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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の機関    

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665/701

[会社法・監査等委員会設置会社]現場編 「監査役に口出しする権利はない」の嘘。社長が消した一票と、未来の会社法が守る監督の力

挿絵(By みてみん)

 会社を監視する人間が、会社の決定に参加できない。


 それは、本当に正しいのでしょうか。


 社長が勝手なことをしたら。


 会社の金を自分の財布のように使ったら。


 不正を見つけた人間が、


「それはおかしい」


 と言っても。


「お前に議決権はない」


 その一言で黙らされてしまうとしたら。


 会社を監督する仕組みは、十分に働くのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、会社の監督制度について、奇妙な壁にぶつかることになります。


 監査役。


 取締役。


 そして。


 監査等委員会。


 現代では、会社を監査する取締役自身が、取締役会で議決権を行使できる制度があります。


 ところが。


 昭和六十三年には。


 その制度が、まだ存在しないのです。


「社長に逆らったら、監査役を辞めさせられました」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


「……監査役を?」


 私は顔を上げました。


 女性の名前は、村瀬千鶴さん。


 四十五歳。


 地元の金属加工会社、東海精機株式会社の監査役を務めていた人でした。


 紺色のスーツ。


 膝の上には、使い込まれた革鞄。


 その手が、小さく震えています。


「私、会社のお金がおかしいと思ったんです」


「お金?」


「はい。社長が、自分の親族が経営する会社へ、毎月大きなお金を支払っていて……」


 私は身を乗り出しました。


「何の代金ですか?」


「経営指導料です」


「経営指導料?」


「でも、何を指導してもらったのか、誰も説明できないんです」


 ……。


 嫌な予感。


 会社の経費。


 社長の親族会社。


 実態の分からない支払い。


 この組み合わせ。


 かなり危険です。


「いくらですか?」


「毎月百万円です」


「ひゃ、百万円!?」


 私は思わず声を上げました。


「それが、一年近く続いています」


 つまり。


 累計で一千万円を超える支払い。


 小さな町工場にとっては、決して軽い金額ではありません。


「その一方で、下請けさんへの支払いは遅れています」


 千鶴さんの声が沈みました。


「三十年以上、うちの会社を支えてくれた職人さんたちがいるんです。なのに社長は、金がないから待ってくれ、と……」


 私は唇を噛みました。


 会社には金がない。


 下請けには払えない。


 でも。


 社長の親族会社には、毎月百万円。


 ……おかしい。


 どう考えても、おかしい。


「それで、監査役として帳簿を調べたんですね」


「はい」


 千鶴さんは頷きました。


「契約書の写しも求めました。支払いの根拠も確認しようとしました」


「社長は?」


「怒鳴りました」


 千鶴さんは鞄から一枚の紙を出しました。


 そこには、大きな文字が並んでいました。


 ――監査役解任通知書。


 私は目を見開きました。


「解任!?」


「はい」


「株主総会で決まったんですか?」


「いいえ」


 千鶴さんは首を横に振りました。


「社長が、自分で決めたそうです」


 ……。


 私は紙を見直しました。


 解任通知書。


 代表取締役社長の署名。


 会社の実印。


 そして、その下には。


 ――監査役としての職務遂行に支障があるため、本日付で解任する。


 と書かれていました。


「所長!」


 私は振り返りました。


「これは、おかしいですよね!」


 奥で帳簿を読んでいた片桐所長が、静かに顔を上げました。


「誰が解任した」


「社長です!」


「株主総会は」


「開かれていません!」


 所長は短く言いました。


「なら、まずその通知書では解任の効力を認められん」


 私は拳を握りました。


 よし。


 法律の出番です。


 そして。


 私は、現代の会社法の知識を思い出しました。


 会社を監査する人。


 会社の経営を監督する人。


 その両方の役割を、取締役が担う仕組み。


 そうです。


 監査等委員会設置会社。


「所長!」


「何だ」


「こういうときこそ、監査等委員会の出番じゃないですか!」


 ……。


 沈黙。


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何だって?」


「監査等委員会です!」


「……何だ、その委員会は」


「え?」


「会社の中にあるのか?」


「ありますよ!」


 私は勢いよく答えました。


「監査等委員会設置会社では、監査等委員は全員取締役なんです!」


「……監査役じゃねえのか?」


「違います!」


 私は説明を始めました。


「監査等委員は、監査を担当する取締役です。だから取締役会で議決権も持っています!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「監査をする取締役?」


