[会社法・持分会社の設立と設立取消し]現場編 「会社を作れば借金は消える」の嘘。財産を隠した悪徳社長と、定款に刻まれた無限責任の罠
会社を作れば、借金から逃げられる。
そんな都合のいい魔法が、本当にあるのでしょうか。
自分の財産を会社に移す。
会社の名前で商売を始める。
そして、借金取りが来たら。
「もう俺の財産じゃない。会社のものだ」
そう言って追い返す。
なるほど。
一見すると、賢いやり方に見えるかもしれません。
でも。
法律は、そんな逃げ道まで用意しているわけではありません。
まして。
会社を作るための書類に、嘘が隠されていたとしたら。
その会社は、本当に守られるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、ある恐ろしい言葉に出会うことになります。
――設立取消しの訴え。
会社を作った。
登記も済ませた。
だから、もう誰にも文句は言わせない。
そんな男の思い込みを。
商法は、定款の一行から崩してしまうのでした。
「うちの機械が、よその会社のものになっていたんです」
朝九時。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
「……機械ですか?」
私は相談票を取りました。
男性の名前は、藤田修一さん。
四十五歳。
町工場を経営しています。
油の染み込んだ作業服。
節くれだった指。
その手には、古びた封筒が握られていました。
「旋盤が二台。それから、金属加工用のフライス盤が一台です」
「高そうですね……」
「全部で八百万円近くします」
「八百万円!」
私は思わず声を上げました。
昭和六十三年。
八百万円といえば、町工場にとって相当な金額です。
「それが、どうして別の会社のものに?」
藤田さんは唇を噛みました。
「半年ほど前、東山精機という会社に、加工代金を踏み倒されたんです」
東山精機。
地元ではそこそこ知られた部品メーカーです。
社長は東山源蔵。
五十二歳。
強引な経営で有名な人物だそうです。
「うちが納めた部品の代金、三百二十万円を払わないんです」
「三百二十万円……」
「何度請求しても、資金繰りが苦しいの一点張りで」
私は眉をひそめました。
「それで、機械というのは?」
「東山が、別の会社を作ったんです」
藤田さんは封筒から一枚の紙を取り出しました。
商業登記簿の謄本。
そこには、こう記されていました。
――東山合資会社。
私は目を止めました。
「合資会社……?」
「はい」
「株式会社ではないんですね」
「そうなんです。東山精機の社長が、自分の工場にあった機械を、新しい合資会社に移したそうで」
「その機械が、八百万円?」
「そうです」
藤田さんは悔しそうに言いました。
「東山は、自分の財産だと言っていた機械を、合資会社への出資に使ったんです」
なるほど。
少し見えてきました。
東山源蔵は、藤田さんへの支払義務を抱えている。
ところが、自分の財産を新しく作った会社へ移した。
そして。
「借金を返せと言ったら、何て言われました?」
藤田さんの顔が歪みました。
「もう財産は会社のものだから、俺には払えない、と」
……。
出ました。
法人格を盾にする悪徳経営者。
私は拳を握りました。
「そんなの、許されません!」
「こはる」
相馬先輩が新聞を置きました。
「はい!」
「まだ結論を出すな」
「でも、明らかに財産隠しじゃないですか!」
「そう見える。だが、本当にそうかを証拠で確かめる」
先輩は藤田さんを見ました。
「藤田さん。東山が合資会社を設立したのは、いつです?」
「三か月前です」
「代金の支払期限は?」
「六か月前でした」
「つまり、支払期限を過ぎてから新会社を作った」
「はい」
「機械の所有関係は確認できていますか」
「元は東山源蔵の個人所有だったと聞いています。機械の購入時の書類も見せてもらったことがあります」
相馬先輩は頷きました。
「まず、その裏付けが必要だな」
そこで。
片桐所長が、静かに口を開きました。
「藤田さん」
「はい」
「その合資会社には、もう一人、社員がいるはずです」
「え?」
「誰ですか」
藤田さんは登記簿を指差しました。
「この人です」
そこに記されていた名前。
――杉浦和夫。
私は首をかしげました。
「知り合いですか?」
「ええ。うちの近所で旋盤工をしている人です」
「その人も経営者なんですか?」
「それが……」
藤田さんは言いにくそうにしました。
「杉浦さん、自分が会社の経営者になったつもりはないと言っているんです」
……。
私は、登記簿を見直しました。
そして。
嫌な予感がしました。
「所長」
「何だ」
「これ、もう一つ事件が隠れていませんか?」
片桐所長は短く答えました。
「ああ」
その目は、既に次の書類を探していました。
「だったら、合同会社にすればよかったのに」
私は思わず呟きました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だって?」
「あっ」
しまった。
またです。
現代の会社法。
現代なら、合同会社という選択肢があります。
出資者全員が有限責任社員。
定款を作成して。
必要な出資を履行して。
設立登記をする。
株式会社より柔軟な内部設計もできる。
しかも、社員一人でも設立できる。
今回の東山のような人間なら、わざわざ他人を巻き込まなくても――
