[会社法・監査役会]現場編 「監査役は社長の部下だ」の嘘。存在しない監査役会と、帳簿の裏に隠された三千万円
会社のお金を盗む人間は、帳簿を見られるのが嫌いです。
だから。
帳簿を見ようとする人間を、邪魔者として追い出そうとします。
しかし。
会社の帳簿は、社長の日記帳ではありません。
会社の財産も、社長の財布ではありません。
そして。
社長がどれほど偉そうにしていても。
法律によって監査する権限を与えられた人間を、好き勝手に黙らせることはできないのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一つの不思議な事件に出会いました。
監査役が、会社の不正を調べようとした。
すると社長が言ったのです。
――監査役会で決めていないから、お前に調査する権利はない。
……なるほど。
監査役会。
現代の会社法では、大会社の監督体制を支える重要な機関です。
監査役が三人以上。
その半数以上が社外監査役。
監査役会が監査報告を作成し、常勤監査役を選び、監査の方針を決める。
そういう制度です。
ところが。
この時代には。
私は、とんでもない落とし穴にはまることになります。
だって。
昭和六十三年には、法律上の「監査役会」という機関が、まだ存在していなかったのです。
「会社の金が、三千万円ほど消えています」
朝一番。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
「……三千万円?」
私は思わず聞き返しました。
男性の名前は、森田修一さん。
五十二歳。
灰色の背広。
手には、使い込まれた黒い鞄。
地元の機械部品メーカー、東海精密工業株式会社の監査役を務めているそうです。
「三千万円って、会社の預金がなくなったんですか?」
「正確には、支出の説明がつかないんです」
森田さんは鞄から書類を取り出しました。
支払伝票。
振込記録。
取引先一覧表。
そして。
一枚の請求書。
――株式会社大成経営企画。
――経営改善指導料 一千万円。
私は首をかしげました。
「経営改善指導料?」
「これが三回、支払われています」
「ということは……」
「合計三千万円です」
すごい金額です。
昭和六十三年。
三千万円。
町工場の従業員たちが、何年もかけて働いて稼ぐような金額です。
「その会社は、何を指導したんですか?」
私が聞くと、森田さんは首を横に振りました。
「分かりません」
「え?」
「報告書もない。打合せ記録もない。工場長も経理部長も、そんな会社を知らないと言っています」
「……それなのに三千万円?」
「はい」
嫌な予感がしました。
森田さんはさらに声を落としました。
「そして、その会社の代表者が……」
「はい」
「うちの社長の弟なんです」
……。
なるほど。
来ました。
身内の会社。
不透明な支出。
そして、三千万円。
嫌な予感が、確信に変わりました。
「社長には確認しましたか?」
「しました」
「何と?」
「経営判断だ。監査役が口を出すな、と」
私は眉をひそめました。
「それは……」
「それでも資料を見せてほしいと頼んだんです。そうしたら、こんなものを渡されました」
森田さんは、もう一枚の紙を差し出しました。
そこには大きく、
――監査役会決議通知書。
と書かれていました。
「監査役会?」
私は紙を見ました。
――本会社監査役会は、監査役森田修一による個別の会計調査を認めない。
――今後、会社の帳簿及び関係資料の閲覧は、監査役会の承認を必要とする。
――右決議に違反する監査役については、解任を含む必要な措置を講ずる。
私は目を丸くしました。
「……何ですか、これ」
「社長の指示で作ったそうです」
「社長が?」
「はい」
私はもう一度、紙を読みました。
監査役会が決めた。
だから一人の監査役は調査できない。
……おかしい。
何かがおかしい。
だって。
監査役って、会社の不正を調べるためにいるんですよね?
それなのに。
不正を疑われている社長の指示で、監査できなくなる?
「森田さん」
「はい」
「監査役は何人いらっしゃるんですか?」
「二人です」
「二人……?」
「私と、もう一人。社長の古くからの知人です」
私は少し考えました。
そして。
現代の行政書士試験の知識が、頭の中に浮かびました。
「……それ、監査役会として成立しないんじゃないですか?」
「え?」
「監査役会設置会社では、監査役は三人以上必要です!」
私は勢いよく言いました。
「しかも、半数以上は社外監査役でなければなりません!」
森田さんが驚きました。
「そうなんですか?」
「はい!」
私は指を折りました。
「監査役が三人なら、社外監査役は二人以上!」
「はあ……」
「四人なら二人以上!」
「なるほど……」
「五人なら三人以上です!」
「そんなに細かく?」
「細かいんです!」
私は胸を張りました。
よし。
今回は完璧です。
会社法第三百三十五条。
第三百九十条。
監査役会の構成と権限。
行政書士試験でも重要な論点。
私は、覚えています!