「はい!」


「そんな制度、今の商法にあったか?」


「あ……」


 私は固まりました。


 しまった。


 またです。


 また、未来の会社法を持ち込んでしまいました。


 監査等委員会設置会社。


 これは、平成二十七年の改正会社法施行によって導入される制度です。


 昭和六十三年には存在しません。


 ということは。


「……ないですね」


「何が」


「監査等委員会が」


「だから何だってんだよ!」


 相馬先輩が六法を持ち上げました。


「昭和六十三年の商法を読め!」


「はい……」


 私は肩を落としました。


 現代の会社法。


 便利です。


 でも。


 便利な未来の制度を知っていても。


 昭和六十三年の事件では、その制度を使えません。


 しかも。


 今回の事件で本当に問題になっているのは。


 監査する人間の権限そのものだったのです。


「監査役には、取締役会で議決権がありません」


 千鶴さんが静かに言いました。


「社長も、そう言っていました」


 私は顔を上げました。


「何と?」


「監査役は黙って帳簿を見ていればいい。経営に口を出すな、と」


 ……。


 なるほど。


 ここです。


 現代の監査等委員会制度との、大きな違い。


 監査役は、取締役会の決議に参加して票を投じる立場ではありません。


 一方。


 監査等委員である取締役は、取締役です。


 だから。


 取締役会で議決権を持つ。


 会社の経営を監督する人間が、経営上の決定にも議決権を持って関与できるのです。


「でも、千鶴さん」


 私は言いました。


「監査役に議決権がないからといって、何も言えないわけではありません」


「……え?」


「監査役には、監査役としての権限があります」


 そこへ、相馬先輩が割って入りました。


「そういうことだ」


 先輩は六法を開きました。


「取締役会で票を入れられないことと、社長の不正を調べられないことは、まったく別だ」


「はい」


「監査役は、取締役の職務執行を監査する立場だ。必要な報告を求め、会社の業務や財産の状況を調査する権限もある」


 千鶴さんが顔を上げました。


「では、私は間違っていなかったんですね」


「調べようとしたこと自体は、監査役の仕事です」


 相馬先輩は続けました。


「もちろん会社の規模や定款によって、監査役の権限が会計監査中心に限定される場合などは確認が必要です。だが、少なくとも社長が『俺の会社だから調べるな』と言えば済む話じゃありません」


 私は頷きました。


 監査役。


 取締役。


 議決権の有無。


 そして、監査権限。


 似ているようで、違う。


 現代の監査等委員会制度を理解するためにも。


 まず、この違いが重要なのです。


「ところで」


 片桐所長が言いました。


「その会社の定款と、役員の登記簿はあるか」


「持ってきました」


 千鶴さんが鞄を開きました。


 定款。


 登記簿謄本。


 それから。


 取締役会議事録の写し。


 所長は一枚ずつ確認しました。


 そして。


 ある一行で、手を止めました。


「……相馬」


「はい」


「これを見ろ」


 所長が指差したのは、議事録の末尾でした。


 そこには。


 ――出席取締役三名。


 ――出席監査役一名。


 と書かれていました。


「おかしいですね」


 私が呟きました。


「何がだ?」


 相馬先輩が聞きます。


「この会社、取締役は四名いるはずです」


 登記簿には。


 代表取締役・大河内剛。


 取締役・大河内修。


 取締役・大河内俊彦。


 取締役・村瀬正人。


 そして監査役・村瀬千鶴。


 と記載されています。


「村瀬正人さんは?」


 私が尋ねると、千鶴さんの顔が曇りました。


「主人です」


「ご主人?」


「はい。会社の創業時から、技術部門を担当してきました」


 私はさらに議事録を見ました。


 その取締役会では、親族会社との経営指導契約を継続する方針が承認されたことになっています。


 しかし。


「ご主人、会議に出席していないんですか?」


「呼ばれていません」


「……え?」


「開催されたことも、後から知りました」


 私は息を呑みました。


 取締役会。


 社長の親族三名。


 反対しそうな取締役一名には知らせない。


 そして。


 監査役が不審な支払いを調べようとしたら、解任通知。


 ……。


 これは。


 ただのワンマン経営ではありません。


 会社の監督機能そのものを、骨抜きにしようとしているのです。


 片桐所長が静かに言いました。


「この議事録は、誰が作った」


「社長の指示で、経理担当者が作ったそうです」


「招集通知の記録は」


「分かりません」


「全取締役の同意による招集手続の省略は」


「主人は、何も同意していません」


 所長は頷きました。


「まず、会議の成立過程を確認する必要がある」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「社長が三人集めて多数決を取れば、何でも有効になると思ってるらしいな」