「合同会社って何だ」
相馬先輩が言いました。
「……ですよね」
「何が、ですよね、だ」
「いえ、その……新しい会社形態のようなものを想像して」
「想像で法律を作るな」
「はい……」
昭和六十三年。
この時代には、まだ合同会社がありません。
会社のルールも、現代の独立した会社法ではなく、商法第二編や有限会社法などに分かれています。
今、問題になっているのは。
合資会社。
そして。
合名会社。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「株式会社を一人で作るなら、どうする」
「発起人一人で、取締役一人で……」
そこで止まりました。
しまった。
完全に現代です。
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「発起人は七人以上必要だ。取締役も三人以上。監査役も置かなきゃならねえ」
「はい……」
「一人で株式会社を作れるなんて、どこの国の話だ」
未来の日本です。
もちろん言えません。
「それに、東山が合資会社を選んだのは、人数だけの問題じゃないだろう」
所長が登記簿を見ました。
「責任の違いを見ろ」
私は顔を上げました。
責任。
そうです。
持分会社を考えるうえで、最も重要な部分。
社員が、どこまで会社の債務について責任を負うのか。
その違いです。
「所長。杉浦さんに会いたいです」
「なぜだ」
「この合資会社を、本当にどういうつもりで作ったのか知りたいんです」
所長は頷きました。
「そうだな」
そして、相馬先輩に言いました。
「話を聞いてこい」
「はい」
先輩が立ち上がりました。
「こはるも来い」
「はい!」
私は相談票を閉じました。
どうやら今回。
会社の借金から逃げたい男と。
自分が会社の社員になったことすら理解していない男。
二人の間に、とんでもない書類が眠っていそうです。
杉浦和夫さんは、五十八歳でした。
町外れの小さな旋盤工場。
古い機械が並ぶ建物で、一人黙々と部品を削っていました。
「合資会社?」
私たちが事情を尋ねると、杉浦さんは手を止めました。
「ああ。東山さんの会社ですね」
「杉浦さんも社員になっているそうですが」
相馬先輩が言いました。
「社員?」
杉浦さんは首をかしげました。
「いや、私は従業員として働く話だと思ってましたが」
……。
私は思わず聞き返しました。
「従業員?」
「ええ」
「会社を設立する社員ではなく?」
「違うんですか?」
これは。
まずい。
非常にまずい。
法律でいう持分会社の社員。
それは、普通の意味での従業員とは違います。
会社に出資し、構成員になる人。
しかも、合資会社では。
その責任が、とても重くなる場合があるのです。
「何か書類にハンコを押しましたか?」
私が尋ねると、杉浦さんは頷きました。
「はい。東山さんに頼まれて」
「どんな書類でした?」
「会社を作る書類だと」
「内容は説明されましたか?」
「まあ、名前を貸してほしいというような……」
杉浦さんは困った顔をしました。
「私はお金なんか出してませんよ」
「え?」
「東山さんが言ったんです。杉浦さんは技術で協力してくれればいい。資金はいらないって」
私は相馬先輩を見ました。
先輩の顔が険しくなっていました。
「その書類、控えはありますか」
「あります」
杉浦さんは事務机の引き出しを開けました。
そして。
一冊の書類を持ってきました。
――東山合資会社定款。
私は開きました。
会社の商号。
目的。
本店所在地。
社員の氏名。
出資の内容。
そこには。
はっきりと書かれていました。
――無限責任社員 杉浦和夫。
――出資の目的 機械加工技術及び労務の提供。
――有限責任社員 東山源蔵。
――出資の目的 機械設備その他の財産。
私は固まりました。
「……え?」
もう一度、読みました。
杉浦和夫。
無限責任社員。
東山源蔵。
有限責任社員。
そして。
杉浦さんの出資は、労務。
東山の出資は、財産。
「先輩……」
「ああ」
「これって……」
「そういうことだ」
相馬先輩の声が低くなりました。
杉浦さんは不安そうに聞きました。
「何か、おかしいんですか?」
私は言葉を選びました。
「杉浦さん。東山さんから、会社の借金について個人で責任を負う可能性があると説明されましたか?」
「……借金?」
「はい」
「いや。そんな話は一度も」
杉浦さんの顔色が変わりました。
「私は、ただ技術を貸すだけだと……」
相馬先輩は定款を閉じました。
「杉浦さん」
「はい」
「これは、名前だけの話じゃありません」
「……どういうことです?」
「あなたは、無限責任社員として記載されています」
杉浦さんは黙りました。
「無限……?」
その言葉を、初めて聞くような顔でした。
私は胸が痛くなりました。
この人は。
他人を騙そうとしたわけではない。
ただ、技術を生かして仕事を続けたかった。
それなのに。
会社の定款には。
恐ろしい責任が刻まれていたのです。
「おいおい。何を大騒ぎしてるんだ」
翌日。
片桐行政書士事務所に、東山源蔵が現れました。
濃紺の背広。
金時計。
太い指には、大きな指輪。
いかにも景気のいい社長です。
「杉浦が何か言ったらしいな」
東山は椅子に腰を下ろすなり、足を組みました。
「俺が親切で仕事を回してやってるのに、恩知らずな奴だ」
私は思わず眉をひそめました。
親切?