「そもそも、監査役会の決議には監査役の過半数が必要なんです!」
私は続けました。
「社長が一人で勝手に決められるものではありません!」
そのとき。
「こはる」
相馬先輩が低い声で呼びました。
「はい?」
「お前、今、何の法律を説明してる?」
「会社法です!」
「……会社法?」
「はい!」
「何年の法律だ?」
「え?」
私は固まりました。
あ。
しまった。
現代の会社法。
制定されたのは平成十七年。
施行されたのは平成十八年。
ここは昭和六十三年。
まだ存在しません。
「あ、いえ、その……商法です!」
「今さら言い直すな」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「監査役が三人以上だの、社外監査役が半数以上だの、どこから持ってきたんだ?」
「……未来です」
「何?」
「いえ! 何でもありません!」
危ない。
未来人。
また地雷を踏みました。
相馬先輩は六法を開きました。
「今は昭和六十三年だ。会社の基本的な仕組みは商法第二編だぞ」
「はい……」
「それに、株式会社の監査には、商法の特例を定めた法律も関わってくる」
「はい」
「で、もっと大事なことがある」
「何でしょう?」
先輩は、問題の紙を指差しました。
――監査役会決議通知書。
「この時代、法律上の監査役会制度はまだねえ」
……。
私は瞬きしました。
「……え?」
「ねえんだよ」
「ええええっ!?」
思わず叫びました。
「監査役会がないんですか!?」
「法律上の機関としてはな」
「じゃあ、この紙は!?」
「そこを調べるんだよ」
先輩は、にやりと笑いました。
「未来の法律を持ち出して怒鳴る前に、目の前の偽物を見抜け」
……なるほど。
昭和の法律。
恐ろしい。
監査役会の人数を間違えたどころではありません。
そもそも。
監査役会という法定機関自体が、まだ生まれていなかったのです。
「ただし」
片桐所長が、奥から口を開きました。
「監査役が集まって話し合うことまで、禁じられているわけではない」
「はい?」
「二人の監査役が会合を開くことはあるだろう」
「あ、なるほど」
「だが、会社が勝手にその会合を『監査役会』と呼んだからといって、法律上の監査役会になるわけではない」
私は頷きました。
そうです。
名前をつければ法律上の機関になる。
そんなわけがありません。
「では所長、社長が作ったこの決議通知書は……」
「名前より中身だ」
所長は紙を指で叩きました。
「監査役の法律上の権限を、誰が、何に基づいて制限できると考えたのか」
その声は静かでした。
でも。
空気が変わりました。
「森田さん」
所長が尋ねました。
「御社の資本金はいくらですか」
「六億円です」
「監査役は二人ですね」
「はい」
「登記上の役員構成と、定款を確認させてください」
森田さんは鞄から定款の写しを取り出しました。
相馬先輩が目を通します。
「資本金六億円……。大会社の監査に関する特例も確認する必要がありますね」
所長が頷きました。
「そうだ」
そして。
「監査役が二人いること自体は、この時代の大会社の制度と矛盾しない」
私は驚きました。
「本当ですか?」
「ああ」
昭和六十三年。
大会社については、商法特例法による特別な監査制度がありました。
監査役も複数必要です。
けれど。
現代のような、監査役三人以上と社外監査役の半数以上を前提とする制度ではありません。
私は頭を抱えました。
「……同じ監査役なのに、時代によってルールが違いすぎます」
「だから現行法を確認するんだ」
相馬先輩が言いました。
「お前、未来の六法だけで仕事するつもりか?」
「反省しています……」
「何回目だよ」
「数えるのはやめてください!」
所長は定款を閉じました。
「森田さん」
「はい」
「会社の帳簿を調べたいというお考えは、今も変わりませんか」
「もちろんです」
「では、その意思を文書にしましょう」
「文書……?」
「はい」
所長が短く答えました。
「監査役には、法律上の調査権限があります」
私は顔を上げました。
