[会社法・指名委員会等設置会社]現場編 「三つの委員会が決めたから合法」の嘘。社長が作った偽物の経営制度と、会社を奪われかけた取締役の逆襲
立派な肩書が三つ並んでも、法律上の権限が三倍になるわけではありません。
指名委員会。
監査委員会。
報酬委員会。
いかにも公正な経営をしていそうな名前です。
しかも。
社長を監督する人と、実際に経営する人を分ける。
社外の人間が監視する。
誰が役員になるかも、誰がいくら報酬をもらうかも、一人の社長には決めさせない。
現代の会社法には、そんな仕組みがあります。
その名も。
指名委員会等設置会社。
ところが。
昭和六十三年。
この制度は、まだ存在しません。
つまり。
もし、この時代の社長が、
「指名委員会が決めたから、お前は取締役をクビだ」
と言い出したら。
それは本当に、法律上の決定なのでしょうか。
そして。
会社の金を自由に使うために、三つの委員会を作った男がいたとしたら。
その男を止めるのは、誰なのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は未来の会社法を知っているせいで、とんでもない事件に巻き込まれることになります。
「会社を乗っ取られました」
朝九時。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
「……乗っ取り、ですか?」
私は思わず聞き返しました。
男性の名前は、藤沢修一さん。
四十六歳。
地元の機械部品メーカー、藤沢精機株式会社の取締役です。
従業員四十二名。
自動車部品工場向けの金属加工を営む、町では知られた会社でした。
「会社は、父と私が育ててきたものです」
藤沢さんは膝の上で拳を握りました。
「ところが半年前、経営を任せた男が、突然こんなことを始めまして……」
差し出されたのは、一冊の冊子。
表紙には大きく、
――藤沢精機株式会社 新経営管理規程。
と書かれていました。
私はページを開きました。
そこには。
第一章 指名委員会。
第二章 監査委員会。
第三章 報酬委員会。
第四章 執行役制度。
とあります。
「……え?」
私の手が止まりました。
指名委員会。
監査委員会。
報酬委員会。
執行役。
これって。
「指名委員会等設置会社じゃないですか!」
思わず声が出ました。
藤沢さんが顔を上げます。
「ご存じなんですか?」
「はい!」
もちろんです。
現代の行政書士試験。
会社法の機関設計。
私が何度もテキストを読み返した分野です。
指名委員会等設置会社には、三つの委員会が置かれる。
各委員会は三人以上。
委員は取締役の中から選ばれる。
そして、その過半数は社外取締役。
指名委員会は取締役などの選任・解任議案を決定する。
監査委員会は執行役などの職務を監査する。
報酬委員会は個人別の報酬を決定する。
さらに。
会社の業務を執行する執行役。
その中から選ばれる代表執行役。
取締役会による監督と、執行役による業務執行を分ける仕組み。
つまり。
ワンマン社長が何でも独断で決めることを防ぐための制度です。
「藤沢さん!」
「は、はい」
「この制度なら、社長一人が好き勝手に決めることはできません!」
「本当ですか!」
「はい! 委員会の権限と、取締役会の権限が分かれていますから!」
よし。
得意分野です。
私は勢いよく六法を開こうとしました。
そのとき。
「待て」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい?」
「お前、今、何の制度を説明してる」
「指名委員会等設置会社です!」
「何だそれ」
「え?」
「そんな会社、聞いたことねえぞ」
……。
あ。
私は固まりました。
しまった。
やってしまいました。
指名委員会等設置会社。
その前身となる委員会等設置会社が導入されるのは、平成十五年。
現在の名前になるのは、さらに後です。
昭和六十三年には。
まだ存在しません。
「……先輩」
「何だ」
「ちょっと確認していいですか」
「言ってみろ」
「今って、昭和六十三年ですよね」
「お前、昨日も出勤してただろ」
「ですよね……」
私は冊子を見ました。
未来の制度。
存在しない法律。
それが。
なぜ昭和の会社の机に載っているのでしょうか。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「落ち着け」
「はい……」
「まず、その規程が法律上、何を意味するか調べろ」
私は頷きました。
そうです。
名前だけで判断してはいけません。
似た制度を会社が独自に設けることは、あり得ます。
ただし。
法律上の機関として認められるかどうかは、別問題。
そして、この事件では。