無限責任社員にしておいて?
「東山さん」
片桐所長が静かに言いました。
「こちらは、事実関係を確認したいだけです」
「事実?」
「東山合資会社の設立についてです」
東山は鼻で笑いました。
「何だ。行政書士が会社の経営に口を出すのか?」
「定款の内容について確認があります」
「定款?」
東山は笑いました。
「そんなもの、形式だろう」
……。
私は耳を疑いました。
定款。
会社の基本ルール。
それを。
形式?
「杉浦は技術者だ。金なんか持ってねえ。だから労務を出資させた。それだけだ」
東山が言いました。
「じゃあ、なぜ杉浦さんを無限責任社員に?」
私が尋ねると、東山はにやりとしました。
「分かってるじゃねえか」
「……何がですか?」
「無限責任社員なら、金を出さなくても労務で出資できるだろ」
私は黙りました。
確かに。
そこだけ見れば、合資会社の制度を使った形です。
でも。
東山は続けました。
「俺は有限責任社員だ。出資した以上の責任なんか負う必要はねえ」
……。
「会社の借金が残ったら?」
私が聞きました。
「会社の財産で払えばいい」
「それでも足りなかったら?」
東山は笑いました。
「無限責任社員がいるじゃねえか」
その瞬間。
私は、はっきり理解しました。
この男。
杉浦さんを会社の仲間にしたかったわけではありません。
自分が引き受けたくない責任を。
杉浦さんに押しつけたかったのです。
「東山さん」
私は言いました。
「杉浦さんには、その責任を説明したんですか?」
「細かいことは知らねえよ」
「無限責任の意味を?」
「ハンコを押したんだから、本人の責任だろ」
東山は机を指で叩きました。
「会社はもう登記してあるんだ。今さら取り消せるわけがねえ」
私は息を呑みました。
そして。
相馬先輩が、ゆっくり顔を上げました。
「……誰がそんなこと言った?」
低い声でした。
「何?」
「登記した会社なら、何をやっても許されると思ってるのか」
「当たり前だろ。正式な会社だぞ」
「正式に成立した会社にも、設立を争う制度はある」
東山の笑顔が、少し消えました。
「何だと?」
相馬先輩は六法を開きました。
「商法だ」
「……商法?」
「お前が使った合資会社の制度だよ」
私は胸が高鳴りました。
来ました。
昭和の商法。
ここからが、本番です。
「こはる」
事務所を出た東山を見送ったあと、片桐所長が言いました。
「はい」
「定款をもう一度見ろ」
私は机に書類を広げました。
東山合資会社。
社員二名。
杉浦和夫。
無限責任社員。
東山源蔵。
有限責任社員。
「杉浦さんの署名押印はあります」
「そうだな」
「東山の署名押印もあります」
「うん」
「会社の設立登記も済んでいます」
「そうだ」
私は顔を上げました。
「でも、杉浦さんは、無限責任を理解していなかった」
「その可能性がある」
所長が頷きました。
「だから、まず何を確かめる」
「……署名したときの説明です」
「そうだ」
「東山が何を言ったのか。杉浦さんが何を信じたのか」
「うん」
「詐欺による意思表示の取消しが問題になります」
片桐所長は、静かに言いました。
「そこからだ」
私は六法を開きました。
民法。
詐欺による意思表示。
そして、商法。
合資会社。
会社の設立取消し。
頭の中で、別々だった法律がつながりました。
「所長!」
「何だ」
「今の会社法なら、持分会社の設立取消しの訴えは八百三十二条で――」
「何法だ?」
……。
私は固まりました。
あ。
またやりました。
「か、会社……」
「会社法?」
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「そんな独立した法律はねえぞ」
「ですよね!」
「何が、ですよね、だ!」
私は慌てて六法をめくりました。
昭和六十三年。
会社法八百三十二条は存在しません。
合同会社も存在しません。
でも。
合名会社や合資会社の設立を争う制度そのものが、存在しなかったわけではない。
当時の商法にも。
会社の設立無効や設立取消しに関する規定が置かれていたのです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「今、ここにある法律を使え」
「はい!」
「現にある定款を見ろ」
「はい!」
「そして、相手が何をしたかを見ろ」
私は大きく頷きました。
未来の条文番号を暗記していても。
昭和の事件は解決できません。
ただし。
法律が守ろうとしているもの。
そこには、時代を超えて通じる考え方があります。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「東山の財産の件も忘れるなよ」
