[会社法・会計監査人]現場編 「監査人は社長の言いなりだ」の嘘。消された二億円の赤字と、社長が追い出せなかった外部の番人
会社の数字は、嘘をつきません。
ただし。
数字を書く人間は、嘘をつくことがあります。
売上を水増しする。
損失を隠す。
会社の金を、社長個人の財布に移す。
そして。
その嘘を見破った人間に、こう言うのです。
「お前はクビだ」
でも。
もし、その人間が法律によって独立した立場を保障された、会計の専門家だったら?
社長の一言で、本当にクビにできるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は思い知ることになります。
会社には。
社長がいくら偉くても、好き勝手に追い出せない人間がいる。
そして。
その人間が守っているのは、帳簿の数字だけではないのです。
「先生! 私、会社の不正を見つけたら、クビになりました!」
朝九時。
事務所の扉が勢いよく開きました。
飛び込んできたのは、四十代の男性。
紺色の背広。
銀縁の眼鏡。
抱えているのは、分厚い書類の束です。
「お、落ち着いてください!」
私は慌てて椅子を勧めました。
「まず、お名前を」
「高瀬修一と申します。公認会計士です」
「公認会計士!」
私は思わず背筋を伸ばしました。
公認会計士。
会計の専門家。
企業の財務諸表を監査するプロフェッショナル。
そして。
現代の会社法でいう、会計監査人になれる資格を持つ人です。
「先生、聞いてください」
高瀬さんは鞄から一枚の紙を取り出しました。
「私は東海精密工業株式会社の会計監査人を務めています」
「はい」
「ところが昨日、社長からこんなものを渡されまして」
私は紙を受け取りました。
そこには、大きな文字でこう書かれていました。
――会計監査人解任通知書。
――貴殿は当社の経営方針に反する監査を行ったため、本日付で解任する。
――代表取締役社長 黒岩重蔵。
……。
私は首をかしげました。
「経営方針に反する監査?」
「そうです」
「会計監査って、経営方針に合わせてするものなんですか?」
「違います!」
高瀬さんが机を叩きました。
「だから困っているんです!」
なるほど。
これは。
かなり嫌な匂いがします。
相馬先輩が新聞を畳みました。
「で、何を見つけた」
「……二億円です」
「二億?」
「決算書から、二億円近い損失が消えていたんです」
私は固まりました。
二億円。
昭和六十三年の地方都市です。
そんな金額。
庶民には一生縁がないかもしれません。
「消えていたって、どういうことですか?」
高瀬さんは書類を広げました。
「東海精密工業は、自動車部品を製造する会社です。従業員は三百人以上。地元では大きな企業です」
「はい」
「ところが昨年、主要な取引先の一社が倒産しまして」
「あ……」
「その会社に対する売掛金の回収が、ほとんど見込めなくなりました」
売掛金。
商品を売ったけれど、まだ代金を受け取っていないお金です。
「その金額が?」
「約二億円です」
「それは大変ですね……」
「ええ。本来なら、その回収可能性を検討し、必要な貸倒引当金や損失を適切に計上しなければなりません」
高瀬さんは一枚の決算資料を指差しました。
「ところが、こちらを見てください」
私は数字を追いました。
売掛金。
二億円。
貸倒引当金。
……ほとんど計上されていない。
「え?」
「回収できる見込みが乏しい債権を、まるで全額回収できるかのように扱っているんです」
「ということは……」
「会社の利益が、実態より大きく見える」
私は息を呑みました。
赤字を隠している。
そんな単純な問題ではありません。
会社の決算書を信用して。
銀行がお金を貸す。
取引先が商品を納める。
株主が投資を続ける。
でも。
その数字が嘘だったら?
「高瀬さんは、それを指摘したんですね」
「はい」
「そしたらクビに?」
「そうなんです」
高瀬さんは唇を噛みました。
「社長は言いました。『俺の会社の帳簿に、他人が口を出すな』と」
……。
私は思いました。
それ。
会計監査人の存在意義を、根本から否定していませんか?