「……はい」


「だがな」


 先輩は議事録を指で叩きました。


「人数だけ合ってても、手続が壊れてりゃ話は別だ」


 私はその一言を、胸に刻みました。


 会社は。


 社長の所有物ではありません。


 法律と定款に従って動く法人です。


 そして。


 社長自身も、その規則から逃れることはできないのです。


「俺が、この会社を大きくしたんだ!」


 その日の午後。


 東海精機株式会社の社長室。


 大河内剛社長は、机を叩いていました。


 五十六歳。


 恰幅のよい身体。


 金色の腕時計。


 背後には、大きな額縁に入った社訓。


 ――信用第一。


 ……。


 信用。


 どの口が言うのでしょう。


「監査役が、俺の経営に文句をつけるだと?」


 大河内社長は鼻で笑いました。


「馬鹿馬鹿しい!」


 私と相馬先輩は、千鶴さんから依頼された資料の確認のため、会社を訪れていました。


 社長には、事前に会社資料の所在と閲覧方法を確認する目的を伝えています。


 紛争の代理交渉をするためではありません。


 しかし。


 社長の方から、勝手に話し始めたのです。


「行政書士が何しに来た!」


「事実関係の確認です」


 相馬先輩が答えました。


「監査役の職務に関係する書類の作成を依頼されています」


「書類?」


「はい」


「そんなもんで俺を脅せると思うなよ」


 社長は笑いました。


「俺が法律だ。この会社ではな」


 出ました。


 俺が法律だ。


 悪徳経営者の決まり文句。


 たぶん全国共通です。


「そもそも、監査役は取締役じゃねえだろ!」


 大河内社長は言いました。


「取締役会で票も持ってねえ。そんな奴が経営に口を出すな!」


 私は一瞬、言い返そうとしました。


 そのとき。


 頭に浮かんだのです。


 現代の監査等委員会設置会社。


 監査等委員は全員取締役。


 取締役会で議決権を持つ。


 社外取締役が過半数。


 監査と監督を結びつける仕組み。


 ……。


 でも。


 今は昭和六十三年。


 その制度は使えません。


 私は拳を握り直しました。


「社長」


「何だ、小娘」


「監査役が取締役会で議決権を持たないのは、そのとおりです」


「ほら見ろ!」


「でも」


 私は続けました。


「だからといって、監査役としての調査権限までなくなるわけではありません」


 大河内社長の笑顔が消えました。


「何?」


「監査役は、取締役の仕事を監査するために存在しています」


「……」


「不審な支出があれば、確認しなければなりません」


 社長は舌打ちしました。


「細かいことを」


 そして、こう言いました。


「じゃあ辞めてもらえばいい。それだけの話だ」


 ……。


 私は言葉を失いました。


 会社のお金を調べる。


 社長に嫌われる。


 解任する。


 そんなことが簡単にできるなら。


 誰が、社長の不正を監視できるのでしょう。


 相馬先輩が静かに言いました。


「監査役は、社長の気分で任免する役職じゃありません」


「何だと?」


「選任するのは株主総会です」


「知ってるよ!」


「では、今回の解任を決めた株主総会の議事録はありますか」


 社長は黙りました。


「……」


「ないんですね」


「後から作ればいい!」


 私は目を見開きました。


 後から作ればいい。


 また、この発想。


 議事録というものを、都合の悪い事実を隠すための紙だと思っているのでしょうか。


 相馬先輩は表情を変えませんでした。


「実際に行われていない株主総会を、行われたことにする書類は作れません」


「うるさい!」


 社長は椅子から立ち上がりました。


「弁護士でもないくせに、偉そうに!」


 相馬先輩は落ち着いて答えました。


「ですから、代理人として争いに来たわけではありません」


 そして。


 机の上の議事録を一度見ました。


「ただ、書類を作る以上、事実と違うことは書けません」


 社長の顔が引きつりました。


 それ以上、先輩は言いませんでした。


 資料確認を終えると、私たちは社長室を出ました。


 廊下には、機械油の匂い。


 工場から聞こえるプレス機の音。


 働いている人たちは、今日も必死です。


 なのに。


 経営者が、自分の都合で監督する人間を追い出そうとしている。


 私は悔しくなりました。


「先輩」


「何だ」


「こういう会社こそ、監査等委員会が必要なんじゃないですか」


「またそれか」


「だって!」


 私は言いました。


「監査する人が取締役会でも票を持てたら、経営に直接ブレーキをかけられるんですよ!」


