[会社法・監査役]法理編 こはるノート
会社で一番偉い人は、誰でしょうか。
社長?
会長?
大株主?
確かに、その人たちは大きな権限を持っています。
でも。
どれほど偉い社長でも、自分の都合で会社のお金を使い放題にしてよいわけではありません。
そして。
社長が間違ったことをしたとき。
法律上、その行為を調べ、必要なら待ったをかける役職があります。
監査役。
会社の経営を監視する存在です。
ところが、この監査役。
行政書士試験では、なかなか厄介です。
権限。
選任。
解任。
員数。
任期。
しかも、取締役と似ているようで違う。
さらに。
昭和六十三年と現代では、法律の仕組みまで違うのです。
私は今日、この監査役を完全に攻略することにしました。
◇
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……監査役って、社長に嫌われる仕事なんでしょうか」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、いきなり」
「だって、村瀬さんの事件ですよ」
「ああ」
東海精機株式会社。
監査役、村瀬清一さん。
六十二歳。
会社の社長である大黒剛造とは、三十年来の付き合いでした。
もともとは、
――監査役なんて、名前を貸してハンコを押してくれればいい。
そんな約束で引き受けた役職。
ところが。
帳簿を調べてみると、社長の息子が経営する大黒商事へ、多額のお金が流れていました。
経営指導料、三百万円。
業務委託費、五百万円。
設備購入前払金、八百万円。
合計千六百万円。
しかも。
さらに二千万円が支払われようとしていた。
村瀬さんは、監査役として帳簿や契約書の確認を求めました。
すると、大黒社長は怒鳴ったのです。
――監査役は黙ってハンコを押せ!
挙げ句の果てに。
社長の一存で、監査役解任通知まで出してきました。
「……あの社長、本当にひどかったですよね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「会社を自分の財布だと思ってたからな」
「でも、内容証明を受け取ったら態度が変わりました」
「ああ」
「追加の二千万円も止まりましたし」
「そうだな」
私はノートを見つめました。
たった一人の監査役。
大きな権限を持つ社長。
普通に考えれば、力関係は圧倒的です。
でも。
法律上は違いました。
「先輩」
「何だ」
「監査役って、社長より偉いんですか?」
「違う」
「じゃあ、社長の部下ですか?」
「それも違う」
「……ややこしい!」
相馬先輩が笑いました。
「そこが分かれば、監査役の半分は理解できるぞ」
「本当ですか!」
「ああ」
先輩は机を指で叩きました。
「取締役と監査役は、仕事が違うんだ」
なるほど。
今日の勉強は、そこから始まりました。
◇
「まず、監査役の役割です!」
私はノートに大きく書きました。
――監査役。
取締役の職務執行を監査する機関。
「つまり、取締役がきちんと仕事をしているか、監視する人ですね」
「そうだ」
「でも、先輩」
「何だ」
「社長が一番偉いのに、監査役が社長の仕事を調べるなんて、変な感じがしませんか?」
「だから必要なんだろ」
「え?」
相馬先輩は言いました。
「社長が自分で自分の仕事を監査して、問題ありませんって言ったら、何の意味がある?」
私は想像しました。
大黒社長。
自分で会社のお金を使う。
自分で帳簿を確認する。
自分で監査報告を書く。
そして。
――俺の経営には何の問題もない!
……。
「駄目ですね」
「だろ」
「完全にやりたい放題です」
「そういうことだ」
会社には、経営を任された人間がいます。
取締役です。
しかし、その取締役が会社の利益を害する行為をすることもある。
だからこそ。
取締役から独立した立場で、その職務執行を監査する仕組みが必要になる。
「ただし、監査役が経営方針を全部決めるわけじゃねえぞ」
先輩が付け加えました。
「はい」
「取締役が合法な範囲で経営判断をすることと、監査役がその職務執行を監査することは別だ」
私は頷きました。
監査役は、もう一人の社長ではありません。
社長の代わりに会社を経営するわけでもない。
取締役の仕事が、法令や定款に従って適切に行われているかを監査する。
それが基本です。
「つまり!」
私はノートに書きました。
――取締役は会社を動かす。監査役は取締役の職務執行を監査する。
「どうですか!」
「いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「まだ序の口だ」
「厳しい!」
でも。
監査役の本当の難しさは、ここからなのでした。
◇
「次に、監査の内容です」
私はノートに二つの言葉を書きました。
――会計監査。
――業務監査。
「この二つが基本なんですよね」
「ああ」
「まず、会計監査です」
私は、村瀬さんの事件を思い出しました。
大黒商事への支払。
三百万円。
五百万円。
八百万円。
それぞれ帳簿に記載されていました。
でも。
本当にそのお金を支払う根拠があったのか。
契約書は存在するのか。
帳簿や計算書類は適切なのか。
そうしたことを調べる。
「これが会計監査ですね!」
「そうだ」
次。
業務監査。
こちらは取締役の職務執行そのものが問題になります。
例えば。
社長が、会社に損害を与えるような違法な取引をしようとしている。
取締役会で必要な手続きを踏んでいない。
定款に違反する行為をしている。
そんな場合です。
「つまり、大黒社長の事件では両方が問題になったんですね」
「ああ」
「お金の流れを調べるのが会計監査」
「うん」
「社長の取引や職務執行に問題がないか調べるのが業務監査」
「そうだ」
私は二重線を引きました。
なるほど。
これなら区別できます。
「ところで、先輩」
「何だ」