その違いが、とんでもない意味を持つことになります。
「始まりは、半年前でした」
藤沢さんが話し始めました。
藤沢精機株式会社。
創業者は藤沢さんの父親。
父親が亡くなったあと、修一さんが会社を引き継ぎました。
ところが、経営は決して楽ではありません。
新しい工作機械への投資。
材料費の高騰。
取引先からの値下げ要求。
そこで、経営に詳しいという男を迎え入れたそうです。
名前は、黒田剛造。
五十三歳。
不動産業や運送業で財を成した人物。
藤沢精機の株式を取得し、ほかの株主から委任状も集め、現在は取締役会で強い影響力を持っていました。
「黒田は言いました」
藤沢さんが唇を噛みました。
「古い会社だから駄目なんだ。これからは新しい経営制度に変える、と」
「それが三つの委員会ですか?」
「はい」
黒田は会社に三つの委員会を設置しました。
指名委員会。
監査委員会。
報酬委員会。
そして、自分を社長兼代表執行役と名乗るようになりました。
「……代表執行役?」
私は眉をひそめました。
「ええ。名刺にも書いてあります」
藤沢さんが差し出した名刺。
そこには。
――藤沢精機株式会社
――代表取締役社長・代表執行役
――黒田剛造
と印刷されていました。
代表取締役社長。
そこまでは分かります。
でも。
代表執行役。
昭和六十三年の商法には、現在の指名委員会等設置会社における執行役の制度がありません。
「どうして、こんな肩書を……」
私が呟くと、藤沢さんが答えました。
「黒田は東京で外国企業の経営を勉強したと言っていました。これから日本も、取締役と執行役を分ける時代になると」
……。
私は少し驚きました。
考え方そのものは、かなり先進的です。
でも。
先進的だからといって、現行法の手続きを飛ばしていいわけではありません。
「それで、何が起きたんですか?」
私が尋ねると、藤沢さんは震える手で一枚の通知書を出しました。
私は読みました。
――指名委員会決定通知。
――藤沢修一については、経営能力の不足を理由として、取締役の職を解く。
――本決定は指名委員会の権限に基づくものであり、株主総会の承認を要しない。
……。
私は目を見開きました。
「ちょっと待ってください!」
藤沢さんが肩を震わせました。
「やっぱり、おかしいですか?」
「おかしいです!」
だって。
現代の指名委員会等設置会社であっても。
指名委員会が直接、取締役を解任するわけではありません。
指名委員会は、株主総会に提出する取締役の選任・解任に関する議案の内容を決定する。
実際に取締役を選任・解任するのは、株主総会です。
それなのに。
この通知書は。
指名委員会が決めたから、株主総会はいらない。
そう書いている。
しかも。
昭和六十三年には、その法定の指名委員会自体が存在しない。
「……二重におかしい」
私は呟きました。
「何が二重なんだ?」
相馬先輩が聞きました。
「制度が存在しないことと、存在したとしても権限の使い方が違うことです!」
先輩が眉を上げました。
「ほう」
「さらに!」
私は次の書類を見ました。
――報酬委員会決定書。
――代表執行役黒田剛造の年間報酬を三千万円とする。
――本決定について、株主総会その他の承認を要しない。
「三千万円!?」
私は叫びました。
藤沢さんが頷きます。
「私の役員報酬は、年間四百八十万円でした」
「それが三千万円……」
「しかも、会社は赤字なんです」
藤沢さんはさらに一枚の書類を出しました。
――監査委員会調査終了通知。
――黒田代表執行役の報酬及び関連会社との取引については、適法かつ妥当であると判断した。
そこに署名しているのは。
黒田剛造。
そして。
黒田の弟。
黒田の経営する別会社の社員。
……。
私は黙りました。
これ。
監督する人と、監督される人が。
ほとんど同じ仲間じゃないですか。
「先輩」
「何だ」
「これ、会社の監督制度じゃありません」
「ああ」
「社長を守るための、防御壁です」
相馬先輩は口元を歪めました。
「ようやく分かったか」
片桐所長が、三枚の書類を机の上に並べました。
指名。
監査。
報酬。
どれも。
黒田に都合のいい結論しか出していません。
所長は短く言いました。
「定款を持ってこい」
そして。
「取締役会議事録も、全部だ」
戦いが始まりました。
翌日。
藤沢さんが会社の定款と議事録を持参しました。
私は書類を一枚ずつ並べます。
会社の定款。
株主総会議事録。
取締役会議事録。
役員名簿。
監査役の氏名。
そして、会社の登記簿。
「……あれ?」
私は首をかしげました。
「先輩。この会社、取締役が五人いるんですね」
「ああ」
「監査役も一人」
「そうだ」
「でも、新経営管理規程では、監査役の職務を監査委員会に移したことになっています」