「あ……!」
私は藤田さんの相談票を開きました。
そうでした。
そもそもの相談者は藤田さんです。
三百二十万円の代金を踏み倒された。
そして、東山は自分の財産を新会社へ移していた。
「これは、設立取消しのもう一つの問題ですね」
私は言いました。
「そうだ」
相馬先輩は机に二枚の紙を置きました。
一枚は、東山精機との取引記録。
もう一枚は、東山合資会社の設立登記に関する資料。
「時系列を見ろ」
私は読みました。
昭和六十三年二月。
藤田製作所が部品を納入。
三月。
代金三百二十万円の支払期限。
四月。
東山が支払不能を主張。
五月。
東山合資会社の設立準備。
六月。
会社の設立登記。
その後。
機械設備を新会社の財産として管理。
「……きれいに並んでますね」
「ああ」
「支払期限を過ぎてから、会社を作っている」
「そうだ」
相馬先輩は続けました。
「だが、順番が怪しいだけじゃ足りねえ。東山が債権者を害すると知って設立したのか。その事実を調べる」
私は頷きました。
設立した会社に財産を出資すること自体は、違法とは限りません。
事業を始めるために、機械を出資することだってあります。
でも。
既に返済義務があることを知りながら。
債権者の回収を妨げる目的で会社を設立したのなら。
話が変わってきます。
「所長」
私は言いました。
「杉浦さんと藤田さんでは、設立取消しを問題にする理由が違いますね」
「どう違う」
「杉浦さんは、自分の意思表示を騙されてした可能性があります」
「うん」
「藤田さんは、東山が債権者を害すると知って会社を作った可能性があります」
「そうだ」
所長は頷きました。
「二つを混ぜるな」
「はい!」
「そして、設立に問題があるからといって、勝手に会社が消えるわけではない」
「……裁判所の手続が必要ですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――定款がある。
――登記がある。
――それでも、設立を争う余地はある。
ただし。
そのためには、法律が定める原因と手続が必要。
思い込みで会社を消すことはできない。
なるほど。
会社は、作るときも。
作ったあとも。
法律の外には出られないのです。
翌日。
杉浦さんが、もう一度事務所を訪れました。
「こんなものが見つかりました」
差し出されたのは、一通の手紙でした。
東山から杉浦さんに送られたものです。
日付は、会社設立の一週間前。
私は読みました。
――杉浦殿。
――新会社設立に際しては、貴殿の技術と名前を借りたい。
――資金はすべて当方で用意する。
――貴殿に金銭的な負担や借金の責任を負わせることは一切ない。
――従来どおり、加工技術を提供していただくだけでよい。
……。
私は顔を上げました。
「先輩」
「ああ」
「これ……!」
相馬先輩が手紙を受け取りました。
そして、最後まで読みました。
「東山の署名があるな」
「はい」
「日付もある」
「はい」
「封筒は?」
「あります」
杉浦さんが差し出しました。
消印。
昭和六十三年五月。
相馬先輩は、ゆっくり息を吐きました。
「……いい証拠だ」
私は頷きました。
定款には、無限責任社員。
手紙には、借金の責任は一切ない。
この食い違い。
東山は、どう説明するつもりなのでしょう。
「杉浦さん」
片桐所長が言いました。
「定款に署名押印するとき、無限責任社員という文字は読まれましたか」
「いえ……」
「説明は?」
「技術を貸すだけだと」
「この手紙を信じて?」
「はい」
杉浦さんは俯きました。
「私は、東山さんを信用していたんです」
その声が震えました。
「工場の仕事も減っていたし、新しい会社なら、また若い職人を雇えるかもしれないって……」
私は胸が痛くなりました。
この人は。
ただ働きたかっただけなのです。
自分が身につけた技術を。
次の世代へ渡したかった。
それだけなのに。
その思いを利用して。
東山は、責任を押しつけようとしていた。
「杉浦さん」
私は言いました。
「今からでも、できることはあります」
「……本当ですか?」
「はい。ただし、裁判が必要になる部分は、弁護士さんの力を借りることになります」
杉浦さんは小さく頷きました。
「お願いします」
片桐所長が、静かに言いました。
「まず、あなたの意思を正確に書面にしましょう」
私は鉛筆を握りました。
今度は。
現代の会社法に逃げません。
昭和の商法。
昭和の定款。
昭和の証拠。
その全部を使って。
この人を守るのです。
その日の午後。
片桐行政書士事務所には、三枚の書類が並びました。
一つ目。
杉浦和夫名義の通知書。
二つ目。
藤田修一名義の通知書。
三つ目。