 相馬先輩はしばらく黙っていました。


 それから。


「なるほどな」


「え?」


「お前の言う制度がどんなもんかは知らねえが、監査する側にも議決権を持たせるって発想は分からなくもねえ」


「ですよね!」


「ただし」


「はい」


「今の会社には、今の商法がある」


 先輩は工場の方を見ました。


「今ある武器で守れ」


 私は頷きました。


 そうです。


 未来の法律を知っていることと。


 今、この時代の人を救えることは。


 同じではないのです。


 事務所に戻ると。


 片桐所長は、机の上に資料を並べました。


 定款。


 登記簿謄本。


 取締役会議事録。


 経営指導契約書。


 支払い伝票。


 監査役解任通知書。


 そして。


 村瀬正人さんの陳述書。


 取締役会の招集を受けていないことを記した、本人署名入りの書面です。


「こはる」


「はい」


「問題を分けろ」


「問題?」


「一つ目は、監査役の解任」


「はい」


「二つ目は、取締役会の招集手続」


「はい」


「三つ目は、親族会社への支出」


 私は頷きました。


 全部つながっています。


 でも。


 法律上は、それぞれ別の問題です。


「まず、監査役の解任です」


 私は言いました。


「社長が一方的に通知しただけでは、株主総会による解任にはなりません」


「そうだ」


「次に、取締役会」


 私は議事録を見ました。


「村瀬正人さんへの招集通知がなかった」


「うん」


「適法な招集手続だったかが問題です」


「そうだ」


「そして、親族会社への支払い」


 私は契約書を見ました。


「役務の実態と対価の相当性、それから社長自身の利害関係も調べる必要があります」


 所長が頷きました。


「では、書面を作れ」


「はい!」


 私は原稿用紙を広げました。


 相馬先輩が横から言いました。


「こはる」


「はい?」


「相手を罵倒するなよ」


「しません!」


「『悪徳社長』とか書くな」


「書きません!」


「『会社の金を盗んだ』とも断定するな」


「……それは、書きそうでした」


「だろうな」


 先輩は呆れた顔をしました。


「不審な支出と、横領が成立することは別だ。証拠もないのに犯罪だと決めつけるな」


「はい」


 私は原案を書き直しました。


 事実。


 問題となる手続。


 確認を求める事項。


 そして。


 本人が今後とるべき対応。


 感情を削り落とす。


 推測を削り落とす。


 確認できた事実だけを残す。


 すると。


 不思議なことに。


 書面は、だんだん怖くなっていきました。


 三時間後。


 机の上に、二通の書面が並びました。


 一通目。


 村瀬千鶴さん本人名義の内容証明郵便。


 宛先は、東海精機株式会社。


 代表取締役、大河内剛。


 私は読み上げました。


「通知人は、貴社の監査役として選任され、その職務を遂行してきた者である」


「うん」


「貴社代表取締役は、昭和六十三年某月某日付通知書により、通知人を監査役から解任する旨を通告した」


「続けろ」


「しかし、通知人は、当該解任について株主総会の決議が行われた事実を確認していない」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


「よって、通知人は、適法な解任手続が行われたことを確認できない以上、右通知のみをもって監査役の地位を失ったものとは認めない」


 私は息を吸いました。


「また、通知人が監査役として行った会社財産及び業務状況に関する調査について、正当な理由なく妨げることのないよう求める」


 ここで、一度読み上げるのを止めました。


 これ。


 すごいです。


 社長を一度も罵倒していない。


 犯罪者扱いもしていない。


 でも。


「お前の好き嫌いでは、監査役を辞めさせられない」


 ということが、はっきり伝わります。


「次」


 相馬先輩が言いました。


 二通目。


 こちらは、村瀬正人さん本人名義。


 取締役会の招集手続と、議事録記載事項に関する確認通知です。


「通知人は、昭和六十三年某月某日開催とされる取締役会について、招集通知を受けていない」


「うん」


「また、当該会議の開催を事前に承知しておらず、招集手続の省略にも同意していない」


「続けろ」


「したがって、当該取締役会決議の成立及び効力について疑義があるため、招集手続に関する記録、出席者、議決の状況並びに議事録記載事項について、事実関係の確認を求める」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


