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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の計算  

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671/701

[会社法・資本金、準備金、剰余金]現場編 「会社の金は俺の金だ」の大嘘。配当で会社を空っぽにした強欲社長と、三つの数字が暴いた財産隠し

挿絵(By みてみん)

 会社に一千万円あるからといって、一千万円を配っていいわけではありません。


 社長が儲けたと言っても。


 銀行に現金が残っていても。


 株主全員が喜んでいても。


 そのお金には、勝手に動かしてはいけない部分があるのです。


 資本金。


 準備金。


 剰余金。


 似たような名前です。


 どれも会社のお金に関係します。


 でも。


 この三つを混同した社長が、会社を破滅させることがあります。


 しかも。


 破滅するのは、会社だけではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、一人の社長が放った言葉を、一生忘れないことになります。


「会社の金は、全部俺の金だ!」


 ……。


 違います。


 それだけは、絶対に違うのです。


「うちの会社、潰されるかもしれません」


 朝九時。


 事務所を訪れた男性は、震える手で封筒を差し出しました。


 名前は、村井孝一さん。


 四十二歳。


 町工場を営んでいます。


 工場の名前は、村井精密工業。


 従業員は八人。


 自動車部品の金属加工をしている小さな会社です。


「何があったんですか?」


 私が尋ねると、村井さんは封筒から請求書を取り出しました。


「取引先が、代金を払ってくれないんです」


「代金?」


「三百八十万円です」


 ……三百八十万円。


 小さな町工場にとって、相当な金額です。


「納品は済んでいるんですか?」


「はい。検収も終わっています」


「支払期限は?」


「先月末です」


「それなのに?」


「金がないと言われました」


 私は眉をひそめました。


 支払期限が過ぎている。


 納品も済んでいる。


 検収も完了。


 典型的な売掛金の未払いです。


「取引先は、どちらですか?」


「東海機械株式会社です」


 村井さんの声が暗くなりました。


「この町じゃ、知らない人はいない会社です」


 東海機械。


 従業員六十人。


 工業団地に大きな工場を持つ中堅企業。


 社長は、黒岩剛三。


 五十六歳。


 地元商工会でも顔が利く人物でした。


「でも、おかしいんです」


 村井さんが言いました。


「何がです?」


「東海機械には、お金があるはずなんです」


「どうして分かるんですか?」


「先月、社長が株主に大金を配ったんです」


 私は顔を上げました。


「……配った?」


「はい」


 村井さんが一枚の紙を出しました。


 東海機械の株主向け通知です。


 そこには、大きく書かれていました。


 ――創業三十周年記念特別配当。


 ――配当総額 一千二百万円。


「一千二百万円!?」


 私は思わず叫びました。


「はい」


「そんなに配当したんですか?」


「社長は、会社が儲かったからだと言っています」


 村井さんは唇を噛みました。


「でも、その直後に、うちへの支払いが止まりました」


 ……。


 私は通知書を見つめました。


 配当。


 株式会社が株主に利益を分ける仕組みです。


 会社が儲かれば、株主に配当する。


 それ自体は、何も悪くありません。


 でも。


 取引先への支払いができなくなるほど、会社のお金を配ってしまった?


