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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 持分会社

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674/701

[会社法・持分会社の設立と設立取消し]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 会社は、登記をすれば生まれます。


 けれど。


 登記をしたからといって、すべてが許されるわけではありません。


 嘘をついて仲間を集めた会社。


 借金から逃げるために財産を隠した会社。


 そんな会社まで、法律が無条件で守ってくれるのでしょうか。


 答えは、いいえ。


 会社を作る自由がある一方で。


 不正な設立を争うための制度も、ちゃんと存在しているのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かって、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……会社って、作るときから怖いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何だ、いきなり」


「だって、昨日の事件ですよ!」


「ああ。東山の合資会社か」


「そうです!」


 東山源蔵。


 町工場への未払代金三百二十万円を抱えながら、新しい合資会社を設立した男。


 自分の機械設備を新会社に移し、


「もう俺の財産じゃない」


 と言って支払いを拒んでいました。


 しかも。


 技術者の杉浦和夫さんには、


「名前と技術を貸すだけでいい」


 と説明しながら。


 定款には、


 ――無限責任社員 杉浦和夫。


 と書いていたのです。


「ひどい話でしたよね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「でも、最終的には内容証明が効きました」


「そうだな」


「東山は三百二十万円を支払いましたし、杉浦さんも専門家に相談できました」


 私はノートを開きました。


「ただ、今日こそ整理したいんです」


「何をだ」


「持分会社の設立の流れと、設立無効・設立取消しの違いです!」


 相馬先輩が煙草をくわえました。


「また勉強会か」


「もちろんです!」


 そのとき。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


「まず、持分会社とは何か!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――持分会社。


「持分会社って、現代の会社法では三種類ですよね」


 私は指を三本立てました。


「合同会社!」


「何だ、それは」


「合名会社!」


「うん」


「合資会社!」


「そうだ」


 私は胸を張りました。


「この三つを、まとめて持分会社と呼ぶんです!」


 相馬先輩は首をかしげました。


「お前、また聞いたことのない会社を混ぜてないか?」


「あっ」


 しまった。


 昭和六十三年。


 合同会社は、まだ存在しません。


 この時代の会社制度は、商法第二編や有限会社法などに分かれています。


 現代の会社法が成立し、施行されるのは、ずっと先。


 平成十八年。


 つまり二〇〇六年です。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今、実際にある会社を考えろ」


「はい……」


 私は慌てて書き直しました。


 昭和六十三年。


 合名会社。


 合資会社。


 そして別の法律で規律される有限会社。


 株式会社も、当然あります。


 でも。


 合同会社は、まだありません。


「じゃあ、まず合名会社と合資会社の違いを言ってみろ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私はノートに二つの会社を書きました。


 ――合名会社。


 無限責任社員だけで構成される会社。


 ――合資会社。


 無限責任社員と有限責任社員の両方がいる会社。


「ここが大事なんです!」


 私は言いました。


「合名会社は、全員が無限責任社員!」


「うん」


「合資会社は、無限責任社員と有限責任社員が混在!」


「そうだ」


「そして現代の合同会社は、全員が有限責任社員!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「また未来の話か」


「でも、行政書士試験では三つをまとめて覚えたいんです!」


「何だ、その試験は」


 私は笑いました。


 でも。


 この三つの違いは、とても重要です。


 なぜなら。


 会社が借金を返せなくなったとき。


 社員がどこまで責任を負うかが、大きく違うからです。


「じゃあ、無限責任社員って何ですか?」


 私は相馬先輩に聞きました。


「会社の債務について、会社財産で足りなければ、個人の財産でも責任を負うことがある社員だ」


「そうです!」


 私は赤鉛筆を取りました。


 ここ。


 絶対に覚えたいところです。


 たとえば。


 ある合名会社が、取引先に一千万円の借金を負っていたとします。


 でも。


 会社の財産は百万円しかない。


 残り九百万円。


「どうなると思います?」


 私が聞くと、相馬先輩が言いました。


「無限責任社員に責任が及ぶ場合があるな」


「はい!」


 法律が定める要件のもとで、会社債権者は、無限責任社員に履行を求めることができます。


 そのとき。


 無限責任社員は、


「自分が最初に出資したのは十万円だけです」


 と言って、それだけを理由に残りの責任を免れることはできません。


「怖いですね……」


 私は呟きました。


「そりゃそうだ」


「でも、それなら会社を作る意味がないような……」


 相馬先輩が笑いました。


「そんなことはねえよ」


 無限責任社員がいることは、取引先から見れば、一つの信用になります。


 会社財産だけでなく。


 社員個人の責任も問題になるからです。


 つまり。


 無限責任は、社員にとって重い。


 けれど。


 会社債権者を守る働きもあるのです。


「じゃあ有限責任社員は?」


 私は続けました。


「原則として、出資の範囲で責任を負います」


 ただし、ここで注意。


 出資すると約束したのに、まだ履行していない部分がある場合などには、責任が問題になります。


 だから、


「有限責任社員なら、どんな場合でも一円も追加で払わなくていい」


 と覚えるのは不正確です。


 また、有限責任社員でも、個人的に借金の保証人になれば、その保証について別の責任を負います。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「それで東山は、自分を有限責任社員にしたんですね」