「待ってください!」
私は立ち上がりました。
「会計監査人は、外部から独立して監査する専門家ですよね!」
「そのとおりです」
「なら、社長の一存で解任なんてできません!」
よし。
会社法です。
私の得意分野。
「会計監査人は、株主総会の普通決議で選任・解任します!」
私は勢いよく言いました。
「しかも職務上の義務違反や非行などがある場合には、監査役全員の同意による解任も認められますが――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「お前、何の法律を話してる」
「会社法です!」
「……会社法?」
あ。
私は口を閉じました。
またです。
またやりました。
昭和六十三年。
まだ独立した「会社法」という法律はありません。
会社の基本的なルールは商法第二編。
そして、特別法。
「……商法でした」
「そうだな」
「でも、会計監査人の制度はありますよね?」
「ある」
相馬先輩は棚から古い六法を取り出しました。
「ただし、こいつを見ろ」
開かれたページ。
そこには。
――株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律。
と書かれていました。
「な、長い!」
「法律の名前に文句を言うな」
「だって!」
私は目を見開きました。
商法特例法。
現代の会社法にまとめられる以前、一定規模以上の株式会社の会計監査人制度を定めていた法律です。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「お前、監査等委員会なんて言い出すなよ」
「……!」
ぎくっ。
現代では、監査等委員会設置会社という制度があります。
指名委員会等設置会社もあります。
でも。
昭和六十三年には、そんな会社機関はありません。
さらに。
現代の会計参与制度だって、まだ存在しません。
「先輩」
「何だ」
「私、たまに未来の法律を読んでいる気分になります」
「寝ぼけるな」
「はい……」
でも。
制度の根本は、この時代にも存在します。
会社の経営者が、自分の都合で監査人を追い出してはいけない。
その考え方です。
「ところで」
片桐所長が口を開きました。
「東海精密工業の資本金はいくらですか」
「六億円です」
「負債総額は?」
「二百十億円ほどあります」
所長が頷きました。
「なら、会計監査人による監査が必要な会社ですね」
「はい」
相馬先輩が私を見ました。
「こはる。昭和六十三年の基準を見ろ」
私は六法を開きました。
資本金五億円以上。
または。
最終の貸借対照表上の負債総額が二百億円以上。
こうした株式会社には、商法特例法により、会計監査人の監査が要求されます。
「つまり……」
私は呟きました。
「社長が嫌だからって、会計監査人そのものをなくせない」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「しかも、会計監査人になれるのは、誰でもいいわけじゃねえ」
「公認会計士か監査法人です!」
「正解」
高瀬さんは公認会計士。
つまり、法律が求める資格を備えた専門家です。
私は高瀬さんを見ました。
「高瀬さん。ひとつ確認していいですか?」
「はい」
「会社には、監査役もいますよね?」
「二人います。一人は常勤です」
「その人たちは?」
高瀬さんの表情が曇りました。
「……社長の親戚です」
ああ。
嫌な予感。
すごく嫌な予感。
「二人ともですか?」
「ええ。一人は義弟。もう一人は従兄弟です」
私は天井を見上げました。
昭和の会社。
発起人七人以上。
取締役三人以上。
株式会社の設立には大勢の人間が必要だった時代。
そして一定の大会社には、監査役二人以上が必要。
その結果。
親戚。
知人。
名前貸し。
そんな人選が、現実には行われることもある。
「所長……」
「何だ」
「監査役が親戚ばかりだったら、監査できるんでしょうか」
「親戚だから直ちに駄目とは言えん」
「はい」
「問題は、法律上の職務を果たしているかだ」
なるほど。
名前ではなく、中身。
肩書ではなく、責任。
そして。
だからこそ、会社の外から独立した会計監査人による監査が重要になるのです。
「そもそも、社長は何と言っていました?」
相馬先輩が尋ねました。
「帳簿を見せるな、と」
「ほう」
「子会社の資料も調べようとしたんですが、そこで激怒されまして」
「子会社?」
「はい。黒岩社長が実質的に支配している部品販売会社があります」