 しかも。


「村井さん」


「はい」


「その配当、誰が受け取ったんですか?」


 村井さんは小さく息を吐きました。


「社長と、その家族がほとんどです」


 ……。


 なるほど。


 嫌な予感が、確信に変わり始めました。


「会社の金を配当で全部持っていったってことですか?」


 私は相馬先輩を見ました。


「まだ分からねえ」


「でも、三百八十万円の代金を払わずに、一千二百万円も配当してるんですよ!」


「だから調べるんだ」


 相馬先輩は、通知書を机に置きました。


「会社の金がなくなったことと、違法な配当をしたことは、同じじゃねえ」


「え?」


「たとえば、利益が十分にあって、適法に配当した。その後、別の事情で資金繰りが悪化した。そういうこともある」


「あ……」


「逆に、銀行に大金があっても、配当しちゃいけねえ場合がある」


 私は首をかしげました。


「銀行にお金があるのに?」


「ああ」


「どうしてです?」


 先輩は六法を指で叩きました。


「商法が許さねえからだ」


 来ました。


 商法。


 昭和六十三年の会社ルール。


 私は現代の知識を思い出しました。


「なるほど! 会社法の分配可能額ですね!」


「……会社法?」


 相馬先輩が眉を寄せました。


 しまった。


 またです。


「会社法四百六十一条で、分配可能額を超える配当は禁止されていて――」


「四百六十一条?」


「あ」


「お前、どこの六法読んでる?」


「ええと……」


「会社の規定は商法第二編だろうが」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ!」


 私は慌てて口を閉じました。


 危ない。


 令和の会社法。


 昭和六十三年には、まだ存在しません。


 会社のルールは、商法第二編。


 有限会社については有限会社法。


 現代では独立した会社法として整理されている制度が、この時代には古い商法の中にあるのです。


「それに、現代なら純資産三百万円未満では剰余金の配当ができなくて――」


「三百万円?」


 相馬先輩が首をかしげました。


「はい」


「何の数字だ?」


「……忘れてください」


 また地雷です。


 現代の会社法には、純資産額が三百万円を下回る場合、剰余金の配当ができないという規定があります。


 でも。


 昭和六十三年に、その条文を持ち込んではいけません。


 この時代には、この時代の利益配当規制がある。


 守るべき考え方が似ていても、条文や計算方法まで同じとは限らないのです。


「こはる」


 片桐所長が口を開きました。


「はい!」


「数字を見ろ」


「数字?」


「相手の会社が、いくら儲けたかではない」


 所長は通知書を指差しました。


「いくら配当できる会社だったのか。それを確認しろ」


 私は息を呑みました。


 なるほど。


 一千二百万円を配った。


 だから違法。


 そう決めつけるのではない。


 本当に一千二百万円を配当できる状態だったのか。


 そこが事件の鍵なのです。


 翌日。


 村井さんが、もう一人の男性を連れてきました。


「こちら、東海機械の取締役をしている佐伯さんです」


 男性は深々と頭を下げました。


「佐伯信一と申します」


 六十歳。


 白髪の男性でした。


「実は、私も困っておりまして」


 佐伯さんは鞄から会社の書類を取り出しました。


「東海機械の経理を長く担当してきました。株も少し持っています」


「経理を?」


「はい。ですが、先月から社長に帳簿を触らせてもらえなくなりました」


 ……。


 これは。


 かなり怪しい。


「どうしてですか?」


 私が尋ねると、佐伯さんは苦しそうに言いました。


「配当に反対したからです」


「反対?」


「はい」


 佐伯さんが、手元の控えを広げました。


 東海機械の決算資料。


 私は数字を追いました。


 資本金。


 一千万円。


 法定準備金。


 二百五十万円。


 前期からの繰越損失。


 八百万円。


 当期の利益。


 三百万円。


 ……。


「ちょっと待ってください」


 私は数字を指でなぞりました。


「前期まで八百万円の赤字を抱えていたんですか?」


「はい」


「今年の利益は三百万円?」


「そうです」


「それなのに、一千二百万円も配当?」


 佐伯さんが頷きました。


「だから私は止めたんです」


 私は書類をもう一度見ました。


 現代の会社法であれば、分配可能額を計算して判断する場面です。


 でも、この時代。


 配当の可否は、旧商法の計算規定に従って判断しなければなりません。


 もっとも。


 この数字を見る限り。


 一千二百万円の配当を正当化できるだけの利益が、どこにあるのでしょう。


「社長は何と言ったんですか?」


「銀行に一千五百万円あるだろう、と」


 ……。


 私は固まりました。


「銀行にあるから、配れる?」


「そう言うんです」


「それで?」


「会社の金なんだから、社長がどう使おうと自由だと……」


 私は思わず天井を見ました。


 駄目です。


 完全に駄目です。


 会社の銀行口座に一千五百万円あることと、一千五百万円の利益があることは違います。


 銀行から借り入れたお金かもしれない。


 取引先に支払うべき代金かもしれない。


 これから仕入代金や給料を払うためのお金かもしれない。


 銀行預金は、単に会社が持っている現金預金の残高です。


 その金額が、配当できる利益を意味するわけではありません。


「相馬先輩!」


「何だ」


「これ、銀行残高と配当可能な利益を混同しています!」


「ようやく気づいたか」


 先輩は頷きました。


「で、もう一つ問題がある」


「何です?」


「準備金だ」


 準備金。


 会社が積み立てておく、法律上の財産的な備え。


「社長は、それも配当に使えると言っていました」


 佐伯さんが付け加えました。


「何ですって?」


「資本金も準備金も、帳簿に書いてあるだけの数字だろう、と」


 私は目を丸くしました。


 ……あ。


 確かに。


 資本金や準備金は、銀行口座にその名前で現金が別々に保管されているとは限りません。


 会計上の金額です。


 でも。


 だから自由に消していい、という話にはなりません。


「社長はこう言いました」


 佐伯さんの声が震えました。


「『帳簿の数字なんか、書き換えれば済む』と」


 ……。


 私は言葉を失いました。


 会計上の数字を、ただの落書きだと思っているのでしょうか。


 これは、かなり危険です。


「それで、取締役会は開いたんですか?」


 相馬先輩が聞きました。


「いいえ」


 佐伯さんは首を横に振りました。


「え?」


「開いていません」


「では、株主総会は?」


「それも、正式には開いていません」


 ……。


 私は嫌な予感がしました。


「まさか」


「社長が書類を作って、決まったことにしたんです」


 佐伯さんが出したのは、一枚の議事録でした。


 ――昭和六十三年九月二十日。


 ――東海機械株式会社定時株主総会議事録。


 ――議案 利益配当の件。


 ――配当総額 一千二百万円。


 ――満場一致により承認可決。


 ……。


「満場一致?」


 私は聞き返しました。


「私も株主ですが、招集通知すら来ていません」


「それなのに?」


「出席したことになっています」


 私は議事録を見ました。


 出席株主欄。


 佐伯信一。


 確かに名前があります。


「これ、誰が作ったんですか?」


「社長の指示で、事務員が作ったそうです」


「署名は?」


「私のものではありません」


 ……。


 これは。


 単なる会計処理の間違いではありません。


 存在しない株主総会。


 実際と違う出席者。


 そして、巨額の配当。


 何だか、会社の財産を外へ持ち出すために、書類だけ整えたようにも見えます。


「ただし」


 相馬先輩が言いました。


「勝手な議事録があるから、即座にあらゆる決議が無効だ、と決めつけるわけにはいかねえ」


「え?」


「株主の構成や、実際に誰がどんな意思を示したかも調べる必要がある」


「あ……」


「だが、実際に開かれていない総会を開いたと記録したなら、重大な問題だ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 証拠は慎重に評価する。