「はい?」


「議事録に三人の名前があるからって、全部適法になるわけじゃねえ」


「はい」


「会議を開く手続から見ろ」


 私は頷きました。


 そして、最後の一文を読みました。


「本件各事項については、通知人らが必要に応じて弁護士に相談し、商法上の責任追及その他の適切な法的措置を検討する」


 読み終わりました。


 沈黙。


 片桐所長が、二通の書面を読み直しました。


 そして。


「いいだろう」


 短く言いました。


「やった!」


 私は思わず声を上げました。


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「まだ何も終わってねえぞ」


「分かってます!」


「本当か?」


「……半分くらい」


「駄目じゃねえか」


 でも。


 今回は、少し違います。


 社長が監査役を追い出そうとした。


 取締役会から反対派を外そうとした。


 その二つについて。


 法律と書面で、問題点を明確にできたのです。


 所長はさらに、千鶴さんが集めた会計資料を整理しました。


 親族会社への支払い。


 契約内容。


 支払先。


 支払い決定に関与した取締役。


 業務の実態。


 こうした事実を一覧にし、弁護士へ渡せるようにしました。


「所長」


「何だ」


「これ、株主代表訴訟にもつながる可能性がありますよね」


「会社に損害が生じ、取締役の責任が認められるならな」


「はい」


「ただし、要件と手続の確認が必要だ」


 所長は静かに続けました。


「社長だからといって、会社に対する責任を免れるわけではない」


 私は、資料の束を見ました。


 会社のお金。


 誰のものでもないように見えて。


 実際には、法人の財産です。


 社長個人の財布ではありません。


 もし取締役が義務に違反して会社に損害を与えたなら。


 その責任を問われることがあります。


「相馬」


 所長が言いました。


「内容証明の発送準備を」


「はい」


「こはる」


「はい!」


「依頼人に内容を確認してもらえ」


「分かりました!」


 所長は、もう一度書面を見ました。


「書面は、本人の意思で出す」


「はい」


「俺たちが、勝手に争いを始めるんじゃない」


 私は大きく頷きました。


 行政書士は。


 弁護士ではありません。


 裁判で代理人になることも。


 紛争の示談交渉を業として引き受けることもできません。


 でも。


 依頼人の事実と意思を正確に整理し、適法な書面を作成することはできます。


 そして。


 その書面が。


 相手の思い込みを崩すこともあるのです。


 内容証明郵便を発送してから三日後。


 東海精機株式会社から、事務所へ電話が入りました。


「……片桐さんは、いらっしゃいますか」


 聞き覚えのある声。


 大河内社長です。


 でも。


 以前のような威勢はありません。


「所長に代わります」


 私は受話器を渡しました。


「片桐です」


『あの……書面の件で』


「はい」


『会社の顧問弁護士に相談したんですが……』


 所長は黙って聞いています。


『監査役の解任通知は、そのままでは効力がないと言われまして』


「そうですか」


『取締役会の件も、問題があると……』


「はい」


『それから、親族会社への支払いについても……』


 社長の声が小さくなりました。


『契約の内容や、取締役としての責任を調べる必要があると』


 私は息を呑みました。


 あの社長が。


 自分の口で、責任という言葉を使っています。


『あの……』


「はい」


『監査役の解任通知は、撤回します』


 ……!