「そういうことだ」


「そして杉浦さんを無限責任社員に」


「ああ」


 私は定款の写しを取り出しました。


 ――杉浦和夫 無限責任社員。


 ――東山源蔵 有限責任社員。


 まさに。


 責任の違いが、悪用されかけた事件だったのです。


「先輩」


「何だ」


「社員って、会社で働く人という意味じゃないんですよね」


「そこも大事だな」


 私は頷きました。


 持分会社の社員は、会社の構成員。


 出資者としての地位を持つ人です。


 会社で働く従業員とは、意味が違います。


 だから。


「社員になってくれ」


 と言われたとき。


 単なる雇用契約なのか。


 会社の構成員として出資し、責任を負う話なのか。


 そこを間違えると、とんでもないことになる。


「杉浦さんは、まさにそこを誤解させられていたんですね」


「そうだ」


 私は、ノートに赤い丸をつけました。


「さて、次は設立の流れです!」


 私はページをめくりました。


 ――持分会社の設立。


 現代の会社法では、大きく三つの段階で考えます。


 定款作成。


 出資。


 設立登記。


「この三つです!」


 相馬先輩が頷きました。


「まず定款だな」


「はい!」


 定款。


 会社の基本的なルールを定めた書類です。


 商号。


 目的。


 本店所在地。


 社員の氏名や住所。


 誰が無限責任社員で、誰が有限責任社員なのか。


 何を出資するのか。


 こうした事項を定めます。


「ここで大事なのが、社員全員の署名か記名押印です」


 私は言いました。


「現代の会社法第五百七十五条第一項ですね」


 持分会社を設立するには。


 社員になろうとする者が定款を作成し、その全員が署名又は記名押印する。


「全員、です!」


 私は強調しました。


「一人でも名前があればいい、ではありません」


「そうだな」


「社長だけが勝手に決めればいいわけでもありません」


「うん」


 そこで、私は東山の定款を思い出しました。


 杉浦さんの名前。


 そしてハンコ。


「でも先輩」


「何だ」


「全員の署名押印があっても、それだけで全部安心とは言えませんね」


「どうしてだ」


「騙されて署名した可能性があるからです」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 形式が整っていることと。


 本人の意思に問題がないこと。


 それは、別の問題です。


 東山は、杉浦さんの署名押印を手に入れました。


 でも。


「責任は一切負わせない」


 という説明が、実際の定款の内容と食い違っていた。


 だからこそ、詐欺による意思表示の取消しが問題になったのです。


「ところで、先輩」


「何だ」


「持分会社の定款って、公証人の認証は必要ですか?」


「どうだったかな」


 私はにやりと笑いました。


「不要です!」


 現代の会社法では。


 株式会社の原始定款には、原則として公証人の認証が必要です。


 一方。


 持分会社の定款には、公証人の認証は必要ありません。


「ここ、重要ですよ!」


「そうなのか」


「はい。会社を作る流れで、株式会社と持分会社の違いとして覚えるところです」


 私はノートに書きました。


 株式会社。


 定款認証が必要。


 持分会社。


 定款認証は不要。


 ただし。


 認証が不要ということは。


 定款がいい加減でよいという意味ではありません。


「むしろ、定款の中身をよく確認しないといけないんですよね」


「そうだな」


 片桐所長が言いました。


「誰が何を引き受けるか。そこを書いてあるのが定款だ」


「はい」


「読まずにハンコを押すな」


 私は大きく頷きました。


 昨日の杉浦さんのようなことが起きないためにも。


 その一言は、重いのです。


「さて、二段階目!」


 私はノートをめくりました。


 ――出資。


「ここで、無限責任社員と有限責任社員の違いが出てきます!」


 まず。


 無限責任社員。


 金銭。


 物。


 そして。


 労務。


 信用。


「労務や信用でも出資できるんです!」


 私は言いました。


「昨日の杉浦さんがそうだったな」


「はい!」


 杉浦さんは旋盤加工の熟練技術者。


 その技術や労務を提供することが、出資として定められていました。


「でも、有限責任社員は違います」


 私は赤鉛筆を走らせました。


 有限責任社員は、金銭その他の財産を出資します。


 労務や信用だけを出資とすることはできません。


「どうしてだと思います?」


 私が聞くと、相馬先輩が言いました。


「有限責任だからだろ」


「そうです!」


 有限責任社員は、責任が限定されています。


 だから。


 会社の債権者を保護するためにも、財産的な裏付けが重要になる。


 一方、無限責任社員は、会社債務について個人責任を負う可能性があります。


 だから、労務や信用による出資が認められているのです。


「なるほど……」


 私はノートを見つめました。


 同じ社員。


 同じ出資。


 でも。


 責任の重さによって、認められる出資の内容が違う。


「これ、ちゃんと理由があるんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「法律は、ただ意地悪で区別してるわけじゃねえ」