 けれど。


 虚偽の議事録を、適法な決議の証明に使うことはできない。


 そして。


「所長」


 私は片桐所長を見ました。


「もし配当そのものが違法なら、社長は個人として責任を負う可能性がありますよね」


「ああ」


「受け取った株主も?」


「場合による」


 所長が静かに言いました。


「誰が、何を知って、どのような配当を受けたのか。そこまで確認しろ」


「はい」


 私は頷きました。


 会社が違法に財産を流出させたなら。


 その処理に関与した役員。


 受け取った株主。


 さらに、会社の債権者。


 いろいろな人の権利が関わってきます。


 そして。


 会社が払えなくなった三百八十万円。


 その向こうには、村井さんの工場で働く八人の従業員がいるのです。


 三日後。


 東海機械株式会社。


 工業団地の一角に建つ、二階建ての事務所。


 そこに、黒岩剛三社長がいました。


 相馬先輩と私は、佐伯さんの依頼に基づく社内書類の事実関係確認のため、会社を訪れていました。


 もっとも。


 先輩は最初に釘を刺しました。


「いいか、こはる。俺たちは村井さんの代理人として代金交渉に来たんじゃねえ」


「はい」


「会社の議事録や決算書類について、事実関係を確認するだけだ」


「分かっています」


「金を払えと交渉するのは、俺たちの仕事じゃねえ」


「はい!」


 そこは絶対です。


 行政書士は、訴訟代理人ではありません。


 紛争の代理交渉を引き受けることもできません。


 私たちの武器は、書面。


 事実を確認し。


 法律上の問題を整理し。


 適法に作成できる通知書や議事録を整える。


 そこにあります。


「何だ、お前ら」


 応接室で待っていた黒岩社長は、私たちを見るなり言いました。


 大きな体。


 金色の腕時計。


 高そうな背広。


 そして、いかにも自分が一番偉いと思っていそうな顔。


「行政書士?」


「そうです」


 相馬先輩が答えました。


「何の用だ」


「先日の株主総会議事録について、記録と実際の開催状況を確認したいのです」


 黒岩は鼻で笑いました。


「議事録?」


「はい」


「あんなもの、形式だろ」


 ……。


 私は思わず顔を上げました。


「形式?」


「そうだよ」


 黒岩は椅子に深く座りました。


「会社は俺が作った」


「はい」


「俺が育てた」


「そうですか」


「だから俺が決める」


 ……。


 はい。


 来ました。


 ワンマン社長の三段論法。


 俺が作った。


 俺が育てた。


 だから全部俺のもの。


 法律の試験に出たら、真っ先に誤りを選びたい理屈です。


「会社の金を株主に配って、何が悪い」


 黒岩は言いました。


「利益が出たんだ。株主に還元するのは当然だろ」


「利益はいくらでしたか?」


 相馬先輩が聞きました。


「三百万円だ」


「配当はいくらです?」


「一千二百万円」


「その差額は?」


「銀行に金があったんだよ!」


 黒岩が机を叩きました。


「銀行に一千五百万円あった! だから一千二百万円配った! 何がおかしい!」


 ……。


 私は思わず口を開きました。


「社長」


「何だ」


「その預金には、借入金や取引先への支払資金も含まれていますよね」


「それがどうした」


「会社の預金全部が、配当していい利益になるわけではありません」


「はあ?」


 黒岩は呆れたように笑いました。


「お嬢ちゃん、経営を知らねえな」


 ……。


 お嬢ちゃん。


 言いましたね。


「金は金だろ」


「違います」


「何?」


「少なくとも、配当できる金額を決めるうえでは違います」


 黒岩の眉が動きました。


 私は続けました。


「資本金と準備金は、会社の財産的な基礎を守るための会計上の仕組みです」


「だから?」


「配当するには、法律で認められた利益の範囲を守る必要があります」


「帳簿の数字だろうが!」


 黒岩が怒鳴りました。


「書き換えりゃ済む!」


 そのとき。


「社長」


 相馬先輩が、低い声で言いました。


「それをやると、もっと悪くなりますよ」


「何?」


「実際の会計処理と違う数字を、都合よく作ることになる」


「俺の会社だぞ!」


「だから何です?」


 先輩は表情を変えません。


「株式会社は、あんた個人とは別の法人です」


「……」


「会社の財産は、社長の財布じゃねえ」


 黒岩の顔が赤くなりました。


「何だと!」


「社長が一番偉いんじゃねえ」


 相馬先輩は静かに言いました。


「商法を守った奴が勝つんですよ」


 ……。


 かっこいい。


 私は心の中で拍手しました。


 ただし。


 その直後。


「帰れ!」


 黒岩が立ち上がりました。


「行政書士風情が、俺に説教するな!」


 相馬先輩は頷きました。


「分かりました」


「何?」


「必要な事実は確認できました」


 そして、立ち上がりました。


「今後の書面については、正式に作成します」


「勝手にしろ!」


 黒岩が鼻で笑いました。


「裁判でも何でもやってみろ!」


 私は口を開きかけました。


 でも。


 相馬先輩に袖を引かれました。


 ここで口論する必要はありません。


 あの社長が。


 何を理解していないのか。


 十分に分かったのですから。


 事務所へ戻った私は、机に三つの文字を書きました。


 資本金。


 準備金。


 剰余金。


「先輩」


「何だ」


「これ、単にお金を三つの箱に分けているだけじゃないんですね」


「ああ」


「それぞれ役割がある」


「そうだ」


 私は黒岩社長の言葉を思い出しました。


 金は金だ。


 帳簿を書き換えれば済む。


 会社は俺のものだ。


 ……全部、間違っています。