弁護士に引き継ぐための事実経過整理書。
「よし」
相馬先輩が言いました。
「こはる。まず杉浦さんの通知書を読め」
「はい!」
私は原案を持ちました。
宛先。
東山源蔵。
差出人。
杉浦和夫。
――通知人は、東山合資会社設立に際し、貴殿から金銭的負担及び会社債務についての個人責任を負わない旨の説明を受けた。
――しかし、当該会社の定款には、通知人を無限責任社員とする記載が存在する。
――通知人は、その責任の内容について真実と異なる説明を受けたことにより、設立に係る意思表示を行ったものである。
――よって、通知人は、民法上の詐欺による意思表示の取消しを主張し、商法上の設立取消しに関する手続を含め、必要な法的措置について専門家への相談を進める。
私は読み終わりました。
「どうでしょう」
相馬先輩が頷きました。
「方向はいい」
「やった!」
「ただし、事実と評価は分けろ」
「はい?」
「東山が嘘をついた事実。杉浦さんが何を信じたか。法律上の取消しが認められるか。それぞれ別だ」
「……はい」
「通知を出しただけで、会社設立が当然に取り消されるわけじゃねえ」
「そうですね」
私は文面を見直しました。
そうです。
意思表示を取り消すという主張と。
既に成立した会社の設立を取り消すこと。
この二つは、同じではありません。
会社の設立取消しは。
所定の訴えによって争うもの。
相手に手紙を送っただけで、登記済みの会社が消滅するわけではない。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「次」
「はい!」
私は二枚目を持ちました。
藤田さんの通知書です。
――通知人は、東山精機との取引に基づき、金三百二十万円の未払代金債権を有する。
――貴殿は、右債務の存在を認識しながら、東山合資会社を設立し、従前貴殿が所有していた機械設備を同会社への出資財産とした疑いがある。
――当該設立及び財産移転が、債権者の権利を害することを認識して行われたものである場合、商法上の設立取消しその他の法的問題を生じ得る。
――通知人は、未払代金債権を放棄する意思はなく、関係資料を保存のうえ、弁護士への相談及び適切な法的措置を検討する。
読み終わると。
相馬先輩が言いました。
「よし」
私は思わず笑いました。
「今度こそ?」
「ただし、まだ足りねえ」
「ええっ!」
先輩は、机に別の書類を置きました。
東山から藤田さんへ送られていた手紙です。
――当方所有の機械設備を新設会社に移管したため、現在、個人所有の換価可能な財産はほとんど存在しない。
――したがって、貴殿の代金請求には応じられない。
私は、その一文を何度も読みました。
「……自分で書いてますね」
「ああ」
「機械を移したから、払えないって」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「財産を移したことと、債権者への支払いを拒んだこと。本人が一枚の紙に並べてる」
片桐所長が静かに言いました。
「もっとも、それだけで設立取消しが認められると決まったわけではない」
「はい」
「ほかの財産、負債、出資財産の評価、債権者を害する認識。確認すべきことは多い」
「はい!」
私は大きく頷きました。
それでも。
東山の言葉には、自分自身の立場を悪くする材料が含まれていました。
会社を作った。
財産を移した。
だから払わない。
そんな説明が、そのまま法律上の盾になるとは限らない。
「所長」
「何だ」
「登記した会社でも、設立無効や設立取消しを争われる可能性があるんですね」
「そうだ」
「でも、無効と取消しでは原因が違う」
「うん」
「だから、どちらでも好きに主張できるわけじゃない」
「そのとおりだ」
私は頷きました。
さらに、所長は続けました。
「会社の設立を争う訴えには、期間の制限もある」
「はい」
「放っておいていい問題ではない」
私は、設立登記の日付を確認しました。
昭和六十三年六月。
まだ、三か月ほどしか経っていません。
現代の会社法では、持分会社の設立取消しの訴えは、会社成立の日から二年以内。
その期間制限が、ふと頭をよぎりました。
でも今は。
昭和六十三年。
当時の商法に基づく手続を確認しなければなりません。
私は未来の条文番号を口にするのを、ぐっとこらえました。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「何だ。今日は変な法律を言わねえな」
「学習しました!」
「ようやくか」
「ひどい!」
片桐所長は、二枚の通知書を並べました。
「これでいい」
私は息を呑みました。
ついに。
完成です。
東山が作った会社。
東山が書かせた定款。