高瀬さんがもう一枚、資料を取り出しました。
「そこに、不自然な取引があるんです」
「どんな?」
「東海精密工業から、通常の価格とかけ離れた条件で部品が売られている疑いがあります」
私は眉をひそめました。
「安く売っているんですか?」
「そうです」
「それで、子会社が高く売り直す?」
「その可能性があります」
相馬先輩が低い声で言いました。
「利益の付け替えか」
「まだ断定はできません。ただ、調べる必要があります」
高瀬さんは続けました。
「ところが、黒岩社長は言うんです。『親会社の監査人が子会社を調べる権利はない』と」
私は思わず言いました。
「ありますよね!」
「こはる」
「はい!」
「条文を見ろ」
私は商法特例法を開き直しました。
会計監査人には、帳簿や書類を調査し、会社側から会計に関する報告を求める権限があります。
さらに。
必要な場合には、子会社に対する会計報告の請求や、業務・財産状況の調査も問題になります。
「ほら!」
私は思わず声を上げました。
「子会社だから監査と無関係、なんて言えません!」
高瀬さんが頷きました。
「そうなんです」
相馬先輩は腕を組みました。
「社長にとっては、見られたくない場所ほど『関係ない』と言いたくなるわけだ」
「ええ」
「だったら、そこが急所だな」
高瀬さんは小さく息を吐きました。
「私も、そう思っています」
私は少し胸が熱くなりました。
この人。
ただ、自分の仕事を守ろうとしているわけではありません。
会社の数字を正しくするために。
責任を持って調べようとしている。
それなのに。
社長は、その人を追い出そうとしているのです。
その日の午後。
高瀬さんの依頼に基づいて、片桐所長が資料を整理していると。
突然。
事務所の扉が開きました。
「ここが片桐とかいう代書屋か!」
大きな声。
入ってきたのは、恰幅のよい男でした。
五十代後半。
高級そうな背広。
金の腕時計。
手には大きな革鞄。
「黒岩重蔵だ!」
……。
来ました。
悪役です。
しかも。
ものすごく分かりやすい悪役です。
「うちの監査人が、ここに来たそうだな」
黒岩社長はソファに腰を下ろしました。
「余計なことを吹き込むんじゃねえぞ」
相馬先輩が眉をひそめました。
「どのようなご用件ですか」
「決まってるだろ。高瀬の件だ」
社長は鼻を鳴らしました。
「あいつはクビだ。会社の方針に従わねえ監査人なんざ要らん」
私は口を開きかけました。
でも。
相馬先輩が視線で止めます。
ここで口論するな。
そういう目でした。
「会計監査人の解任については、法律上の手続があります」
相馬先輩が言いました。
黒岩社長は笑いました。
「手続?」
「はい」
「笑わせるな」
社長は机に身を乗り出しました。
「会社は俺が作ったんだ」
「……」
「発起人を七人集めたのも俺だ!」
私は一瞬、別の意味で驚きました。
七人。
そこは昭和の株式会社設立制度をちゃんと守ったんですね。
「取締役も監査役も、俺が集めた!」
「……」
「俺がいなけりゃ、あの会社は存在しねえ!」
黒岩社長は胸を張りました。
「だから、誰を雇って誰をクビにするかは、俺が決める!」
その瞬間。
片桐所長が顔を上げました。
「黒岩さん」
「何だ」
「会計監査人は、単なる従業員ではありません」
「何?」
「法律上の機関です」
黒岩社長の顔が少し歪みました。
「そんなことは知ってる!」
「では、解任の手続もご存じですね」
「取締役会で決めりゃいいだろ!」
所長は静かに六法を開きました。
「昭和六十三年の商法特例法では、会計監査人の解任は原則として株主総会で行います」
「……」
「取締役会だけでは足りません」
私は心の中で拳を握りました。
来ました。
法律の反撃。
「また、職務上の義務違反や非行など、法定の理由がある場合には、監査役全員の同意によって解任する制度があります」
黒岩社長がにやりとしました。
「だったら簡単だ」
「簡単?」
「監査役は二人とも、俺の親戚だ」
出た。
「二人に判を押させりゃ終わりだろ!」
……。
私は思いました。
この人。
法律を、ハンコ集めのゲームだと思っていますね。
片桐所長は表情を変えませんでした。
「監査役全員が同意すれば、理由がなくても解任できるわけではありません」
「何だと?」
「法律で定められた解任事由が必要です」
黒岩社長の笑みが止まりました。
「高瀬さんが、不正の疑いを調べようとしたこと。それ自体が職務上の義務違反になるとは思えません」
「……!」