 私は笑いました。


 確かに。


 試験では、


 無限責任社員=労務・信用も出資可能。


 有限責任社員=金銭等の財産に限る。


 と暗記します。


 でも。


 会社債権者の保護という理由を知ると、一気に覚えやすくなります。


「そして、出資の時期です!」


 私は次のページを開きました。


 ここ。


 とても大事です。


 現代の会社法では。


 合名会社と合資会社については、設立登記までに出資をすべて履行しなければならないという一律の制限はありません。


 定款で定めた出資義務はもちろんありますが、設立前の全額履行が一律に要求されるわけではないのです。


 一方。


 合同会社。


「また知らない会社が出てきたな」


 相馬先輩が言いました。


「現代の勉強ですから!」


 私は続けました。


 合同会社では。


 定款作成後、設立登記の時までに。


 社員になろうとする者が、出資に係る金銭の全額を払い込み、金銭以外の財産については全部を給付しなければなりません。


 会社法第五百七十八条です。


「つまり、全額です!」


 私は赤丸をつけました。


「一部だけでいい、ではありません」


「どうして違うんだ?」


 相馬先輩が聞きました。


 私は胸を張りました。


「合同会社は、全員が有限責任社員だからです!」


 合名会社。


 全員が無限責任社員。


 合資会社。


 無限責任社員が存在する。


 だから、会社債権者には、無限責任社員の個人責任という保護があります。


 でも。


 合同会社は、全員が有限責任社員。


 無限責任社員がいません。


 そこで。


 会社を設立する段階で、出資の全額を履行させる仕組みが採られているのです。


「なるほどな」


 相馬先輩が頷きました。


「責任を限定する代わりに、最初の出資をきちんと用意させるわけか」


「そうです!」


 私は嬉しくなりました。


 ここも、丸暗記ではありません。


 責任の範囲。


 出資の方法。


 出資の時期。


 全部つながっています。


「ところで先輩」


「何だ」


「東山は、どうして合資会社にしたと思います?」


「杉浦を無限責任社員にしたかったんだろ」


「はい」


 東山は、自分を有限責任社員にしました。


 そのうえで。


 杉浦さんに労務を出資させ、無限責任社員にした。


 つまり。


 合資会社という仕組みの特徴を利用したのです。


 ただし。


 仕組みを利用すること自体は、悪いことではありません。


 問題は。


 相手を騙して、その仕組みに組み込んだ疑いがあること。


 そして、債権者を害するために会社を設立した疑いがあることなのです。


「では、三段階目!」


 私は鉛筆を掲げました。


 ――設立登記。


「持分会社は、本店所在地において設立登記をすることで成立します!」


 現代の会社法第五百七十九条。


 これが会社成立の決定的な段階です。


 定款を作った。


 出資の準備をした。


 それだけでは、まだ設立登記による会社の成立には至っていません。


「つまり、登記が重要なんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「会社として成立するための手続だからな」


 私は書きました。


 定款作成。


 出資。


 設立登記。


 この三段階。


「よし!」


 私は大きく丸をつけました。


「覚えました!」


 すると。


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい!」


「では、登記が済んだ会社に、設立上の重大な問題があったらどうする」


 ……。


 私は鉛筆を止めました。


 来ました。


 今日の本題。


 東山合資会社の事件で、最も重要だった部分です。


「設立無効の訴えと、設立取消しの訴えです!」


 所長が頷きました。


「違いを説明してみろ」


 私は息を吸いました。


 ここからが、本番です。


「まず、設立無効の訴えです」


 私はノートに書きました。


 ――設立無効の訴え。


 会社の設立に重大な瑕疵がある場合に、会社の設立の無効を求める訴えです。


「現代の会社法では、第八百二十八条に規定されています」


 私は続けました。


「株式会社にも、持分会社にも、設立無効の訴えがあります」


「そうだな」


「でも、誰でも好き勝手に無効だと言えるわけではありません」


 ここが重要です。


 会社は、一度成立すると、多くの人と取引します。


 会社の名前で契約する。


 財産を買う。


 従業員を雇う。


 銀行から融資を受ける。


 そんな会社について。


 誰かが突然、


「設立時に問題があったから、最初から全部なかったことにする!」


 と言い出したら。


 取引相手は大混乱です。


「だから、法律は特別な訴訟手続を用意しているんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「成立した会社の効力は、軽々しく覆せない」