東山が署名した手紙。
その全部が。
今度は、東山自身に向けられるのでした。
内容証明郵便が届いた三日後。
事務所の電話が鳴りました。
「片桐行政書士事務所です!」
『……東山だ』
私は背筋を伸ばしました。
あの男です。
『片桐先生はいるか』
声が違いました。
以前のような威勢のよさがありません。
「少々お待ちください」
私は受話器を所長へ渡しました。
「片桐です」
『あの、内容証明の件なんだが……』
「はい」
『弁護士に見せた』
「そうですか」
『……会社の設立まで争われる可能性があると言われた』
所長は黙って聞いています。
『それに、杉浦の件も……』
「はい」
『無限責任について、俺の手紙に問題があると』
私は相馬先輩を見ました。
先輩は、何も言わずに頷きました。
『あの……』
東山の声が震えました。
『会社を作れば、俺個人の借金とは切り離せると思ってたんだ』
片桐所長は静かに答えました。
「会社を作ることと、既に負っている債務が消えることは別です」
『……』
「設立しただけで、個人の債務が当然に消滅するわけではありません」
沈黙。
それから。
『……藤田の金は払う』
私は思わず顔を上げました。
『三百二十万円。全額だ』
「その旨は、藤田さんご本人へ書面でお伝えください」
『分かった』
『それから杉浦にも、説明が足りなかったことを認める』
所長は答えました。
「杉浦さんの意思と、会社の今後については、適切な専門家と確認してください」
『……はい』
電話が切れました。
私は立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「払うって!」
「ああ」
「全額!」
「そうだな」
「やりましたね!」
相馬先輩が横から言いました。
「まだだ」
「またそれですか!」
「金が払われるまで終わりじゃねえ」
……。
確かに。
私は座り直しました。
法律の世界では。
「払うつもりです」
と。
「支払いました」
は、違います。
しかも。
藤田さんへの支払いと、杉浦さんをめぐる会社設立の問題は別。
東山が三百二十万円を払ったからといって。
杉浦さんの責任問題まで、自動的に消えるわけではありません。
「こはる」
所長が言いました。
「今回、俺たちがやったことは何だ」
「事実を調べて、書面にしました」
「そうだ」
「相手の代わりに示談交渉をしたわけではありません」
「うん」
「そして、設立取消しの訴えを起こしたわけでもありません」
「そうだ」
所長は静かに頷きました。
「争いが裁判になるなら、弁護士の仕事だ」
「はい」
「俺たちは、その前に必要な事実と書類を整える」
私は机の上を見ました。
定款。
登記簿。
東山の手紙。
杉浦さんの説明書。
藤田さんの債権資料。
そして、二通の内容証明。
そこには、怒鳴り声も脅し文句もありません。
ただ。
相手がしたことが、順番に記されていました。
その書類が。
東山の余裕を消したのです。
二週間後。
藤田修一さんが事務所を訪れました。
「入金されました」
その一言を聞いた瞬間。
私は思わず立ち上がりました。
「本当ですか!」
「はい。三百二十万円。全額です」
藤田さんは通帳を見せてくれました。
振込の記録。
私は、ようやく息を吐きました。
「よかった……!」
藤田さんは少し笑いました。
「正直、もう諦めかけていました」
「そんな……」
「町工場なんて、弱いですから」
その言葉に、私は黙りました。
大企業や大きな取引先に代金を踏み倒されたら。
下請けは苦しい。
従業員への給料。
材料費。
電気代。
機械の維持費。
どれも待ってはくれません。
「この金がなかったら、来月の給料も危なかったんです」
藤田さんは、深く頭を下げました。
「ありがとうございました」
私は慌てました。
「いえ、私たちは書類を作っただけで……!」
すると。
相馬先輩が言いました。
「その書類が必要だったんだよ」
「……先輩」
「相手が好き勝手言ってるうちは、何も変わらねえ」
先輩は机を指で叩きました。
「でも、何をしたかを書面にして、逃げられない事実を並べれば、考えを変える奴もいる」
藤田さんは頷きました。
「そうですね」
そして、少し照れくさそうに言いました。
「これで、職人たちに給料を払えます」
私は胸が熱くなりました。
三百二十万円。
それは、単なる数字ではありません。
町工場で働く人たちの生活。
家族の食卓。
子供の学用品。
そういうものにつながっているお金なのです。
その数日後。
杉浦和夫さんも訪れました。
「弁護士さんに相談してきました」
「どうでしたか?」
私は尋ねました。
「会社設立の経緯を詳しく調べて、今後の手続きを決めることになりました」