「すべての監査役が、必ず業務監査までできるんですか?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「いいところに気づいたな」
「褒めました?」
「まだだ」
「またですか!」
先輩は六法を開きました。
「昭和六十三年の話からだ」
この時代。
会社の監査制度は、商法と商法特例法によって定められていました。
そして、会社の規模によって監査役の権限に違いがあったのです。
特に、商法特例法上の小会社。
原則として、監査役の職務は会計監査に限定されていました。
「でも東海精機は?」
「資本金二億円。中会社に当たる」
「だから業務監査もできたんですね!」
「そうだ」
私は頷きました。
あのとき所長が、最初に資本金や負債の金額を確認した理由。
ようやく分かりました。
監査役という肩書だけを見ても、具体的な権限が全部決まるとは限らないのです。
「じゃあ現代では?」
私は思わず言いました。
「……また未来の話か」
「あっ」
しまった。
また口が滑りました。
でも、ここは比較したいところです。
私はノートの端に、未来の知識を書きました。
現代の会社法では、原則として監査役は会計監査と業務監査を行います。
ただし、非公開会社で、一定の条件を満たす場合。
定款によって監査役の監査範囲を会計監査に限定することができます。
会社法第三百八十九条。
ここが重要です。
ただし。
会計監査限定の監査役については、通常の業務監査権限を持つ監査役とは、適用される規定が異なります。
さらに。
会社法上、「監査役設置会社」という言葉には、特別な意味があります。
会計監査だけに権限が限定された監査役しか置いていない会社は、原則として、この定義上の監査役設置会社に含まれません。
「……ややこしい!」
私は頭を抱えました。
監査役はいる。
でも、法律上の監査役設置会社には当たらない場合がある。
試験問題で出されたら、引っかかりそうです。
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「何を一人で唸ってるんだ」
「監査役がいるのに、監査役設置会社じゃない場合があるなんて……」
「何の話だ?」
「いえ! 未来の……じゃなくて、独り言です!」
「お前の独り言は法律用語が多すぎる」
ごもっともです。
◇
「さて、次は監査役の調査権限です!」
私はページをめくりました。
村瀬さんの事件。
監査役として帳簿を見せてほしいと要求した。
すると大黒社長は、
――余計なことをするな!
と怒鳴った。
「でも、監査役には調査権限があるんですよね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「必要な報告を求めたり、会社の業務や財産を調べたりできる」
現代の会社法では、第三百八十一条第二項。
監査役は、いつでも、取締役や会計参与、支配人その他の使用人に事業の報告を求めることができます。
また、会社の業務及び財産の状況を調査することができます。
「いつでも、というのが重要ですね」
「そうだな」
「社長が許可したときだけ、じゃない」
「ああ」
「監査役自身の法律上の権限なんですね」
私は大きく丸をつけました。
そして、ふと思いました。
「先輩、子会社だったらどうなんですか?」
「子会社?」
「例えば、社長が会社のお金を子会社に移していた場合です」
私はノートに簡単な図を描きました。
親会社。
その下に、子会社。
親会社から子会社へお金が流れる。
もし親会社の監査役が、
――子会社のことだから知りません。
と言ってしまったら。
不正の隠れ場所になってしまうかもしれません。
「必要があれば、子会社に対する調査も問題になる」
相馬先輩が答えました。
私は頷きました。
現代の会社法第三百八十一条第三項。
監査役は、その職務を行うため必要があるときは、子会社に対して事業の報告を求めたり、業務や財産の状況を調査したりできます。
「じゃあ、子会社は絶対に従わなきゃいけないんですか?」
「そこまで単純じゃねえ」
そうです。
第四項。
子会社は、正当な理由があるときは、報告や調査を拒むことができます。
「なるほど!」
私はノートに書きました。
親会社の監査役。
職務上必要なら、子会社を調査できる。
ただし、子会社には正当な理由による拒否が認められる。
「この二つはセットですね」
「そうだな」
「調査できる、だけで覚えたら危険です」
私は赤鉛筆で囲みました。
そして、もう一つ。
「監査役は、調べたら終わりじゃないんですよね」
「何がだ」
「監査報告です」
そう。
監査役は、必要な監査を行い、監査報告を作成しなければなりません。
ただ帳簿を眺める。
疑わしい支払を見つける。
それだけでは終わらない。
監査の結果を、正式な形にまとめる。
これも大切な職務です。
「村瀬さんも、報告書を作りましたよね」
「ああ」
「あの書類があったから、他の取締役も問題を確認できたんです」
私は頷きました。
監査役の仕事は、ただ秘密を見つけることではありません。
見つけた事実を、会社の適切な判断につなげることなのです。
◇
「次は、監査役の報告義務です!」
私は少し声を張りました。
相馬先輩が耳を押さえます。
「声がでけえ」
「だって、重要なんですよ!」
「静かに重要だと言え」
「はい……」
私はノートに書きました。
――取締役の不正。
――法令・定款違反。
――著しく不当な事実。
現代の会社法第三百八十二条。
監査役は、取締役が不正な行為をしたり、そのおそれがあったりする場合などには、遅滞なく報告しなければなりません。
「報告先は誰ですか?」
相馬先輩が尋ねました。
「取締役です!」
「取締役会設置会社なら?」
「取締役会です!」
「よし」
私は得意になりました。
東海精機では、取締役会がありました。