 でも。


 だからこそ。


 法律が何を守ろうとしているのか、はっきり見えてきました。


「先輩、現代だったら、資本金は一円でも株式会社を設立できますよね」


「……一円?」


 相馬先輩がこちらを見ました。


 しまった。


 また未来です。


「ええと」


「株式会社を作るには、発起人が七人以上必要だぞ」


「ですよね!」


「それに、取締役は三人以上、監査役も必要だ」


「はい……」


「お前、本当にどこの制度を勉強してる?」


「ちょっと先の制度を……」


「先って何だ!」


 危ない危ない。


 ちなみに。


 昭和六十三年の株式会社には、後年導入される一千万円の最低資本金規制は、まだありません。


 でも、発起人七人以上という厳格な設立要件があります。


 さらに取締役三人以上と監査役。


 現代の一人取締役の株式会社とは、大違い。


「所長」


 私は言いました。


「どうして、こんなに頭数が必要なんですか?」


「会社の意思決定や監督を、一定の組織で行わせるためだ」


「なるほど」


「だが」


 所長は帳簿から顔を上げました。


「形だけ人をそろえても、実際に機能しなければ意味がない」


 私は佐伯さんの顔を思い出しました。


 取締役なのに、帳簿を見せてもらえない。


 株主なのに、総会に呼ばれない。


 議事録には、出席したことになっている。


 ……。


 まさに。


 形だけの組織です。


「だから、議事録が重要なんですね」


「そうだ」


「誰が、いつ、何を決めたか」


「うん」


「本当に決めたのか」


 所長が頷きました。


「そこを残すための書面だ」


 私は鉛筆を握り直しました。


 では。


 今回は。


 何を作るべきでしょうか。


「まず、会社の内部記録を正せ」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「次に、配当の根拠となった計算書類を確認する」


「はい」


「そして、会社が何を失ったのか、数字で示せ」


 所長は三つの資料を並べました。


 決算書類の控え。


 配当通知書。


 株主総会議事録。


「こはる。資本金とは何だ」


「株主が出資した財産を基礎として、法律に従って計上される会社の資本額です」


「準備金は?」


「会社財産を保全するため、法律などに従って積み立てられる金額です」


「剰余金は?」


「会計上の利益などに関係する金額で、配当の原資を考えるときに重要になります」


「そうだ」


 所長は頷きました。


「ただし、剰余金と書いてあるものを、すべて自由に配れると思うな」


「はい」


「利益が出たことと、配当できることも別だ」


 私は深く頷きました。


 現代の教材では、分配可能額という言葉が登場します。


 でも、昭和六十三年の書面では、旧商法の利益配当規制を使う。


 両者の制度は、完全に同じではありません。


 だからこそ、当時の計算規定に沿った確認が必要なのです。


 さらに。


「先輩」


「何だ」


「もし社長が、資本金を減らして配当の原資を作ったことにしていたら?」


「資本の減少か」


「はい」


「それは、それで所定の手続が必要だ」


 相馬先輩が言いました。


「社長が勝手に数字を減らしただけで、適法な減資が成立するわけじゃねえ」


「債権者も関係しますよね」


「当然だ」


 そうです。


 資本金は、会社の財産的な基礎を示す重要な計数です。


 減資には、株主総会での所定の決議だけでなく、債権者を保護するための手続が問題になります。


 会社にお金を貸した人。


 商品を納めた人。


 仕事を請け負った人。


 そういう人たちにとって、会社財産は債権回収の重要なよりどころです。


 それを社長の都合だけで自由に削られては困ります。


「村井さんも、会社債権者なんですよね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


 三百八十万円。


 まだ支払われていない加工代金。


 あのお金は。


 黒岩社長が株主に配る前から。


 村井さんの会社に支払うべき代金だったのです。


「ところで」


 私は決算書類を見つめました。


「配当総額一千二百万円、全部本当に支払われたんでしょうか?」


 相馬先輩が顔を上げました。


「何でそう思う?」


「株主全員に配ったなら、佐伯さんも受け取っているはずですよね」


「……ほう」


「でも、佐伯さんはそんな話をしていませんでした」


 相馬先輩がにやりとしました。


「いいところに気づいたな」


「えっ」


「確認してみろ」


 私は佐伯さんに電話しました。


 結果。


 さらに重大な事実が判明しました。


 配当を受け取ったのは、黒岩社長と妻、長男。


 そして、社長の親族が経営する会社。


 合計一千二百万円。


 一方。


 少数株主である佐伯さんには、配当がありませんでした。


「……何ですか、それ」


 私は受話器を置きました。


「都合のいい株主にだけ配ったってことですか?」


「そういう疑いがあるな」


「株主平等の問題まで!」


 私は頭を抱えました。


 配当する利益があるのか。


 決議は適法か。


 さらに、株主間の取扱いはどうか。


 調べれば調べるほど、問題が増えていきます。


「所長!」


「何だ」


「これ、配当という名前で、社長一家に会社財産を流したようにも見えます!」


「断定するな」


「はい!」


「だが、その可能性は検討する必要がある」


 所長は静かに言いました。


「配当の名目だけを見るな」


「はい」


「誰に、何の根拠で、いくら渡したのかを見るんだ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 法律は、名前だけで判断するわけではありません。