そうだ。
監査役会という機関が、まだない。
でも。
監査役という機関そのものは、存在する。
しかも。
監査役は、ただ社長の言うことを聞くために置かれているわけではありません。
会社の業務や財産を調査し、取締役の職務執行を監査する役割があります。
「所長!」
「何だ」
「監査役会がなくても、監査役の権限はなくならないんですね!」
「そうだ」
「じゃあ、社長の決議通知書で権限を奪うことも……」
「できると考える根拠がない」
所長は静かに言いました。
「会社の内部で作った紙一枚で、商法上の権限は消えん」
……なるほど。
これは。
面白くなってきました。
翌日。
森田さんから電話がありました。
『社長が、事務所の方と一度話したいと言っています』
相馬先輩は受話器を取りました。
「相談内容と会社側の認識を確認するだけです。紛争の代理交渉は引き受けられませんが、それでよろしければ」
『はい』
こうして。
東海精密工業の社長が、片桐事務所を訪れることになりました。
午後二時。
黒塗りのセドリックが事務所の前に止まりました。
降りてきたのは、五十代後半の男。
高そうな背広。
金色の腕時計。
分厚い革の鞄。
東海精密工業株式会社。
代表取締役社長。
黒崎剛三。
「ここが片桐事務所か」
黒崎社長は室内を見渡しました。
「ずいぶん小さいところだな」
……。
第一声がそれですか。
「社長、こちらへ」
森田さんが椅子を勧めました。
黒崎社長はどっかりと腰を下ろしました。
「で?」
腕を組みます。
「監査役会の件で文句があるんだって?」
相馬先輩が口を開きました。
「まず、事実関係を確認させてください」
「何だ」
「森田さんの帳簿調査を認めない、という通知を会社が出したのですね」
「ああ」
「その理由は?」
「監査役会で決めたからだ」
社長は当然のように言いました。
「監査役が勝手に会社をかき回していいわけがねえだろ」
私は黙って聞いていました。
「会社には秩序ってもんがある」
社長は続けました。
「一人が勝手に帳簿を見せろ、取引先を調べさせろなんて言い始めたら、経営が止まっちまう」
「しかし」
森田さんが言いました。
「三千万円の支出には説明が必要です」
「またそれか!」
黒崎社長が机を叩きました。
「経営判断だと言っただろう!」
「それを確認するのが監査役の仕事です」
「黙れ!」
社長が怒鳴りました。
「俺が会社を作ったんだ!」
……来ました。
「俺が七人の発起人を集めて、ここまで大きくしたんだぞ!」
七人。
私は、そこで思わず反応しました。
昭和の株式会社。
発起人七人以上。
現代なら一人で設立できます。
でも、この時代は違う。
「親戚から名前を借りてまで会社を作ったんだ!」
黒崎社長は胸を張りました。
「取締役だって三人揃えた! 監査役だって置いた! それを今さら、雇われ監査役ごときが!」
私は口を開きかけました。
でも。
相馬先輩が先に言いました。
「社長」
「何だ」
「会社を作った苦労と、会社の財産を自由に使えるかどうかは別です」
黒崎社長の眉が動きました。
「何?」
「株式会社は、社長個人とは別の法人です」
「知ってるよ」
「では、社長の弟さんが代表を務める会社への三千万円の支出について、資料がない理由は何でしょう」
「だから経営判断だ!」
「判断の内容を説明する資料は?」
「ない!」
「業務の実績は?」
「それを調べるのが経理の仕事だろ!」
「監査役も、必要な調査を行う立場です」
「だから!」
社長は例の紙を取り出しました。
――監査役会決議通知書。
「これを見ろ!」
机に叩きつけます。
「監査役会が認めてないんだ!」
相馬先輩は、その紙を見ました。
そして。
「社長」
「何だ!」
「この監査役会というのは、どういう法律上の機関ですか?」
「……は?」
「根拠となる条文を教えてください」
社長の顔が止まりました。
「商法だろうが」
「商法のどこですか?」
「そんな細かいこと、知らん!」
「では、誰が議長を務めたんですか?」
「俺だ!」
……。
私は目を丸くしました。
社長?
