんですね」


「ああ」


「実際に借金ができたとき、誰が支払うのか」


「そうだ」


「それが会社制度の大事なところなんですね」


 所長は、静かに言いました。


「信用には、必ず裏付けがいる」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい! 片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 年配の男性の声でした。


『合資会社のことで、相談したいんですが』


「合資会社ですか!」


『はい』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ました。


『息子が、うちの会社の社員になったんです』


「はい」


『ところが、出資金をまだ全部払っていないらしくて……』


 私は背筋を伸ばしました。


 出資金。


 未払い。


 有限責任社員。


 ……これは。


『本人は、有限責任なんだから借金なんて払わなくていいって言うんですが』


 私は思わず声を上げそうになりました。


 ああ。


 出ました。


 今度は。


 有限責任なら、何も払わなくていい。


 という勘違いです。


「先輩」


「何だ」


「次の相談、合資会社です」


「聞こえてる」


「しかも有限責任社員です」


「そうだな」


「出資金が未払いです!」


「だから聞こえてるって!」


 私は受話器を握り直しました。


「申し訳ありません。まず、会社の定款と、出資した金額、まだ払い込んでいない金額を確認させてください」


 昭和六十三年。


 商法の世界は、今日も複雑です。


 無限責任。


 有限責任。


 社員の加入。


 社員の退社。


 そして、持分の払戻し。


 どれも、試験のテキストでは硬い言葉です。


 でも。


 その向こう側には、必ず誰かの生活がある。


 職人の家族。


 鋼材屋の従業員。


 小さな会社の経営者。


 その人たちが安心して取引できるように、商法は責任の所在を定めている。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、持分会社が少し好きになりました!」


「また妙な言い方しやがって!」


「でも、無限責任社員にはなりたくありません!」


「だったら、なる前に定款を読め!」


「はいっ!」


 私は笑いました。


 今日、覚えたことがあります。


 会社に加入するということは。


 単に仲間になることではありません。


 法律上の責任を引き受けることでもある。


 そして。


 会社を退社するということは。


 単に名前を消すことでもありません。


 過去の責任を、どこまで残すのか。


 そこまで考えなければならないのです。


 机の上には、修一さんの定款変更書類が残っていました。


 あの日。


 修一さんが、誇らしい気持ちで押したであろう赤いハンコ。


 その一つが、百八十万円の責任につながりかけた。


 けれど。


 大沢が押した退社届の赤いハンコもまた。


 過去の借金を、魔法のように消すことはできなかった。


 同じ赤い印影。


 同じ会社の書類。


 でも。


 法律は、その一枚に書かれた言葉だけで、すべてを決めるわけではありません。


 誰が。


 いつ。


 どんな立場で。


 どこまでの責任を負ったのか。


 そこまで見なければならないのです。


 私は、六法をそっと閉じました。


 そして。


 次の相談票を取り出します。


 だって。


 無限責任は、名前のとおり重い。


 けれど。


 その重さから、真面目な人間だけを犠牲にして、悪い社長が逃げ切れるほど。


 昭和の商法も、甘くはないのです。

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