 私は書きました。


 会社の設立無効。


 単に無効だと主張するだけでは足りない。


 法律上の訴えによって争う。


 さらに、現代の会社法では、設立無効の訴えにも期間や原告適格の制限があります。


「ここ、受験生が間違えやすいところです!」


 私は言いました。


「無効って聞くと、いつでも誰でも主張できると思ってしまうんです」


「普通の民法の無効と混同するわけか」


「そうなんです!」


 でも。


 会社の設立無効は、普通の契約の無効と同じ感覚で考えてはいけません。


 会社という組織が成立し、外部と取引しているからです。


 法律は、その影響まで考えているのです。


「それでは、設立取消しの訴えです!」


 私は勢いよくページをめくりました。


 ――設立取消しの訴え。


「ここが、今回の事件の決定打でした!」


 現代の会社法第八百三十二条。


 持分会社には、設立取消しの訴えという制度があります。


「ただし!」


 私は指を立てました。


「株式会社には、この設立取消しの訴えはありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「無効とは違うんだな」


「そうです!」


 設立無効の訴え。


 株式会社にも、持分会社にもある。


 設立取消しの訴え。


 持分会社にある。


 株式会社にはない。


「この違い、絶対に覚えたいです!」


 私はノートに大きな赤丸をつけました。


 そして。


「設立取消しの原因は、二つです」


 私は指を二本立てました。


 一つ目。


 社員が、民法その他の法律の規定によって、設立に係る意思表示を取り消せる場合。


 二つ目。


 社員が、その債権者を害することを知って持分会社を設立した場合。


「……あれ?」


 相馬先輩が言いました。


「何です?」


「その二つ、どっちも昨日の事件じゃねえか」


「そうなんです!」


 私は嬉しくなりました。


 まさに。


 東山合資会社の事件には、二つの設立取消しの原因が現れていたのです。


「まず、一つ目!」


 私はノートに書きました。


 ――社員の意思表示に取消原因がある場合。


 杉浦和夫さんです。


 東山は杉浦さんに言いました。


「名前と技術を貸してくれればいい」


「借金の責任は負わせない」


 ところが。


 定款には、


 ――無限責任社員。


 と書かれていました。


 私は顔を上げました。


「先輩、これってどういう問題でした?」


「詐欺による意思表示の取消しが問題になったな」


「そうです!」


 民法上、詐欺によって意思表示をした場合には、その意思表示を取り消せることがあります。


 今回でいえば。


 杉浦さんが、無限責任を負わないという虚偽の説明を信じて、会社設立に同意したのか。


 その説明がなければ、同意しなかったのか。


 そうした事情が重要になります。


「ただし」


 私は続けました。


「説明と定款が違うだけで、必ず詐欺が成立するわけではありません」


「そうだな」


「相手を欺く行為があったのか、杉浦さんがどう誤信したのか、具体的な事情を調べる必要があります」


 相馬先輩が頷きました。


「だから手紙が重要だったんだな」


「はい!」


 東山の手紙。


 ――金銭的な負担や借金の責任を負わせることは一切ない。


 定款。


 ――無限責任社員 杉浦和夫。


 私は、その二枚を思い出しました。


 同じ人物が関係する書類なのに。


 内容が食い違っていた。


「だから、杉浦さん本人が設立取消しを求める立場になり得るんですね」


「そうだ」


 現代の会社法第八百三十二条第一号。


 この場合、訴えを提起できるのは、取消原因のある社員本人です。


「つまり」


 私は書きました。


 騙された社員。


 その社員が、設立取消しの訴えを提起できる。


「覚えやすいですね!」


「そうか?」


「自分の意思表示に問題があったから、自分が訴える!」


 相馬先輩が笑いました。


「まあ、筋は通ってるな」


 私は頷きました。


 ただし。


 民法上の意思表示の取消しと、既に成立した会社の設立取消しは、区別する必要があります。


 会社設立に関する意思表示に取消原因があっても、それだけで登記済みの会社が自動的に消えるわけではありません。


 会社の設立を取り消すには、法律の定める訴えが必要です。


「ここ、昨日も所長に注意されました」


「そうだったな」


 私は赤線を引きました。


 ――意思表示の取消しと、会社設立の取消しは別の段階。


 よし。


 ここは、もう間違えません。


「それでは、二つ目!」


 私はノートに書きました。


 ――債権者を害することを知って会社を設立した場合。


 こちらは、藤田修一さんの事件です。


 藤田さんは、東山に対して三百二十万円の未払代金債権を持っていました。


 ところが東山は。


 新しい合資会社を設立。


 自分が持っていた機械設備を出資。


 そのうえで、


「もう俺の財産じゃない」


 と主張しました。


「ひどいですよね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「でも、ここでも事実確認が必要なんです」