「むしろ、必要な調査を妨げれば、会社側の問題にもなります」
社長は立ち上がりました。
「ふざけるな!」
机が揺れます。
「法律だの何だの言ってもな! 会社の金は俺のものなんだよ!」
そのとき。
相馬先輩が、低い声で言いました。
「違いますね」
「何?」
「会社の財産は、会社のものです」
先輩は黒岩社長を真っすぐ見ました。
「社長個人の財布じゃありません」
黒岩社長の頬が引きつりました。
「何だと、この若造!」
「社長が一番偉いんじゃねえ」
相馬先輩は六法を指で叩きました。
「商法を守った奴が勝つんですよ」
……。
格好いい。
先輩。
今だけは、本当に格好いいです。
黒岩社長はしばらく黙っていました。
そして。
「好きにしろ!」
革鞄を掴みました。
「どうせ総会は俺の言うとおりになる!」
そう吐き捨てると。
事務所を出ていきました。
扉が乱暴に閉まります。
私は大きく息を吐きました。
「……すごい人でしたね」
「典型的なワンマン社長だな」
相馬先輩が言いました。
でも。
片桐所長は、社長が座っていた椅子を見つめたままでした。
「相馬」
「はい」
「今の発言を記録しておけ」
「分かりました」
「こはる」
「はい!」
「次は書類だ」
いよいよ。
紙の反撃が始まります。
その夕方。
事務所の机には、三種類の資料が並んでいました。
ひとつ。
東海精密工業の定款と、会計監査人の選任に関する株主総会議事録の写し。
ひとつ。
黒岩社長が高瀬さんに渡した解任通知書。
そして。
高瀬さんが監査の過程で作成した、指摘事項の記録です。
「まず、選任の記録を確認するぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
私は議事録を開きました。
――会計監査人として高瀬修一を選任する件。
――原案どおり可決承認。
きちんと株主総会で選任されています。
「ということは」
私は言いました。
「社長の口約束で頼まれた人じゃないんですね」
「そうだ」
「正式に選任された会計監査人です」
所長が頷きました。
「では、解任の記録は?」
「……ありません」
「そうだ」
私は黒岩社長の通知書を見ました。
代表取締役社長。
黒岩重蔵。
署名と社印。
それだけです。
「株主総会の決議もありません」
「うん」
「監査役全員による、法定理由に基づく解任の記録もありません」
「そうだ」
「じゃあ、この通知だけで解任できたことにはならない!」
私は思わず立ち上がりました。
相馬先輩が頷きました。
「そこが一つ目だ」
「一つ目?」
「ああ。まだある」
先輩が別の紙を指差しました。
――次回定時株主総会議案。
――会計監査人不再任の件。
私は目を丸くしました。
「えっ!」
「社長は次の手も考えていたらしい」
「不再任?」
そう。
会計監査人には任期があります。
そして。
昭和六十三年の商法特例法では、任期は就任後一年以内の最終の決算期に関する定時総会の終結時まで。
原則として一年単位です。
「じゃあ社長は、任期が終わるまで待って、再任しなければいいと?」
「そう考えてるんだろうな」
「でも……」
私は六法を見ました。
そこには。
別段の決議がない場合、再任されたものとみなす。
という仕組みが置かれていました。
「あ!」
私は声を上げました。
「自動的に終わるわけじゃない!」
「そうだ」
「定時株主総会で別段の決議がなければ、再任されたものとみなされるんですね!」
相馬先輩が頷きました。
「だから社長は、不再任の議案を用意してるんだ」
「なるほど……」
私は考えました。
会計監査人の任期は短い。
でも。
任期が来れば、社長が勝手に入れ替えられる。
そんな制度ではない。
正式な決議。
監査役の関与。
会計監査人の意見陳述。
そうした手続によって、経営者の都合だけで監査人を追い出すことを防ごうとしているのです。
「所長」
「何だ」
「社長が株をたくさん持っていたら、総会で不再任にできるんじゃないですか?」
「必要な手続を踏み、適法な決議が成立すれば、不再任となることはある」
「……じゃあ、絶対に守れるわけではないんですね」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「法律は、誰かを永久にその地位に置くためのものではない」
「はい」
「ただし、社長が一人で決めてよいことと、そうでないことを区別する」
なるほど。
私は頷きました。
会計監査人の独立性は、無敵の身分保障という意味ではありません。