 配当と書けば、何でも配当になるわけではない。


 議事録と書けば、何でも有効な決議になるわけではない。


 そして。


 社長と書いてあっても。


 会社財産を自由に処分する権利があるわけではないのです。


 その日の午後。


 所長は、佐伯さんから持ち込まれた書類を詳しく確認しました。


 佐伯さんは会社の正式な手続を踏んで取得した決算関係資料の控えを持っており、そこには銀行借入金と買掛金も記載されていました。


 東海機械の銀行預金。


 一千五百万円。


 その内訳を確かめると。


 大半は、新たな借入金と、未払いの取引代金に対応する運転資金でした。


 私は呆然としました。


「社長……借りたお金まで、配当に回したんですか?」


「少なくとも、預金残高を根拠に配当を決めたことは確かだな」


 相馬先輩が言いました。


「ただし、金に色はついてねえ。どの紙幣が借入金か、なんて話をしても意味はねえ」


「はい」


「問題は、会社の利益配当として法律が認める額を超えていないかだ」


 そこです。


 配当の適法性。


 資本金。


 準備金。


 損失。


 利益。


 それぞれの数字を、正しく扱わなければならない。


 会社に現金がある。


 それだけでは足りないのです。


 所長は、書類を一枚ずつ確認していきました。


 その後、佐伯さんが会社の監査役にも事情を伝え、監査役が保管していた関係資料も確認されました。


 そこで、もう一つの事実が分かりました。


 配当後に作成された会計資料の一部には、準備金や繰越損失について、正式な根拠の確認できない修正が加えられていたのです。


「これ……」


 私は資料を見つめました。


「社長が言っていた『帳簿を書き換えれば済む』って……」


「ああ」


 相馬先輩の目が細くなりました。


「本当にやろうとしていたらしいな」


 私は息を呑みました。


 資本金も準備金も、帳簿上の数字だから。


 勝手に消していい。


 そんな理屈で、会社財産を守るための仕組みを無視しようとしていた。


「所長」


「何だ」


「会社の財産って、目に見える現金だけじゃないんですね」


「そうだ」


「帳簿の数字が、使ってはいけないお金を決めることもある」


 所長は頷きました。


「数字は飾りじゃない」


 短い言葉でした。


 でも。


 妙に重く感じました。


 ここから、私たちは二つの書面を準備することになりました。


 一つ目。


 佐伯さん本人が、取締役及び株主として作成する事実確認通知書。


 二つ目。


 村井さん本人が、東海機械に対して送る支払催告の内容証明郵便。


 もちろん、どちらも本人の意思を確認したうえでの書類作成です。


 会社内部での決議の効力や違法配当の責任追及が訴訟問題になれば、弁護士に引き継ぎます。


 私たちが代理人として、黒岩社長と争うわけではありません。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「まず、佐伯さんの書面だ」