だから村瀬さんは、取締役会への報告を行ったのです。
あのとき。
他の取締役たちが、初めて問題を正面から取り上げました。
これまで社長の一存で進んでいた取引。
それに対して、正式な説明が求められた。
「でも先輩」
「何だ」
「監査役が報告したら、取締役会は必ず社長を解任しなきゃいけないんですか?」
「そんな決まりじゃねえ」
「ですよね」
監査役の報告。
それ自体で社長が解任されるわけではありません。
取締役会は報告された内容を確認し、必要な対応を検討する。
法律上の手続きに従って、適切な判断をする必要があります。
「監査役は、社長を罰するためにいるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「会社を守るために、問題を知らせる」
「ああ」
私は頷きました。
なるほど。
報告義務。
これも、会社を守るための仕組みです。
◇
「じゃあ、取締役会の話を続けます!」
私はノートをめくりました。
現代の会社法第三百八十三条。
監査役には、取締役会への出席義務があります。
そして、必要があると認めるときは、意見を述べなければなりません。
「ここ、大事ですよね」
「何がだ」
「出席することと、意見を述べることです!」
私は二つを囲みました。
取締役会に出席する。
必要なときには意見を述べる。
「監査役は、ただ部屋の隅に座っているだけでは駄目なんですね」
「そうだ」
もし大黒社長が、
――この支払は俺が決めた!
と言い張ったとします。
そして、取締役会で問題のある取引を進めようとした場合。
監査役は、必要に応じて意見を述べることになります。
「でも、先輩」
「何だ」
「監査役には、取締役会の議決権があるんですか?」
「ない」
「ですよね!」
ここです。
監査役は取締役会に出席します。
意見も述べます。
でも。
取締役として議決に参加するわけではありません。
監査する立場と、経営を決定する立場は違うからです。
「つまり、監査役は取締役会に出席しても、取締役のように一票を投じるわけじゃない」
「そういうことだ」
私は書きました。
――監査役は出席・意見陳述。取締役会の議決権はない。
「よし!」
ただし。
現代の会社法には、特別取締役による議決という制度に関する例外もあります。
一定の場合、監査役が二人以上いる会社では、監査役の互選によって、特別取締役による取締役会に出席する監査役を定めることができます。
「……特別取締役?」
私は頭を抱えました。
これは昭和六十三年の片桐事務所では、まだ登場しない現代の制度です。
今の先輩に話したら、また怒られるでしょう。
なので。
私は黙ってノートに赤線を引きました。
未来の法律知識は、未来のノートに。
……いつか本当に、そういうノートを作った方がいいかもしれません。
◇
「次は、株主総会です」
私は少し姿勢を正しました。
監査役の仕事は、取締役会への報告だけではありません。
株主総会に提出される議案や書類。
それらについても、調査が必要になります。
現代の会社法第三百八十四条。
監査役は、取締役が株主総会に提出しようとする議案や書類などを調査します。
そして、法令や定款に違反する事項、または著しく不当な事項があると認めるときは、その調査結果を株主総会に報告しなければなりません。
「先輩」
「何だ」
「取締役会への報告と、株主総会への報告って、似てますね」
「似てるな」
「でも、報告する場面が違います」
私はノートに書きました。
取締役の不正などを発見した場合。
取締役、または取締役会への報告。
株主総会に提出される議案や書類に問題がある場合。
株主総会への報告。
「つまり、監査役は株主にも重要な問題を知らせる役割があるんですね」
「そういうことだ」
私は大黒社長を思い出しました。
株式の五十五パーセントを持つ大株主。
しかも代表取締役。
でも。
だからといって、会社の手続きを無視してよいわけではありません。
株主総会は、会社の重要事項について決議する機関です。
監査役が不当な議案を発見した場合。
法律上の義務に従って、株主総会に報告することが必要になる。
「これも、社長の独走を防ぐ仕組みなんですね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「ああ」
監査役。
思った以上に、いろいろなところで会社を守っているのです。
◇
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「次が、村瀬の事件で一番危なかったところだな」
「差止請求ですね!」
「そうだ」
私はノートに大きく書きました。
――監査役による取締役の行為の差止め。
大黒社長。
さらに二千万円を大黒商事へ送ろうとしていました。
もし実体のない取引なら。
会社に多額の損害が生じる可能性があります。
「監査役が、社長にやめろと言えるんですよね」
「一定の要件を満たせばな」
相馬先輩が答えました。
現代の会社法第三百八十五条。
監査役は、取締役が会社の目的の範囲外の行為や、法令・定款に違反する行為をし、またはそのおそれがある場合で、その行為によって会社に著しい損害が生じるおそれがあるときには、差止請求をすることができます。
「ここで重要なのは、二つの条件です」
私は書きました。
一つ。
目的の範囲外の行為など、法令・定款違反に当たる行為、またはそのおそれ。
二つ。
会社に著しい損害が生じるおそれ。
「単に監査役が嫌いな取引だから、止められるわけじゃないんですね」
「当然だ」
「社長の経営判断が気に入らないだけでは足りない」
「そういうことだ」
そして。
ここには、もう一つ大切な注意点があります。
取締役の行為が違法で、会社に著しい損害が生じるおそれがある。
その場合、監査役は法律上の差止請求を行うことができます。
ただし。
監査役が口で、
――絶対に支払うな!