 私は続けました。


 単に借金がある人が会社を作った。


 それだけでは、当然に設立取消しの原因になるわけではありません。


 事業を始めるために会社を作ること自体は、法律が認めている行為です。


 問題は。


 債権者を害することを知って設立したかどうか。


 そこです。


「東山は、何をしていました?」


 私が聞くと、相馬先輩が答えました。


「支払期限を過ぎてから、機械を会社に移していた」


「はい」


「そのうえ、自分には払える財産がないと主張した」


「そうです!」


 しかも。


 東山は、そのことを自分の手紙に書いていました。


 だから。


 債権者を害することを認識して設立したのではないか。


 という疑いが強まった。


「この場合、誰が設立取消しを求められるんですか?」


 相馬先輩が聞きました。


「債権者です!」


 私は即答しました。


 現代の会社法第八百三十二条第二号。


 社員がその債権者を害することを知って持分会社を設立した場合。


 当該債権者が、設立取消しの訴えを提起できます。


「つまり、藤田さんですね」


「そうだな」


 私はノートに書きました。


 騙された社員。


 社員本人が訴える。


 債権者を害する設立。


 債権者が訴える。


「すごく分かりやすいです!」


 私は笑いました。


 そして。


 少し考えました。


「先輩」


「何だ」


「これって、詐害行為取消権に似ていますね」


「ほう」


 相馬先輩が顔を上げました。


「いいところに気づいたな」


 私は驚きました。


「褒めました?」


「まだだ」


「何でですか!」


 でも。


 確かに似ています。


 債務者が、債権者を害することを知って財産を移した。


 その行為を争う。


 民法の詐害行為取消権を思い出します。


 ただし。


 持分会社の詐害設立については、会社の設立取消しという特別の制度が用意されています。


 これを、民法の一般的な詐害行為取消しと、何の区別もなく扱うことはできません。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「会社の設立そのものを問題にするから、特別の制度があるんですね」


「そういうことだ」


 私は、改めて事件を思い出しました。


 東山は、会社という新しい器を作りました。


 そして、その中に財産を移した。


 けれど。


 会社を作れば、債権者の権利を無視していいわけではありません。


「先輩」


「何だ」


「会社制度って、債務者だけのためにあるわけじゃないんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「取引先も、そこで働く奴も、みんな関係してるんだからな」


 私は頷きました。


 まさに。


 そのとおりです。


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる。設立取消しの期間は?」


 来ました。


 ここ。


 行政書士試験で非常に重要な数字です。


 私は勢いよく答えました。


「現代の会社法では、会社成立の日から二年以内です!」


「二年か」


「はい!」


 会社法第八百三十二条。


 持分会社の設立取消しの訴え。


 会社成立の日から二年以内。


「ここ、絶対に覚えます!」


 私は大きく書きました。


 ――二年以内。


「ただし、先輩」


「何だ」


「昭和六十三年には、まだこの会社法八百三十二条は存在しません」


「当然だ」


「当時は、旧商法の規定を確認する必要があります」


 昭和の商法には、合名会社の設立取消しに関する規定があり、合資会社にも準用されていました。


 現在の会社法第八百三十二条は、そうした制度を引き継ぎ、持分会社の規定として整理したものです。


「だから、昔の法律と現代の法律は、まったく無関係ではないんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「名前や条文の場所が変わっても、守ろうとしているものは続いている」


 私はその言葉に、大きく頷きました。


 法律は、突然空から降ってくるものではありません。


 昔の制度。


 昔の問題。


 昔の失敗。


 そうした積み重ねを受けて、整えられてきたものです。


「でも、先輩」


「何だ」


「設立取消しの訴えを起こせば、会社はその瞬間に消えるんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 ここも大事です。


 設立取消しの原因がある。


 訴えを起こす。


 だからといって、その瞬間に会社が消えるわけではありません。


 裁判所の判断が必要です。


 さらに、現代の会社法では、会社設立を無効とし、又は取り消す判決が確定しても、その効力は将来に向かって生じるのが原則です。


「えっ」


 私は思わず言いました。


「最初から全部なかったことにはならないんですか?」


 相馬先輩が頷きました。


「会社がそれまでに取引してるからな」


 なるほど。


 会社は、既に契約を結んでいるかもしれません。


 従業員を雇っているかもしれません。


 商品を売っているかもしれません。


 それをすべて、最初から存在しなかったことにしたら。


 関係者が大混乱です。


「だから、設立無効や設立取消しの判決には、特別な効力のルールがあるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 会社を守る。


 でも、不正な設立まで無条件で守らない。


 その両方を考えた制度なのです。


「ここまで来たら、まとめます!」


 私はノートを広げました。


 現代の会社法。


 持分会社。


 三種類。


 合名会社。


 合資会社。


 合同会社。


 設立の流れ。


 定款作成。


 出資。


 設立登記。


 そして。


 設立無効の訴え。


 設立取消しの訴え。


「……多いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「今さら気づいたか」


「でも、事件に当てはめると覚えやすいです」


 私はノートに、東山合資会社の名前を書きました。


 まず、定款。


 杉浦さんが無限責任社員。


 東山が有限責任社員。


 次に、出資。


 杉浦さんが労務。


 東山が機械設備。


 そして、設立登記。


 会社が成立。


 でも。


 その設立に問題があった。


 杉浦さんは、騙されて署名した可能性。


 藤田さんは、債権者を害する目的で会社を作られた可能性。


「つまり、二つの設立取消原因が問題になったんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、東山が支払ったからといって、設立が取り消されたわけじゃないぞ」