「はい!」


「何を書く?」


 私は考えました。


 そして、原案を読み上げました。


「第一。昭和六十三年九月二十日付株主総会議事録には、通知人佐伯信一が出席した旨の記載がある」


「うん」


「第二。しかし、通知人は、当該日時の株主総会に出席しておらず、招集通知も受領していない」


「よし」


「第三。通知人は、当該配当決議に賛成した事実がない」


「続けろ」


「第四。会社が実施した一千二百万円の利益配当については、旧商法所定の配当規制との適合性に重大な疑義がある」


 私は息を吸いました。


「第五。会社は、配当の根拠となる計算書類及び決議手続の適法性を確認し、必要な是正措置を検討されたい」


 相馬先輩が頷きました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし」


「はい」


「会社の内部の問題と、村井さんの請求は分けろ」


「あ……」


「村井さんは、会社の債権者だ。株主じゃねえ」


「はい」


「佐伯さんは取締役で、株主でもある。立場が違う」


 私は頷きました。


 そうでした。


 債権者。


 株主。


 取締役。


 それぞれ、持っている権利も、使える手続も違います。


 全部まとめて一枚の書面にすればいい、というわけではありません。


「じゃあ、村井さんの書面には、納品と未払いの事実を中心に書きます」


「そうだ」


「契約内容、請求額、支払期限、催告の内容」


「うん」


「違法配当の疑いについては、断定しない」


「そのとおり」


 所長が頷きました。


「書面は、怒りを書くものじゃない」


「はい」


「立場ごとに、事実と要求を整理するものだ」


 私は背筋を伸ばしました。


 法律の知識。


 いくら覚えていても。


 誰の権利を、どんな書面で守るのか。


 そこを間違えたら、実務では役に立たないのです。


 翌日。


 村井さんが事務所に来ました。


 私は、完成した内容証明郵便の原案を読み上げました。


 ――支払催告書。


 ――貴社は、通知人との間で締結した部品加工取引に基づき、昭和六十三年八月末日までに加工代金三百八十万円を支払う義務を負っている。


 ――通知人は、所定の部品を納品し、貴社による検収も完了している。


 ――しかし、現在に至るまで、右代金の支払いが確認できない。


 ――よって、通知人は、右未払代金三百八十万円の支払いを催告する。


 ――なお、期限内に支払いがなされない場合には、弁護士への相談のうえ、訴訟その他の法的措置を検討する。


 読み終わると、村井さんは深く頭を下げました。


「ありがとうございます」


「いえ」


 私は書面を揃えました。


「ただ、これを送っただけで、お金が戻る保証はありません」


「分かっています」


「必要なら、弁護士にも相談してください」


「はい」


 村井さんは少し笑いました。


「でも、今まで何もできなかったんです」


「え?」


「黒岩社長に電話しても、怒鳴られるだけでした」


 その声が震えました。


「うちみたいな小さい工場は、大きな会社には逆らえないと思っていました」


 私は黙りました。


「でも、こうして書面にすると……」


 村井さんは、内容証明の原案を見ました。


「ちゃんと取引をしたことが、形になるんですね」


 私は頷きました。


「はい」


 納品した。


 検収された。


 代金が支払われていない。


 その事実は。


 相手の会社が大きいか小さいかで変わりません。


 相手の社長が偉いかどうかでも変わりません。


 村井さんは、正当に代金を請求できる立場なのです。


 内容証明郵便の発送から数日後。


 東海機械の社内でも、動きがありました。


 佐伯さんの事実確認通知書を受け取った監査役が、会社の会計資料と議事録の調査を始めたのです。


 さらに、佐伯さんは他の取締役にも事情を説明しました。


 その結果。


 黒岩社長以外の取締役たちが、ようやく危機感を持ち始めました。


 なぜなら。


 配当の手続が適法でなかった場合。


 責任を問われる可能性があるのは、社長一人とは限らないからです。


 役員として何を知っていたのか。


 どのような決議に関わったのか。


 違法な財産流出を防ぐために、必要な対応をしたのか。


 そうした問題が生じます。


 そして。


 何より。


 一千二百万円。


 この配当の適法性が確認できなければ、会社の財産を回復させる必要が出てきます。


 ……。


 黒岩社長は、ようやく気づいたのでした。


 会社の金を配った。


 それで終わりではない。


 配ってはいけない金額まで配ったなら。


 受け取った金銭の返還や、関与した役員の責任が問題になる。


 そのことに。


 翌週。


 黒岩社長は、自分で弁護士の事務所を訪れたそうです。


 そこで。


 持参した決算書類と議事録を確認した弁護士から、厳しい説明を受けました。


 旧商法の配当規制。


 資本金と法定準備金の扱い。


 繰越損失。


 利益配当を決定した手続。


 そして。


 違法な配当が行われた場合の責任。


 話を聞き終えた黒岩は、青ざめたといいます。


「……返さなきゃいけないのか?」


 弁護士に、そう尋ねたそうです。


 答えは、単純ではありません。


 誰が何を受け取ったのか。


 どのような規定に違反したのか。


 誰に、どんな責任が生じるのか。


 それらを確認する必要があります。


 ただし。


 社長が会社から金を持ち出せば、それですべて終わり。


 そんな話でないことだけは、はっきりしていました。


 さらに。


 会社に損害を与えた取締役の責任も問題になります。


 株主が所定の要件を満たして、会社のために取締役の責任を追及する訴訟を起こす可能性もある。


 株主代表訴訟です。


 自分が大株主だから、絶対に責任を追及されない。


 そういうわけではありません。


 そして。


 会社に対する個人の金銭債務が確定し、必要な裁判手続を経れば。


 個人財産に対する強制執行が問題になることもあります。


 黒岩は、そこで初めて理解したのでしょう。


 株式会社という看板は。


 社長の好き勝手を守るための盾ではないのです。


 その翌日。


 片桐行政書士事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……黒岩だ』


 私は固まりました。


 東海機械の社長。


 あの黒岩剛三です。


「あ、はい」


『片桐さんはいるか』


「少々お待ちください」


 私は受話器を所長に渡しました。


「片桐です」


『あの……』


 電話の向こうの声は、以前とはまるで違いました。


『会社の配当の件で……』


「はい」


『弁護士に相談しました』


「そうですか」


『計算書類の確認が必要だと言われまして……』


 所長は黙って聞いています。


『それで……その……』


 長い沈黙。


 そして。


『配った金を、会社に戻す方向で考えています』


 私は息を呑みました。


 ……!


 所長は静かに答えました。


「適法な手続と、実際の金銭の移動を確認する必要がありますね」


『はい……』


「会社内部の意思決定については、弁護士や監査役とも十分に確認してください」


『……分かりました』


 黒岩の声は、小さくなっていました。


『あの、村井精密工業への支払いも……』


 私は受話器を見つめました。


『会社として、対応することになりました』


 ……。


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


 でも。


 相馬先輩が、私の顔を見るなり言いました。


「まだ喜ぶなよ」


 ……。


 分かっています。


 口約束だけでは、終わりません。


 本当にお金が戻るか。


 実際に代金が支払われるか。


 そこまで確認しなければならないのです。


 それから二週間。


 東海機械では、弁護士と監査役の関与のもと、会計書類と配当の手続について調査が行われました。


 その結果、今回の一千二百万円の支払いは、適法な利益配当として扱うことができないと判断されました。


 関係者の間で、会社への金銭返還が進められることになりました。


 黒岩社長も、自分が受け取った金銭について返還に応じました。


 さらに。


 実際には開かれていなかった株主総会の議事録についても、事実に即した是正が進められました。


 そして。


 東海機械は、村井精密工業に対する三百八十万円の支払いを実行しました。


 もちろん、それで配当問題の責任関係がすべて消えたわけではありません。


 会社内部の問題は、引き続き必要な手続で処理されることになりました。


 でも。


 少なくとも。


 村井さんの工場は、救われたのです。


「振り込まれました!」


 朝十時。


 村井さんが、事務所に飛び込んできました。


 手には、銀行の入金記録。


「三百八十万円、全額です!」


「本当ですか!」


 私は思わず立ち上がりました。


「はい!」


 村井さんは何度も頷きました。


「これで、従業員の給料が払えます」


 ……。


 私は胸が熱くなりました。


「実は」


 村井さんが言いました。


「もう駄目かと思っていたんです」


「え?」


「うちは、小さい工場ですから」


 村井さんは笑いました。


 でも、目が潤んでいました。


「材料代も、電気代も、給料も、待ってくれません」


 私は黙って聞きました。


「黒岩社長は、三百八十万円くらいで騒ぐなと言いました」


「……そんなことを?」


「はい」


 村井さんは手元の入金記録を見つめました。


「でも、うちにとっては、三百八十万円が命綱だったんです」


 その言葉に。


 私は、何も言えなくなりました。


 一千二百万円の配当。


 三百八十万円の売掛金。


 数字だけ見れば。


 どちらも、ただの金額です。


 でも。


 その数字の向こうには。


 株主がいる。


 取締役がいる。


 取引先がいる。


 そして。


 毎日働いている人たちがいる。


 法律が守ろうとしているのは、単なる帳簿の数字ではありません。


 数字の向こうにいる、人間なのです。


「ありがとうございました」


 村井さんは深く頭を下げました。


「本当に、助かりました」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「礼なら、ちゃんと部品を納めた自分の会社に言ってください」