と言っただけで、銀行口座が自動的に凍結されるわけではありません。
必要に応じて、司法上の手続きが問題になります。
「所長が、弁護士への引継ぎを準備していたのも、そのためですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「私たち行政書士が、裁判所に行って差止めの代理をするわけじゃない」
「うん」
「事実関係と書類を整理し、必要な専門家につなぐ」
「そういうことだ」
私は頷きました。
そして、前回の事件を思い出します。
村瀬さんは、監査権限に基づいて調査を求めました。
取締役会にも問題を報告しました。
その結果。
会社は追加支払を止めた。
実際に裁判所で差止めを求める前に、社内の判断が変わったのです。
「だから、法律の権限があることを正しく伝えるのが重要だったんですね」
「ああ」
「裁判しなくても、相手が考えを改めることがある」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「ただし、相手が従うとは限らねえ。だから、書面を出して終わりと思うな」
「はい!」
よし。
監査役の差止請求。
これなら忘れません。
◇
「次は、選任です!」
私は新しいページを開きました。
――監査役の選任。
現代の会社法第三百二十九条。
監査役は、株主総会の決議によって選任されます。
「つまり、社長が一人で決めるわけじゃないんですよね」
「そうだ」
「取締役会が勝手に選任するわけでもない」
「ああ」
「株主総会ですね!」
私は丸をつけました。
原則として、監査役の選任は株主総会の普通決議によります。
ただし、役員の選任については、会社法第三百四十一条に特別な決議要件の規定があります。
「ここ、取締役の選任と似ていますね」
「そうだな」
私は続けました。
原則として、議決権の過半数を有する株主が出席し、出席株主の議決権の過半数で決議します。
ただし、定款で別の割合を定めることができる部分もあります。
ここで注意したいのは。
監査役の選任決議では、定足数を三分の一未満に引き下げることはできないということです。
取締役の選任と同様に、会社法第三百四十一条の最低限の定足数を守る必要があります。
「先輩」
「何だ」
「普通決議だから、何でも自由に定足数を下げていいわけじゃないんですね」
「そういうことだ」
そして。
もう一つ。
監査役の選任議案を株主総会へ提出するときには、原則として監査役の同意が必要になるという仕組みもあります。
現代の会社法第三百四十三条です。
監査役が二人以上いる場合には、その過半数の同意が必要になります。
「えっ」
私は手を止めました。
「監査役を選ぶ議案なのに、監査役の同意がいるんですか?」
……。
少し不思議です。
でも、考えてみれば当然かもしれません。
社長が自分に都合のいい人物ばかりを監査役に選ぼうとしたら。
監査役の独立性が失われてしまうおそれがあります。
だから、監査役の選任議案についても、一定の関与が認められている。
「なるほど……」
私は頷きました。
監査役を守る仕組み。
その一つなのです。
◇
「次は、解任!」
私は声を張りました。
相馬先輩が眉をひそめます。
「また声がでけえ」
「だって、大黒社長の事件の核心ですよ!」
「ああ、そうだな」
私は解任通知書を思い出しました。
――貴殿を本日付で監査役から解任する。
代表取締役。
大黒剛造。
会社の角印まで押された立派な紙。
しかし。
株主総会は開かれていませんでした。
「まず、監査役の解任には株主総会の決議が必要です」
「そうだ」
「社長が勝手に解任通知を出しても、それだけでは解任できません」
「ああ」
私は頷きました。
そして。
ここからが、取締役との大きな違いです。
現代の会社法では。
取締役の解任は、原則として株主総会の普通決議。
一方。
監査役の解任は、株主総会の特別決議が必要です。
「ここ!」
私は大きく丸をつけました。
――取締役の解任は原則普通決議。
――監査役の解任は特別決議。
「どうして監査役の方が厳しいんでしょう?」
私は考えました。
もし監査役も簡単に解任できたら。
社長の不正を発見する。
社長が怒る。
監査役を追い出す。
そんなことが起きやすくなります。
もちろん、株主総会の適法な決議があれば監査役を解任することはできます。
それでも、普通決議より厳しい特別決議を要求することで、監査役の地位を保護しているのです。
「つまり、監査役の独立性を守るためですね!」
私は頷きました。
ただし。
ここで時代錯誤に注意です。
「……先輩」
「何だ」
「今の解任の話、昭和六十三年とは制度が違うところがありますよね」
相馬先輩が顔をしかめました。
「また未来の法律と比べてるのか」
「はい……」
昭和六十三年の監査役については、旧商法の規定に従って選任・解任を判断します。
現代の会社法第三百九条第二項による監査役解任の特別決議という規定を、そのまま昭和六十三年に持ち込んではいけません。
当時の制度と現代の制度は、同じではないのです。
しかし。
前回の大黒社長の事件では、そこが決定的な問題ではありませんでした。
そもそも、株主総会決議が存在しなかったからです。
「大黒社長は、社長だから解任できると思い込んでいたんですね」
「ああ」
「でも、解任する権限を持つ機関の決議がなかった」
「そうだ」
私は頷きました。
普通決議なのか。
特別決議なのか。
そうした違いの前に。
そもそも、誰が決めるべきことなのか。
ここを間違えてはいけないのです。
◇
「さらに、解任された監査役には、損害賠償請求の問題もあります」
私は続けました。
現代の会社法第三百三十九条。
役員は、株主総会の決議によって解任することができます。
しかし。
正当な理由なく解任された場合には、解任によって生じた損害について、会社に賠償を請求できることがあります。
「つまり、株主総会で解任できたとしても、会社の賠償責任が問題になる場合があるんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
解任の効力。