でも。
経営者の一言で監査を止められるようでは、そもそも監査制度が成り立たない。
そこを守るための手続なのです。
「こはる。内容証明の原案を書け」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「ただし、高瀬さん本人の意思表示として作るんだぞ」
「分かっています」
行政書士は弁護士ではありません。
紛争の代理交渉を引き受けることはできません。
だから今回も。
高瀬さん自身が会社に通知する書面の作成を、適法な業務の範囲で支援します。
交渉や訴訟が必要になれば、弁護士につなぐ。
そこは明確です。
私は原稿用紙を取り出しました。
そして。
慎重に、一文字ずつ書き始めました。
――通知書。
――通知人 高瀬修一。
――被通知人 東海精密工業株式会社。
――代表取締役 黒岩重蔵殿。
――第一。
――通知人は、貴社株主総会の決議により、適法に選任された会計監査人である。
――第二。
――貴社代表取締役が交付した解任通知書については、株主総会による解任決議が確認できず、また商法特例法所定の監査役による解任事由及び手続も確認できない。
――したがって、右通知書の交付のみをもって、通知人の会計監査人としての地位が失われたものとは認められない。
――第三。
――通知人が行っている売掛債権の回収可能性の検討及び必要な会計資料の調査は、会計監査人の職務に関わるものである。
――第四。
――通知人は、会計監査人として必要な監査手続を継続する意思を有しており、監査に必要な資料の提供及び法令に基づく調査への協力を求める。
――第五。
――次回定時株主総会において、通知人の不再任又は解任に関する議案が取り扱われる場合、通知人は商法特例法に基づく意見陳述の機会を行使することがある。
――第六。
――適切な監査が妨げられる場合には、監査報告への影響を検討するとともに、必要に応じて弁護士への相談その他の法的対応を検討する。
私は書き終えました。
「できました!」
相馬先輩が読みました。
「……悪くねえな」
「本当ですか!」
「ただし、ここ」
「はい?」
先輩が一行を指差しました。
私が最後に書き加えた文章です。
――不当な解任によって生じた損害については、貴社及び代表取締役個人に賠償を求める。
「これは削れ」
「えっ!」
「会社に対する損害賠償の問題と、社長個人の責任を混ぜるな」
「……はい」
「正当な理由のない解任について、会社に対する損害賠償請求が問題になることはある」
「はい」
「だが、それだけで社長個人にも当然に同じ責任が生じるわけじゃねえ」
私は慌てて消しました。
確かに。
相手が悪いからといって、法律上の責任を何でも一緒にできるわけではありません。
「それから」
相馬先輩が続けました。
「まだ実行されていない解任や不再任について、もう損害が確定したように書くな」
「はい!」
「事実と可能性を分けろ」
片桐所長も原案を読みました。
そして。
最後に一文を加えました。
――なお、本通知は会計監査人としての法定の職務及び権限を確認するものであり、貴社の経営判断を通知人が代行する趣旨ではない。
私は首をかしげました。
「所長、これも必要ですか?」
「必要だ」
「どうしてです?」
「会計監査人は、社長の代わりに会社を経営する者ではない」
「はい」
「数字が正しいかを監査する者だ」
なるほど。
会計監査人。
監査役。
取締役。
それぞれ役割が違います。
そして。
会計監査人は、あくまで外部の独立した監査の専門家。
経営者と意見が違っても。
それだけで職務違反になるわけではない。
私は完成した書面を見つめました。
静かな文章です。
怒鳴っていない。
脅していない。
ただ。
事実。
権限。
手続。
その三つが、きちんと並んでいます。
翌日。
高瀬さんは内容証明郵便の文面を確認し、自分の意思で署名しました。
そして、会社へ発送しました。
その一方で。
高瀬さんは、監査役にも正式に事情を伝えました。
売掛金の評価。
子会社との不自然な取引。
監査に必要な資料が提供されていないこと。
そして、社長から解任通知を受けたこと。
すべて。
記録として残しました。
相馬先輩が言いました。
「これで、誰が何を知っていたかも残る」
「はい」
「監査役が見て見ぬふりをしていたなら、それも問題になる」
私は頷きました。
会計監査人だけが会社を監視するわけではありません。
監査役にも、監査役としての職責があります。