「うん」
「これ、勝手に移せるんですか?」
「移せるわけねえだろ」
相馬先輩が即答しました。
「昭和六十三年の株式会社だぞ」
「ですよね」
当時の株式会社には、取締役会と監査役の仕組みがあります。
もちろん会社の規模などによって監査制度の詳細は異なりますが、少なくとも、この会社に現に存在する監査役の法的地位を、社長の作った任意の委員会が勝手に奪うことはできません。
「しかも見ろ」
先輩が定款を指差しました。
――取締役は、株主総会において選任する。
私は頷きました。
「はい」
「解任も、社長の私設委員会だけで済む話じゃねえ」
「そうですね!」
そこで私は、もう一つ気づきました。
「所長!」
「何だ」
「黒田さんは、取締役会で代表取締役に選ばれているんですね」
「そうだ」
「でも、代表執行役に選ばれた議事録はありません」
相馬先輩が笑いました。
「そりゃそうだ」
「え?」
「今の法律に、そんな法定の役職がねえんだからな」
……確かに。
私は額を押さえました。
未来の制度が頭にあるせいで、つい存在しない役職の議事録を探してしまいました。
「こはる」
所長が言いました。
「名前ではなく、実際の権限を調べろ」
「はい」
「黒田は、法律上は代表取締役だ」
「はい」
「だが、代表取締役であっても、何でも自由にできるわけではない」
所長は報酬委員会決定書を取り上げました。
「特に、これだ」
三千万円。
私は金額を見つめました。
「役員報酬ですね」
「そうだ」
昭和六十三年の商法でも、取締役の報酬については、定款に定めがない場合、株主総会の決議が必要です。
そして。
藤沢精機の定款には、報酬額の定めがありませんでした。
「所長」
「何だ」
「株主総会で三千万円の報酬を認めた議事録がありません」
「そうだな」
「過去の報酬総額の決議はありますが、黒田さんの大幅増額について、それで足りるのかも確認が必要です」
所長が頷きました。
「よし」
相馬先輩が腕を組みます。
「勝手に報酬委員会を作って、そこで決めたことにしたんだろうな」
「でも、その委員会には法定の報酬委員会としての権限はありません」
「そういうことだ」
私は、もう一度三枚の書類を見ました。
指名委員会。
監査委員会。
報酬委員会。
現代の制度では、それぞれ別々の役割を持っています。
ところが黒田は。
指名委員会で邪魔な取締役を排除し。
監査委員会で自分の行為を正当化し。
報酬委員会で自分の報酬を引き上げようとしていた。
「……ひどい」
私は呟きました。
制度の名前だけ借りて。
制度が防ごうとしている不正を、堂々と実行しているのです。
「黒田さんに、事情を聞いてもらえませんか」
藤沢さんが言いました。
片桐所長は首を横に振りました。
「私たちは、あなたの代理人として法律紛争の交渉はできません」
「……そうですか」
「ただし、書類の内容を調査し、あなたが会社に提出する通知書や、適法な手続きのための書面を整えることはできます」
所長が続けました。
「まず、誰にどの権限があるのかを明確にしましょう」
相馬先輩が言いました。
「それに、会社には監査役がいるんだろ」
「はい」
「その人は何をしてる?」
藤沢さんの表情が変わりました。
「監査役の水野さんは、黒田の関連会社との取引に反対していました」
「ほう」
「でも、黒田から『監査委員会ができたから、あんたの仕事はもうない』と言われたそうです」
……。
私は拳を握りました。
存在しない制度で。
存在する監査役を黙らせた。
これが、事件の本当の怖さでした。
「水野さんは、会社の帳簿を調べたがっていたんです」
「何を調べようとしていた?」
所長が尋ねます。
「黒田の関連会社に、工作機械を安く売却する計画です」
「工作機械?」
「はい。会社が数年前に二千万円以上かけて購入した設備を、黒田の別会社に三百万円で売るという話が出ています」
私は息を呑みました。
二千万円以上かけた設備。
三百万円。
ただし、購入時の価格と現在の価値は同じではありません。
本当に不当な安値なのか。
適切な手続きが取られているのか。
そこを調べる必要があります。
「資料はありますか」
「あります」
藤沢さんが一枚の売買契約書案を出しました。
売主。
藤沢精機株式会社。
買主。
黒田産業株式会社。
代表者。
黒田剛造。
……。
私は二度見しました。
「売る会社も、買う会社も、黒田さんが代表者なんですか?」
「そうです」
相馬先輩が低い声で言いました。
「利益相反取引の問題だな」
私は頷きました。
会社と取締役本人の利益が衝突する取引について、商法は特別な規律を置いています。
実質的に取締役の利益と会社の利益が衝突する取引なら、適法な承認手続きが問題になる。