損害賠償請求。
この二つは別の問題です。
「先輩、たとえば」
「何だ」
「監査役が社長の不正を調べたことだけを理由に、正当な理由もなく解任された場合は?」
「損害賠償の問題になる可能性があるな」
「ですよね!」
もちろん、実際の結論は具体的な事情によります。
監査役が重大な義務違反をした場合など、正当な解任理由があることも考えられます。
でも。
単に社長に嫌われた。
それだけで、当然に正当な理由があることにはなりません。
さらに、監査役には株主総会で自分の選任や解任、辞任について意見を述べる権利もあります。
現代の会社法第三百四十五条。
「つまり、社長が勝手に監査役を悪者にしても、監査役自身が株主に事情を説明する道があるんですね」
「そういうことだ」
私は、村瀬さんを思い出しました。
震える手で解任通知を差し出していた老人。
でも、最後には。
――私は会社に残ります。
そう言って、監査役としての仕事を続ける決意をした。
「法律が、監査役の地位を守っているんですね」
私は小さく呟きました。
そして。
監査役の解任には、株主総会決議による解任のほか、一定の要件のもとで裁判所に解任の訴えを提起する制度もあります。
監査役が不正行為をしたり、重大な法令・定款違反があったりした場合に、株主総会で解任が否決されても、法律上の要件を満たす株主が訴えを提起できる場合があるのです。
つまり。
監査役の地位は守られている。
でも、監査役自身が何をしても許されるわけではない。
ここも、重要なところです。
◇
「さて」
相馬先輩が椅子に座り直しました。
「次は人数だな」
「員数ですね!」
私は書きました。
――監査役の員数。
現代の会社法では、監査役会を設置していない会社なら、監査役は一人でも構いません。
「一人でいいんですね」
「ああ」
もちろん、会社の機関設計によって、そもそも監査役の設置が義務になるかどうかも変わります。
ただし。
監査役会設置会社となると、話は違います。
監査役会設置会社では、監査役が三人以上必要です。
そして。
その半数以上は、社外監査役でなければなりません。
「ここ、数字が重要です!」
私は書きました。
監査役会なし。
監査役一人でも可能。
監査役会あり。
三人以上。
半数以上は社外監査役。
「じゃあ、監査役が三人いたら?」
私は考えました。
三人の半数は一・五人。
人間を半分にするわけにはいきません。
だから。
社外監査役は少なくとも二人必要です。
「四人なら?」
相馬先輩が尋ねました。
「二人以上です!」
「五人なら?」
「三人以上です!」
「よし」
私は得意になりました。
でも、気になったことがありました。
「先輩、社外監査役って、ただ会社の外に住んでいる人じゃないですよね」
「当たり前だろ」
「社長の親戚というだけで、全部駄目になるわけでもないですよね」
「そうだな」
現代の会社法では、社外監査役には一定の資格要件があります。
会社や子会社での職歴。
親会社などとの関係。
近親者との関係。
そうした法律上の要件を確認する必要があります。
つまり。
社長の友人だから社外監査役。
会社の外に住んでいるから社外監査役。
そんな単純な話ではありません。
「なるほど……」
私は頷きました。
そして、電話相談で聞いた会社の話を思い出しました。
監査役が三人。
そのうち二人が社長の親戚。
でも。
親戚であるという一事だけで、社外監査役の資格がないと決めつけることはできません。
具体的な関係を調べる必要があります。
「所長が最初に、会社の規模や状況を確認しろと言った理由が分かります」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「肩書だけで判断するな」
「はい!」
昭和六十三年の監査制度でも、会社の規模に応じて必要な監査体制に違いがありました。
ただし。
現代の監査役会設置会社の要件を、そのまま昭和六十三年の会社に当てはめてはいけません。
当時の商法特例法による制度と、現代の会社法による制度を区別する。
これも、転生受験生にとって重要な注意点なのでした。
◇
「最後は、任期です!」
私はノートをめくりました。
――監査役の任期。
ここが、私にとって一番危ないところです。
なぜなら。
現代と昭和六十三年で、明確に違うからです。
「先輩」
「何だ」
「昭和六十三年の監査役の任期は?」
「原則二年だ」
「ですよね!」
昭和六十三年。
旧商法の監査役の任期は、原則として就任後二年以内の最終の決算期に関する定時株主総会の終結時まで。
一方。
現代の会社法では違います。
会社法第三百三十六条。
監査役の任期は、原則として選任後四年以内に終了する事業年度のうち、最終のものに関する定時株主総会の終結時まで。
「四年!」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
原則二年。
現代。
原則四年。
「……危ない!」
私は額を押さえました。
相馬先輩が呆れました。
「何がだ」
「未来の法律を昭和に持ち込んだら、任期を二年も間違えます!」
「だから未来の法律なんて知らねえって」
「はい……」
さらに。
現代の非公開会社では、定款によって監査役の任期を十年まで伸長することができます。
「十年!」
私は目を丸くしました。
かなり長いです。
でも。
監査役の独立性を考えると、簡単に任期を短くできないという点も重要です。
現代の会社法では、監査役の任期を定款や株主総会決議によって自由に短縮することはできません。
ここは取締役との大きな違いです。
「先輩」
「何だ」
「現代の取締役の任期は、原則二年です」
「……また始まったな」
「でも、監査役は原則四年!」
「へえ」
「取締役より二年長いんです!」
私は勢いよく書きました。
現代。
取締役。
原則二年。
監査役。
原則四年。
しかも。
取締役の任期は、定款や株主総会決議によって短縮できる場合があります。
でも監査役の任期は、自由に短縮できません。
「なぜだと思います?」
私は自分で問いかけました。
もし社長が、
――お前は俺に逆らったから、任期を今日までにする!