「はい!」


 私は即答しました。


 そこも、重要です。


 東山は、藤田さんへ三百二十万円を支払いました。


 でも。


 それは、会社設立取消しの判決が出たからではありません。


 内容証明を受け取り、法律上のリスクを理解し、自分で支払いを選んだのです。


 杉浦さんの件も。


 会社の設立取消しが認められたわけではありません。


 弁護士と相談しながら、今後の対応を検討している段階です。


「だから、書面が届いただけで会社が消えた、という理解は間違いですね」


「そのとおりだ」


 片桐所長が頷きました。


「法律の可能性と、実際に生じた結果を混同するな」


 私は、その言葉に赤線を引きました。


「ところで」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、最初に合同会社にすればよかったとか言ってたよな」


「……はい」


「何でだ?」


 私は少し考えました。


「現代では、合同会社は社員全員が有限責任だからです」


「うん」


「株式会社と違って、定款の公証人認証も不要ですし」


「うん」


「設立の仕組みも比較的簡単です」


「なるほどな」


 でも。


 そこで私は、昨日の東山を思い出しました。


 もし現代の合同会社だったとしても。


 東山が債権者を害することを知って設立したなら。


 やはり法律上の問題が生じます。


 会社が新しい。


 制度が便利。


 手続が簡単。


 それだけで、不正が許されるわけではありません。


「所長」


 私は言いました。


「現代では、どうして会社法として独立したんでしょうか」


 片桐所長が顔を上げました。


「どう思う」


 私は少し考えました。


 昭和六十三年。


 会社のルールは、商法第二編や有限会社法などに分かれていました。


 株式会社。


 合名会社。


 合資会社。


 有限会社。


 それぞれの制度が、別々の規定に支えられていた。


 しかも。


 時代が進むにつれて、会社の実態も変わっていく。


 大きな企業だけでなく。


 小さな企業。


 家族経営。


 一人で事業を始める人。


 新しい事業に挑戦する人。


 そうした人たちにとって、昔の制度が必ずしも使いやすいとは限りません。


「……会社を作る人たちの実態に合わせるため、でしょうか」


 私は答えました。


「そういうことだろうな」


 相馬先輩が頷きました。


 私は続けました。


「昔の株式会社は、発起人が七人以上必要だったんですよね」


「そうだ」


「取締役も三人以上」


「ああ」


「監査役も必要」


「そうだな」


「だから、一人で事業をしたい人には、かなり大変だった」


 私は笑いました。


「しかも、頭数合わせのために、名前だけ借りることも起こりやすかった」


「そうだな」


 昨日の杉浦さんとは、事情が違います。


 でも。


 形式上の人数を満たすためだけに、名前を借りる。


 そんな問題が起きる背景は、理解できます。


 現代の会社法では。


 発起人一人。


 取締役一人。


 資本金一円でも、株式会社を設立できます。


 ただし、会社の機関設計などによって必要な役員数は異なります。


 また、資本金一円ということと、その金額だけで事業が成り立つことは別です。


「すごい違いですね……」


 私は呟きました。


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「時代が変われば、商売の形も変わるんだろうな」


 私は頷きました。


 現代の会社法は、平成十七年に制定され、平成十八年に施行されました。


 それまで商法や有限会社法などに分かれていた会社制度を整理し、統合した法律です。


 さらに。


 会社設立や運営の柔軟性も高められました。


 合同会社が新設されたのも、その大きな変化の一つです。


「でも、先輩」


「何だ」


「簡単に会社を作れるようになったからこそ、債権者保護が大事になるんですよね」


「そうだな」


 私は、ノートを見つめました。


 合同会社。


 全員が有限責任。


 だから、設立登記までに出資の全額を履行する。


 持分会社の設立取消し。


 社員が騙された場合や、債権者を害することを知って設立した場合に、訴えを認める。


 会社を作る自由。


 取引相手の保護。


 その両方を考えている。


「なるほど……」


 私は小さく頷きました。


「会社法って、ただ会社を作りやすくした法律じゃないんですね」


「そうだ」


 片桐所長が言いました。


「会社を使って商売する者と、その会社を信用して取引する者。どちらも考えなければならん」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 窓の外は、すっかり夕暮れでした。