「取締役会では、この取引について決議したんですか?」
私は尋ねました。
「いいえ。黒田は、監査委員会が了承したから取締役会は必要ないと言っています」
……。
もう。
めちゃくちゃです。
私は机を見つめました。
指名委員会で取締役を排除。
報酬委員会で報酬を増額。
監査委員会で不当な取引を承認したことにする。
しかも。
肝心の監査役には調査をさせない。
これでは、監督機関が全部、黒田の都合のいい道具になっています。
片桐所長が静かに言いました。
「相馬」
「はい」
「水野監査役に、本人の立場から取れる手続きを確認してもらえ」
「分かりました」
「藤沢さんには、取締役としての地位を確認する通知書を作る」
「はい」
「議事録の原本も調べるぞ」
私は顔を上げました。
「所長」
「何だ」
「勝てますか?」
所長は少し考えました。
そして言いました。
「書類を見れば、相手が何をしたかは分かる」
「はい」
「問題は、その書類が正しい手続きで作られたかだ」
なるほど。
法律は、立派な名前に権限を与えるのではありません。
権限は。
法律と、適法な手続きから生まれるのです。
三日後。
藤沢精機の会議室。
私は所長の書類整理の補助として、机の端に座っていました。
目の前には、黒田剛造。
大きな体。
高級そうな背広。
金色の時計。
そして。
自分がこの会社の法律だとでも言いたげな顔。
「行政書士?」
黒田は私たちを見て鼻で笑いました。
「弁護士じゃないのか」
相馬先輩が静かに答えました。
「書類の確認に来ています」
「ふん。代書屋に何が分かる」
……。
この時代の悪徳社長は、どうしてこうも同じことを言うのでしょう。
全国共通の台本でもあるんですか。
「藤沢はもう取締役じゃない」
黒田が言いました。
「指名委員会で決まったことだ」
藤沢さんが口を開きます。
「しかし、株主総会は――」
「黙れ!」
黒田が机を叩きました。
「古い考え方だから駄目なんだよ!」
私はびくっとしました。
黒田は続けました。
「これからの時代は、経営と監督の分離だ!」
……。
私は少しだけ感心しました。
言っている方向性は、未来の会社制度と似ています。
「指名委員会が役員を決める!」
「……」
「監査委員会が監査する!」
「……」
「報酬委員会が報酬を決める!」
黒田は得意そうに胸を張りました。
「そして、代表執行役である俺が会社を動かす!」
その瞬間。
私は思いました。
惜しい。
未来の会社法なら、話の出発点としては分かります。
でも。
時代が違います。
それに。
未来の制度であっても、権限の理解が間違っています。
「黒田さん」
私は思わず口を開きました。
「何だ、小娘」
「一つ教えてください」
「何だ」
「指名委員会が取締役を解任したとおっしゃいましたよね」
「ああ」
「その権限は、何という法律に書いてあるんですか?」
黒田が笑いました。
「新しい経営制度だ。お前みたいな見習いには分からんだろう」
「では、何条ですか?」
「何?」
「指名委員会が、株主総会を通さず取締役を解任できる条文です」
黒田の笑みが止まりました。
「そんな細かいことを……」
「細かくありません」
私は言いました。
「藤沢さんの、取締役としての地位がかかっています」
黒田は顔を赤くしました。
「うるさい!」
そして。
「この会社は俺が動かしている! 俺が法律だ!」
来ました。
とうとう言いました。
俺が法律だ。
私は心の中で六法を抱きしめました。
残念ながら。
あなたは法律ではありません。
「こはる」
相馬先輩が静かに言いました。
「はい」
「そこまでだ」
私は口を閉じました。
そうです。
私たちが言い争う場ではありません。
藤沢さん本人と、会社の機関が、法律に基づいて判断する。
そのための書類を整えるのが私たちの仕事です。
片桐所長が、手元の定款を閉じました。
「黒田さん」
「何だ」
「新経営管理規程を作ること自体と、その規程に法律上の権限が生まれることは別です」
「……」
「役員の選任・解任、報酬、監査、利益相反取引。それぞれ、当時の商法と定款に従う必要があります」
黒田は鼻を鳴らしました。
「だったら裁判でも起こせ」
所長は頷きました。
「必要になれば、当事者が弁護士に相談することになります」
「ふん」
「ただし、まずは正式な書面で確認することになるでしょう」
黒田は笑いました。
「好きにしろ。紙切れ一枚で会社が動くかよ」
その言葉に。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「紙切れを軽く見る社長ほど、議事録で足をすくわれるんですよ」
黒田は、その意味をまだ理解していませんでした。
翌日。
片桐行政書士事務所。
机の上に、大量の書類が並びました。