「え?」


「約束どおり仕事をしたんでしょう」


「はい」


「だったら、代金を受け取るのは当然です」


 村井さんは、一瞬黙りました。


 それから。


「……そうですね」


 小さく笑いました。


「そうですよね」


 片桐所長が言いました。


「村井さん」


「はい」


「今後は、取引条件と支払期限を、これまで以上に明確に残しておいてください」


「はい」


「納品書、検収書、請求書。それぞれ大切です」


「分かりました」


 村井さんは深く頭を下げました。


 そして、帰っていきました。


 私は、その背中を見送りました。


 ……よかった。


 本当に、よかった。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 私は机の上の資料を見直していました。


 資本金。


 準備金。


 剰余金。


 三つの言葉。


 最初は、似ているだけの会計用語だと思っていました。


 でも。


 今回の事件では。


 この三つを混同した社長が、会社の財産を流出させようとした。


 そして。


 支払いを受けられなかった町工場が、倒産寸前まで追い込まれた。


「相馬先輩」


「何だ」


「資本金って、会社の銀行口座に、その金額の現金が残っているという意味じゃないんですよね」


「ああ」


「準備金も、別の金庫に札束が入っているわけじゃない」


「そうだ」


「でも、会社財産を守る仕組みとして意味がある」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 資本金も準備金も、会計上の金額。


 その金額自体が、特定の現金を閉じ込めているわけではありません。


 でも。


 会社が好き勝手に利益配当をして、財産的な基礎を失わないようにする。


 そうした仕組みの一部になっている。


「じゃあ、剰余金は?」


 私は聞きました。


「配当を考えるうえで重要になる部分だな」


「でも、全部配れるわけではない」


「そうだ」


「法律上の制限がある」


「ああ」


 私は大きく頷きました。


「なるほど……!」


「何がだ」


「この三つって、会社のお金を守るための仕組みなんですね!」


 相馬先輩が笑いました。


「遅えよ」


「ひどい!」


「今さら気づいたのか」


「だって!」


 私はノートを広げました。


「受験生の頃は、資本金の増加は普通決議、減少は特別決議、準備金は……って、数字と手続ばかり覚えていたんです!」


「まあ、試験ならそうなるな」


「でも、今回分かりました」


「何が?」


「どうして手続が必要なのか、です」


 会社の財産をどう扱うか。


 それは、社長一人の問題ではありません。


 株主。


 債権者。


 従業員。


 取引先。


 会社に関わる多くの人の利益に影響します。


 だから。


 資本金を減らすにも。


 準備金を扱うにも。


 利益を配当するにも。


 法律は、一定のルールを設けているのです。


「それにしても」


 私は言いました。


「黒岩社長、どうしてあんなに自信満々だったんでしょう」


「社長だからだろ」


 相馬先輩が答えました。


「え?」


「会社を作ったのは自分。育てたのも自分。だから全部自分のものだと思い込んでたんだ」


「でも、株式会社は別の法人です」


「そうだ」


「出資したからって、会社の預金を自由に引き出せるわけじゃない」


「当たり前だ」


「株主だからって、好きなだけ配当を受けられるわけでもない」


「そうだ」


 私は頷きました。


 株式会社。


 株主は、出資者です。


 出資した財産は、会社に帰属する。


 社長個人の財産とは、別です。


 だからこそ、会社を通じて事業を行うことができる。


 でも。


 その仕組みを悪用してはいけない。


「所長」


「何だ」


「会社って、不思議ですね」


「どうした」


「人間じゃないのに、財産を持てる」


「そうだ」


「人間じゃないのに、借金もできる」


「ああ」


「そして、人間じゃないのに、誰かの暮らしを支えている」


 所長は、少しだけ顔を上げました。


「そのとおりだ」


 私は続けました。


「でも、会社を動かしているのは、生身の人間なんですね」


「そうだ」


 所長は静かに言いました。


「だから、欲が出る」


「……はい」


「その欲を、会社の仕組みの中で抑える必要がある」


 私は頷きました。


 黒岩社長は、会社の金を自分のものだと思った。


 でも。


 商法は、そうではないと言っている。


 そこにあるのは。


 単なる厳しい決まりではありません。


 会社という仕組みを利用する以上、守らなければならない責任なのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、さっき資本金一円とか言ってたな」