「そうですか」
「東山さんも、自分がした説明に問題があったことは認めたそうです」
杉浦さんは小さく息を吐きました。
「でも、私はもう、あの会社で仕事をするつもりはありません」
私は頷きました。
その気持ちは、当然だと思いました。
「ただ……」
杉浦さんは、少し笑いました。
「技術を教える仕事は、続けたいんです」
「え?」
「若い職人が二人、うちに来たいと言ってくれて」
私は顔を上げました。
「それは、いいですね!」
「ええ」
杉浦さんは嬉しそうでした。
「今度は、自分が何に責任を負うのか、ちゃんと確かめます」
私は思わず笑いました。
「それが一番です!」
会社を作る。
事業を始める。
誰かと一緒に働く。
それは、本来、前向きなことです。
新しい仕事を生む。
人を雇う。
技術を残す。
でも。
会社という仕組みを利用して、他人に責任を押しつけることもできてしまう。
だからこそ。
法律は、会社の設立に厳格なルールを置いているのでしょう。
誰が社員になるのか。
何を出資するのか。
どこまで責任を負うのか。
そして。
どんな意思で会社を作ったのか。
それらを曖昧にしたままでは、人を守れないのです。
杉浦さんが帰ったあと。
私は定款の写しを眺めていました。
「先輩」
「何だ」
「会社って、難しいですね」
「今さらか」
「だって、株式会社だけじゃないんですよ」
「ああ」
「合名会社も、合資会社もある」
「そうだ」
「現代なら合同会社も……」
「だから、何だその合同会社ってのは!」
「あっ!」
また言ってしまいました。
相馬先輩が額を押さえました。
「お前、たまに未来から来たようなこと言うよな」
……。
私は固まりました。
危険。
非常に危険な発言です。
「き、気のせいですよ!」
「そうか?」
「はい!」
私は慌てて話題を変えました。
「でも、先輩」
「何だ」
「今日の事件、会社の設立そのものが問題になるってところが面白かったです」
「そうだな」
「普通、会社を作るって聞くと、定款を作って、出資して、登記して、それで完成だと思うじゃないですか」
「うん」
「でも、それで終わりじゃないんですね」
相馬先輩が頷きました。
「当たり前だ」
「え?」
「会社ができたってことと、その設立に何の問題もないってことは別だろ」
私は黙りました。
……なるほど。
確かに。
登記は、会社が成立するための重要な手続です。
でも。
その前に嘘があったら。
社員の意思表示に問題があったら。
債権者を害することを知りながら会社を作ったら。
法律は、その設立を争う道を用意している。
「だから、会社の設立無効や設立取消しという問題があるんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ただし。
何でも無効になるわけではない。
何でも取り消せるわけでもない。
そして、登記済みの会社を、当事者の思いつきで消してよいわけでもない。
会社には、社員だけでなく、取引先や債権者など、多くの人が関係しています。
だからこそ。
設立を争う場合にも、法律の定めた原因と手続が必要になるのです。
「先輩」
「何だ」
「東山は、法律を知らなかったんでしょうか」
「いや」
相馬先輩は首を振りました。
「知ってるところだけ使ったんだろ」
「……え?」
「労務で出資できる。有限責任社員になれる。会社に財産を移せる」
「はい」
「自分に都合のいいところだけ覚えた」
私は黙りました。
相馬先輩は続けました。
「でもな」
「はい」
「法律ってのは、都合のいい条文だけつまみ食いして使うもんじゃねえ」
その言葉に、私は思わず頷きました。
東山は。
有限責任という仕組みを使った。
無限責任社員という仕組みも使った。
出資という仕組みも使った。
会社の設立登記も利用した。
でも。
その制度を利用するときに守るべきルールを、軽く見ていた。
結果。
自分が署名した書類が。
自分を追い詰めることになったのです。
夕方。
片桐所長が、机の上の定款を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今回、東山は何を間違えた」
私は少し考えました。
「……会社を作れば、責任から逃げられると思ったことです」
「うん」
「それから、杉浦さんの名前を借りれば、責任を押しつけられると思ったこと」
「そうだ」
「でも、会社の設立には、きちんとした意思と手続が必要です」
所長が頷きました。
「そして?」
「会社が成立したあとでも、設立無効や設立取消しを争う制度があります」
「うん」
「だから、登記が済んだから絶対安全、というわけではありません」
所長は静かに言いました。
「それでいい」