まず。
藤沢さん本人名義の内容証明郵便。
次に。
監査役の水野さんが作成を依頼した、取締役会への報告書。
さらに。
会社の正式な機関が手続きを進める場合に備えた、議案や議事録の原案。
私は鉛筆を握りました。
「よし!」
「何がよしだ」
相馬先輩が言いました。
「全部、今日中に整理します!」
「まず間違えるなよ」
「はい!」
私は通知書の原案を書きました。
――指名委員会による解任決定について。
――通知人藤沢修一は、貴社の取締役として適法に選任されている。
――昭和六十三年現在、貴社の新経営管理規程にいう指名委員会は、商法上、取締役を直接解任する権限を有する機関ではない。
――したがって、当該委員会の決定のみをもって、通知人の取締役としての地位が当然に失われるものではない。
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
私は書き進めました。
――また、役員報酬の変更及び関連会社との取引については、商法、定款並びに適法な機関決定の有無を確認する必要がある。
――通知人は、取締役会議事録及び関係資料の確認を求める。
――今後、通知人の取締役としての地位を不当に否定する取扱いが継続する場合には、弁護士への相談を含め、適切な法的措置を検討する。
「……どうでしょう」
片桐所長が原案を読みました。
「余計な断定がないな」
「はい!」
「よし」
やった。
今回は赤鉛筆が少ない。
相馬先輩が別の書類を差し出しました。
「次は監査役だ」
「はい」
監査役、水野清志。
六十一歳。
藤沢精機に二十年以上勤めた元経理部長。
創業者から会社の数字を任されてきた人物です。
彼は、黒田の関連会社との取引について疑問を持っていました。
でも。
黒田は、新しい監査委員会ができたから監査役は不要だと言い続けていた。
「先輩」
「何だ」
「現代の指名委員会等設置会社って、監査役を置かないんですよね」
「未来の話か?」
「はい」
「今は違う」
「ですよね」
私は頷きました。
現代の指名委員会等設置会社では、監査委員会が監査を担い、監査役を置きません。
でも昭和六十三年。
黒田が勝手に三つの委員会を設けたからといって、既存の監査役の権限が消えるわけではない。
「つまり」
私は言いました。
「水野さんは、ちゃんと監査役として仕事を続けられるんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、監査役の具体的な権限は、その会社に適用される当時の法令に従って確認するんだ」
「はい」
私は水野さんの報告書を整えました。
関連会社との取引内容。
機械設備の評価資料。
取締役会での承認状況。
会社に生じるおそれのある損害。
そして。
不正や法令・定款違反が疑われる場合に、正式な機関へ報告するための事実関係。
相馬先輩が言いました。
「監査ってのはな、社長の顔色を見る仕事じゃねえ」
「はい」
「会社の財産が、誰かの私物になってないか確かめる仕事でもある」
私は頷きました。
現代の監査委員会も。
昭和の監査役も。
制度の形は違います。
でも。
経営者の不正を見逃さない。
その目的には、つながるものがあるのです。
内容証明郵便が発送されました。
同時に。
水野監査役は、自分の権限に基づいて取引資料を調査しました。
そして、会社の取締役たちへ報告しました。
黒田の関連会社に売却しようとしている機械設備。
購入時の価格は二千万円以上。
直近の中古設備業者による査定では、状態や付属設備を含めて約九百万円。
それを三百万円で売る計画。
しかも、買主側の実質的な経営者は黒田自身。
さらに。
必要な取締役会の承認を得た記録が見当たらない。
相馬先輩が書類を見て言いました。
「これだけでも、相当まずいな」
「はい」
私は頷きました。
もちろん。
査定価格と売却価格が違うだけで、直ちに違法と断定できるわけではありません。
設備の状態。
売却条件。
会社の事情。
そうした事情も検討する必要があります。
でも。
社長の関係会社へ大幅に安く売る。
しかも、適法な承認を受けた証拠がない。
これは、会社に損害を与えるおそれのある重大な問題です。
そして。
水野さんの報告書を受けたほかの取締役たちも、ようやく動き始めました。
黒田の説明をそのまま信じていた二人の取締役。
そのうち一人が言ったそうです。
「監査委員会が承認したと聞いていたが、そんな権限はなかったのか……」
もう一人も。
「指名委員会が藤沢さんを解任したというのも、法律上は違うのか……」
黒田が作った三つの委員会。
その名前に、みんなが騙されていたのです。
そして。
黒田の思惑とは逆に。
正式な取締役会が開かれることになりました。