 私は鉛筆を持ち直しました。


「所長!」


「何だ」


「確認問題をお願いします!」


「いいだろう」


 所長は少し考えました。


「現代の持分会社は、何種類だ」


「三種類です!」


「言ってみろ」


「合名会社、合資会社、合同会社!」


「合名会社の社員は?」


「全員が無限責任社員です!」


「合資会社は?」


「無限責任社員と有限責任社員が混在します!」


「合同会社は?」


「全員が有限責任社員です!」


 よし。


 ここまでは完璧。


 所長が続けました。


「持分会社を設立する流れは?」


「定款作成、出資、設立登記です!」


「定款に署名するのは?」


「社員になろうとする者全員です!」


「定款の公証人認証は?」


「持分会社では不要です!」


「無限責任社員の出資は?」


「金銭や財産だけでなく、労務や信用も可能です!」


「有限責任社員は?」


「金銭その他の財産に限られます!」


 片桐所長が頷きました。


「では、合同会社の出資は、いつまでに」


「定款作成後、設立登記の時までに全額を履行します!」


「持分会社が成立するのは?」


「本店所在地で設立登記をしたときです!」


 よし。


 順調。


 そこへ、相馬先輩が口を挟みました。


「じゃあ、設立取消しの原因は?」


「二つです!」


 私は即答しました。


「一つ目。社員が設立に係る意思表示を取り消せる場合!」


「誰が訴える?」


「その社員です!」


「二つ目は?」


「社員が債権者を害することを知って持分会社を設立した場合!」


「誰が訴える?」


「その債権者です!」


「期間は?」


「現代の会社法では、会社成立の日から二年以内です!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


「じゃあ、株式会社にも設立取消しの訴えはあるか?」


「ありません!」


「設立無効の訴えは?」


「株式会社にも持分会社にもあります!」


「よし!」


 私は笑いました。


 完璧です。


 少なくとも、ここまでは。


 すると。


 片桐所長が最後の問題を出しました。


「こはる」


「はい!」


「会社を作れば、個人の借金は消えるか」


「消えません!」


「なぜだ」


「会社と個人は別の権利主体だからといって、個人が既に負っている債務が当然に消滅するわけではないからです!」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は、ようやく息を吐きました。


 東山の事件。


 最初は、単なる代金踏み倒しの話だと思っていました。


 でも。


 実際には、いくつもの法律問題がつながっていた。


 合資会社の設立。


 無限責任社員と有限責任社員。


 労務出資。


 定款への署名押印。


 詐欺による意思表示。


 債権者を害する設立。


 設立取消しの訴え。


 そして。


 会社と個人の責任の区別。


「法律って、つながってますね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「教科書では、全部別の項目なのに」


「現場じゃ一つの事件だからな」


 私は、少し笑いました。


 確かに。


 現実のトラブルは、教科書の目次どおりに起きるわけではありません。


 誰かが騙される。


 誰かが財産を隠す。


 誰かが支払いを受けられなくなる。


 その事実の中から、必要な法律を見つける。


 それが、実務なのです。


「さて」


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の一行です。


 何を書こう。


 少し考えました。


 定款。


 出資。


 登記。


 設立無効。


 設立取消し。


 全部を、一行にまとめたい。


 私は鉛筆を握りました。


 そして。


 ゆっくり書きました。


 ――持分会社は「定款・出資・登記」で生まれ、「無効は重大な設立の瑕疵、取消しは社員の意思表示と債権者保護」で争われる。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長くねえか?」


「一行です!」


「確かに一行だが」


「重要なところを全部入れたんです!」


 片桐所長が、少しだけ笑いました。


「悪くない」


「やった!」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 この一行を見るたびに、きっと思い出すのでしょう。


 藤田さんの工場。


 三百二十万円の未払代金。


 杉浦さんの手。


 東山合資会社の定款。


 そして。


 無限責任社員という言葉の重さ。


 会社を作ることは、決して悪いことではありません。


 むしろ。


 新しい仕事を始める。


 人を雇う。


 技術を引き継ぐ。


 地域に産業を生む。


 そういう大切な役割があります。


 でも。


 会社という便利な仕組みを、誰かを騙すために使ってはいけない。


 財産を隠すために使ってはいけない。


 責任を押しつけるために使ってはいけない。


 だからこそ。


 法律は、会社の誕生を認めるだけでなく。


 その誕生を争う道まで、用意しているのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、今日はずいぶん調子がいいな」