しかも。
一定の大会社では。
監査役による監査と、会計監査人による監査。
その両方が求められています。
「二重の監査ですね」
「そうだ」
「一方が社長の親戚だから、もう一方も従わないといけない、なんてことはない」
「当たり前だ」
相馬先輩は笑いました。
「むしろ、社長の顔色で監査の結論が変わったら終わりだろ」
確かに。
それでは。
監査ではなく、社長の機嫌取りです。
三日後。
事務所に電話が入りました。
『……片桐さんでしょうか』
聞き覚えのある声。
黒岩社長です。
「はい。片桐です」
『高瀬の通知が届いた』
「そうですか」
『……あのな』
前回とは違います。
明らかに勢いがありません。
『うちの顧問弁護士にも見せたんだが』
私は思わず顔を上げました。
『社長名義の通知だけでは、解任の効力は生じないと言われた』
片桐所長は黙って聞いています。
『それに……監査役に判を押させても、理由がなけりゃ駄目だと』
「その点は、通知人の書面に記載されています」
黒岩社長は少し黙りました。
『……高瀬を戻せばいいんだな』
私は思わず声を上げそうになりました。
でも。
片桐所長が先に答えます。
「高瀬さんの会計監査人としての地位と監査権限については、通知書のとおりです。具体的な対応については、ご本人及び貴社の専門家とご確認ください」
『分かった……』
電話は切れました。
「所長!」
「何だ」
「折れましたよね!」
「まだだ」
「ええっ!」
相馬先輩が横から言いました。
「社長が電話で言っただけだ」
「……そうでした」
「監査できる状態になったかどうかが重要だ」
なるほど。
また同じです。
口で謝っただけでは終わりません。
実際に必要な資料が出される。
監査が妨げられない。
そこで初めて、前に進めるのです。
翌週。
高瀬さんが再び事務所を訪れました。
今度は、顔色が少し明るくなっています。
「先生。会社から正式な回答が来ました」
書面には、こうありました。
――先に交付した解任通知書については、法定の解任手続を経たものではないことを確認した。
――今後、会計監査人による適切な監査に必要な資料の提供について協力する。
私は思わず笑顔になりました。
「よかったですね!」
「ありがとうございます」
でも。
高瀬さんは、まだ表情を緩めていませんでした。
「ただ、これからが本番です」
「え?」
「二億円の損失の問題が、まだ残っています」
あ。
そうでした。
この事件。
会計監査人の解任だけが問題ではありません。
会社の決算そのものに、重大な疑いがあるのです。
「高瀬さんは、どうするんですか?」
「必要な監査を続けます」
「はい」
「会社が適切に修正するなら、それを確認します」
「それでも修正しなかったら?」
高瀬さんは、まっすぐ私を見ました。
「監査の結果として、適切な意見を表明することになります」
私は息を呑みました。
「社長が怒っても?」
「もちろんです」
「会社から嫌われても?」
「それが仕事ですから」
……。
すごい。
私は思いました。
会計監査人というのは。
ただ帳簿を眺めて、計算が合っているか調べるだけの人ではありません。
必要な証拠を集める。
会計処理の妥当性を判断する。
その結果について、独立した立場から意見を述べる。
会社がどれだけ大きくても。
社長がどれだけ威張っていても。
そこで嘘をついてはいけない。
そういう仕事なのです。
さらに二週間後。
東海精密工業から、修正された決算資料が高瀬さんに提出されました。
問題の売掛金について、回収可能性が再検討され。
必要な損失が計上されることになったのです。
同時に。
子会社との取引についても、追加資料の提出が始まりました。
高瀬さんは、最後まで慎重でした。
「資料が出たからといって、すべて解決したとは限りません」
そう言います。
ただ。
少なくとも。
社長の一存で監査を止めることはできなかった。
そして。
不適切な数字を隠したまま決算を済ませるという、黒岩社長の当初の思惑は崩れたのです。
その後。
東海精密工業では、監査役二人も会計監査人からの指摘を受け、監査の進め方を見直すことになりました。
高瀬さんが言いました。
「実は、あの会社には私の知り合いも働いているんです」
「そうなんですか?」
「ええ。工場で三十年以上働いている人です」
高瀬さんは小さく笑いました。
「朝早くから旋盤を回して、夜遅くまで納期を守っている」
「……はい」
「その人たちが一生懸命に作った会社を、嘘の決算で危険にさらしたくないんです」