「社長が?」
「ああ!」
「監査役ではありませんよね」
「当たり前だろ! 俺は代表取締役だ!」
相馬先輩が、静かに頷きました。
「なるほど」
その声が、少し怖い。
「監査役の職務を制限するため、代表取締役である社長が議長を務めた会議を、監査役会と呼んだわけですね」
「そうだ!」
黒崎社長は得意そうに言いました。
「俺の会社だからな!」
……。
私は思いました。
この人。
自分で説明しています。
自分に不利な事実を。
一つ残らず。
「社長」
片桐所長が初めて口を開きました。
「お持ちいただいた文書には、法律上の監査役会としての効力を認める根拠がありません」
「何だと?」
「昭和六十三年現在、監査役会は法定の会社機関として設けられておりません」
黒崎社長が固まりました。
「……は?」
「監査役の会合を開くことと、法律上の監査役会が存在することは別です」
「いや、しかし……」
「また、監査役の調査権限を代表取締役の判断で一律に奪うこともできません」
社長の顔から、笑みが消えました。
「……何を言ってる」
片桐所長は続けました。
「御社の監査役は、社長の私的な部下ではありません」
そして。
「監査役を置いたのは、社長を守るためだけではない」
社長の目が細くなりました。
「……どういう意味だ」
「会社と、その株主や債権者の利益を守るためです」
所長は、定款の写しを机に置きました。
「会社の財産は、社長個人の財産ではありません」
しん。
事務所が静まりました。
黒崎社長は、しばらく黙っていました。
やがて。
「……ふん」
鼻で笑います。
「それで?」
「はい?」
「裁判でも起こすのか?」
社長は立ち上がりました。
「行政書士に何ができる」
嫌な笑い方でした。
「帳簿を見たけりゃ、裁判所にでも行けよ」
相馬先輩は表情を変えません。
「承知しました。会社側のお考えは確認できました」
「それだけか?」
「はい」
「情けねえな!」
黒崎社長は笑いました。
「大きな会社を動かすってのはな、お前らの紙切れ遊びとは違うんだよ!」
そう言い残して。
社長は事務所を出ていきました。
玄関の戸が、乱暴に閉まりました。
私は拳を握りました。
「先輩!」
「何だ」
「あの人、ひどすぎます!」
「そうだな」
「三千万円ですよ!」
「ああ」
「しかも監査役会って、存在しない機関を持ち出して!」
「そうだ」
「もっと言い返せばよかったのに!」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
そして。
「こはる」
「はい」
「向こうは、何を残して帰った?」
「……え?」
「考えろ」
私は机を見ました。
監査役会決議通知書。
定款。
支払伝票。
請求書。
そして。
黒崎社長自身の説明。
「……証拠?」
「そうだ」
相馬先輩は頷きました。
「法的な根拠も確認せず、監査役の調査を止めたことを認めた」
「はい」
「社長自ら会議の議長を務めたことも認めた」
「はい」
「三千万円の支出について、具体的な説明もしなかった」
先輩は、にやりと笑いました。
「十分だろ」
私は息を呑みました。
「……では」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「次は、書面だ」
片桐所長が静かに頷きました。
「森田さん本人の意思を確認して、調査資料の提出を求める通知を作る」
なるほど。
ここからが、片桐事務所の仕事です。
その日の午後。
私は内容証明郵便の原案を書き始めました。
差出人。
監査役・森田修一。
宛先。
東海精密工業株式会社。
代表取締役・黒崎剛三。
私は鉛筆を握りました。
「よし……」
まず。
監査役会が存在しないこと。
社長が勝手に監査を妨げられないこと。
不透明な三千万円の支出。
これらを全部、書面に並べます。
私は勢いよく書きました。
――貴殿の行為は明白な横領であり、三千万円全額を直ちに返還されたい。
「できました!」
相馬先輩が原案を読みました。
そして。
赤鉛筆。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「横領と断定するな」
赤線。
「ええっ!」
「経営改善指導料が実際に支払われていることは分かってる」
「はい」
「だが、業務の実態がないと確定したわけじゃねえ」
「……あ」
「それに、会社から金が出たというだけで、社長個人が三千万円全部を返す義務を負うと直ちに断定できるわけでもねえ」
「はい……」
「今、確実に言えることは何だ」
私は考えました。
「……支出の内容を確認する必要があることです」
「そうだ」
「監査役として、帳簿や証拠書類を調査する必要があります」
「それだ」
相馬先輩は原案を机に戻しました。