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩は無言で頷きました。


『それと、問題の取締役会決議についても、適法な手続を改めて確認します』


「承知しました」


『親族会社への支払いは、一旦停止して、第三者にも調べてもらうことにしました』


 片桐所長は落ち着いて言いました。


「そうしたご意向であれば、会社としての対応を正式な書面にまとめ、ご本人へ直接お知らせください」


『……分かりました』


 社長は少し黙りました。


 そして。


『これ以上問題になれば、私個人の責任も問われるんでしょうか』


 所長は即答しませんでした。


「具体的な責任の有無は、事実関係と法的な要件によります。そこは顧問弁護士と十分に確認なさってください」


『……はい』


 電話が切れました。


 私は、しばらく受話器を見つめていました。


「先輩」


「何だ」


「社長、ものすごく声が小さかったです」


「だろうな」


「最初は『俺が法律だ』って言ってたのに」


 相馬先輩が笑いました。


「社長が一番偉いんじゃねえ」


「はい」


「商法と定款に従って、正しい手続を踏んだ奴が強いんだよ」


 私は頷きました。


 大河内社長。


 自分の会社だから、何でもできると思っていました。


 監査役を辞めさせる。


 反対する取締役を会議から外す。


 親族会社へ会社の金を流す。


 でも。


 社長という肩書は、法律の上にあるわけではありません。


 会社が法人である以上。


 会社の財産は、会社のもの。


 取締役の地位には、義務と責任が伴う。


 そして。


 不正を監査する仕組みは。


 社長の都合だけで消せるほど、軽いものではないのです。


 一週間後。


 村瀬千鶴さんが、もう一度事務所を訪れました。


「ありがとうございました」


 千鶴さんは深く頭を下げました。


「監査役として、引き続き仕事ができることになりました」


「本当ですか!」


 私は顔を上げました。


「はい」


 千鶴さんは笑いました。


「社長から、正式に解任通知を撤回する書面が届きました」


 その隣には、ご主人の正人さんもいました。


「私にも、取締役会の招集手続について説明がありました」


 正人さんは言いました。


「問題の決議は、会社として一度整理し直すそうです」


「よかった……!」


 私は胸を撫で下ろしました。


「親族会社への支払いは?」


 相馬先輩が尋ねました。


「止まりました」


 千鶴さんが答えました。


「今後、契約の実態をきちんと調査します」


 まだ、すべてが解決したわけではありません。


 会社に損害が生じたのか。


 取締役の責任があるのか。


 支払われた金銭を取り戻せるのか。


 そうした問題は、これからです。


 でも。


 少なくとも。


 不正を疑う声を封じ込めることは、できなくなりました。


「実は」


 千鶴さんが言いました。


「社員たちが、少し安心しているんです」


「社員さんが?」


「はい」


 彼女は微笑みました。


「会社のお金の使い道を、きちんと確認する人がいる。それだけでも、違うみたいで」


 私は、その言葉に胸が温かくなりました。


 会社。


 取締役。


 監査役。


 株主総会。


 試験のテキストでは、無機質な言葉ばかりです。


 でも。


 その制度の向こうには。


 毎日働く人がいます。


 機械を動かす職人。


 帳簿をつける経理担当者。


 代金の入金を待つ下請け業者。


 そして。


 会社の不正を見逃さないために、嫌われ役を引き受ける監査役。


 会社を監督する制度は。


 そうした人たちの生活を守るためにも、存在しているのです。


 千鶴さんたちが帰ったあと。


 私は机に向かいました。


 そして。


 ノートの中央に、大きく二つの言葉を書きました。


 ――監査役。


 ――監査等委員。


「……似てるようで、全然違いますね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「また妙な委員会の話か?」


「はい!」


「まだ言うのか」


「大事なんです!」


 私は鉛筆を握りました。


「先輩、現代には監査等委員会設置会社という制度があるんですよ」


「お前の言う現代って、いつだよ」


「……ちょっと未来です」


「ちょっとで済むのか?」


 済みません。


 二十年以上先です。


 しかも、この制度が登場するのは平成二十七年。


 昭和六十三年から数えれば、二十七年後。


 完全に未来です。


「でも、今回の事件を見て、制度の意味が分かりました」


「何がだ」


「監査する人が、経営の意思決定にも参加できることです」


 私はノートに簡単な図を書きました。


 昭和六十三年の東海精機。


 取締役会。


 取締役四名。


 監査役一名。


 監査役には取締役会の議決権がない。


 一方。


 未来の監査等委員会設置会社。


 監査等委員は全員取締役。


 だから、取締役会で議決権がある。


「例えば」


 私は言いました。


「監査等委員が三人いたら、その三人とも取締役なんです」


「監査役じゃねえんだな」


「そうです!」


「じゃあ、全員が社内の人間だったら、社長の身内で固められるんじゃねえか?」


 私は目を丸くしました。


 先輩。


 鋭い!