私は黙りました。
会社。
法人。
株主。
取締役。
監査役。
会計監査人。
試験のテキストでは、全部ただの法律用語です。
でも。
その会社には、人がいます。
汗を流して働く工員さん。
納期を守ろうと走り回る営業担当者。
会社を信じてお金を貸す銀行。
部品を納める下請企業。
そして。
毎月のお給料で、家族を養っている人たち。
会社の数字が嘘だったら。
傷つくのは、社長一人ではありません。
「高瀬さん」
「はい」
「会計監査人って、大事な仕事ですね」
高瀬さんは少し照れたように笑いました。
「そう言っていただけると、ありがたいです」
私は頷きました。
本当に。
そう思いました。
夕方。
高瀬さんが帰ったあと。
私は事務所の机で六法を開いていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「会計監査人って、ちょっと不思議ですね」
「何がだ」
「会社から報酬をもらっているのに、会社の経営者に逆らう仕事なんですよね」
「ああ」
「普通、給料を払ってくれる相手には、嫌われたくないじゃないですか」
相馬先輩が頷きました。
「だから独立性が必要なんだよ」
「独立性……」
「社長の言うとおりに監査するなら、最初から監査なんて要らねえだろ」
私は笑いました。
確かに。
「でも先輩」
「何だ」
「監査役だって、会社の中で監査する人ですよね」
「そうだ」
「じゃあ、会計監査人とは何が違うんですか?」
相馬先輩は六法を指差しました。
「監査役は、会社の機関として監査する」
「はい」
「会計監査人は、会社から独立した公認会計士や監査法人が、会計の専門家として監査する」
「なるほど」
「役割が違うんだ」
私は頷きました。
「それで両方必要な会社があるんですね」
「そうだ」
「しかも、会計監査人は誰でもなれるわけじゃない」
「公認会計士か監査法人だ」
「会社の経理部長を、いきなり会計監査人にすることもできない」
「そういうことだ」
私はノートに小さく書きました。
――会計監査人は、会社の会計を外から確かめる専門家。
うん。
分かりやすい。
さらに。
今回は、解任も重要でした。
株主総会による選任・解任。
監査役の関与。
職務違反などを理由とする監査役全員の同意による解任。
一年単位の任期。
別段の決議がなければ、再任されたものとみなされる仕組み。
そして。
会計監査人自身が、選任や不再任、解任について株主総会で意見を述べられること。
「……なるほど」
私は呟きました。
「だから社長が簡単に追い出せないんですね」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「会計監査人は、社長の部下ではないということです」
「うん」
「会社から監査を依頼されていても、社長の言いなりになってはいけない」
「そうだ」
「それから、解任には法律上の手続が必要です」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
所長は続けました。
「もう一つある」
「え?」
「社長を疑えば、必ず正しいわけではない」
「……はい?」
「監査人も、証拠と専門的判断に基づいて職務を行わなければならない」
私ははっとしました。
そうです。
社長が偉いから正しい。
それが間違いなら。
監査人が指摘したから絶対に正しい。
というのも違います。
会計監査人に必要なのは。
社長に逆らう勇気だけではありません。
事実を調べる能力。
会計についての専門知識。
そして。
誰に対しても、正しい数字を示す誠実さ。
そのすべてなのです。
「所長」
「何だ」
「会計監査人って、数字の番人なんですね」
片桐所長が、少しだけ笑いました。
「そうかもしれんな」
私はノートに大きく書きました。
――会計監査人は、会社の数字を守るために、社長から独立して監査する。
よし。
今日の教訓。
これなら忘れません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、さっきから帳簿を見てるな」
「はい!」
「何か気づいたか?」
私は机の上に置かれていた、事務所の経費帳を見ました。
電気代。
電話代。
紙代。
郵便料金。
文房具代。
そして。
――接待交際費。
私は首をかしげました。
「先輩」
「何だ」
「この接待交際費、ずいぶん多くないですか?」
相馬先輩の表情が止まりました。
「……何?」