「不正を決めつけるな。まず調べる権限と、その必要性を明確にしろ」
私は頷きました。
なるほど。
法律の書面は、怒りをぶつけるものではありません。
事実と権限。
そして相手に求める行動を、正確に示すものです。
「もう一つ」
所長が言いました。
「はい」
「監査役会という名前だけを攻撃して終わるな」
「え?」
「仮に監査役同士が正式に話し合っていたとしても、それだけで個々の監査役の法定権限が当然に消えるわけではない」
「……あ!」
「今回の急所は、そこだ」
私は紙を見つめました。
監査役会。
現代なら、監査役が集まって監査の方針などを決定する機関です。
でも。
だからといって、会社を監査する権限そのものを社長の都合で消していいわけではありません。
しかも昭和六十三年には。
そもそも法律上の監査役会制度がない。
「所長!」
「何だ」
「二重におかしいんですね!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「相手の説明を、現行法と事実の両方から確かめろ」
私は原案を書き直しました。
二時間後。
机の上には、新しい通知書がありました。
私は読み上げました。
「第一。本通知人は、東海精密工業株式会社の監査役として、その職務を行うため、会社の業務及び財産の状況を調査する必要がある」
相馬先輩が頷きます。
「続けろ」
「第二。昭和六十三年某月某日付『監査役会決議通知書』は、本通知人による帳簿及び関係資料の調査を禁止するものとされている」
「うん」
「第三。しかし、現行の商法及び関係特例法において、右通知書に記載された『監査役会』をもって、本通知人の法定の監査権限を一律に制限できるものではない」
「よし」
私は息を吸いました。
「第四。本通知人は、株式会社大成経営企画に対する合計金三千万円の支出について、契約書、請求書、支払記録、業務報告書その他関係資料の提示を求める」
「うん」
「第五。右資料の確認を求める理由は、監査役として当該支出の内容及び会社財産の状況を適切に調査するためである」
片桐所長が頷きました。
「続けなさい」
「第六。調査の妨害が継続し、又は取締役による違法行為が認められる場合には、本通知人は商法上の監査役の職務として、必要な報告その他の法的措置を検討する」
最後。
「以上につき、関係資料を提示できる日時及び方法を、書面により回答されたい」
読み終わりました。
相馬先輩が頷きました。
「今度はいい」
「本当ですか!」
「ああ」
片桐所長が、通知書に目を通します。
「ただし、もう一点」
「はい」
「この通知の差出人は、森田さん本人だ」
「はい」
「本人の意思に基づく書面として、内容を十分に確認してもらうこと」
「分かりました」
「我々は、代理人として社長と示談交渉をするわけではない」
「はい!」
行政書士。
訴訟代理人ではありません。
法律紛争の交渉を代わりに引き受けることもできません。
でも。
依頼者の意思を正確な書面にすること。
事実を整理すること。
法的な問題点を示した通知書を作成すること。
それは、書類の専門家としての仕事です。
そして。
私は、完成した通知書を見つめました。
たった数枚。
怒鳴り声はありません。
悪口もありません。
けれど。
黒崎社長は、これを読んだら説明しなければならない。
なぜ監査を止めたのか。
監査役会という名前に、どんな法的根拠があると思ったのか。
三千万円を、何のために支払ったのか。
弟の会社は、どんな仕事をしたのか。
なぜ契約書や業務報告書を見せられないのか。
私は呟きました。
「……逃げ道がない」
片桐所長が言いました。
「違う」
「え?」
「正しい説明ができるなら、それが答えだ」
所長は通知書を閉じました。
「説明できないなら、その理由が次の問題になる」
私は黙りました。
なるほど。
内容証明は、魔法ではありません。
送るだけで相手の財産を差し押さえられるわけでもない。
でも。
問題から逃げていた人間に、何を求められているのかを明確に突きつけることはできる。
しかも。
いつ、どんな内容を通知したのか。
その記録が残る。
「先輩」
「何だ」
「社長、これを読んだら怒りませんか?」
「怒るだろうな」
「ですよね……」
「でもな」
相馬先輩は笑いました。
「社長が怒ったからって、商法の条文が消えるわけじゃねえ」
……確かに。
法律は、社長の機嫌で変わらないのです。
内容証明郵便を発送した三日後。
東海精密工業から、森田さん宛てに返答が届きました。
森田さんは、それを持って事務所に来ました。
「……所長さん」
その顔は、少し青ざめていました。
「どうしました?」
私が聞くと、森田さんは封筒を差し出しました。
「社長が、資料を開示すると」
「本当ですか!」
「はい」
私は思わず笑顔になりました。
「やりましたね!」