その前日。
黒田から、藤沢さんに電話がありました。
『おい、藤沢』
「……何でしょう」
『あの通知書は何だ』
「記載のとおりです」
『俺を脅すつもりか!』
「脅してはいません」
藤沢さんは、相馬先輩から言われたとおり、落ち着いて答えたそうです。
「私は、法律上の取締役として、事実を確認したいだけです」
『……』
「それから、機械の売却についても、正式な手続きで判断していただきます」
黒田はしばらく黙りました。
そして。
『……弁護士に見せた』
「そうですか」
『余計なことをしやがって』
声が震えていたそうです。
『あの委員会の決定だけじゃ、取締役を解任できないって言われた』
藤沢さんは黙って聞いていました。
『報酬の件も、株主総会の決議や定款を確認しろって……』
そして。
『機械の取引だって、俺が関係してる会社だから、利益相反の問題があるって……』
あの男が。
初めて、自分の作った仕組みの危うさに気づいた瞬間でした。
黒田は続けました。
『……俺の個人責任まで追及される可能性があるらしい』
そうです。
会社の財産を不当に流出させて損害を与えれば。
取締役個人の損害賠償責任が問題になり得ます。
しかも。
会社が責任を追及しない場合には、要件を満たした株主が株主代表訴訟を提起する制度もあります。
社長だから。
代表取締役だから。
会社の金は全部、自分のもの。
そんな理屈は通りません。
『……機械の売却は、いったん止める』
黒田が言いました。
『報酬の増額も、撤回する』
藤沢さんは静かに答えました。
「取締役会でも、正式に確認しましょう」
電話は、そこで切れました。
翌日。
藤沢精機株式会社。
取締役会。
黒田を含む取締役たちが集まりました。
議案は三つ。
第一。
藤沢修一の取締役としての地位の確認。
第二。
黒田産業株式会社との設備売買計画の見直し。
第三。
代表取締役の変更。
私は事務所で、藤沢さんからの連絡を待っていました。
どきどきします。
だって。
黒田は株主にも影響力があります。
取締役会だけで、すべてが解決するとは限りません。
それでも。
今回は、正式な取締役会です。
存在しない委員会が勝手に決めるのとは違います。
「先輩」
「何だ」
「代表取締役って、取締役会で選べるんですよね」
「ああ」
「じゃあ、黒田さんを代表取締役から外すことも?」
「適法な決議が成立すればな」
私は頷きました。
昭和六十三年の商法。
取締役会。
代表取締役。
そして。
その選定や解職に関する正しい手続き。
今、必要なのは。
未来の制度ではありません。
この時代の、現役の商法です。
午後三時。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『朝比奈さん』
「藤沢さん!」
私は思わず立ち上がりました。
『終わりました』
「ど、どうなりました?」
少しの沈黙。
そして。
『黒田の代表取締役解職が、決議されました』
「……!」
『黒田自身は反対しましたが、ほかの取締役たちが賛成してくれました』
私は息を呑みました。
『機械の売却も中止することになりました』
「よかった……!」
『報酬増額の決定書も、そのままでは認められないということになりました』
私は目を閉じました。
やった。
黒田が作った三つの委員会。
指名。
監査。
報酬。
その全部を盾にしていた男が。
正式な取締役会の決議で、代表取締役の地位を失ったのです。
『それから』
藤沢さんの声が少し震えました。
『私の取締役としての地位も、確認されました』
「本当ですか!」
『はい』
電話の向こうで、小さく笑う声がしました。
『まだ会社の問題は残っています。でも、工場には戻れそうです』
私は思わず目頭が熱くなりました。
片桐所長が、静かに頷きました。
相馬先輩も、少しだけ笑いました。
「よかったな」
私は言いました。
「はい!」
すると、相馬先輩が続けました。
「ただし、ここからが大事だ」
「え?」
「議事録だよ」
……。
あ。
そうでした。
「何を決議したか。誰が出席したか。どういう手続きを踏んだか」
「はい」
「全部、正確に残す」
私は頷きました。
そして。
藤沢精機から届いた資料をもとに、適法な決議の経過を確認しながら、議事録作成の補助に取りかかりました。
黒田の代表取締役解職。
設備売却計画の中止。
藤沢さんの地位に関する確認。
すべてを、実際に行われた決議に即して整理します。
もちろん、代表取締役の変更登記など、司法書士が担当すべき手続きは別です。
私たちが扱うのは、会社の意思決定を正確に記録する書類の部分。
でも。
そこには、大きな意味がありました。
法律は、何となく正しいことをした人を勝たせる仕組みではありません。
誰が。