「先月だけで、結構ありますよ」
「……」
「何に使ったんですか?」
「仕事だよ」
「仕事?」
「依頼人との付き合いだ」
「本当ですか?」
私は帳簿の一行を指差しました。
――居酒屋 銀月。
――飲食代 一万二千円。
「これ、先輩がよく行く居酒屋ですよね?」
「……」
「所長」
私は顔を上げました。
「これは会計監査が必要では?」
相馬先輩が慌てました。
「待て! 違う!」
「何がです?」
「ちゃんと仕事の話をしたんだ!」
「誰と?」
「……」
「先輩?」
「……」
片桐所長が静かに言いました。
「相馬」
「はい……」
「領収書と、誰と何のために使ったかの記録を出せ」
「……はい」
私は思わず笑ってしまいました。
「先輩!」
「何だよ!」
「社長が一番偉いんじゃないんですよね?」
「そうだよ!」
「じゃあ、先輩も帳簿をごまかしちゃ駄目ですよね?」
「ごまかしてねえ!」
「本当ですか?」
「本当だ!」
私はにやりとしました。
「会計監査人を呼びます?」
「こんな小さな事務所に、法律上の会計監査人は必要ねえよ!」
「じゃあ、私が調べます!」
「お前は見習いだろ!」
「でも、数字は嘘をつきません!」
「うるせえ!」
片桐所長が、少しだけ笑いました。
昭和六十三年。
会社の制度は、現代よりずっと複雑です。
株式会社を作るにも、人を集める必要がありました。
会社を運営するにも、商法や商法特例法を確かめなければなりません。
でも。
そんな古い制度の中にも。
経営者の暴走を止める仕組みがありました。
監査役。
会計監査人。
株主総会。
それぞれが役割を持ち、会社を支える。
そして。
会社の数字を、社長個人の都合だけで書き換えさせない。
そのために。
法律は、外部の専門家に独立した立場を与えているのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「居酒屋の領収書、全部見せてください!」
「お前、本当にしつこいな!」
「監査です!」
「行政書士見習いが勝手に監査人を名乗るな!」
……なるほど。
会計監査人というのは、資格も権限も必要な、専門的な仕事です。
私が勝手に名乗っていいものではありません。
でも。
数字に疑問を持つこと。
事実を確認すること。
説明できないお金の動きを、そのままにしないこと。
その姿勢なら。
私にも学べるはずです。
私は領収書を一枚持ち上げました。
「先輩」
「……何だ」
「この日、所長は出張でしたよね?」
「……」
「誰を接待したんですか?」
先輩は天井を見上げました。
「……俺の高校時代の友達だ」
「仕事の話は?」
「……してない」
「先輩!」
「分かった! 俺の私的な飲食代だ! 訂正する!」
私は思わず笑いました。
なるほど。
監査というものは。
立派な会社の巨額の決算だけでなく。
こんな小さな領収書一枚からも、大切さが分かるのかもしれません。
片桐所長が静かに言いました。
「相馬」
「はい……」
「その一万二千円は、事務所に返しておけ」
「……はい」
私はノートを閉じました。
今日の事件。
二億円の損失を隠そうとした社長。
それを見破った会計監査人。
社長の一言では解任できなかった理由。
そして。
会社の数字を、誰が、何のために確かめるのか。
すべてが、一本の線でつながりました。
会計監査人は。
社長を困らせるために存在するのではありません。
会社を信じる人たちが、嘘の数字に騙されないようにするために存在するのです。
そして。
社長がどれだけ大声で叫んでも。
正式な株主総会の決議もなく。
法律上の解任理由もないまま。
独立した監査の専門家を、簡単に消し去ることはできません。
会社の金は、社長個人のものではない。
会社の決算は、社長の作文でもない。
だからこそ。
会計監査人という、数字の番人が必要なのです。
「先輩!」
「まだ何かあるのか!」
「一万二千円、いつ返すんですか?」
「今日返すよ!」
「では、帳簿に記録しますね!」
「好きにしろ!」
私は笑いながら、鉛筆を握りました。
昭和六十三年。
会社の嘘を暴くのに、必ずしも大声は必要ありません。
必要なのは。
正しい数字。
正しい手続。
そして。
その二つを守ろうとする人間です。
なぜなら。
どれほど偉い社長であっても。
会社の帳簿に、自分の都合だけで真実を書かせる権利までは、持っていないのです。
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