「そこなんです!」


 私は机を叩きました。


「監査等委員は三人以上必要で、その過半数は社外取締役じゃなければならないんです!」


「ほう」


「例えば三人なら、少なくとも二人は社外取締役です!」


「なるほどな」


 相馬先輩が頷きました。


「身内だけで監査を形骸化させないためか」


「そういう狙いがあります!」


 私は嬉しくなりました。


 現代の制度。


 これが、昭和の事件とつながる。


 そして。


 さらに重要なことがあります。


「しかも、監査等委員である取締役は、他の取締役と区別して株主総会で選任するんです」


「別枠か」


「はい!」


 私は続けました。


「選任は普通決議。でも、解任には特別決議が必要です!」


 相馬先輩が眉を上げました。


「選ぶときより、辞めさせるときの方が重いのか」


「そうなんです!」


 私は、今回の千鶴さんを思い出しました。


 社長に逆らった。


 不審な支払いを調べた。


 その結果。


 解任通知を送りつけられた。


 あの事件。


 監査する人の立場が弱ければ。


 経営者は、不都合な監督者を簡単に排除しようとする。


 だからこそ。


 監査等委員である取締役については、その地位を守るための仕組みが用意されているのです。


「任期も違うんですよ」


 私は続けました。


「監査等委員である取締役は、原則二年です」


「うん」


「監査等委員でない取締役は、原則一年です」


「ほう」


「しかも、監査等委員である取締役の二年の任期は、定款や株主総会の決議で短縮できません!」


 相馬先輩が腕を組みました。


「なるほどな」


「はい!」


「社長に都合の悪い奴だから、任期を短くして追い出す、ってわけにはいかねえんだな」


「そうです!」


 私は大きく頷きました。


 監査等委員。


 全員取締役。


 過半数は社外取締役。


 取締役会で議決権あり。


 他の取締役と区別して選任。


 選任は普通決議。


 解任は特別決議。


 任期は原則二年で、短縮できない。


 一方。


 監査等委員でない取締役の任期は、原則一年。


 これらの仕組みは。


 監査する人が、経営者から不当な圧力を受けても、監督の役割を果たせるように考えられたものなのです。


「こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい!」


「今の話は、どこの法律だ」


 私は固まりました。


 ……。


「未来の会社法です」


「今は何年だ」


「昭和六十三年です」


「なら」


「今の事件には使えません!」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 ……。


 また怒られました。


 でも。


 今回ばかりは、少しだけ嬉しかったのです。


 未来の制度が必要とされた理由を。


 私は、現場で見た気がしたからです。


「ところで、先輩」


「何だ」


「監査等委員会って、監査だけするわけじゃないんですよ」


「まだ続くのか」


「はい!」


 私はノートをめくりました。


「取締役の職務執行を監査して、監査報告を作ります」


「それは監査の仕事だな」


「それから、会計監査人の選任や解任などについて、株主総会に提出する議案の内容を決める権限もあります」


「ほう」


「さらに、監査等委員でない取締役の選任、解任、報酬について、意見を決めることもできます!」


 相馬先輩は、しばらく黙っていました。


 そして。


「……ずいぶん強いな」


「ですよね!」


「ただ帳簿を調べるだけじゃねえんだ」


「そうなんです!」


 私は頷きました。


 監査等委員会。


 名前だけ見ると、監査専門の会議体に思えます。


 でも。


 その委員は取締役。


 取締役会で議決権を持つ。


 さらに、取締役の人事や報酬についても一定の意見を示せる。


 監査と経営監督が、より密接につながっているのです。


 私は今回の事件を思い出しました。


 大河内社長。


「監査役には議決権がない」


 そう言って、千鶴さんを黙らせようとしました。


 確かに。


 昭和六十三年の監査役に、取締役会での議決権はありません。


 でも。


 未来の会社法は、そこに別の選択肢を作ることになります。


 監査する人を、取締役会の中に置く。


 監査する取締役に、議決権を持たせる。


 しかも。


 社外取締役を過半数とし、身分の独立性にも配慮する。


「……考えた人、すごいですね」


 私は思わず呟きました。


「誰がだ?」


 相馬先輩が聞きました。


「未来の法律を作る人です」


「だから未来って何だよ!」


 私は笑いました。


 でも。


 制度は、突然生まれるわけではありません。


 会社の経営者が暴走する。


 監査役が声を上げる。


 それでも監督が十分に機能しない。


 そんな問題が積み重なる中で。


 会社の監督を、もっと実効性のあるものにしようという発想が育っていくのでしょう。


 もちろん。


 監査等委員会設置会社になっただけで、必ず不正がなくなるわけではありません。


 議決権があっても。


 社外取締役がいても。


 何も調べず、何も言わなければ。


 仕組みは形だけになってしまいます。


 大切なのは。


 制度を使う人間が、きちんと役割を果たすこと。


 そこは。


 昭和も、令和も、変わらないのです。


 夕方。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あの……村瀬です』


 千鶴さんの声でした。


「千鶴さん!」


『今日、会社で会議があったんです』


「会議?」


『はい。親族会社への支払いについて、きちんと調べるための会議です』


「そうだったんですね」


 千鶴さんは、少し笑いました。


『社長も、最初は不機嫌でしたけど……』


「はい」


『今回は、私の話を最後まで聞いてくれました』


 私は胸が温かくなりました。


『それで、今後は契約書や支払記録をきちんと整理しよう、という話になったんです』


「よかったです!」


『あの……朝比奈さん』


「はい?」


『私、監査役になったとき、正直、何をすればいいのか不安だったんです』


 私は黙って聞きました。