どんな権限で。
何を決めたのか。
それを、正しい手続きで示せなければならないのです。
一週間後。
藤沢さんが、事務所へ来ました。
今日は、以前と違って背筋が伸びています。
「皆さん、本当にありがとうございました」
深く頭を下げました。
「いえ。まだ会社の再建はこれからです」
片桐所長が言いました。
藤沢さんは頷きました。
「はい。でも、従業員たちに、ようやく説明できます」
「何をですか?」
私が尋ねると、藤沢さんは笑いました。
「会社は、誰か一人の財布ではないということです」
私は黙りました。
会社。
株式会社。
株主。
取締役。
監査役。
従業員。
取引先。
たくさんの人が関わっています。
もちろん、株主と従業員では法律上の立場が違います。
でも。
会社の財産が不当に失われれば。
そこに関わる人々の生活にも影響が及びます。
「父は、よく言っていました」
藤沢さんが続けました。
「会社は社長のものじゃない。働く人間の明日を預かる場所だって」
私は胸が熱くなりました。
昭和六十三年。
景気のよい話があふれる時代。
土地も株も値上がりする。
会社を大きくすれば偉い。
社長になれば何でもできる。
そんな勘違いをする人間もいます。
でも。
機械一台を守ることが。
工場の仕事を守ることにつながる。
工場の仕事を守ることが。
そこで働く人の暮らしを守ることにつながる。
商法は。
そうした関係を支えるためのルールでもあるのです。
「ところで」
藤沢さんが言いました。
「黒田が作った三つの委員会は、全部なくしたほうがいいんでしょうか」
私は少し考えました。
「そうとは限らないと思います」
「え?」
「役員の候補を検討する委員会や、会社の経営を見直す会議を、任意で設けること自体は考えられます」
藤沢さんが頷きます。
「はい」
「ただ、それが法律上の権限を勝手に持つわけではありません」
私は続けました。
「誰が取締役を選ぶのか。誰が監査するのか。誰が報酬を決めるのか。誰が会社を代表するのか」
そして。
「そこは、その時代の法律と定款に従わなければいけません」
藤沢さんは、しばらく黙りました。
それから。
「そうですね」
と笑いました。
「名前だけ立派でも、駄目なんですね」
私は頷きました。
「はい」
たとえ未来の制度を先取りしていたとしても。
その制度の本当の目的を忘れたら、意味がありません。
社長を監督するための仕組みで、社長の不正を隠す。
それでは本末転倒です。
藤沢さんが帰ったあと。
私は机の上の六法を見つめていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今回、ちょっと不思議だったんです」
「何が」
「黒田さんの考えた仕組み、現代の制度にかなり似ていたんですよ」
「そうなのか」
「はい」
私はノートに書きました。
指名委員会。
監査委員会。
報酬委員会。
執行役。
代表執行役。
そして。
表見代表執行役。
「最後のは何だ?」
相馬先輩が聞きました。
「代表執行役ではない執行役に、社長や副社長のような代表権があると思われる肩書を付けた場合の問題です」
「ほう」
「現代では、善意の第三者を保護する規定があるんです」
私は少し興奮しました。
たとえば。
会社が、代表権のない執行役に「社長」という肩書を与える。
取引相手は、その人に会社を代表する権限があると信じて契約する。
その場合。
会社があとから、
「本当は代表権がありませんでした」
と言えば、常に責任を免れられるのか。
答えは、そう単純ではありません。
私は言いました。
「でも、先輩」
「何だ」
「昭和六十三年には、表見代表執行役の規定もないんですよね」
「当たり前だろ。執行役の制度自体がねえんだから」
「ですよね!」
私は笑いました。
ただし。
当時にも、代表権があるように見える取締役の肩書について、取引相手を保護する商法上の規定があります。
表見代表取締役。
つまり。
制度の名前や仕組みは変わっても、取引相手を守ろうとする考え方には、つながりがあるのです。
「……面白い」
私は呟きました。
「何がだ」
「会社法って、昔の商法と切り離された別世界じゃないんですね」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
「まあ、法律ってのは、そういうもんだろ」
私は頷きました。
昭和の商法。
取締役会。
監査役。
代表取締役。
その仕組みの中で、会社は運営されています。
でも、会社が大きくなるほど。
経営する人と、監督する人をどう分けるか。
社長の暴走をどう防ぐか。
社外の視点をどう取り入れるか。
そうした問題が、ますます重要になる。
そして未来では。
指名委員会等設置会社という制度が整えられる。