「……言いましたっけ?」


「言った」


「気のせいです」


「気のせいじゃねえ」


 先輩が腕を組みました。


「じゃあ聞くぞ」


「はい」


「株式会社を作るには、発起人が何人必要だ?」


「昭和六十三年では七人以上です!」


「取締役は?」


「三人以上!」


「監査役は?」


「必要です!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「分かってるじゃねえか」


「でも、現代なら――」


「また始まった!」


「聞いてください!」


「何だよ!」


「現代では、株式会社は発起人一人、取締役一人でも設立できるんです!」


「……は?」


「しかも、資本金一円でも!」


「何だそりゃ!」


 相馬先輩が目を丸くしました。


「そんな会社、信用できるのか?」


「信用できるかどうかは、資本金の額だけでは決まりません!」


「……ほう」


「取引先は、会社の財務状況や信用力を確認する必要があります!」


 私は勢いよく言いました。


「それに、設立のしやすさと、会社財産を守る規制は別なんです!」


 相馬先輩は呆れた顔をしました。


「お前、本当に妙なことばかり考えるな」


「未来の話ですから!」


「未来?」


「あっ」


 ……。


 沈黙。


 しまった。


 危ない。


 私は慌てて笑いました。


「未来の会社制度を想像するのが趣味なんです!」


「変な趣味だな」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「まあ、どんな時代になっても」


「はい」


「会社の金は社長の財布じゃねえ。それだけは変わらねえだろ」


 私は頷きました。


「はい!」


 そのとおりです。


 制度が変わっても。


 条文が変わっても。


 会社法という独立した法律ができても。


 会社の財産を守り、株主や債権者の利益を調整する必要はなくなりません。


 むしろ。


 会社を簡単に作れる時代だからこそ。


 会社のお金と個人のお金を区別することが、重要になるのです。


 私はノートの最後に、三つの言葉を書きました。


 資本金。


 準備金。


 剰余金。


 そして、その下に。


 ――銀行に金があることと、配当できることは違う。


 大きく丸をつけました。


 ……よし。


 これなら忘れません。


 あの黒岩社長を思い出せばいいのです。


 銀行に一千五百万円ある。


 だから一千二百万円配っていい。


 そんな単純な話ではありません。


 その預金の向こうには、未払いの代金がある。


 借入金がある。


 従業員の給料がある。


 そして、会社の財産的な基礎を守るためのルールがある。


 数字を一つ間違えるだけで。


 誰かの生活が壊れることもある。


 だからこそ。


 商法は、会社のお金の扱いに厳しいのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 そして答えました。


「会社の財産は、社長個人の財産ではありません」


「うん」


「資本金や準備金は、会社の財産的な基礎を守るために重要です」


「そうだ」


「そして、株主への配当には、法律上の制限があります」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 そこで、相馬先輩が余計なことを言いました。


「じゃあ、こはる」


「はい?」


「お前の今月の給料は?」


「……はい?」


「事務所の金だよな」


「そうですね」


「じゃあ、事務所に利益がなかったら、給料は払わなくていいのか?」


 ……。


 私は固まりました。


「駄目です!」


「何でだ?」


「給料は労働の対価です!」


「ほう」


「株主への配当とは違います!」


 私は勢いよく言いました。


「給料は、会社が儲かったときだけ気分で払うものじゃありません!」


 相馬先輩が笑いました。


「分かってるじゃねえか」


「もちろんです!」


「じゃあ、今月も頑張って働けよ」


「……え?」


「給料の分だけな」


「先輩!」


「何だ!」


「今の、法律の確認問題じゃなかったんですか!?」


「確認問題だよ」


「絶対、私を働かせるための話でしたよね!」


 相馬先輩は笑いました。


「まあな」


「ひどい!」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「明日も頼むぞ」


「……はい」


 私は苦笑しました。


 でも。


 今回の事件で、少しだけ分かった気がします。


 会社の利益。


 会社の財産。


 株主への配当。


 従業員の給料。


 取引先への支払い。


 どれも、お金の話です。


 でも。


 法律上の意味は、全部違う。


 その違いを無視してはいけないのです。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、夕暮れが近づいていました。


 どこかの工場では、今日も機械が動いているのでしょう。


 金属を削る音。


 油の匂い。


 働く人たちの声。


 村井さんの工場も、きっとそうです。


 八人の従業員が、明日もいつもどおり働ける。


 その当たり前を守るために。


 資本金。


 準備金。


 剰余金。


 こんなに硬い言葉が、役に立つことがある。


 私はノートを閉じました。


 そして。


 一つだけ、はっきりと思いました。


 会社の金は、社長のものではない。


 株主が自由に持ち出していいものでもない。


 そこには。


 取引先との約束がある。


 従業員の生活がある。


 会社を信じて関わった人たちの利益がある。


 だから。


 資本金を減らすにも。


 準備金を動かすにも。


 利益を配るにも。


 法律は、簡単には好き勝手を許さない。


 それは。


 数字を守るためではなく。


 数字の向こうにいる人を守るためなのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、資本金と準備金と剰余金、好きになりました!」


「また変なもの好きになったな!」


「だって、会社の財産を守る仕組みなんですよ!」


「分かったから、帳簿を片付けろ!」


「はいっ!」


 私は元気よく返事をしました。


 昭和六十三年。


 商法第二編。


 古くて。


 堅苦しくて。


 現代とは、ずいぶん違う会社のルール。


 でも。


 その条文の向こうには、ちゃんと理由がある。


 今回、私が覚えたのは。


 資本金の数字でも。


 準備金の名前でも。


 配当の計算方法でもありません。


 もっと大切なこと。


 ――会社に金があることと、その金を自由に配れることは、決して同じではない。


 黒岩社長が、あんなに自信満々だったからこそ。


 私は、この一行を忘れないと思います。


 だって。


 社長がどれだけ偉そうに、


「会社の金は俺の金だ!」


 と叫んだところで。


 商法は、静かに答えるのです。


 ――いいえ。それは、株式会社の財産です。


 そして。


 そのたった一つの違いが。


 三百八十万円を待ち続けた、小さな町工場を救ったのでした。

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