でも。
森田さんは首を横に振りました。
「それだけじゃないんです」
「え?」
「社長から、個人的に電話がありました」
「何と?」
森田さんは、声を落としました。
「……監査役会の通知書は、撤回する、と」
私は目を丸くしました。
「撤回!?」
「ええ」
そして。
「三千万円の件も、事情を説明したいと」
……。
相馬先輩が腕を組みました。
「なるほどな」
「先輩?」
「ようやく、自分の立場が分かったんだろ」
森田さんは続けました。
「社長は弁護士に相談したそうです」
「はい」
「そうしたら、監査役の調査を妨げ続けること自体が問題になる、と」
片桐所長は静かに頷きました。
「そうでしょう」
「それに……」
森田さんは一度、言葉を切りました。
「もし取締役の任務違反が認められれば、会社に対する損害賠償責任も問題になると」
私は息を呑みました。
取締役の責任。
会社の財産を不当に失わせたなら。
取締役個人が、責任を問われることがある。
しかも。
一定の要件を満たせば、株主が会社のために取締役の責任を追及する訴えを起こす制度もあります。
株主代表訴訟。
もちろん、三千万円の支出が不正だったと、この時点で確定したわけではありません。
でも。
社長だから責任を免れる。
そんな理屈は通らない。
「森田さん」
所長が言いました。
「これからが大事です」
「はい」
「資料を確認してください」
「はい」
「支出に正当な理由があるなら、それを記録に残す。不当な支出なら、必要な措置を検討する」
「分かりました」
「疑いだけで断定してはいけません」
所長は続けました。
「ただし、説明できないまま終わらせてもいけません」
森田さんは深く頭を下げました。
「ありがとうございます」
その目に、少しだけ力が戻っていました。
一週間後。
森田さんが再び事務所を訪れました。
今度は、分厚い封筒を抱えています。
「調査が進みました」
私は身を乗り出しました。
「どうでしたか!?」
「三千万円のうち、一部については実際に経営相談を受けた記録がありました」
「あ……そうなんですね」
「はい。ただ、残りについては、業務の実態を裏づける資料が見つかりませんでした」
私は息を呑みました。
「それで……?」
「社長本人が、弁護士を通じて、会社に損害を与えた可能性のある支出について責任を認め、精算に向けた話合いを始めることになりました」
「本当ですか!」
「会社側でも、関係資料を保存し、取締役会で対応を検討することになりました」
森田さんは、少し笑いました。
「少なくとも、もう私に『帳簿を見るな』とは言いません」
私は胸を撫で下ろしました。
よかった。
三千万円すべてが戻ったわけではありません。
責任の範囲も、まだ確認が必要です。
でも。
社長が勝手に作った紙によって、監査が止められる。
そんな状態は、終わりました。
「それから」
森田さんが言いました。
「もう一人の監査役も、今後は自分で会社の資料を確認すると言っています」
「え?」
「今までは、社長に言われたことだけを見ていたそうです」
私は少し驚きました。
「でも……」
「はい」
森田さんは微笑みました。
「監査役というのは、名前を置いておくだけの役職ではないんですね」
相馬先輩が、そこで口を開きました。
「そういうことです」
少し低い声。
「社長の友達だから、黙っていていいわけじゃねえ」
森田さんが頷きました。
「ええ」
「監査役として選ばれたなら、監査役としての仕事がある」
「はい」
私は、その言葉を心の中で繰り返しました。
監査役。
社長の飾りではない。
会社の番人。
会社の財産を守るために、目を光らせる人。
そして。
その役割は、社長がどんなに威張っていても変わらないのです。
さらに数日後。
東海精密工業の女性従業員が、森田さんを通じて一通の手紙を届けてくれました。
そこには、丁寧な字でこう書かれていました。
――会社が傾いたら、私たちの給料はどうなるのかと不安でした。
――帳簿を調べてもらえて、少し安心しました。
――これからも、会社をちゃんと見ていてください。
私は、その手紙を何度も読みました。
森田さんは照れくさそうに笑いました。
「経理の若い子が書いてくれたんです」
「嬉しいですね……」
「ええ」
森田さんは、少し目を細めました。
「うちは、小さな町から始まった会社なんです」
「はい」
「最初は従業員が五人しかいませんでした」
「五人……」
「今では百人を超えています」
私は驚きました。
百人。
その百人には、家族がいます。
子供がいる人。
親を養っている人。
住宅ローンを返している人。
病気の家族を支えている人。
会社の財産が不当に失われれば。
困るのは社長だけではありません。
「だから」
森田さんは言いました。
「会社を守りたいんです」