と勝手に決められたら。
監査役は安心して仕事ができません。
監査役の任期を簡単に短縮できない仕組みは、その独立性を守ることにもつながっています。
「なるほど……」
私は頷きました。
監査役の選任。
解任。
任期。
それぞれ別の論点に見えます。
でも。
全部、監査役の独立性という考え方につながっているのです。
◇
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「ここまでで、何か気づいたか」
私は少し考えました。
「監査役って、社長から独立して職務を果たすための仕組みが、いろいろ用意されているんですね」
「そうだ」
「選任は株主総会」
「うん」
「解任にも適法な決議が必要」
「そうだ」
「一定の場合には、会社に対して損害賠償を求めることもできる」
「うん」
「任期にも保護の仕組みがある」
所長が頷きました。
「それで?」
私は少し考えました。
「監査役が社長の顔色ばかりうかがっていたら、監査ができないからです」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「会社を監視する者が、監視される者に自由に操られては困る」
私は頷きました。
確かに。
大黒社長は、村瀬さんをただの名前貸しだと思っていました。
だから。
帳簿を調べようとしただけで怒鳴った。
解任通知も出した。
でも。
監査役には、法律上の権限がありました。
そして、その地位を守るための手続きもあった。
それを、所長と相馬先輩が書面で整理した。
その結果。
社長は、自分の思いどおりにはならないと気づいたのです。
「法律って、すごいですね」
私は呟きました。
所長が頷きます。
「法律がすごいんじゃない」
「え?」
「法律を使う人間が、役割を果たしたんだ」
私は、はっとしました。
村瀬さん。
最初は、震えていました。
監査役なんて、名前だけだと思っていた。
社長には逆らえないと思っていた。
でも。
法律を知り、自分の権限を理解した。
そして。
会社を守るために行動した。
「……そうですね」
私は頷きました。
法律は、そこにあるだけでは誰も守れません。
使う人がいて、初めて力になる。
それが、今回の事件で一番大きな教訓だったのです。
◇
「ところで」
私はノートを閉じかけて、手を止めました。
「先輩」
「何だ」
「どうして現代では、会社法が独立したんでしょう?」
相馬先輩が首をかしげました。
「またその会社法か」
「あっ」
しまった。
未来の話です。
でも。
私は考えずにはいられませんでした。
昭和六十三年。
会社のルールは、商法第二編。
有限会社法。
商法特例法。
そうした複数の法律に分かれていました。
株式会社を設立するには、発起人が七人以上必要。
取締役も三人以上。
監査役も必要。
だから、名前だけの役員を集めることがあった。
村瀬さんのように。
ところが。
現代では、株式会社の設立はずっと簡単になっています。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円。
一定の条件を満たす会社なら、監査役を置かない機関設計も選べます。
しかも。
会社の規模や株式の譲渡制限の有無などに応じて、機関設計に選択肢があります。
「……なるほど」
私は呟きました。
昔は、株式会社を作るための形式的な人数要件が厳しかった。
でも。
形式だけ役員を揃えても、その人たちが本当に役割を果たすとは限らない。
だから。
現代では、必要な機関を会社の実態に応じて選べるような方向で、制度が整理されてきたのです。
平成十七年。
会社法が成立。
平成十八年。
施行。
従来の商法の会社編や有限会社法、商法特例法などに分かれていた会社制度が、会社法へと再編されました。
有限会社制度は、新規設立できない形になり、合同会社という新たな会社形態も設けられました。
ただし。
会社を作りやすくなったからといって、経営者の責任が軽くなったわけではありません。
株式会社には、株主や債権者など、会社に関わる人を守るためのルールが必要です。
取締役の義務。
株主総会の決議。
監査役の監査。
これらが重要であることは、変わりません。
「所長」
「何だ」
「昔の制度と今の制度って、形は変わっても、守ろうとしているものは似ているんですね」
「どういうことだ」
「会社を動かす人に、勝手なことをさせないための仕組みです」
所長は静かに頷きました。
「それでいい」
私は少し嬉しくなりました。
監査役。
ただの試験知識ではありません。
会社の経営と財産を守るための仕組み。
その意味が、ようやく見えてきたのです。
◇
「よし!」
私は鉛筆を握り直しました。
「最後に確認問題をお願いします!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「またか」
「お願いします!」
「しょうがねえな」
先輩は六法を閉じました。
「じゃあ、一問目」
「はい!」
「監査役は、何を監査する?」
「取締役の職務執行です!」
「会計参与がいる場合、現代の制度では?」
「会計参与の職務執行も監査対象になります!」
「よし」
私は拳を握りました。
「二問目。監査の種類は?」
「会計監査と業務監査です!」
「全部の監査役が、必ず業務監査までできるか?」
「いいえ! 制度によって会計監査に限定される場合があります!」
「よし」