私は、ようやく息を吐きました。
今日も一つ。
法律が、教科書の外でつながりました。
定款。
出資。
登記。
無限責任。
有限責任。
設立無効。
設立取消し。
試験のテキストでは、それぞれ別の項目です。
でも。
実際の事件では、全部つながっている。
会社を作る人の意思。
出資する財産。
会社の債権者。
そして、そこで働く人。
法律は、それらを一つずつ守ろうとしているのです。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、まだ一つ分かってねえことがあるだろ」
「え?」
「合名会社と合資会社の違いだ」
「あ……」
私は固まりました。
「それから、無限責任社員と有限責任社員の出資の違い」
「はい……」
「設立登記までに出資を済ませる必要があるかどうかもな」
「……はい」
「それと、会社の設立無効と設立取消しの違い」
「いっぱいあるじゃないですか!」
相馬先輩が笑いました。
「勉強が足りねえな」
「ひどい!」
「じゃあ、明日まとめろ」
「え?」
「今日の事件を使って、全部整理してみろ」
私は少し考えました。
そして。
にやりと笑いました。
「分かりました!」
「何だ、その顔は」
「明日は、こはるノートの出番ですね!」
「また始まった」
「今度こそ完璧にします!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「楽しみにしている」
「所長まで!」
私は思わず笑ってしまいました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが広がっています。
町工場の煙突から、細い煙が上がっていました。
藤田さんの工場では。
きっと今日も、機械が動いているのでしょう。
杉浦さんの工場でも。
若い職人たちが、旋盤の扱いを教わっているかもしれません。
法律が守るのは。
会社という名前だけではありません。
そこで働く人。
代金を受け取る人。
財産を出資する人。
そして。
正当な理由もなく、責任を押しつけられそうになった人。
そういう人たちなのです。
私は六法を閉じました。
今日の教訓。
――会社を作ることはできても、法律から逃げる会社は作れない。
これなら忘れません。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「会社って、すごいですね!」
「何がだ」
「一枚の定款で、何百万円もの財産が動くんですよ!」
「そうだな」
「しかも、責任まで変わる!」
「ああ」
「そして、作り方を間違えると、設立そのものを争われる!」
相馬先輩は、少し笑いました。
「ようやく分かってきたか」
「はい!」
私は胸を張りました。
「やっぱり、商法って面白いです!」
「面白がってる暇があったら、明日のノートを準備しろ!」
「分かってます!」
私は勢いよく机に向かいました。
そして。
ノートの一番上に、大きく書きました。
――持分会社の設立。
その下に。
――定款、出資、登記。
さらに。
――設立無効と設立取消しは、同じではない。
よし。
次の勉強会の準備は完璧です。
……たぶん。
そのとき。
相馬先輩が、何気なく言いました。
「そういや、こはる」
「はい?」
「お前の言ってた合同会社って、結局何なんだ?」
……。
私は鉛筆を落としました。
危険。
非常に危険。
転生者最大の地雷です。
「そ、それはですね……」
「うん」
「将来、あったら便利そうな会社です!」
「何だそりゃ!」
私は必死に笑ってごまかしました。
昭和六十三年。
この時代には、まだ合同会社はありません。
でも。
会社を作る自由と、債権者を守る必要性。
その二つをどう両立させるかという問題は、昔も今も変わりません。
やがて日本の会社制度は、大きく変わっていきます。
会社法が独立し。
合同会社が生まれ。
一人でも株式会社を作れる時代が来る。
けれど。
制度が便利になっても。
他人を騙してよいことにはならない。
会社を作れば借金が消えるわけでもない。
その原則だけは。
きっと、変わらないのでしょう。
私は、定款の赤い印影をもう一度見ました。
会社を作るためのハンコ。
その一つが、人の未来を開くこともあれば。
誰かに、思いもよらない責任を負わせることもある。
だから。
私は、会社の設立を、ただの事務手続だとは思いたくありません。
だって。
会社を作るということは。
紙の上に名前を並べるだけではなく。
その先で働く人たちの人生にも、責任を持つということなのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