その声は、とても静かでした。
「社長を困らせたいわけじゃない。会社を続けたいだけなんです」
私は胸が熱くなりました。
監査役。
試験のテキストでは、ただの機関名です。
何人必要か。
誰が選任するか。
どんな権限があるか。
そんなことを覚えるだけでした。
でも。
本当は。
会社の中にいる、たくさんの人の暮らしを守る仕組みだったのです。
森田さんが帰ったあと。
私は六法を開きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「監査役って、すごいですね」
「何がだ」
「会社のお金を守る役割なんですね」
「まあな」
「社長の暴走を止めることもある」
「ああ」
「しかも、社長の部下ではない」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
私はノートに書きました。
――監査役は、取締役の職務執行を監査する機関。
そして。
ふと、現代の制度を思い出しました。
「先輩」
「まだ何かあるのか」
「監査役が一人で頑張るのって、かなり大変ですよね」
「ああ?」
「たとえば、社長が怖い人だったら」
「今回みたいにな」
「そうです」
私は考えました。
今回、森田さんには勇気がありました。
でも。
もし、勇気がなかったら?
もし、ほかの監査役も社長の言いなりだったら?
もし、社長の仲間ばかりが監査役になっていたら?
会社の不正を見つけても、誰も声を上げられない。
「だから……」
私は呟きました。
「監査役同士が協力する仕組みが、必要になるのかも」
「何だ?」
相馬先輩が聞き返しました。
「いえ……」
私は笑ってごまかしました。
監査役会。
現代の会社法。
監査役三人以上。
その半数以上が社外監査役。
監査役会による監査報告の作成。
常勤監査役の選定。
監査方針などの決定。
そして、各監査役による招集。
監査役の過半数による決議。
もちろん。
昭和六十三年には、まだその制度はありません。
でも。
今回の事件を見ると。
なぜ将来、そういう制度が生まれるのか。
少しだけ分かる気がしました。
一人で社長に立ち向かう監査役。
社長と仲のよい監査役。
名ばかりの監査役。
そんな人たちがいる会社では、監査が十分に働かないことがある。
だから。
監査役を組織として機能させる仕組み。
社外の目を取り入れる仕組み。
監査の方針を話し合う仕組み。
そういうものが、後の時代に必要とされるようになる。
ただし。
私は、今回の事件で一つ気づきました。
人数を揃えれば、それだけで会社が守られるわけではありません。
社外の人を入れれば、必ず不正がなくなるわけでもありません。
大切なのは。
監査役が、本当に監査すること。
権限を持つ人が、その権限をきちんと使うこと。
そして。
会社の財産が、誰か一人の欲望で失われないようにすること。
「所長」
「何だ」
「監査役が何人いても、全員が社長の言いなりだったら意味がありませんね」
所長が顔を上げました。
「そうだな」
「逆に、森田さんみたいに一人でも真剣に仕事をすれば、会社を変えられることもある」
「あるだろう」
私は頷きました。
「監査って、人数だけじゃないんですね」
片桐所長は、少しだけ笑いました。
「人数は制度を作る」
「はい」
「だが、仕事をするのは人間だ」
私は、その言葉をノートに書きました。
――制度を作るのは法律。制度を生かすのは人間。
うん。
今日の事件にぴったりです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、最初に何て言った?」
「え?」
「監査役が三人以上必要だとか何とか」
「あっ」
しまった。
また、その話ですか。
「現代の制度では、そうなんです!」
「現代?」
「……いえ、その、将来そうなるかもしれないという予想です!」
「随分と具体的な予想だな」
「研究熱心なんです!」
「ふうん」
先輩は怪しそうに私を見ました。
「じゃあ聞くぞ」
「はい!」
「今、この昭和六十三年に、商法上の監査役会はあるか?」
「ありません!」
「よし」
「大会社には、監査役が必要です!」
「そうだ」
「でも、現代の三人以上・社外監査役半数以上というルールを、そのまま昭和六十三年に持ち込んではいけません!」
「よし」
「そして!」
私は胸を張りました。
「監査役の権限を、社長が勝手に取り上げることもできません!」
相馬先輩が頷きました。
「そこを忘れるな」
「はい!」
私は得意になりました。
やった。
今日は、ちゃんと昭和の商法を理解しました。
そのとき。
片桐所長が、一枚の紙を私に差し出しました。
「こはる」
「はい?」
「これを見てみろ」
私は受け取りました。
そこには、
――取締役会議事録。
と書かれていました。