ただし。
その制度があるから、自動的に会社が公正になるわけではありません。
結局は。
権限を持つ人が、法律を守るかどうか。
そこが問われるのです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今日の事件で、何を覚えた」
私は少し考えました。
「委員会の名前だけでは、権限は生まれません」
「うん」
「取締役を選ぶ人と、実際に経営する人と、監督する人は、それぞれ権限が違います」
「そうだ」
「そして、どんなに立派な制度でも、使い方を間違えたら社長の暴走を止められません」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートを開きました。
今日の事件。
三つの委員会。
未来の制度。
昭和の商法。
そして。
黒田が最後まで理解していなかったこと。
会社の権限は、社長の自信から生まれるのではない。
法律と、正しい手続きから生まれる。
私は鉛筆を握りました。
ここに書くのは、いつもの一行。
――立派な肩書より、法律上の権限。三つの委員会も、社長の私物ではない。
「……できました!」
私は顔を上げました。
「先輩!」
「何だ」
「指名委員会等設置会社、覚えました!」
「お前が言ってる未来の制度か」
「はい!」
「じゃあ、今の会社には使うなよ」
「……はい」
「絶対だぞ」
「分かってます!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
でも。
私は、かなり嬉しかったのです。
だって。
行政書士試験のテキストでは、ただの暗記項目だった三つの委員会。
指名。
監査。
報酬。
それが、会社の中でどれほど大切な意味を持つのか。
今回の事件で、はっきり分かったのです。
誰を経営陣に選ぶのか。
経営者が不正をしていないか。
報酬を誰が決めるのか。
そして、実際に会社の仕事を進めるのは誰なのか。
それぞれを分けることには、理由がある。
権力が一人に集中すれば。
人は、自分に都合のいい判断をしやすくなるからです。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『うちの会社の副社長が、勝手に大きな契約を結んでしまったんですが……』
「副社長さんが?」
『はい。取締役ではあるんですが、代表取締役ではないんです』
私は耳を澄ませました。
『でも、名刺には副社長と書いてあって、取引先は会社を代表できる人だと思っていたらしくて……』
……。
私は止まりました。
副社長。
代表権はない。
でも、代表権があるように見える肩書。
それを信じた取引先。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「表見代表取締役です!」
相馬先輩が顔を上げました。
「おう。今度はちゃんと、この時代にある制度だな」
「はい!」
「じゃあ、まず何を確認する?」
私は受話器を握り直しました。
「会社が、その副社長さんにどういう肩書を与えていたのかです!」
「それから?」
「取引相手が、どんな事情で代表権があると信じたのか!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は相談票を取りました。
昭和六十三年。
商法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
代表取締役。
取締役。
副社長。
社長。
執行役。
代表執行役。
そして未来には、表見代表執行役。
似たような肩書が、山ほどあります。
でも。
それぞれに、意味がある。
権限がある。
責任がある。
だからこそ。
名前に騙されず、法律上の地位と権限を見極めなければならないのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、相談内容を聞け!」
「はいっ!」
私は受話器に向かって、改めて尋ねました。
「すみません。その副社長さんが契約したときの事情を、最初から詳しく教えてください」
窓の外。
夕暮れの町に、工場の明かりが灯り始めていました。
そのどこかで。
藤沢精機の工作機械も、今日また動き始めているのでしょう。
誰か一人の欲望ではなく。
そこで働く人たちの明日のために。
私は、机の上の六法を見ました。
立派な肩書より、法律上の権限。
それが、今日の教訓です。
だって。
三つの委員会を並べただけで、会社の財産を自由にできるほど。
商法は、社長に甘い法律ではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