『経理の数字を見るだけなら、誰でもできるんじゃないかって』


「……」


『でも、違うんですね』


 千鶴さんの声が、少しだけ強くなりました。


『おかしいことを、おかしいと言うために、監査役がいるんですね』


 私は頷きました。


「はい」


『それが分かっただけでも、今回のことは無駄じゃありませんでした』


 電話が切れました。


 私は、しばらく受話器を握っていました。


 監査役。


 取締役会で議決権はない。


 でも。


 監査する権限がある。


 会社の財産を守る役割がある。


 経営者の行為を監視する責任がある。


 そして。


 その役割を果たそうとする人を、法律は無視していない。


 私は、窓の外を見ました。


 夕暮れの町。


 遠くに、工場の煙突。


 きっと今も。


 東海精機の工場では、機械が動いているのでしょう。


 下請けの職人たちも。


 経理担当者も。


 現場の作業員も。


 明日の仕事のために、働いている。


 会社の監督制度が守ろうとしているのは。


 数字だけではありません。


 その数字の向こうで働く、人たちの暮らしなのです。


「相馬先輩」


「何だ」


「監査等委員会って、すごく大事な制度なんですね」


「未来の制度だろ」


「はい!」


「じゃあ、今は忘れろ」


「嫌です!」


「何でだよ!」


「だって、行政書士試験に出るんです!」


「何年後の試験だ!」


 私は笑いました。


 言えません。


 令和です。


 まだ、この時代の人には説明できません。


 でも。


 今回の事件で、私は一つだけ、はっきり分かりました。


 監査役と、監査等委員。


 名前は似ています。


 どちらも、会社を監査する役割を持っています。


 でも。


 決定的な違いがある。


 監査役は、取締役ではない。


 取締役会で議決権を持たない。


 一方。


 監査等委員は、取締役である。


 だから、取締役会で議決権を持つ。


 そして、その地位を守るための特別な仕組みがある。


 私はノートの最後に、こう書きました。


 ――監査役は「監査する人」。監査等委員は「監査し、取締役会でも一票を持つ取締役」。


「……できた!」


 私は鉛筆を置きました。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「今日の一行、完璧です!」


「勝手にしろ」


「あと、監査等委員は三人以上で過半数が社外取締役!」


「はいはい」


「選任は普通決議、解任は特別決議!」


「分かった」


「任期は原則二年で短縮不可!」


「分かったって言ってるだろ!」


「それ以外の取締役は原則一年!」


「こはる!」


「はい!」


「お前、その未来の法律の話をする前に、昭和の商法を覚えろ!」


 ……。


 ごもっともです。


 私は慌てて六法を閉じました。


 すると。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「今日の事件で、一番大事なことは何だ」


 私は考えました。


 監査役。


 取締役。


 議決権。


 社外取締役。


 任期。


 選任。


 解任。


 いろいろな言葉が頭を巡ります。


 でも。


 今回、千鶴さんを守ったのは。


 たった一つの制度ではありませんでした。


 監査役の地位。


 株主総会の権限。


 取締役会の招集手続。


 取締役の責任。


 それぞれが重なって。


 社長の独断を止めたのです。


「……会社を監督する人を、経営者の好き勝手で黙らせてはいけないことです」


 私は答えました。


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


 そして。


 静かに言いました。


「監督する者が、経営者に気兼ねして何も言えなくなれば、監督制度は意味を失う」


「はい」


「だからこそ、法律はその地位と権限を定めている」


 私は頷きました。


 なるほど。


 監査等委員会設置会社。


 未来の会社法が用意する、新しい監督の形。


 そこには。


 監査する人間に、実効的な監督の力を持たせたいという考え方がある。


 そして。


 監査する人間を、不当に排除されにくくするための制度がある。


 それは。


 今回の千鶴さんのような人が、声を上げ続けられるようにするための仕組みでもあるのでしょう。


「所長!」


「何だ」


「私、いつか監査等委員会設置会社の定款も作れるようになりたいです!」


 所長は少し考えました。


「……いつか、な」


「はい!」


 相馬先輩が横から言いました。


「その前に、今ある会社の定款を間違えずに作れるようになれ」


「ぐっ……」


「未来の会社を作る前に、目の前の会社を守れ」


「はい……」


 正論です。


 実に、正論。


 でも。


 私は今日、未来の会社法が少し好きになりました。


 監査する人が、経営者に遠慮しなくていいように。


 会社の監督が、形だけにならないように。


 そして。


 真面目に働く人たちの会社が、誰か一人の欲望で壊されないように。


 法律は、少しずつ仕組みを変えてきたのです。


 昭和六十三年。


 監査等委員会は、まだありません。


 でも。


 その制度が必要とされる理由は。


 すでに、この町の小さな工場にも存在していました。


 私はノートを閉じました。


 ――監査する人間に、一票を。


 それが、未来の会社法が選ぶ道の一つなのです。


「こはる!」


「はい!」


「今度こそ仕事に戻れ!」


「はいっ!」


 私は立ち上がりました。


 机の上には、今日も新しい書類が積まれています。


 定款。


 議事録。


 内容証明。


 昭和の商法。


 未来の会社法。


 どちらの時代にも共通することが、一つあります。


 社長が偉いから、何でも許されるわけではない。


 会社の金を動かす者には、責任がある。


 そして。


 その責任を監視する人間の声を、簡単に消してはいけない。


 なぜなら。


 会社を守る最後の一票は。


 ときとして。


 社長にとって、一番都合の悪い人間が持っているものだからです。

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