「三問目。監査役は、いつでも取締役に報告を求められるか?」
「現代の通常の監査役には、法律上の報告請求権があります!」
「子会社は?」
「職務上必要な場合には調査できます。ただし、正当な理由があれば子会社は拒否できます!」
「よし」
先輩が続けます。
「取締役の不正を発見したら?」
「遅滞なく、取締役または取締役会に報告します!」
「取締役会では?」
「出席義務があり、必要な場合には意見を述べます!」
「議決権は?」
「ありません!」
「株主総会に提出される議案に違法な事項があったら?」
「監査役は調査し、必要な場合には株主総会に報告します!」
「よし」
私はますます調子に乗りました。
「次、お願いします!」
「取締役が違法な行為をしようとしていて、会社に著しい損害が生じるおそれがある場合は?」
「監査役による差止請求が問題になります!」
「よし」
「監査役の選任は?」
「株主総会決議です!」
「現代の選任決議は?」
「原則として普通決議です。ただし、会社法第三百四十一条の要件に注意します!」
「よし」
「現代の監査役の解任は?」
「株主総会の特別決議です!」
「正当な理由なく解任されたら?」
「会社に対する損害賠償請求が問題になります!」
「よし」
私は満面の笑みになりました。
「じゃあ、任期だ」
「はい!」
「昭和六十三年は?」
「原則二年です!」
「現代は?」
「原則四年です!」
「非公開会社では?」
「定款で十年まで伸長できます!」
「任期を自由に短縮できるか?」
「できません!」
「監査役会設置会社の監査役は何人以上?」
「三人以上です!」
「そのうち社外監査役は?」
「半数以上です!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は思わず立ち上がりました。
「全部答えられました!」
「まあな」
「これで監査役、攻略ですね!」
「甘い」
「えっ」
先輩がにやりとしました。
「じゃあ最後の問題だ」
「はい!」
「村瀬の事件で、大黒社長が解任通知を出した。それだけで監査役を解任できるか?」
「できません!」
「どうしてだ?」
「適法な株主総会決議がないからです!」
「正解」
私は拳を握りました。
やった。
今度こそ完璧です。
でも。
相馬先輩が、最後にもう一つ尋ねました。
「じゃあ、村瀬が監査役として何もしなかったら、どうなる?」
私は止まりました。
何もしなかったら。
監査役。
権限がある。
でも、使わない。
帳簿を見ない。
不正を見つけても報告しない。
会社に損害が生じる。
……。
「監査役自身の責任が問題になる可能性があります」
私が答えると、先輩が頷きました。
「そうだ」
監査役には、権限があります。
でも。
権限があるということは、必要な場面で職務を果たす責任もあるということです。
監査役という肩書を持ちながら、何もしなくてよいわけではありません。
私は、村瀬さんの顔を思い出しました。
あの老人は、最初から立派な監査役だったわけではありません。
むしろ、長い間、名前だけの役職だと思っていました。
でも。
不審な取引に気づいた。
帳簿を調べようとした。
社長に怒鳴られた。
それでも。
最後には、監査役としての職務を果たそうとした。
「……先輩」
「何だ」
「監査役って、会社の良心みたいですね」
相馬先輩が少し笑いました。
「良心だけじゃ足りねえけどな」
「え?」
「法律も知らなきゃ、証拠も集められねえ。勇気だけで社長に突っかかっても、会社は守れねえよ」
私は頷きました。
確かに。
良心。
法律知識。
事実を調べる力。
そして、適切な手続き。
それらが揃って、初めて監査役は役割を果たせるのです。
◇
窓の外は、もう暗くなっていました。
商店街の明かりが、一つずつ灯っていきます。
私はノートを見直しました。
監査役の権限。
選任。
解任。
員数。
任期。
最初は、ばらばらの知識でした。
でも。
村瀬さんの事件を思い出すと、すべてがつながります。
会社の不正を調べられるのは、監査役に監査権限があるから。
社長が一人で解任できなかったのは、解任に正式な手続きが必要だから。
監査役の任期や解任について保護があるのは、独立性を守るため。
そして。
監査役が調査し、報告し、必要に応じて差止請求をするのは、会社の財産を守るため。
「……分かりました」
私は小さく呟きました。
片桐所長が顔を上げます。
「何がだ」
「監査役の制度って、全部つながっているんですね」
「そうだ」
「監査する権限だけあっても、簡単に解任されたら意味がない」
「うん」
「解任されにくくても、調査できなければ意味がない」
「そうだ」
「調査できても、問題を発見したときに報告できなければ意味がない」
所長が頷きました。
「そのとおりだ」
私は、最後のページを開きました。
そして。
今日の一行を書きました。
――監査役は「調べる・報告する・止める」。社長から独立して会社を守り、選任・解任・任期のルールがその立場を支える。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「少し長いな」
「ええっ!」
「一行に詰め込みすぎだ」
「でも全部重要なんです!」
「欲張りだな」
「試験に出ますから!」
相馬先輩は笑いました。
「まあ、覚えられるならいいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