「また会社の書類ですね!」
「ああ」
私は目を通しました。
出席取締役三名。
議長・代表取締役。
決議事項。
――代表取締役の報酬増額。
……。
私は首をかしげました。
「所長」
「何だ」
「これ、何かおかしいんですか?」
「定款を見てみろ」
私は、添付された定款を開きました。
役員報酬に関する条項。
そこには。
――取締役の報酬は、株主総会の決議をもって定める。
と書かれていました。
私は固まりました。
「……あ」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「気づいたか」
「はい!」
私は議事録を持ち上げました。
「これ、取締役会だけで報酬を増やしたことになってます!」
「そうだ」
「でも、株主総会で決めるべき事項があるんですよね!」
「そのとおり」
私は思わず笑ってしまいました。
監査役会がない時代。
取締役会はあります。
でも。
取締役会が何でも決めていいわけではない。
社長が何でも決めていいわけでもない。
そして。
会社の機関は、それぞれ役割が違う。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「会社って、機関がいっぱいありますね!」
「ああ」
「株主総会!」
「うん」
「取締役会!」
「うん」
「監査役!」
「そうだ」
「さらに未来では監査役会!」
「だから未来の話はやめろ!」
怒られました。
でも。
私は笑っていました。
今回の事件で、はっきり分かったことがあります。
監査役会という名前が書いてある。
だから有効。
監査役が二人いる。
だから社長の指示に従う。
社長が決めた。
だから会社の決定。
そんな単純な理屈は、通りません。
法律は、会社の機関ごとに役割を分けています。
その役割には、理由があります。
誰か一人に、会社のすべてを握らせないためです。
窓の外。
夕暮れの町に、工場の煙突が並んでいました。
その向こうには、東海精密工業の工場もあるのでしょう。
今日も、百人を超える従業員が働いている。
旋盤を回す人。
部品を運ぶ人。
伝票を書く人。
給料を計算する人。
そして。
会社の財産を、間違った使い方から守ろうとする人。
森田修一さん。
たった一人の監査役が、声を上げた。
その声を消そうとした社長は。
自分が作った偽物の「監査役会」によって、かえって法律上の問題を明らかにしてしまった。
私は六法を閉じました。
昭和六十三年。
監査役会は、まだ生まれていません。
けれど。
会社を監査する人間の仕事は、確かに存在しています。
そして、後の時代。
その仕事を組織として支え、独立性を強めるために。
監査役会という制度が、法律の中に登場することになるのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「何ぼんやりしてる!」
「監査役会の未来を考えてました!」
「未来より目の前の議事録を見ろ!」
「はいっ!」
私は慌てて定款を開き直しました。
商法。
会社法。
取締役会。
監査役。
監査役会。
名前は似ていても。
時代によって、制度は違います。
それでも。
変わらないものが一つあります。
会社は、社長一人のものではない。
会社の財産は、社長の財布ではない。
そして。
会社を監査する権限は、社長の機嫌ひとつで消せるほど軽いものではない。
――監査役は、社長を見る人間であって、社長の顔色を見る人間ではない。
私は、その一文をノートの端に書きました。
よし。
これなら、忘れません。
ただし。
今回、一番よく分かったのは。
法律上、まだ存在していない機関の名前を使って、他人の権限を奪おうとする人間がいること。
そして。
その嘘を見抜くためには。
最新の六法だけでなく。
その時代に本当に存在した法律を、正しく読む必要があるということでした。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「商法って、時代を間違えると大変ですね!」
「当たり前だ!」
「でも、面白いです!」
「面白がる前に仕事をしろ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も、書類の山は減りません。
それでも私は、少しだけ嬉しくなっていました。
なぜなら。
社長の怒鳴り声に負けなかった監査役が、一人いたからです。
その人が守ろうとしたのは。
三千万円という数字だけではありません。
工場で働く人たちの給料。
会社を信じて取引する人たちの財産。
そして。
明日も、会社がちゃんと動き続けるという、当たり前の毎日だったのです。
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