「もちろんです!」


「じゃあ、一つ聞くぞ」


「何でもどうぞ!」


 相馬先輩は、机に置かれた東山合資会社の定款を指差しました。


「もし、あの会社が合同会社だったらどうなってた?」


 ……。


 私は止まりました。


 合同会社。


 全員が有限責任社員。


 つまり。


 杉浦さんを無限責任社員にすることはできません。


 しかも、労務だけを出資とすることもできません。


「あっ!」


 私は声を上げました。


「東山のやり方、そのままでは使えません!」


「ほう」


「合同会社は、全員が有限責任社員ですから!」


「うん」


「杉浦さんに労務だけを出資させることもできません!」


 私は思わず立ち上がりました。


「つまり、東山は合資会社の仕組みを利用したんです!」


 相馬先輩がにやりとしました。


「そういうことだ」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 合名会社。


 合資会社。


 合同会社。


 名前が似ているだけではありません。


 誰が責任を負うのか。


 何を出資できるのか。


 その違いが、会社の設計そのものを変えるのです。


「すごい……!」


 私は呟きました。


「昨日の事件、会社の種類を変えるだけで成り立たなくなるんですね」


「そういうこともある」


 相馬先輩が頷きました。


 私は、ますます嬉しくなりました。


 これです。


 この感覚。


 試験の知識が、事件の仕組みを理解する鍵になる瞬間。


 これがあるから、法律の勉強はやめられません。


「よし!」


 私は六法を閉じました。


「今日は完璧です!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、片付けろ」


「え?」


「机の上、書類だらけだぞ」


「今、勉強してたんです!」


「終わったんだろ」


「……はい」


 私は仕方なく、書類をまとめ始めました。


 すると。


 相馬先輩が、また妙なことを言いました。


「こはる」


「何です?」


「お前、一人で会社を作りたいとか言ってなかったか」


 ……。


 私は固まりました。


 あ。


 確かに以前。


「将来は一人で会社を作れますよね」


 と口走ったことがあります。


 もちろん。


 現代の会社法の知識で。


「先輩、それは……」


「株式会社なら発起人七人以上だぞ」


「はい……」


「取締役も三人以上必要だ」


「はい……」


「監査役もいる」


「分かってます!」


 相馬先輩がにやりとしました。


「じゃあ、お前が株式会社を作るなら、あと何人集めるんだ?」


 私は口を閉じました。


 昭和六十三年。


 この時代では、一人で簡単に株式会社を設立することはできません。


 発起人を七人そろえる必要があります。


「……六人です」


 私が答えると、相馬先輩が笑いました。


「そうだな」


「でも先輩!」


「何だ」


「私は、名前だけ貸してもらうようなことはしません!」


 私は胸を張りました。


「ちゃんと会社を理解して、一緒に事業をしたい人を集めます!」


 相馬先輩は、少しだけ驚いた顔をしました。


 それから。


「まあ、それがいいだろうな」


 と言いました。


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 次の瞬間。


「ただし、こはる」


「はい?」


「まずは事務所の掃除を一人前にできるようになれ」


「……え?」


「会社設立の前に、机の上を整理しろ」


「それとこれとは別問題です!」


「整理できてねえ奴が会社を作れるか!」


「作れます!」


「じゃあ、定款に掃除当番でも書いとけ!」


「そんな定款、嫌です!」


 相馬先輩が吹き出しました。


 片桐所長も、ほんの少し笑っています。


 私は頬を膨らませました。


 でも。


 こうして笑えるのも。


 今日の事件が、一つの区切りを迎えたからです。


 藤田さんは、代金を受け取れた。


 杉浦さんは、これから自分の技術を若い職人たちに教える。


 東山が作った会社については、まだ法的な整理が必要です。


 それでも。


 少なくとも、二人は前へ進むことができました。


 私は箒を手に取りました。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、工場の明かりが灯っています。


 小さな町工場。


 大きな工場。


 商店。


 運送会社。


 その一つ一つに、働く人たちがいます。


 会社というものは。


 紙の上に名前を書けば、それで終わるものではありません。


 定款を作る。


 出資する。


 登記する。


 そして。


 会社を使って、誰かと仕事をする。


 そのすべてに、責任が伴う。


 だからこそ。


 法律は、会社の誕生を認めると同時に。


 不正な誕生を争う仕組みまで用意している。


 私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――持分会社は「定款・出資・登記」で生まれ、「無効は重大な設立の瑕疵、取消しは社員の意思表示と債権者保護」で争われる。


 よし。


 これなら忘れません。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノートを見てねえで掃除しろ!」


「今、重要な法律知識を定着させていたんです!」


「定着は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私は将来、合同会社を作ります!」


「だから、何だその合同会社ってのは!」


 ……。


 しまった。


 また未来の法律を口にしてしまいました。


 私は慌てて箒を動かしました。


 昭和六十三年。


 合同会社の誕生は、まだ先の話。


 けれど。


 会社を作る人と、会社を信用する人。


 その両方を守ろうとする法律の考え方は、既にこの時代にも存在しています。


 便利な制度ほど。


 それを使う人間の誠実さが問われる。


 そして。


 不正な設立を許さない仕組みがあるからこそ。


 まじめに会社を作る人たちも、安心して事業を始められるのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「会社を作る前に、定款をちゃんと読みます!」


「当たり前だ!」


「出資もしっかり確認します!」


「そうしろ!」


「設立登記も忘れません!」


「当然だ!」


「でも、掃除当番を定款には書きません!」


「誰も書けなんて言ってねえ!」


 私は笑いながら、箒を動かしました。


 会社は、登記によって生まれる。


 でも。


 その会社が信頼されるかどうかは。


 登記簿の一行だけでは決まらない。


 誰が、どんな意思で集まったのか。


 何を出資したのか。


 誰に、どんな責任を負うのか。


 そして。


 その会社を使って、誰を幸せにしようとしているのか。


 そこまで考えられて初めて。


 会社という仕組みは、人の未来を支えるものになるのでしょう。


 少なくとも。


 他人の人生を踏み台にして作った会社が、法律の陰に隠れて笑い続けられるほど。


 商法も、会社法も。


 甘い法律ではないのです。

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