またですか。
私は苦笑しました。
でも。
この一行。
たぶん、忘れません。
だって。
村瀬さんのことを思い出せばいい。
社長に怒鳴られながらも、帳簿を調べようとした監査役。
解任通知を受け取っても、法律上の地位を確認し、職務を続けた監査役。
そして。
八十人の従業員を守るために、会社の不正と向き合った監査役。
その姿を思い出せば。
監査役という制度の意味が、自然と頭に浮かんでくるのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、帳簿を棚に戻せ」
「はい」
「六法も片付けろ」
「はい」
「床も掃いとけ」
「……また掃除ですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私には、先輩の業務を監査する権限が必要だと思います」
「は?」
「毎回、私に掃除を押しつけていますよね」
「おい」
「これは、先輩の職務執行に問題があるのではないでしょうか!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前、監査役になったつもりか?」
「はい!」
「誰が選任したんだよ」
「……え?」
「株主総会か?」
「いや、事務所なので株主総会は……」
「そもそも、ここは株式会社じゃねえだろ」
「……!」
しまった。
片桐行政書士事務所。
株式会社ではありません。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい!」
「監査役の権限は、勝手に名乗れば生まれるものではない」
「はい……」
「法律上の地位が必要だ」
「……はい」
相馬先輩が笑いました。
「ほらな」
私は頬を膨らませました。
「でも所長!」
「何だ」
「相馬先輩が掃除をしないことは、事務所にとって著しく不当な事実だと思います!」
所長は少し考えました。
そして。
「相馬」
「はい」
「今日はお前も掃除しろ」
「……えっ」
相馬先輩が固まりました。
私は目を輝かせました。
「所長!」
「何だ」
「私の意見が採用されました!」
「監査役だからじゃない」
「はい!」
「事務所の業務分担として、そう決めた」
「分かりました!」
相馬先輩がため息をつきました。
「……余計なこと言いやがって」
私は、にっこり笑いました。
「先輩」
「何だよ」
「会社の経営者だって、監査役の意見を聞くことがあるんですよ」
「ここは会社じゃねえ!」
「でも、意見を聞くって大事ですね!」
「調子に乗るな!」
私は笑いながら箒を手に取りました。
相馬先輩も、渋々もう一本の箒を取り出します。
そして、所長は帳簿を閉じました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夜の明かりが広がっていきます。
あのどこかで。
村瀬さんは、今日も会社の帳簿を調べているのでしょう。
もう、名前だけの監査役ではありません。
自分に何ができるのか。
何をしなければならないのか。
法律上の権限と責任を理解した監査役です。
そして。
その仕事によって守られているものがあります。
八十人の従業員。
取引先の町工場。
会社に出資した株主。
会社にお金を貸した債権者。
そうした人々の生活が、会社の経営につながっているのです。
私は箒を動かしながら、ノートの最後の一行を思い出しました。
――監査役は「調べる・報告する・止める」。社長から独立して会社を守り、選任・解任・任期のルールがその立場を支える。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「そこ、まだ掃いてねえぞ!」
「今、監査役の制度を復習していたんです!」
「掃除しながらか!」
「はい!」
「じゃあ手も動かせ!」
私は笑いました。
でも。
今日の勉強で、一つだけ確信したことがあります。
どれほど偉い社長でも。
どれほど大きな会社でも。
経営者が、自分の好き勝手に会社を動かしてよいわけではない。
そして。
法律は、そうした経営者の行動を監視するために、監査役という仕組みを用意している。
ただし。
監査役は、魔法使いではありません。
社長に命令すれば、何でも止められるわけでもない。
法律に従って調査し、事実を確認し、適切な機関へ報告する。
必要な場合には、法律上の差止請求を行う。
その積み重ねが、会社を守る力になるのです。
だからこそ。
監査役は、ただのハンコ係ではない。
社長の顔色をうかがうための役職でもない。
会社という法人が、誰か一人の欲望によって壊されないようにするための、大切な存在なのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、そこのゴミを取れ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も、六法と箒を持った私の勉強は続いていきます。
ただし。
次に誰かから、
――監査役なんて、名前だけ貸していればいいんだ。
と言われたら。
私は迷わず、こう答えるでしょう。
――その名前には、会社を守るための権限と責任があるんですよ。
だって。
社長のハンコ一つで、監査役の権限まで消せるほど。
商法も会社法も、甘い法律ではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




